仄暗い通路に響く足音にイースは重い瞼を持ち上げた。
防壁は退屈な場所だ。町を囲む石レンガの壁には無機質な街灯の光以外になにも無く、絵に描いたような殺風景なのは周知の事実。好んで訪れる物好きなどそうそういない。ましてや足音は散策をしているようではなく、一直線にこちらへ向かってきている。
絞れる相手は一人だけだ。
「暇人かよあいつ」
向かっている人物に当たりを付けたところで、イースは胸壁に乗せていた肘を離して直立姿勢に。
今年で十四になった細身の少年はその身体を紺を基調とした警備隊の制服に包み、背に諸刃の長剣を背負っていた。やや癖毛な濡れ羽色の髪はせめてもの抵抗にと短く切られ、その下では浅葱色の瞳が手当たり次第に周囲を威嚇している。背丈こそ特別大きなわけではないが、その佇まいは逞しい。
あいつはサボりを咎めるようなタイプじゃないが、怠けているところを見られたらなんて言われるか分からない。
半分眠っていた思考を叩き起こし、表情も眠気を取り払って多少は真剣みを出してみる。だらけた口元を強引に拭ってしまえば真面目に勤務する一般隊員の完成だ。
完璧な偽装に口元を綻ばせていると、薄闇の中から足音の主———予想通りの偉丈夫が姿を現した。
「警備は順調か?」
「見りゃ分かんだろ、オニール教官。いつも通り退屈だよ」
「そりゃよかった。たっぷり眠れたみたいだしな」
「ちゃんと見張りはしてるっての」
「誤魔化せてないぞ。寝ぐせが立ってる」
「うっそ⁉」
慌てて頭を押さえるも、寝ぐせ特有のトゲトゲした感触は返ってこない。
綺麗に手のひらの上で転がされた……。キッと意地の悪い男を睨みつけるも本人はどこ吹く風。ケラケラと笑いながら隣の胸壁に腰を下ろした。
「お前は揶揄い甲斐があるな。な~んでこんなに面白いんだ?」
「うっせぇ! お前ぇこそこんなとこで油売ってて良いのかよ。教官だろ」
「今日の仕事は終わってんだよ。今の俺は教官じゃねぇ、お前がだ~い好きな父ちゃんだぞぉ~!」
「うっせぇ!」
わしゃわしゃ髪を撫でて来た巨体を思いっきり押し返してイースは叫ぶ。これでも教官の中でも高い実力を持ち、人望も厚く頼られることが多く、訓練生からの評判も高い。現在進行形でうざったい父親ムーブをかましているオニールだが、さすがに人前ではきちんとした態度で接している。
……はずもなく、人前だろうとお構いなしに弄ってくる。
「終わってんなら真っ直ぐ帰れよ」
「いやぁ~俺も帰ろうかと思ったんだけどな。お前ももうすぐ交代の時間だろ? だからたまには親子水入らずで帰ろうじゃねぇか、な?」
「ヤダ。誰がお前ぇと帰るかよ。」
イースはプイッとそっぽを向いた。
「てか交代の奴が来るときはどっか行けよ。邪魔なんだから」
「おいおい邪魔
「誰も聞かねぇよ。周りを見てみろ、誰かいるか?」
時刻は終業間際、通路上はもちろん、防壁の下にだって人っ子一人いない。近くの工場はほとんど消灯していて、明りは街灯の白色灯のみ。
「ただでさえ防壁の警備は人員が削られてんだ、聞く奴はいねぇよ。ったく、俺だって町ん中に配属されてぇってのに」
「しょーがねぇだろ。物資は限られてるんだ。必要最低限の人員でやりくりしてかなきゃならん」
「だったら猶更必要かっての。『障壁』がありゃ十分だろ」
イースは防壁の更に外側へと手を伸ばす。湿っぽい空気が手を覆った次の瞬間、黒い霧によってすっぽりと隠れてしまった。
『障壁』。防壁の更に外側からドーム状に町を覆う黒い霧はそう呼ばれており、魔物の侵入を阻む役割を担っている。同時に、目隠しとしての機能ゆえか外の景色を見ることは出来ず、街灯が無ければドームの内側は万年真っ暗だ。
町は障壁のお陰で平和を保てているが、裏を返せば実体のない黒霧に全てを依存しているということ。だからこそイース達警備隊が防壁の上で警備を続ける必要があるのは理解できる。
理解できたところで、退屈なことには変わりないが。
「せめて外が見えりゃ良かったんだがなぁ。それか魔物が何匹か入ってくりゃぁな」
「そう言うな。本当に入ってきたら大変だろ」
「……まあそうだけど」
魔物の姿を見た者はこの町にいない。最後に奴らが襲ってきたのは百年近く前なのだから。
ただその情報は記録されており、イースも教本で奴らのことを学んだ。
曰く……人智を超えた異形である。
曰く……瘴気から際限なく生まれる災厄である。
曰く……人類が対抗しうる存在ではない。
どこまでが本当かは定かではないが、事実として人類は魔物との生存競争に敗れ、各地に居住地を建てて隠れ住む羽目になっている。イースが暮らすこの町もその一つだ。障壁のお陰で実感は無いが、一歩外を出れば人の住めない不毛の大地が広がっているという。
外の世界を見たことのある者はいない。当然だ。命の危険がある未知の世界を歩き回る物好きなどいないのだから。
しかし———否、だからこそと言うべきか、イースの胸には熱い感情が燃え滾っていた。
(外ってどうなってんだろうな……)
日に日に増していく一つの願望。外を見たいと言う、飢えや渇きに似た強烈な欲求を胸にイースは障壁を見つめる。
ゴーン……ゴーン……
「ん、終わったな」
スピーカーから流れた鐘の音にオニールはイースの方へ顔を向けた。
「今日もお疲れさん」
「そっちもな」
イースも心なしか軽やかな足取りで防壁を下り、交代に来た隊員に引継ぐ。とはいっても異常なんて一切起こらず、報告書にもデカデカと「異常なし」と書くだけ。紙切れ一枚のために何時間も退屈な時間を過ごしたせいか、体を動かすたびに関節がポキポキ音を立てる。
軽くストレッチをしていると、本部へ続く道から誰かが必死の形相で走ってきた。独特の意匠が施された緑の制服に赤の襷、警備隊の連絡係だ。
「オニール教官!」
「む? どうした?」
今まさにイースの体を持ち上げようと準備運動をしていたオニールに駆け寄ると、連絡係は耳元で二・三言囁いた。
なんと言ったのかは不明だが、見る見るうちにオニールの表情が険しくなっていった。
「……すまんイース。先に帰っててくれ」
「分かった」
ただ事ではない。しかしオニールに直接訪ねるのも憚られ、イースは胸にしこりを抱えたまま帰路に就いた。