真ん丸な、まるで満月のように爛々と輝く二つの眼。楕円形の頭部にはそれ以外の部位が存在せず、絵具で塗りたくったかのような漆黒の表皮で覆われている。その黒い皮膚は頭部のみならず全身を覆い尽くし、さながら人影を実体化させたかのよう。
見上げるほどの巨体に猿を思わせる前傾姿勢の二足歩行。太い拳から繰り出されるその威力は、地面に大穴を生み出した初撃から容易く想像できた。
イースが立ち上がったのと同時に魔物が動く。地面を擦るように拳を振りぬき、驚きに身を固める標的へ一撃を加えようと迫る。
その一撃はかばうように前へ出たユエルの剣が受け止めた。しかし衝撃を殺すまでには至らず、背後に立っていたイース諸共吹き飛ばされる。
「ぐっ……ユエルっ!」
イースが地面を二転三転している間にユエルは体勢を立て直しており、漆黒の巨体に剣を向けながら告げる。
「私は大丈夫です。イースさんは早く皆さんを」
「わ、分かった」
睨み合いを続けるユエルに背を向けて、イースはモルソア達が眠る荷車へと駆け込む。
初手の一撃、更に自分たちを吹き飛ばした攻撃と、外では戦闘音がけたたましくなっている。
にも関わらず、荷車の中ではメンバー全員が眠りこけていた。誰一人として身を捩るようなこともなく、その寝顔は不気味なほどに安らかだ。
「おい! お前ぇら起きろ! 魔物が来てんぞ!」
大声で呼びかけるも反応はなし。
どう考えてもおかしい。外では今まさに戦いが繰り広げられ、その衝撃は荷車の中にいたって明確に伝わってくるほどなのに。
焦ったイースはモルソアの下へ駆け寄ると、その頬を何度も叩いた。
「起きろっつってんだよ! 死ぬぞ!」
「……」
「夢を追いかけて行商人になったんじゃねぇのかよ! さっさと起きて逃げる準備しろよ!」
再三の呼びかけ。すでに叩きまくったことで頬は赤く腫れたころ。
「……うっ……うぅぅんっ」
かすかな呻き声をあげて、モルソアは目を開いた。
未だ寝ぼけ眼なそれにイースは怒鳴る。
「早く逃げるぞ! 魔物が襲ってきた」
「ま、魔物が? なんで……」
魔物除けの香は焚いてあるし、シートで目隠しもしてある。魔物に見つかることはまずなかったはずだ。
しかし寝起きで靄が掛かったような意識の中、モルソアは確かに魔物の鳴き声を聞いた。
すぐに表情を正し、胸ポケットからホイッスルを出して吹く。
ピーーーーッ
甲高い呼び笛に、周囲で寝ていた者たちが一人また一人と起き上がる。先のモルソア同様に混乱する者ばかりだったが、次第に大きくなっていく轟音が意識を正していく。
「ありがとなイース。助かった」
「感謝は後にしろ。今はユエルが相手してっけど……」
フラグマーなんか目じゃない存在感と、不意打ちを許してしまうほどの神出鬼没さ。
恐らく相手は上位種、メストルホールと同じレベルの化け物だ。
(いくらユエルが強いからって、このままじゃ死んじまう)
本音を言えば今すぐにでも加勢に行きたい。だがイース一人が加わったところで焼石に水。
キャラバンの避難を優先し、時機を見てユエルの逃走を助ける。それが今出来る最善の選択だ。
メンバーたちもまたこの状況に慣れているようで、テキパキと逃走準備を進めた。ブルーマの手綱を取り、荷車を移動用に整え、リーダーの号令でいつでも出発できそうなぐらいに。
イースは荷車の外へ出てユエルの方を見た。
ゆらゆら揺れる質量を持った影は、見た目に違わず攻撃方法も多彩だ。黒い鉤爪を錐のように伸ばして刺突、分厚い剣状にして横薙ぎ、かと思えば大きな鈍器に形を変えて上から叩きつける。
一方でユエルの動きは単調だ。守りに徹してばかりで攻めに転じる様子はない。
「ユエルっ! 今行く!」
すでにモルソア達は大丈夫。そう結論付けて助太刀しようとした、その体は、背後から太い腕により引き留められた。
「止せ! お前じゃ無理だ!」
腹に腕を回して引き留めたモルソアがユエルへ叫ぶ。
「車の後についてこい! 夜明けまで待機してる!」
「了解しました」
冷淡な声音を崩さずユエルは返事。
モルソアは納得するように頷いて、イースを引っ張って荷車の中へ。
「ふざけんな、離せよ! ユエルを置いていけるか!」
「お前も落ち着け。あの人なら大丈夫だ。きっと戻ってくる」
「でも———」
「よしっ、出せ。全速力で行くぞ」
窓越しに御者台のメンバーへ命じるモルソア。呼応するように手綱のしなる音がして、荷車はゆっくりと動き出す。
徐々に遠ざかっていくユエルの姿。イースはただ、夜闇に溶け行く彼女に叫ぶしかなかった。
「ユエル! ユエルッ!」
その声が聞こえたのか、はたまた偶然か。
群青色の透き通るような瞳と交わった時、口元がかすかに動いた。
———大丈夫———
ほのかな笑みと共に告げられた言葉が伝わるより早く。
ユエルの姿は暗闇に溶けて消えてしまった。