荷車が止まったのは、東の空に太陽が昇ってきた頃だった。
長時間の全力疾走にブルーマ含めたメンバーは疲労困憊、しかし野営するわけにも行かず、道端に止まって小休止と相成った。
「お前のお陰で助かった」
荷台に座るイースへ、点呼や点検を終えたモルソアが湯気の立つカップを両手にやってきた。その表情から目立った損害は出ていないようだ。
片方を受け取って口を付けると、深みのある香りとまろやかな甘みが口の中に広がった。
「砂糖はたっぷりにしてやった。気分が良くなるだろ?」
「ああ」
甘みと温もり、欠けていたパズルのピースがはめ込まれたような安心感が喉から全身へと広がり、イースはふぅと一息つく。
ただ、単純に気分が晴れただけではない。むしろ幾分か脳が冴えたせいで、嫌でも先ほどのことを考えてしまう。
「気に病むな。あれは間違いなく上位種だ。俺たちが手向かえる相手じゃない」
「でもユエルは残っただろ」
「あの人は別さ。ああいう修羅場は何度も経験してるはず」
そう語るモルソアの口調に疑念はない。むしろごく自然な事実として、彼女の生存を確信している口振りだ。
だがイースは違う。憔悴した自分を慮る不安げな顔、言いつけを破ったことを叱る険しい瞳、対等な人間として接してきた身では、超常的な怪物と渡り合う姿が想像できない。
彼女の強さを知っていようとも。
「なんで残ったりしたんだよ。バカ野郎」
「くははっ、心配しなくとも、すぐに戻って来るさ」
その後、モルソアはメンバーに呼ばれて離れていった。
一人取り残されたイースは荷台に腰かけながら、荷車間を行ったり来たりするメンバーたちを眺めた。誰一人イースへ声を掛けるほどの余裕はなく、かといって手伝いにも勝手が違い過ぎて足を引っ張りそうだ。
……結局ここでも足手纏い。無力な現実がしみじみと感じられ、目を逸らす。
思えばここ数日、一人になることは無かった。必ず隣にはユエルがいて、声を出せば必ず返事が来た。どんなに下らないことでも反応があって、どんなに短くても会話があって。
———独りになることは無かった。
「……」
周りにはたくさんの人がいる。きっと話しかければ何か答えてくれるだろうし、ユエルみたいに冷淡な反応をするわけでもないだろう。
なのに……イースは言いようもなく恋しかった。あの冷ややかさが、不器用な距離感が。
(寂しい……)
今すぐ会いたい。話をしたい。話す余裕が無いなら、せめて隣にいて欲しい。
自分でも気付かないうちに、心の中で彼女の存在が大きくなっていた。もはや一人の時間など考えられないくらいに。
(あいつも、こんな風に思ったのかな)
何も告げず人助けに奔った時、ユエルも寂しかったのだろうか。こんな辛い気持ちを抱いてしまったのだろうか。
「……ごめん」
無意識にイースは呟いていた。
幼子のように膝を抱え、目元を赤く腫らしながら。
「ちゃんと大人しくしてるから。戻ってきてよ」
届くはずのないその言葉が、どんな道程を辿ったかは定かではない。
だがしかし、その望みは普段と変わらぬ足音を立てて叶えられた。
「———お待たせして申し訳ありません」
聞き馴染んだ静かな声音。感情の読めない冷淡な声色。
ダークブロンドの髪を靡かせながら現れたのは、待ちに待った女性だった。息切れどころか傷一つなく、夜闇の中で見た時と同じ装いだ。
「……ユエル!」
すぐさま駆け寄ろうと両足に力を込めるも立ち上がれない。何度か挑戦するうちに、安堵で腰が抜けたことに気付いた。
「お疲れさん。大丈夫だったか?」
代わりに声をかけたのはモルソアだった。
顎を撫でながらしたり顔で。
「あんたのことだからやってくれると思ってた。ちょっとばかし心配したけどな」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。さすがに上位種が相手では容易にはいかなかったもので」
「やっぱり上位種だったか。このところよく見かけるな」
嘆くように空を仰ぐモルソア。たった一体で居住地を崩壊させられる化け物に目を付けられたのだ、絶望するなというのも無理な話だ。
「他のキャラバンにもこのことを伝えよう。しばらく経路を考える必要がありそうだ」
苦々しげに呟くも、ふっと相好を崩して。
「まさか二回も助けられるとはな。しばらく不運な日が続きそうだ」
「必要なことをしたまでです」
「くくっ、そのおかげで助かったんだから、礼をしないわけにもいかないだろ。なにか手伝えることはあるか?」
「ふむ……」
思案顔になったユエルは、ちらりとイースを一瞥した。予想だにしなかった視線に肩が跳ねるも、群青の瞳はすぐに正面へと戻った。
「もしサヴァルの方角へ行くのであれば、途中まで同行させていただきたいのですが」
「サヴァル? あそこは十数年ぐらい前から廃墟だぞ。なにか用事でもあるのか?」
「はい。可能であれば近くまで行きたいのですが」
「まあちょうど予定では真ん前を通るから構わないが……」
「感謝します」
ユエルは軽く頭を下げた。その姿に何か言いたげなモルソアだったが、口の中で言葉を転がせるだけで表に出すことはなかった。
代わりにユエルの肩をポンと叩いて立ち去った。他のメンバーの手伝いに行ったのだろうが、去り際にチラリとイースを見ていた。
「良かったな」と言っているみたいで、僅かに顔が熱くなる。
「イースさん……」
名を呼ばれ、イースは視線を上げた。
「ユエル……」
「……」
傍に来ていたユエルはこちらをじっと見降ろしたまま何も言わない。ただ口元の震えが、言い淀んでいることを示している。
やがて震える手をそっと頬に宛がわれて。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。大丈夫ですか?」
ただ一言、囁くような言葉が紡がれた。
……答えなんて決まってる。
イースは周りの目も憚らず、ユエルに抱き着いた。
「イ、イースさん⁉」
頭上から上擦った声が聞こえる。
けれどイースはひっしとしがみついて離れない。
彼女の体は温かかった。死の冷たさも血のぬめりも感じない。生命の鼓動を感じる確かな温もり。
「良かった……」
怖かった。失うんじゃないかと思った。周りがいくら平気だと言おうが、一度生まれた不安は膨れ上がるばかりだった。
「生きててよかった……」
「イースさん……」
しばらく抱き着いていたイースは、未だ止まらぬ嗚咽を堪えるようにすすり上げながらユエルを見上げた。
「ごめん。あの時勝手に飛び出して。急にいなくなるのが、こんなに怖いとは思ってなかった」
ユエルの実力を間近で見たイースでさえ胸の濃霧は晴れなかったのだ。何も告げずに離れたあの時、廃墟から出た彼女が抱いた不安は計り知れない。
ようやくイースは理解した。他人を見捨てでも生き残るべきという彼女の教訓が。
「お前が残った時、嫌だった。お前が死ぬぐらいなら他の奴なんかどうだっていいって本気で思った。だから———」
イースの口がふさがれた。それが、体をぎゅっと寄せたユエルによるものだと気付いたのは、慈母のように優しい手が髪を撫でてからだった。
「私もようやく分かった気がします。あなたが自らの危険を顧みずに駆け出した理由が」
「……」
「悩む時間なんかありませんでした。目の前に脅威が現れたから迎え撃つ。頭の中はそればかりで、他の事なんか考えられなかった」
「それは……お前が強いからだろ」
イースは悩んだ。ユエルを置いていくことを、僅かな逡巡とはいえ。
そう口にすると、ユエルは笑みを深くした。
「では、あなたの方が大人ですね。残された者のことを考えられたのですから」
初めて見た、ユエルの心の底からの笑み。
胸を雁字搦めにしていた氷の鎖を優しく溶かすような慈愛の表情に、イースは満面の笑顔で返した。
「おかえり、ユエル」
「ただいま戻りました」
互いにそう告げて、二人はより強く抱きしめ合った。