部屋の扉を体当たりで開け、抱えたユエルをベッドへと寝かせる。屋敷へ戻る道中で、彼女の体はほとんどが黒く膿んでしまい、今や息を吸う素振りさえ見せない。
ヒーレアラートが赤を示した時点で帰るべきだった。今更無駄だと分かっていても、身を焼くような後悔が内から溢れてくる。
(大丈夫、落ち着け。絶対生きてる。諦めんな!)
自らをそう鼓舞しても、焦りが手元を狂わせる。呼吸を刻むごとに彼女の死が迫っていると思うと頭は混乱するばかりで、冷静に努めようとする数秒さえ惜しく、それでも彼女の荷物から薬箱を取り出す。
中の注射器は五本。
「うっ……」
「よしっ、まだ息はある。これで……」
一縷の望みをかけてプランジャを押す。
だが、中の液体を全て注入しても変化はない。続けて二本目、三本目と刺しても結果は同じだ。
「くそっ、足りねぇのかよ」
毒づく間にも四本目を打つも結果は同じ。
焦るあまり注射器を投げ捨てたイースだったが、残りの一本へ伸ばした手を引き留められた。
他ならぬユエルによって。
「———なにすんだよ」
呆気に取られて見つめる先で。
虚ろな眼差しが、懇願するかのように。
「もう、良いのです」
「何言ってんだよ。つかお前ぇが諦めてんじゃねぇっての———」
「無駄なのです」
突然の告白に、イースは持っていた注射器を落としてしまう。今すぐにでも刺さなきゃいけないのに、けれど空白が生じた思考では指先を動かすことさえままならない。
ユエルは、そんなイースを悲しげに見つめる。
「この腐蝕は、生まれつきです。今度ばかりは、逃げられそうにありませんね」
「……そんなことが起こり得るってのか?」
腐蝕は瘴気を溜め込むことで発症するはず。
しかしユエルは力なく微笑んだ。痛々しい姿を見ていられず、イースは歯を食いしばる。
「初めて、でしょうね。そんな症例は。だから、生まれて間もなく死ぬはずだった。でも母は、そんな私のために、長い時間を研究に費やしてくれた。おかげで今日まで生き延びることができた……」
「まさか……お前が探してた『依頼品』って……」
ユエルは小さく頷いた。
「私の腐蝕を一時的に止める、特効薬です」
「なんでそれを……教えてくれなかったんだよ」
「……あなたは、いずれ私が腐り果てると知っても、一緒にいてくれましたか?」
彼女は分かっている。自分が口にしたことが単なる恐怖であり、実際にイースが見捨てることなんかないことは。
だがその気持ちは痛いほど伝わってくる。感情は理屈や経験なんかでは押し留めることなど出来やしない。一度
「もう嫌なのです。独りになることが」
ユエルはか細い声で語る。自身の過去を、忘れがたい記憶を。
———両親が死んだ忌々しい光景を。
「私の父は、魔物に操られた部下によって殺されました。私と母の目の前で。その母も、放浪の中で亡くなった」
「……」
「誰かと同じ時を過ごすたびに、嫌でもその時を思い出してしまう。この人もいなくなってしまうかもしれない、そう思うたびに、苦しくなって……」
ユエルの目から涙が零れた。
「あなたと過ごした時間は、とっても幸せだった。ひと時でも辛い現実を忘れることができた。悔いはありません」
群青の双眸がイースに向く。ずっと傍で見守ってくれた瞳は、今まさに輝きを失おうとしている。
「私の荷物に、地図とコンパスが入っています。宿駅に行けば、当面は安全でしょう」
「……」
「お元気で、イースさん。今までありがとう」
そう口にして、ユエルは目を閉じた。爛れた皮膚が痛々しく全身を覆う姿は、死人と見分けがつかないほど静かだ。
なんの抵抗もない。彼女は本当に死に身を委ねようとしている。
イースは目を閉じて、この数日間に思いを馳せた。
彼女はずっと傍にいてくれた。辛い時も、喧嘩したときも、楽しい時も。いずれ終わってしまうと知りつつも、気付けば隣にいるのが当たり前になっていた。
感謝するのはイースの方だ。赤の他人を助けたばかりか、ずっと見守ってくれて。
「ユエル……」
短く名を呼ぶと、ユエルは薄く目を開けてこちらを見た。
言葉では言い表せないほどの感情の奔流を宿した瞳をじっと見つめながら……イースは言った。
「———テメェ調子乗ってんじゃねぇぞ」
「……えっ?」
ポカンとした顔を見下ろしながら、イースは怒りに肩を震わせながら続ける。
「なに死にそうになってんだよテメェ。その年でボケたのか? 今の状況を見てみろよ」
「じ、状況……?」
「テメェ言ったよな? 依頼品ってのは大ウソで、本当はテメェの腐蝕を治す特効薬だってよォ?」
「な、治すのではなく、進行を止めるだけで———」
「細けェこと気にしてッと寿命縮むぞボケ」
「今まさに死にそうなんですよ……?」
珍しく怯えた表情をするユエルに、けれどイースの怒りは収まらない———怒りなんて生易しい言葉なんかでは収まらない。
「特効薬があんだから使えやァ良いだろーが。ンなことも分かんねェのかァ?」
「ですが、あそこには魔物が———」
「殺すんだよ。引きこもってばかりの害虫なんざなァ」
「無茶です!」
今度はユエルが叫んだ。
「通常種ならまだしも、あれは上位種。あなたが太刀打ちできる相手ではありません」
「知らねェよ。邪魔だから殺す。シンプルで分かりやすいだろ」
「それが無謀だと言っているのです!」
叫んだ反動かユエルは胸を押さえて咳き込む。死に体だと言うのに無茶をし過ぎだ。
「あのなァ、一応病人なんだから落ち着けよ」
「あなたが言いますか⁉ げほっ、けほっ……」
咳のし過ぎで涙まで浮かんでいる。
いや、さっきも泣いていた気がするが……途中からイライラしすぎて見えてなかった。
(まあいいや。こいつが泣いてんの見ると気持ちワリィし)
まるで喉奥に異物を突っ込まれた気分になる。今すぐにでも吐き戻したくて仕方ない。
隠す気なんかさらさらなく「オエーッ」と顔をしかめるイース。突然の奇行にもはやユエルは固まってしまった。
「テメェ辛いンじゃねぇのか? 元気になりてェんじゃねェのかよ。だったら俺が特効薬を持ち帰ってやッから、テメェは黙って待ってりゃいいンだよ」
「駄目です。それではあなたは———」
「言っとくが死なねェからな。俺が殺すッて決めたんだからあの害虫は死ぬし、俺が助けるッて決めたんだからテメェは助かンだよ」
「意味が分かりません……」
「分かんなくて結構。元から同意なんて欲しくねェしなァ」
イースは踵を返して出口へと向かう。会話は終わりだ。そう言わんばかりに。
その背へユエルが手を伸ばす。
「ま、待って。行かないで」
「ヤダ。つか弱ってるお前気色悪ぃな。早く戻れよ」
「もう———いい加減にして‼」
狭い室内に怒号が響く。
気付けばユエルは体を起こしており、苦しそうに胸を押さえながらも、力強い目でイースを見ている。
「私と一緒にいるのが嫌ならそう言ってください。無意味な希望を抱くのは、もう嫌なのです」
彼女がどんな人生を送ってきたかは分からない。
ただ唇を噛みしめて懇願する姿はあまりに悲痛で、目を背けたくなるほどの絶望を宿していた。
普段のイースなら彼女の思いに共感して共に涙を流していただろう。だが、現在彼の中では憤怒に染まった像力が荒れ狂っている。怒りに感応した像力が怒りを誘い、誘われた人格が怒りを増して像力を感応させる。一つの感情に起因する永久機関によってイースは正気を失っていた。
故に。
「知らねェよ」
「へ……?」
「知らねェっつってんだよ。テメェがどう思おうが、俺はテメェと一緒にいてェし、そのためならなんだッてやってやる」
立ち向かう障害が上位種だろうとなんだろうとぶちのめす。
「テメェだってそうだろ? 俺を助けたのだッて義憤に駆られたからなわけねぇよなァ?」
ずっと疑問だった。現実主義者で余計なリスクを負うのを嫌がる彼女が、どうして見ず知らずの存在だったイースを助けたのか。
「ようやく分かったぜ。テメェ、一人旅が嫌になったンだろ?」
屋上では引き離すような発言をしていたが、それはあくまで形だけのもの。イースが拒まない限り、彼女は共に来ることを提案してきたはず。
正解は……恥ずかしげに目を逸らす姿を見れば十分だ。
「だったら俺がどうしようが勝手だよなァ?」
「……あれは、あくまで可能の範疇だったからです。あなたでは死にに行くようなもの」
悔しげに歯ぎしりをしながらユエルは言った。
「どうして、そこまで命を懸けるのですか」
「俺がやりたいからに決まってンだろ」
「そんなの理由にはなりません———」
「人助けンのに理由がいるかよ、バァーカ!」
今度こそイースはユエルに背を向けた。
彼女を助けるのは決定事項。そしてイェルベクトとかいう上位種が死ぬのも確定だ。
「テメェはそこで大人しく待ってろ……すぐ助けてやる」
「ま、待って———」
制止の言葉を振り切って、イースは部屋を飛び出した。