その日、街は炎に包まれた。
毎日歩いていた通学路も、よく買い物に出かけていた商店街も、全てが赤々と燃え盛っていた。
少女は震える腕に抱かれながら、故郷が焼け落ちていく光景を見つめていた。思い出が煙を立てて崩れ行くさまはあまりに現実味を欠いていて、母の体温をその身で感じてなお夢心地だった。
「パパはどこ?」
「パパはすぐ来るわ。多分、道に迷っているのよ」
「いつもおっちょこちょいだから」と、母は呆れた様子で微笑む。それが愛娘を心配させないようにと気丈に振る舞っているだけなのは、少女にも痛いほど伝わってきた。
二人が並んでいるのは、避難用の地下通路へ続く列だった。先頭が見えないほどの長蛇の列は亀のような速度でしか進んでおらず、母娘は建物の中にすら入れていない。
飛び交う怒号と号哭に堪えられなくなり、少女は母の胸へと顔を埋める。
ちょうどその時だった。
「無事だったか」
「あなた!」
「パパ!」
喜びを露わにして駆け寄ってきた騎士服の男。胸につけた輝かしいバッヂは、世界の終わりのような様相を呈するサヴァルの中でも曇っていない。
「大丈夫ですか? どこか怪我をしてはいませんか?」
「大丈夫だよ。俺が簡単にやられるわけないだろ? 二人も無事そうで良かった」
にこやかな顔で父は言い、左手で少女の頭を愛おしそうに撫でる。
待ち望んでいた再会に少女も満面の笑みで受け入れる。
「それで、あなたも一緒に行けるのですか?」
縋りつくような眼差しをする母に、けれど父は残念そうに頭を振る。
「すまない。俺は部下と共に避難民の護衛をすることになってる。一緒にはいられない」
「そう……ですか」
一転して悲しげに目を伏せる母。少女はそんな母親を慰めようと、そっと頬にキスをする。
「大丈夫だよ。私がいる」
「ユエル……ふふっ、そうね。あなたがいれば何も怖くないわね」
「そうだな。それに夜には一緒にいられるはずだ。それまでママを頼むぞ、ユエル」
愛する二人に頼られ、少女の胸にも光が灯る。
その時、父の背後から一人の騎士が現れた。細身で優しげな目の父の部下で、これまで何度も家に遊びに来ていた友人でもある男だ。
気付いた父は剣を納めて振り返る。
「来たか。他の者は?」
「残念ながら……部隊の生き残りは私だけです」
「そうか……分かった」
顔を歪めたのも束の間、険しく威厳ある軍人のものへと変わる。
「お前は避難民の先頭で他の部隊のサポートに回れ。私は逃げ遅れた者がいないか探してくる」
「いけません! あなたまで逃げ遅れたらどうするのですか⁉」
「心配するな。ガキじゃないんだから引き際ぐらい弁えてる」
「ですが———」
「すぐに戻って来るさ。大丈夫」
父と母は少しの間見つめ合った後、唇を重ね合わせた。
まるで気持ちを通わせているような長い時間の末に、父は顔を離して少女へと目を向ける。
「パパがいない間、お前がママを守るんだぞ。頼むな」
「うん。任せて……」
「よし、いい子だ」
満足したように父は頷いた。
その直後だった。
……父の胸から、剣が突き出たのは。
「——————ッ‼」
「……なぜ、お前が」
口の端から血を垂らしながら、父の体がゆっくりと倒れる。
その背後に立っていたのは、今まさに言葉を交わしていた父の部下だった。しかしその目から瞳孔は消え失せ、何かに憑りつかれたかのように一心不乱に剣を振り下ろす。
何度も何度も。父だったものが肉塊へと変わり果てるまで。
「パパ? パパ?」
不意に視界が暗くなり、気付くと少女は地下通路にいた。
何が起こったのか分からず顔を上げると、憔悴した母の顔があった。
「パパはどこ?」
なにがあったか聞くのも憚られる母の姿を見て、けれど少女は訊ねるしかなかった。
母は悲しげに答えた。
「パパは……少しお休みしているの。みんなのために頑張りすぎて疲れちゃったから」
「……そっか」
それ以上を聞く勇気は無かった。
———父は死んでしまった。
言葉を選ぶようにたどたどしく語る母の言葉に、少女は漠然とそう理解した。
その日から始まった放浪生活はまさに地獄だった。終わりの見えない旅路は過酷で、その日に食べられるものさえ奪い合うしかなかった。どの居住地も大勢の避難民を受け入れるほどの余裕なんか無く、かつて平和な暮らしを享受していた人々は日に日に荒んでいき、終いには盗賊や追い剥ぎに身をやつした者や、怪我や病気で息を引き取った者、狂気に陥って行方不明となった者などが現れ、避難民の数は日を追うごとに減っていった。
そんな中でも、母は医師として出来る限りのことをしていた。人手も物資も足りないのに全力を尽くし、手から命が零れるたびに心を痛め、けれども次の患者へと立ち止まることなく向かっていく。
感謝の言葉なんかあるわけない。誰もかれも自分自身で精いっぱいで、「ありがとう」の一言が遠い過去の遺物のようになってしまった。
それでも母は人々を支え続ける。来る日も来る日も人を癒し、眠ることも食べることもせず目の前の不幸を取り除こうと尽力した。
少女は寂しかった。独りで腹を満たすことも、眠りに就くことも嫌で堪らなかった。
だがわがままは言えない。「ママを守る」と父と約束したから。
そんなある日のこと。
その日は珍しく母が一緒に寝てくれた。久しぶりに感じた人の温もりは、冷たい夜を忘れさせてくれた。
「ユエル。よく聞きなさい」
魔物除けの香が焚かれた廃墟の中、微睡んでいたユエルはそんな母の声に顔を上げる。
「なぁに?」
「あなたは強い子だから、もう一人でも生きていけるわね?」
「……なんで、そんなこと聞くの?」
嫌な予感がした。まるで独りぼっちになると断言されているみたいで。
「私、一人になっちゃうの? 一人はやだよ。ママと一緒にいたいよ」
「ママも一緒にいたいわ。でもね、いつかそれが出来ない日が来るの」
「そんなの知らない。ずっと一緒にいるもん」
「私もよ。ユエル」
まるで今生の別れでもするみたいに母は続ける。
「人はね、ユエル。みんなが助け合って生きているの。一人でも多くの人を救いなさい。そうすれば、いつかあなたが救われる日が来るわ」
そう告げると、母は背中を撫でながら子守歌を歌い始めた。
母の体温と匂いに包まれながら、少女の意識は次第に夢の世界へ旅立っていく。
そして、次の日の朝。
母は冷たくなっていた。
「ママ?」
朝露に濡れた頬に触れると、氷のように冷たい肌が手のひらに吸い付いた。
何度揺すっても母は目覚めない。
「ママ。ママ」
何度声掛けても母は目を覚まさない。
「ママ……」
母が死んだ。
その事実は、現実味を欠いていた。
「……ママ」
涙で霞んだ視界が映したのは、見慣れた自室の天井だった。だが記憶の深層にて輝くかつての姿と違いひび割れが目立つ。
(そうだ。確か腐蝕が出て……イースさんに運んでもらったんだ)
未だに症状は治まっていない。高熱と苦痛に侵された身体が命の終わりを伝えてくる。
辛い。そんな感覚しか湧いてこない。ほんの少し気を緩めただけで永遠に目覚めないのではないかと思ってしまうほどに。
虚ろな目で天井を眺めていると、不意に鼻先がツンと痛んだ。中に針を入れられたような感覚に堪らず顔がくしゃりと歪み、ぽろぽろと涙があふれ出す。
いつもこうだ。症状が悪化したとき、あまりの辛さに涙が出てくる。
そんな時はいつも、母が慰めてくれた。優しく髪を撫でて、「大丈夫」と言ってくれた。
その母も、もうこの世にいない。寒空の下、悴む指を必死に動かしながら埋葬したのだから。母が手を差し伸べた人々はそんな自分を憐れむばかりで何もしなかった。
「……っつ」
かすかに身を捩るだけで激痛が走る。なのに、瞼の裏に一人の少年が浮かぶたびに、心は凪いだ海のように穏やかになっていく。
我ながら図々しい。この期に及んで他人を頼るなんて。
生まれたときから他人に良い顔はされなかった。腐りゆく体は忌避と恐怖の象徴で、子供は明確な嫌悪を示し、大人は上面だけの労わりを見せていた。だから、人を信じることも、人に入れ込むこともやめたのだ。
二度と失う苦しみを感じないように。
……なのに、心のどこかで、彼に期待している自分がいる。彼なら自分を救ってくれるかもしれないと、希望を抱いてしまっている。
(まったく、彼のどこが良いのだか)
騒々しくて、面倒くさくて、悩みの尽きないお子様。
だが空虚な静けさに包まれた部屋にいると、堪らなく彼を欲してしまう。
もう二度と一人旅なんかできそうにない。
「……イースさん」
ユエルは目を閉じて、自分の運命を預けた。
初めて現れた例外に。
「早く……帰ってきて……」