荒んだ世界を僕らは生きる   作:華月 珠音

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第二十六話

 地下通路へ足を踏み入れた途端、つま先から湿り気のある殺気が上ってきた。

 最奥に潜む怪物は気付いているのだ。再びの来訪者が、今度は明確な敵意を持ってやってきたことを。

 イースは懐中像灯を付けないまま暗闇を突き進む。一本道と言えどまともに歩けないはずだが、その足取りに迷いや恐怖はない。

 あるのはただ、その身を突き動かす怒りのみ。

 

「……あいつは、ユエルは今までずっと頑張ってきたんだ」

 

 体が腐りゆく病。想像しただけでも恐ろしい苦痛と恐怖を齎す呪いを、彼女を生まれてからずっと抱えて来た。一個人が受ける範疇などとうに越しているくせに、誰にも打ち明けず、縋ろうともせず。

 悲痛に揺れる群青の双眸、その奥に誰よりも脆い一面を隠していたのだとようやく分かった。

 思えば当然だ。人は一人では生きられない。だからこそ文明が途絶えてなお人類は寄り合いを作って生き延びたのだから。

 

「今度は俺の番だ」

 

 ユエルに救われたこの身は、彼女の慰めになり得ただろうか。

 胸を張って肯定するほど自分に酔ってはいない。散々迷惑をかけた自覚はあるし、それでもなお一緒にいられたのは彼女の忍耐力のおかげだ。

 ……だからこそ、せめて彼女の窮地を救いたい。良心でも義務感でもない。イース自身がそう欲しているから。

 

「だから———テメェに邪魔されるわけにはいかねぇんだよ」

 

 地下通路最奥。ヒカリゴケが眩く照らすドーム状の空間。

 棚や瓦礫が形作る玉座に、その魔物はいた。三対の腕が生えた蛇のような黒い胴体に甲殻で蓋がされたすり鉢状の口。腕の先端はどれも三つの鉤爪が伸びるだけだが、その長さは長剣にも迫る。

 二階建ての建物を優に超す巨体の上位種、イェルベクト。通常種などとは比べ物にならない不気味さを称える異形は、闖入者(イース)を敵意の籠った眼差しで見下ろしている。

 目は見当たらないのに見つめているというのも妙な話だが。

 

「テメェからすりゃ、のほほんと暮らしてたところを邪魔されたわけだしな。理不尽だって思うかもしんねぇが———」

 

 所詮は魔物、交渉する気が最初(はな)から無いのなら。

 ———くれる慈悲などありはしない。

 

「死ね」

 

 レイラを引き抜き、イースは駆け出した。

 迎え撃つようにイェルベクトは左上腕を振り上げ、標的目掛け振り下ろす。

 頭上から迫りくる巨大な手のひらをイースはひたすら走って通り抜ける。抜けざまに背筋を打ち据える風圧にたたらを踏むも振り返りはしない。背後から飛んでくる破片よりも素早い動きで懐に潜り込むと、順手で構えたレイラを皮膚へと打ち付ける。

 

 ガキンッ!

 

「ッ⁉ くそっ」

 

 手ぬるい皮膚の感触などありはしない。岩壁……いや鉄壁を殴ったかのような衝撃に手がじんじんと痛む。

 不意に頭上に影が差した。見上げる余裕などなく、目の前の体を蹴って反動により後退。一秒前までいた地面に拳が振り下ろされるのを、イースは冷や汗を流しながら一瞥した。

 

(さすがに一筋縄じゃいかねぇか)

 

 乾ききった唇を舐めつつ距離を取るイース。不用意に近づいても、勝ち目が薄いどころか自殺行為になりかねない。

 フラグマーとはまるで違う感触に心臓がバクバクと鼓動を刻む。動揺が神経を鈍らせているのだ。

 だが、悠長に息を整える暇などありはしない。イェルベクトは束の間動きを止めたイースを仕留めようと右中腕を勢いよく突き出した。

 引き絞った弓が放つ一矢よりも格段に速い動きに何とか合わせようと体を反転、正拳突きのように狙いすました拳を紙一重で躱しながら側面を撫でるように剣を擦りつけつつ、反動を利用して更に遠くへと引き下がる。

 距離を取ったイースへ、イェルベクトは突き出した腕を横に薙いで追い打ちをかける。地面の瓦礫をガラガラと跳ね除けながら向かってくる丸太のような腕を、イースは瓦礫を踏んで側面へと避ける。

 しかし、地面に足を付けた瞬間、凄まじい速度で左上腕がイースを打ち据えた。

 

「グッ……!」

 

 息が吸えない。全身を回る血流が刹那の間遮断され、視界が明滅する。体の中でピキリと音がした気がするも、正体を掴む間もなくイースは瓦礫の山へと叩きつけられた。

 きな臭さが鼻の中を占めるもすぐに意識を取り戻し、迫りくる追撃をギリギリのところで回避する。

 スケルトン型の棚を踏み台に後転の要領で避けるも二撃目がイースを襲う。狙いすましたかのように逃げ込んだ先へと打ち込まれた拳を、イースは像力盾を起動し受け止める。

 体中の骨を揺らす重い一撃にレイラを落としそうになるも堪え、三撃目が来る前に瓦礫へと剣先を突き立て像力破を起動、人の頭部ほどの瓦礫を飛び散らせた。

 自爆しないよう先に動いていたイースだったが、ふとイェルベクトの異変に目を見張った。

 目眩し程度のつもりで起こした爆発、それによって飛び散った破片が着弾した位置へ、イェルベクトは手のひらを叩きつけていた。地面を粘土のように易々と切り裂いてはいるが、そこに標的などいるはずもない。

 

(なるほど……音で居場所を探知してるのか)

 

 機敏な動きに先手を取る勘の良さ。故に目が無いのではなく小さくなっていると踏んでいたが、まさか聴力が発達していたとは。

 だからこそ光を武器に使えるのだろう。魔物らしい、嫌らしい奴だ。

 

(だがまあ、音で探してるってんなら……)

 

 イースはポケットに破片をいくつか入れ、瓦礫を踏みしめ走りだした。

 足音を聞きつけ振り向いたイェルベクトは甲殻を開いて口を見せつけ、イースを丸のみにしようと向かってくる。

 あと数歩の距離で、イースは瓦礫を蹴って飛び上がり、すかさず足元に破片を一つ投げつけた。

 読み通りだ。ゴンッと音がした途端、イェルベクトは口先をイースの足元へ向けて突進してきた。

 

「甘ぇなぁ!」

 

 高らかに叫びながら口内へレイラを刺しこむ。

 外が駄目なら中から。しかしその思惑は、甲高い衝突音によって無残に散った。

 

(クソがっ、無駄に硬ぇ!)

 

 もはや生物とは思えない強度に呻くイース。とうに居場所は気付かれ、死角から鋭利な鉤爪が迫りくる。

 首筋を蹴って何とか距離を取るも、着地によって土俵は再び相手の独壇場へ。左下腕が地面を抉りながら迫り、鉤爪による切り上げがイースを襲う。

 

「仕切り直しだっ!」

 

 間一髪像力盾を起動し受け止めるも踏ん張りがきかず体は中空へ。大きな隙を晒すイースへ左右の中腕がハエを潰すかのように迫りくる。

 こうなれば自爆覚悟。イースはレイラを逆手に構えて右中腕の手のひらへ叩きつけて発破。衝撃で怯んだ隙に逆の手を飛び越えて距離を取る。

 

(厄介だな、クソが)

 

 音による探知を突破できても、硬い皮膚を貫かない限りデイルには届かない。いや、万が一それさえ突破しても回復されたら意味が無い。

 八方塞がり。絶望感がじわじわと胸に染み渡り、イースは唇を噛みしめた。

 血が浮き上がるのも構わずに。

 

(どうする。このまま特効薬だけ持って逃げるか?)

 

 不意に浮かんだ案も、イェルベクトの移動速度を考えると机上の空論となる。むしろ下手に持ち出して一撃でも喰らえば中身が壊れる可能性がある。そんなリスクは負えない。

 

(落ち着け。絶対に助けるって決めたんだろうが。だったら、何が何でも成功させるんだ)

 

 幸い、特効薬が収められた箱は少し離れたところにある。一・二本の犠牲を承知の上で、何とか持ち帰られれば。

 イェルベクトを討伐するのはユエルが延命できてからで良い。回復して共闘出来れば僥倖。

 まずは———彼女の窮地を救う。

 

「やってやるよ!」

 

 怒声をあげて己を鼓舞し、イースはレイラを逆手に走り出した。

 対するイェルベクトは左右の上腕を高らかと掲げて迎え撃つ。範囲内に少しでも入れば、遥か頭上から巨大な手のひらが振り下ろされる。

 

(恐れるな。怯むな。怯えるな。ユエルのことだけを考えろ———)

 

 イースの勝利条件はユエルの救命。ならばそれに全力を傾けるのみ。

 そう意識を定めて駆け出すイース。

 

 

 ———その両目を、白い閃光が焼いた。

 

 

 狙いを付けたことで生じたわずかな記憶の忘却。それが、最悪な場面で起こったのだ。

 はじめ、何が起こったのか分からなかった。突然景色が白に染まり、次いで全身を激しい衝撃が襲った。視界は黒と白が代わる代わる訪れるだけで、状況把握をしようと脳を回すも強烈な吐き気しか感じない。

 やがて周囲が見えるようになると、イースは激痛に悲鳴を上げた。

 

(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い———ッ‼)

 

 とうに四肢はへし折れ、胸からは砕けた骨が突き出し、頬は抉れて歯が覗く。喉奥からせり上がる血液に気道が塞がれ、ポコポコと気泡の音だけが呼気に代わって漏れるのみ。

 もはや肉塊と相違ない状態になってなお、意識は鮮明に残っていた。残ってしまっていた。

 何度悲鳴を上げても誰にも届かない。イェルベクトですら興味を失ったのか、イースには目もくれずのそりのそりと自らの領域を闊歩しだす。

 やがて痛みに意識が呑まれていき、視界は黒一色に染まった。

 

 

 

 思い返せばイースは、ずっと自分の生き方を考えてすらいなかった。「外へ出たい」という思いはあったくせに、あれこれ言い訳をして目を逸らし続けた。

 だから初めて外に出たとき、どう生きれば良いのか分からなかった。新世界は日々生きるか死ぬかの世界、平和な暮らしに慣れ切ったイースでは手に余る場所だった。

 そのくせに「死にたくないから生きる」なんて生き方は嫌だった。だからユエルを手伝うことに決めたし、シモンだって助けた。自分可愛さに他人を見捨てる、そんな選択をする自分が嫌いだったから。

 

 あの日からだ。生き方について考えるようになったのは。

 モルソアは夢を追いかけて、故郷での暮らしを捨てて危険な世界に踏み出した。

 ユエルは自分の命を守るために、魔物に滅ぼされた故郷まで戻ってきた。

 みんな自分自身を貫くために生きてきた。

 

 ……イース(お前)はどうだ? 本当に今の生き方で良いのか? 陽の光が差すことのない陰鬱とした地下で死を迎えられるほど、生を諦められるほど、生き方に満足しているのか?

 

「疲れた……」

 

 瞼が重くなってきた。すごく眠い。

 なのに、心の奥底から激情が「眠りたくない」と叫んでいる。とても眠いのに、その叫び声が騒音のようにイースを苛む。

 段々———腹が立ってきた。邪魔してくる声が、この眠気が。

 

 ……イースを苛む全てが。

 

「もういいや」

 

 考えるのはやめだ。悩むのもやめだ。

 湧き上がるこの激情を抑えるのもやめだ。

 

「悩むくらいなら……全部壊してやる」

 

 これまでずっとそうしてきた。

 これからだってそうしてやる。危険な世界だろうが、過酷な運命だろうが、どうでもいい。

 

「邪魔しようってんなら、ぶっ壊してやる」

 

 イースは目を閉じた。瞼の裏にいくつかの景色が過る。

 全身が腐りゆく中、必死に帰りを待つ一人の女性。我が物顔で地下を占有する異形。瓦礫の中で倒れる自分の姿。

 腹立たしい。女性が苦しんでいるのが、異形が平然と生きているのが———

 

 ———自分が死にゆくのが。

 

 だから……。

 

 

 

 ぶっ壊してやる。

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