水の流れる音がすぐそばで聞こえる。貯水タンクから移す際に聞く機械的な水流とは違う、不規則で広々とした音色。それが耳朶を揺らすたびに、鈍く激しい頭痛が引いていく気がする。
「……っ」
やがて耳が音に慣れたころ、イースは重い瞼を持ち上げた。視界いっぱいに広がる暗黒はアルレイの空を思わせるが、点々と浮かぶ白金色の粒は見たことがない。
じっと頭痛が引くのを待ち体を起こす。ただでさえ出血のせいで満足に動かせない身体は、服までもが水を吸って錘になってしまい、上体を起こすだけでも一苦労。何度も転びそうになりながら座り込むことに成功し、ふぅと一息つく。
「疲れた。腹減った……」
我ながら呑気なものだ。今にもぐぅと鳴りそうな腹を撫でつつ体のあちこちを点検。幸い怪我は深くなかったようで、むしろ服の損傷の方が痛々しい。
「生きてただけでも儲けもんってとこか」
むしろ防壁から落ちた割には軽傷だったと言うべきか。
自己診断を止め、周囲の状況の観察に移る。イースが目覚めた場所は中央に大きな水路がある平坦な土地で、水路沿いは丸く小さな石が所狭しと並んで陸地を作っている。外側は傾斜のある壁がずらりと並び、一定間隔で設けられた階段が暗黒へと伸びている。
(なるほど。水路に落ちて流されてきたわけか)
ある意味では命の恩人、ずぶ濡れにされたぐらいで文句を垂れるわけにもいかない。
ふと視線を逸らすと、ちょうど手の届く距離にレイラが転がっていた。
「はっ、お前も運んでもらえたか」
馴染みの相棒を取り戻し、イースはゆっくりと立ち上がる。少し休んだおかげか体も動くようになってきた。
「さてと、休めそうな場所でも探すか」
アルレイへ戻ろうにも現在地はおろか体力もない。
オニールのことだ。きっとうまくやってくれている。今は彼らを信じて傷を癒し、体力を回復すべきだ。
「濡れた服も乾かさないといけねぇしな。ったく、助けてくれたのはありがてぇが、もうちょっとマシなやり方は無かったのかよ」
結局文句を零しつつ、レイラを杖代わりにして階段へ向かう。
石でできた階段はひび割れが酷く、隙間からは緑色のもこもこが小さな山を築き上げていて、踏まないように注意しながら頂上を目指す。普段なら余裕で超えられる程度の段差も、傷だらけとなると断崖絶壁もかくやの障害だ。
それでもようやっと頂上へ到達したイースは、眼下に広がる景色に唖然とした。
「……こいつは、なんの冗談だ?」
どこまでも続く暗黒の下、歪な形をした有象無象が散らばっていた。その外観から辛うじて家屋だと推測できるものの最低限の存在意義さえも失っており、瓦礫の山と形容するほかない有様だ。格子状に間を縫う道にも倒壊していてさながら迷路の障害物、上から俯瞰してなおどの道がどこへ行き着くのか分からない。
何より目を疑ったのは、倒壊した家屋から伸びる捻じれた柱の群れだ。遠目からでも太く大きい柱は人工とは思えない形をしていて、先端の物体は道中で見たもこもこの巨大版が乗っている。
唐突に現れた廃墟群にイースはポカンと口を開けることしか出来ない。現実味を欠いた光景は、思考もまともに働かないイースには情報量が多すぎる。
(とりあえず休まねぇとなんも出来ねぇ。この際、横になれりゃ壁が無くても良い)
理解を諦め、チラリと見えた白い建物を目指して階段を下りる。
前後を尖塔に挟まれた三角屋根の建物は比較的壊れておらず、何よりその大きさは目印として適している。おかげで迷路のような道でも迷うことなくたどり着けた。
倒れた扉を踏みしめて中へ入ると、長椅子の残骸がそこかしこに積み上がる広い空間に出た。中央は崩れた天井が山を成して、周囲には衝撃で散らばったと思しき瓦礫が足の踏み場を無くしている。
「……もう限界だ」
傍の瓦礫に背中を預けて、イースは座り込むと天井を仰ぎ見た。元がどんな色かも判別できないほどに汚れていて、薄眼で見ると背後の暗黒と見分けがつかない。
腰を下ろしたせいか休眠モードへ突入してしまい脳が働かなくなってきた。ずぶ濡れの状態で寝るのはマズい、そう理性が訴えかけるも、疲れ切った身体は「早く休ませろ」と真っ向から対立。
勝者は言わずもがな。
(数分寝りゃ動けるようになるだろ)
身を縮こませて寒さを凌ぎつつ、イースは瞼を閉じた。
どれほど経った頃だろうか。
奇妙な視線を感じてイースは目を開けた。幾分冴えた意識が見ても風景は変わっておらず、何より辺りを見回しても視線の主は見当たらない。
訝しみながらイースは立ち上がって、崩れた天井を見上げた。
———そこには、怪物が立っていた。