「…………………は?」
長い沈黙の末にその一文字はまろび出た。
突然のことだった。理解が追い付かず、けれど眼前には確かに存在していて、無言のまま存在感を発揮している。
奇妙な存在だ。青白い肌をしたソレはまるで自らを監視者だと言わんばかりに大きく丸い瞳を皿のようにしてイースを凝視している。
違った。凝視しているのは一つじゃなかった。二つ、三つ、六つ、九つ……計
見られているのはイースだけではなかった。背後でカタリと音がしたかと思えば、監視者の
「————」
言葉は出なかった。出るはずが無かった。出そうという意志すらなかった。なぜならそれはそれを必要としていないから。役目など無かったから。声を出す必要が無いのだから声を出す義務も無く権利もない。出す権利が無いということは全ての採決を相手にゆだねるということだ。
違う……違う? なぜ違うのか分からなかった分かろうとする気持ちすらなかった絶対に正しいことを前にしてそれを稲田と決めつけるような行いは周囲の混乱と命令系統への不服従を示しているためあまり良いおこないとはいえないのだからひつようとしないかぎりはでるべきではなくひつようとされないならそんざいするりゆうだってないのすべてはただしいことのまえにへいふくすべきでありへいふくしないということはひつようとされていないというじじつにたいしてはんきをひるがえすおろかなおこないなのだからただしいことをただしいとしってただしいがままにおこなうべきえあいおんあおおいいおあえうあおおおんおおうあんあおああああんあええあいえあいあいえあおいあおいえおあいおあいえおえおあいおあえあおあいおえいおあいえおあいえおいおえうあおいえうおあおいおうおえおうあおいおえうおあおおうえおあ———。
カランカラン
脳を刺すような音が耳に届いた刹那、世界は白い閃光に包まれた。
「ぐっ⁉」
防ぐ余裕さえなく至近距離で放たれた光にイースは瞼をぎゅっと瞑る。それでもなお瞼を貫通した光は眼球を焼き、あまりの痛みに呻き声を上げた。
身の毛もよだつ絶叫は、イースの呻きに被せるようにして聞こえた。
(一体……なにが……⁉」
混乱するイースは光が弱まったのを見計らって目を開けた。
———そこには、怪物が立っていた。
一言で言い表すならば白亜の巨人。血色の失せた皮膚はのっぺりとしたゴム質、細長い四肢の先には五本の指が揃った人間の手足が付いていて、崩落した屋根の縁に器用に乗っている。頭部もまた人間と同様のパーツで構成されている。目、鼻、口、耳、毛の一本も生えていないツルリとした表面は不健康な人間と言われてもうなずける。
だが、その目は、口は、人間のそれを逸脱していた。顔の上半分を占める二つの眼は瞳孔がいくつも並ぶ複眼、けれど一つ一つは明確に人間のそれと同一。紫色に腫れた唇の隙間からは舌と思しき管が伸びていて、その先端は人間の手のような形状だ。
人間のようで、人間とは違う、名状しがたいナニカ。
それがじっと、イースを見下ろしていた。
「な、なんだよ、お前」
声が震える。恐怖の一言では片付けられない威圧感、何よりいつどこから現れたのかさえ不明な得体の知れなさに、心は今にも屈してしまいそう。
もしかしたらすでに屈しているのかもしれない。明らかに魔物である怪物を前にして、イースは武器を取るという選択肢を忘れているのだから。
やがて自我さえも奪われてしまいそうなその時だった。
「目を閉じて!」
突如聞こえて来たその声に言われるがままイースは目を瞑る。
瞬間、瞼を貫通して二度目の閃光が解き放たれた。事前に知っていたイースとは違い、怪物は再び襲い来た光の奔流に耳障りな悲鳴を放つ。
不意に誰かがイースの腕を掴んだ。反射的に振りほどこうとするイースの耳元で、冷たく静かな声が告げる。
「私は味方です。早く逃げましょう」
声に導かれるまま、イースは白い闇の中を進む。
やがて目が慣れた直後、何者かに背中を押されて固い地面に倒れこんだ。屋内らしく舞い上がった埃に咳き込むも、背後で扉を閉めた声の主には容赦なんて無かった。
「お静かに。まだメストルホールから距離を取れていません」
「め、メストルホール?」
「あなたを襲った上位種です」
その言葉に背筋が凍った。
魔物を二種類に区分したもう片方。通常種と違い、上位種は希少ながらも強大な力を持つとされ、単体でも居住地を壊滅させ得ると言われている。
「なんで、んなバケモンが俺を……」
「目に付いた獲物があなただったから。魔物が人を襲う理由などそれ以上もそれ以下も無いでしょう」
冷たく言い放って声の主はイースの下へ駆け寄った。暗闇でも煌めく群青の瞳が印象的な長身の女だ。
女はイースの全身を軽く一瞥して、反対側の扉へと歩いていく。
「とにかく今は逃げることが最優先です———」
言葉は続かなかった。
突然天井が崩れ、異形の頭部が内部を覗く。人間の複眼がぎろりと中を見渡して。
———一瞬の後にイースへと集中した。
「こちらです」
悲鳴をあげかけたイースを引っ張って、女は反対側の出口から外へと飛び出す。
命がけの逃走劇はなんの前触れもなく始まった。
複雑に入り組んだ廃墟群の中を外を駆け巡るイース達。一方でメストルホールは巨体に見合わぬ俊敏さで屋根の上を飛び回り、着実にイース達との距離を縮めていく。
手を引く女はまるで自分の庭を歩むかのように迷いなく駆け抜けていく。部屋に入って、部屋を出て、また部屋に入って。いくつの建物を通過したのかさえイースには分からず、ひたすら女の後に続いて走ることしかできない。
不意に頭上から聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。
「伏せて!」
女の叫びに反射的に頭を下げた刹那、紙一重の位置を錆びついた鉤爪が通り抜けた。
振り向いた先には複数体のフラグマーが。しかしその動きは防壁で見たときよりもずっと緩慢で機械的、追撃できる距離にいるにも関わらず、まるで燃料切れでも起こしたかのように動きを止めた。
「あいつらは⁉」
「メストルホールが操る配下です」
言葉少なな説明を補完するように、メストルホールの不愉快な鳴き声を合図にフラグマーは動きだした。自らの意志を亡失した操り人形どもはがむしゃらに二人を追いかける機械と化し、目的遂行のためなら仲間や己が犠牲になろうと厭わない。外階段を上って中へ入る途中で見たフラグマーどもの命がけの肩車にイースはそれを理解した。仲間の背に鉤爪を突き立てて上へと上がり、更に上へと後続が強引に上る。その過程で仲間が切り刻まれようとデイルを破壊されようと止まることは無い。
おぞましい。ひたすらにおぞましい。生物ならあるはずの生存本能さえも無い、人間が理解できる範疇を大きく超えた怪物どもの凶行に、もはやまともな感想なんて浮かぶはずが無かった。
(なんで……なんでこんな目に)
アルレイで暮らしていた時は幸せだった。退屈で、代わり映えが無くて、ずっと同じで。でも……でも幸せだった。
こんなことは望んでいなかった。理外の存在に追われるなんて考えたことも無かった。
家に帰りたい。温かいベッドで横になって、大好きな両親と一緒に眠って。
同じ食材のごはんだってわがまま言わずに食べよう。仕事だって不満も言わずにこなそう。
帰りたい。帰りたい帰りたい。帰りたい帰りたい帰りたい。
「……ここなら」
不意に口にした女の呟きが終わるより先に、イースの体はどこかへ押し込められた。元は倉庫だったのかいくつかの物品が残された小さな空間だ。
地面にもんどりうったイースは体勢を立て直す猶予も無く女に口を塞がれ組み伏せられた。
「静かに……」
じっと息を潜める傍ら、壁一枚隔てた向こう側で、ずしずしと重い足音が響いてくる。姿が消えて混乱しているのか、何度も何度も不愉快な鳴き声を上げてフラグマーどもへ指示を下している。
三十分近くはそのままだっただろうか。体感では分からない時の流れの果てに、メストルホールはゆっくりとその場を去っていった。
足音も気持ちの悪い存在感も消えたのを確認してようやく女が離れた。
「もう大丈夫でしょう」
どこか安堵を孕んだその言葉に返事をする余力もない。
心身ともに疲れ切ったイースは気絶するように意識を手放した。