目覚めたイースの目に入ったのはあちこちに骨組みが浮き出た天井だった。壊れて久しい照明の残骸が宙吊りにされている以外にめぼしいものはない。壁はいつぞや見たこんもりした緑の集合体やら捻じれに捻じれた茶褐色の紐やらがひび割れに沿って並んでいて、かつてはタイル張りだったらしい床もほとんどが剥がれて土台が丸見えだ。
一方で、およそイースの自室ほどの広さの部屋には所々に使い込まれた道具が置かれていた。どれも壊れている様子はなく、煙をくゆらせる容器なんかは使用中のよう。
そして、
「お目覚めですか」
壁際にいた女が、上体を起こしたイースに気付いて立ち上がった。
美しい女性だ。頭の中に浮かんできたいくつもの形容詞、そのどれもが彼女を正しく表現するには力不足なほどに。
後ろで一纏まりにした艶やかなダークブロンドの髪、その下では研ぎ澄まされた刃を思わせる細い瞼に深く吸い込まれるような群青の瞳が収まり、すらりと通った鼻筋を中心に据えた中性的な顔立ちは美麗であり瑰麗。一方で表情筋の動きが乏しくどこか人形じみていて、常人離れした美貌がより際立たせている。
その肢体は艶めかしく、服の上からでも十二分に分かるほどの豊満なふくらみを有している。けれど決して下品などではなく、むしろ彫像なんかの美術品を見ているかのよう。背丈は目算でも二メートルを優に超えていて、健康的な肉付きの四肢はややぴっちりとした長袖と長ズボンが覆っている。
女はイースの傍に膝をつくと、低く聞き心地の良い声で言った。
「体に異常はありませんか?」
「いや、別にねぇよ」
「では倦怠感や吐き気などは?」
「ねぇよ。状況に追い付けてない以外はな」
「そうですか。なら一先ず危機は去ったようですね」
ニコリともせず女は言った。
思考を読むのは苦手だが、この女は輪をかけて得体が知れない。感情さえどこかに忘れて来たんじゃないかと思えるほどに女は無表情だ。
とはいえ、腕や首にいつの間にか巻かれた包帯が彼女のお陰なら、イースの敵ではない。
「お前誰?」
「ユエル・エクスコート、傭兵業を生業としています」
「傭兵? 護衛とかすんのか?」
「概ねその認識で合っています」
会話終了。お互い口下手らしく、ましてやイース自身のんびりと談笑に興じるほどの余裕はなかった。全身を伝う重みが、服の下でかすかに主張する痛みが、あの暗闇での出来事が現実だと突きつけてくる。
「なあ、ここはどこだ?」
「ここは私の野営地です」
「そういう意味じゃねぇっつの。その……この世界は、どこだ?」
どんな答えが欲しいのかイース自身にすら分からない。漠然と問うただけか、都合の良い幻想が聞きたいだけか。
どちらにせよユエルと名乗った女が口にした答えは、容赦ない現実のものだった。
「ここは『新世界』です。かつては平凡な田舎町の一つだったのでしょう。いくつかの民家と中規模の商業施設がありました」
不思議と衝撃は小さかった。「だろうな」という感想しか湧いてこない。
「その様子ですと、居住地の出ですか?」
「ああ。アルレイってんだ。知ってるか?」
「いいえ。差し支えなければ、何があったかを教えていただけませんか?」
そうせがむユエルをイースは見つめ返す。依然として表情は読めないが、どこか相手を労わるような感情が見えなくもない。
あるいは、誰かに慮ってほしいという欲が見せたまやかしか。
(だっせぇ、俺)
苦々しげに心の中で毒づいて、イースはトボトボと語りだす。居住地アルレイがどういう場所か、あの晩なにがあったか。語るたびに心臓が切り裂かれるような痛みを感じながら。
ただ口にしているだけなのに。あの凄惨な出来事が全て現実なのだと、夢なんかではないのだと、冷酷に突きつけてくる。
イースが語っている間、ユエルはじっと聞いていた。相槌を打つでも表情を変えるでもなく。
彼女が何を思ったのかは不明だが、イースが口を閉じると長い溜息を吐いた。
「なるほど。あなたの故郷
「も? 他にもあるのか?」
「山ほどありますよ。あなたのような境遇はそう珍しいものではありません」
「そうか」
思えばアルレイ近隣の居住地も魔物に壊滅させられていた。その時が来ただけ、ということか。
易々と受け入れられはしないが。
「まあいい、助けてくれてありがとな」
礼もそこそこにイースは立ち上がった。若干の立ち眩みが起こったものの動けないほどではない。
「どこへ行くのですか?」
「帰るんだよ。みんなの様子も知りたいしな」
被害もそうだが、何よりオニールの無事を確認したい。あれほどの魔物を相手取ったのだから残酷な事実も覚悟しなければ。
病院のベッドで呆けている様はいまいち想像できないが。
と、楽観的な思考を巡らせていたイースにユエルは言った。
出会った時から変わらない平坦な声音で。
「どうせ無駄ですよ」
「あん? どういう意味だよ」
「文字通りの意味です。アルレイがどれほどの力を蓄えていたかは知りませんが所詮中規模以下の居住地、魔物の大群に勝るとは思えません」
頭を振って淡々と語るユエル。他人のことなどどうでもいい、そう言わんばかりの態度に沸々と怒りが湧いてきた。
「んだよその言い方。言っとくが俺たちだって何の準備もせずに過ごしてきたわけじゃねぇんだ」
月に一度の避難訓練、アルレイ全体が一丸となって取り組んだ緊急時の行動指針だ。誰しもが魔物によって故郷を追われることを良しとせず、ましてや無抵抗にやられるのを許容していたわけでもない。
アルレイは残っている。どれほど傷ついても変わらずに。
傍から見れば妄信ともとれる……否、当の本人でさえ根拠も無く縋りついたなけなしの希望。
それは、
「本当にそう思っているのですか?」
「……っ⁉」
第三者の冷淡な声音によって、あっさりと瓦解した。
呆れているわけでも憐れんでいるわけでもない。ユエルの瞳は、ただひたすらに空虚だ。
「百年以上も魔物を直に見ることの無かった民衆が、突如として起こった魔物の襲撃に対処し生き延びられる。そのような奇跡が起こるほど都合の良い世ではありません」
「ふ、ふざけんな! 言っとくが訓練だって真面目に積んできたんだ。俺なんか隊員連中で一番の成績だったんだぞ!」
「その優秀な方が、フラグマーに力負けしてここまで来たのでしょう?」
反論の余地などない一言にイースは黙り込んでしまった。
ただ拳を握って、向ける先のない悔しさに歯を噛みしめながら。
「だけど……オニールなら……」
「そこまで信じていたいのなら止めはしません。ですが、後悔するだけですよ」
ユエルは口を閉じた。だが、返事をする気分には到底なれなかった。
……心のどこかでは分かっていたのかもしれない。彼女の一言一言に反論する傍ら、意識の片隅ではもう一人の自分が囁いていたのだから。
「認めろ」と……「諦めろ」と……。
アルレイで過ごした月日は十年余り。この世がこんな有様になってからの二千年と比べたらまさに一瞬だろうが、イースにとってはかけがえのない思い出だ。
両親と遊んだ公園、退屈に呻きながらも楽しい時間を過ごせた学舎。
時に笑い合い、時にぶつかり合い、色んな瞬間を家族と共にしてきた我が家。
それが……もう二度と出会えないというのなら。
(俺は……どうすりゃいい)
もはや拳を握る力もなく、イースは呆然と項垂れる。
すると、ユエルが口を開いた。
「この部屋を出て右に行くと屋上へ続く階段があります」
「屋上?」
「外の風に当たってみてはいかがでしょうか? ここでじっとしているよりはマシなはずです」
イースは言われた言葉を咀嚼して、徐に立ち上がった。
「昼食の用意が済み次第私も向かいます」
背中にかけられた言葉に応じる余力もなく、イースは幽鬼のような足取りで錆びついた扉を抜けた。