ユエルの言っていた通り、部屋を出て右に行くと階段が見つかった。錆の浮いた鉄板が骨組みに乗っているだけの心許ない階段だ。
ギシギシと嫌な音を立てる階段を上りながらも、イースの心は虚空を彷徨っていた。
故郷へは帰れない。仮に帰ったところで惨たらしい現実を直視することになるだけ。温室から引っ張り出された心では耐えられないことぐらいイースにも分かっていた。
あるいはいっそ壊れてしまえば良かった。わずかに残った器のせいで認めたくない事実を受け止め、その重みに苦しんでいるのだから。
「……俺は、どうすりゃいい?」
家族もいない。故郷もない。頼れる相手も、逃げる先もない。
あるのは暗澹とした世界だけ。冷たく、暗く、孤独で、害意を向ける異形ばかり。
(外を見たところで変わらない)
水辺で目覚めてからの一瞬一瞬が網膜に焼き付いて離れない。街灯も道しるべも無い暗闇に浮かぶ捻じれた異物と空虚な遺構、そんな景色を見たところで、より絶望に沈むだけだ。
(でもそれなら……俺はなにをすればいいんだ)
なんだか酷く疲れてしまった。朽ちた段差を上る一歩一歩が重く、息を吸う行為さえも気怠い。イースを突き動かしているのは「止まりたくない」という漠然とした強迫観念であり、それさえも歩む足とは裏腹に希薄になっていく。
いっそ足を止めてしまえば……。
息を止めてしまえば……。
「楽に……なるのかな……」
ツンと痛む鼻先を伝った涙を拭う気力もなく、イースの足は立ち止まってしまった。孤独が悲嘆に、悲嘆が絶望に変わり、醜悪な病魔となって精神を蝕んでくる。やがて息を吸うのも疲れ切り、イースはゆっくりと瞼を閉じた。
———その光を浴びるまでは。
「———⁉ なんだ、いまの」
頭にかかった謎の光。薄暗い階段に差しこむ光は細く金色で、手をかざすと奇妙な温もりが肌に舞い降りた。
像力がもたらす光ではない。もっと原始的で、故に命の要ともならる大事な何か。
気付くとイースは階段を上っていた。重い足取りは次第に軽やかなものへと変わっていき、やがて二段三段と飛ばしながら駆け上がっていく。そこには先ほどまでの憂いは無い。病的な強迫観念も、全てが未知なるものへの好奇によって塗りつぶされた。
やがてイースは階段の終点、屋上へ続く扉の前へとたどり着いた。両開きの扉は上半分がガラス張りになっていて、木の板で乱雑に封じられている。
光はその隙間から入り込んでいた。
「……っ」
息を呑んでイースはドアノブに手を添える。指先から伝わる仄かな温もりは、確かに光がもたらすそれと同一だ。
早鐘のように打つ心臓を押さえるように胸を手で押さえながら、イースは一息に扉を押し開けた。
そこには———異世界が広がっていた。比喩でも誇張でもない。正真正銘の別世界の景色が見渡す限りに続いているのだ。
爽やかな蒼天の下にはかつての人類が残した遺構が数多く残り、今や新世界の住人の住処として役目を全うしている。
今ならはっきりと見える。廃墟から伸びていた捻じれた柱は木だったのだ。アルレイで見るような子供の背丈ほどの観葉植物とは違う、生命力の漲る巨木の数々が大地は覆い隠さんばかりに生え、そこにあの暗闇で見た物々しさもおどろおどろしさは微塵もない。
頭上を見上げれば、白い塊が揺蕩う清々しい青空に一点、煌々と光る球体が浮かんでいた。
「あれが太陽か?」
おとぎ話でしか聞いたことのない存在。背筋を凍らせる暗闇を打ち払い、魂を奮い立たせる光をもたらす生命の象徴。
温かい光は、太陽から出ていたのだ。
不意に一羽の鳥が通り過ぎた。白く大きな羽を広げて、力強く羽ばたきながら。
ひたすら前を向いて突き進む姿に、イースはクスリと笑った。
「そっか。そうだよな。俺は生きてるんだ」
生きていなければ知る由も無かった。
肌を撫でる太陽の温もりも、胸いっぱいに広がる大自然の息吹も。
生命の力強さも。
「ここが……新世界……!」
輝きに満ちた己の世界を、イースは深く噛みしめた。