「気分はいかがですか?」
後ろで扉の開く音が聞こえ、ユエルの声が届いた。
角が取れた気のする声にイースは振り向くことなく手を振って、
「最っ高の気分だぜ」
「それは良かったです。あのまま落ち込まれてはこちらとしてもやりづらかったので」
などと言っているが、イースのことを心配してくれているのが伝わってくる。
「素直じゃねぇな。元気になってくれてよかった、ぐらいは言えよ」
「思っていないことは言えません。まあ、先ほどよりは幾分マシにはなりましたが」
「へいへい、そいつは良かった良かった」
隣に来たユエルに適当に返事をしてイースは眼下を見下ろす。
野営地はやや傾斜のある場所を選んだようで町を一望できた。イースが流れ着いたと思しき水路も、メストルホールに襲われた白亜の建物も。中を歩いていた時は必死だったから分からなかったが、俯瞰して見ると冒険心擽る場所だ。
「昔はここに大勢の人がいたんだもんな。魔物ってのは恐ろしいもんだぜ」
「そうですね。人間が彼らよりも強ければ、ここもまだ活気があったのでしょうが」
現実は上手くいかなかった。奴らの恐ろしさは、その一端を味わったに過ぎないイースですら抗うことの無意味さを痛感したほどだ。
「なあ、まだアルレイは手遅れだって思ってるか?」
「ええ」
「だよな……俺もそう思う」
「素直ですね」
「素直っつうか、なんとなく分かってたから。俺たちじゃあんな化け物を相手に生き残れないって」
今頃オニールとノルメアは……。
考えたくないのに、最悪な想像が脳裏を掠めて、イースはぎゅっと欄干を強く握る。
「俺さ。捨て子だったんだ」
突然の告白にユエルの目が見開かれる。
それがなんだか可笑しくて、つい吹き出してしまった。
「そんな顔出来んだな、お前」
「失礼ですね。いえ、それより———」
「まあ聞いてくれよ。ちょっと話したい気分でさ」
赤の他人に聞かせる内容ではないことは分かっている。
それでもイースは知ってほしかった。闇の中に消え去ったかもしれない故郷の思い出を。
「十数年前にアルレイの前で倒れてたところを保護されたんだ。そん時は物心なんかついてなかったから何にも分かんなくてさ。そんな俺をオニールが拾ってくれたんだ」
「あなたのお父上でしたか」
「義理のな。でも、本当の親として接してくれた。俺にとって両親はオニールとノルメアだけなんだ」
たとえ血のつながった親がノコノコ顔を出したところでどうでもいい。どんな理由があろうと、我が子を捨てた薄情な奴らにくれてやる時間は欠片もないのだから。
「色んな事があったよ。オニールは警備隊の教官でもあったから毎日顔を合わせててさ。たまにそれが恥ずかしくて授業をサボったりしたんだ」
「好ましい行いとは言えませんね。知識は世界がどうなろうと価値を失わない貴重な財産ですから」
「お前教本みてぇなこと言うな。けど考えてみろよ。授業中ずっと親と顔を合わせんだぜ? ましてや授業はつまんねぇしよぉ」
「だから怠けても構わないと? それとこれとは別でしょう」
「ああもう! 授業のことは良いんだよ! とにかく、両親とは楽しい思い出がたくさんあったってこと!」
授業の話題は確かに楽しい思い出ではないが、そこまで咎められるとは思わなかった。
若干の後悔を滲ませながら不貞腐れるイース。かといって他の思い出を話すと感情の発露が抑えられなくなってしまう。
現に今も、奥歯を噛みしめて涙を堪えているのだから。
「……もう、みんなに会えないのかな」
「魔物———特にフラグマーは人肉を好む食性です。よほどの幸運に恵まれていなければ、望みは薄いでしょうね」
「そっか……そうだよな」
———泣くな。遠く離れ、むざむざ生き延びたお前に、失ったものを悲しむ資格はない。
呪うなら己の力不足を呪え。そよ風に煽られて袖から覗いた包帯が、イースにそう告げる。
「そういえば、こちらをお渡しするのを忘れていましたね」
不意にユエルが体を向けた。その大柄な体のせいで見えなかったが、後ろに何かを持っていたらしく、イースに差し出してきた。
それは、アルレイで共に過ごした相棒だった。
「レイラ!」
半ばひったくるように愛剣を受け取る。若干のひび割れが生じているものの、刃の鋭さも像力機構も無事だ。
「良かった。お前も無事だったか」
「よほど大事な品のようですね」
「そりゃな。俺が訓練生になった時に貰ったんだ」
当時は重く両手で振るうのが限界だった長剣も、今やすっかり手に馴染んでくれた。
共に訓練を積んできた剣をイースはひっしと抱きしめ、背中に背負った。程よい重みが半身の帰還を実感させる。
「メストルホールと遭遇した廃教会に落ちていました。大事な品であれば肌身離さず持っておくことをお勧めします
「ははっ、そうだな。ありがとう」
今度ばかりは文句は出なかった。
と、感謝を口にしたイースはふと気付いた。彼女が
そもそもメストルホールに襲われた時でさえ命を顧みずに助けてくれた。あまつさえ手当てまでしてくれた上に見返りも求めずに。
(なんで赤の他人にそこまで……)
イースなら理由は単純だ。感謝の言葉や称賛の言葉が欲しい、ただそれだけの理由と呼ぶにも値しない欲求だけ。
だが、イースが受けた恩は『ありがとう』の一言で帳消しに出来るほど安くはない。それこそ同じぐらいの行いで返す以外には———。
「そっか。そうだったのか」
「どうしましたか?」
隣でユエルが小首を傾げた。しかしイースは答えず、ゆっくりと彼女の方へ首を回すのみ。
生きることを諦めかけていた。
生きる理由を見失いかけていた。
そんなもの、すでに目の前に転がっていたというのに。
「なあ、お前ってなんでこの辺うろついてんだ?」
「浮浪者のような言い方は止めてください。それにあなたには関係のないことです」
「冷てぇこと言わずに教えてくれよ」
「……依頼でとある品を探しているのです。それ以上は言えません」
「へぇ、それが聞けりゃ十分だ」
イースは欄干に腰を乗せた。それでもユエルと目線を合わせられず歯痒いが、さすがに細い鉄棒に乗るほど愚かではない。
『生きる』と決めたのだ。むざむざ死ぬような真似はしない。
「助けてくれた礼だ。お前の探し物を手伝ってやる」
「は?」
急に怖い顔をするユエルに、けれどイースも負けじと睨み返す。
「目星ぐらいは付いてんだろうが、この広い世界で物探しは大変だろ。ましてや一人でやろうなんて無謀だぜ」
「すでに場所は把握しています。ご心配なく」
「把握してたって実際に見つかるかは別問題だろ。つーか問題はそれだけじゃねぇ。一人で旅してちゃ困ったときに大変だろ? その点、二人で旅すりゃお互いに助けられる」
「余計なお世話です。一人で事足ります」
「けど二人でやりゃ早く済む。依頼内容がどんなかは知らねぇが、早く済ませりゃ済ますだけ良いだろ」
「猶予は十分にあります。あなたの手を借りるほどでは———」
「だーーっ! うっせぇ! 連れてけっつってんだから連れてけ!」
「……」
今度は呆れ顔。さすがの仏頂面もイースのわがままを前にしては形無しらしい。ちょっと出し抜いた気分がしてイースはほくそ笑む。
「お前がなんて言おうが知ったこっちゃねぇ。俺はお前の助けになりたい。じゃなきゃ、お前から貰った恩を返せねぇんだ」
「返していただかなくて結構です。打算であなたを助けたわけではないので」
「じゃあなんで危険を冒してまで来てくれたんだよ」
「理由なんてありませんよ」
とうとうユエルが顔を逸らした。
「ただ目の前で死なれては気分が悪いだけです」
「じゃあ俺だっていいよな? 恩返ししねぇとおちおち昼寝も出来ねぇ」
「……はい?」
「気が休まらねぇってことだよ。文句ねぇよなぁ? お前が自分勝手に人を助けたんだから、俺だって自分のためにお前に手を貸すってだけなんだしよぉ!」
晴れやかな気分だ。実に晴れやかな気分だ。
初めてかもしれない。自分の意志で、自分の人生を激変させる決断を下したのは。心臓の鼓動が耳元で聞こえて、息を吸う動作さえもどかしく感じて……全身の血が熱く煮え滾る。
そこに負の感情など一片もない。
「あなたは……本当に、いえ……はぁ」
もはや言葉に出来ずユエルは大きなため息を何発も吐く。多分イースの完璧な論理に付け入る隙が無くてもどかしいのだろう。
やがて疲れ切った顔を上げて、けれど口元をかすかに綻ばせた。
「分かりました。あなたに手を差し伸べた私にも責任はありますから、少しの間面倒を見てあげましょう」
「おい、人を負債みてぇに言うんじゃねえよ」
「どう考えても負債でしょう……。なんですか、おちおち昼寝も出来ないとは」
「ああ? 昼寝は大事だぞ」
「そういうことでは……はぁぁぁぁぁ」
特大のため息が出た。そんなに吐いていては運も逃げてしまいそうだ。
「とにかく、同行したいのでしたら勝手にどうぞ。ですが足を引っ張るようでしたらすぐに置いていきますからね」
「言ってろ。すぐに認めさせてやる」
「その自信はどこから来るのですか。まあいいです」
ユエルは手を差し出しながら言った。
「あなたの名前を聞きそびれていましたね」
「おっと、そうだったな」
イースは彼女の手を握りしめた。マメの浮いた手はイースよりも大きく、力強さに満ち溢れている。
イースだって負けてはいられない。より強く握り返しながら、
「俺はイースだ。よろしく頼むぜ」
「ユエル・エクスコートです。こちらこそよろしくお願いします」
互いに名乗ったイースとユエル。
己のために交わしたその手を、太陽が燦々と照らしていた。