夜もそこそこに更けた頃、静まり返った鎮守府の一室から乾燥機の動く音が聞こえている。
今頃は足柄が大淀から留守中の執務について色々と引き継いでいる頃だろうか。
「…あのねぇ、そろそろ泣き止んだらどうかな?」
別に初瀬に対して怒っているわけではない。
この男からしてみれば、方法はどうあれ気持ちのはやる部下に己の未熟さを痛感させようとしたのだ。
未だ止まらぬ涙は、自身の未熟さと自惚れに対する自己嫌悪が原因だ。
「まぁね…僕も悪いけど、君も運が悪かったねぇ」
あの後食堂で延々と食い下がる部下に対し、初瀬は遂に折れたのか初任務を与えた。
それは鎮守府近海の哨戒という、極めて地味で初歩的な任務だ。
心のどこかで物足りなさを感じながらも、初めて実戦が体験できるかもという喜びが勝った。
既に日が傾きかけてはいたものの、近海の哨戒だけなら夜までには帰ってこれる。
「ま、いいんじゃないかな…君の待ち望んだ実戦も体験できただろうし」
意気揚々と一人で出撃すると、正面の海域で早速駆逐イ級を発見した。
まだこちらには気づいていない様子だったので、先手必勝と仕掛けることにした。
思えばこの時点で鎮守府に向けて発見の報を飛ばしていれば、あんな醜態を晒さずに済んだのかもしれない。
だが既に敵艦を発見したことを不謹慎にも喜んでしまって頭の中は一杯である。
狙いも定まりきらぬうちに発艦させた爆撃機の攻撃は、僅かに逸れてしまった。
最新式のクロスボウ型射出機も、これでは宝の持ち腐れだ。
そこでようやくこちらに気が付いたイ級は、慌てたように背を向けて逃げ出した。
いや、逃げ出したように見えたのだ。
安っぽい正義感に駆られて後を追えば、みるみるうちに哨戒予定のコースを外れていく。
その事にも気づかず懸命に追いかけ、ようやくイ級を沈めた頃には時すでに遅し。
沈んでいくイ級のその向こう側には、軽巡級が従える深海凄艦の水雷戦隊が待ち受けていた。
どうやら斥候であったイ級は逃げたのではなく、仲間の元に合流しようとしていたのである。
嘆くべきは、初めての撃墜戦果に高揚して逃げようとする判断が遅れた事だろうか。
相手は多数だが、旗艦さえ潰してしまえばこちらのものだ。
そう考えて艦載機を発艦させたが、その攻撃は駆逐ハ級が庇う。
とりあえずは数を減らすことに成功したが、残った軽巡ホ級と駆逐ロ級が襲い掛かって来た。
向かってくる駆逐ロ級に対して慌てて艦載機を飛ばそうとするが、手が震えてうまくいかない。
もはや目前に迫る頃になってようやくトリガーを引くと、爆風と共に血と肉片が飛び散った。
その臭いに思わず顔をしかめ、こびりついた感触を手で拭う。
本能というか無意識というべきか、それを目で確認したのが拙かった。
腹の底から逆流してきたそれを抑えようと、咄嗟にその手で口を塞ごうとしたのも拙い。
努力の甲斐も虚しく抑えた手の指の間から吐しゃ物を噴き出しながら、やっと我に返る。
既に目の前には、襲い掛かってくるもう一体のロ級が視界を覆っていた。
自分が予想していたのよりも遥かに大きく、そして禍々しい。
大きく開かれたその口からは、砲塔が真っ直ぐにこちらを狙っているのがはっきりと見えた。
ようやく…そこでようやく恐怖を感じたが、逃げ出す事すら叶わない。
絶望感に膝をつき、下腹部から温かいものが漏れ出しているのを感じた。
次の瞬間訪れたのは痛みではなく…二度目の爆風と、またしても血と肉片の飛沫だった。
身体の約半分を失って痙攣している駆逐ロ級を見て、何事かとあたりを見回してみる。
誰も見当たらないが、向こう側で軽巡補給が同じように吹き飛ばされているのが見える。
何が起こっているのかはさっぱり分からなかったが、これで助かったのだと思った。
そしてそのまま、意識はそこで途切れてしまったのだ。
そして目が覚めてみれば、共同浴場の脱衣場にある長椅子に寝かされていたわけだ。
悪い夢かとも思ったが、場所も違えば来ている服も違う。
乾燥機の音に目をやれば、自分の身に着けていた服や下着がくるくると回っていた。
恥ずかしさと悔しさと、そこに情けなさが加わって涙が溢れてきたのだ。
隣で初瀬がいつもと変わらぬ捉えどころのない表情で座っているのも何か癪に思えた。
「…言っとくけど、別にやましい気持ちで着替えさせたわけじゃないからね?」
どこか的外れな言葉に、少しだけ気分が落ち着いた気がする。
確かにそれも重要だが、そんな事ではなくもっと重要な事で泣いているのだ。
「お礼ならあの子達に…おい、なんだいその目はぁ」
初瀬の視線を追うと、脱衣所の入り口で睨んでいる四人組の姿があった。
伊168に伊58、そして伊19と伊8である。
それぞれが好き放題に何やら喚いていて、何を言っているのか上手く聞き取れない。
僅かに聞き取れる言葉から察するに、どうやら初瀬にここから出ていけと言っているようだ。
見れば各自の手には着替えやらタオルやらがあるので、どうやら今から入浴するらしい。
なるほど、ならば初瀬がここに居ては困るだろう。
「まぁ、そう気にしなさんな…吐こうが漏らそうが誰だって最初はそんなもんさ」
そう言って立ち上がった初瀬を、例の四人組が取り囲んで殴る蹴るの暴行を加えている。
デリカシーに欠けるだの足が臭いだのと罵られながら、あっという間に脱衣所から放り出されてしまった。
どうやらあの時自分を助けたのは、この子達であるようだ。
どういうわけか分からないが、あの場に居合わせて敵を蹴散らした。
突然敵が吹き飛んだように見えたのも、酸素魚雷の性能のおかげだろう。
周りに誰も見当たらなかった理由も、これで辻褄が合う。
潜水艦の面子が次々と風呂場に向かう中で、何故か伊168だけが残っていた。
何やら手にしている端末を操作しているが、ゲームでもしているのだろう。
カラフルな電子音だけが響き、互いに無言のまま微妙な空気だけが漂う。
気まずい雰囲気の中そういえばと思って礼を述べたが、伊168の反応は実にそっけなかった。
命令で密かに同行していただけで、礼を言われるほどの事は無いのだと。
それっきりまたしても互いに無言のまま、時間だけが過ぎていった。
しばらくすると、一番先に伊8が風呂から上がって来た。
すると入れ替わるようにして伊168が服を脱ぎはじめ、風呂へと消えていく。
そこでようやく気付くと、伊8が付け加えるように話しかけてきた。
そっけない態度だったかもしれないが、実は彼女が一番心配していたそうだ。
自分があの時イ級を追いかけはじめた時も、真っ先に後を追ってきたらしい。
ああ見えて一番優しいのだと、伊8が笑っている。
次に風呂場から姿を現したのは伊58だった。
出てくるなり、あの敵の旗艦だったホ級を仕留めたのは自分の魚雷だと自慢し始める。
素直に素晴らしい腕前だったと褒めると、とても嬉しそうな笑顔を見せてくる。
それに引き換え自分ときたら…そう思っていると、伊58は今度はこちらを褒めはじめた。
身振り手振りを交えて、どうやらクロスボウ型の射出機構を気に入ってくれているようだ。
いつの間にか伊8の姿は無く、どうやら自室に戻ったのだろう。
しばらくすると、伊168の怒号と共に伊19が風呂場から出てきた。
伊168が喚いている内容から察するに、色々とセクハラまがいなちょっかいをかけたようだ。
それにしても、羨ましくなるほどの見事なスタイルである。
こちらの視線に気づいたのか、胸を張りながら猥談じみた事を話し始めた。
やれ男を虜にするには量より質だの、最近初瀬の視線がいやらしいなど…随分と自由人なようだ。
できる事なら是非ともそのスタイルの秘訣を…いや、何を考えているのだ自分は。
伊58と伊19が談笑しながら脱衣所を去ると、しばらくして伊168が出てきた。
顔を見るなりまだいたのと言われてしまったが、付け加えて随分と気が楽になったかと聞かれた。
改めて礼を述べると、礼なら他の子達に言ってくれと返されてしまった。
少し変わってはいるが、皆優しいのだと…どこか誇らしげである。
そのまままた互いに無言のままだったが、去り際に服を返すのはいつでもいいからと言われた。
どうやら着替えさせられたこの服は伊168の物であったようだ。
程なくして、乾燥機から電子音が鳴り響いた。
「…ほんと君は真面目だねぇ、何なら爪の垢でも分けてくれないかな」
謝罪と感謝の意を伝えに執務室に訪れると、既に初瀬は帰り支度をしているところだった。
鎮守府内にも初瀬が寝泊まりする部屋はあるのだが、一度も利用した事は無いらしい。
「変な子ばっかでしょ、あの子達」
優しい人ばかりだと訂正する。
謝罪を受け止めるでもなく感謝を誇るでもなく、彼女たちを変だと初瀬は言う。
「まああれでもうちの生命線だからねぇ…よくやってると思うよ」
そう言うと、初瀬はポケットから煙草を取り出して火を点ける。
「…で、どうだった?」
何を聞かれているのかは容易に想像がつく。
己の未熟さを痛感し、多大な迷惑を掛けてしまった事を謝罪すると深々と頭を下げる。
いかなる処分も受ける覚悟だと付け加えてだ。
「何でもする…? ほんとにぃ?」
意地悪そうな言葉に、頭の中を不埒な想像がよぎる。
先程伊19が話していた内容を思い出して、僅かに顔が熱くなるのを感じた。
まさかとは思うが…いや、言ってしまったものは仕方がない。
「いやぁ…人をからかうってのは面白いね、冗談だよ冗談」
からかわれたと気付いて顔をあげると、初瀬がにやにやと笑っていた。
「いやね、そんな難しい事じゃなくってさ…怖かったか怖くなかったを聞いてるんだよ」
怖かったと素直に応えると、気のせいか初瀬の頬が緩んだように見える。
「まぁ上出来だねぇ…それが当たり前だよ」
煙草の灰を灰皿に落とすと、昔話をと初瀬は切り出した。
「むかぁしむかし、あるところにとても勝ち気な艦娘がいました。
まあ、元気なのは結構なんだけどね…実力が伴っていないというか、ね。
別に君の事じゃないさ…まあ君よりも才能の点においては酷かったかな。
で、彼女は初出撃で啖呵をきって突撃したが…君と同じだね。
うん、まあ結果も同じく盛大に漏らしたわけだ。
その彼女も今となっては立派に…うーん、立派…だよなあ?」
ぽりぽりと頭を掻きながら、どうやらその様子から察するにこの鎮守府にいる誰かの事らしい。
「誰か分かるかい? 実は天龍だよ」
意外な名前に驚いてしまった。
天龍の普段の立ち振る舞いからすれば、そんな過去があるとは思えなかったからだ。
「あいつはああ見えて怖がりでね、見た目に反して慎重で頭脳派なんだよなぁ」
確かに駆逐艦の子達を束ねている手腕は目を見張るものがある。
色々と工夫を凝らし、遠征任務の道中で敵艦と遭遇してもほぼ無傷のまま帰ってくるのだ。
そう言えばあのミーティングで第六駆逐隊を派遣する事に異を唱えたのも、その性格ゆえか。
「怖い事をちゃんと知っているからこそ、束ねたり教えたりできるってもんだよ」
ふーっと煙を吐き出すと、今度はとさらに切り出した。
「じゃあ次は初出撃でゲロを吐いた子、だ~れだ?」
分かるはずもない問いに答えあぐねていると、初瀬が頭の上で指をぐるぐると回している。
もしやと思いその名を口にしてみると、初瀬はにやりと口の端を吊り上げた。
「ご名答…龍田は未だにグロテスクなのが苦手でね…ああ、これオフレコね」
初瀬が言うには、龍田はそれが苦手なせいで未だに出撃任務を嫌がるのだそうだ。
普段見せるどこか落ち着いた雰囲気からは想像もつかない。
言われてみれば龍田はいつも鎮守府内で執務の補佐や雑用をしている気がする。
ああでも、あの公用車を運転していた時の様子を思い出せば…意外と気が弱そうでもある。
「とにかくね…別に未熟だとか怖いだとかにとやかく言うつもりはないよ」
煙草の火をもみ消すと、初瀬は壁にかけてある外套を羽織った。
どうやらもう帰るつもりらしい。
「それぞれ自分にできる事をやりゃいいのさ、君は戦いに向いてない…少なくとも今はね」
部屋を出ると、執務室の扉に鍵を掛けて歩き出す初瀬の後ろをついて歩く。
「お、帰りの見送りだなんていつ以来だろうねぇ」
そんな事を言う初瀬の口調は、ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえる。
鎮守府の正門まで来ると、初瀬は愛用の自転車に跨って振り返った。
「まあ、今回は我慢しなさいな…出来る事だけやればいいし、それに…」
やりたい奴にやらせておけと続けると、満足そうに頷いた。
「なんだ、君も随分と物わかりが良くなったじゃないの」
やりたい事をやる権利は、それを達成できるものに許された特権なのだ。
もう一度だけ頭を深々と下げると、労いと別れの言葉を掛けた。
ひらひらと手を振りながら自転車を漕いでいく初瀬の背中が次第に小さくなっていく。
「あ、そうそう」
思い出したような初瀬の声が聞こえた。
「小さくってもブラは必要だと、おじさんは思うんだよねぇ」
全身の血液が逆流するような錯覚を思えながら、あれは正式な装備がそうなのだと抗議する。
「ああ、そう…じゃあせめて下はもうちょっと色気があると嬉しいね」
とんでもない事を大声で垂れ流しにしながら、初瀬は帰り道の闇に消えていった。
やり場のない怒りと恥ずかしさについ殴りつけてしまう。
犠牲となった正門の煉瓦に亀裂が走り、割れたレンガが音を立てて落ちた。
本当にこの男はどうにもよく分からない。