毒沼が広がる影響で草や木が育たないこの過酷な環境、吹く風はその毒気をはらみ、一息でも吸えば気分が滅入ってくるこの大気。
空気も土も水も汚染され、人里から隔離されたこの沼地は、貴重な鉱石が採掘できる洞窟があり、薬にもなる茸類が豊富なため、危険と知りつつ訪れる者も少なくない。
だがそれらの人々にとって、実際のところ毒沼はそれほど脅威の対象にはならない。
この沼地の本当の脅威は、他にあるのだ。
ざぁざぁとしのつく雨だれを【ソレ】はぶるり、と一度体を震わせて振り払う。
刹那、ギィン、ギィンと頭頂部の堅い兜を打ち鳴らし、必殺の閃光を放つ動きを見せた。
「ちッ」
頭を壊すのを優先する打ち合わせを丸っと無視した相棒に舌打ちし、彼は幅広の諸刃大剣を盾にするように構える。
気持ちよく寝ていたところを邪魔されて怒り狂っている毒怪鳥のやっかいなデバフ攻撃に備えた。
瞬間、あたりを眩い閃光が走りぬけ、剣の影でかばったはずの視界が真っ白に染まった。
「つぁ……」
【毒怪鳥ゲリョス】の地響きを立てる足音と勝ち誇った様な息使いが近づいてくる。
「ちくしょう、が」
眼がくらみ方向が定まらないが、あたりをつけて剣を振り下ろした。
切っ先ががつりとヤツの体を掠め、方向判断が間違ってはいなかったことを伝えてくれたが、余りにも浅い打ち込みなのもまた事実だ。
目がくらんでなければこんな無様な剣筋を晒すことは無い経験値の高い剣士なのだが。
と誰にともなく負け惜しみをこぼす彼。
ざくり、と泥濘にはまり込んだ愛剣を引き抜こうと両の腕に力を込めたとき、彼は背中に物凄い衝撃を感じて地面に叩きつけられた。
「ぐっ、てめぇ!」
どうにか泥から顔だけを引き離し、彼は衝撃のモトを大声で非難する。
今のダメージはどう考えても毒怪鳥ゲリョスからの攻撃ではない。
彼の背にはあからさまに踏まれた感覚が残っていた。
ソイツは、ゲリョスの眼くらましで周りがろくすっぽ見えていない状態の彼の背中を、こともあろうか踏み台にしたのだ。
「いてぇだろうが!なにすんだ!」
陳腐な罵声を聞き流し、ソイツはゲリョスの嘴に得物を叩きつける。
金属が塊に食い込む鈍い音が小さく聞こえ、毒怪鳥の自慢の頭殻に緑翠の刃が突き刺さる。
「ふっ」
一息を一気に吐き出し、ソイツは更に上へと舞う。
「ヴァン!合わせて!」
上空から降る声は、他人の背中を踏んで跳んだことなどまったく悪びれていない。
「わ、かって、らぁ!」
どうにか立ち上がり、ヴァンと呼ばれた彼は渾身のチカラを込めて、まだ泥に塗れている【タツジンブレイド】を振り上げた。
そのギラつく凶刃は主人の腕と一体化したかのようにゲリョスの脚を的確に跳ね上げる。
スタミナも多く、健脚を誇る毒怪鳥はいかにその強靭な脚力を持つとはいえ、ヴァンの八つ当たりな一撃を堪えることは適わずにその場に崩れ落ちた。
「うら!どうだ!」
先ほどの眼くらましの礼だ、と言わんばかりのガッツポーズが出る。
ゲリョスは脚をジタつかせ、必死に起き上がろうとしている。
沼地の主であるこの毒怪鳥は自らに迫る、身の危険を敏感に感じ取っていた。
その瞬きする程の後、上空からまさしく降ってきた人影が構えていた真紅の刃によってゲリョス御自慢の発火石は粉微塵になって跡形もなくなっていた。
頭殻を破壊された痛みとプライドを打ち砕かれた痛みでもだえ続ける毒怪鳥を尻目に、自分の攻撃の余波で弾かれた夫婦剣の片割れを拾う少女。
「部位破壊成功。やったね♪」
Vサインとともに能天気にのたまう彼女の胸座をつかみ、ヴァンは声を荒げた。
「やったね♪……じゃねぇ!ルルッ!お前、俺の背中を何だと思ってるンだ!え?オイ!」
踏みつけられた背中がよほど痛かったのだろうか、彼の語調はかなり荒い。
「え?何って、背中だしょーよ?……踏み台にしやすそうな、背中」
しれっと答える彼女に、ヴァンの怒りゲージは最高潮に達する。
「ルルリアっ!てめぇ、今日という今日は許さん。説教だ!そこ座れ」
そう言って彼は毒沼をビシと指差す。
愛剣を地面に打ちたて、仁王立ちの構えで一歩も引かない態度。
だが、コポコポと泡をふく、いかにも体に悪そうな水辺を横目で一瞥し、ルルリアと呼ばれた少女は一言。
「汚いからヤだ」
そしてヴァンに背中を向けて夫婦火竜の素材で作られた双剣に砥石を当て始めた。
「おおぅ、いい度胸だなお前、泣くまでお尻ぺんぺんだぞ?」
こめかみに青筋を浮かべ、鬼の形相で大剣を引き抜く彼の後ろで、体勢を立て直し、これまた物凄い怒気をあらわにしたゲリョスが地団駄を踏んでいた。
「だからイヤだってば。それよりヴァリオン、そろそろ頃合」
刃立ての具合を真剣な眼差しで確認しながらルルリアはさらりと話題を切り返す。
砥石をポーチにしまいこんで、すっくと立ち上がる彼女の視線の先には、昼寝を邪魔された上にて散々痛めつけられたあげく、今しがた誇示した怒髪の挑発も無視された沼地の主がイライラと攻撃態勢に入っていた。
怒りに満ちたゲリョスの呼気は、周囲の毒気と混じりあい一種独特なニオイを放ち、その眼光は、自分の体を遠慮なしに傷つけてくれた二匹の人間に向けられ、視線だけでその命を奪うことが出来そうな鋭さを帯びていた。
「……ち。しょうがない。説教は後だ」
タツジンブレイドを正眼に構え、ヴァリオンは二度、深呼吸をする。
相棒が冷静さを取り戻したのを背中で感じ、ルルリアは【双剣リュウノツガイ】を力任せに打ち鳴らした。
周囲の空気すら切り裂いたかに思える甲高い金属音が響いたのを聞き、ゲリョスは一瞬、逃亡を考えた。
だが、彼は怒りの感情を優先させ、その口腔から長年体内に蓄積してきた毒液を吐き散らしながら鬱憤を晴らすことに決めた。
手始めに、小さい方に噛み付こうと狙いを定めた……はずだったが、気付くとなぜか眼の前には大きい方が、あのもの凄く痛い鉄板を振り上げて立っていたのだった。
「ぬぅん!」
振り上げた勢いを殺さずに、体を全回転させ、ヴァリオンは突っ込んでくるゲリョスの横っ面を剣の腹で殴りつける。
毒怪鳥の巨体がぐらりと揺らぎ、狂った突進が押しとどめられる。
チカチカと脳内に危険信号が駆け巡っているのを、ゲリョスは感じ取っていた。
おぼつかない、自分の足に言うことを聞かせようと足元に目をやると、そこには燃える二本の剣を構えたあの、自分の頭を壊した小さい方の人間が既に入り込んでいた。
「はぁああッ!!」
ルルリアは肺に溜め込んだ酸素を全て使い切ることを惜しまずにゲリョスの足元で夫婦剣を振るった。
遠慮無く肉を切り刻む音に合わせて、その刻まれた生肉が焦げ付くニオイが周囲に立ち込める。
刃を形成する火竜の鱗から発せられる豪炎は、毒怪鳥のしなやかなゴム質の皮を舐めつくし、防御力を容赦なく奪う。
ルルの素肌から汗が飛び散り、小柄な体をめいっぱい動かし、彼女は非情な剣舞を続ける。
盾蟹の赤い鎧がゲリョスの血液を浴びて更に赤く濃く染まってゆくのも意に介さず、ルルリアは休まずに毒怪鳥を追い込む。
脚部を襲う鋭い痛みと熱さにたたらを踏む毒怪鳥。
そこにヴァリオンの大剣タツジンブレイドの鋭い切先がゲリョスの首筋を切りつけ、生々しい厭な音を立て毒怪鳥の意識をその神経やら骨やらと一緒に断ち切った。
モンスター達の計り知れない強大な力に怯える人々に罪は無い。
それらの弱い者たちを守るチカラを持つ者たちがいる。
毒沼地にその主の断末の咆哮が響き渡り、その後、沼はいつもの静寂を取り戻した。
地響きを立ててゲリョスは地面に倒れ事切れた。
こんなことなら、彼は先の直感に従って逃げておくのが正解だったのだろう。
だが、それも無理な話だ。
彼は【モンスターハンター】というとても人族の中でも一際恐ろしい連中に目をつけられてしまったのだから。