……ここ、は……。
ぼんやりとした視界に入る木目の天上。
背に触れるさりさりした肌触り。
鼻にとどく消毒薬の匂い。
咽の奥がカラカラだ。
首が石になってしまったかのように動かない。
自身が暖めた温もりを避け、シーツの新鮮な冷たさを求め動かしたはずの右腕の気配が、無い。
次第に鮮明になる記憶。
そうか。
とりあえず、俺は……生きているのか。
あのまま逝ってた方が良かった、かもしれないな。
こんな、生き恥を……晒すくらいなら。
くっと奥歯がきしむ。
自らの犯した失敗。
取り返すことの叶わない、過ぎ去った失敗。
代償は自分の右腕だけではない、これから始まるであろう、任務失敗に対しての罰があるはずだ。
あの方は、見逃しはしない。
俺はいい、できればアイツだけは見逃してもらえないだろうか……。
「そんな、甘くない、よな」
病院のやや固めのベッドの上で、風牙は千々に切れた記憶を紡ぎ、その結果らしくない溜息をついた。
うっすらと覚えている。
あの時、弾けると同時に結合した物凄い力を。
かろうじて開けた左目が捕らえた、眩いばかりの【愚者武装】の光。
【我々の世界】(フロンティア)を脅かす、破壊の赤光。
「風、さま」
黒い絶望の螺旋に囚われそうになり風牙を、すこし寂しげな声が引き戻す。
先ほどから感じていた、左手から広がる柔らかな温もりはこいつの意識だったのか。
「ああ、いたのか」
濃い紫陽花色の瞳が揺れている。
「当然、ですわ」
ぎゅっと握られる手のひら。
「そうかい」
その込められた力を、心地よいと思う。
「そうですわ」
なんだ、酷い顔してるな。
ハナミズくらい拭けよ。
「……すまん」
せっかくキレイな顔してるんだからさ。
「謝るのは私の方、です」
どうせだったら、笑ってくれよ。
眼が覚めたパートナーに突っ伏し、いままで必死に堪えていた感情を爆発させる荊琴。
厚手のタオルケット一枚隔てた彼の胸板に顔を押し当て、声をあげて泣きじゃくる彼女を風牙の瞳が優しく映す。
荊琴のこぼす大粒の涙はとめどなく流れ、真っ白なタオル生地の色を濃く染める。
これまでこいつがこんなに感情を表した事があっただろうか。
変わりつつあったのは、自分だけじゃなかった、ということなんだろう。
掛けられたタオルケットを握りしめ、くしゃくしゃにしながら自分にしがみつくパートナーの頭を残った左手でよしよしと撫でる。
荊琴のエメラルドグリーンの髪がさらさらと動き、彼のささやかな接触を受け入れた。
ひとしきり泣いて落ち着いてきた彼女の涙を指で拭きとりながら「泣き虫やなぁ」とにんまりする風牙に、さっと頬を染めた荊琴の瞳がやや照れる。
上気した顔をぷい、とそらした彼女に柔らかな微笑を向けながら彼は思った。
今は、この瞬間は、生きている事を。
喜んでも、いいのだろう。
王都の総合病院の一室。
真っ白に塗られた壁に囲まれた部屋。
薄手のカーテンのみが個人を分ける四人部屋。
だが入院患者は風牙ただひとり。
開け放された出入り口のすぐ脇の壁に、小柄な人影が背を預けている。
彼女自身にもいたるところに包帯や絆創膏がみられ、治療中の患者だとすぐにわかる。
風牙が目覚めた。
二人の聞き取れない会話。
荊琴の甘えたような涙声。
だけどルルリアは部屋にはいらない。
いや、入れない。
風牙は命の恩人だ。
いくら感謝しても足りないだろう、と分かっている。
だが、自分が助かった代わりに、彼は腕を失った。
その腕と同時に、彼のハンターとしての命も奪ってしまった。
どんな言葉で感謝を述べても、彼の腕は返らないのだ。
それに、今は荊琴がいる。
この病室には、彼のベッド脇には、荊琴がいる。
「……会えない、よ」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、ルルリアはそっと壁から背を離した。
姉と慕った人の恋人の体に、取り返しがつかない傷をつけた。
それが荊琴にとってどれだけ無念な事か。
ルルリアは荊琴にこれ以上、嫌われたくなかった。
あの人からの冷たい言葉は、もう聞きたくなかった。
二人の声のトーンだけが出てくるドアをちらと振り返ってルルは足早に風牙達の居る病室から去った。
こつ、こつ。
正面から来る医師が立てる靴音が響く廊下。
ルルリアはきゅっと唇を噛み締めて、逃げるように医師の脇をすり抜ける。
彼女は何かに追われるように階段室に飛び込み去っていった。
ルルリアの残した気配を振り返る長身の医師。
清潔な白衣に細い楕円の銀眼鏡。
通った鼻筋に薄い唇。
腰まで届くグレイのロングヘア。
ルルの去った空間を切りつけるような視線で睨みつけたあと、彼は風牙の病室に入った。
「お目覚め、ですかな?」
不意に聞こえた他人の声に、風牙と荊琴が緊張する。
この声は、まさか。
この気配は、まさか。
まさか『あの方』がここに居るわけが…。
「る、ルギナゼラス、様」
風牙の目が、荊琴越しにその長身を捉える。
彼の口から出た名前に弾かれるように荊琴が向き直って白衣を着た長身の男に膝をついてへりくだった。
風牙も間を開けず、ベッドから飛び下りて荊琴に並び同じく膝をつきその頭を垂れる。
「ああ、良い、良い。寝ていろ」
「怪我人、なんだろう?」と続けた【ルギナゼラス】と呼ばれた男。
だがその口調は風牙の身を案じている風では無い。
ただの形式。
ただ言っただけでその後実際に促したりはしない。
それどころか風牙と荊琴に膝をつかせたまま、どさりと隣のベッドに腰を下ろして二人を睨みつけた。
ジリジリとした凍て付く視線が顔を伏せた二人を苛む。
そのまま無言の時が続く。
病室と廊下を隔てたドアは内の気配を、異常な緊張を廊下に漏らすまいといつのまにか固く閉ざされていた。
そのままどれくらいの時がたったのだろうか。
ほんの数分だったのかもしれないが、風牙と荊琴には永遠に続くかに思えるほど長く時が凍っていた。
「使えないヤツらだな」
ルギナゼラスは吐き捨てるように言う。
インテリなメガネを外し、彼はその金色の三白眼を直接二人の部下に向けた。
氷よりも冷たい言葉に震える荊琴。
俯いた風牙の前の床にぺっ、とつばが吐かれた。
「レィラよ。どうするつもりだ?【贄】は確保出来ず【愚者】も目覚めた」
レィラと呼ばれた風牙は顔を上げる事すら出来ない。
何を弁解しても、結局この人は自分たちを許しはしない。
ならばせめて、自分達以外の選定者が介入することだけは避けなければならない。
「ゼラス様ッ!」
風牙が言葉を発するより早く、荊琴が顔を上げて決意じみた表情を見下ろしている男に向ける。
その瞳にはやや涙が溜まり、自ら知るこの容赦のない存在に意見する恐怖に打ち震えながら彼女は言葉を続けた。
「……なんだ?アユゥ。言ってみろ」
金色の視線が自身を射抜く。
アレは他者を生き物扱いしていない瞳。
モノかなにかを見下ろすような感情のない目。
だけど、この方なら、少なくともこの結果だけは元に戻せる力があるはず。
「どうか、お願い致します……風牙の腕を、元に戻して下さい……失敗は全て私が責を負います。ですから是非!風さまの腕を……わたしの命に引き換えてもッ」
「琴ッ!よせっ!いいんだ、このままで。ルギナゼラス様、叱責はどうか自分にだけお願い致します!荊琴は、アユゥだけはお目こぼし願いたくッ!」
荊琴が取り出した風牙の右腕。
それを残った左腕で掴み、風牙は打ち捨てようとする。
だが、荊琴は風牙の右腕を胸に抱き、離さない。
ぼろぼろと零れる涙が硬直した拳にぱたりぱたりと落ち、その乾いた肌を湿らせた。
風牙は荊琴の言葉を熱く感じるも、それ以上に自分の中に渦巻く彼女を守護する思いが口をつく。
解っている。
理解している。
二人の思いはどちらもこの方には届かない。
そう、届くはず、無いのだ。
「ふ、ふふ。くくっ……。は、っはは!……お前たち正気か?……くくっ、あははははっ!」
ルギナゼラスは心底可笑しそうに哂う、ワラう。
無遠慮に、大口を開けて。
互いを気遣う二人を心の底から嘲笑う。
その哂い声は窓ガラスをビリビリと震わせ、ドア向こうの廊下を通り、静寂が支配する病院を俄かに目覚めさせた。
だが、それは、不快な目覚め。
労わりや慰めと対極にある嘲笑。
人々が耳にしたそのあざけりは病んだその体を、心をさらに打ちのめした。
「……痴れ者が。下らん情など覚えたか。まぁ、良い。あの小娘を我が前に差し出せ。それまではその命、有る事を許可してやる」
ひとしきりワラったルギナゼラスは、二人に目を向けることすらせずそう言い放つと病室を後にする。
つい今しがたまでルギナゼラスの嘲笑で満たされていた廊下にかつかつと響くカウントダウンのような靴音。
病室のリノリウムの床に座り込んだまま、風牙と荊琴は顔を上げる事すら出来なかった。
翌日、看護士がカーテンを開けるとベッドに風牙の姿は無く、かわりにその切断された右腕だけがベッド脇に転がっていた。
ルルリアがその事実を知るのは、もう少し先の事になるのだった。