翌日、いつものように星見寮の物置小屋で目覚めた俺は、今日出迎えの予定がある芽衣と遙子さんのために星見寮に訪れていた。
星見寮は相変わらず綺麗だ。沙季がしっかり目を光らせているのだろう。ただ、やり過ぎないようにはちゃんと伝えたし、全員で取り組めは話し合ってもらった。前みたいにすずが限界を迎えることはないと思う。
そう思っていたんだけど。
「ま、牧野! 大変ですの! さ、沙季が!」
「もしかしてまた厳しすぎる制度を……」
「違いますわ! とにかく来てくださいまし!」
すずに手を引かれ、リビングへと連れていかれる。リビングの扉を開くと。
「うっ!」
「うぐぁ!」
魚が腐ったような強烈な刺激臭に、思わずえずく。隣にいたすずは、耐えきれなかったようでどこかへ駆け込んでいった。
「あ、牧野さん。おはようございます」
「……おはよう。この匂いは」
「今日お二人入寮とのことなので、せっかくですし私の好物でも渡そうかなと思いまして」
沙季が、朝一で買ってきました! と自信満々に指差した先には、黄金色をした魚の開きが八枚あった。俺の分も含めて全員分用意してくれているのだろう。
ありがたいけど、全然ありがたくない。
「沙季? くさやはその、匂いが、あってだな」
「そうですね。独特な匂いだと思います」
「うん……だからその、初対面の相手にはちょっとな」
「栄養価も高くて美味しいですよ?」
「その……アレルギー! アレルギーとかもあるかもしれないじゃないか!」
「はっ!」
沙季は忘れていましたと言わんばかりに目を開く。よかった。なんとか説得できそうだ。
「アレルギーが無いか聞いた後に渡すべきですね!」
「違う、違うんだ沙季」
何が違うんでしょうと、沙季はぽかんとした表情を見せる。どうにか説得できるものがないかと周りを見渡していると、こっそりこちらを覗いていた雫と目が合った。
頑張れ、応援している。そんな思いが籠もったグッドサインを送ってきた。応援してないで助けてほしい。
ピンポーン
「あ、来たみたいですね!」
「そうだな……」
ひとまず挨拶が優先だ。あんまりやりたくはないけど、最悪無理やりにでも止めよう。
手に持っていたバッグを置き、俺と沙季は玄関へと向かう。他のみんなも出迎えてくれるようで、玄関に集まっていた。さっきまでいたすずはなぜか不在だったけど。
「はーい」
とりあえず俺が代表して寮の扉を開く。朝日が差したその先には、セーラー服を着た黒髪の女性の姿があった。
「あぁ……」
思わず声が漏れた。そうだった。遙子さんって初対面の時にこうやるんだった。
「お、おはようございまーす。佐伯遙子、じゅうななさいです!」
「「「「……」」」」
静寂が過ぎる。何やってんだこの人、という言葉が聞こえてくるようだった。
「え、えっと……じゅうななさいです!」
腰をくねらせ、頬に手を当ててる姿は可愛らしいとは思うが、如何せんポージングが古いのと、見た目のギャップもあって、その独特な印象を……いや正直言おう痛々しい。
「えっと」
「事務の人?」
「違うわよ! れっきとした星見プロのアイドルです!」
「ん、私も知ってる。麻奈さんより、先輩のアイドル」
今の遙子さんなら調べなくても雫の頭に入っていたらしい。遙子さんも少し照れたような様子を見せている。
「麻奈さんより先輩で十七歳ということは、最低でも一三歳からアイドルになっていた、ということですね」
「十三歳! すごいね……」
「あ、その、えーと……」
「年齢は、二十歳だったはず」
いつ明かそうな悩んでいた様子の遙子さんが雫の言葉に撃沈した。バレバレな嘘をつくからそうなるんですよ。
「え、ではなぜセーラー服を着ているのでしょうか? もしかして事情があって」
「お姉ちゃん止めようね」
更なる追撃を仕掛けようとしていた沙季を千紗が止める。察してくれてありがとう千紗。
「ともかく、佐伯さんが入寮する予定の一人目ということですよね? 一ノ瀬怜と言います。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね。後、気軽に遙子ちゃんって呼んでくれると嬉しいなぁ」
「遙子さんですね」
「ちゃん……」
それから一人ずつ挨拶をしていったが、ちゃん付けは流行らなかったようだ。
「それじゃ、早速……」
「わぁ! 大きな家だー!」
遙子さんを寮に案内しようとして、声が響く。振り向いた先には長い茶髪をハーフアップに結った赤い目の少女がいた。というか、芽衣だな。
「もしかしてあちらの方が」
「あぁもう一人の入寮者だ」
「なるほど。タイミングもばっちりですね」
「あっ! 牧野さんだ! おっはよー!」
「おはよう、芽衣」
駆け足で駆け寄ってきた芽衣と挨拶を交わす。なぜか手を挙げてきたからその流れでハイタッチも交わした。
「もしかしてここにいる人たちって……」
「あぁ寮のメンバーだ」
「おー。私、早坂芽衣って言うの! よろしくねー!」
芽衣は持ち前の無邪気さで一人一人声を掛けていく。以前もそうだったし、仕事とかでもそうだったが、芽衣は人と距離を詰めるのが本当に上手だ。さすがだよ。
「あ、実はね。お土産にドーナツ持ってきたんだ! みんなで後で食べよう!」
「いいですね! 実は私からもお渡しするものがありまして」
「待った。寮の案内が先だからな」
「……そうですね。じゃあドーナツも私からの贈り物もその後でにしましょう」
全く油断も隙もない。くさやが悪いというわけじゃないんだけど、初対面でそれを出されると何となく沙季のイメージが悪くなってしまうことが懸念だった。遙子さんも、芽衣もそんな子じゃないことは分かってはいるんだけど、初対面だから印象には気をつけたくなる。
とはいえ、だ。くさやは今リビングに鎮座している状態。扉で密封されているからその匂いが漏れはしないものの、いずれはその場所に案内する必要がある。だとすれば、案内する前にそのくさやをどうにかする必要があるな。
どうしようか悩んでいると、視界の隅に小さな影が映り込んだ。それを見てあるアイデアが思い浮かんだ。
「すまない。ちょっと用事思い出したから少しだけ待ってもらっていいか?」
「お仕事ですか? お忙しいなら私達で案内は済ませておきますが」
「いや、大丈夫だ。すぐに戻る」
口早にそう告げ、俺は急いで寮へと戻る。そして今まさに寮から出ようとしていたすずをなんとか押し留めた。
「すず、すまない。頼みがある!」
「え、ど、どうしましたの? そんなに焦って」
「リビングのくさやを一旦みんなの目が届かない場所に移動させてくれないか?」
「え」
すずは一言呟き、表情が固まった。それだけ嫌なのだろう。気持ちはわかる。
「……すず、このままだと、俺たちはあのくさやを食べる必要が出てくる。一人一つだ」
「う、うぅ」
「しかもだ。今ならドーナツもついてくる。くさやと一緒にあるドーナツ。すずは食べたいか?」
「で、ですが……」
「言いたいことはわかる。沙季に失礼だよな。でも今だけは勘弁してほしいんだ。新メンバーの遙子さんも、芽衣も、今日来たばかりなんだ」
「……わかりましたわ。ちゃんと事情を考えてのことですのね」
俺の目を見て、すずは覚悟を決めたように一つ頷いた。
「すず、任せた。ついでにリビングの換気もお願いできるか?」
「わかりましたわ。ですが、牧野。後でちゃんと沙季に説明はすることですわ」
「あぁ。わかった」
それからすずは意を決して、リビングへと飛び込んでいった。ううううう、という唸りが聞こえるがなんとか頑張ってくれているみたいだ。ごめんすず。ありがとう。すずの勇気は忘れないよ。
心の中で感謝しつつ、俺も急いで入り口へと戻った。
「ごめん、今戻った。さ、寮を案内しよう」
「はい。そういえば、すずちゃんはどこにいっているのでしょうか。お二方との挨拶もまだですし……」
「あ、す、すずは、今仕事でアンケートを書いてもらっていたんだ。そんな時間かかるものじゃないから、すぐに戻ってこれるはずだよ」
「そうだったんですね。じゃあ行きましょうか」
そっと胸をなでおろしながら、二人を寮を案内していく。リビングは避けるように、他の部分から優先して案内していった。
「とりあえず、説明はこれくらいかな。みんなからは何かあるか?」
「リビングの案内を忘れていますよ」
「あぁ……」
他の場所を案内して、それなりに時間は稼げたはずだ。だけど、換気の時間を考えるともう少し時間は稼いでおきたい。
「そ、そういえば千紗。昨日は夜まで電気がついていたが何をしていたんだ?」
「え? 昨日はホラー映画を見ていて……」
「そ、そうだったのか」
「千紗ちゃんは、ホラー映画が、好き。私も、初めて見せられたときは、驚いた」
「へぇ、そうなんだ。私はホラー映画はそこまで得意じゃないかなぁ」
雫が横目に任せてと言わんばかりに目配せを送ってくる。そうか、雫もリビングにくさやが置かれていたことは知っているか。
「私は、アイドルが、好き。ライブにもよく行ってる。……遙子さんと芽衣ちゃんは、何が好き?」
「私もアイドルは好きよ。後はソロキャンプとか、登山とかも結構するかなぁ」
「芽衣はね、ドーナツ! 後は怜ちゃんのダンス!」
「あれ、芽衣ちゃんと怜ちゃんって、知り合い?」
「……あぁ、どこかで見たことがあるって思っていたけど、バイト先や家で踊っていた時にずっと見ていた子だったのね」
「そうだよー! 怜ちゃんのダンスすっごくカッコいいんだよ! ってみんな知っているかー」
よし、良い感じだ。その調子で、話題を膨らませていけば。
「こほん、牧野さん、今は案内が優先じゃないでしょうか? お喋りはその後、すずちゃんも集まったみんなでやりましょう」
「……そうだな。その通りだ」
雫も沙季の言葉にしゅんとしていた。ごめん雫、でもおかげで時間は稼げた。ありがとう。
「じゃあ、最後にここがリビングだ」
若干の不安を抱えながらリビングの扉を開ける。だけど、そこにあったくさやは綺麗さっぱりなくなっており、匂いもどこかへ飛んで行っているようだった。
「ありがとう、すず……」
「あれ、リビングに置いていたはずですが……」
沙季がリビングをきょろきょろしている間に、リビングの備品を軽く紹介しておく。すずがどこにくさやを隠したのかわからないし、あまりここに長居したくはない。
「よし、今度こそ説明は終わりだな。とりあえず和室の方へと戻ろう」
「待ってください。牧野さん」
「……どうしたんだ。沙季」
「ここに置いていたくさやが無くなっています」
「そういう日もあるだろう」
「ないですよ!?」
……こうなっては仕方がない。ちゃんと説明しよう。
「悪い、みんな先に戻っていてくれ。沙季、ちょっと」
「はい、なんでしょう?」
他のみんなが思い思いに話しながら和室に戻っていったのを確認し、俺は小声で沙季に話す。
「やっぱり沙季、初対面の相手にくさやはないと思うんだ」
「そうでしょうか?」
「くさやは好みがある。相手のことを知ってからでも悪くないと思う」
「うーん……わかりました。私としても、無理させたいわけではないので」
よかった。穏便に済ませられそうだ。最初から正直に話した方がよかったかもな。
「ま、牧野さん!」
そう思っていたときだった。リビングの扉が勢いよく開かれ、そこから焦った様子の千紗が姿を見せる。
「どうした? 何かあったか?」
「み、みんな、倒れて……!」
「た、倒れた!?」
俺は慌ててみんなが向かった先である和室へ向かう。その戸を勢いよく開くと。
「みんな無事……うっ!」
耐え切れないほどの激臭に思わず膝をつく。もしかしてみんなもこの匂いにやられて……!
「あ、そうでした」
意識が呆然としだした時、背後からそんな声が聞こえた。
「個人に渡すものとは別に、特注のくさやを和室に準備しておいてました」
「さ、沙季ーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」
思わず叫び、その後、俺の意識は途絶えた。
「面白かったねー」
「面白い、ではありませんわ。倒れたみんなを部屋まで戻すの大変だったではありませんの」
「にゃはは、でもそれもみんなと一緒にいるからできることじゃない? 芽衣、そういうの初めてだから楽しかったよ! ここに来れてよかった」
「……芽衣が楽しかったなら、それでいいですわ」
「ふふ、今度すずにゃんも一緒に楽しもうね! ううん、芽衣がいっぱい遊んであげる!」
「すずにゃん呼びはなんですの……? それに私は遊んでもらうほど子供じゃないですわ!」
「すずにゃんは可愛いなぁ」
「撫でないでくださいまし!」
すずは頭を撫でてこようとする芽衣を払いのける。あの後、すず、芽衣、千紗、沙季の無事だったメンバーで倒れた人の介抱を行っていた。ちなみにくさやは全て沙季の元に強制送還させ、匂いが漏れ出さないようにすずから厳重注意されていた。
「あれ、このノート何かな?」
「ノート?」
「ほら、そこ」
和室は換気中のため、リビングでくつろいでいると、芽衣が足下を指さす。視線を下ろした先には一冊の大学ノートが転がっていた。近くには黒のビジネスバッグも倒れている。大方、バッグが何らかの拍子で倒れ、ノートだけが外に出てきてしまったのだろう。すずはそれをそっと拾い上げた。
「牧野のノートっぽいですわね。表紙にも裏表紙にも何も書いてませんわ」
「うーむ」
「……芽衣、ダメですわよ」
「何も言ってないよー。それにすずにゃんこそ、気になっているんじゃない?」
「それは……否定はしませんけど」
芽衣はむーと唸りながらしばらくノートを見つめた後、口を開く。
「うん、やっぱりこういうのはダメだよね。戻そっか」
「……驚きましたわ。てっきり芽衣はこういうのは思い切って見るタイプかと」
「自分がされて嫌がることってやっぱりしちゃダメだと思うんだよねー」
「立派な心掛けですわ」
すずはそう言いのけ、ノートをバッグへと戻そうとする。
「わっ!」
だけど、その一瞬。手が滑って、ノートが地面へと落ちた。その拍子にノートがばさりと開く。
「すずにゃーん」
「ち、違いますわ! 今のは完全に事故ですのよ!」
「ほんとにー?」
「本当ですわ! これが嘘をついている目ですか!」
「うーん。可愛いのでよし!」
「なんですのその基準……」
理由には物申したくはなるが、芽衣に納得してもらえたことに安堵し、視線をノートへと移す。ノートの中身を見たくはなくても、開いているからどうしても見えてしまう。
「伊吹渚?」
「誰だろうね?」
「……結局芽衣も見ているじゃありませんの」
「あはは、開いちゃっているから見えちゃうよー。……それにしても、この子のことがページいっぱいにびっしり書かれてるね。牧野さんの恋人とか?」
「だとすると牧野はとんでもない執着心持ちになりますわね……。大方、スカウトしている子とかじゃありませんの? 牧野の話によると私たちは十人集まる予定みたいですし」
「なるほどー。あ、星見高校って書いてある。ということは芽衣と同じ学校なんだー」
「……芽衣? 私よりしっかり読んでません?」
「よ、読んでないよ! あ、えっと、芽衣喉が渇いたなー」
「まぁいいですわ」
冷蔵庫へと足を向けた芽衣を一目して、すずはノートをバッグに返す。
ノートを見たことがどういった影響を齎すか、すずは最後まで知ることはなかった。