スリクスと別れを告げ、今度こそ病院へと入った。定期的に通ってきたからすでに受付の看護師とも顔なじみだ。いつものように面会の手続きを終え、階段を登っていく。
さくらの病室は二階だ。階段を登るとすぐにたどり着く。
ガララと引き戸を開き、病室の中を覗くと、正面にある窓から陽の光が飛び込んできた。その光に目を慣らしていると、その傍にあるベッドでノートを開いていた少女が、あっと声を上げた。
「牧野さん!」
「さくら。こんにちは」
さくらは俺の顔を見て、満面の笑みを浮かべた。
「今日は来るの遅かったですね? 何かあったんですか?」
「ごめん、マネージャーの仕事でスカウトをしていたんだ」
「わぁ! スカウト! マネージャーっぽいお仕事ですね!」
「ぽいじゃなくて、マネージャーなんだけど」
「そうでした。えへへ」
さくらは恥ずかしそうに目を細めて笑う。さくらと初めて会ったときは少し距離があったものだけど、毎日会うにつれ少しずつ距離も埋まっていった。今ではこうやって気兼ねなく笑顔を向けてくれるようにまでなった。
「そういえばさくら、隣のベッドの子、退院したんだな」
さくらの病室には四つベッドが置かれている。さくらの正面と斜めの位置にあったベッドは前から空室だったものの、隣にはいつも中学生くらいの女の子がいたはずだ。それが今はいなくなっている。
「そうなんですよ! 今日の朝やっと退院できたみたいです! あんまり表情に出ない子でしたけど、それでも嬉しそうでしたよ!」
「それはよかったな」
「はい! ……でも、ちょっとだけ寂しくはなりますね」
その子のことはさくらから時折聞いていた。お喋りな子ではなかったもの聞き上手で、さくらの話をずっと聞いてくれていたらしい。そんな子がいなくなって寂しがるのは当然の事だろう。
……その代わりを俺がやる、なんてことはさすがに言えないな。無責任になってしまうから。
言葉をそっと飲み込み、代わりに事前に聞こうと思っていたことを口にする。
「なぁ、さくら。言いづらいことを聞くかもしれないがいいか?」
「はい、なんでしょう?」
「さくらはいつ手術をしたんだ?」
さくらの手術日は正確には理解していないが、三年前の麻奈の事故からそう時が離れていないころのはずだ。そしてそこからリハビリに励み、去年の高校入学の時には退院できていたはずなのだ。
それなのに、今のさくらはまだここにいる。退院の時期が明らかに遅かった。
「二年前の一月です。丁度、お正月明けでしたよ」
「そうだったのか……」
手術の時期が一年ずれている。リハビリで二年程度掛かると考えれば、この時期に退院できてなくてもおかしくは……。いや、待った。
元の世界では三年前に手術、去年の四月には退院できていた。ならば、四月を過ぎている今においては明らかに退院時期が遅れていないか?
「……俺の勘違いだったら言ってほしいんだが、さくら、もしかしてリハビリうまくいってないんじゃないか?」
「っ!」
さくらは眉を上げ驚いた表情を見せた後、あからさまに視線を外し目を泳がせる。……当たり、か。
「責めているわけじゃないんだ。リハビリの苦労は俺にはわからないし、自分のペースがある」
「……いえ、大丈夫です。遅れているのは本当です」
さくらは指を絡ませながらそう答えると、やがてぽつりと語り始めた。
「心臓の手術をしてからしばらくはリハビリも頑張れていたんです。私もやりたいことがいっぱいあったので、早く元気になって、全部やってやるんだーって思っていました。でも」
そう言って、さくらは胸の位置に手を置く。心臓の音を確かめるように。
「この心臓は私だけのものじゃない。そう考えた時に、私のためだけにやりたいことをやるのは違う気がして……ごめんなさい。よくわかりませんよね」
私のためだけじゃない。……もしかするとさくらはその心臓の持ち主のために生きていこうとしているのか? でもそれは。
「さくらはそれでいいのか?」
自分のためじゃなく誰かのために生きる、それは立派な生き方ではあるが、その生き方は息苦しくもある。さくらはそんな生き方を目指しているのだろうか。
「……」
さくらはうつむいたまま、表情を見せなかった。
沈黙が辺りを包む。このままじゃダメだと思っても、どう会話を続けていけばいいかわからない。そんな時だった。
『牧野さん!』
ポケットに入れていたスマートフォンから声が響いた。というか、この声って。
「さくら!?」
『はい! さくらです!』
ちょっと待った。この未来との電話って俺がスカウトしたメンバーじゃないと繋がらないんじゃなかったか!? それなのになぜさくらと繋がって……。いやそれよりも、今この状況でさくらの声が響くのは……。
「えっと、お電話ですか? ……同じ名前?」
……もしかして気づいていないのか? それはありがたいけど……。いや、ありがたい状況なのかもよくわからないけど。
「すまない、さくら。ちょっと一度電話してくる」
「あっ、はい。大丈夫で……」
『ダメですよ! そっちのさくらにもお話したいことがあります!』
病室から出ようとして電話の中のさくらに止められる。
『あ! でもちょっとだけ待ってください! ……沙季ちゃんごめん! ちょっとだけ携帯借りるね!』
慌てた様子の沙季の声が一瞬聞こえた後、どたばたと足音が響く。やがて、どこかの一室に飛び込んだようで、ガチャリと鍵を掛ける音が聞こえてきた。
『これで大丈夫です! ……さて、牧野さん、そしてそっちのさくら! 私は今怒ってます! ぷんぷんです!』
「さくら? えっと、どうしたんだ?」
『どうしたんだ、じゃないですよ! 牧野さん、ちゃんと私にも相談してくださいよ!』
「相談はしたかったんだが、事情があって……」
『むむむむむむ』
「信じてくれ。そもそも相談ができる状態だと思っていなかったんだ」
さくらと電話が繋がるなら最初からしていた。でもさくらはまだスカウトができていないから電話は……いや、違う。電話の条件はスカウトではなく、星見プロに来る未来が確定しているかどうかだったはずだ。
ということは、この時点でさくらの未来は確定しているのか。でもどうして?
『わかりました。ちゃんと後で説明してもらいますからね。みんなにも』
「……わかった。でも俺の問題なんだ。みんなは怒らないであげてくれ」
『いいえ、怒ります。私は怒っています。もんもんです』
すまないみんな。俺じゃ止められなかった。怒られてくれ。
「えっと……?」
俺が未来のさくらと電話していると、この世界のさくらは困惑した目でこちらを見ていた。どちらもさくらだからややこしいな。
『さくら、あなたに大事なお話があります』
「はい」
さくらが背筋を伸ばし、表情を引き締める。ライブ直前に見せるような真剣な表情だ。
『魚魚っとさんってかっこいいと思いますか!? それとも可愛いと思いますか!?』
「え?」
『答えてください!』
「えっと、うーんと……。ぎょろっとした瞳は可愛いと思うけど、背びれのの曲線とかはカッコいいし……両方!」
『そうだよね! でも、胸のふんわりとしたフォルムも飛び込みたくなるくらい可愛いし、ヒレの色も素敵だよ!』
「うんうん! それに尻尾の形だって……」
「待った待った。二人とも何の話だ」
俺が声を掛けるとさくらははっとした表情を浮かべる。電話越しで表情が見えないが、未来のさくらも同じ表情を浮かべているんだろうなって思った。
「『すみません、ちょっと熱くなってしまい……』」
「……同時に話さないでくれ」
目の前のさくらはびっくりした様子で息ぴったりだね! と鼻息荒く告げる。そりゃそうだよ。同一人物なんだから。
『……うん、やっぱりあなたはさくらだ。私の知っている川咲さくらだ』
未来のさくらは安堵するように声を漏らす。……もしかして、確認のための発言だったのか? 天然に見えてやっぱり色々と考えているんだな、さくらは。
「はい、川咲さくらですけど……えっと、あなたは?」
『うーんと……秘密かな』
「秘密、ですか……」
……今まで、未来の星見プロの子たちと、今の星見プロの子たちの会話はしたことがなかった。以前千紗とも話した気がするが、それは未来の子が話した記憶を持っていないのなら、この世界においても話しているはずがなく、話すことでタイムパラドックスが発生するからだった。そして、そのタイムパラドックスの回避が自動的に起き、電話が通じなくなるのだろう、といったのが俺の予想だった。
でも今のさくらは未来のさくらと話している。それはなぜだろうか?
『ねぇ、さくら。お話があるのは本当だよ。大事なお話。聞いてくれる?』
……いや、電話の事は後ででも構わないな。今は目の前のさくらに集中するべきだ。
「うん、大丈夫だよ」
『ありがとう。……さくらは今、迷っているんだよね。自分のために生きていいのか、心臓の持ち主のために生きるべきなのか』
「……うん」
『私はね、今アイドルをやっているんだけど、いっぱい悩んだことがあるんだ。どう歌えばいいのか、誰に向けて歌えばいいのか、何のために歌うのか。時には自分の道を見失ったこともあった。……でもね。その度に私は仲間の声に、みんなの笑顔に励まされて、気づいたの。……私はみんなとピースを繋いでいきたい。そのためにも、私自身が私自身のために生きていく必要があるんだって』
「私自身のため……?」
『うん。誰かのために生きるには、まず自分自身がちゃんと生きていかないといけないんだよ。自分がそうやって生きて、ようやく、誰かに想いを届けられるようになる』
「……!」
『さくらは本当はどう生きていきたいの?』
「私は……」
その言葉を受け、さくらはいつの間にか胸に抱いていたノートに視線を落とす。その表紙には"やってみたかったことリスト"と書かれていた。
「……友ちゃんの分まで生きていきたい。生きて、友ちゃんが叶えられなかったことも私が叶えていきたい。でも……」
そのノートを開く。親友と一緒に考えてきたそのノートには箇条書きでたくさんの願い事が書かれていた。だけど、その願い事には一つもチェックマークが付いていない。
「私は……弱いから。まだ退院しちゃダメだって言われて……」
「そんなことない」
思わず声が出ていた。その言葉は俺が認めるわけにはいかないから。
「さくら、自分に自信を持ってくれ。君は自分が思っている以上に、色んな人を励まして笑顔にしてきている」
「……」
「それに、退院だってもうすぐできるはずだよ」
「えっ?」
俺が以前の世界でさくらと顔を合わせたのは、さくらが退院した時だ。退院の時期はどのみち近い。それに。
この世界で初めてさくらと会ったときのことを思い返す。……さくらは木から落ちた俺に向かって、走って寄ってきてくれたんだ。もし本当にリハビリが終わっていないんだとするなら、そんなことできるのだろうか?
医学的なことはわからないし、仮定の話だから、もちろん間違いがあるかもしれない。だけど、ある回答が俺の脳裏に浮かんでいた。それは。
「さくらが退院できていない理由は精神的な不調が原因だからだ」
「精神的な不調……」
いくら心臓の手術とはいえど、二年のリハビリ期間はあまりにも長すぎるんだ。だとすると、別の問題がさくらにあって退院できていないと考えるのが自然になる。そして、今までの会話を考えれば、さくらの抱えている問題が精神由来なんじゃないかとは一番に頭に浮かんだ。
「だから大丈夫。さくらはちゃんとやりたいように生きていけるんだ」
「……いいんでしょうか? 私は私のために生きて、この心臓とは違う道に進んでいいんでしょうか……」
……あぁそうか。その言葉でようやく合点がいった。この世界のさくらがどう変わったのか理解ができた。
さくらの"変わったこと"。それは、"心臓が別の道を示した"だと思う。それがさくらを迷わせる結果になった。
でも、だとするなら、マネージャーとして応える言葉は一つだ。
「うん、大丈夫だ。さくらは心臓の持ち主は別かもしれない。でもさくら自身のものでもあるんだ。さくらの信じる道を歩めばいい」
「私の信じる道……」
「あぁ。そして……さくらさん、俺は貴女に一つの道を提示しに来ました」
「……?」
不思議そうに首をかしげるさくらの姿。そんな彼女に向けて、俺は言いのける。
「さくらさん、俺は貴女をアイドルにスカウトしたいと思っています。……アイドルになりませんか?」
さくらは俺の発言に目を丸くする。やがて、その心臓の音を確かめようと、胸に手を置こうとして。
「ううん、違うね」
その手を離した。
「牧野さん、一つだけ聞かせてください」
「はい、なんでしょう?」
「アイドルになれば、私のやりたかったことリストは叶いますか?」
さくらのやりたかったことリストを俺は全ては把握していない。だけど、俺の知っているさくらは、ずっと幸せそうな笑顔を浮かべていた。
なら、答えは一つだ。
「あぁ、叶うよ。絶対に」
「……わかりました」
さくらはノートを閉じ、そっとベッドの上に置いた。指先で表紙をなぞり、仕切りなおすように静かに息を整える。そして、真っすぐに俺を見上げた。
橙色の丸い瞳にはいつの間にか光が宿っていた。迷いを断ち切るような、大きく眩しい光が。
「牧野さん。そのスカウト受けさせてください。私をアイドルにしてください!」
澄んだ音色。その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなるのを感じる。ずっと待ち望んでいた言葉だった。
「わかりました。……さくら、これからよろしくな」
俺が手を差し出すと、さくらはその手をしばらく見つめ、その覚悟を表すようにぎゅっと握りしめた。
「はい! よろしくお願いします! 牧野さん!」
さくらが浮かべたその表情は、太陽のような眩しい笑みだった。