やがて、タクシーは徐々に俺に近づいてきて、そして――。
俺の目と鼻の先でぴたりと止まった。
運転手が怒った様子でクラクションを鳴らす。同時に、後方のドアが開いて、そこから麻奈が駆け出して来た。
「牧野くん!」
麻奈は慌てた様子で俺に駆け寄ってきた。タクシーの前に出た拍子に俺も転んでしまったから、見上げる形になった。
「麻奈」
麻奈の姿は何一つ変わっていない。それなのに、なぜだかとても懐かしい気分だった。
「な、なんでこんなことしたの!? 今牧野くん轢かれそうになったんだよ!?」
「うん、わかってる」
「わかってる……? わかってないよ!」
麻奈は俺の言葉に目を丸くした後、怒った表情を見せて俺の頬を叩いた。麻奈からこんな風に叩かれるのは初めてだった。
「牧野くん、死ぬところだったんだよ? もう会えなくなるところだったんだよ? それをわかってるなんて言わないでよ!」
「ううん、大丈夫なんだ。俺は死のうと思って前に出たわけじゃないよ」
「……そうなの?」
「うん、だって、ほら。俺は生きているだろ?」
なんだかとあるドラマのワンシーンが脳裏に浮かぶ。そっちの言葉を使った方がよかっただろうか。でもその方が麻奈に怒られそうだな。
「そんなの……理由になってないよ」
「そうかな?」
「そうだよ。バカ」
そう言って、麻奈はそっと抱きしめてきた。そんな麻奈の姿が愛しくて俺も抱きしめ返す。春風のような優しい香りがふわりと舞った。
いつまで抱き合っていただろうか。ププーというクラクションで俺の目は覚めた。そういえば道路の真ん中だった。邪魔だったな。
タクシーの運転手に頭を下げ、自転車を持って麻奈と一緒に歩道に移動する。麻奈は一度ここでタクシーを降りることにしたみたいだった。
「……牧野くん。ちゃんと事情を説明して」
「うーん……いるか?」
「当たり前でしょ! あの瞬間、世界が止まったもん。理由がないと許さないから」
まぁ麻奈からしてみればそうか。とはいえ、どう話そうか。……いや、別に嘘を言う必要ってないな?
「単純な話だよ。麻奈が乗っていたあのタクシー、右折しようとしていただろ? だけどその先に猛スピードで走っていた車があったんだ。あのままだと事故を起こしていただろうな」
「え……そ、そうなの?」
「あぁ。間違いなく、な」
そしてあの速度だ。あれだけの速度で横から追突されれば、間違いなく車は破損する。そして中にいた人は……。
「じゃあ牧野くんは私を救うために命を懸けて守ってくれたってこと?」
「まぁそうなるんじゃないか?」
「……」
麻奈は目をぱちくりとさせた後、目を細め口元を結ぶ。
「……本当?」
「ほんとだよ。俺が麻奈に嘘をついたことないだろ?」
「いっぱいありますー。牧野くん嘘つきだもん」
「そうか?」
麻奈に対してそんな嘘吐いた記憶ないけど……。あぁでも、プライベートなら何度かあるか。
「それを言うなら麻奈だってそうだろ? 俺にいっぱい嘘をついてきた」
「そんなことないでしょ? 私は正直者だよ」
「それも嘘だな」
「あっひっどーい! あの時の約束だって、ちゃんと守ったのに」
「あの時?」
「牧野くんをトップアイドルのマネージャーにさせてあげるってやつ。……もしかして忘れてた?」
「……いや、覚えているぞ?」
「なんで間があったの!? ひどいよー私にとっては大事な約束だったのになー」
「本当に覚えていたよ。ただ、懐かしくてな。ちょっとだけ感傷に浸ってた」
「ふーん? ならいいけど」
ちょっとだけ拗ねたような麻奈の表情。よかった。いつも通りの麻奈だ。その姿が見れただけで、なんだか嬉しくなる。
「でも、牧野くん。もし本当に私を救ってくれたのなら」
そう言って、麻奈は言葉を続けた。
「ありがとね。牧野くんのおかげで、私は生きている。長瀬麻奈はまだまだアイドルとして輝けるから」
そう言いのけた麻奈は笑顔だった。花が咲くよりも、星が輝くよりも綺麗な、俺が麻奈を好きになったきっかけでもある優しい笑みを浮かべていた。
それから麻奈とどうしようもない雑談を交わしながら一緒に星見市に帰った。一緒に笑い合えるそれだけで幸せだった。……ちなみに、三枝さんから借りた電動自転車は転んだ拍子に何かが壊れたみたいで、やや重い通常の自転車になっていた。三枝さんには電話越しで謝り、車と一緒に修理に出すことにした。麻奈にはそのことをひたすら笑われた。牧野くんらしいね、って。なにが俺らしいだ。
「あーあ、着いちゃった。もう少しお話したかったんだけどなぁ」
「いつでもできるだろ?」
「そりゃそうだけどさぁ。何でもいいから話したいときってない?」
麻奈の家まで送り届けた後、麻奈は突然そんなこと言い出した。まぁ気持ちはわかる。でも。
「親御さんも早く顔が見たいんじゃないか? 琴乃も今日は実家に帰って麻奈の帰りを待っているそうだよ」
「むむ、それは悩むね……」
麻奈はしばらく唸った後、どっちを優先するか決めたようで一つ頷いた。
「じゃあ今日のところは帰るね。次会ったときにたくさんお話しよ」
「まぁそうだな」
「何、まぁって」
俺も麻奈と話すのは楽しい。でも、それを正直に伝えるのはさすがに照れる。
「いいよ。牧野くんにはこれから先もずっと私とのお喋りに付き合ってもらうから」
「ずっとか。それはしんどいな」
「ダメ。ずっとだから。運命を別つその時まで」
「……あぁわかったよ。その時まで話そうか」
今日のところはこれくらいにしてあげる、と手を振った麻奈に合わせて俺も手を振る。麻奈がドアを開けたその先には、琴乃の姿もあった。麻奈が帰ってきて喜んでいる姿は年相応のもので、俺も嬉しくなる。
「さて」
麻奈と話をしたかったのは俺も同じだ。でも俺にも、ちゃんと帰りを伝えるべき相手がいた。
長瀬家から少し離れ、未来のスマートフォンを取り出す。通話を押すとワンコールも経たずにすぐに通じた。
『ど、どうでしたか!?』
一番に声を出したのは沙季だった。でも、沙季だけじゃない。電話の先にみんながいてそれぞれ心配してくれていることはすぐに伝わった。
「成功したよ。麻奈は無事だ」
『っ!!!』
息を呑むような声の後、大きな声が上がる。よかった、って安堵の声が聞こえてくる。そんなみんなの声を聞いていると、俺も成し遂げたんだなって実感が湧く。
「みんなのおかげだな。ありがとう」
『いえ、そんなことないです。実際に行動に移したのは牧野さんです。さすが、私たちのマネージャーですね!』
むずがゆいが、そう言われて悪い気はしない。……でも実際沙季たちがいないと俺は何もできてなかったと思う。だけど今この流れでそれを言うのは、さすがに野暮だろうな。
『でも……ちょっとだけ寂しくなりますね』
「寂しい?」
『はい。だって、私たちの世界は麻奈さんが亡くなっている世界です。麻奈さんの生きている世界が確定してしまうと、私たちの存在は矛盾してしまいますから』
「……それはもしかして」
『この電話は繋がらなくなるでしょうね』
思わず息が止まる。それは考えていなかった。でも、言われてみると理解はできた。タイムパラドックスの回避は自動的に起こるのだから。
『でもそれでいいんですよ。元より未来と過去で電話なんて出来てはいけないものですから。結末も過程も全てを知った物語は面白くないでしょう?』
「それは……そうだけど」
『ふふ、寂しいなんて言ってしまったのが良くなかったですね。大丈夫です牧野さん。例え世界が違っても、私たちは今の牧野さんを忘れません。……以前の世界の私もきっとそうだったように』
「……ごめん沙季。……俺は君たちに迷惑を掛けてばかりだ」
『謝らないでください。私たちも私たちがやりたいようにやっただけで……あれ?』
沙季の言葉が不意に途切れる。電話に少しずつノイズが走り出す。
『ぎりぎ…だったみたいで…ね。これでお別れみ…いです』
「待ってくれ! 俺はまだ君たちにお返しができてない!」
『ふふ、私…ちへのお返…は、ちゃんと牧野…んの知って…るみんなに返し…あげてくだ…い』
ノイズが激しくなる。ただでさえ小さかった糸が、今すぐにでも途切れてしまいそうだった。
『あ、で…これ…けは聞か……く……い』
"これだけは聞かせてください"沙季のその言葉に俺は全神経を耳に集中させる。その一言を逃さないように。
『私たちは、牧野さんの頼りになりましたか?』
そんなの答えは一つだ。ずっと、ずっと前から答えは決まっているじゃないか。
「当たり前だ。みんなずっと頼もしいよ。だから俺が支えたくなるんだ」
『その言葉が聞けて安心しました』
もう言葉は聞けなかった。その言葉を最後に、電話はぷつりと切れる。後はもうツーツーと機械音を鳴らすだけだった。
「あぁ……」
そこでようやく俺も気づいた。全ての運命の歯車が、この時ようやく正常に戻り、回り始めたのだと。
「沙季、みんな。君たちのおかげで俺はここまで来れたよ」
目元に浮かんでいた涙を拭う。ふと空を見上げると、雲ひとつない快晴があった。
「ありがとう」
青空に言葉を送る。きっと届くと信じて、とびっきりの感謝を込めて。
すっと柔らかな風が、辺りを吹き抜けた。