翌日、いつものように寮に併設された小屋で目が覚めた俺は、まだ日が上がり切っていない時間に寮を出て、事務所に向かう。そこで、これまたいつものようにパソコンを点け、メールのチェックをする。
しばらくして、そっと一息入れていると、執務室のドアがガチャリと開いた。
ドアの先から長い黒髪が零れだす。やがて、するりとドアの隙間から潜り抜けてきた彼女はいつものような笑みで口を開く。
「牧野くんおはようー!」
「おはよう。麻奈」
なんでもない朝の日常だった。
「今日も朝から精が出ますなー。でも頑張りすぎはダメだぞー」
「気を付けるよ。麻奈も時差ボケは大丈夫なのか?」
「昨日でしっかり治してきたよ! それに今日は待ち望んだ日だからね。時差ボケなんてしてられないよ」
「……そうだったな」
今日は星見プロのみんなが初めて一堂に会する日だ。俺もずっと待ち望んできた。
「ふふ、牧野くんなんだか楽しそう」
「そうか?」
「うん、待ちきれないって顔しているよ」
「……そうかもな」
麻奈の言う通りだ。俺がずっと見たかった景色だから、待ちきれないのなんて当たり前だ。今すぐにでも麻奈を連れて飛び出して、みんなと会わせたい。
「さーて、私も準備してこよっかな」
「準備?」
「うん、だって後輩ちゃんと初めて会うんだよ? 先輩としての威厳を見せておかないとって思って」
「威厳……麻奈の威厳かぁ」
「うわ。ひっどい反応。これでもトップアイドルなんだからね」
そう言って、麻奈は一度執務室を後にした……と、思いきや、ドアからそっと顔だけ覗かせる。
「……覗いちゃダメだよ?」
「覗かないよ」
じとーとした目を浮かべ、麻奈は今度こそドアを閉じた。全く、麻奈は俺はなんだと思っているんだ。
少しして、今度は多くの足跡が執務室の前に響いた。そして勢いよくバサッとドアが開かれた。
「牧野! ま、まままままままま麻奈様は」
「牧野さんだ。後、ドアは力いっぱいに開かないこと」
「そんなことどうでもいだだだだだだ」
すずの後ろにいた怜が、中指の関節ですずの頭をぐりぐりしていた。すずの言動にももう慣れたものなんだろうな。
「牧野さん、今日は長瀬麻奈ちゃ……さん、と挨拶するって聞いた。本当?」
「そうだ。……と言っても、本当にただの挨拶だからな。そんな緊張しなくていいよ」
「握手会に行ったことはある、けど、それ以外で会うのは初めて……怖い」
「アイドルとしても大先輩だもんね……」
「雫、千紗、大丈夫だよ。そんな取って食うようなタイプじゃない……ないよな?」
「え、まさか私たち食べられる」
「こらこら牧野君、麻奈ちゃんはそんな子じゃないでしょ。大丈夫よ。麻奈ちゃんちょーっとお茶目なところがあるだけのいい子だから」
「ちょっと……ちょっと?」
「牧野くーん?」
遙子さんにこらと注意される。でも本当にちょっとか? こっちは毎日のように揶揄われ続けているんだけど。
そんなこんなみんなと話していると、コンコンと、再びドアがノックされた。いよいよその時だ。期待を込めてどうぞ、と声を掛ける。ドアがそっと開かれた。そこから現れたのは……。
「牧野、それとみんなも揃っていたか。おはよう」
「三枝さんっ!」
「どうした牧野。そんなに怒った声出して。それになんだかみんなも機嫌が悪いようだな」
思わずといった様子で声を上げる。それはみんなとしても同じだったようで、不機嫌な表情を浮かべた琴乃が代表して三枝さんの前に出た。
「三枝さん」
「どうした?」
「帰ってください。いますぐ」
「……なんでだ?」
三枝さんはみんなに追い出される形で部屋を後にした。俺の会社なんだが、と寂しそうな声を上げていた。
「おっまたせー! 後輩のみんなー、星見プロダクションの長瀬麻奈です! ……ってあれ何この空気」
三枝さんと代わるように麻奈はドアを開き、部屋に入り込んできた。麻奈もみんながすでに来ていることは知っているみたいでわくわくした様子で自己紹介を交わすが、部屋の空気を見て首を傾げていた。
「あぁ麻奈」
「え、なんでそんなテンション低いの。もっと、麻奈ちゃん! 麻奈さん! って言われると思って楽しみにしてたのに」
「えっとさっき三枝さんが丁度来ててな。それで……」
「またあのおじさんの仕業か……。でも追い返したんだよね! ナイス牧野くん!」
「追い返したのは琴乃だな」
「琴乃が!? さっすが琴乃! 頼りになるね!」
「もう止めてお姉ちゃん。抱きつかないで」
麻奈は琴乃に近づきいつものように抱きつこうとして、琴乃に抑えつけられ拒否られていた。
「それよりも、ちゃんと挨拶しないとでしょ?」
「! そうだね。琴乃の言う通りだ」
麻奈はこほんと気を取り直すように咳払いをすると、俺の隣に立ち、新人アイドルである十人と目を合わせる。やがて、いつの間にか着替えていた白銀のアイドル衣装を靡かせ、言葉を紡ぐ。
「星見プロダクション所属のアイドル、長瀬麻奈、二十二歳です! 趣味はアイドルと歌を歌うこと! 好きなものはカレーと遙子ちゃんの作ってくれた杏仁豆腐と、それと琴乃! 気軽に麻奈って呼んでくれると嬉しいな。みんな、よろしくね!」
朗らかな優しい笑顔でみんなに笑みを浮かべる。麻奈の挨拶を初めに一人一人順番に前に出て挨拶を始める。
「私、川咲さくらって言います! ちょっと前まで入院していたんですけど、今ではすっかり元気です! 好きなものはトンカツと後は魚魚っとさんが好きです! 麻奈ちゃんにお会いできて嬉しいです! よろしくお願いします!」
「よろしくね、さくらちゃん! 魚魚っとさんってあれだよね。星見市のマスコットの……」
「そうです! もしかして麻奈ちゃんもお好きなんですか!?」
「え、あ、わ、私は個性的だなぁって」
「ですよね! やっぱりあのフォルムは他にないって感じで! グッズもたくさん持っているので今度持ってきますね!」
「あ、うん。楽しみにしてる……」
麻奈はさくらに押され気味だった。魚魚っとさんはなぁ。好みは分かれるだろうから……。
「兵藤雫、です。お喋りは、得意じゃないです。でもアイドルは、大好きで、頑張りたいって思ってます。よろしく、お願いします」
「雫ちゃん、よろしくね! ……えっと勘違いだったら申し訳ないんだけど、私の握手会来てくれたことあるよね?」
「え。もしかして、覚えて、ました……?」
「やっぱり! 可愛い子が来たなぁって思ってたら意外とハキハキと話すからビックリしたよ。あれ、でもお話得意じゃないんだ?」
「握手会の時間は決まってる。何をどれくらい話すかは、事前に決めてます」
「なるほど。プロだね。……でも今度は雫ちゃんが握手される側になるんだから頑張らないとね!」
「はい……」
「私も牧野くんもいっぱいサポートするよ。それに、雫ちゃんはこんなにも可愛いんだもん。きっと大丈夫!」
「はい、頑張り、ます」
雫は終始緊張した様子だ。麻奈もそれには気づいている様子で、励ますように声を掛けていた。
「し、白石千紗です。よろしゅくおねがいし、あたっ!」
千紗も緊張した様子で声を上げ、思いっきり舌を噛んだ。
「だ、大丈夫!? ゆっくりでいいよ。深呼吸深呼吸」
「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……。はい、少し落ち着きました。……改めて白石千紗です。歌もダンスもまだまだですけど、なんとか足を引っ張らないように頑張ります」
「千紗ちゃんよろしくね。でも足を引っ張らないようにじゃなくて一緒に歩んでいこうね! 千紗ちゃんなら大丈夫! だって一人じゃないんでしょ?」
「……あ」
いつの間にか雫が千紗の手を握っていた。それを見て、麻奈は優しく微笑んだ。
「私は一ノ瀬怜、十八歳です。ダンスが得意です。先輩である麻奈さんに追いつけるよう頑張っていきたいと考えています。よろしくお願いします」
「よろしくね怜ちゃん。……ふむふむ。怜ちゃんってさくらちゃんや雫ちゃん、千紗ちゃんと同じグループなんだよね?」
「はい、そうです」
「考えたねぇ牧野くん」
「はい?」
「ううん、こっちの話。……それにしてもどことなく琴乃に似ているというかなんというか」
麻奈はじろじろと怜の全身を見て、顎に手を置く。そんな麻奈を怜は不審げに見つめていた。
「……もしかして、お兄ちゃんかお姉ちゃんいる?」
「兄がいますけど……」
「やっぱり! 私の妹センサーが働いたんだよねー!」
「妹センサーって……」
怜の視線が徐々に残念なものを見るものに変わっていく。許してくれ怜。麻奈はこういうやつだ。
「えっと、次は私だけど……必要?」
「必要ですー。私に報告せずいつの間にかグループに入っていた子の名前はなんだろなー」
「うぅいじめないでよー」
「ふふ、ごめんね。冗談だよ」
「もう……改めて、私は佐伯遙子。二十歳です。趣味はソロキャンプだったりパズルだったり、廃墟巡りをしたりもするかなぁ。よろしくね麻奈ちゃん」
「よろしく遙子ちゃん! それにしても遙子ちゃんがグループかぁ。なんだか嫉妬しちゃうなぁ」
「嫉妬?」
「うん、私の遙子ちゃんが取られたーって」
「麻奈ちゃん……」
「それに私はずっとソロだから、グループがどんな感じか分からないんだよね。だからズルいなぁって」
「……ごめんなさい。麻奈ちゃん、私は」
「あ、責めているわけじゃないんだよ! 遙子ちゃんは遙子ちゃんの道がある。自分で決めた道なんでしょ? 胸を張って」
「……そうね。私の道だものね。……ねぇ麻奈ちゃん」
「何?」
「いつか一緒にライブしようね」
「うん、待ってる」
遙子さんの言葉に麻奈はそっと微笑んだ。
「次は私だけど……ねぇ、お姉ちゃん。そんなワクワクした目で見ないでよ」
「えー、だって琴乃がどうやって挨拶するのか気になるんだもん」
「……別にしなくてもいいでしょ。お姉ちゃん私のこと知ってるし」
「わーツンツンした後輩だー。どんなお名前なんだろー」
「……はぁ。長瀬琴乃、十七歳。趣味は……探し中だけど、アイドルが好きです。……よろしく、お姉ちゃん」
「うん、よろしくね琴乃! それよりも琴乃。アイドルになるんだったらトークも必要なんだよ。もっと話せるようになること。いい?」
「うん……」
「後は私たちにはそういう態度でいいけど、他所の人には礼儀よくすること。いい?」
「わかってるよ」
「……本当にわかってる?」
「本当にわかってる」
「怪しいなぁ」
「わかっているって言ってるじゃん。しつこいよお姉ちゃん」
「私だって琴乃のことを思って言っているんだよ?」
「まぁ二人ともその辺に。麻奈も過保護すぎだ。琴乃もそれくらいはできるよ」
「ほら」
「むぅ……琴乃がまた反抗期になってる」
「……お節介おばさん」
「なっ!!!」
麻奈が琴乃につかみかかろうとしていたので慌てて止める。二人の勘違いが解決したはいいが、喧嘩ばかりするようになってしまった。まぁただ本音で喧嘩できる程度に、お互い言いたいことを言えるようになったってことだろうな。
「えっと、私の番でいいんですかね? 伊吹渚って言います。琴乃ちゃんと同じ十七歳です。恋愛小説を読むことが好きで、琴乃ちゃんのことはもっと好きです。麻奈さん、よろしくお願いしますね」
「よろしく渚ちゃん! まさか琴乃だけじゃなくて渚ちゃんまでいるなんて驚いたよ。でも安心した。ちゃんと琴乃のこと見てあげてね」
「もちろんです! 高校が変わって見れなくなってた分、たくさん見ちゃいますから!」
「な、なんかニュアンスが違うような……」
「麻奈さん以上に詳しくなってみせますよ。そして……」
「そして?」
「ううん、それはそのときに言います。でも、麻奈さん覚悟して待っていてくださいね」
「え、な、何を? というかなんで渚ちゃんこんな覚悟が決まったような目しているの……?」
……気づいてはいたけど、渚が琴乃を見る目がちょっとだけおかしい。悪い感じじゃないからそれほど気にしてはないけど。
「次は私ですね。白石沙季と申します。光ヶ崎高等学校出身で、十八歳です。好きなものはアイドルで、色んなアイドルのライブを見て日々研究も行っています。趣味は読書やスタンプラリーでしょうか。地図を見ることもよくしていますね。麻奈さん、まだまだ未熟な身ですが、よろしくお願いします」
「丁寧だね! 沙季ちゃんよろしく! ……気になったんだけど、白石ってことは千紗ちゃんのお姉ちゃん?」
「はい、そうですね。千紗は一個下の妹です」
「おー! じゃあお姉ちゃん仲間だね! ……そうだ、聞いてよ沙季ちゃん、さっきもそうだったけど琴乃がずっと不機嫌なの。どうしたらいいと思う?」
「……えっと、失礼を承知で申しますが、麻奈さんは琴乃ちゃんを揶揄いすぎなんだと思います」
「なっ!」
琴乃からそうだそうだ、と言わんばかりに視線が飛ぶ。
「でも妹って可愛いものじゃない? つい可愛がりたくなってしまうよ」
「可愛いものだからこそ、大切に扱うべきでは?」
「お姉ちゃん力で負けてる!?」
沙季の正論パンチに、麻奈は胸を抑えた。同じお姉ちゃんだけど、二人はタイプが全然違うからなぁ。
「つ、つつつつつつつぎは、わたたたたたたたたたたたた」
「おー。わたたたたたたただ。深呼吸、深呼吸」
「すぅはぁすぅはぁすぅはぁすぅはぁ」
「深呼吸までも早い!? 落ち着いて、大丈夫だよ。ゆっくり話そう。飲み物も飲んで」
「ごくごく…………ふぅ。失礼いたしましたわ。私は成宮家の令嬢、成宮すずですわ! いずれ月ストのセンターになり、麻奈様に次ぐ第二のエースになってみせますわ!」
「すずちゃんよろしくね! そしていい宣言だ。琴乃のライバルだねぇ。……後、ずっと気になっていたんだけど、もしかしてすずちゃん、星見まつりに来た事ある?」
「え、お、覚えていらしてましたの?」
「あ、やっぱりだ。すずちゃん目立つからね。私も覚えていたよ」
「わ、私はあのとき麻奈様に憧れてここまで来たのですわ! だから麻奈様に会えて、同じ事務所で居られることが本当に嬉しくて……」
「ふふ、ありがと。……これ、使って」
麻奈はポケットに入っていたハンカチを手渡す。すずは涙を浮かべつつ、それを受け取り、勢いよく鼻をかんだ。
「あぁそっちなんだ……」
麻奈はすずに聞こえないように小さくぼやく。ハンカチはそのまますずに上げることにしたらしい。
「じゃあ最後は私! 早坂芽衣、十六歳! 好きなものは猫ちゃんとドーナツ! よろしくね麻奈ちゃん!」
「よろしく芽衣ちゃん! ……ふむー? もしかして芽衣ちゃんもどこかで会った事ある?」
「うーん? 芽衣は覚えてないかなぁ。芽衣の事、どこかで見たことあった?」
「そうかも。どこだったかなぁ……あんまり覚えてないや」
「そっか。じゃあ麻奈ちゃん、これからたくさん会って、遊んで、覚えていこう! 忘れられないようにしてあげる!」
「あはは、いいねそれ! 私もみんなの記憶に一生残るようにしてやるぞー」
「やるぞー!」
芽衣と麻奈は二人して手を掲げる。そして二人で目を合わせて笑みを浮かべ、ハイタッチした。パチンッと甲高い音が響く。
全員の自己紹介も終わった。それから、みんな自己紹介のときに聞けなかったことがたくさんあったみたいで、思い思いに口を開き始める。みんな笑顔で楽しそうだ。そして、その中心には麻奈の姿があって。
「あぁ……」
思わず声が漏れる。目元に涙が浮かび上がってくる。堪えないとって思っても涙が止まらず、いつの間にか零れ出していた。
だって、仕方ないだろ。俺が、ずっと、ずっと望んできた光景が、ここにあるのだから。
涙を零しながら、俺は彼女たちを見つめ続けた。麻奈が生きた星見プロダクションを、一つも見落とさないように。この目に焼き付けるように。俺はただ見つめていた。
「あ、そうそう牧野くん。そういえば一つ伝言が……ってどうしたのその赤い目。もしかして泣いてた?」
少しして、麻奈が俺の元に駆け寄ってくる。俺は慌てて涙を拭きとった。
「……泣いてないよ」
「もう、隠さなくていいのに。男の子なんだね、牧野くんも」
「……うるさい」
「ふふ、じゃあ内緒にしてあげる。……それより、さっき三枝さんとすれ違ったときに伝言を受け取っていたんだ」
「伝言?」
「うん。驚くと思うよ。聞きたい?」
「聞かせてくれ」
「実はね」
麻奈は、一呼吸置き、言葉を続ける。
「私、長瀬麻奈と月のテンペスト、サニーピースでライブすることが決まったみたい!」
夢の世界はもう少し続きそうだった。