「―――姫殿下、それでは本日の稽古はここまでにいたしましょう」
ラフレルは厳かにそう告げると、軽く膝を曲げて礼をした。
眼の前にいる少女は、誰あろうハイラル国の王女、ゼルダ姫だ。
まだ齢十二の彼女は、股引を履いて運動用の道着を着てはいたが、その気品と生まれ持っての美しさは際立っていた。
ラフレルが
「ありがとう、ラフレル。剣術って楽しいものですね」
「姫様!姫様!」
すると、脇に控えていた侍女が慌ただしく駆け寄ってきた。
「姫様!だいぶ汗をかいておいでですわ....!ご気分は大丈夫ですか?」
中年の侍女がハンカチーフで姫の額の汗を拭きながら心配そうに言う。城の中庭には午前の日差しが差し込み、気温が上昇し始めていた。姫は頬を上気させ汗を浮かべていたが、その表情は輝いている。
「大丈夫ですわ、ミカエラ。むしろ気分は良いくらいですわ。だって、剣士みたいに剣を振っていたら、気分まで勇ましい剣士になったみたいだもの」
「姫様..でもそんなに運動されたらお体に差し障りが...」
侍女は汗を拭き終わると、非難がましくラフレルを一瞥した。ラフレルは思わず咳払いすると、言い訳するように口を開いた。
「姫様の上達ぶりは目覚ましいものです。まさしくかつて荒廃した地に降り立ちハイラルの国を開いた勇ましき王家の血をお持ちかと」
だが侍女はラフレルを相手にせずにゼルダに言った。
「姫様...だいぶお疲れでしょう。葡萄水に氷を浮かべてお持ちしますわね」
「いいえ、いりませんわミカエラ。水を一杯くだされば十分です」
それを聞いた侍女は目を丸くした。ゼルダ姫は言葉を継ぐ。
「戦場の兵士は葡萄水など飲まないのでしょう?だったらわたくしがそのようなものを頂くわけには参りません」
それを聞いたラフレルは思わず微笑んだ。王というものはいざ戦さとなったら全ての者の先頭に立って戦う勇気を示さねばならないと、彼は日頃から姫に教えていたからだ。
「でも..だからといって姫様が戦場に立つわけでもないでしょうに..」
そう困惑した侍女に被せるようにゼルダ姫は言った。
「いいのです。わたくしはいま、剣士の気分を味わっているのですから。そういうことでよいでしょう?」
彼女はそう言うと、今度はラフレルに向かって軽くウィンクをした。ラフレルは感じ入って頭を下げた。
侍女が水を取りに慌ただしく立ち去ると、ラフレルは小声で姫に言った。
「このラフレル、感服いたしました。姫殿下が王たる務めをこれほどまでに深く理解していらっしゃるとは...」
「わたくしは望んで王女となったわけではありません」
するとゼルダ姫は真顔に戻って答えた。彼女はやや間を置くと、こう続けた。
「ですから、なおのことわたくしはこの務めから逃れるわけにはいかないと思っています。それは、わたくしをこの場所に据えたこの世界の意思を裏切ることになりますゆえ」
ラフレルは驚きに満たされて眼の前の少女を見つめた。彼女の表情は、年齢に似つかわしくないほどの賢明さと老成、さらにはある種の諦念さえも漂わせていた。
「姫殿下....」
ラフレルが呟いたその時、水入りのコップを盆に載せて侍女が小走りに戻ってきた。彼女はゼルダがコップを手に取り水を飲むのを見届けると、思い出したようにラフレルに向き直った。
「そうだわ、ラフレルさん。王陛下からのお話しがあるって、大公さまから伝言をことづかったわ。早く行かれたほうがよろしいんじゃなくって?」
刺々しい言い方にラフレルは思わず鼻白んだが、ラフレルはそれを顔に出さないよう気を使いながら礼を述べた。
「それはお伝えいただき有り難い。では、すぐに参ることといたそう」
「ラフレル」
その時、水を飲み終わったゼルダ姫が声をかけてきた。ラフレルは思わず立ち止まった。
「..お願いがありますの」
「なんなりとお申し付けください」
ラフレルが頭を下げると、ゼルダ姫はやや恥ずかしそうに言った。
「ラフレル...今度は弓矢を教えて下さいませんか?」
「ゆ...弓矢...でございますか」
ラフレルと侍女は思わず同時に言葉を漏らした。だがラフレルはすぐに笑顔になって答えた。
「....確かに以前に一度お教えした際、姫殿下はとてもお上手でございました。ではこの次は弓矢を持って参りましょう」
ラフレルは一礼すると、向きを変えて退出した。中庭を横切り、門をくぐると城の建物に入り長い階段を登った。謁見の間の入り口に着くと、執事が焦れたように歩き回っていたが、ラフレルを認めると近づいてきて言った。
「ラフレル卿、お早く。陛下がお待ちですぞ」
「承知いたしました」
ラフレルは入り口をくぐると身を低くして広間の奥に進み、片膝を着いた。玉座の方から声がした。
「.....ラフレルか」
「はっ...。お待たせ申し上げたこと、お詫びいたします」
ラフレルは一層身を低くした。
「もそっと近う寄れ。この頃は大声を出すのが億劫でかなわん」
再び王の声がした。ラフレルは頭を上げないよう気を付けながら恭しい態度で前に進み出た。すると、玉座の脇に立っていた身なりの良い老人が咳払いをして口を開いた。
「ラフレル卿、本日お呼びしたのは他でもない、貴殿の処遇についてでしてな」
「ははッ...まことに恐れいりまする、大公閣下」
ラフレルはまた頭を下げた。
五十歳で軍を定年退職してすぐに、ゼルダ姫の教育係という大任を仰せつかってから、まだ一年たらずだ。これほど早く昇給の話が出るのかと思うと、ラフレルは意外の念を抱くとともに、精一杯勤めてきた甲斐があったと心を強くした。
「その前にだな...ひとつ侍女どもから報告があってだな。これは儂から説明しよう」
すると王が言った。ラフレルは思わず目を上げた。王が細かな話に立ち入るなど珍しいことだと思ったからだ。
「...先日、ゼルダの手の皮が擦り剝けていたそうだ。剣の素振りのやりすぎだとか。ラフレル、お主は気づいておらなんだか?」
ラフレルは思わず背筋が凍りつく思いがした。彼は居住まいを正すと平身低頭した。
「も...申し訳ございません。次からはそのようなことのないように重々注意しますゆえ....」
彼はうろたえながら言い訳を口にした。
「姫殿下におかれましては、人並外れて武術の才能がおありです。それゆえこのラフレル、つい夢中になってご教授してしまいました。以後は肝に銘じて...」
「ラフレル卿...君には前から言いたかったのだがね」
すると話し終わらぬうちに、大公が口を開いた。
「軍時代の君は確かに優秀だった。だが姫殿下の教育においても軍と同じようなやり方を持ち込んでもらっては困る。君もそれぐらいのことは心得ていたと思っていたが...」
「...はっ...このラフレル、自らの不明を恥じいるばかりでございます。以後は徹底して安全管理を...」
「ま、よいわい。いずれにせよ、剣の稽古はこれ限りとなろうからの」
また王が口を開いた。その味気のない語調に異変を感じたラフレルは思わず目を見開いて王の顔を見上げた。
王の顔色は悪かった。もともと肥満気味だったのが、最近になってますます肥え太っている。さらには肌の張りも悪い。ラフレルは一瞬だが目の前の懸念を忘れ、やや心配になった。しかしまた王が口を開いたので彼は我に返った。
「王家の者のたしなみとして剣でも、と思っておったが、考えてみればそれに夢中になってその他の学問が遅れては困るからの....。何より、この平和な時代には不要なことじゃて」
「へ...陛下...」
ラフレルは自分が今極めて悪い状況に置かれていることを悟った。このままでは王の不興を買い職を失うという最悪の事態に陥ることになる。
「陛下...恐れながら。平和な時代に力を蓄えておいてこそ、動乱の時代に対処できるかと。姫殿下は、有事に民を率いて戦うべき王の務めを深く理解しておいでです。その殿下のお覚悟に応えるためにも、このラフレル身命を賭して...」
「ラフレル卿、君はわかっていない」
今度は大公が言った。その声は冷たかった。
「平和の時代には動かざる統治。王陛下はそうしてこの国の安寧を守ってこられたのだ。何かというと剣を振り回すような軽率なことでは、統治者は到底務まらぬ。君は自身の役割を過大評価し過ぎているのだよ」
ラフレルは何も言えずに俯いた。
もともと、自分は期待などされていなかったのだ。誠心誠意教授することで、確かにゼルダ姫と信頼関係を築くことはできた。だが、王はその教授内容を喜ぶどころか、むしろ疎んじている。
自分はなんのために努力してきたのか。
失意がひたひたと胸の内を満たしていく。呆然と宙を見つめるラフレルの頭上に、王の無機質な声が響いた。
「今まで苦労であった。下がってよいぞ」
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
ラフレルは城の前庭を歩いていた。向かう先は決めていない。まだ時刻は昼過ぎだ。
五十にして無職。
彼の頭は未だにこの事態をとらえきれていなかった。
ラフレルは生まれこそ貴族家だったが、兄の多い彼には家督や財産を受け継ぐ機会が巡ってくる目はなかった。しかしだからといって普段は疎遠な親戚連中を回って仕事の口利きを頼むのはいかにも体面が悪い。
若ければ、荷運び人夫でも、車引きでも、穴掘りでもやって糊口を凌ぐことはできただろう。だが、この年でそれができるだろうか。
かと言って、自分には商売の才覚はない。物を右から左に動かしつつ小狡く振舞って利益をせしめるような機転は到底持ち合わせていない。
自分には妻子がいる。子供の教育費もまだ山のように必要だ。それを賄えるような仕事の口。それをどこで見つければいい?
ーーーー酒場。
するとそんな言葉が頭に浮かんだ。
雑多な種類の人間が多く集まる場所。そのような場所ならば、もしかして。
ラフレルは顔を上げた。巨大な木の城門を通り抜けると、噴水広場を横切る。
まだ若い時分に一度だけ行ったことがある酒場が、確か目抜き通りから入る裏通りにあったはずだ。
彼は記憶を頼りに、果物屋の屋台を右手に曲がった。表通りと打って変わって、人通りは途絶えた。日当たりの悪い狭い路地の周囲には木の箱が山と積まれている。
「テルマの酒場」
突き当りの壁に看板がかかっていた。間違いない。ラフレルはその看板の右手にあった扉に手を掛けて開いた。
* * * * * * * * * * * *
笑い声と喧噪。人が大声で話す声。
食べ物と酒の匂いが入り混じって漂ってくる。
まだ昼過ぎだというのに酒場は繁盛していた。テーブル席にもカウンターにも、男たちが鈴なりになっている。だが、その客層を見て、ラフレルは一瞬物怖じした。
擦り切れた麻布の服。手入れされていない髪型と髭。
怒鳴り声と聞き間違えるほどの乱暴なしゃべり方。
おまけに、座を占めた先客たちはラフレルの姿に気づくと、頭の先から足先までじろじろ眺めまわしてきた。
油で綺麗に整えた髪型。アイロンの効いた服。よく磨かれて光る革靴。
そんな服装をしている者は、ここには自分以外にひとりもいない。
「あんた初めて?見慣れない顔だね」
声を掛けてくるものがあって、ラフレルは急に我に返った。
「後でオーダー聞いてあげるから、先に席とりな。今日は金曜だからきっと込むよ」
目の前に前掛けをした女が立っている。年のころは三十半ばほどだろうか。黒く縮れた髪を後ろにまとめた美しい顔立ちの女だったが、その仕草と喋り方はいかにも気が強そうだった。
「かたじけない。ではそのようにいたそう」
思わずラフレルが答えると、周囲の男たちの間に失笑が広がった。
「かたじけない...だってよ!」
「へっ...貴族様のご入店か。下々の者の生活を見たいってか?」
ラフレルは思った。自分はここに属していない。明らかに歓迎されていない。帰るか?
だが、それでは当初の目的を果たせない。彼は居心地が悪いのを我慢して、カウンターに一つだけ開いた席を見つけ出し、そこに身体をねじ込んだ。
後でオーダーを聞く。そう言っていた女店主を目で追った。だが、この店をたった一人で切り盛りしているのか、彼女は別の客席で忙しく立ち働いていて、戻ってくる気配はない。ラフレルは手持ち無沙汰なのを我慢しながら待った。
だがその時背後から声がした。
「おい、そこは俺の席だ。どきな」
振り返ると、肉体労働者らしき大柄な男が立っている。ラフレルはややムッとしたが、顔に出さぬようにしながら返答した。
「貴殿の席、と申されたか。予約しておられたのか?」
「予約だ?理屈こねるんじゃねえ。俺の席っつったら俺の席なんだよ。そこをどけ」
男は手を伸ばしてラフレルの肩を乱暴に押しのけようとした。
ラフレルは反射的にその手を跳ね除けると、やや声を低くして尋ねた。
「気安く触れないで頂きたい。それに、ここが貴殿の席と申されるならその根拠を....」
その途端、大男は右手の拳を握ると思い切り振り回してきた。ラフレルはすんでのところで身を低くして躱した。大男のパンチが隣席に座っていた客に直撃し、その男は席から転げ落ちた。
「てめえいい度胸じゃねえか。この俺に喧嘩売ろうってのか」
誤爆に気を留めることもなく、大男は両手の拳を握って構えた。
ラフレルは困惑し切っていた。
なぜこうなった。
酒場に行って、情報を収集し、仕事の口を探す。
ただそれだけのつもりだったのに。
なぜこうなった。