「――貴殿の仰った通りです。近年、魔物の活動はとみに激しくなっているということはわたくしも存じています」
馬上の貴婦人は静かに言った。ラフレルは、彼女の馬の手綱を引きながら耳を傾ける。貴婦人の隊列は、ハイラル平原の川にかかった橋を渡り切ると、南方のフィローネ地方に向かっていた。
「...ですが、それこそがまさにわたくしがこたびの旅に出た理由です」
続く貴婦人の言葉に、ラフレルは戸惑った。時刻はようやく昼を過ぎた頃だ。一同は出発前に軽く食事をしていたから、まだ危険な平原にいるとはいえ、貴婦人の従者たちもラフレルの仲間たちもすっかり寛いだ気分になっていた。
「...それこそが、旅に出られた理由、と仰いますと...?」
ラフレルが相手の顔を見上げて何気なく尋ねると、貴婦人は少し微笑んで首を振った。
「ごめんなさい、ラフレル。お話しすることができることとできないことがあるのです」
ラフレルは黙った。すると今度は貴婦人のほうが口を開いた。
「ですが、貴殿もまた、最近いくつかの激しい戦いを経験されたとお見受けします。そうでしょう?」
そう言われたラフレルは肝が冷えるほど驚いた。なぜ分かったのだろう?
「...奥方さまのご明察のとおりにございます。このラフレル、長く軍に勤めておりましたが...」
ラフレルは言葉を探すと、ようやくこう答えた。
「それでも経験したことがないほどの強力な魔物に出会いましてございます。あれは不思議でございました。一体何者だったのか...............」
「彼らは、また来るでしょう」
貴婦人はそう言った。ラフレルはいよいよ絶句してしまった。貴婦人の言い方は、まるでラフレルたちが戦ったあの得体の知れない魔物たちをその目で見たかのような語調だったからだ。
――奥方さま。貴女はいったい何者なのですか――
喉元まで出かかったその疑問を無理やり飲み込むと、ラフレルは前を向いて言った。
「なるほど、確かにそうとも思えますな。このラフレル、王城内に居た頃は折に触れ、平時においても国を防衛する力を蓄えることの必要性を説いておりましたが、やはり民間人となった今もその務めを止めるわけにはいかないようです」
「わたくしも全く同意いたします。ですが....」
貴婦人は少し言葉を切ると、やや声を落として続けた。
「貴殿の意見に耳を傾ける者ばかりではないことも事実です。人の心というのは、目の前のものに動かされやすく、平和が長く続けばやがてその平和が永遠に続くものと錯覚してしまいます。悲しいことですが、そのような国ではラフレル....あなたのような方はしばしば居場所を失うことがあるのです」
それを聞いたラフレルはもはや背筋が寒くなってきた。そして確信した。
間違いない。この貴婦人は王家に極めて近い貴族筋のお方。そうでなければ、内部事情をここまで知っていることの説明がつかない。
相手の正体に察しがつき始めたところで、ラフレルには心の奥底にある懸念を正直に打ち明けようという思いが湧いてきた。彼はやや頭を垂れて言った。
「....このラフレル、元軍人として、ハイラル王家に対する忠義を忘れたことはございませぬ。ですが、王家がもし潜在的な危機に気付かず備えを欠いたゆえに滅びるようなことがあれば、拙者は慙愧の念に堪えぬでしょう。たとえ耳を傾けられなくとも、諦めずに働き続ける所存でござる」
「ご安心なさい。王家は滅びませぬ。ゼルダ姫は必ずや成長し名君となりましょう」
貴婦人は、またも迷いのない口調でそう答えた。ラフレルの心を新たな驚きの波が襲った。確信は固まった。この貴婦人は、ただ者ではない。
「...しかし、その前に、試練が襲うでしょう。その試練は激しく苦しいものです。心備えのある者であっても、耐えられぬほどに。あの子は...貴殿も知ってのとおり、トライフォースを受け継いでしまった者の定めと覚悟をよく心得ています。しかし、それでも....」
貴婦人は途中で言葉を切った。
――あの子――
慣れてきたとはいえ、ラフレルはまた驚嘆した。この貴婦人、王位継承権を持つ貴族の出でほぼ間違いなかろう。ラフレルは頷いた。
「まさしく。ゼルダ姫殿下は、あの齢にして賢明かつ勇敢な方でござる。このラフレル、姫殿下が即位された暁には、命の限りお支えする覚悟にござる」
「感謝いたします。あの子も報われるというものです」
貴婦人はラフレルを見やるとにっこりと微笑んだ。そして肩から吊った布に包まれた赤子にそっと手を添えた。
ラフレルは不思議に思った。これほど高貴な身分なのに、なぜ乳母に赤子を任せてしまわないのだろう?
「この子は、わたくしが世に送り出した者です。ですから、手を離れるまではせめてこの身に抱いていたいのです」
まるでラフレルの心を読んだように貴婦人は言った。隊列は、やがてハイラル平原からフィローネ地方に抜ける小道に入っていった。道の両側を挟む崖の上には高い木立が林立している。
「元気なお子ですな。きっと、将来はひとかどの人物となりましょう」
ラフレルも微笑むと、そう返した。すると貴婦人は答えた。
「この子もまた、厳しい試練を通ります。戦い、疎外、孤独.........ですが、全ての試練に勇気をもって打ち勝つことが出来るようわたくしは備えさせるつもりです」
「....し...試練....でございますか」
ラフレルはまたも言葉を失った。生まれて数か月の赤子についてそのようなことを予言する母親など見たことがない。
「なぜなら、時が近づいているからです。先ほども言ったとおり、あの者たちはまたやってきます。三つの力のうち、ひとつは闇から来る者に属しています。ですから、ゼルダにはもうひとつの力を持った助け手が必要なのです。この子が、それです」
淡々と貴婦人は言った。その表情を見ても、気負ったところもなければ、悲壮な雰囲気もない。ラフレルは世にも奇妙なこの会話に頭が追いつかなくなってきてしまった。
やがて日が傾き始めるころ、隊列はフィローネ地方入り口を示す柵にまで到達した。
貴婦人は手を上げて隊列を止まらせると、従者の手を借りて馬を降り、ラフレルに向き直った。
「ここで結構ですラフレル。付き合ってくださり、感謝しています」
「旅の目的が果たされるよう、そしてお子が健康に育たれますよう、祈念しております、奥方さま」
ラフレルは深く頭を下げた。だが、その心の中には多くの疑問が渦巻いていた。彼女が語った言葉の多くが、彼にとっては謎でしかなかったからだ。
すると、貴婦人はまたもやラフレルの心を読んだようだった。彼女は柔らかく微笑むと、彼の肩にそっと手をかけて言った。
「時が来れば全てが明らかになります。いえ...気づかぬ者も多いでしょう。安逸を貪る者は貪り続けます。しかし、ラフレル、あなたのような者は悟るでしょう。ですから....ラフレル」
そこで貴婦人はゆっくりと頭を下げた。
「わたくしから、お頼み申し上げます。どうか、ゼルダをお願い致します」
ラフレルはしばし茫然としたが、やがて慌てて頭を下げ返礼した。馬車から降りてきた仲間たちも、同じように膝を曲げて見送った。貴婦人は再び馬に乗ると、隊列とともに南の方角に去っていった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
「なあ旦那....さっきからずっと思ってたんだけどよ」
一行が馬車に乗り北に方向を戻して出発すると、手綱を操りながらアレハンドロが口を開いた。
「なんですかな、御者どの?」
「旦那はなんだってぇあの別嬪さんの名前を訪ねなかったんだい?傍から会話聞いてて、まるで奥歯にモノでも挟まってんのかって思っちまったぜ」
御者の問いにラフレルは答えた。
「あのような高貴のご婦人が夫君に伴われず旅をしているということは、相応の事情があると見るのが妥当でござる。とすれば名を尋ねぬのが礼儀というもの」
「んぁ?言ってる意味がよくわかんねぇ。要するに、気を利かせてってことかぁ?」
アレハンドロが言うと、ラフレルは頷いた。
「さよう。ともすると高貴な家には要らぬ噂が立つものです。それを避けるためどれほど気を遣うか、その努力は並々ならぬものですゆえ」
「へぇそんなもんかい。俺みてぇな奴には想像もつかねぇなぁ」
御者は呟いた。そしてやおら声を上げた。
「あ。なぁるほど。そういうことかぁ。おい旦那!読めたぜ!」
御者は馬車を進ませながら振り向いて得意げに言う。
「あの別嬪さんは道ならぬ恋をして子を宿した。そんで、どっか遠くの、誰も知らねぇような村に行って、その赤んぼを預けるつもりなんだ。どうだ、俺の読み。当たってっか?」
「アレハンドロ殿、控えられよ」
ラフレルはやや厳しい表情になって答えた。
「まさに、そのような詮索を防ぐための気遣いが必要なのでござる。噂話はひとたび広がれば止められぬ。そして根も葉もないにも関わらず、長く人の心を蝕むのですぞ。どうか心得ていただきたい」
「....ッたく、わぁッたよぉ...。そんなおっかねぇツラしなくたっていいのによぉ」
御者は少し不満げだったが、結局大人しく従った。やがて日没ごろ、馬車は小道からハイラル平原に出る出口に着いた。
「野営いたそう」
ラフレルは提案すると、馬車から降りて薪を拾い集め始めた。ガブール族長も続いて手伝った。
「我、見る。女神」
薪を集めながら、族長は南のほうを指さすと真顔で言った。するとミハイルが馬車から降りながら可笑しそうに言った。
「ハハハ、族長。そんな顔して意外と女好きだなぁ。確かに綺麗なひとだったけど、いくらなんでも女神とはねぇ」
「見る。女神。女神」
族長はもう一度繰り返す。ラフレルは困惑したが、首を振って仕事に戻った。薪をじゅうぶんに集めると、焚火を起こし、天幕を張った。
夕食を済ませ、見張りの輪番を決めると、ラフレルは焚火の近くで横になった。
魔物の活動の増加。
ラフレルの経験を言い当て、ゼルダ姫を『あの子』と呼んだ貴婦人。
ゼルダ姫を将来襲うという、激しく苦しい試練。
ひとつは闇から来る者に属しているという『三つの力』。
ゼルダ姫の助け手として世に出され、同じく試練を通ることを定められた赤子。
考えても、考えても分からなかった。なんとなれば、ラフレルの頭脳は、ミハイルのような学者とは違い、答えの出ない問いを執念深く追い続けるようにはできていなかったからである。
やがて、心地よい疲労感がヒタヒタと迫ってきて、ラフレルは眠りについた。