「アレハンドロ殿!川床から出られよ!」
ラフレルはそう叫ぶと、馬車の荷台の後部を振り返った。そして、幌の出口から見える光景に驚愕し目を見開いた。
はるか西方へ伸びる水無川の上流から、まるで軍勢のような水の塊が押し寄せてきている。
「ん?なんだこの音ぁ?」
アレハンドロが気づいて顔を上げた。ラフレルはその耳元に口をつけて怒鳴った。
「アレハンドロ殿!早く川の外へ!」
「なっ....耳元ででけぇ声出すなっつうの」
アレハンドロは顔をしかめた。すると今度は馬車の後部から身を乗り出したミハイルがこちらを振り返りながら叫んだ。
「こ...これは鉄砲水だよ!流されるぞ!」
「アレハンドロ殿!急がれよ!」
ラフレルは御者の襟首を掴み、絞め殺さんばかりの勢いで迫る。アレハンドロは左右を見、そして下方を見た。水位が急速に上がり、馬の足が水を跳ね飛ばしている。かと思うと、馬車の後方から次々と流木が流れてきて追い越していった。
「....て...鉄砲...み...ず?」
ようやく事態を把握したのか、アレハンドロは呆然とした顔で呟いた。ラフレルは御者の肩を揺さぶりながら言った。
「アレハンドロ殿、針路を!一刻を争いますぞ!」
御者の顔が蒼白になった。手綱を右に切ると、馬が針路を変え、馬車は川床から岸に乗り上げた。
だが一瞬遅かった。
凄まじい衝撃が馬車の車体に叩きつけられる。荷台はたまらず横倒しになった。積み上げられた箱がけたたましい音を立てて崩れ落ちる。
御者席のアレハンドロを除く荷台に乗っていた三人は吹き飛ばされ、幌の内側に叩きつけられた。だがラフレルは咄嗟に手を伸ばして自分の荷物を引き寄せると、ストラップにくくりつけておいたカラビナを幌の柱に嵌め込んだ。
「ドヴィック.....ドヴィックが流されるぞ!おい、誰か!」
ミハイルが恐慌状態で叫んだ。荷台は水に浮いているのか、一旦横倒しになったのがまた水平に近づいてきた。だがラフレルが目を上げると、木こりは衝撃で外に放り出されたらしく、荷台の縁に辛うじて両手でしがみついている。その下半身は完全に激流の中だ。
激しい水が押し寄せ、荷台の中も水浸しだ。ミハイル自身も立ち上がろうともがいているが、傾いた床が水で滑るのか、果たせない。
ラフレルは背嚢の横につけておいたロープを解くと放り投げた。
「博士!ドヴィック殿、これへ!」
ミハイルが必死の形相でロープを掴む。だが、その先端が届いたか届かないかのところで、木こりは言った。
「だ...旦那がた...ワシはもうダメです。ワシに構わず...」
幌に固定された背嚢にしがみついていたラフレルは迷わず飛び出した。ミハイルの脇を通り過ぎ、ドヴィックに突進する。
片手でロープを掴み、もう片方の手を伸ばした。その瞬間、力尽きた木こりが荷台の縁を手放した。だが、間一髪のところでラフレルの手が木こりを捕らえた。
「博士!ご助力を!」
ラフレルは荷台から身を乗り出し、全身全霊で木こりの手を握りながら叫んだ。もはや木こりの身体は激流の中だ。だがミハイルは泣きそうな声で言う。
「そ...そんなこと言ったって...」
「ならば拙者の背嚢から予備のカラビナを!」
ラフレルは指示した。ミハイルは必死で片手を伸ばすと、背嚢の周囲にぶら下がった金具を外し、こちらに差し出した。
「こ......これかい?」
「それを拙者のベルトに!それからロープを固定するのだ!」
ミハイルはようやく落ち着きを取り戻した。彼は不安定な足場に這いつくばりながらも言われたとおりにカラビナを固定し、ロープの先端を手繰って結びつけた。
ラフレルは手をロープから離すと、両手でしっかりと木こりを捕まえながら荷台の上に引き上げた。ようやく息を整えると、カラビナをベルトから外し、二人に呼びかけた。
「馬車の前部は陸の上だ。さあ各々方、そこから外へ」
荷台の内部も急激に水位が上がってきていた。ラフレルは背嚢を背負うと動き出した。ミハイルとドヴィックが続く。御者席の脇から這い出ると、飛び込むようにして川の土手に身を投げ出した。
激しい雨が顔を打つ。遠くで雷の音さえ鳴っていた。馬車に繋がれたままの馬が怯えたように頭を振る。ラフレルは立ち上がると手を伸ばし、馬のハーネスを外してやった。
ふと横を見ると、アレハンドロが茫然自失の様子で立っていた。目を大きく見開いているが、その瞳はまるで魂が抜けた者のようだった。
* * * * * * * * * * * *
「おしめぇだ....何もかもおしめぇだ...」
アレハンドロは呟いた。その目の焦点は未だに合っていない。
雨はようやく落ち着き始めていた。川岸の土手に半分乗り上げた馬車の荷台が水流に揉まれて揺れるたび、ガラスとガラスが衝突する耳障りな音が聞こえる。
「各々方、も少し川から離れたほうがよいかと。さらなる増水があった場合に..」
ラフレルが言うと、アレハンドロは答えるかのようにまた呟いた。
「もう何もかもおしめぇだ...。今更生き延びたってどうにもならねぇよ...」
「アレハンドロ殿。お気を確かに。物資や金銭は元に戻せるが、命はそうはゆかぬゆえ」
ラフレルは御者の肩に手をかけて励ました。だが御者は力なく首を振った。
「元に戻せるだぁ?元に戻ったためしなんかねぇぜ。全部...ぜんぶぶっ壊れ、消えていくんだ。戻ってなんか来ねぇよ」
「雨....止んできたね。どうやら局所的なスコールだったみたいだ」
ミハイルが空を見上げながら言った。ドヴィックがようやく我に返ったかのように口を開いた。
「ラフレルの旦那....旦那はワシの命の恩人ですだ。どうお礼をしたらいいか...」
「礼には及びませぬ。なすべきことをしたまで」
ラフレルは微笑むと答えた。彼はアレハンドロに向き直ると提案した。
「アレハンドロ殿。水が引いたら、馬車の修復にかかることといたそう。それに荷物の中にまだ破損していない物が残っているやも知れぬ」
それを聞いた御者はしばらくの間黙っていたが、やがって心ここにあらずの様相で頷いた。
* * * * * * * * * * * * * *
やがて川の水位が下がると、一同は力を合わせて馬車を川の土手に引きずり上げた。荷台の中の荷物は壊滅状態だった。しかも馬車自体もあちこちが破損し、おまけに車輪が一つ紛失している。
四人は荷台に散らばっていた荷箱を解体してできた木材を積み上げ焚き火を起こした。その頃には雨はすっかり上がっていた。体を温めて濡れた服を乾かすと、一同は食事をとって元気をつけた。
「さて、腹ごしらえが済んだのでひと仕事しますです」
ドヴィックはそう言うと立ち上がった。三人が怪訝に思いながら見つめるなか、彼は腰のポーチから金槌と釘を取り出し、馬車の破損箇所を修繕し始めた。
「お...驚いたなぁ。きみにそんな特技があったなんて」
ミハイルが感心したように言う。ドヴィックは作業を続けながら答えた。
「ワシは木に関する仕事ならなんでもやるです。城下町では大工と木工、郷では木こりをやりますです」
既に夜はふけていた。毛布が濡れて使えないので、一同は荷箱を全て燃料として使ってしまうことにした。内部にあった酒瓶は全て粉々だった。
「これからどうする...って今聞いても...しょうがないよね、アレハンドロ」
ミハイルが気の毒そうな表情で言う。御者はしばらく考えた後、こう答えた。
「...ま...しょうがねぇさ。人生いろいろあるからな。どうにかやってくさ」
「アレハンドロ殿、気を取り直されたのですな。ご立派でござる」
ラフレルが言うと、アレハンドロは唇を曲げた。
「ご立派?あいにくだな、旦那。俺はご立派にやるつもりなんかねぇぜ。ま、当分は雲隠れして城下町には寄り付かなきゃぁいいさ。ほとぼりが冷めるまではな」
ラフレルは驚いて眉を上げた。
「しかし...貴殿には契約上の義務があろう。債務を負うことは苦しいが、それを誠心誠意果たしてこそ、堂々と大手を振って歩くことができるというものでは?」
「へッ。綺麗事さ。世の中真面目に借金を返そうとしたところで、ますます借金まみれになるように出来てるのさ。あんたはそういう目に遭ったことがねぇからわからんかも知れねぇがな」
アレハンドロは鼻を鳴らした。ラフレルは顔をしかめたが、それ以上は言わないことにした。
「旦那がた...もしよろしければ、ワシの郷に来てくださいです。大したおもてなしはできませんが、しばらくの間なら....」
作業を終えたドヴィックは、焚き火の前に座ると一同を見回した。
「ありがたいね。じゃ、お世話になるよ」
ミハイルが気兼ねなく言う。ラフレルも同意した。
「いずれにせよ城下町に戻るには物資が足りぬゆえ、ドヴィック殿のご提案は有難い」
一同はそこで一泊した。翌朝起床すると、彼らは馬を労りながら、車輪が一つ欠けた馬車を皆で押してゆっくりと東に進めた。
幸運なことに数キロ下流の岸に車輪が引っ掛かっていた。ドヴィックはそれを器用に馬車に取り付けて修繕した。
全員が馬車に乗る。やがて一同は平原から両側を崖に挟まれた狭く未整備な道へ入っていった。ごく遅い速度しか出せない荒れた道だ。道を進むにつれて周囲の木立の背が高くなっていく。
休憩を挟みつつ前進すると、ただでさえ曇り空で太陽が見えないうえ、背の高い木立のせいで射し込む日光はますます弱まっていく。さらには、時刻が進んで日が傾くと、否応なしに頭上の空の色が不気味さを増し、暗い森がますます暗くなる。
ラフレルはカンテラを取り出すと、御者の横に立ってそれを掲げた。辛うじて周囲が見える明るさだ。だが、日没前にはどうにか目的地に着くことができた。
道幅が急に開け、木立を切り開いて作られたらしき村が目の前に広がる。家屋は、どれも木組みの粗末な小屋だ。その窓から薄っすらとした灯りが漏れ出ている。
「つきましたです。ちょっとワシが先に行ってカカアに話をしてくるです」
ドヴィックはよいしょと掛け声をかけながら荷台から飛び降り、村の中へトコトコと駆けていった。アレハンドロも御者席から降りながら呟いた。
「まあ...確かにこりゃ田舎だわなぁ。トイレはボットン便所、水は井戸水、夜は虫だらけ...ってとこか?」
「よせよアレハンドロ。泊めてもらえるだけ御の字じゃないか」
続いて降りたミハイルが笑いながら窘める。いっぽう、ラフレルは鋭い視線で辺りを見回していた。ミハイルが怪訝な顔で尋ねた。
「どうしたんだい、ラフレル?」
「...いや、妙な雰囲気を感じましたのでな」
「妙な雰囲気?なんだいそれ?」
「虫の声、野生動物の息吹...そういったものがまるで聞こえぬ」
その時だった。村の家屋のうち一軒の扉が勢いよく開いた。皆が注目すると、家の中から恰幅の良い中年の女が出てくる。
「あんた.....あんた!
女は走り出すと、丁度その家に向かっていたドヴィックに抱き付いた。木こりは女を抱き寄せると懇ろな口調で言った。
「寂しい思いさせてすまねぇっぺよ。でも十分稼いだから、当分は村にいられるっぺよ」
すると女はドヴィックから身体を離し、涙を手で拭きながら嗚咽した。
「あんた...
「どうしたっぺさ?何があった?」
木こりは真剣な顔で細君の顔を覗き込む。ラフレルたち三人も近づいていった。
「村の子供たちに病気が広がっちまって.....それに家畜どもまでおかしくなっちまったっぺよ...」
「子供たちに?!」
木こりは目を見開いた。妻はようやく嗚咽を納めると続けた。
「そうさ。うちのレグも熱がずっと続いてて....ようやく落ち着いたと思ったら今度は下痢が酷くって..」
「なにッ....」
木こりは息を呑んだ。すると、家の中から少年が勢いよく走り出てきた。年のころは十歳ほどだ。
「おっとう!おっとう!」
「おお...ジルオか。背が伸びたっぺなぁ」
ドヴィックは両手を広げると少年を抱き上げた。少年は顔を輝かせながら父親を見上げ、矢継ぎ早に質問した。
「おっとう、お土産は?今度はどれくらい家にいてくれるの?」
「わかった、わかったっぺのう」
ドヴィックは苦笑いしながら腰のポーチから何かを取り出し、少年に渡した。
「うわぁ!凄い!兵隊人形だ!」
少年は目を大きく見開いて叫んだ。だが、数秒すると、すぐに心配げな顔になって父親を見た。
「おっとう....お土産、レグのぶんもあるよね?」
「心配はいらねぇっぺよ。ちゃんと持ってきただ」
木こりは少年の肩を叩いた。すると、木こりの妻がラフレルたちに気づき、不思議そうな顔をして夫に尋ねた。
「あんた...このおひとたちは
「紹介するっぺ。このお方はラフレルの旦那。ワシの命の恩人だっぺよぉ。何しろ鉄砲水から引き出してくれたんだっぺ」
ドヴィックはラフレルの腕を引いて紹介した。すると木こりの妻は、たちまち平身低頭の
「ありがとうごぜぇます。うちのひとを助けてくれて...もしこのひとがおらなんだら、わたしども一家は...」
「いえ、当然のことをしたまで。礼には及びませぬ」
ラフレルは恐縮して答えた。次に木こりはミハイルを紹介した。
「ミハイルの旦那だっぺ。なんと、大学の先生だっぺよぉ。凄いっぺ?」
木こりの妻は驚いて目を丸くする。まるで今まで見たこともない生物を眺めるかのような目だった。
「そんで、こっちが御者のアレハンドロ、ワシの呑み友達だっぺよ。喧嘩は百戦無敗だっぺ。でも女には優しいっぺよ」
「んだかぁ。うちのひとと仲良くしてくだすって、ありがとごぜぇます」
「まっ...腐れ縁って奴でね。ちぃっと世話になるぜ」
アレハンドロが応える。大人たちは和やかに談笑し始め、その傍らで少年は嬉しそうに兵隊人形を動かして遊んでいる。だがラフレルには胸騒ぎがした。
「奥方さま、少しよろしいか?」
ラフレルは木こりの妻に声をかけた。すると彼女は笑いながら言った。
「奥方なんてガラじゃねえっぺ、プリュシュカって呼んでくだせぇな」
「プリュシュカ夫人...ご子息の病気というのはいかなるもので?」
「そうだ、こうしちゃいられねぇ。様子を見に行くっぺよ」
彼女は気づいたかのように顔を上げると家の中に駆け込んだ。ドヴィックの先導で、他の者たちも家に入った。
木こりの家は、外見こそ粗末だったが内部は意外にも清潔でよく整えられていた。テーブルの置かれた居間を通り過ぎ、扉を潜ると、その先は子供の寝室だった。
「レグ...どうだい?お腹は痛いかい?」
寝台に横たわった五歳ほどの少年に、木こりの妻が声をかけながらその腹をさすった。ラフレルは声をかけた。
「僭越ながら...。脱水症状を防ぐため白湯に塩と砂糖を混ぜたものを飲ませるとよいかと」
「でも近頃は塩も砂糖も高いっぺよぉ。うちみたいな貧乏な家にぁとても...」
プリュシュカが溜め息混じりに答える。ラフレルは申し出た。
「ならば拙者が持参したものを使われるがよかろう」
ラフレルは台所を借り、手早く経口補水液を作るとよく冷まして枕元に持っていった。少年の兄も傍らに来て心配げな顔をしている。
母親は病児の頭をそっと持ち上げ、コップから少しづつ補水液を飲ませた。ラフレルは後ろに立ち、横たわった男の子の顔を見つめた。その顔色は悪く、やつれているだけでなくどこか怯えているような風情がある。
「奥方...いえ、プリュシュカ夫人。もう一つ尋ねたきことが」
「なんだい、旦那?」
プリュシュカは手を休めて顔を上げた。ラフレルは尋ねた。
「ご次男は悪夢を見られるか?」
すると彼女は溜め息をついた。
「もうしょっちゅうさ。毎晩みてぇに泣きわめいて目を覚ましちまう。もう夜泣きする歳でもねえっぺのによぉ」
ラフレルは腕を組むと唸った。胸の中で急速に違和感が膨らんできた。だが、言葉にすることができない。すると、居間に居たミハイルが手招きしてきた。
「どうされた、博士?」
「ラフレル、君の言うとおりだよ」
ラフレルが近づくとミハイルは声を潜めて言った。
「このところ家畜が急死する事例が増えているらしいんだ。それも病気でもなければ傷ひとつ残さずにね」
「急死.....」
ラフレルが呟くと、ミハイルは顎に手を当てながら続けた。
「なんらかの魔力の影響だよ。きっと間違いない」