「なんらかの魔力の影響だよ。きっと間違いない」
ミハイルは顎に手を当てながら言った。ラフレルは数瞬考えたあと口を開いた。
「魔力...と申されるか。だが単純な感染症の可能性はないのだろうか?」
「もちろんその線もないわけではないと思うよ。でも....悪夢っていうのが気になる。何しろ毎晩悪夢を見させる感染症なんて、僕は聞いたこともないよ」
学者は真剣な顔で答える。その時、玄関扉が開いてドヴィックが入ってきた。家の周囲を調べていたらしい。その顔はやや気落ちしていた。
「鶏が半分死んでいたです。山羊も一頭......」
「そ...そいつは災難だったね、ドヴィック」
ミハイルが言った。だがラフレルは黙って腕を組みながらも頭を忙しく回転させていた。
「ラフレル、これじゃあ彼らも僕らを世話するどころじゃないね。ただ、何とかしてあげたいとは思っても、情報が少なすぎて...」
ミハイルが呟く。ラフレルは顔を上げた。
「木こり殿。家畜には何を食べさせ飲ませておられるのか?」
「何って....鶏は残り物、山羊たちは草でごぜえますだ、旦那」
「水についてはいかがか?」
「水......」
ドヴィックは不思議そうな顔で目をパチクリさせていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「家畜たちには川から引いて畑に入れる水をそのまま飲ませておりますです」
「井戸水ではない、と?」
ラフレルが確認すると、木こりは答えた。
「井戸水はこのところ水位が下がってきたから、今年から飲むのは人間だけという取り決めになったです」
「なるほど」
ラフレルはまた腕を組んで考え込んだ。ミハイルが横から言った。
「ラフレル、水質汚染を疑ってるんだね。だけど、子供たちの病気を考えると...」
「さよう。それが謎でござる。子供たちは家畜とは飲む水が違うとしたら説明できぬ」
その時、寝室から木こりの妻プリュシュカと長男の少年が戻ってきた。母親はやや安堵した様子だったが、兄の表情は曇っていた。
「おっかあ、レグはよくなるの?」
「なるっぺよ。そのためにあんたもいっぱいお祈りするっぺよ?」
母親が言い聞かせる。ラフレルは後ろから声をかけた。
「ご子息....ええ...ジルオ君と言ったかな?」
すると少年はびっくりして振り向いた。ラフレルは続けた。
「ジルオ君。川から引いた水を飲んだことはあるかね?あるいは川で泳いだことは?」
「そりゃねぇですよ、旦那。なにしろ、子供たちには川に近づくなって厳しく言い聞かせてるっぺよぉ」
プリュシュカが横から笑いながら言うと言葉を継いだ。
「この村は男どもは大抵出稼ぎにいっちまうし、女は畑と家事で忙しいっぺ。だから、誰も見張れねぇから川遊びはするなって、そう決めてあるんだっぺさ。なあ、ジルオ?」
そう言われた少年は困惑した表情を浮かべたが、やがてモジモジし始めた。両手に持った兵隊人形を所在なげに弄り回している。
「どうしたっぺよぉ、ジルオ?」
「あ...あの...ぼく.....実は...」
母親に問われ、少年は顔を赤くしていたが、やがておずおずとした語調で話し始めた。
「あ...あの...本当は...みんな川遊びしてたんだ...大人たちにバレないように」
「な....なん言うとるっぺよ?なしてそんなことを?」
母親は腰を抜かさんばかりに驚いて叫んだ。
「だ...だって...遊ぶ場所も他にないし...それに....大人は誰も遊んでくれないから...みんな退屈でさ....」
「ジルオ!あんたはなしてそんな悪い子になっただ?」
母親は血相を変えて長男の首根っこを掴んだ。少年は慌てて弁解した。
「で...でも僕は川には入ってないんだ!僕は...一番年上だから、みんなが溺れないように見張ってたんだ!だから...だから勘弁してよ、おっかぁ!」
「いんや、あんたはお仕置きだ。おっとう、ジルオを物置きに閉じ込めておくれ!」
母親が厳しく言い渡した。だが、ドヴィックは腕を組んだままじっと動かない。
「おっとう、なにボサっとしとるだ!」
プリュシュカが急かす。だが木こりは静かに溜め息をつくと口を開いた。
「...ジルオ。おめぇはおめぇなりに役割を果たそうとしたんだっぺな。それはわかるっぺよ。だども....」
彼は息子の頭に手を置くと、こう続けた。
「年上の役割は、ただ見守るだけじゃねぇっぺ。もし弟や妹たちが悪い事をしそうになったら、叱って、手を引っ張ってでもやめさせるのがその役目だっぺ」
木こりはそこで少し間を置いたあと、身を屈めて息子に目線を合わせた。
「...でも、今のおっとうはおめぇにそうしろと言う資格はねえこともよく分かってる。本当は、おっとうがそういう年上の振る舞いを、おめぇに見せて教えなけりゃなんなかったのを、ずっと城下町にいておめぇを子供たちだけにしていたっぺからなぁ」
すると聞いていた少年の目にみるみるうちに涙が溢れてきた。木こりは、その涙をゴツゴツした指先で拭ってやるとこう締めくくった。
「おっとうは約束するっぺ。もう二度と村を出ていかないっぺ。だからおめぇも約束してほしいだ。大人たちに隠し事なんかしねぇで、思ったことも、やったこともそのまんま言うってな」
ジルオ少年はやがて声を上げて嗚咽し始めた。木こりは彼をそっと抱きしめた。
「ジルオ、よう頑張った。もう安心していいっぺ。これからはおっとうが傍にいるっぺよ」
少年がようやく泣き止むと、母親が彼を寝室に連れていき、次いでラフレルたちのために遅い夕食の支度を始めた。ラフレルは卓につくと口を開いた。
「水質汚染で決まりですな。だが、事態は少々深刻にござる」
「同感だね。汚染水が畑にも使われているとしたら、来年には全村民に影響が出てしまうよ」
ミハイルも深刻な表情で答えた。アレハンドロは珍しく沈黙したままだった。
「―――各々がた、提案がござる」
ラフレルは咳払いすると口火を切った。
「我々で水質汚染の原因を上流に遡って調査し、除去いたそう。手遅れになる前に。いかがか?」
「調査...除去...って...口で言うのは簡単だけど....ちょっとなあ」
ミハイルが当惑した表情で言う。
「俺は乗ってもいいぜ」
唐突にアレハンドロが声を上げ、一同は驚いて御者を見つめた。
「どうせ一文無し、行く場所もねぇ。この身体が何かの役に立つんだったら、まあ失敗しておっ
「御者殿。そう早まらずともよろしいではないか」
ラフレルは苦笑して窘めた。
「我々の任務はあくまでも調査を第一とし、原因の除去は第二。原因が分かれば王城に解決を依頼するという手もござる」
「なるほど、そのための証拠の積み上げができればよし、ってわけだね。なら見込みはありそうだ」
ミハイルもやや安堵した顔で同意した。
「でも...旦那がた。ワシらのような者のためにそんな危険を......」
ドヴィックがオドオドとした様子で口を開く。だがラフレルは答えた。
「木こり殿も誤解しておられる。我ら何も悲劇の英雄を演ずるつもりはござらぬ。ただ上流に遡って様子を見るだけにござるゆえ」
「....で....でも旦那。ひとつ申し上げねぇといけないことがあるです」
ドヴィックは悲し気な表情で言った。皆が見つめるなか、木こりは押し出すように言葉を継いだ。
「あの川の上流は.....禁足地の『渓谷』...ですだ。今まで足を踏み入れて無事に戻った者は...」
* * * * * * * * * * * * * * * *
その夜、食事が済むと一同は居間に枕を並べて寝た。ラフレルは翌朝早く起床すると、家の前庭に装備品を並べて出発の準備をした。
「精が出るじゃねぇか旦那」
扉が開くと、アレハンドロが家から出てきた。朝の空気を思い切り吸って伸びをしている。
森の木立の間から朝日が射し込んでくるが、その光は心なしか弱い。しかも、本来なら賑やかに鳴き立てるはずの小鳥たちも、静まり返っている。
「しかしアレだな。家庭円満の秘訣ってやつを見た気がするぜ。ドヴィックのやつ、博打もしねぇ大酒も飲まねぇで何が楽しくて生きてんのかと思ったら、結局のところ家族が生き甲斐なんだな」
アレハンドロが独り言を言った。ラフレルは爆弾袋に入れた爆弾と発射薬を点検し、腰のポーチに移した。次いで剣を鞘から抜いて刀身を確認する。刀身はよく砥がれて光り輝いていた。
「俺とは大違い、だな。結局...俺みてぇな奴は家庭を持っちゃいけなかったんだ。そうだろ?」
ラフレルは答えないまま弓に弦を張り直し、矢筒の中の矢を数えた。十分な数だ。御者は相変わらず独り言を続けた。
「俺の息子が生きてりゃぁなぁ....今頃あの小せぇほうのガキと同じくらい....」
「アレハンドロ殿、剣の心得は?」
ラフレルはやおら顔を上げて尋ねた。問われた御者は驚いた様子で目を丸くした。
「剣だぁ?あるわけねぇだろ。剣なんて習う家柄でもなかったしよ」
それを聞いたラフレルは背嚢を探り、短剣を一本取り出して差し出した。
「これを、アレハンドロ殿。万一のとき使われるがよかろう」
「あ?ナイフなんてどうすんだよ」
「貴殿は人との戦いは強い。だが魔物に拳は効かぬゆえ、護身用でござる」
その時、ミハイルが遅れて家から出てきた。寝起きが悪いのか、眼鏡を外して目を擦っている。
「やあおはよう。昨日は緊張してよく寝れなかったよ」
「ミハイル博士も武装されよ。小刀はもう一本あるゆえ」
ラフレルが声をかけ、武器を取り出して手渡した。あくびを噛み殺していたミハイルは途端に真顔になった。
「ぶ...武装?僕が?」
「念のためでござる」
そう言われたミハイルはみるみる顔面蒼白になった。小刀を受け取ると困惑した表情で鞘に入ったままのそれを見つめた。
「旦那がた....」
その時、家の裏手からドヴィックが姿を表した。肩には大きな斧を担いでいる。
「ドヴィック殿。どうなされた?」
剣を腰のベルトに固定していたラフレルは手を休めて尋ねた。
「旦那がた...ワシも行くです」
ドヴィックはためらいがちに答える。ラフレルは驚いた。
「ドヴィック殿。貴殿まで来るには及びませぬ。この村にとって上流が禁忌であるなら...」
彼は言葉を継いだ。
「貴殿は村人の中で疎外される危険を犯すことになる。だが我々三人は余所者。調査が終わったら立ち去ればよいだけのこと」
「でも....旦那がワシらのために危険を冒してくださるのに、ワシだけここに残るのは...」
ドヴィックは肩に乗せた斧に目をやると、訥々とした口調で言った。
「それにワシのこの斧があれば、きっと何かの役に立つです。倒木で道が塞がれてるときとか、夜寝るときに即席の小屋を建てるのにも....」
「ドヴィック殿...」
「旦那、それにワシは旦那がたのことも、村の者たちには悪くは言わせねぇです。ワシの命を救ってくださっただけでなく、皆がこうして困ってるのを進んで助けて下さる旦那を、余所者として爪弾きにするなんてことは、このワシが許さんです」
ラフレルたち三人は顔を見合わせた。アレハンドロが肩をすくめ、笑いながら言う。
「見上げた覚悟じゃねぇか。なら、男手は多いほうがいいな。だろ?」
* * * * * * * * * * * * * * *
四人は馬車に乗ると出発した。今度はドヴィックが御者席の隣に立って道案内をした。ラフレルも前方を警戒し、ミハイルが後方を見張る。
日が昇ってきたのか、木立の間からの光がやや強まった。だが、枝々の間から見える空はどんよりと曇っている。道は悪路で、馬車の速度は遅々たるものだった。
「ドヴィック殿...このあたりで鬼を見かけたことはおありか?」
ラフレルは木こりに呼びかけた。すると相手は答えた。
「へえ、以前には。...でも最後は十年くらい前に一度見たっきりで」
「ヘッ...鬼、ね。面白れぇじゃねぇか。一度そのツラ拝んでみたいもんだな」
アレハンドロは手綱を操りながら面白そうに呟く。
「だけど、もし上流に魔力の源があるなら、ボコブリンやブルブリンが引き寄せられてきても不思議はない....ね」
ミハイルはそう言ったあと、怖気を催したように少し体を震わせた。
道の脇には細い水路が走っている。道幅は狭く、アレハンドロは時折り下を覗きながら、脱輪しないよう注意して馬車を進めていった。
「もうすぐ川に着くです」
ドヴィックが呟く。やがて左右に立ち並んでいた背の高い木が次第にまばらになり、曇り空が見えてきた。かと思うと周囲が開け、馬車はゴツゴツとした岩壁に挟まれた川を見下ろす橋の上に出た。
「御者どの、一旦停止を」
ラフレルが言うと、弓と矢筒を肩にかけたまま馬車を降りた。
木造りの橋の上から左右を見渡す。川には左手の上流から右手の下流に向けて豊かな水が流れていた。川底も岩が多いのか、水面はところどころが渦巻いている。
「あっちが....その『渓谷』でごぜえます」
ドヴィックも降りてきて、上流を指さした。その指の先には、深く茂った森に覆われた岩だらけの高地が見える。その上には濃い雲が低く垂れ込めていた。ラフレルは尋ねた。
「馬車で通れる道はご存知か?」
木こりは黙って頷くと、橋を渡った先の左手を指さした。対岸の木立の間に細い道が見える。
「ハハハ...なんだかいかにも何かがいそうな雰囲気だね」
ミハイルが手を平らにして目の上にかざしながら言った。その手は軽く震えている。
「では、参ろう」
ラフレルは言った。皆が乗り込むと、馬車は橋を渡り、細く暗い道に入っていった。路面は未整備の登り坂で、いっそうの悪路だ。ガタガタと揺れる荷台の上で、ミハイルは唇を噛み締めながら後方を見張っている。いつもの軽口は全く出てこない。ドヴィックに前方を見張らせると、ラフレルは前と後ろに交互に注意を向けた。
ふとラフレルは気づいた。道の左右の木立の幹が格段に太くなっている。家ほどもありそうな太さの巨木がそこらじゅうに立っていた。さらにその木々の間に盛り上がるのは巨人の顔を思わせるような巨大な岩。そしてその岩からだろうか、白い霧が立ち昇ってきている。
「原始の森...でござるな」
ラフレルは呟いた。ふと下を見ると、足元から這い上がってくるように、同じ霧が道路にも漂っていた。
「旦那....あと少しで...」
ドヴィックが振り向いて言った。その顔色は悪く、額に汗が浮かんでいる。ミハイルはまるでカラ元気を出すように声を上げた。
「オルド渓谷だね。いやぁ、入る前から聞きしに勝る迫力だ。来て良かったよ」
「各々がた、異変を見たらどんな小さな物も逃さず報告し合うようにいたそう。錯誤であっときに皆に笑われるほうが、見落として皆が命を失うより良い」
ラフレルがそう言うと学者は口をつぐんだ。その眼鏡の奥の目は恐怖で引きつっていた。
白い霧は進むにつれ濃くなる。やがて馬車の幌付きの荷台の中にさえも、手で触れるかと錯覚するくらいに濃い霧が入ってきた。
「畜生...前が見えやしねぇ」
アレハンドロが罵った。馬車の速度は一層遅くなる。ラフレルはドヴィックの傍らに立つと前方を見渡した。
恐ろしく濃い霧だ。そしてその向こうには途方もないほどの巨木が何本も聳え立っている。
完全に異世界に入ったのだ。