Fate/atlantis:衛宮切嗣生存stay night 作:星P/すたーりん
——衛宮切嗣が、生きている……?
衛宮邸の屋根の上。
夜の冷気に身を晒しながら、アーチャーはただひとり、あり得ぬ現実を見下ろしていた。
真名を『エミヤ』。
衛宮士郎という少年が、理想の果てに辿り着いた成れの果て。
正義の味方を志し、その末路として英霊にまで堕ちた、ひとつの破綻の完成形である。
彼もまた、かつては衛宮士郎だった。
誰かを救いたかった。
誰も泣かせたくなかった。
自分が傷つこうと、壊れようと、犠牲になろうと構わない。ただ、自分の手の届くすべてを救いたいと、そう願った。
その願いは、ひどく美しく、ひどく愚かだった。
無論だ。
人ひとりの腕で抱え込める幸福の数など、最初から知れている。
ひとつを掬えば、ひとつが零れる。
ひとりを助ければ、その背後で別のひとりが沈む。
理想とは祈りであって、現実を塗り替える奇跡ではない。そんなことは、歩き出した時点でわかっていたはずだった。
それでも、彼は進んだ。
見捨てられなかったのだ。
目の前で泣いている誰かを。
救いを求める声を。
自分の無力を知りながら、それでもなお手を伸ばさずにはいられなかった。
だからこそ、いずれその時は訪れる。
ある時は力及ばず、助けるべき者を取りこぼした。
ある時は、多くを救うために少数を切り捨てた。
ある時は、罪のない人間を、より多くの罪なき人間のために殺した。
正義の味方。
なるほど、結構なことだ。
だがその実態は、秤の片側に命を載せ、より重い方を選び続けるだけの処刑装置に過ぎない。
理想は血に濡れた。
濡れ続けた。
そうしてある大災害を前に、彼はついに知ることになる。
自分は無力だ、と。
剣では届かない場所がある。
意志では覆せない破滅がある。
たったひとりの人間に、世界を救うことなどできはしない。
ゆえに彼は『世界』と契約した。
自らを差し出し、人類を存続させるための安全装置――抑止力となることを選んだ。
その時の彼は、まだ信じていたのだろう。
たとえ己の死後であっても、その力はきっと人を救うために振るわれるのだと。
自分の理想は、形を変えてでも報われるのだと。
だが、その結末はあまりにも嗤うべきものだった。
彼は生前、一度は死力を尽くして救った人々に恐れられた。
救済の果てに待っていたのは感謝ではなく、理解でもなく、断頭台よりなお無機質な処刑台。
首に縄を掛けられ、民衆の恐怖と嫌悪の中で吊るされながら、それでも彼は後悔しなかった。
だが死後、彼が与えられた役割は、生前理想としていた希望を根こそぎ踏み潰した。
抑止力。
それは世界を守る守護者などという生易しいものではない。
世界が滅びかねない事態が起きた、その時になってようやく呼び出される掃除屋だ。
しかもすべてが手遅れになる寸前、もはや救済も説得も間に合わぬ段階になって現れ、ただ原因を消去する。
その関係者を皆殺しにすることで。
人類を滅ぼす要因の大半は、他ならぬ人類自身だ。
人が欲を抱き、人が争い、人が過ちを犯し、その果てに積み上げた滅びの山を、人を殺すことで崩していく。
それが抑止力の役目だった。
何度も。
何度でも。
一度や二度では終わらない。
世界が歪むたび、文明が狂うたび、人類が自滅に向かうたび、彼は呼ばれる。
そして殺す。
昨日まで守ろうとしたものを、明日のために殺す。
救うために、斬る。
守るために、撃つ。
生かすために、奪う。
そんな矛盾を、永劫に繰り返す。
生前の記憶が擦り切れ、祈りの輪郭が摩耗し、自分が何に憧れ、何を信じていたのかすら曖昧になるほどの、気の遠くなるような反復。
それでも残るものがあるとすれば、それは救済の志などではなく、ただ焼け残った炭のような嫌悪だけだった。
――大のためにと小を殺す。
――今の俺は、生前の俺と何が違う。
――いや、若い頃の無力な俺と、何が違う。
――俺が歩いてきた道は、最初から間違いだったのではないか。
――俺はただ、キリツグの理想に憧れ、それを借りただけではなかったのか。
――ならば、こんな男は最初から存在しない方がよかったのではないか。
答えは出ない。
出るはずもない。
なにしろ問い続けている当人が、すでに答えを欲していなかった。
欲しかったのは断罪だ。
自分という存在が誤りだったと、誰の目にも明らかな形で突きつけてくれる決定的な敗北。
理想を抱いた過去も、そこへ至るまでに流した血も、守ろうとしたものも、すべてまとめて無意味だったと証明してくれる破滅。
だから彼は決意した。
自分という過ちを消し去ること。
その先に殺戮する人間を、最初から存在しなかったことにすること。
方法は単純だ。
過去の自分を殺す。
衛宮士郎という原型を、理想ごと叩き折る。
正義の味方を夢見るその心を踏み躙り、自分の正しさではなく、自分という存在の誤りを認めさせる。
衛宮士郎の心を折り、殺す。
それは同時に、エミヤ自身の存在を消すことに繋がるかもしれない。
ただ、それだけを願って。
理想に殉じた男ではない。
理想に裏切られた男ですらない。
理想そのものを呪いながら、それでもなお理想の残骸に縋りついている、どうしようもなく醜悪な自己否定の権化。
それが、英霊エミヤの正体だった。
ゆえに――ここで、ひとつのイレギュラーが生じる。
衛宮切嗣の生存。
それはエミヤにとって、看過できぬ綻びだった。
衛宮士郎が衛宮士郎となった原点。
あらゆる憧憬の始点にして、理想という病の感染源。
その男が生きているというのなら、この世界の衛宮士郎は、エミヤの知る衛宮士郎とは決定的に違う可能性がある。
ならば、あの少年は今なお切嗣の理想に憧れているのか。
あるいは、その憧れを乗り越えたのか。
そもそもこの世界の衛宮士郎は、エミヤのような破綻に辿り着かないのではないか。
もしそうであるなら、殺すにはまだ早い。
少なくとも、あの少年が何を信じ、何を抱き、どこへ向かうのかその答えを見届けるまでは、アーチャー・エミヤは、まだ弓を引けない。
*
場面は対バーサーカー戦へと移る。
アーチャーは戦場から遠く離れた高台に陣取り、狙撃による援護を行っていた。
夜気を切り裂くように放たれた矢は、黒き巨人へと殺到する。
だが。
――やはりか。
当たっていないわけではない。
狙いが逸れているわけでもない。
矢は確かにバーサーカーへ届き、その身を穿っている。
にもかかわらず、効いていない。
否。
通じていない、と言うべきか。
おそらく、並の一撃では傷を与えることすら意味を成さない。
矢を重ねようが、剣を降らせようが、あの巨躯を止める決定打にはなり得ない。
だが、なおもアーチャーは射撃を続ける。
一射ごとに位置を、角度を、間合いを測る。
有効打たり得るか。
奴の動きを一瞬でも縫い止められるか。
その可能性を探りながら、冷徹に戦況を切り分けていく。
だが、結論は変わらない。
――ならば、
アーチャーは即座に剣を番える。
矢ではない。
投影した宝具、そのものだ。
壊れた幻想――偽りの宝具に過剰な魔力を注ぎ込み、自壊と引き換えに絶大な破壊力へ変える、英霊エミヤの切り札。
本来は宝具として成立した武装を、使い捨ての砲弾に変える暴挙。
それを、バーサーカーへ叩き込む。
そう判断した、まさにその時だった。
衛宮士郎が、走り出す。
「――ちっ、あの馬鹿が……!」
舌打ちは短い。
罵倒もまた、短い。
だがその一瞬で、アーチャーの思考は切り替わっていた。
壊れた幻想では間に合わない。
あれは威力に優れるが、射線も余波も大きすぎる。
士郎が奴の懐へ飛び込んだ以上、下手に撃てばまとめて吹き飛ばす。
ならば別の手だ。
「I am the bone of my swordーー」
士郎が懐へ潜り込む。
バーサーカーの注意がそちらへ向く。
巨腕が振り上げられ、殺意が一点へ集中する。
その瞬間を、アーチャーは待っていた。
狙うは、士郎を巻き込まずにバーサーカーだけを撃ち抜ける一線。
紙一重の射線。
一瞬でも見誤れば、味方ごと貫く死線。
だが、迷いはない。
その程度の曲芸ができずして、何が守護者か。
弦が鳴る。
放たれた一撃は、もはや矢と呼ぶにはあまりに苛烈だった。
「ーー
圧縮された破壊そのものが、夜を裂いて奔る。
一直線の閃光。
獲物へ食らいつく獣のように、あるいは破滅そのものが形を持ったかのように、それは空間を灼きながらバーサーカーへ突き進む。
高台から放たれた必殺の一矢。
その光は、ただ黒き巨人を撃ち抜くためだけに、一直線に夜を貫いた。