白子とシロコ   作:気弱

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新たな生徒会役員?

桜の淡い薄紅色が散り始め、それに代わるように瑞々しい青葉が芽吹く季節

 

アビドス高等学校に入学したばかりの小鳥遊ホシノは、数々の紆余曲折を経て、本来であれば関わるつもりのなかった生徒会へと籍を置くことになった。そして、1年生という異例の若さでありながら、早くも副会長という重責を担う座に就いている

 

「……はぁ」

 

誰もいない静かな室内

 

年季の入った生徒会室のパイプ椅子に深く腰掛けたホシノは、窓の外を眺めながら、本日何度目かわからない重いため息を吐き出した

 

視線の先にあるのは、乾いた風に舞う名残の桜の花びらと、その向こうにどこまでも広がるアビドスの荒涼とした砂漠。時折窓を叩く砂の音を聞きながら、手元のデスクに山のように積まれた未処理の書類に目を落とし、たまらず小さくこめかみを押さえる

 

(どうして、こうなるんですか……。私はただ、平穏に過ごしたかっただけなのに)

 

生徒会に入ってから、まだわずか1週間。しかしホシノの体感としては、もう何ヶ月も不眠不休で奔走し続けているかのような、どっと押し寄せる疲労感があった

 

その原因はただ一つ

 

この状況の元凶である生徒会長、あの人物――梔子ユメである

 

この短い期間に、ユメは何度ホシノを困らせ、呆れさせ、振り回してきただろうか。ホシノは軋む椅子の背もたれに深く頭を預け、目を閉じながら、怒涛のようだったこの1週間の記憶を呼び起こしていた

 

まずは、記念すべき初日

 

『ホシノちゃん、入学お祝いと、生徒会へようこそ歓迎会をやろう!』

 

そう言って満面の笑みを浮かべたユメが、一体どこから予算を捻出したのか、大きな苺のホールケーキを意気揚々と調達してきた時のことだ

 

『あの、ユメ先輩。歓迎会を開いてくださるお気持ちは有り難いですが、今の逼迫した生徒会の予算で、こんな立派なケーキを買う余裕が一体どこにあるんですか? 返品できるなら今すぐしてきてください』

 

『もー、細かいことは気にしない気にしない! 私のお小遣いだから大丈夫! ほら、お祝いにはやっぱりローソクが必要でしょ? でもね、備品室を隅々まで探したんだけど見当たらなくて……』

 

『はぁ。ですから、ローソクなんて無くても構いませんと先程から――』

 

『だからね! 代わりにこれを用意したよ! ジャーン!』

 

自信満々に効果音まで口にして、ユメが机の上に堂々と置いたもの。それは、赤くて不穏な導火線が無数に飛び出た、束になった大量の「爆竹」だった

 

『……正気ですか? 先輩、それを今すぐ片付けてください。今すぐにです』

 

ホシノの声の温度が一気に下がる。しかし、ユメは全く意に介さない

 

『大丈夫だってば! ほら、火をつけたらパチパチして絶対に綺麗だし、派手でお祝いっぽいでしょ? サプライズだよ!』

 

『話を聞いてください! 室内で、しかも食べ物の前でそんな火薬に火をつけたらどうなるか――あっ、ちょっと!』

 

止める間もなかった。ユメが素早い手つきでマッチを擦り、嬉々として導火線に火をつけた瞬間

 

ジリジリと燃え進む音は一瞬。生徒会室……ではなく、わざわざ歓迎会場として飾り付けまでした空き教室中に、鼓膜を震わせる爆音が連続して鳴り響いた

 

バチバチバチバチッ!! ドンッ!!

 

激しい火花が四方八方に散り、密室で反響する爆発音。そしてその強烈な衝撃波を至近距離で受けたホールケーキは見事に吹き飛び、空を舞った

 

『うわああっ!? ごめんホシノちゃん、思ったより凄い勢い――キャッ!?』

 

『だから言ったでしょう! 伏せてください!!』

 

数分後。鳴り止まない耳鳴りと、濛々と立ち込める硝煙の匂い。煙がゆっくりと晴れていく教室の中央で、ホシノは呆然と立ち尽くしていた

 

壁、黒板、綺麗に並べた机、そしてホシノの真新しい制服に至るまで、文字通り「一面ケーキだらけ」の惨状。甘ったるい生クリームとスポンジの残骸が、あちこちにこびりついている

 

『あはは……やっちゃった……』

 

頭からべっとりと生クリームを滴らせ、火薬の煤で顔を黒くしたユメが、顔を引きつらせながらへらへらと笑っていた時の顔を、ホシノは一生忘れないだろう

 

『……ユメ先輩。今日のところは、私が先輩の頭を撃ち抜く前に帰ってください』

 

『ご、ごめんなさいぃ……! 一緒に片付けるからぁ!』

 

結局、その日の夜遅くまで二人で涙目をしながら、甘い匂いと焦げ臭さが混ざる教室の掃除を延々とする羽目になったのだ

 

普通であれば、あんな大惨事を起こした翌日くらいは大人しくしているものだろう。しかし、相手はあの梔子ユメである。休む間もなく、さらにその翌日も災難は続く

 

『よし! それじゃあ今日は、生徒会の活動方針を決めよう!』

 

昨日の爆発騒ぎなどすっかり忘れたかのような底抜けに明るい声でユメが言い出し、なぜか学校の屋上へとホシノを引っ張って連れ出したのだ

 

『ちょっと、引っ張らないでください。活動方針を決めるのは賛成ですが、どうしてわざわざ屋上なんですか?』

 

『だって、これからのアビドスをどうしていくか決めるんだよ? やっぱり高いところで、広く空を見渡しながら考えた方が、バーンっと素敵なアイデアが浮かぶと思うんだよね!』

 

『……はぁ。わざわざこんな砂嵐の吹き付ける場所に登らなくても、室内で十分に話し合えると思いますが』

 

重い鉄扉を押し開けると、容赦のない強風が二人の髪と制服を激しく煽った

 

『まあまあ、そう硬いこと言わないの! ほら、このノートに新しい活動のアイデアとか、アビドスを最高の学校にするための計画を、いーっぱい書き留めておこうと思ってさ!』

 

ユメは強風に負けないような大声でそう言いながら、誇らしげに真っ新な、未記入のノートを広げて見せた。しかし、彼女はアビドスの屋上に吹き荒れる砂嵐の威力を、あまりにも甘く見すぎていた

 

直後、ゴォッと音を立てて吹き抜けた強烈な突風

 

それは一瞬の出来事だった。ユメの手からあっけなく離れたノートは、まるで意思を持った鳥のようにひらひらと宙を舞い、そのまま校舎の外へと連れ去られていく

 

『あ、ああっ!? 待ちに待ったわたしの生徒会ノートがーっ! まだ何も書いてないのにぃーっ!』

 

『先輩! 危ないですからそんなに身を乗り出さないでください! 落ちたらどうするんですか! ……くっ、本当に手がかかる……仕方がありませんね』

 

ホシノは舌打ち混じりに呟くと、背負っていた愛用のショットガンを電光石火の速さで引き抜き、流れるような動作で構えた。風に煽られながら真っ逆さまに落下していくノートの軌道を、鋭い瞳で見事に狙い澄ます

 

――ドンッ!

 

鼓膜を震わせる轟音とともに放たれた散弾の風圧が、落下の衝撃を相殺するようにノートを校舎側へと激しく押し戻した。ホシノの計算通りの軌道を描き、ノートは何とか中庭の植え込みへとボトリと落ちていく

 

しかし、慌てて屋上の階段を駆け下り、埃まみれになって回収したそれは、見るも無惨な姿に変果てていた。砂がページの隙間にびっしりと詰まっているだけでなく、ホシノが放った散弾の破片によって、何箇所も無惨なハチの巣状態に貫通していたのだ

 

『うぅ……せっかく新調した生徒会ノートが、最初からボロボロの穴だらけになっちゃったよぅ……』

 

『一体誰のせいでこうなったと思っているんですか。ノートを風に流される先輩がどこにいますか。……大体、まだ1文字も書いていなかったんですから、ダメージは最小限でしょう』

 

『そういう問題じゃないよホシノちゃん! わたしのやる気が、ノートと一緒にハチの巣にされちゃったんだよぅ……』

 

半泣きになってノートを抱きしめるユメに、ホシノは氷のように冷ややかな視線を送りながら、胸の奥から深い、深い、ため息を吐き出したもの

 

結局、その日は散弾で穴だらけになったノートをこれ以上使うわけにもいかず、ユメがどこからか引っ張り出してきた「謎の奇妙な、バナナと鳥のような生き物」のイラストが表紙に描かれた古い自由帳を代わりに使うことで、その場はなんとか収まった

 

しかし、事態が収まったからといって、ホシノの心痛が消えるわけではない。思い出せば思い出すほど、現在のホシノの胃はキリキリと不快な音を立てて痛むような気がした

 

「……あの人、毎日何か大騒動を起こさないと死んでしまう病気なのでしょうか……」

 

窓の外に広がる、どこまでも平坦で乾いたアビドスの景色を見つめながら、ホシノは再びぽつりと毒づいた

 

生徒会に入る前、アビドス高等学校の現状を一人で調査していた段階から、現生徒会長である梔子ユメという人物が極端なトラブルメーカーであり、かつ底なしのお人好しであるというのは、遠目から見てある程度は把握していたつもりだった。しかし、実際に同じ空間で過ごしてみれば、その破壊力は想定の遥か上を行っている。まだ入学して1週間だというのに、ホシノの胸中には「なぜ私はこんな生徒会に入ってしまったのだろう」という、底無しの、深すぎる後悔の念が渦巻いていた

 

バァン!!

 

「ホシノちゃーん! 良いもの見つけたよーっ! すっごく可愛いもの!」

 

静まり返っていた生徒会室に、その場にふさわしくない弾けた大声が響き渡る。ホシノが今まさに抱いている苦労や葛藤など、これっぽっちも知ってか知らずか、ユメが勢いよく両開きの木製の扉を押し開けて入ってきた

 

(……今度は、一体どんなトラブルを外部から持ち込んできたんですか……)

 

半分以上諦めに似た境地に達しながら、ホシノは重い首を動かして入り口の方へと視線を向ける。そこには、いつものように屈託のない、アビドスの太陽そのもののような満面の笑みを浮かべたユメの姿があった

 

しかし、いつもと決定的に違う点が一つだけある。ユメの制服の胸元、その両腕の中には、何かがすっぽりと大切そうに収まっていた

 

ユメに優しく抱き抱えられ、嬉しそうに千切れんばかりに激しく尻尾を振っているのは、白、あるいは銀とも見える、驚くほど綺麗な毛並みをした小さな子犬だった。まだ生まれて間もないのか、無垢で丸い瞳が、きょとんとホシノの姿を見つめている

 

「ユメ先輩。……その子は、どうしたんですか。まさか、またどこかで余計なものを拾ってきたわけではありませんよね?」

 

ホシノは椅子の背もたれから体を起こし、警戒度を最大に引き上げた、低く冷徹な声で問いかける。するとユメは、待ってましたとばかりに子犬を落とさないよう抱き直して、一歩前に踏み出した

 

「あのねあのね! 私が通学路の砂漠を歩いてたら、この子が砂丘の端っこをフラフラと頼りなく歩いてるのが見えたの。もう今にも倒れちゃいそうで、心配になって抱き抱えたら、お腹から『ぐーっ』て大きな音が鳴っちゃってね。だから、たまたまポケットに入ってたジャーキーをあげたら、すっごく懐いてくれちゃって!」

 

「……ちょっと待ってください。非常に気になる点がいくつかあります。まず、なんで学生カバンのポケットでもなく、制服のポケットに、ジャーキーなんて渋い食べ物が入っているんですか??」

 

ホシノの容赦のない、鋭い指摘。ユメは泳がせるように目を左右に動かすと、「あ、やばっ」という顔をして視線を逸らし、人差し指同士をツンツンと合わせながら頬を朱に染めた

 

「わ、私の非常食として、こっそり……えへへ。お腹が空いた時に齧ろうと思って、内緒で入れてたんだよ……」

 

(この人、生徒会室の備品室だけでなく、自分の制服のポケットの中にまでよく分からないお守りや干し肉も隠し持ってる可能性があるな……)

 

確信に至ったホシノの、冷徹極まりない、温度の無い「ジト目」の視線がユメに真っ直ぐ突き刺さる。その無言の凄まじいプレッシャーに耐えかねたのか、ユメは慌てて子犬をホシノの顔の真ん前に突き出すように高く掲げ、裏返った大声で強引に話を逸らしにかかった

 

「と、とにかく! この子、ここで面倒を見てもいいかな!? ほら見てホシノちゃん、今日からアビドス生徒会の『3人目の役員』だよ!」

 

「……その子は人ではありませんし、何よりただの迷子の子犬じゃないですか。生徒会の役員に犬を任命する学校がキヴォトスのどこにありますか。役職はどうするんですか、庶務ですか? それに――」

 

ホシノはガタリとパイプ椅子を鳴らして席から立ち上がると、細い腕をきつく組んでユメの前に立ちはだかり、ぴしゃりと言い放つ

 

「残念ですが、もう我が家……アビドス生徒会では、これ以上手のかかる『大きな犬』をすでに一匹飼っているので、そんな小さな子犬の面倒まで見る予算も心の余裕もありません」

 

「え? 大きなわんちゃん?」

 

ユメは掲げていた子犬をごそごそと胸元に戻し、不思議そうに首を傾げた。その拍子に、彼女のトレードマークである長い髪が揺れる

 

「うーん……そんなの飼ってたかなぁ? 私、まったく心当たりがないんだけど……ホシノちゃん、いつの間に内緒で連れてきちゃったの?」

 

「忘れたとは言わせませんよ、先輩。毎日毎日、歓迎会だと言って室内でケーキに爆竹を仕込んで爆発させたり、高いところで方針を決めると言って大事な未記入のノートを風に吹き飛ばしたり、挙句の果てに自分の制服のポケットにまで食べ物を隠し持っている、本当に手のかかる、常識の通用しない困った大きな犬です」

 

ホシノが抑揚のない声で淡々と、しかし一文字ずつ脳裏に刻みつけるように言うと、ユメは怯むどころか全く悪びれる様子もなく、むしろおかしそうに「あははは!」と高い声を上げて笑った

 

「またまた〜! ホシノちゃんったら、本当に冗談が上手なんだから。そんなおっちょこちょいで変な子、このアビドスにいるわけないよ〜!」

 

「……他ならぬ貴方のことですよ、先輩」

 

自分の胸に手を当てて、これまでの1週間の行いをよく考えてください。呆れ果てたホシノの低い声が、今日も夕暮れ時の生徒会室に虚しく響いていた。しかし、ユメは「えへへ、私かぁ」と子犬の頭を人差し指で撫でながら笑うだけで、反省の色は1ミリも見当たらない

 

これ以上この頼りない先輩にペースを握られてはたまらないと、ホシノは一度深く息を吐き、副会長としての冷静なトーンを取り戻すようにして言葉を重ねた

 

「いいですか? ユメ先輩。よく聞いて、その子を観察してください。この子犬……耳の形や毛並みが少し狼みたいですけど、要するにアビドスの砂漠に生息している野生の生き物なんです。野生の子を人間の身勝手なエゴで無理矢理育てるのは、巡り巡ってその子のためになりません。ダメなものはダメなんですよ」

 

「で、でも……この子、まだこんなに小さいんだよ? 砂漠には凶暴なサソリや砂ミミズもいるし、何より最近はカイザーの怪しい重機だってたくさん走り回ってるんだよ? このまま外の砂嵐の中に放り出したら、ご飯も食べられなくて、きっと数日で行き倒れちゃうよ……」

 

ユメは本当に胸を痛めているように眉をハの字に下げ、腕の中の白い塊を壊れ物を扱うようにきゅっと抱きしめる。すると、その緊迫した空気を察したかのように、ユメの腕の中に収まっていた白い塊が、タイミングを見計らったように細い声を漏らした

 

『くぅん………』

 

「う……」

 

ユメが縋るようなウルウルとした瞳でホシノを見つめると、なぜかその腕の中の子犬まで、主人の真似をするように全く同じ角度で、潤んだ瞳をホシノへと真っ直ぐに向けてくる。一人と一匹による、計算され尽くしたかのような「おねだり」の視線が重なり、ホシノは気圧されて思わず一歩後退りした

 

「だ、ダメなものは、ダメなんです……! 規則は規則ですし、第一、狂犬病の注射だって――」

 

ホシノが必死に理性を保ち、冷徹な仮面を維持してそう言い放った、その時だった

 

「わっ、ちょっと待って!」

 

ユメの腕から、白い子犬がぴょんと床へ飛び降りる

 

2人が呆気に取られてその様子を見守っていると、子犬は短い四肢を一生懸命に交互に動かして、トコトコと小気味よい音を立てて歩き出した。ユメの方へ戻るのかと思いきや、子犬が進路を定めて真っ直ぐに向かった先は――ホシノの足元だった

 

子犬はホシノの黒いローファーに小さな前足をちょこんと載せると、そのまま器用にバランスを取って掴まり立ちをした。そして、長い尻尾をちぎれんばかりに激しく振りながら、ホシノの顔をじーっと見つめてきた。丸くて綺麗な瞳が、まるで「遊ぼうよ」と無垢に訴えかけているかのようだ

 

「ぐぅっ、!!!?」

 

心臓を物理的にクリーンヒットされたかのような衝撃がホシノを襲う。あまりの破壊的な愛らしさと、想定外の懐かれ方に、普段はどんな理不尽にも表情を変えないホシノがガクガクと膝を震わせ、大袈裟に後ろへよろけてしまった

 

その決定的な動揺を、ユメは見逃さない。ここぞとばかりに顔をニヤニヤと意地悪く歪ませると、腰を屈めてホシノの顔を覗き込んできた

 

「ほらー? 見て見てホシノちゃん。この子、どうしてもホシノちゃんと一緒に居たいんだってー。副会長の言うことなら、この子もきっと良い子にしてよく聞くと思うな〜? どうする、副会長さん?」

 

「っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!! 意味がわかりません!!」

 

顔を耳の裏まで真っ赤に染めたホシノは、もはや声にもならない悲鳴を上げると、足元の子犬を傷つけないように細心の注意を払ってそっと引き剥がし、回れ右をしてそそくさと生徒会室を後にしてしまった

 

バタン!!!

 

勢いよく閉まる木製の扉の重い音が、彼女の心の中の動揺の激しさを何よりも物語っている

 

残されたユメは、その場にぺたんと座り込んで、寂しそうに扉を見つめていた子犬を再び優しく両手で抱っこした

 

「あはは、ごめんね……ホシノちゃん、ちょっと頑固で不器用なところがあるから。でもね、本当は誰よりも優しくて、責任感が強い子なんだよ?」

 

ユメは言い訳をするように優しく呟きながら、子犬のぷにぷにとした柔らかいピンク色の肉球を小さく触る。子犬の方は、人間の複雑な感情の機微が分かっていないのか、ただ不思議そうに首を小さく傾げているだけだった

 

それからしばらくの間、静かになった生徒会室で、ユメが子犬を仰向けにしてお腹を撫でたりして遊んでいると――

 

ガララッ!!! バン!!!

 

突然、生徒会室の扉が本日二度目、いや、それ以上の凄まじい勢いで乱暴に開け放たれた

 

「!?」

 

ユメが驚いて肩を大きく跳ね上げる。そこに立っていたのは、肩を激しく上下させ、額に汗を浮かべて息を荒く切らせたホシノだった

 

「ユメ先輩……っ、ハァ、ハァ……っ、子犬は、あの子はどこですか……!?」

 

「こ、ここにいるよ……? って、えええっ!? ホシノちゃん、その格好どうしたの……!?」

 

ユメは腕の中の子犬を落としそうになるほど完全に唖然とした表情になり、戻ってきたホシノの姿を頭の先から爪先まで凝視した

 

夕暮れ時の生徒会室に駆け込んできたホシノの制服は、あちこちが不自然に膨らみ、奇妙に変形していた。いつもなら愛用のハンドガンや予備の弾倉、戦術用具を整然と収納しているはずのタクティカルポーチ。しかし今のそこには、なぜかカラフルな結び目のついた、小さな犬用のデンタルロープが堂々と突っ込まれている

 

さらに、彼女の両手には引きちぎれんばかりに重く膨らんだ、大手ペットショップのロゴ入り買い物袋が握りしめられていた。その隙間からは、栄養素がびっしりと並んだ犬用の高級プレミアムドッグフードの袋や、噛むとパフパフと楽しげな音が鳴る骨型のおもちゃが大量に覗いている

 

ホシノは完全に肩で息をしながら、室内の大きな木製机の上に、その重たい袋をドサリと乱暴に置いた。あまりの重量に、机の上の書類が数枚フワリと舞う

 

「……私の、貯金です! いいですか先輩、どうしても、何が何でもあの野生の子をここで飼うと言うなら、最初からちゃんとした物を使わなければ駄目です! 劣悪な環境ではすぐに病気になってしまいますからね! さっき先輩が言っていた、栄養バランスの偏ったそこらの人間用のジャーキーなんて論外、言語道断です!」

 

「ホシノちゃん……!」

 

ユメは驚きと感動で目を丸くした

 

あの時、子犬のあまりにも無垢な瞳に完全なる敗北を喫してしまったホシノ。彼女は生徒会室を飛び出した後、アビドス高等学校に入学するまでに「何があっても、どんな危機に瀕しても絶対に使わない」と心に誓って個人的にコツコツと溜め込んでいた、なけなしの防衛用口座からお金を全額引き下ろしていたのだ。そしてその足で、キヴォトスの中心街にあるペットショップへと、文字通り死に物狂いで往復ダッシュをかましていたのである

 

口を開けば文句や正論ばかりを並べつつも、行動のすべてがすでに誰よりも子犬を育てる気満々になっている。そんなあまりにも不器用で、ツンツンとした1年生の副会長の後ろ姿を見て、ユメは嬉しさを堪えきれずに、ふにゃりと顔を綻ばせるのだった

 

「ほら、そこ、動かないで大人しくしてください。……よし、ご飯ですよー?」

 

ホシノはそんなユメの温かい、すべてを見透かしたかのような視線には全く気が付かない様子で、新しく買ってきたばかりの頑丈なプラスチック製のお皿に、成長期用のドッグフードを丁寧に盛り付けていく

 

カサカサ、サラサラと小気味良い乾いた音が静かな部屋に優しく響いた

 

お皿がトンと床に置かれた瞬間、子犬は待ってましたとばかりに短い四肢を激しく動かして駆け寄り、小さな尻尾をプロペラのようにブンブンと振りながら、猛烈な勢いでカリカリと小気味よい音を立てて食べ始めた

 

「こら、そんなにガッツかなくても誰も取り上げたりしませんよ。……もう、そんなに急いで食べたら喉を詰まらせるでしょう。これだから野生の子は……」

 

ホシノは床に膝をつき、呆れ混じりに声をかけながらも、その形の良い口元には自然と「ふふ、」と楽しそうな、柔らかい笑みがこぼれていた。小さな生き物がただ一心不乱に、自分の与えた食事を美味しそうに平らげていく姿に、アビドスを守るために尖りきっていた彼女の毒気は、すっかり綺麗に抜かれていたのだ

 

しかし、ふと前方にただならぬ気配を感じて視線を上げると、そこには両手を頬に当て、まるで我が子の微笑ましい成長としおらしい妹の姿を見届けた母親かのような、深い慈愛とニヤニヤ感が絶妙に混ざった笑顔を浮かべるユメの姿があった

 

バチッと目が合った瞬間、ホシノは自分が酷く緩んだ、締まりのない顔をしていたことに気が付き、一瞬にして顔面から耳の付け根、果ては首元までを真っ赤に染め上げた

 

「な、な何を見てるんですか、先輩! 見るならあの子の食べ方を見てください!」

 

慌ててバタバタと立ち上がり、汚れてもいないスカートの砂を大袈裟に払うフリをして視線を誤魔化すホシノ。対するユメは、さらに目を細めて楽しそうに笑みを深めた

 

「だってさぁ、ホシノちゃんはやっぱりすっごく優しいなーって♪ 最初はあんなに怖い顔して反対してたのに、そんなにたくさんのお買い物を自分の貯金でしてくれちゃうなんて。もう、この子の最高の飼い主さん決定だね! 認めちゃいなよー、副会長さん?」

 

「……そ、それ以上、からかうようなことを言うなら……今後一切、先輩が机の引き出しやロッカーに溜め込んでいる未処理の書類の整理は手伝いませんからね。明日からの予算申請も、全部一人で徹夜して、泣きながら終わらせてください。私は絶対に手伝いません」

 

ホシノが細い腕を胸の前できつく組み、心の底から冷徹な視線で脅しをかけると、ユメは途端に引きつった顔をして大慌てで両手をブンブンと振った

 

「ひぃん!! ごめんね、からかってごめんねホシノちゃん! それだけは本当に許してー! ホシノちゃんが書類を見てくれないと、わたし、文字の山に埋もれてそのまま干からびて砂になっちゃうよー!」

 

アビドス生徒会の実質的な力関係としては、やはり事務処理から戦闘能力までを完璧にこなす1年生の副会長が、圧倒的最上位に君臨しているのだろう。情けなく全力で泣きつく3年生の会長と、それを冷ややかな、蔑むような目で見下ろす1年生の副会長

 

そんな二人の騒がしいやり取りを余所に、子犬は綺麗に空っぽになったお皿をペロペロと名残惜しそうに舐めた後、隣に用意された新鮮なお水をピチャピチャと美味しそうに飲み干した

 

それからしばらくして、すっかり満腹になった子犬は、生徒会室の古びた革製ソファの足元で、お腹を大胆に上へと向けた、いわゆる「へそ天」と呼ばれる完全無防備な姿勢のまま、すやすやと深い眠りについてしまった。時折「きゅぅ……ぅん……」と小さな愛らしい寝息を立てるその姿は、先ほどまでの野生の厳しさや警戒心など微塵も感じさせないほどに安らかで、この部屋が安全であることを理解しているようだった。

 

「……この子、名前とかはどうするんですか?」

 

子犬が眠りについた隙を見計らい、2人は机に山積みになった未処理の財務書類や地域の報告書を、ようやく本格的に整理し始めていた。ホシノはカリカリとペンを走らせる手を止めずに、ふと思いついたように、ごく自然なトーンで口にする

 

その言葉を聞いた瞬間、ユメの書類をめくる手がピタリと止まった

 

「うーん……確かにそうだよね。いつまでも『子犬』って呼ぶわけにもいかないし……名前がないままだと、なんだか可哀想だもんね……」

 

ユメはペンを持ったまま、困ったように眉を下げてソファの足元を見つめた

 

「そうですよ、先輩。これから……その、アビドスで一緒に暮らす、大切な家族になるんですから。きちんとした名前を付けてあげないと、呼ぶときにも困ります」

 

少し照れくさそうに視線を逸らしながらも、当然の権利として「家族」という言葉をごく自然に使ったホシノ。その様子を見て、ユメはペンを顎に当てながら、クスクスと意地の悪い、不敵な笑みを浮かべた

 

「……ねぇ、ホシノちゃんって、意外と押しに弱かったりする?」

 

「? 一体何の話ですか。私はいつだって論理的かつ冷静に判断を下しています」

 

「だってさ、最初はあんなに『野生だからダメ』って怒ってたのに、今じゃすっかり家族に迎え入れる気満々じゃない? ふふん、そういうところ、本当に可愛いなぁって」

 

まるで、ペットを飼うことに大反対していたにもかかわらず、いざ家にやってきたら誰よりも娘のように溺愛し始めてしまった父親のような風格。そんなホシノの極端なツンデレぶりに、ユメは少し苦笑いを浮かべながらも、嬉しそうに目を細めていた

 

「からかわないでください。早く名前を決めますよ。書類が全く進んでいません」

 

ホシノはそう言って、むっとした表情で手元のペンを握り直す

 

それから2人は完全に書類をめくる手を止め、腕を組んだり、天井を見上げたりしながら、しばらくの間「うーん……」と唸り声を上げて本格的に考え込み始めた。アビドスの深刻な財政問題やこれからの学校運営のことではなく、目の前の小さな命の名前について、これほどまでに真剣に頭を悩ませる時間が、生徒会室の中に静かに、しかし穏やかに流れていく

 

「あ、こういうのはどうかな!?」

 

ポン、と小気味よく手を叩き、ユメが突然声を弾ませた。しかし、ソファの足元で丸くなって眠っている子犬をハッと盗み見ると、すぐに声を潜めて人差し指を立て、内緒話のように囁いた

 

「……今度はどんな名前ですか?」

 

これまでのユメの数々の突飛な行動や、斜め上を行くセンスの数々から、言い知れぬ不穏な嫌な予感をひしひしと感じながらも、ホシノは先を促した。するとユメは、ふふん、と自信満々に、あまりボリュームのない胸を張って言い放つ

 

「『ミニホシノちゃん』!」

 

「なんで私の名前から取るんですか。却下です、秒で却下です。絶対に嫌です」

 

「ひぃん、即答だぁ……! 容赦ないなぁ……」

 

食い気味に放たれた、氷のように冷徹な一言で一刀両断され、ユメは本日何度目か分からない情けない声を上げて、再びがっくりと貧相な肩を落とすのだった

 

「可愛くていいと思うんだけどなぁ……ミニホシノちゃん。呼びやすいし、愛着も湧くと思わない?」

 

「自分の名前を呼ばれるたびに、その辺を四足歩行の毛玉が全力で駆け回られたら、私の精神が持ちません。紛らわしいことこの上ないです。先輩、次です。もっと真面目な案を出してください」

 

ホシノは完全に事務的なトーンのまま、感情の起伏を押し殺して淡々と次のアイデアを促す。机の上に広げられた書類の山を、まるで不良品の検品でもするかのような冷ややかな視線。対するユメは、人差し指を顎に当てて「うーん、うーん……」と大裟に唸りながら、必死にその薄い脳細胞を回転させ始めた

 

「そ、それじゃあ……『ワンワン』!」

 

「……どこの緑と白の、幼児向け教育番組の犬ですか。シンプルすぎます、却下です」

 

「じゃ、じゃあ……『キャンキャン』!」

 

「また鳴き声シリーズですか? それとも、キヴォトスで広く発刊されている有名なファッション雑誌の名前ですか?? どちらにせよ安直すぎます。ひねりがなさすぎます」

 

ホシノの容赦のない、的確なツッコミが、小気味良いテンポでユメの額へと真っ直ぐに突き刺さっていく。眉一つ動かさずに正論を並べる1年生の副会長に対し、先輩としての威厳を完全に見失ったユメは、次第に焦りから自暴自棄の様相を呈し始めていた

 

「もーっ! 厳しいなぁ! じゃあね、じゃあね……『カルビー』!」

 

「……そのうち、お肉の部位かお菓子の名前と勘違いされそうなので却下です。絶対に美味しい名前だと思われていますよ、その子は。食べ物ではありません」

 

「う、じゃあ、うー○ん!」

 

「……ユメ先輩。それ、大人の事情で確実にアウトになるやつです。アビドスがこれ以上、財務以外の面で別件の訴訟リスクを抱えるわけにはいきません。権利関係には厳しくいくと決めました」

 

「じゃ、じゃあこれなら文句ないでしょ!? 運営の愛を込めて……『yost――』」

 

「それ以上はダメです! 本気で色々な多方面から怒られます!! 消されますよ!!」

 

ユメが最後まで単語を言い切る前に、ホシノは鋭く大きな声を被せて、その禁忌の言葉を物理的に遮断した。あまりの緊迫感と危機感に、ホシノの片手が愛用のショットガンの引き金へと今にも伸びそうになったほどだ

 

ユメの繰り出す、常軌を逸したやけくそなアイデアの数々を、ことごとく冷徹に却下していくホシノ。途中から完全に思考を放棄して、キヴォトスの禁忌に触れそうな単語まで口にし始めたユメは、ついに机に突っ伏して、両手両足を子供のようにジタバタと暴れさせた

 

「もーーーーっ! 厳しいよホシノちゃん! 採点が厳しすぎるよぉ! 私ばかりじゃなくて、ホシノちゃんも何か素敵な名前を考えてよーっ!!」

 

「ちょっと、だから大声を出さないでくださいと言っているでしょう。せっかくあの犬が気持ちよさそうに寝ているんですから」

 

ホシノは慌てて人差し指を自身の唇に当て、ソファの足元で無防備に丸くなっている子犬をハラハラしながら盗み見る。幸いなことに、子犬は満腹による幸福な眠気の方が勝っているようで、ピクリと片方の耳を動かしただけで、再び気持ち良さそうに小さな愛らしい寝息を立て始めた

 

ホシノはホッと胸を撫で下ろし、再びジト目をユメへと戻す

 

「そもそも、私が名前を言う隙を最初から一切与えなかったのは、他ならぬユメ先輩のほうじゃないですか。矢継ぎ早に妙な名前ばかり連呼して……」

 

「うぐぅ……それはそうだけどさぁ……。でも、ホシノちゃんが私のアイデアを全部一撃でバッサリ切り捨てるから、つい焦っちゃって……」

 

はぁ、と本日何度目か分からない深い、深い、ため息を吐き出すホシノ

 

しかし、ユメに対してこれだけ偉そうに啖呵を切り、厳格な裁判官のようにすべてを却下してみせたものの、ホシノ自身もこれと言った素晴らしい名前が頭に浮かんでいるわけではない、というのが冷酷な事実であった

 

愛用の散弾銃の精密な分解清掃や、効率的な戦術の組み立て、あるいは破綻寸前のアビドス生徒会が抱える複雑な予算のやりくりであれば、彼女の明晰な頭脳はいくらでも論理的で完璧な答えを瞬時に導き出せる。だが、「これから新しく家族になる小さな命に、一生ものの愛称をつける」というあまりにも抽象的で、あまりにも責任の重い、そして感情に直結した作業に対し、ホシノの生真面目すぎる脳細胞は完全にキャパシティを超え、処理落ちを起こしかけていた

 

机の向こう側では、ユメが「むぅ」と子供のように分かりやすく両頬を大きく膨らませながら、恨めしそうな、それでいてどこか拗ねた視線をこちらに向けている。自分ばかりが怒られたのが、よほど納得がいかないらしい

 

「なんですか、その顔は。私が理不尽なことを言ったとでも?」

 

「言ってないけどぉ……。ホシノちゃんも考えてよって言っただけだもん……」

 

気まずい沈黙が流れ、生徒会室を包むのは、古びた掛け時計の秒針がチクタクと刻む一定の音と、砂漠から吹き付ける微かな隙間風の音、そしてソファの足元から聞こえる子犬の愛らしい寝息だけになった

 

ホシノは細い腕を組み、うつむき加減にじっと視線を床へと落とした。その視線の先には、傾いた窓から差し込む斜陽の、まるで琥珀色のような夕暮れの光を浴びて、銀色にも見える美しい白い毛並みをきらきらと輝かせている子犬の姿がある

 

静寂が数分間、室内の重い空気を満たした

 

しばらくの間、まるで精巧な彫刻のように身じろぎもせず悩み込んでいたホシノだったが、やがて何かを決心したように、小さく、本当に隣のユメにしか聞こえないような消え入りそうな声で口を開いた

 

「…………白い、子犬」

 

「え? なぁに、ホシノちゃん?」

 

ユメが膨らませていた頬を元に戻し、聞き取ろうとして身を乗り出し、熱心に耳を傾ける。ホシノは自分の提案がひどく素朴であることにどこか決まりが悪そうに、視線をユメから斜め下の床へと逸らしながら、ぽつりと呟いた

 

「……『白子(しろこ)』……というのは、どうですか。見たままですが……悪くない響きだと思います」

 

その提案を聞いたユメは、一瞬だけ呆気に取られたようにパチパチと目を丸くした。そして、じわじわとその表情に、先ほどまでの拗ねた様子とは違う、いたずらっぽくからかうようなニュアンスの笑みが戻ってくる

 

「…………ホシノちゃん、それ、ちょっと安直じゃない? 私のこと散々ツッコんでおいて、白いから白子ちゃんって、そのままじゃん!」

 

「っ……!」

 

まさか、あのトラブルメーカーで語彙力の怪しい先輩から、直球で「安直」などという言葉を向けられるとは思っていなかったのだろう。ホシノは一瞬で顔を真っ赤に沸騰させると、手元で掴んでいた書類の束をバシッと音を立てて机に叩きつけ、必死に自身の正当性を主張した

 

「ワンワンやキャンキャン、カルビー、挙げ句の果てに別の意味でキヴォトスから存在を消されそうな禁忌の名前を連呼していた先輩よりかは、何億倍もマシだと思いますが!? ひねりがないのではなく、シンプル・イズ・ベストと言ってください!」

 

ホシノが思わず大声を出して真っ赤になって反論した、まさにその時だった

 

ソファの足元から、微かに衣擦れに似た小さな音が聞こえてくる

 

『くぁぁ……っ、はふ……』

 

小さな口をいっぱいに開けて、まだ未発達の頼りない牙を覗かせながら、子犬が大きな欠伸を一つ漏らした。それから短い前後肢をいっぱいに伸ばして、猫のように背中を丸めて小刻みに震わせる

 

ホシノの怒声に驚いて飛び起きたわけではなく、ちょうど眠りが浅くなったタイミングで、心地よい目覚まし時計代わりにでもなってしまったらしい

 

「あーあ……ホシノちゃんがそんなに大きな声を出すから、せっかく気持ちよさそうにすやすや眠ってたのに起きちゃったじゃない。可哀想にー」

 

ユメがこれみよがしに大袈裟に肩をすくめ、唇をとがらせて見せる

 

「ユメ先輩だってさっきまで散々大声を出していましたよね!? 大体、先輩が突飛で非常識な名前ばかり提案して私を精神的に怒らせるから――」

 

「……あ! そうだ、丁度いいし、この子自身にどっちの名前がいいか決めてもらおうよ!」

 

激しい言い合いを遮るように、ユメがこれ以上ない名案を思いついたとばかりにポンと手を叩いた。あまりに急で強引な方向転換に、ホシノは毒気を抜かれたように首を傾げる

 

「子犬に……? 何を言い出すかと思えば。生後数ヶ月の生き物が、人間の言葉を完全に理解して自分でどちらかを選んで名乗るとでも言うんですか」

 

「違うよー、ルールは簡単! 2人同時に、自分が付けたい名前をこの子に向かって優しく呼ぶの。それでね、真っ直ぐに走ってきて、足元にタッチしてくれた方が呼んだ名前に決定するの! どう、これなら神聖な選択だし、お互いに恨みっこなしの不公平なしでしょ?」

 

「……なるほど。確かにそれなら、この子の野生の勘というか、自由な意思で選んだことになりますし、文句はありませんね」

 

生真面目なホシノにとっても、その提案は案外理にかなっているように思えた。何より、このままでは朝まで泥沼化しそうだった不毛な命名会議に、最も平和で誰も傷つかない形で終止符を打つことができる

 

2人は机の前に並んで立ち、ようやく寝起きの気怠さから解放されて、床の上でちょこんとお座りをした子犬の方へと視線を向けた。部屋の奥まで差し込む夕暮れの琥珀色の光が、子犬の輪郭を優しく、どこか幻想的に縁取っている

 

ユメが床に膝をついて姿勢を低くし、両手を大きく広げて満面の笑みを向けた

 

「それじゃあいくよー? せーの……おいでー! ミニホシノちゃーん!」

 

「……っ、ちょっと先輩!! 結局まだその意味不明な名前に固執していたんですか!?往生際が悪いですよ! ……くっ、あ、あーもう! お、おいでー! 『白子』――!」

 

自分の名前をもじった恥ずかしい愛称を叫ぶユメに気恥ずかしさと憤りを感じ、ホシノは鋭いツッコミを入れつつも、一歩遅れて自身の考えた名前を必死に紡ぎ出した。急に大きな声を出したせいで、喉の奥が少し熱い

 

『っ!』

 

夕闇が刻一刻と迫る生徒会室に響き渡った、2つの異なる名前

 

床の上でお座りをしていた子犬は、ピクリと大きな耳を左右交互に立てると、同時に自分を呼ぶ2人の少女の姿を、きょとんとした丸い瞳で見つめた

 

ユメは両手を広げて「こっちだよー!」と全身でアピールし、ホシノはどこか不慣れな様子で、しかし真剣な眼差しでその場にしゃがみ込んでいる

 

その直後、まるで最初から迷いなど一切ないと言わんばかりに、子犬は短い四肢で力強く古い床を蹴った。一直線に向かった進路の先は――

 

タタタタタッと小さな爪の音を室内に響かせ、弾かれたように飛び込んだのは、ホシノの足元だった

 

「わ、わわっ、ちょっと……!」

 

子犬はホシノの黒いローファーの上に小さな前足を器用に乗せると、まるで『撫でて! 早くたくさん撫でて!』と全身で要求するように、その小さな銀白色の頭をホシノの足首へと何度も熱烈にすりすりとし始めた

 

千切れんばかりに激しく左右に振られる尻尾が、ホシノのふくらはぎをパタパタと小気味よく叩く

 

「ひぃん……! どうしてぇーっ!? 最初に砂漠で見つけて、なけなしの非常食のジャーキーをあげて、ここまで落とさないように大切に抱っこして連れてきたのは私なのに――! どうして後から来たホシノちゃんの方に行っちゃうのー! わたしのジャーキーの恩恵はどこにいっちゃったのー!」

 

ユメはその場にがっくりと膝をつき、両手を床について漫画のように滝のような涙を流して絶叫した

 

「当然の結果です、先輩」

 

ホシノはユメに向けた目をどこまでも呆れ果てたものにしていたが、その声には確かな勝利の余裕が含まれていた

 

「ミニホシノちゃんなんていう、歩くプライバシー侵害かつ私の尊厳を脅かすような名前を付けようとするからですよ。この子だって野生のプライドがあります。そんな妙な名前で一生呼ばれたくなかったに決まっています。ねー?」

 

「そんなぁ……。可愛いと思ったのになぁ、ミニホシノちゃん……」

 

ユメに向けられた言葉は辛辣そのものだったが、足元の白い毛玉を見つめるホシノの視線は、すでに信じられないほど優しく、柔らかく軟化していた

 

ホシノはそっと床に深くしゃがみ込むと、愛おしさを隠しきれない、少しぎこちない手つきで子犬の小さな頭を撫でる。手のひらを通じてダイレクトに伝わる生き物の温もりと、少し硬くて柔らかい毛並みの感触。酷く乾燥したアビドスの風の中で、その小さな命の温かさが、ホシノの尖りきっていた胸の奥をじんわりと、確かに温めていく。子犬は気持ちよさそうに細い目をさらに細め、全面的にホシノの手のひらへと身を委ねていた

 

そのあまりにも微笑ましい光景を、ユメは床に突っ伏したまま、羨ましそうに涙目でじーっと見つめている

 

「うぅ、ホシノちゃんだけずるい……。わたしもすりすりされたかった……」

 

「先輩はあっちで書類の整理でもしていてください。……では」

 

ホシノはひとつ、わざとらしい咳払いをして副会長としての表情を引き締めると、両手で子犬の柔らかい脇をしっかりと支え、自分の目線の高さまでゆっくりと持ち上げた

 

宙に浮いた子犬は、短い後ろ足を空間で小さくバタつかせながらも、キョトンとした無垢な顔で、ホシノの左右で色の異なる美しいオッズアイを見つめ返してくる

 

「今日から貴方は、アビドス高等学校生徒会の3人目の役員。……そして、私たちの家族です。名前は『白子(シロコ)』。……いいですね?」

 

『わんっ!』

 

ホシノがその名を明確に、静かな部屋の中で宣言すると、子犬はそれが自身の新しい名前であり、新しい居場所が決まったことを理解したかのように、短く、しかし酷く嬉しそうに一回だけ元気よく吠えてみせた。その響きには、どこかアビドスの生徒としての誇らしげなニュアンスさえ含まれているように思えた

 

「うーん……白子ちゃん自身がそうやってお返事するなら、負けちゃったし、これ以上は仕方ないかぁ! 多数決でも私の負けだね」

 

ユメはすぐに拗ねていた顔をいつもの底抜けに明るい笑顔に変えると、床から勢いよく立ち上がり、ホシノの腕の中にいる白子の頭を、指先で優しく小突くようにして撫でた

 

「これからよろしくね! 私たちの可愛い白子ちゃん♪ 毎日たくさん遊ぼうね!」

 

白子はユメの手にも嬉しそうにクンクンと鼻先を寄せ、先ほどまでの不毛な言い合いや険悪な空気など嘘のような、穏やかで温かい笑い声が生徒会室を満たしていく。窓の外では、アビドスの広大な砂漠が、夕日に染まって黄金色に輝いていた

 

どこまでもお人好しで、突拍子もない騒動ばかりを引き起こす3年生の会長、梔子ユメ

 

生真面目で、誰に対しても針のように尖っていて、けれど実は優しい1年生の副会長、小鳥遊ホシノ

 

そして、そんな2人の少女の心を一瞬にして奪い去ってしまった、白く美しい野生の子犬――白子

 

その濁りのない銀白色の毛並みと、夕暮れに輝く水色の瞳は、いつかアビドスの青い空の下で、かけがえのない絆の象徴となる光景だった

 

桜の季節が終わりを告げ、本格的な初夏の風が吹き付けるアビドスの地で。こうして、2人と1匹という、少し歪で、けれど最高に騒がしくて愛おしい、新生アビドス生徒会の新しい日常が、静かに幕を開けたのだった

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