「ユメ先輩――っっ!!」
「へ……?」
その悲痛な叫びが廃倉庫の静寂を切り裂いた瞬間、ユメの視界が激しく揺れた
何が起きたのかを脳が認識するよりも早く、ホシノの小さな身体が弾丸のように飛び込んできて、ユメの細い腰を全力で突き飛ばしたのだ
「っ……!!」
コンクリートの硬い床に激しく叩きつけられ、背中と後頭部に焼けるような強い痛みが広がる
痛みに視界を歪ませながらも、ユメの頭にはひとつの確信があった。あのいつも気怠げで、けれど誰よりも優しい後輩の、聞いたこともないような必死な声
それだけで、ユメはホシノが自分を危険から守るために突き飛ばしたのだと本能で理解した
――すべてがスローモーションのように感じられる、極限の静寂の中
倒れ込んだユメの耳に、信じられない、けれど、はっきりと聞き覚えのある「声」が届いた
『ワン……!!』
「ぐふっ……!? あ……っ」
正面入り口へ続く通路の寸前、ホシノが咄嗟に身を守るように両腕をクロスさせたその瞬間だった
先ほどまで二人がいた、あのロボットの縛り付けられていた部屋の奥から、一本の白い影が猛烈な速度で飛び出してきたのだ
それは、首から無理やり引きちぎられたような青い紐をなびかせながら、一直線にホシノへと突進した。そして、その小さな頭部をホシノの腹部へと力一杯に叩きつけ、彼女の身体をユメのいる安全な通路側へと、強引に弾き飛ばした
ホシノの身体がユメの足元へと転がり込んできた、まさにその刹那――
視界のすべてを焼き尽くすような真っ白な閃光と共に、鼓膜を震わせる大爆音、そして無数の金属玉が狂ったように辺りへと撒き散らされる音が響き渡った
そして
『キャイン……!!』
爆風の轟音の隙間を縫って、あまりにも切なく、悲痛な叫び声が倉庫の奥に消えていった
ガガガガ、と、爆発の余波でひび割れたコンクリートの壁が崩れ、天井から何本もの不気味な鉄骨や瓦礫が音を立てて床へと落ちていく。立ち込める黒煙と激しい硝煙の匂いの中、ユメは咳き込みながらも必死に目を開けた
「ホシノちゃん! しっかりして……! ホシノちゃん!」
ユメは、自分の足元で衝撃にうめいているホシノの肩を激しく揺さぶり、声をかける
「っ……ゆ、ユメ……先輩……? 一体……何が……」
ホシノは痛む頭を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こした。オッドアイの瞳が、まだ何が起きたのかを捉えきれずに激しく彷徨っている
「わ、分からないよう……。突然ホシノちゃんに押されたかと思ったら、奥の部屋が爆発して……。そ、それに……今の、鳴き声……」
「っ!!」
ユメの言葉が終わるより早く、ホシノの顔から血の気が一気に引いていった
その脳裏に、先ほどの白い影と、あの耳に焼き付いて離れない愛らしい声が、最悪のパズルとなって組み上がっていく
「ユメ先輩! 行きますよ!」
「う、うん……っ!」
ホシノは立ち上がるや否や、ユメの手を壊れ物を扱うかのような強さで握り締め、まだ爆煙が渦巻く、あの部屋の方向へと狂ったように走り出した
(今の声……ううん、鳴き声……。いや、違う。気のせいだ。絶対に気のせい……。だって、あの子はアビドスにいるはずだもん。きっと、何かの聞き間違い……)
ユメは頭の中で、必死に現実を拒絶していた。先ほど聞いた声の「答え」が脳内に形を結んでしまうのを、叫び出したいような恐怖で必死に防ぎ止めようとしていた
しかし、現実はどこまでも残酷だった
爆心地である部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、二人は言葉を失った
部屋の中央、縛り付けられていたロボットを中心に凄まじい爆発が起こった形跡があり、壁も床もすべてがドス黒く焼け焦げ、周囲には飛び散った鉄球が幾つも深くめり込んでいる
そして、その破壊の爪痕の真中心に
弱々しく、ピクピクと身体を震わせている、黒い煤に覆われた小さな「白い物体」が横たわっていた
生徒会室で帰りを待っているはずの白子だった
「白子……っ!?」
「白子ちゃん……!!! どうして……っ!」
二人は引き裂かれるような悲鳴をあげ、我先にとその側へ駆け寄った。ホシノは床へ膝をつき、震える両手で、ゆっくりと白子の小さな身体を抱き上げた
「な、なんでここにいるんですか……? しっかりとアビドスの部屋は閉めて……鍵だって……それに、リードもつけておいたのに……!!」
「っ……ほ、ホシノちゃん……見て……リードが、ちぎれてる……」
ユメが涙で視界を滲ませながら指差したのは、白子の首から力なく垂れ下がっている青い紐だった。それは、アビドスでいつも二人が白子を散歩させる時に大切に使っていた、あのリードだった
ナイフで切られたような綺麗な断面ではない。繊維がボロボロに毛羽立ち、強引に、狂暴なまでの力で引っ張られて引きちぎられたようなその生々しい跡
ホシノたちが急にいなくなった部屋で、白子がどんな思いで、どれほど必死にこの紐を引っ張り、引きちぎって自分たちの後を追ってきたのか、容易に想像がついてしまった
「なんで……どうして……こんな、馬鹿なことするんですか……あれくらいの爆発…私なら耐えられたのに…!!」
ホシノの小さな肩が、ガタガタと激しく震え始める
その細い腕の中に抱かれた白子の胸の上下は、まるで夜風にさらされた消えかけの灯火のように、どんどんと、どんどんと小さく、浅くなっていくのだった
かすかな呼吸が漏れるたびに、その小さな命が指の隙間からサラサラとこぼれ落ちていくような、耐えがたい恐怖がホシノの心を支配する
「嫌だ……嫌だ、白子……っ! 置いていかないでくれよ……!」
ホシノの悲痛な叫びが、煤けたコンクリートの壁に虚しく反響する。その涙に濡れた顔を見上げるように、白子は残された最後の力を振り絞り、微かにその頭を持ち上げた
濁りかけていた水色の瞳が、じっと、真っ直ぐにホシノのオッドアイと視線を交わす。そして、傷だらけの小さな顎を伸ばすと、ホシノの涙で濡れた頬を、ゆっくりと、優しく、慈しむように一舐めした
『……クゥン……』
切なげに、けれどどこか安心したような、掠れた鳴き声
それはまるで、『大好きなみんなが、無事でよかった』――そう言いたげな、あまりにも純粋で、温かい親愛の証明だった
「しろ……こ……?」
ホシノが名前を呼んだ、まさにその瞬間だった
張り詰めていた糸がプツリと切れたかのように、白子の身体から完全に力が抜け、その頭が自重でゴト、とホシノの腕の中に倒れ込んだ。四肢は完全に弛緩し、ぐったりと重くなる
「白子……? 白子……!! 嘘ですよね、ねぇ……目を開けてください…!」
いくら名前を呼んでも、激しく身体を揺さぶっても、もうあの心地よい体温が戻ってくる気配はなかった
ただ、消えかけた命の残火が、その小さな胸の奥で、本当に微かに、かすかに震えているだけ
「ホシノちゃん!! 泣いてる場合じゃないよっ!!」
隣で同じように涙を流していたユメが、悲痛な叫び声を上げてホシノの肩を掴んだ
「病院に……病院に早く行こうよ!! このままじゃ、本当に白子ちゃんが死んじゃう……! まだ息はある! 間に合うよ、絶対に諦めたらダメ!!」
「っ……!!」
ユメの必死な言葉が、絶望に沈んでいたホシノの脳髄を激しく叩き割った
そうだ、まだ白子は死んでいない。自分の腕の中で、必死に生きようと、その冷めかけていく命を繋ぎ止めようとしている。ここで自分が絶望に立ち止まったら、それこそ本当にこの小さな命を救えなくなってしまう
ハッとしたホシノは、溢れ出る涙をボロボロの袖で乱暴に拭い去ると、白子を落とさないよう、その小さな身体を胸元でしっかりと抱きしめて急いで立ち上がった。煤と血の匂いが、ホシノの鼻腔を容赦なく突く
「ユメ先輩……っ! 走りますよ……!!」
「うん……っ!! 早く、早く行こう……っ!!」
二人は廃倉庫の錆びついた重い鉄扉を蹴破るようにして飛び出し、濁った赤色の夕焼けがねっとりと広がるアビドスの街へと猛然と走り出した
砂を噛むような荒い息を吐きながら、ただひたすらに、一秒でも早く、一歩でも先へ。ホシノの腕の中の白子は、走る振動に合わせて力なく、ぐったりと揺れている
その身体から刻一刻と失われていく体温の冷たさが、ホシノの焦燥感をどこまでも煽り立てた
「白子……っ、お願いだから、まだ、まだ逝かないで……っ!!」
幸いなことに、この最悪の状況の中で、唯一の希望が残されていた
以前、白子の健康診断のために二人で連れて行ったことのある、アビドス管区内でも数少ない個人経営の小さな動物病院。それが、この廃倉庫のエリアからそう遠くない距離にあることを、ホシノの驚異的な記憶力が正確に導き出していた
(頼む……間に合って……っ! 私の命なんて、いくら削られたって構わない……! 私の身体がどうなったっていい……! だから、この子を……白子を助けてください……っっ!!)
心の中で血を吐くような祈りを繰り返しながら、ホシノとユメは、白子を救うためのわずかな可能性だけを信じて、夕闇が迫る荒野の道を死に物狂いで駆け抜けていった
「開けてくださいっ!! 誰か、誰かいないんですか……っ!?」
アビドスの寂れた街並みの外れ。色褪せた看板を掲げた小さな動物病院の前に辿り着いたホシノは、すっかり診療時間を過ぎて鍵の閉まったガラス扉を、拳が壊れるのも、ガラスが叩き割れるのも厭わずにドンドンドンと激しく叩きつけた
「お願いします……! 頼みます、開けてください……!」
ホシノの隣で、肩を大きく上下させ、息をゼーゼーと切らせたユメも、涙をボロボロとこぼしながら必死に扉を叩く
二人の必死の叫びが夜の静寂に虚しく響き、何十秒もの絶望的な時間が過ぎていく。ホシノの腕の中の白子は、もう呼吸をしているのかすら分からないほどに静まり返っていた
半分諦めかけたその時、病院の奥にパッと、淡い蛍光灯の明かりが灯った。バタバタとせわしない足音が近づき、ガチャリと鍵が外れて扉が開くと、眠そうに目をこすりながらパジャマ姿の犬の獣人の院長が顔を出した
「おいおい、こんな時間に一体何事だい? もうとっくに本日の診療時間は終わって――」
「お願いします……!!」
ホシノは院長の言葉を遮るように、すがるような、剥き出しの悲鳴を上げた
「この子を……白子を、助けてください……っ!! 爆発に巻き込まれて、もう、息が……っ!」
「なっ……! 確かその子は……白子ちゃんじゃないかい!? 待ちな、今すぐ灯りを!」
院長は一瞬で眠気を吹き飛ばし、驚愕に目を見開いた。ホシノの腕から、ぐったりと動かない白子の身体を、骨折や内臓破裂を警戒しながら慎重極まる手つきで受け取る。しかし、その小さな身体を自分の両腕に抱いた瞬間、院長の耳がピクリと垂れ下がり、その顔が一瞬だけ、重く暗く曇った
獣医としての経験が、腕に伝わる質量と、急激に失われつつある生命の灯火を正確に察知してしまったのだ
「……すぐに処置室の準備をする。できる限りのことは、私の持てる技術のすべてを尽くしてやるつもりだ。……けれど、覚悟だけはしておくんだよ」
そう静かに告げると、院長は二人を待合室の中に招き入れ、白子を抱えたまま、奥にある「手術中」のプレートが掲げられた小さな部屋へと早足で消えていった。バタンと重い扉が閉まり、上部の赤いランプが点灯する
二人はその扉の前に、崩れ落ちるようにして床へ座り込んだ
ただ祈るしかできない、あまりにも無力な自分たちの現実。ユメは胸の前で十本の指を痛いほどに固く組み、きつく目を閉じた
(お願いします……神様、どうか、どうか……。ホシノちゃんから、アビドスから、これ以上大切なものを取り上げないでください……。あの子は、ホシノちゃんが初めて自分から『守りたい』って笑ってくれた、私たちの本当の家族なんです……。だから、どうか……!)
ホシノは、膝を抱え込んで頭を深く埋め、血が滲むほどに自分の唇を噛み締めていた
(元気になったら……目が覚めたら、絶対に、思いっきり怒ってやるんです。なんで私なんかを助けたんだって。私の代わりに怪我するなんて、バカじゃないかって……! それから、それから……。気の済むまで、腕が痛くなるまで、たくさん、たくさん抱きしめて褒めてあげるんです。私を助けてくれてありがとうって……。だから、お願いです、生きて……。逝かないで、白子……!!)
それから、どれだけの時間が経ったのだろう
数十分だったかもしれないし、数時間だったかもしれない。あるいは、永遠に続く数ヶ月のようにも感じられる、狂おしいほどに濃厚で、残酷な静寂の時間
待合室の古びた時計が刻むチクタクという規則正しい音だけが響く中、二人の脳裏には、走馬灯のように白子と過ごしたこれまでの愛おしい日々が、鮮明な映像となって溢れ出しては消えていった
まだ小さかった白子を、ユメが砂漠の真ん中で拾ってきた、あの始まりの日
初めて2人を見たはずなのに、あの子は怯えることもなく、嬉しそうに2人に擦り寄って甘えた声を上げてみせた。その愛らしさにホシノが一発でノックアウトされ、正式に家族としてアビドスに迎え入れることが認められた、あの温かい日
3人でアビドスの広大な砂漠へ「プラズマ鉱石を見つけるんだ!」と意気込んで宝探しに出かけた日。結局、お目当ての鉱石は見つからなかったけれど、白子が小さな前足で一生懸命に砂を掘り返し、自慢げに見せてくれた、緑色とピンク色に綺麗に輝く2つの鉱石。「これでお守りを作ろう」って、ユメが大切そうに預かった、あの日の白子の嬉しそうな顔
埃まみれになった3人で、笑い合いながらお風呂場を大掃除した思い出。ユメの草取りを、楽しそうに自分も砂を掘って手伝ってくれたこと。綺麗になったお風呂の中で、初めての湯船のはずなのに、一生懸命に綺麗な犬かきを見せて2人を笑わせてくれたこと
そのどれもが、アビドスが失いかけていた、何物にも代えがたい「日常」の輝きそのものだった
――カチャリ
突然、固く閉ざされていた手術室の扉の鍵が外れる、冷たい金属音が静寂を切り裂いた
ホシノとユメの身体が、弾かれたように同時に跳ね上がる
ゆっくりと開いた扉の向こうから、血の匂いが染みついたオペ着を着た院長が、静かに姿を現した。その表情は、ひどく疲弊し、どこか沈痛な色彩を帯びていた。額には大粒の汗がにじみ、その目はまっすぐに二人を見ることができず、ただ薄暗いリノリウムの床へと落とされている
「先生……! 白子は……白子はどうなりました!? 助かったんですよね……っ!?」
ホシノは床から飛び起きるようにして院長へとすがりついた。その瞳は、いまにも崩れ落ちそうな絶望を必死に堪え、一筋の希望の光を求めて激しく揺れている
「……」
しかし、ホシノの魂を削るような必死の問いかけに対して、院長は何も言わなかった。ただ、重く、冷たい沈黙だけが、狭い待合室の空気を押し潰すように支配していく
「なんで……なんで黙ってるんですか……!! 何か言ってくださいよ!!」
ホシノの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、床へとシミを作っていく。感情を制御できなくなったホシノは、院長の血で汚れたオペ着の肩を、狂ったように両手で掴んで激しく揺さぶった。その小さな指先が、恐怖でガタガタと震えている
「ホシノちゃん……ダメだよ……。もう、やめて……」
そのホシノの震える手を、背後から近づいたユメが、自らも涙を流しながら優しく、包み込むように止めた
「院長さん……私たちのことを、気遣って……何も、言えないんだよ……」
ユメの声は、かすれて消えそうだった。すべてを察してしまったその声には、受け入れたくはない現実の重みが乗っかっていた
「……すみません。私の力が足りず、手を尽くしたんですが……ここに着いた時にはすでに……」
院長が深く頭を下げ、悔しさに唇をきつく噛み締める
その一言だけで、白子がどうなったのか、分からないはずもなかった。奇跡など、起きなかった。あの小さな白い影は、大好きなホシノを救うというそのたった一つの目的を果たすためだけに、自らのすべての命を燃やし尽くしてしまったのだ
「あ……ああ……あああああああ……っ!!! いやだぁぁぁぁっ!!! 白子、白子ぉぉぉ……っ!!」
ホシノの、喉を掻きむしるような悲痛な叫び声だけが、無機質な病院内に白々しく響き渡った。ホシノはそのまま床に膝をつき、自分の胸をきつくかき抱きながら、子供のように声を上げて泣き続けた
アビドスを守るため、常に自分を殺して張り詰めていた少女が、初めて見せた剥き出しの、壊れたような動作だった
それからのことを、ユメもホシノも、どうやって過ごしたのか記憶がひどく曖昧だった
世界から色彩が消え去ったような感覚の中、気づけば二人の前には、小さな木製の箱が置かれていた
院長の優しい計らいなのだろう。せめて最期は綺麗にしてあげたい、その一心で処置をしてくれた白子の姿は、爆風の煤や流れた血が、毛並みの奥にほんの少しだけ残っているものの、まるで奇跡のように穏やかで、綺麗な姿だった
その顔は、ホシノから貰ったお気に入りのクジラのぬいぐるみを抱っこして、生徒会室のソファで遊び疲れて丸くなって寝ている時の姿にそっくりだった
今にも、その水色の瞳をパチリと開けて起き上がり、ホシノの足元へ嬉しそうに飛びつきそうなほど、ただ深く眠っているようにしか見えなかった
白子が助からなかったと聞いた瞬間に、心の中の涙はすべて枯れ果てた、もう一滴も出ない。そう思っていたはずなのに、その寝顔を見つめていると、視界は何度も何度も涙で歪み、止まることを知らなかった
「今日は……もう遅い。ここで休んでいきなさい。動けるような状態じゃないだろう」
院長は静かにそう言うと、奥にある普段は使われていない小さな入院用の部屋へと二人を案内してくれた
ホシノもユメも、もはや言葉を返す気力すら残っていなかった。二人は何も言わずに、冷たくなった白子の身体を真ん中に挟み込むようにして、床に川の字になって寝転んだ。白子の小さな前足をそっと握りしめ、そのかすかな感触だけを縋るようにして、いつの間にか泥のような深い眠りへと落ちていった
「……酷なことを言うようだけど、この子をこのままにはしておけない。火葬してあげるしかないね。私の知り合いに、キヴォトスの動物も丁重に火葬してくれる信頼できる所がある。早いうちに、そこを尋ねてみなさい」
次の日の朝、白子の入った箱を、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように大切に両腕で抱えて持ち帰ろうとする二人に、院長は沈痛な面持ちで静かに告げ、一枚のメモ用紙を渡してくれた
二人は掠れた声で小さく頭を下げると、何一つ言葉を交わすことができないまま、ひとまず自分たちの家である学校へと帰ることにした
重い足取りで、一歩一歩が鉛のようになった身体を引きずりながら、ようやくアビドス高等学校の校舎へと辿り着く。しんと静まり返った廊下を歩き、いつもの生徒会室の重い扉をそっと開けた
その瞬間、二人の目に、ある一つの「光景」が飛び込んできた
部屋の隅にある、鍵が壊れたままの古い窓
そこは以前、白子がまだほんの小さかった頃、寂しさに耐えかねて2人の知らなかった隠し扉を使って夜の生徒会室に忍び込み、ホシノやユメの私物を引っかき回して遊び尽くしたあと、外の砂漠へと飛び出すために使った、あの思い出の窓だった
いま、その窓は、内側から力任せに押し開けられ、ガタガタと不吉に揺れていた
窓枠の古い木の部分には、爪が深く食い込んだ生々しい傷跡が残り、床には引きちぎられたリードの繊維の破片がいくつか散らばっている
すべてが、繋がった
留守番をさせられていたあの部屋で、大好きな二人の危機を本能で察知した白子は、首が引き裂かれそうになりながらもリードを無理やり引きちぎり、そして鍵の壊れたこの窓から、外へと飛び出したのだ。ただ、ホシノたちの元へ駆けつけるためだけに。荒涼とした砂漠の道を、小さな足でどれほど必死に走り続けたのだろうか
朝日の差し込む無人の生徒会室で、その開け放たれた窓を見つめながら、ホシノは白子の入った箱をさらに強く、胸へと抱きしめた。カーテンが風に揺れる音だけが、二人の痛々しい沈黙に寄り添うように、いつまでも部屋の中に寂しく鳴り響いていた
◇
それから、ホシノ達は院長に紹介された火葬場へと向かった
煙突から空へと昇っていく細く白い煙を、ホシノはただ、瞬きすら忘れたような虚ろな瞳で見つめていた。すべてが終わったあと、あの子がこの生徒会室に帰ってきたときには、最初に入れられていた温かみのある木箱よりも、ずっとずっと小さな、陶器製の冷たい骨壺に収まった状態だった
陽の光を浴びて白く静かに佇む骨壺。それを生徒会室の机の特等席にそっと置くと、ホシノはしばらくその前から動かなかった。虚ろなオッドアイで、ただその白く冷たい陶器の表面を見つめ続ける。やがて、小さく乾いた声が、砂の擦れるような音となってその唇から呟かれた
「……少し、外の空気を吸ってきます」
「あ、ホシノちゃ……」
ユメが引き留める言葉を紡ぎきるよりも早く、ホシノは壁に立てかけてあった愛用のショットガンを無言で掴み取った。まるで自らの魂をその場に置き忘れてきてしまったかのような、生気のない足取り
フラフラと扉の向こうへ消えていくその後ろ姿を、ユメはただ、胸を締め付けられるような思いで見送ることしかできなかった
(……ホシノちゃん、あれからもう、1週間も帰ってこないな……)
静まり返り、絶え間なく窓を叩く砂の音だけが低く響く生徒会室
ユメは「もう何もしたくない」と激しく拒絶する自分の心と身体を、引きちぎるような思いで無理やり奮い立たせていた。机の上に山積みになっていたアビドスの財政書類や、督促状の束。それらを、ただ機械的に整理していく
あれからまともに眠っていない
いや、眠ってしまえば、閉じた瞼の裏にあの日の爆音と、腕の中で急速に冷たくなっていった白子の感触が鮮明に蘇ってきてしまう。だからこそ、ユメは自らを追い詰めるように、必死に手を動かし続けていた
しかし、ペンを動かすたびに、ほんの少し前までの愛おしい日常が、容赦なく脳裏に呼び起こされる
書類の裏からひょっこりと白い耳を覗かせて、「クゥン」と邪魔をするようにペンの頭を甘噛みしようとする無邪気な姿
「もう、白子ちゃんダメだよー」と笑うと、わざと広げた領収書の上に寝転がって、水色の瞳をキラキラと輝かせながら見上げてきた、あの愛らしい鳴き声
もう、そのどれもが聞こえない
部屋のどこを見渡しても、どれほど目を凝らしても、あの子の柔らかな温もりは欠片も残っていなかった
その厳然たる事実を脳が自覚するたびに、視界は急激に歪み、ユメの頬を大粒の涙がとめどなく伝い落ちていく。ポツポツと、白い書類の文字が涙のシミで滲んでいった
「辛いよ……苦しくて、胸が張り裂けそうだよ……でも、ホシノちゃんは、きっと私の何倍も、何十倍も……」
ユメの胸の中にも、もし自分がヘルメット団や闇企業の罠に間抜けに引っかかり、捕まりさえしなければ、ホシノがあんな場所に駆けつけることも、こんな最悪の事態になることもなかったという、血を吐くような後悔が、どす黒い澱のように渦巻いていた
けれど、ホシノがその小さな背中に背負わされてしまった心の傷の深さは、ユメのそれとは比べものにならないほど残酷で、破滅的なものだった
ホシノにとって、あの中型ロボットの自爆は、予測の範疇だったのだ。キヴォトスの生徒である自分の頑丈な身体なら、「この程度の爆発、直撃しても痛いだけで耐えられる」と踏んでいた。自らの肉体を盾にして、爆風のすべてを受け止めてでも、ユメを守りきる――その明確な覚悟と計算の元に、彼女はあそこに立っていた
しかし、そのホシノの計算は、一枚の頑丈なリードを引きちぎり、ただひたすらに大好きな人たちを追いかけて走ってきた、白子の乱入によって完全に崩壊させられた
自分を守るために、あの小さくて、キヴォトスの生徒のような神秘的な光輪も持たない、ただの普通の生き物が、その肉体をボロボロにして身代わりとなり、命を散らしたのだ
この過酷な砂漠、理不尽と暴力だらけのキヴォトスであの子が生きていくためには、何よりも「力」が必要だ。だからこそホシノは、いつか自分たちが側にいられなくなったとしても、あの子が一人で気高く生きていけるようにと、心を鬼にして厳しい特訓を課し、野生の強さを引き出そうとしていた
それが、まさかこんな形で、教え込んだその俊敏さと力強さが「大好きなホシノを死なせないため」に使われ、自分が無傷で生き残る結果になるなんて――
ホシノは夢にも思っていなかっただろう
(きっと、ホシノちゃんは今も、ずっと自分を責め続けてる……。あの子の心を暗闇から救うために、先輩である私にできることって、一体何なんだろう……)
涙でボヤけた頭で、出口のない問いを繰り返していた、その時だった
ガチャン、と鍵の壊れた生徒会室の重い扉が、ゆっくりと内側に押し開けられた
「……」
「ホシ……」
ユメの唇から漏れ出しかけた名前が、瞬時に凍りついた
そこに立っていたのは、ユメのよく知っている、不遜で、どこか気怠げで、けれど誰よりも優しい「ホシノ」の姿ではなかったからだ
目の周りには、何日も不眠不休でアビドス中を彷徨い、敵を蹂躙し続けていたことを物語る、どす黒い隈が浮き出ている。衣服や剥き出しの肌の至る所には、激しい戦闘の痕跡である黒い煤と、ヘルメット団のものか、あるいはオートマタのオイルか、赤黒い返り血のような液体がどろりとこびり付いていた
手にしたショットガンの銃口からは、いまだ硝煙の生々しい匂いが微かに漂っている。その瞳からは完全に光が消え失せ、底知れない濁った闇だけが広がっていた
「っ……ホ、ホシノちゃん……っ! だ、大丈夫……!? 一体どこに……怪我は、ないの……!?」
ユメがたまらず駆け寄ろうとするが、ホシノは何も言わず、その問いかけを拒絶するように視線を頑なに落としたまま、ゆっくりと歩を進めた
そして、白子の遺骨が納められた白い骨壺の前へと静かに近づくと、手元に持っていた小さな、けれどずっしりと重みのある紙袋を、コト、と手向けるように置いた
「ホシノちゃん……それ、なに……?」
ユメが背後から、恐る恐る尋ねる
長い、耳が痛くなるほどの沈黙のあと、カサカサに割れて乾いたホシノの唇が、ようやく微かに動いた
「…………この寂れたアビドスの街じゃ、絶対に手に入らない……最高級の、お肉です……。……闇企業の拠点をいくつか潰して、資金を集めるのに……少し、手間取りましたけど……」
掠れた、けれど気味が悪いほどに酷く静かな声だった
「お肉……?」
「……約束、したんです」
ホシノの声が、徐々に熱を帯びて震え始める
「……この部屋を出るとき、大人しく留守番してろって……ユメ先輩を絶対に連れ戻したら……帰ってから、良いお肉を、お腹いっぱい食べさせてあげるって……あの子と、約束、したんです……」
ホシノの小さな身体が、またあの夜のように細かく、ガタガタと激しく震え始める
返り血に汚れた拳を真っ白になるほどきつく握りしめ、骨壺を見つめるオッドアイから、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出していった
感情を限界まで押し殺し、アビドスに害をなす外敵をただ機械的に蹂躙し続けてきた1週間分の反動が、一気に彼女の心を破綻させていく
「ユメ先輩……白子はもう、私が帰ってきても、嬉しそうに尻尾を振って鳴いてくれないんです……。お肉を前に置いても、匂いを嗅ぎにも来ない……。冷たい箱の中で、何も……何も言わないんです……っ!」
「……うん……うん、ホシノちゃん……」
ユメはホシノの絞り出すような言葉を、胸が張り裂けそうな想いで受け止める
ホシノの告白は、この1週間、彼女が血の滲むような過酷な戦いの中で、どれほど残酷な自問自答を繰り返してきたかを物語っていた
「私が……あのとき、あのロボットをワイヤーで縛るだけで放置せず、ちゃんとその場で完全に息の根を止めていれば……! 爆発の瞬間、ユメ先輩を突き飛ばすんじゃなくて、一緒に地面を転がって避けていれば……! それ以前に、私がもっと早く、ここの窓の鍵を直してさえいれば……! 白子は、今も……ここで、生きていたんでしょうか……っ!? 私が、私が殺したんだ……っ!!」
ホシノは帰ってきて初めて、その涙に濡れた瞳をまっすぐにユメへと向けた
その瞳には、自分の選択のすべてが狂気となって、白子を殺したのだという、狂おしいほどの自責の念が焼き付いていた
「……分からない……。分からないよ、ホシノちゃん……。私もね、自分がバカみたいに騙されて、あんな場所に捕まったりしなかったら……って、この1週間、何度も、何度もそればかり考えちゃうの。胸が苦しくて、息ができなくなるくらい……」
ユメは溢れ出る涙をそのままに、一歩、歩を進めてホシノの小さな身体を優しく包み込むように抱きしめた
煤と鉄錆、そして血の匂いが、ホシノの衣服からツンと鼻を突く。それでもユメは、その絶望の震えをすべて自分が引き受けるかのように、さらに強く、壊れそうな後輩を腕の中に引き寄せた
「どれだけ考えても、後悔しても、過去は変えられない……。答えなんて、どこにもないのかもしれない……。……でもね、何も分からないけれど、これだけは私、絶対に分かるよ。白子ちゃんはね、私たちのことが、ホシノちゃんのことが、本当に、本当に大好きだったんだよ」
ユメはホシノの背中に手を回し、優しく、何度もさすり続ける
「あの子はね、ホシノちゃんに義務を押し付けられたからじゃなくて、自分の意志で、大好きなホシノちゃんを守りたくて、あの砂漠を走ったんだよ。だからね、私たちは……あの子の分まで、ちゃんと前を向いて生きないとダメなんだよ。生きて、あの子が遺してくれたこの命を、大切に繋いでいかなきゃいけないの……っ」
「っ……、う、ああ、ああああぁぁぁ……っ!! いやだ、いやだよぉ……っ!!」
ユメの、心の底からの叫びが、ホシノの頑なな自責の殻を打ち砕いた。ホシノはユメの胸に顔を埋め、声を上げて泣き出してしまった
これまで「暁のホルス」として、決して弱音を吐かず、誰にも涙を見せまいと虚張を張り続けていた少女が、ユメの温もりの中で、完全に擦り切れた心を曝け出して嗚咽していた
ユメは何も言わず、ホシノが泣き止むまで、その小さく震える頭を何度も、何度も優しく撫で続けた。夕刻の静かな生徒会室に、ホシノの痛々しい慟哭がしばらくの間、絶え間なく響き渡っていた
数十分後、張り詰めていた緊張の糸が完全に切れ、蓄積していた精神的・肉体的な疲労が一気に押し寄せたのだろう
ホシノはユメの腕の中で、激しい呼吸を次第に落ち着かせ、いつの間にか「すぅ……すぅ……」とかすかな寝息を立てて深い眠りに落ちていた
「……おやすみ、ホシノちゃん。よく頑張ったね」
ユメは細心の注意を払ってホシノの身体を抱き上げ、生徒会室の古びたソファへと静かに横たわらせた。そっとブランケットを掛け、額に張り付いた髪を優しく払ってあげる。眠っているホシノの顔には、まだ消え切らない苦悶の表情が薄く残っていた
ユメは立ち上がり、反対側のソファへと腰を下ろした
部屋はまた、重い静寂に包まれる。夕闇が迫る室内で、机の上の小さな骨壺と、その前にぽつんと置かれた最高級のお肉が入った紙袋が、悲しいほどに白く浮かび上がっていた
(……何か、私ができること……ホシノちゃんのために、してあげられることって、ないかな……)
ユメは膝の上で自分の手をぎゅっと握りしめ、静かに眠るホシノの寝顔を見つめながら、白子の為に残せるもの、傷ついた後輩の心を救うための方法を、暗い部屋の中で一人、深く考え続けるのだった
窓の外はすっかり夜の帳が下り、砂漠の冷たい風がパタパタとカーテンを揺らしている。月の光さえ届かない暗闇の生徒会室で、ユメはただじっと、眉間に微かな皺を寄せながら眠るホシノを見つめていた
白子を失った絶望と、血を流し続けてきた一週間の疲弊。それらがホシノの小さな輪郭を、いつもよりずっと細く、脆いものに見せている
(ホシノちゃんを……あの子の心をこのまま、暗闇に置いておくわけにはいかないよ。先輩として、私にできること……何か、ホシノちゃんが前を向けるようなきっかけを……)
机の上に置かれた、小さな白い骨壺。その冷たい陶器の表面に、かすかな夜光が反射している。あの子はもう、二度と戻ってこない。けれど、あの子が遺した温かい記憶まで消えてしまったわけではないはずだ
(……そうだ)
ユメは、脳裏に閃いたある暖かな光景に、小さく目を見開いた
静かにソファから立ち上がると、床の古びた板がギィと鳴らないよう、爪先立ちで慎重に自分の机へと向かう。寝息を立てるホシノを刺激しないように細心の注意を払いながら、一番下の深い引き出しをゆっくり、ゆっくりと引いた
カサリ、と書類が擦れる音
引き出しの奥には、これまでにアビドスで3人が過ごした、ささやかで愛おしい日々を切り取った数枚の写真が大切に保管されていた。初めてここに白子が来て3人で撮った時の写真。フリスビーをするホシノと白子の写真
そして、その写真たちの真上に、ぽつんと置かれた小さな紙箱
ユメはそれを両手でそっと取り出し、そっと蓋を開けた
室内のわずかな明かりに照らされて、箱の底で美しくきらめいたのは、かつて白子が砂漠の砂を一生懸命に掘り返し、自慢げに二人の元へと届けてくれた、あのピンクと緑の綺麗な2つの石だった
(白子ちゃんからの、大切なプレゼント……。そうだ、これをお守りにしてホシノちゃんに渡せば……)
あの日の午後、夕暮れの砂漠で拾った風変わりな石を囲みながら、「これでお守りを作ろう」と言い出したのは、ホシノの方だったのだ。けれど、それに対してユメが「私が可愛い袋を加工して作るから! 先輩に任せなさい!」と胸を張って主張し、渋るホシノから半ば無理やり預かったままになっていた
それからというもの、白子との楽しくも騒がしい日常のドタバタや、日々の深刻な財政難への対応に追われるうち、すっかり机の引き出しの奥に眠ったままになっていた約束の品
これを使えば、白子を失ってしまったあの身を切るような悲しい気持ちが、完全に消えてなくなるわけではないかもしれない
けれど、今の絶望に沈むホシノに「白子はいつも、私たちのすぐ隣に一緒にいるんだよ」という、小さな、けれど確かな生きる希望を見せられるのではないだろうか。あの子が遺してくれた温かい絆を、消えない形にして、もう一度その胸に抱かせてあげられる
「……よし。そうと決まれば、先輩がんばるぞ……!」
ユメは小さくガッツポーズをして自分に気合を入れると、机の奥から年季の入った、あちこちの塗装が剥げかけた古びた木製の裁縫箱を取り出した
ソファで眠るホシノを起こさないよう、手元だけを必要最小限の光で優しく照らす小さなデスクライトを点灯させる
パチリと静かな部屋に小さな明かりが灯り、ユメは慎重に針の穴へと白い糸を通した
『もー、ホシノちゃん! 私だってこれくらい細かい作業、集中すればお茶の子さいさいなんだからね! 見ててよ!』
かつてそう言って、呆れ顔の後輩に得意げに見栄を張った自分の声を思い出し、ユメはふっと自嘲気味に苦笑する
けれど現実はどこまでも残酷で、ユメはこういう指先を使う繊細な手作業が、お世辞にも得意とは言えなかった
「いたっ……」
開始早々、硬い布地を突き抜けた鋭い針先が、ユメの親指をチクリと深く刺した。慌てて小さな悲鳴を噛み殺し、傷口を口に咥えながら、ホシノが目を覚まさないか恐る恐るソファを振り返る
ホシノは一週間分の泥のような深い疲労の眠りの中で、まだ身動きひとつしていない
ユメはホッと長い胸を撫で下ろすと、裁縫箱からいつか白子のために買ったキャラクターものの絆創膏を取り出し、不器用な手つきで指に巻き付けた
チク、チク、と重い静寂の中に、針が厚手の布を規則正しく通る微かな音が響く
元々苦手な作業である上に、この一週間の極限の心労と深刻な寝不足が重なり、集中しようとすればするほど視界がときどきグラグラと不気味に揺れた。目の奥がズキズキと痛み、指先の感覚も次第に麻痺してくる
それでも、ユメの不器用な指先は決して止まらなかった
一針、一針を縫い進めるたびに、「ホシノちゃんが救われますように」「白子ちゃん、どうか力を貸してね」と、心の底から祈りを込めるようにして、ただひたすらに糸を紡いでいく
「痛っ……あはは、またやっちゃった……」
何度も何度も指を針で突き、その度に新しい絆創膏がユメの十本の指を次々と覆っていったが、不思議と苦痛は感じなかった。胸の奥にある温かい決意だけが、彼女の身体を支えていた
ゆっくりと、けれど確実に、自分とホシノの分、2つの小さなお守り袋が輪郭を持って形になっていく
気がつけば、ユメの背後にある大きな窓の向こう、見渡す限りの地平線の端から、じわじわと濃いオレンジ色の朝日の光が昇り始めていた
アビドスの広大な砂漠を白々と冷たく照らしていく眩しい太陽の光が、生徒会室の遮光カーテンの僅かな隙間から、細い矢のように差し込んでくる
「で、できたー……! あとは、これに紐を通せば……っ!」
ユメは、睡眠不足で少し赤く充血した瞳をキラキラと輝かせ、完成したばかりの小さなお守り袋を、朝日の光に透かすようにして愛おしげに掲げた
そこには、ユメなりに徹夜をして一生懸命に縫い上げた、お世辞にも上手とは言えないし、線も少し歪んでいるけれど、どこか見ているだけで胸が温かくなるような不器用な白子のイラストが、白い糸で優しく刺繍されていた
袋の中には、あのとき白子が届けてくれたピンクと緑の石が、それぞれ一つずつ、宝物のように大切に収められている
「あとは、これを首から下げるための、可愛いクラフト紐を……」
ユメは再び裁縫箱の中に手を入れ、ガサゴソと底の方を必死に漁り始めた。仕切りのついたプラスチックのケースをどかし、古いボタンのストックや色褪せた糸の手芸用品をかき分ける
「あれ……? おかしいな。おかしいぞー……。確かこの前、商店街の雑貨屋さんで、ちょうどいい長さの丈夫なクラフト紐を買っておいたはずなのに……どこに行っちゃったんだろう」
どれだけ箱をひっくり返して引っかき回しても、お目当ての太さの紐だけは見当たらない。ユメはうーんと小さく声を漏らしながら、絆創膏だらけになった両手で自分の頬を挟んで悩んだ。せっかくここまで出来たのだ。ホシノがこの深い眠りから目を覚ます前に、完璧な、一番綺麗な形に完成させて、机の上に置いて驚かせてあげたい
(うーん……この早朝の時間じゃ、アビドスの商店街はまだどこもお店が開いてないよね。……うん、そうだ。少し遠いけれど、トリニティの学区の方まで行けば、二十四時間やってる大きなディスカウントショップとか、早朝から開いてる手芸屋さんもあったはず。今から歩いて向かえば、ちょうどお店が開く頃に着くよね。よし、行こう!)
ユメは引き出しから何年も使い込んでいる年季の入った革の小銭入れを取り出すと、制服のスカートのポケットにすっぽりと収めた。すぐにでも出発しようと、生徒会室の扉へと軽い足取りで足を向ける
しかし、錆びついたドアノブに冷たい手をかけたところで、ユメはピタリと動きを止めた
ゆっくりと振り返ると、ソファの上で、大きなブランケットに包まれたホシノが、小さくなって静かに眠っている
(あ……ダメだよ私。もし私が何一つ何も言わずにいなくなっちゃったら、目が覚めたホシノちゃんが、また私のことを心配して……パニックになっちゃうかもしれないよね)
ただでさえ、白子というかけがえのない大きな存在を失って、普段は見せない弱音を見せるほどに、彼女の心は極限まで弱りきっているのだ
ようやく自分を頼って、安心して眠れているのに、起きたときに誰もいない静まり返った部屋を見たら、またホシノの心が壊れてしまうかもしれない
トトト、と軽い足取りで再び自分の机へと戻ったユメは、メモ帳を一枚丁寧に破ると、丸っこい彼女の優しい文字で、小さな書き置きを残した
「よし」と満足げに小さく頷くと、ユメはそのメモをホシノの寝ているソファのすぐ横、サイドテーブルの最も目立つ場所、最高級のお肉が置かれた紙袋の隣にそっと置いた
デスクライトの消灯をしっかりと確認し、もう一度だけ、世界で一番大切な後輩の、まだ少し眉間に皺の寄った寝顔を愛おしそうに見つめる
「すぐ戻るからね、ホシノちゃん。待っててね」
心の中でそう優しく呟きながら、ユメは作りかけの愛おしいお守りをポケットに滑り込ませ、極力足音を忍ばせて、そっと生徒会室を後にした
早朝の、冷たくてどこまでも澄んだ空気が、静まり返った校舎の廊下に満ち満ちている。
昇ってきたばかりの朝日が乱反射する、黄金色の美しい砂漠の道。ユメは胸に小さく確かな希望を灯しながら、一歩、また一歩と、静かに歩みを進めていった
本当に書いてて辛かった…覚悟はしていたのですがやはり昔亡くなったペットを思い出して涙が止まらない中書いてました
本来ならあまりネタバレをしませんが…あまりにも辛いのでこれだけ言わせてください。この話はハッピーエンドになります