白子とシロコ   作:気弱

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しまった…!!投稿する話を間違えてしまいました…!


全てを失ったホシノと謎の少女

気がつくと、ホシノは見渡す限り遮るもののない、どこまでも平坦で、どこまでも真っ白な空間にぽつんと立っていた

 

上も下も、右も左も、境界線すら存在しない。ただただ、無機質な純白だけが世界を支配している

 

「……あれ? ここ……どこだろ」

 

ぽつり、と呟いた自分の声が、反響することもなくその白い闇へ吸い込まれて消えていく。ホシノは怪訝そうに眉をひそめ、自身の小さな両手を見つめ、それから記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せ始めた

 

(確か私は……白子が死んじゃって……。それで最高級のお肉を、生徒会室の骨壺の前に届けて……。それから、ユメ先輩に……)

 

そこまで考えが至った瞬間、ホシノは自分の顔が、耳の裏まで一気にカッと熱くなるのを感じた

 

白子が死んでしまったという事実は、今思い出しても胸が引き裂かれるように痛むし、自分を責める獰猛な自責の念が消えたわけではない

 

だが、それ以上に――あのあと、ユメ先輩に背中を優しくさすられながら、感情を完全に決壊させて子供のように大泣きしてしまい、挙句の果てにそのまま腕の中で泥のように眠りこけてしまったという「事実」が、猛烈な羞恥心となって襲いかかってきたのだ

 

「ううぅ……っ。あんな風に、他人の前でボロ泣きしたのなんて初めてだし……。よりによって、ユメ先輩の目の前であんな風になっちゃうなんて……信じられない、恥ずかしすぎる……!」

 

「暁のホルス」として、アビドスを守る絶対的な盾として、これまで誰にも、どんな外敵にも絶対に弱みだけは見せまいと意地を張り、虚勢を張り続けてきたホシノである

 

そんな自分が、最も身近な先輩の前で、あんなにも無様に声を上げて泣きじゃくってしまった

 

間違いなく、彼女の人生の中で一番恥ずかしい経験の特等席に入る出来事だった

 

「だめだめ、思い出したら負けだって、私……!」

 

ホシノは、真っ赤に染まった自分の両頬を、小さな手のひらで「パンッ!」と気合を入れるように激しく叩いた。パチンと乾いた音が白い空間に響く

 

気好さを無理やり頭の隅に押しやり、ホシノは再び辺りを見渡した

 

どこを向いても、果てのない白

 

地平線もなければ、アビドスを象徴する無慈悲な砂の粒子すら、ここには一粒も見当たらない。その不自然な世界の中心に、自分はただ一人で佇んでいる

 

「……そっか。なるほどね」

 

先ほどの恥ずかしい記憶を踏まえて考えれば、答えは一つししか仰げなかった。ここは夢の中だ

 

現実の自分は、きっと今も、あの古びた生徒会室のソファの上で情けなく眠りこけているのだろう

 

妙なことに、夢の中であるはずなのに、ホシノの頭は驚くほどにクリアで、冴え渡っていた。自分が置かれている状況も、これが脳の見せる一時的な幻覚であるということも、すべて完全に把握できている

 

現実に帰れば、またあの冷たい骨壺と、白子のいない静かな日常が待っている。その重苦しい現実を思い出し、ホシノは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながら、小さく、諦めたようなため息を吐いた

 

「はぁ……」

 

ホシノはローファーのつま先で、存在しない白い床を軽く小突くようにしながら、心の中でそっと呟いた

 

(……ねぇ、ここがただの夢だって言うならさ。……少しは、思い通りにさせてよ)

 

願うと同時に、ホシノの脳裏には、あの白くて、水色の瞳をした生意気で愛おしいあの子の姿が、鮮明に、あまりにも鮮明に浮かび上がっていた

 

最後に見た、あの冷たくて静かな寝顔なんかじゃない

 

いつものように、生徒会室のソファから飛び降りて、元気に走り回っていた頃の姿

 

もう一度だけでいい。あの抜けるように青いアビドスの空の下で、すっかり傷だらけになったプラスチックのフリスビーを思い切り遠くへと投げて、それを小さな身体で一生懸命に追いかけて、誇らしげに尻尾を振りながらくわえて戻ってくるあの子の姿が見たい

 

そして、「よく頑張ったね、偉いよ白子」って、あの柔らかくて日向の匂いがする温かい白子の頭を、気の済むまで何度も、何度も、優しく撫てあげたい――

 

ホシノが心の底から、祈るようにそう願った、その瞬間だった

 

『ワン!』

 

背後から、静寂を切り裂くような短い鳴き声が響いた

 

その響きに、ホシノの心臓が跳ね上がる。今、この世界でホシノが一番聞きたくて、狂おしいほどに焦がれていた声

 

まだあの日から一週間しか経っていないはずなのに、まるで何十年も遠い昔のことのように思えてしまう、酷く懐かしくて愛おしい鳴き声

 

夢の中のはずなのに、ホシノの身体中を、頭の先から指先まで粟立つような強烈な鳥肌が駆け抜けた。心臓が痛いほどの鼓動を刻み始める

 

息を詰まらせながら、ホシノは恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り返った

 

すると、視界を埋め尽くしていたはずの果てのない純白の世界はどこへやら、いつの間にか見慣れた、色褪せたアビドス生徒会室の情景が目の前に広がっていた。夕暮れ時の琥珀色の光が、埃の舞う室内に斜めに差し込んでいる

 

そして、その部屋の中央。普段なら書類が山積みになっているはずの机がある場所に、あの子がいた

 

最後に見た、あの血に塗れて冷たくなっていく姿ではない。まだアビドスにやってきて間もない頃の、あの小さくて、無垢な瞳をした白子が、ちょこんと行儀よく座っていたのだ

 

「……しろ……こ……?」

 

カサカサに乾いた喉から、やっとの思いで名前を絞り出す

 

『わう……?』

 

白子は、ホシノの声に応じるように小さな耳をぴょこんと動かし、不思議そうに可愛く首を傾げた。その水色の瞳には、一点の曇りも、怨みも、苦痛の影すらも見当たらない

 

ホシノは、まるで生まれたての小鹿のようにヨロヨロと、震える足取りで歩き出した

 

床板を踏みしめる一歩ごとに、胸を掻きむしるような恐怖が襲いかかる。もしこの一歩の振動で、目の前で愛らしく尾を振っている白子が霧のように消えてしまったら。これはただの悪質な幻影で、近づけば拒絶されるのではないか。そんな恐怖で足がすくみそうになる

 

だが、そんな弱気を、今すぐあの子をこの腕に抱きしめたい、生きた温もりを確かめたいという、狂おしいほどの情動が容易くねじ伏せた。ホシノはほとんど這うような必死さで、白子の目の前へとたどり着く

 

「白子……っ! 本当に、白子なの……っ?」

 

『わふ……!』

 

ゆっくりと震える手を伸ばし、その白い毛並みにそっと触れる

 

夢の境界線を超えて、手のひらから確かに伝わってくる、小さくて、柔らかくて、少しだけくすぐったいアビドスの砂の匂い

 

「本当に……白子……だ」

 

そのリアルな感触に、ホシノの瞳から一気に涙があふれ出した

 

「一回だけでいいから……お願い。もう一度だけ……私に、抱っこさせて……」

 

ホシノは涙で視界を滲ませながら、すがりつくようにして白子の小さな身体を両腕で抱き寄せようとした

 

しかし、その腕が完成する直前、白子はまるで煙のように、するりとホシノの手をすり抜けて、数歩後ろへと身を翻してしまった

 

「っ……、なんで……」

 

空を切った両腕が、虚しく空中に残される

 

白子は抱っこが大好きなはずだった。いつもなら、ホシノが手を伸ばせば嬉しそうに胸に飛び込んできて、顔を舐め回して甘えてきたはずなのに

 

まるで触れられることを拒絶するかのように、冷たく距離を置かれてしまった。その事実に、ホシノは胸を鋭く突かれたようなショックを隠せず、その場に凍りついた

 

(仕方……ない、よね……)

 

じわじわと、自嘲的な思考が脳裏を侵食していく

 

自分の慢心のせいで、あの子にどれほど痛くて、苦しい思いをさせたか分からないのだ。どれだけ懐いてくれていたとしても、今回の件に関しては私のことを恨んでいて当然だ。冷たくされても、拒絶されても、文句を言える立場じゃない

 

「ごめん、ね……。私が、私がついていながら、あんなことになっちゃって……。怒って、当然だよね……」

 

そんな風に、ホシノが自己嫌悪の深淵に沈みかけ、床に視線を落とした時だった

 

『ワン!』

 

再び、白子が短く、けれどどこか促すように強く鳴いた

 

ホシノが弾かれたように顔を上げると、白子はいつの間にか、いつも勝手に外へ抜け出す時に使っていた、あの鍵の壊れた窓辺に飛び乗っていた

 

夕暮れ時の琥珀色の光が、白子の白い毛並みを逆光で黄金色に縁取っている。白子は窓枠の上でふと立ち止まり、もう一度だけ、その透き通った水色の瞳でホシノをじっと見つめた。まるで「着いてきて」と告げるかのように

 

そして躊躇うことなく、そのまま窓の向こうの遮るもののない広大な砂漠へと、軽やかに飛び出して行ってしまった

 

「っ……ま、待って! 白子、行かないで……っ!」

 

ホシノは半ばパニックになりながら、狂ったように叫んだ。ガタつく窓枠に手をかけ、白子の後を追うようにして壊れた窓から外へと飛び出した

 

恨まれていてもいい。激しく怒っていたっていい。二度と触らせてくれずに無視されたって構わない。ただ、もう一度だけあの子の姿を目に焼き付けたい。そして、あの時、自分の命に代えてまで私を助けようとしてくれたこと、その健気さと強さを、心の底からたくさん、たくさん褒めてあげたいのだ

 

「お願いだから……っ、一人にしないで……っ!」

 

その一念だけが、ホシノの身体を突き動かしていた。アビドスの乾いた熱風が容赦なく吹き付け、彼女の長い髪を生き物のように激しくなびかせる

 

地平線の彼方、揺らめく陽炎の向こうへと疾走していく小さな白い背中を、ホシノは必死に、ただ盲目的に追いかけた

 

「はぁ……っ、はぁ……っ! ど、どこまで行くの……、白子……っ!」

 

どれだけ全速力で足を動かしても、流れる砂に足を取られて思うように前へ進まない。夢の理不尽な制約のせいか、まるで全身が鉛のように重く、どれほど心臓を痛めるほどの死力を尽くしても、白子との距離がどうしても縮まらないのだ

 

どれだけ走り続けたのだろうか。太陽はとうに沈み、空は禍々しいほどの黒色に染まっていた

 

時間の感覚さえも曖昧になった頃、ホシノは遮るもののない広大な砂漠のただ中、辛うじてかつて街だったことを証明するような、崩れかけた石造りの遺跡が点在する奇妙な場所にたどり着いていた。風に削られた太い石柱が、荒涼とした大地からまるで墓標のように幾本も突き出ている

 

「はぁ……っ、はぁ……っ、くっ……!」

 

ホシノはたまらずその場に激しく膝をつき、両膝に手を置いて、天を仰ぎながら激しく上下する肩で荒い呼吸を繰り返した

 

不思議なことに、先ほどまで彼女の全身を縛り付けていた、あの鉛を仕込まれたような不気味な重力感は、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っている。しかし、限界を超えて砂を蹴り続けていた肉体はすでに悲鳴を上げており、喉の奥が焼けるように熱く、血の味がした

 

「っ……、白子……?」

 

息を整えながら、ホシノはハッと顔を上げた

 

だが、その視界のどこを探しても、先ほどまで自分を導くように走っていたあの白い後ろ姿は、影も形もなくなっていた。ただ、サラサラと乾いた音を立てて流れる砂の波と、不気味に静まり返った遺跡の残骸が、冷たく広がっているだけだ

 

「どこに、行ったの……。置いていかないでよ……まだ……伝えたいこと、たくさんあるのに……!」

 

頼るべき光を完全に見失い、ホシノはその場に力なく両手をついた。押し寄せる圧倒的な虚無感と、夢の中でさえもあの子に届かなかったという絶望が、彼女の小さな心を容赦なくすり潰していく

 

『……ワン!』

 

「っ!?」

 

その時、静寂に満ちた砂の底から湧き上がるようにして、再びあの鋭い鳴き声が鼓膜を震わせた

 

間違いない、白子の声だ。すぐ近く、このすぐ下にいる。ホシノは弾かれたように立ち上がると、すがりつくような思いで辺りを激しく見渡しながら、声のした方向へとふらふらと歩き出した

 

焦燥感で視界の端がチカチカと不気味に明滅する

 

「あ、の向こう……? わっ……!?」

 

体力を完全に使い果たした身体を、ただ盲目的な執念だけで動かしていたせいだろうか。足元が急激な下り斜面の崖になっていることに、ホシノは全く気がつかなかった。すり鉢状に深く窪んだ遺跡の底へ向かって、足を踏み外した彼女の身体は、なす術もなく転がり落ちていく

 

――ガンッ!!!

 

「う、あ……っ!?」

 

凄まじい衝撃と共に、ようやくその回転が止まった。しかし、直後に襲ってきたのは、脳を直接灼り焦がすような激しい『激痛』だった。転がった勢いのまま、砂に埋もれていた強固な石柱の基部に、まともに頭をぶつけてしまったのだ

 

「っ……、う、くそ……。……え……? 血……?」

 

視界の右半分が、じわじわと禍々しい赤色に染まっていく

 

ぶつけた拍子に額の皮膚を深く切ってしまったのだろう。傷口から溢れ出た生暖かい液体が、頬を伝って容赦なく目元へ流れ込んできた。ズキズキと、脈打つたびに脳を激しく揺さぶるような、本物の『痛み』

 

(おかしい……。夢、なんだよね……? なんで、こんなにはっきりと痛みが……っ)

 

夢であるならば、こんな鮮烈な痛覚など存在するはずがない。混沌とする意識の中、ホシノが制服の袖で必死に目元の血を拭っていると、すぐ目の前で、白子の焦ったような、悲痛な鳴き声が立て続けに響いた

 

『ワン! ワワン!!』

 

何かを必死に訴えかけるような、引き裂かれそうなあの子の叫び

 

ホシノが痛む頭を無理やり押さえ、滲む視界をその声の方向へと向けた瞬間――彼女の心臓は、完全に凍りついた

 

「ユメ……先輩……っ!?」

 

そこにいたのは、狂ったようにこちらを見て必死に鳴き声を上げている、小さな白子

 

「嘘……。なんで、こんな、ところで……」

 

そして、その白子の足元――冷たい砂漠の砂の上に、頭部からどくどくと不気味な鮮血を流し、壊れた人形のようにピクリとも動かずに倒れ伏している、見紛うはずのないアビドス生徒会長、梔子ユメの姿だった

 

「いや……いやだ、なんで……ユメ先輩……っ!! 起きてください、嘘でしょ、先輩!!」

 

意味が分からない。どうして先輩がこんな場所にいるのか、なぜ血を流して倒れているのか。頭をかきむしりたくなるような圧倒的な恐怖と混乱がホシノを支配する

 

「今すぐ、助け、なきゃ――」

 

慌ててその身体に駆け寄ろうと、ホシノが地面を猛然と蹴ったその瞬間、世界が不自然に、ぐにゃりと歪んで反転を始めた

 

遠ざかる視界。歪む空間。ユメの流す血が、砂漠のすべてを浸食していく

 

天地の境界が消え去り、暗黒の深淵へと意識が強制的に引きずり落まされていく。その、完全に光を失う寸前の刹那――

 

「……ホシ……ノ……ちゃん」

 

砂嵐の向こうから聞こえてきたような、か細くて、今にも消えてしまいそうなユメの掠れた声が、確かにホシノの耳の奥に届いた気がした

 

 

「――ユメ先輩!!!!!」

 

悲鳴のような叫び声を上げながら、ホシノは勢いよく上半身を跳ね起き上がらせた

 

「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!」

 

喉を鳴らし、狂ったように酸素を求めながら、激しく肩で息をする

 

心臓が破裂しそうなほどのスピードで鐘を突き続けていた。冷や汗が全身から噴き出し、衣服が肌にじっとりと張り付いている

 

ホシノは恐怖に引き攣った顔で、すぐさま辺りを激しく見渡した

 

そこは、窓から暖かな昼下がりの光がたっぷりと差し込む、いつもの見慣れたアビドス高等学校の生徒会室だった。自分が寝かされていたのは、いつもの古びたソファの上。ユメがかけてくれたであろうブランケットが、はだけて床に落ちかけていた

 

「今のは……夢……、なんだよね…うへ……心臓に悪すぎますよ……」

 

ホシノは震える右手で、恐る恐る自分の額へと触れた

 

傷はない。血も流れていない。石柱にぶつけたはずのあの激しい痛みも、綺麗さっぱり消え失せている

 

やはり、すべてはただの悪夢だったのだ

 

「あはは……なんだ、ただの夢か……。不吉な夢だなぁ……」

 

しかし、その安督は長くは続かなかった。胸の奥を激しく突き動かす不快な動悸が、どうしても収まらない

 

あの夢の後半、遺跡の底で感じたあの強烈な砂の匂い、額を叩き割られたようなリアルな激痛、そして、何よりも焦ったように「ここにいる!」と吠える白子の声と、血の海の中で倒れていたユメの姿、そしてあの消え入りそうな声――

 

それらが、夢の産物にしてはあまりにも生々しく、今のホシノの脳裏に焼き付いて離れなかった

 

あれは一体、何だったのだろう。ただの精神的疲労が見せた幻覚なのか、それとも

 

「そうだ……ユメ先輩……っ!」

 

嫌な予感が、胸の奥で爆発するように膨れ上がる

 

ホシノはソファから跳ねるように起き上がると、その生存を確認するため、ユメの姿を求めて部屋の外へ飛び出そうとした

 

だが、その瞬間

 

普段は書類や未処理の領収書で足の踏み場もないはずの中央の木製机の上に、ぽつんと置かれた一枚の白い紙切れが、彼女の目に留まった

 

「……これ、ユメ先輩の……?」

 

ホシノは吸い寄せられるように机に近づき、その紙切れをそっと指先で拾い上げた。それは生徒会室のメモ帳を丁寧に破ったもので、そこには見紛うはずのない、あの人の丸っこくて、どこか締まりのない優しい筆跡が躍っていた

 

『ホシノちゃんへ

 

おはよう! ゆっくり眠れたかな?

 

ちょっとトリニティにお買い物に行ってきます!

 

帰ってきた時、きっとホシノちゃんがすっごく喜ぶものを渡してあげるね!

 

ユメより

 

追伸:ちゃんとお風呂に入って、ゆっくり身体を休めないとダメだよ?』

 

文章の余白には、ボールペンで小さなイラストが添えられていた

 

真ん中で満面の笑みを浮かべるユメ、その隣で不機嫌そうにそっぽを向いているホシノ、迅速に二人の足元で嬉しそうに尻尾を振っている、白い生き物。お世辞にも上手とは言えないし、全体のバランスもどこか狂っているけれど、見ているだけで胸の奥がじんわりと温かくなるような、そんな不器用な似顔絵だった

 

「……ふふ、何してるんですか、あの人は……。こっちは本気で心配して損したじゃないですか、もう」

 

ホシノの強張っていた頬が、自然と緩んでいく

 

文字から滲み出るいつも通りの能天気な温かさに触れて、先ほどまで脳裏にこびりついていた、あの血塗られた生々しい悪夢の残像が、急速に色褪せて霧散していくのを感じた。やっぱり、ただの悪い夢だったのだ。大切なものを失ったばかりの疲れた脳が勝手に見せた、悪質な幻影に過ぎない

 

「全く、人騒がせな先輩なんだから……」

 

ホシノは安堵の溜息を漏らすと、その書き置きをクシャクシャにしないよう、まるで壊れ物を扱うようにして自分のカバンの奥ポケットへと大切に仕舞い込んだ

 

その際、ふとカバンの隙間から覗いていたスマートフォンの画面が目に入り、ホシノは何気なくロックを解除して現在の日付を確認した

 

「うへ……。私、あれから丸3日くらいずっと寝てたんですね……」

 

画面に表示された日付を見て、ホシノは思わず自分の額を押さえた。ユメの胸を借りて大泣きしたあの夜から、驚くほど膨大な時間が経過していたのだ

 

それほどまでに、自分の肉体と精神は限界を迎えていたのだろう。呆れ半分、情けなさ半分で息を吐き出しながら、ホシノはもう一度ソファへと深く腰掛けた

 

視線を正面に戻すと、ローテーブルの上には、あの時必死で持ち帰った最高級の牛肉の入った紙袋と、 影を落とすように――白子の遺骨が納められた、真っ白で小さな骨壺が、静かに並んで佇んでいた

 

(そうだ。まだやるべきことが残ってる。……お金は余るほどあるんだし、白子のために、ちゃんとした仏壇を買ってあげないとな)

 

あの時、怒りに任せて手当たり次第にヘルメット団や闇商人の拠点を叩き潰し、金庫から強奪してきた山のような資金。白子の約束だったお肉を買うために集めたその大金は、本来ならすべて使い切るつもりだった

 

しかし、流石に我を忘れて集めすぎてしまったのだろう

 

世界最高峰の肉を買い漁ったところで、消費できたのは全体のわずか十分の一程度に過ぎなかった。結果として、ホシノの制服のポケットや財布の中には、未だに分厚い札束がギチギチに詰め込まれたまま、不自然な重みを持って収まっている

 

ユメがいつ頃お買い物に出かけたのかは分からないが、アビドスから他学区の商業エリアまでは距離がある。まだしばらくは帰ってこないだろう

 

そう思考を巡らせ、白子のための綺麗な仏壇を選びに行こうと、ホシノが再び腰を浮かせかけた、その時だった

 

「……あ。お風呂、入らないと流石に今の私、相当臭いですよね……」

 

立ち上がろうとした動きが、ピタリと止まる

 

ホシノの脳裏に、先ほどのユメのメモにあった『ちゃんとお風呂に入って』という追伸が、妙にリアルな説得力を持って蘇ってきた

 

言われてみれば、自分の身体から漂ってくる空気があまりにも酷かった。スンスンと鼻を鳴らして制服の袖の匂いを嗅いでみるだけで、自分でも眉を顰めたくなるほど、こびりついた硝煙と、他人の返り血の生臭い匂いが、繊維の奥から自己主張してくる。おまけに、このアビドスの厳しい熱気の中で丸三日も風呂に入らず寝込んでいたのだ。不快な寝汗が肌にこびりつき、自分自身がひどく薄汚れた存在のように思えて仕方がなかった

 

白子が亡くなってから荒れ狂い、それから3日ほど泥のように寝ていたのだから、仕方の無いことではあるのだが

 

「はぁ……。まずは、お風呂、ですよね。このままだと先輩に苦笑いされちゃうな」

 

ホシノは自嘲気味な苦笑いを浮かべると、カバンから古ぼけたタオルと最低限の校内用の着替えを引っ張り出した

 

重い足取りではあったが、不思議と心の霧は晴れていた。ホシノはそれらを小脇に抱えると、校舎の裏手にある、普段から生徒会が細々と維持している小さな浴場へと向かって、静かな廊下を歩き始めるのだった

 

 

「よいしょ……っと」

 

白子がいつも使っていた、まだあの子の匂いが微かに残る小さな部屋の隅。そこに新しく用意した薄いピンク色の仏壇を丁寧に安置すると、ホシノはその真ん中の一番良い場所に、あの真っ白な遺骨の入った骨壺をそっと、壊れ物を扱うような手つきで収めた

 

あれから浴場で10日分の汚れと酷い硝煙の匂いを綺麗に洗い流し、その足で他学区の大きな仏具店へと向かったのだ

 

並べられた無数の厳かな仏壇の中で、何故か一目見ただけで「あ、これいいかも」とピンと来たものがあり、迷うことなく即決で購入した

 

アビドスの夕日のような淡いピンク色を基調としたその仏壇は、遺骨を納める中央のスペースに可動式の綺麗な蓋をすることができる仕様になっていた

 

そしてその蓋を閉じると、表面のフレームに生前の白子の写真がぴったりと収まり、まるでいつでもあの子がこちらを見つめてくれているかのように飾ることができる、そんな温かみのある造りだった

 

ホシノは慣れない手つきで仏壇の飾り付けを完成させると、小さな陶器のお皿に、白子の大好物だったドッグフードと新鮮なお水をこんもりと盛り付け、最後に一本の線香に静かに火を灯した

 

ゆらゆらと細い紫煙が立ち上り、室内を優しく落ち着いた香りが満たしていく

 

「……いつまでも私がクヨクヨしてたら……天国で白子に怒られてしまいますよね」

 

あの奇妙で、どこか恐ろしかった夢が一体何だったのか、今のホシノにはまだ分からない。だけど、夢の中でさえ自分を拒絶するように姿を消してしまった白子は、きっと今の情けない、弱りきった自分に愛想を尽かしているのだろう

 

「でもね、白子。私はお前のことを、絶対に忘れないから」

 

自分の慢心のせいで、一瞬の油断から敵に凄惨な反撃の機会を与えてしまったこと。その結果として白子の命を奪ってしまった自分の罪は、一生かかっても消えることはない

 

そして、犯した罪から目を背け、あの子と過ごした楽しかった日々やその温もりを忘れてしまうことこそが、命を賭して自分を救ってくれた白子への、最大の侮辱になる

 

「これからはね、ユメ先輩と一緒に、たくさんお前の思い出話をしようと思うんだ。だから、そこから見ていてね……」

 

静かに立ち上る線香の煙を見つめながら、ホシノは仏壇の前で深く、深く両手を合わせ、心の中で静かに、けれど鋼のように固い覚悟を決めた

 

パチ、と手を合わせる音を響かせた後、ホシノはふと部屋の窓の外へ視線を向けた

 

「……それにしても。そういえば、ユメ先輩……いくら何でもちょっと遅いな」

 

自分が浴場で10日分の汚れを落として身体を清め、わざわざ他学区の遠い街まで仏壇を買いに行き、こうして白子の部屋に設置し終えるまでの間に、時間は随分と流れていた

 

気がつけば、窓の向こうに広がる広大な砂漠には、すでに黄金色の夕日がじわじわと沈みかけており、世界の半分が深い群青色の影に飲み込まれようとしていた

 

部屋の温度が夕暮れと共に急激に下がっていくのを感じながら、ホシノは自分の両腕をきつく抱きしめた

 

「……き、きっともうすぐ、帰ってきますよね。『遅くなっちゃってごめんねー!』とか言って、いつものへらへらした顔で……」

 

声に出して呟くことで、胸の奥でせり上がってくる言い知れぬ恐怖を必死に押さえつけようとする

 

焦る気持ちを何とか落ち着かせようと、何度も深く呼吸を繰り返した。しかし、つい数日前、当たり前のように隣にいた白子をあまりにも突然の形で永遠に失ってしまったばかりなのだ

 

今のホシノにとって、唯一の心の拠り所であるユメの姿が目の前にないという事実は、それだけで精神が狂いそうになるほどの狂気的な不安を伴っていた

 

『ほし……の……ちゃん……』

 

「っ!」

 

一瞬、鼓膜の奥で、あの悪夢の最後に聞いたユメの掠れた声が再生された

 

それは記憶の悪戯か、あるいは単なる幻聴か。しかし、脳裏を走った最悪の光景――血の海に沈むユメの姿が、今度は現実の肉体的な寒気となってホシノの背筋を駆け抜ける

 

「いやだ……もう、あんなのは絶対にいやだ……っ!」

 

強烈な嫌な予感に突き動かされ、ホシノは考えるよりも先に動いていた

 

壁に立てかけてあった愛用のショットガンをひったくるようにして背負い、自身の防護ギアを乱暴に装着すると、振り返ることなく急いで白子の部屋を、そして静まり返った校舎を飛び出した

 

熱を失い、急速に極寒へと変わりつつある夜の砂漠。ホシノは激しく砂を蹴りながら、自分の記憶の底にある「夢の景色」だけを頼りに走り続けた

 

「はぁ……っ、はぁ……っ! 確か……夢で見たのは、この辺り、だったはず……!」

 

荒い息を吐き出しながら、ホシノは懐中電灯の狭い光をあちこちに激しく振り回し、辺りを見渡した

 

やがて、彼女の足がピタリと止まる。周囲の地形、風の鳴る音、そして闇の中に辛うじて不気味なシルエットを覗かせている崩壊した遺跡の残骸。それは、あの夢の中で白子を追いかけてたどり着いた景色と、恐ろしいほどに、寸分違わず完全に一致していた

 

「嘘……本当に、あの夢と同じ場所、なのか……?」

 

もしあの夢が、精神的に極限まで追い詰められた自分が無意識のうちに創り出した、予想し得る中での「最悪のシミュレーション」なのだとしたら、どれほど救われるだろう

 

その時は、大笑いして自分の臆病さを恥じればいい

 

これから先、二度と油断などせずに、何があっても自分の命に代えてユメ先輩を守っていけばいいのだから

 

しかし、もしも、あれが単なる夢ではなく、明確な意味を持った予知夢なのだとしたら。いや、自分を助けて死んでしまった白子の魂が、最後に残された大切なユメの危機を伝えるために、わざわざホシノの意識に潜り込んで見せた「警告」なのだとしたら――

 

そう考えた瞬間、ホシノの全身にじっとりと嫌な汗が流れ落ちた

 

完全に太陽が没し、漆黒に包まれた砂漠を、手の平の中の頼りない懐中電灯の光だけで照らす

 

(確か、この辺りで私は足を滑らせて……。――あった、この急な坂だ……!)

 

夢のトレース。その不気味な正確さに吐き気を覚えながら、ホシノは今度は足元を慎重に確認し、斜面を滑り降りるようにして遺跡の底部へと降りていった。すると、闇の向こうから、夢の中で自分の頭を打ち付けた、あの太い石柱の基部がぬっと姿を現した

 

ホシノは震える手で、その石柱の表面に懐中電灯の白い光軸を当てた

 

そして、直後に目に入った光景に瞳孔を極限まで大きく開いて絶句した

 

「……あ、あぁ……」

 

ざらついた石の表面に、べっとりと付着した赤黒い染み。夢の中で自分が頭をぶつけた、まさにその同じ場所に、生々しい人間の血液の痕跡が残されていた

 

「……っ、ユメ先輩!! ここにいるんでしたら返事をしてください! 先輩!! お願いだから……っ!」

 

心臓が早鐘を打ち、頭の中が真っ白になっていく

 

ここに居て欲しくない。本当は今頃、トリニティの華やかな商業区のどこかで、方向音痴を発揮して迷子になっているだけだ

 

そうであってくれと、喉が千切れるほどの願いを込めながら、ホシノは懐中電灯で狂ったように周囲の暗闇を照らし、同時に震える指先でユメの端末へと携帯電話を掛けた

 

受話器から流れる、冷たい電子音

 

ツーーー、ツーーー、という音が数秒続いた、その瞬間だった

 

プルルルル、プルルルル――

 

「!!」

 

遺跡の静寂を切り裂いて、すぐ近くの物煙から、ユメがいつも使っているあの安物のスマートフォンの質素な着信音が鳴り響いた

 

「先輩……っ! 先輩なんだね!?」

 

ホシノは懐中電灯の光を乱暴に動かし、音の鳴り止まない瓦礫の隙間へと文字通り飛び込んだ

 

崩れた石壁を這うようにして回り込んだ、その狭い空間の奥

 

そこには、頭部から流れた血で砂を真っ赤に染め、糸の切れた人形のようにうつ伏せで倒れている、梔子ユメの身体があった

 

「ユメ先輩!! ユメ先輩、しっかりしてください!! 目を開けて!!」

 

ホシノは悲鳴を上げながら駆け寄り、砂の上に膝をついてユメの身体を仰向けにひっくり返した。すぐさま震える指先を首筋にあてがい、脈を確かめる

 

ドク……、ドク……と、小さく、今にも途切れてしまいそうなほど微弱ではあるが、確かに脈は動いていた。まだ、生きている

 

しかし、安堵したのも束の間、ホシノが生存の度合いを確かめるためにユメの手の甲の皮膚を少し摘まみ上げてみると、その皮膚は弾力を失っており、形がすぐには元に戻らなかった。重度の脱水症状の、典型的なサインだった。唇は完全にひび割れ、身体は夜の砂漠の寒気に晒されて氷のように冷たくなっている

 

頭部の傷口からはすでに血が止まりかけていたが、それが逆に、彼女がここでどれほど長い時間、誰にも気づかれずに倒れ続けていたのかを物語っていた

 

「な、なんで……なんでこんな所にいるんですか……っ! 買い物に行ってるはずじゃ……私を、驚かせるお土産を買いに行ってくれたんじゃなかったんですか……っ!?」

 

ユメの身体をきつく抱きしめながら、ホシノは涙混じりの声を絞り出した

 

その時、ユメの制服のポケットから、何かがサラリと滑り落ちて、砂の上に転がった

 

懐中電灯の光がそれを捉える

 

それは、まだ紐すら通されていない、不器用な手縫いの小さなお守り袋だった。白い糸で一生懸命に刺繍された、歪な、けれど誰よりも愛らしい白子の似顔絵

 

それを見た瞬間、ホシノの脳裏にすべてのピースが繋がった

 

ユメは、自分が目を覚ました時に喜ばせるため、白子が遺してくれたあの石を使って、一晩中眠ることもせずにこれを作っていたのだ。そして、これに合わせるための紐を買いに行く途中で――このアビドスの過酷な灼熱の砂漠の中で、極限の寝不足と疲労が重なり、意識を失ってこの遺跡の底へと滑落したのだ

 

自分が、生徒会室のソファの上で、ぬくぬくと三日も眠りこけている間に。あの人は、たった一人でこの暗闇の中、身を切るような夜の寒さと骨折の激痛に耐えながら、飢えと渇きの中で、孤独に死にかけていたのだ

 

「っ……、絶対に……死なせませんからね……!! 先輩を置いて、私だけが生き残るなんて、そんなの絶対に許さない……!」

 

ホシノは奥歯を火花が散るほどに噛み締め、涙で滲む視界を無理やりこじ開けた

 

脳への衝撃をこれ以上大きくしないよう、首の角度に細心の注意を払いながら、意識を失って完全に脱力しているユメの身体を、折れた脚に障らないように細心の注意を払って丁寧に背負い上げる

 

ぐっと肩にのしかかる、生気のない人間の重み

 

それは想像以上に重く、まるでこれまでにユメが一人で背負い続けてきたアビドスの絶望の重さそのもののようにも感じられた。衣服を通じて伝ってくるユメの体温は痛々しいほどに低く、今にも消えてしまいそうなほど頼りない

 

だが、この程度の重み、この程度の砂の抵抗が、今のホシノの足を止める理由になるはずがなかった

 

「白子も……ユメ先輩も……、どっちも居なくなるなんて、そんなの、絶対に許さないんだから……っ! 」

 

背後でパタパタと虚しく鳴り続けるユメのスマートフォンの着信音を闇の底へと置き去りにし、ホシノは懐中電灯の光がブレるのも構わず、ただ前だけを見据えて地面を猛然と蹴り出した

 

一歩踏み出すごとに砂に足を取られ、限界を迎えているはずの足の筋肉が悲鳴を上げる。それでもホシノは速度を緩めず、アビドスを、そしてユメを救うために、夜の闇を切り裂いて病院へと向かって走り続けた

 

 

ホシノは待合室の長椅子の端にぽつんと腰掛け、まるで魂そのものが肉体から抜け落ちてしまったかのような虚ろな表情を浮かべていた

 

彼女の小さな手のひらの中には、あの砂漠の遺跡で拾い上げた、手縫いのお守りがきつく握りしめられている。何度も何度も握ったせいで、布地はホシノの冷たい汗に濡れ、少し形が歪んでしまっていた

 

袋の隙間から覗くのは、かつて白子が不器用にくわえて持ってきてくれた、あの神秘的な深い緑色の石。ユメが命を懸けてホシノへ届けようとした、不器用な愛の結晶だった

 

「……うそつき」

 

掠れた声が、誰もいない深夜の待合室に寂しく響く

 

『帰ってきた時、きっとホシノちゃんがすっごく喜ぶものを渡してあげるね』

 

脳裏で再生されるユメの丸文字。喜ぶわけがない。こんなボロボロの姿になって、冷たくなって見つかって、一体誰が喜ぶというのだ

 

「なんで……なんでいつも勝手なことばかりするんだよ、先輩……」

 

医師から告げられた手術の結果を言えば、ユメは一命を取り留めていた。心臓は、まだ動いている

 

あの日、極限の疲労のなかでアビドスの砂漠を歩いていたユメは、猛烈な眩暈か何かに襲われ、あの遺跡の斜面から足を踏み外した。その滑落の大きな衝撃で右足の骨を複雑骨折し、自力での歩行が完全に不可能な状態に陥ってしまったのだ。灼熱の太陽と、夜の極寒。水一滴すら満足に補給できないまま、丸二日以上もあの暗闇の底で動けずにいたことによる、中度から重度にかけての重篤な脱水症状

 

医師は「あと数時間、発見が遅れていたら手遅れだった」と、険しい顔でホシノに告げた

 

しかし、本当の問題はそこではなかった。手術が終わり、集中治療室に移された今もなお、ユメは人工呼吸器の規則正しい機械音に繋がれたまま、深く、静かに眠り続けている

 

滑り落ちた際、あの硬い石柱に強く頭部を打ち付けた影響――脳への深刻なダメージ

 

外科的な処置はすべて尽くしたものの、彼女がいつ目を覚ますのか、あるいはこのまま永遠に目覚めないのか、現代の医療技術をもってしても、誰にも予測がつかない昏睡状態に陥ってしまったのだ

 

「私の……せいだ。白子だけじゃなくて、ユメ先輩まで、私が……」

 

自責の言葉が、呪詛のようにぐるぐると頭の中を駆け巡る

 

自分がもっと早く起きていれば。自分がヘルメット団の拠点なんかを潰しに行かなければ。そもそも、自分がアビドスにやってこなければ、こんなことにはならなかったのではないか

 

廊下の奥から、静寂を切り裂くような、激しい靴音が近づいてきた。バタバタと、狂ったように床を叩く足音

 

「ホシノ……っ!」

 

「…………ヒナ……」

 

肩を激しく上下させ、額に大量の汗を浮かべたゲヘナ学園の1年生、空崎ヒナが待合室へ飛び込んできた

 

息は完全に上がっており、トリニティの総合病院までどれほどの無茶をして駆けつけてきたのかが、その乱れた衣服と必死な形相から一目で伝わってきた

 

ホシノは、ゆっくりと濁った瞳をヒナへと向けた

 

ユメの緊急手術中、押し寄せる絶望と孤独、さらに数日前に愛犬の白子を失った精神的負荷が重なり、完全に限界を超えてしまったホシノは、気づけば無意識にヒナの番号を発信していたのだった

 

本当は、アビドスの恥部も、自分の失態も、白子やユメの身に起きた悲劇も、他校の生徒に話すつもりなど毛頭なかった。ただ、受話器の向こうから聞こえるホシノの呼吸の異常さ、そして尋常ではない様子の変化を、1年生ながらに鋭いヒナの直感が瞬時に見抜いたのだ

 

『何があったの、ホシノ』

 

普段の冷静さを欠いた、怒りすら孕んだヒナの烈しい問い詰め。それに抗う気力すら残っていなかったホシノは、堰を切ったようにすべてを告白してしまった

 

白子が、自分の慢心のせいで、自分を庇って身代わりになって死んでしまったこと

 

そして、そのショックで眠りこけていた自分を元気づけるため、ユメが買い出しに向かい、砂漠で足を滑らせて、今、生死の境を彷徨う手術を受けているということ

 

そこまで一気に捲し立てたところで、電話の向こうのヒナは、息を呑む気配のあと、しばらくの間、何も言わずに沈黙していた。ただ、静かな激怒と、それ以上の深い悲痛さを孕んだ息遣いだけが電波を通じて聞こえていた

 

そして、一言だけ

 

『今から、私もそっちに行くわ』

 

それだけを告げると、拒絶する隙すら大した与えずに電話は一方的に切られた

 

そして今、目の前に立つヒナは、小さく震えるホシノの肩と、その手にある血の滲んだお守りを見つめている。二人の間には、重苦しい静寂と、アビドスを襲った容赦のない現実の残酷さだけが、冷たく横たわっていた

 

病院の長い廊下の天井から降り注ぐ蛍光灯の白い光が、二人の影を不自然なほど明瞭に床へ落としている。ホシノは膝の上で固く握りしめた手の中のお守りを見つめたまま、どうしても隣に立つヒナの顔を見上げることができなかった

 

「……ごめんね、散歩の約束……守れなくて」

 

消え入りそうな声だった。ヒナからの初めての電話、「気をつけて」と言われた後に全てが片付いたら一緒に散歩に行こうという約束。それがこんな最悪な形で破ることになるとはあの時は想像すら出来なかった

 

ヒナは小さく息を吐き、静かに視線を落とした。その表情には、アビドスの凄惨な現実に直面したショックが隠しきれずにいたが、彼女はすぐに声を整えた

 

「……仕方ないことよ。白子は、貴方を守ったの。最期まで仲間を護り抜いたんだから……貴方がそんな顔をしてちゃダメ。胸を張らないと、あの子が報われないわ」

 

ヒナは静かに、ホシノとの間に少しだけ距離を空けて長椅子に腰を下ろした。衣服から漂う夜の冷気と、ゲヘナからここまで死に物狂いで走ってきたことを物語る微かな熱が、ホシノの肌に伝ってくる

 

ヒナの視線が、ホシノの手元で歪んでいる緑色の石が入ったお守りへと移った。歪で、不器用な、けれど確かな温かみを感じさせる白い糸の刺繍

 

「……そのお守り……もしかして、手作りなの?」

 

「……」

 

ホシノは何も言えなかった。ただ、喉の奥を詰まらせながら、静かに、小さく頷くことしかできなかった

 

これが何を意味するのか、これを編んでいたユメがどんな想いで砂漠へと消えていったのかを説明するだけの気力はもう、残っていなかった

 

「……そう……」

 

ヒナはそれ以上、お守りについて深く追求することはしなかった。ただ、痛ましそうな目を一瞬だけ向け、それからは何も言わずに前を見つめた

 

しばらくの間、待合室は機械的なエアコンの作動音と、遠くの集中治療室から漏れ聞こえる微かな電子音だけの静寂に包まれる

 

張り詰めた空気の重さに耐えかねて、ホシノは濁った瞳のまま、ぽつりと問いを投げかけた

 

「……どうして、来たの」

 

「………」

 

「ここはトリニティの総合病院だよ……。なりふり構わずここに駆け込んだけど、ゲヘナの生徒が単身で立ち入るべき場所じゃない。見つかれば、どんな面倒な揉め事に発展するか分からないのに」

 

ホシノは一度もヒナと視線を合わせないまま、ただ手元のお守りを指先でなぞりながら、拒絶とも自嘲ともつかない低い声でそう呟いた

 

トリニティとゲヘナの歴史的な不仲を思えば、風紀委員長たるヒナが夜間に単身でこの区域に滞在していること自体が、政治的な大問題に発展しかねない致命的なリスクだった

 

「怒ってるからよ」

 

ヒナは即座に答えた

 

その声は、深夜の待合室の冷え切った空気を切り裂くほどに低く、硬かった。怒りの矛先がどこに向いているのかを計りかねたホシノは、お守りを握る手にさらに力を込め、痛々しいほどに声を震わせる

 

「……私が、油断をして……白子を死なせたから……? 私が、馬鹿だったから……?」

 

自嘲気味に呟くホシノの言葉を、ヒナは強い調子で遮った

 

「違うわ。……なんで、私を頼ってくれなかったの」

 

ヒナは膝の上に置いた自分の小さな手を、白くなるほどに強く握りしめた。小刻みに震えるその拳は、ホシノへの怒り以上に、何もできなかった自分への強烈な不甲斐なさと、大切な友人が破滅の淵に立たされるまで気づけなかった後悔に満ちていた

 

「言ったわよね、私の悪い予感は当たるって……。それなのに、どうして一人で抱え込んで、誰にも言わずに生徒会長を助けに行って……っ」

 

「……でも……ヒナも、ゲヘナの仕事とか、色々忙しそうだったし。これ以上迷惑をかけるわけには……」

 

「そんなもの、すぐに終わらせてでも来るわよ!」

 

ヒナは椅子から勢いよく立ち上がり、ホシノに詰め寄るように声を荒らげた。普段の、感情を滅多に表に出さない冷静沈着な風紀委員長の姿はそこにはなかった

 

ただ一人の、友人を想う少女としての叫びだった

 

「万難を排してでも、私はアビドスに駆けつけたわ。……一応、誰かさんに『エリート』って言われてるのよ? 舐めないで。ゲヘナの面倒な手続きも、情報部の書類仕事も、貴方が傷つくかもしれない可能性に比べたら、全部後回しにしておくわよ!」

 

ヒナの激しい言葉に、ホシノは返す言葉を失って黙り込む。ただ、その小さな肩を小さく竦めることしかできなかった

 

「……もし、最初の段階で『一人で来い、誰かにバラしたら生徒会長の命はない』って相手に脅されてたとしたら、それは仕方ないわ。そこは私も分かる。貴方の性格なら、確実に一人で突っ込むでしょうからね。大切な人の命が天秤にかけられていたら、他校なんていうややこしい立場の人間に、迂闊に連絡が取れなくなる心理くらい理解できる」

 

ヒナはホシノの頑なな態度と、アビドスを襲った卑劣な罠の気配を察して、悔しそうに唇を噛んだ

 

ホシノに深い恨みを持つ者が、意図的にアビドスを、そしてホシノを周囲から孤立させる策を講じたのだろう

 

もし自分が同じ立場に置かれていたとしても、人質や大切な人の命が懸かっていれば、誰にも頼らずに一人で敵陣へ赴いたはずだと、ヒナには痛いほど理解できた

 

だからこそ、その「先」にある、二人の間の絶対的な心の壁が、ヒナの胸を狂おしいほどにかき乱していた

 

「……けど、問題はそのあとよ」

 

「……その……あと……?」

 

「……なんで、全てが終わった後に、私に相談してくれなかったのよ……! 辛いのを、一人で抱え込んで、なんで話してくれなかったのよ!!」

 

静まり返った待合室に、ヒナの感情が昂ぶった声が大きく響き渡った

 

普段の冷静で大人びた彼女からは想像もつかないほどの、剥き出しの叫びだった

 

「あの日、連絡がした時から、私はずっと貴方達のことを心配してた……! 何かあったんじゃないかって、胸がざわざわして、ずっと気になってたのよ!? それなのに……白子が死んで、何もかもが終わって……挙句には生徒会長まで倒れて、本当に手遅れになるまで私には何も言わないなんて……ふざけないでよ!」

 

ヒナの目には、怒りと、それ以上の激しい悲しみによる涙が浮かんでいた

 

ホシノとヒナが出会い、言葉を交わすようになってからの時間は、決して長いものではなかった

 

互いに異なる学園に所属し、それぞれの事情を抱えながら、それでも奇跡のように心が通じ合った二人。過酷な環境の中で、どこか大人びることを強いられてきた彼女たちにとって、相手は初めて「自分と同じ目線で話すことができる、対等な初めての友達」だった

 

形や言葉にはしなくても、二人の間には他人が踏み込めない深い絆が結ばれている

 

ヒナは心からそう信じていたし、その絆があるからこそ、自分の弱さも、相手への心配も、全てを曝け出してここまで走ってきたのだ

 

「私達……っ」

 

ヒナは胸に渦巻く悲痛な叫びを吐き出そうと、ホシノの肩を掴みかけた

 

「――友達じゃないの?」

 

「……ヒナは……他の学校の『生徒』だよ…これ以上無関係なヒナには関係ないよ」

 

「っ……!」

 

拒絶するように重なったホシノの低い声が、ヒナの言葉を冷酷に遮った

 

それは、ホシノにとっても本意ではなかった。精神の境界線を遥かに越えた過酷な現実の中で、ホシノの頭の中にあるのはヒナを傷つけることではなく、彼女を「守ること」だった

 

ヒナが1年生でありながら、ゲヘナの中で凄まじい激務に追われ、日々を必死に生きていることをホシノは知っていた。そんな彼女に、アビドスのこれ以上ないほどに重く、昏い絶望の相談などできるはずがない

 

巻き込んで、彼女の日常まで壊してしまいたくない――その極限の配慮が生んだ、あまりにも不器用な言葉

 

しかし、白子の死、実してユメの昏睡という圧倒的な悲劇に直面し、精神的に完全に擦り切れ、壊れかけていたホシノには、それを正しく説明するための言葉が圧倒的に足りていなかった

 

「っ……待って……今のは、違うの、ヒナ……」

 

言葉の刃がヒナの胸を深く抉ったことに気づき、ホシノは慌てて視線を上げ、言い淀むように手を伸ばしかけた

 

だが、一度放たれた冷たい言葉は、静まり返った待合室の空気の中で、あまりにも明確な「拒絶」として固定されてしまう

 

優しさのつもりで放ったはずの一言は、二人がこれまで大切に積み上げてきた脆く愛おしい絆の、一番柔らかい部分に決定的なヒビを入れてしまった

 

ヒナの瞳から、すっと温度が消えていく。見開かれた瞳に溜まっていた涙が、床へと静かにこぼれ落ちた

 

「……そう……」

 

ヒナは掠れた声でそれだけを呟くと、伸ばされかけたホシノの手を見ることもなく、静かに、けれど明確に長椅子から立ち上がった

 

「勝手に心配して、勝手にここまで走ってきて……私が馬鹿だったわ。……もう、干渉しないから…安心して」

 

背を向け、一歩一歩、確実な足取りで待合室の出口へと歩いていく。その背中は、先ほどまでの激昂が嘘のように小さく、実して酷く冷徹に見えた

 

ホシノはその後ろ姿を呼び止めることができず、ただ遠ざかっていく硬い靴音を、絶望の中で聞き送り続けるしかなかった

 

 

ユメがトリニティの総合病院に入院してから、1週間ほどの時間が流れた

 

白子を失い、ユメが眠りについたあの日から、ホシノの生活はガラリと変わってしまっていた

 

季節は確実に進み、朝霧が立ち込める時間帯は、肌を刺すような冷え込みを見せるようになっていた

 

ホシノはいつからか、首元に厚手のマフラーを固く巻くようになっていた。まるで、誰の言葉も受け入れず、自分の内側の痛みを外へ漏らさないように、頑なに心を閉ざすかのように

 

かつてはユメが楽しそうに手入れをしてくれていた髪も、手にかけることが酷く億劫になり、今では肩を遥かに越えて、何かしらの紐で結ばなければ生活に支障が出るほどに長く伸びてしまっていた。鏡を見る気力すらなく、適当に束ねられた髪は、彼女の心の荒廃をそのまま映し出しているようだった

 

それだけではない

 

ホシノは、かつてユメがいつも大切そうに抱えていた、あの大きなアビドスの盾を、自分の片手に携えて四六時中持ち歩くようになっていた

 

小柄なホシノの身体にはあまりにも重く、不釣り合いなその盾は、まるで先輩の存在を少しでも近くに感じていたいという執念の表れのようでもあった

 

そして、傍らに置かれたカバンには、あの日遺跡で見つけた、ユメが作ってくれた未完成のお守りが、ホシノの手によって綺麗に結び目を完成させられた状態で、静かに揺れていた。歪な白子の刺繍が、冷たい風に吹かれて小さく揺れている

 

ユメの容態自体は、医療機器のサポートのおかげで安定へと向かっていた。しかし、あの日から一切、目を覚ますような兆しは見られない

 

脳の精密検査の結果、命には別状はないという結論が出たため、これ以上の長期入院はアビドスから離れた他校の管轄ではなく、少しでも通いやすいアビドス管区内にある、古びた地域の病院へ移動させることになった

 

ホシノの毎日は、放課後になると同時に、そのアビドスの病院へと足を運ぶお見舞いの一件だけで構成されるようになっていた

 

そしてあの日以来、ヒナからの連絡は一切途絶えている

 

手元の端末を開けば、モモトークの画面には変わらず彼女のアカウントが存在していた。ブロックされているわけではない。メッセージを送れば、きっと届くのだろう

 

けれど、自分が放ってしまったあの言葉の重さを自覚するたびに、ホシノの指は画面の上で凍りついた。自分から謝罪する勇気など湧くはずもなく、ただ奇跡のようにヒナからの連絡が来るのを、画面を眺めながら待ち続けるだけの意気地なしになっていた

 

「……寒っ……」

 

夕暮れ時、病院からの帰り道。ぽつりぽつりと街灯が灯り始めた寂しいアビドスの大通りで、ホシノは小さく息を吐き出した。白く濁った息が、自身の小さな手のひらに吹きかけられる

 

昼間はまだ太陽の照り返しで気温が高く、歩いていると汗ばむこともあるが、朝夕の冷え込みに合わせるために厚着をしているせいで、脱いだり着たりするのがひどく面倒だなと、そんな些細なストレスばかりが脳の表面を滑っていく

 

(……白子も居なくなって、ユメ先輩も目覚めなくて……ヒナにまで、嫌われちゃったな)

 

ぽっかりと胸に空いた巨大な空洞に、乾いた砂風が吹き込んでいくような感覚

 

(……私が、生きる意味って……なんだろう)

 

沈みゆくアビドスの紅い夕日を見つめながら、そんな暗い問いかけが、ふとホシノの頭をよぎった。答えをくれるはずの犬の鳴き声も、先輩の明るい声も、もうどこからも聞こえなかった

 

生きる目的を見失った抜け殻のようになりながらも、ホシノは引き摺るような足取りで、夕闇に沈むアビドス本校の校舎へと帰ってきた。生徒会室のある古い建物へ向かって寂れた中庭を歩いていた、その時だった

 

サラ、と不自然に砂が擦れる音が、ホシノの背後から唐突に湧き上がった。明確な殺意と、肉体を鋭く突き穿とうとする微かな風切り音

 

「よっ……と」

 

「!?」

 

だが、いくら精神が摩耗していようとも、数々の死線を潜り抜けてきた戦闘の天才としての本能は、ホシノの肉体を完璧に突き動かした

 

ホシノは振り返ることすらなく、上半身を最小限の動作で横へと傾け、衣服を掠めていった未知の突進を紙一重で躱す

 

同時に、死角から伸びてきていた細い手首を、万力のような力で正確に掴み取った

 

「そこっ……!」

 

掴んだ腕を引き込み、相手の突進の勢いをそのまま利用して、柔道の要領で背負うようにして前方へ投げ飛ばす。放り投げた先は、今は誰も使っていない、錆びついたトタン屋根の駐輪場だった

 

ガシャン!!! ガラガラガラッ!!

 

激しい衝撃音とともに、放置されていた古びた自転車の群れがドミノ倒しになり、金属の悲鳴が夜の静寂に響き渡る

 

「……誰だかは知らないけど。私が少し落ち込んでるくらいで、簡単に倒せると思わないことだね」

 

ホシノは冷徹な眼差しのまま、パッパと両手の砂をはたき、投げ飛ばした方向へとゆっくりと歩みを進めた

 

自分に恨みのあるものの息がかかった傭兵か、あるいは学校の占拠が目当ての野良のヘルメット団か

 

白子を失って以降、ホシノの心には容赦という概念が消え失せていた

 

「さて、私、決めてるんだよね。私やアビドスに敵対するからには、徹底的にやるって。命までは取らないけど…二度と、私の前に立ち立ち塞がろうなんて、そんな馬鹿な仕返しを考えられないくらいにね……」

 

拳をゴキゴキと容赦なく鳴らしながら、土煙の向こうを睨みつける。もう、油断なんて絶対にしない。隙を見せれば大切なものが奪われるのだと、その教訓はあの子の命で嫌というほど学んだ

 

だが、ゆっくりと夜風に払われていく土煙の向こうから、襲撃者の姿が露わになった瞬間、ホシノの足が、そして思考が、完全に凍りついた

 

「くっ……、あ……」

 

「……女の子……?」

 

そこにいたのは、急速に冷え込み始めた夜の砂漠だというのに、ボロボロで薄手の衣服を身に纏い、倒れた自転車の隙間からこちらを鋭く睨みつける、一人の少女だった

 

身長は自分と同じか、あるいは少し低いくらいだろうか。華奢な肢体、しかしその顔立ちをよく見れば、まだあどけなさと幼さが色濃く残っている

 

何故、こんなに小さな子が、命を奪うような勢いで私を襲ってきたのか。その疑問符が頭に浮かんだのと同時に、ホシノのオッドアイが、少女の「ある特徴」に吸い寄せられた

 

(この子……白子に、似てる……?)

 

頭のてっぺんで不機嫌そうにピクリと動いた、特徴的な獣耳。砂に汚れてはいるが、月の光を浴びて鈍く輝く綺麗な銀色の髪。そして、警戒心に満ちてはいるものの、どこか澄んだ水色の瞳

 

どこを切り取っても、つい数週間前まで自分の足元を元気に駆け回っていた、あの愛犬の白子を強く思い出させる雰囲気を、その少女は強烈に醸し出していたのだ

 

ホシノがそのあまりの奇妙な一致に呆気にとられ、完全に硬直していた、その一瞬の隙だった

 

少女は驚異的な身体能力でバネのように跳ね起きると、手にした小銃を一切の躊躇なくこちらへ構え、即座に銃弾を発射した

 

重い銃声が、夜の校舎に鳴り響く

 

 

「はぁ……はぁ……、っ」

 

地面に転がった小銃の金属音が静かに響き、シロコは校舎のコンクリート壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ

 

激しい攻防の末、息は完全に上がり、その小さな肩がせわしなく上下している。衣服の隙間からはいくつもの新しい擦り傷が覗き、全身が疲労と痛みで限界を迎えているのは明らかだった

 

対するホシノは、半分以上の本気を出して攻撃を捌き切っていたものの、その息は全く上がっていなかった。アビドス最強と謳われる実力の底深さを証明するように、彼女の立ち姿には乱れひとつない

 

「ふぅ……」

 

ホシノは小さく息を吐き出しながら、手にしたショットガンと、ユメの私物である大きな盾をゆっくりと地面へと下ろした

 

勝敗は、言うまでもなく圧倒的だ

 

しかし、その瞳に宿る冷徹な光は、少女のボロボロな姿を見るうちに、どこか複雑な揺らぎへと変わっていく

 

「……ごめんね。久しぶりの手加減だったから、ちょっと上手くいかなくて……痛かったかな」

 

ホシノが静かに声をかけるが、少女は掠り傷を負った身体をきつく丸めるだけで、何も答えない

 

ただ、すべてを諦めて受け入れるような、酷く冷めて乾いた瞳で、ホシノの姿をじっと見つめ返してくるだけだった。その、生きる希望のまるでない拒絶の光が、ホシノの胸をチクリと刺す

 

「……君はまだ小さいから、よく分からないと思うけど……ここはアビドス本校の敷地なんだよね。まぁ、私がいない日は、ただの廃墟にしか見えないだろうけど」

 

ホシノは一歩、少女の方へと足を踏み出し、静かに問いかけた

 

「君、どこから来たの?」

 

尋ねるホシノの言葉に、少女は少しだけ視線を泳がせ、掠れた声で短く答えた

 

「……分からない」

 

「分からない、って……自分の家とか、学校とかは?」

 

ホシノが眉をひそめると、少女は首元を隠すように身を縮め、ぽつりぽつりと不器用に言葉を紡いだ

 

「ん……気がついたら……ここに居た。何も、覚えてない」

 

「何も……?」

 

「学校も、家も、何も。……ただ、寒くて……お腹がすいて……だから、襲った。奪う、ために。生きる、ために」

 

「……そう、なんだ」

 

少女の瞳には、一切の打算も嘘も混じっていなかった。ただ生存本能だけに従って動いたという、剥き出しの真実だけがそこにあった

 

強い精神的ショックや外傷によって、記憶の連続性が絶たれてしまう症状――最近読み漁っていた医療の本の内容が、ホシノの脳裏をよぎる

 

それならば、この子にはアビドスへの恨みも、自分への個人的な殺意もない。ただ、凍える砂漠で行き倒れかけ、生きるために、目の前に現れた自分を襲うしかなかったのだ

 

これ以上、誰の人生にも関わりたくない。もう、誰かを失って傷つくのも、自分のせいで誰かが不幸になるのもたくさんだ。ここで「もう二度と来ないで」とだけ言って、追い返せばいい。それが一番正しいはずだった

 

「……君、名前は?」

 

それなのに、ホシノの口からは、自分でも理解できない問いかけが自然と零れ落ちていた

 

少女は、ホシノのカバンに揺れるお守りの白子の刺繍をじっと見つめ、それから自分の乾いた唇を開いた

 

「………シロコ。……砂狼、シロコ」

 

「!」

 

ホシノのオッドアイが、これ以上ないほどに、大きく見開かれた

 

シロコ。白子

 

あの子と同じ、名前

 

夜の砂漠の冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。カバンの白いお守りが、まるで死んだあの子の魂がそこにいるかのように、激しく揺れていた

 

「っ……」

 

激しい動揺が、ホシノの胸を突き上げる。名前が同じなだけの、全くの別人

 

そんなふうに重ね合わせて見るのは、この子に対しても、命を懸けて自分を護ってくれた白子に対しても失礼だ。頭の中の理性はそう叫んでいた

 

しかし、混乱の最中にいるホシノをじっと見つめる少女の瞳――その、どこか不器用で、けれど真っ直ぐに自分を案じるような静かな眼差しは、生前の白子が傷ついたホシノの傍にそっと寄り添い、心配そうに見上げてくれていた時の目と、あまりにも瓜二つだった

 

一人きりでこの学校を背負う重圧。いつ目覚めるかも分からないユメを守る孤独。そして、ヒナという大切な友達を失ってしまった激しい後悔。もう、一人で全てを抱え込むには、ホシノの心は限界を迎えていた

 

シロコは首を小さく傾げ、黙り込んだホシノの様子を不思議そうに見つめている。その無垢な姿を前にして、ホシノはゆっくりと膝を折り、彼女の目線に合わせるようにして目の前に屈み込んだ

 

その表情には、先ほどまでの冷徹さはなく、どこか痛々しいほどの優しさが滲み出ている

 

「……行くところがないなら。……この学校の生徒に、なる?」

 

「………いいの……?」

 

シロコの瞳に、微かな驚きと、それ以上の戸惑いが浮かぶ

 

自分をこれほど圧倒した強い人間が、襲撃者である自分に救いの手を差し伸べる理由が分からなかったのだろう

 

「うん……。私も、1人でいるのは、ちょっと寂しくてね。……そうだ」

 

ホシノは自嘲気味に微笑むと、自分の首元に固く巻きつけていた、あの厚手のマフラーをゆっくりと解いた

 

頑なに世界を拒絶するために巻いていた防壁。それを丁寧な手つきで、寒さに身を縮めるシロコの首元へと優しく巻き直してあげる

 

「これ、あげるよ。私のお古だけど……」

 

「……マフラー……」

 

シロコは、自分の首を包み込んだ鮮やかな青色の布地にそっと触れた

 

「どう? 少しは……マシになったかな?」

 

「……うん……。凄く……暖かい」

 

シロコはマフラーに顔を埋めるようにして、本当に嬉しそうに、小さな声を漏らした

 

その温もりに触れて、少女の凍てついていた表情が、ほんの少しだけ柔らかくほどけていく

 

――あぁ、やっぱり、似ている。

 

そう思った瞬間、ホシノの心臓が、冷たい氷水をかけられたように激しく脈打った。 マフラーに顔を埋めるその仕草。見上げてくる瞳の光。 脳裏をよぎるのは、かつて自分の隣で、同じように嬉しそうに尾を振っていた、あの日失った「白子」の姿。

 

(私は今、この子に何を求めた?)

 

世界のすべてを拒絶するための防壁だったマフラー。それをこの子に預けたのは、純粋な善意なんかじゃない。 飢え、凍える目の前の少女を救いたいという綺麗な感情ですらない。 ただ、失ったあの子の幻影を、この記号の似通った少女に重ねて、自分の寂しさを埋めたかっただけだ。

 

自分を「先輩」と呼ぶかもしれないこの命を、最初から「身代わり」として見ている。

 

(……なんて汚くて、浅ましい人間なんだ、私は)

 

シロコの無垢な笑顔が眩しければ眩しいほど、自分の内側にある独善的なエゴが、悍ましい怪物のように思えて吐き気がした。 けれど、もう解いてしまった。差し出してしまった。 自分の醜悪さに引き裂かれそうになりながらも、ホシノは引き攣りそうになる頬を必死に抑え、「優しい人」の仮面を、より深く、強固に被り直す

 

「……そっか。それなら…良かったよ」

 

「ん…」

 

濁った自責を胸の奥底に沈めながら、ホシノはただ、あどけなく笑う少女の頭を優しく撫で続けた

 

「……それじゃあ、シロコちゃんのお家が見つかるまでは。私と一緒に暮らそうか」

 

「……ん。よろしく」

 

ホシノがそっと右手を差し伸べると、シロコはその小さな手で、壊れ物を扱うように、けれど決して離さないように強く握り返してきた。ぐっと力を込めて、ホシノはシロコを地面から引き上げるようにして立ち上がらせる

 

分かっている。この子はあの子ではない

 

けれど、それが分かっていながら、自分は彼女の手を取ることを選んだ。ならば、覚悟を決めるだけだ。守るべきものが、また一つ増えた。ただそれだけのこと

 

アビドスは今、底の抜けた絶望の淵にいる。けれど、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない

 

(今は私とこの子だけかもしれない……。でも、これから先、アビドスに新しく入ってくる後輩だって、きっといるはずだ。ユメ先輩が愛したこの学校を繋いでいけば、いつか……)

 

その時、ホシノの心の中で、冷たく消えかけていた炎が、全く別の色を帯びて激しく燃え上がった。それは、悲哀に狂った過去の遺物としての炎ではない

 

未来を、新しくできた目の前の『後輩』を、何があっても護り抜くという、冷徹で強固な意志の焔だった

 

「これからよろしくね、シロコちゃん」

 

「……ん……」

 

この命に代えても、私の可愛い後輩たちは、絶対に私が守ってみせる

 

シロコの小さな手をしっかりと繋ぎ、冷たい砂風を切り裂きながら、ホシノは歩き出す。そのオッドアイには、かつての頼りない光ではなく、アビドス最強の「盾」としての鋭い輝きが宿っていた

 

これは、白子という名の愛犬と、最愛の先輩を失い、世界のすべてに絶望したホシノが――砂狼シロコという、新たに命を懸けて守るべき『後輩』に出会い、再び前を向くための、壊れた日常の始まりの物語

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