白子とシロコ   作:気弱

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ホシノとシロコ
ホシノとシロコ 新たな生活


「ホシノ、ホシノ。起きて。もう朝」

 

「んん……あぅ……うへぇ……」

 

規則的に身体を左右にゆさゆさと揺さぶられる、心地よいけれど容赦のない刺激

 

ホシノは糊の取れていない重い瞼を、糊の付いた指で剥がすようにしてゆっくりと持ち上げた。視界が白くぼやける中、最初に目に飛び込んできたのは、驚くほど似合っている水色と白の可愛らしいフリル付きのエプロン。そして、小さな頭の上で少し不器用に結ばれた、真っ白な三角巾だった

 

視線をさらに上に向けると、そこには感情の起伏を感じさせない無表情のまま、真っ直ぐな水色の瞳でこちらを見下ろすシロコの顔がある

 

どういうわけか、彼女の両手にはテフロン加工の焦げ付いたフライパンと金属製のお玉がしっかりと握られており、ホシノがこれ以上の二度寝を決め込もうものなら、いつでも警告の楽器のようにガシャンと打ち鳴らせる完璧な構えを取っていた

 

「どうしたの……シロコちゃん……。まだ外、薄暗いよぅ……。今日は私、午前中は何も活動をしないって心に決めてる日なんだけどな……」

 

ホシノは敷布団の重力から這い出ることを身体の全細胞レベルで拒絶し、芋虫のように毛布の端を巻き込んで丸まり直そうとする。しかし、シロコは逃がさないと言わんばかりに、容赦なく冷たいお玉の先端で、ホシノの鼻先を優しくツンツンと突いた

 

金属の冷気が鼻腔を刺激する

 

「うへぇ…」

 

「朝ご飯できた。冷める前に、今すぐ食べるべき」

 

シロコが短い顎でクイと部屋の隅を指し示した。ホシノは寝ぼけ眼をこすりながら、重い身体を引きずるようにして渋々そちらを見やった

 

アビドスの寂れたワンルーム。普段は物置き同然になっていた、脚のガタつく小さなローテーブルの上には、驚くほど見事な朝食が二人分、お行儀よく綺麗に並べられていた

 

香ばしく綺麗なキツネ色に焼き上げられたトーストが二枚。その傍らには、極弱火でじっくりと時間をかけて油を通した形跡の伺える、表面がツヤツヤとした美しい半熟の目玉焼き。さらに、破裂寸前のパリッと弾けるような焼き目がついたウインナーが丁寧に二本ずつ添えられている

 

淹れたての麦茶から立ち上る香ばしい湯気が、夜の間に冷え切っていた六畳間の空気を、優しく暖めていた

 

「おおー……。シロコちゃん、すごいね。これ、本当に一人で全部作ったの? 上手だねぇ、大したもんだ」

 

ホシノが感心して毛布から這い出し、シロコの三角巾の上から小さな頭をよしよしと優しく撫で回すと、シロコは相変わらず無表情のままだった。けれど、頭頂部から生えた一対の柔らかな獣耳をピコピコと嬉しそうに跳ね上げ、心なしか小さな胸を誇らしげにふんぞり返らせてみせた

 

言葉にはしないが、全身で「もっと褒めていい」と主張している

 

「ん……。だから、はやく顔を洗ってきて。ちゃんと歯も磨くこと。遅れるとパンが固くなる」

 

「あはは……。これじゃあ、どっちが年上の先輩なんだか、さっぱり分かんないや」

 

まるで実家にいるしっかり者のお母さんのように、厳格な手付きで洗面所の方を指差すシロコ。その小さくて頼もしい後ろ姿を見送りながら、ホシノはパタパタと薄いスリッパを鳴らして水場へと向かった

 

蛇口を力一杯に捻り、まだ少し生ぬるい水道水を両手で掬って、容赦なく顔に叩きつける。冷たさが肌を刺し、パチリと完全に目が覚めると同時に、鏡に映る自分の生気のない顔を見つめながら、ホシノは深い溜息とともに、心の中で贅沢な、けれど切実な戦慄を覚えていた

 

(うーん……。シロコちゃんと一緒に住み始めて、まだほんの数日なんだけどさ……。私、もしかして家事スキル、完全に負けてない……? 先輩としての威厳が、初手から音を立てて崩壊してる気がするんだけど……)

 

冷水で冷え切った自分の両頬をパチンと叩きながら、ホシノの脳裏には、この劇的で目まぐるしかった数日間の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた

 

シロコを砂漠の真ん中で保護し、この部屋へと連れ帰った次の日の昼頃までは、確かにホシノが完全に主導権を握っていたはずだった

 

自分でも無意識のうちに、かつて心から慕ったユメ先輩のような、包容力のある優しいお姉ちゃん然とした話し方や、包み込むような振る舞いを意識して演じていた

 

身寄りのないシロコをアビドス本校の古い浴場へ連れていき、何日も過酷な砂漠を彷徨って泥と砂塵でバサバサになっていた綺麗な銀髪を、熱いお湯で丁寧にふやかしてあげたこと

 

シトラスの香りのする安いシャンプーで泡立てて優しく洗ってあげた時、ドライヤーの温風を当てながら、小さな身体をくすぐったそうに丸めるシロコの頭を乾かしてあげた、あの瞬間までは――間違いなく、ホシノの計画していた「頼れるかっこいい先輩ムーブ」は完璧に機能していたのだ

 

しかし、そんなホシノのささやかなプライドは、その直後に訪れた生徒会室でのアクシデントによって、早くもシロコの手で粉々に粉砕されることになった

 

シロコに着せるための予備の制服を教室の奥から探す最中、シロコは何を思ったか、ホシノが頑丈な真鍮の南京錠でがっちりと鍵をかけていたはずの、個人的な私物入れのロッカーに目を付けると、どこからか拾ってきたクリップ一本を器用に曲げると、ものの数十秒で見事にピッキングして開けてしまったのだ

 

カチャリと情けない音を立てて開いた扉の奥から、中に入っていたホシノの着替え用下着一式を、彼女は一切の躊躇なく白日の下に引っ張り出す

 

しかも、よりにもよってその中には、普段から無地で実用性重視の、色気のない下着ばかりを好むホシノの将来を憂いたユメ先輩が、『ホシノちゃん! 女の子なんだからもっとこういう可愛いものを着なさい!』と半ば強制的に買い与え、ホシノが顔を真っ赤にしながらロッカーの最奥に封印していた、小さくてファンシーな犬のイラストがこれでもかと全面にプリントされた下着が混ざっていたのだ

 

『そ、それ……っ! 私、私の……じゃなくて! ああもう違うの、他の人のだから! ここには今いない、別の人のだから今すぐ返して!! ね!?』

 

『やだ』

 

顔から火が出るどころか脳細胞が爆発しそうなほど真っ赤になったホシノは、自分のものではないと言い張ろうとして完全に支離滅裂になり、必死になって手を伸ばした

 

しかし、当のシロコはその妙に愛嬌のある犬さん下着をすっかり気に入ってしまったらしく、小さな身体を限界まで丸めて籠城の構えを取り、完璧に下着をガードして死守してみせたのだった

 

結局、その圧倒的な気恥ずかしさとシロコの頑固さに負け、それ以上強く言えなかったホシノが全面的に譲る形になり、今では他にもいくつかまともな新しい下着を買い揃えてあげたというのに、何故かシロコはその犬さん下着を「一番のお気に入り」として、嬉しそうに愛用しているのだった

 

さらに壊滅的だったのは、その日の夜の食事だった

 

慣れない共同生活の初日、お腹が空いたと小さくお腹を鳴らすシロコのために、ホシノは一念発起したのだ

 

(よし、ここはお姉ちゃんらしい頼りになるところを見せて、胃袋をがっちり掴んじゃおう!あれから私も練習してるし大丈夫なはず!)

 

そう意気込んで、キッチンにあるあり合わせの乾燥食材や缶詰を鍋に放り込み、適当な勘で味付けをして創作スープのような料理を振る舞った

 

「はい、シロコちゃん特製スープだよ。いっぱいお食べ」

 

「ん。……いただきます」

 

味見の段階で、自分でも「なんだか酸っぱくて苦くて、表現のしようがない妙な味がするな」とは思った。しかし、野宿生活が長かったシロコは出された料理を拒むことなく、そういうものとして無表情のまま黙々と、きれいに平らげてくれた

 

ホシノはそれを見て(うへ、意外といける味だったのかな?)などと能天気に安堵していたのだが――

 

夜中、静まり返った部屋に響いたのは、切迫したシロコの足音とトイレの扉が閉まる音だった

 

「…………ホシノ。お腹……すごく、痛い。中から、ぐるぐる回ってる」

 

「えっ!? し、シロコちゃん!? 大丈夫!? 救急箱、救急箱はどこだっけ……っ!?」

 

案の定、ホシノの壊滅的な料理スキルの犠牲となり、シロコは小さな身体を丸めて一晩中トイレに籠る羽目になってしまったのだ。ホシノは一睡もできず、ドアの向こうへ何度も声をかけ、自分の不甲斐なさと申し訳なさで泣きそうになりながら夜を明かした

 

そして翌朝。やつれて青白い顔をしながらも、なんとか復活を遂げたシロコは、おぼつかない足取りのままキッチンへ直行すると、小さな手を伸ばしてフライパンの柄をがっしりと握りしめた

 

「シロコちゃん、まだ無理しちゃダメだよ! 今日は大人しく寝てて、私がお粥でもなんでも作るから!」

 

「やだ。ホシノが作ったら、またお腹壊す。……命の危険を感じる」

 

「うぐっ……! それは、本当に、ぐうの音も出ない……」

 

シロコはホシノの必死の制止を冷徹な視線で完全に振り切り、頑としてフライパンを手放そうとしなかった

 

仕方なく、ホシノがスマートフォンで初心者向けの簡単な家庭料理の動画を探し、「じゃ、じゃあこれを見ながらやってみよっか……?」と見せてあげたところ、そこからのシロコの変貌が凄まじかった

 

シロコは驚異的な集中力と学習能力を発揮し、動画の細かな手元のアクションをじっと見つめると、無駄のない動きで卵を割り、バターを溶かした。そして、瞬く間にホシノの何倍も形が良く、何十倍も美味しい、中がトロトロの完璧なオムレツを完成させてしまったのだ

 

その日を境に、我が家における台所の全権は、何の発言権もないまま自然とシロコへと移行することになった

 

それだけではない。料理をきっかけに家事の楽しさや効率化に目覚めたのか、シロコは生活のあらゆる面に興味を示し始めた

 

「ん、動かないで。そこ、絡まってる」

 

「え? わわ、シロコちゃん?」

 

今では、ホシノが普段まったく手入れをせず放置していたせいで毛先が傷み、あちこちが絡まりがちだったあの長い長いピンク色の髪の毛すらも、シロコは「ん、私がやる」と言って、毎朝毎晩、覚えたての丁寧な手付きでブラッシングしてくれるようになった

 

髪を引っ張らないように細い指先で毛先をほぐし、ゆっくりと櫛を通していくシロコ。その真剣な眼差しで見守られながら、ホシノはただ大人しく座っていることしかできない。今や二人の立場は、どちらが年上の保護者で、どちらが守られるべき庇護者なのか、完全に逆転してしまっていた

 

(うーん……。このままだと、本当にただの『駄目な先輩』になっちゃうなぁ……。少しは、料理とかのスキルを身につけた方がいいのかなぁ……)

 

顔を洗い終え、使い古されたゴワゴワのタオルで水滴を拭いながら、ホシノは鏡の中の自分に向かって、情けないような、けれどどうしようもなく愛おしい日常への溜息を静かに零した

 

ユメ先輩を失って以来、世界がずっと灰色に塗り潰されたように冷え切っていたというのに、新しくやってきた小さな女の子の存在が、自分の生活をこんなにも目まぐるしく、 影ひとつない鮮やかさで温かく侵食していく

 

「ん、ちゃんと眠気取れた?」

 

ホシノがリビングへと戻ると、シロコはテーブルを挟んで自分の分の朝食の前に、ちょこんと正座して待っていた

 

エプロンの紐を律儀に結び直したようで、相変わらず感情の読めない水色の瞳が、部屋に入ってきたホシノの動きをじっと追いかけてくる

 

「うへ……もちろん。冷たい水でシャキッと目が覚めたよ」

 

「ん、ならはやく座って。はやく食べよ」

 

「シロコちゃんは小さいのに本当にしっかりしてるねー……」

 

ホシノは自分を小さな手で手招きするシロコの姿を見ながら、頼もしさと、ほんの少しの申し訳なさが混ざった苦笑いを浮かべた。畳の上に膝を折り、シロコの正面に腰を下ろそうとした、まさにその瞬間だった

 

「……なんだか、ホシノ……ちょっと、おじさん臭いね」

 

「ぐふっ……!?」

 

唐突に放たれたシロコの一言が、座りかけていたホシノの胸元に鋭いナイフとなって突き刺さる。ホシノは腰を浮かせた中途半端な姿勢のまま硬直した

 

「そ、そんなことあるかな!? 私傷ついちゃうよ!? 私、まだ十五歳だよ!? おじさんって言われるような年齢じゃ……っ」

 

「うん、寝顔とかはすごく可愛い。小さくて、なんか、小動物みたい。けど、起きた時の伸びの仕方とか、はふぅって溜息つく感じとか……なんか、おじさんみたい」

 

「シロコちゃん!? それだと可愛いって褒められても全然嬉しくないよ!? 私、まだお肌の曲がり角にも来てないはずなんだけどなー!?」

 

必死になって抗議するホシノを前にして、シロコはふいっと視線をテーブルの上のトーストへと移し、小さな両手を綺麗に合わせた

 

「いただきます」

 

「ちょっと、人の話を聞いて!?」

 

終始シロコのマイペースな空気に振り回されっぱなしのホシノ。すでに一切の迷いなくトーストをサクッと小気味よい音を立てて齧り始めたシロコを見て、これ以上何を言っても無駄だと察した

 

ホシノはガックリと肩を落とし、「……いただきます」と力なく手を合わせ、自分も朝食を口へと運ぶ

 

だが、悔しいことに、どれを食べても完璧な仕上がりだった。トーストの焼き加減は絶妙にサクサクで、ウインナーの塩気も目玉焼きの半熟具合も、ホシノの好みにぴったりと合わせられている

 

(うぐぅ……。このままだと私、仮にも先輩としての威厳を認めてもらうより先に、ただの『おじさん』として認定されちゃうんじゃ……。ユメ先輩ってもしかして、昔の私にこんな風に手を焼いてたりしたのかなぁ……)

 

ふと、過去の自分の姿が脳裏をよぎる。あの頃の自分はもっとトゲトゲしていて、生意気で、ユメ先輩の優しい言葉を何度も突っぱねていた。それを先輩は、いつもこんな風に困ったような苦笑いを浮かべながら、優しく受け止めてくれていたのだ

 

(後輩が出来るというのは、こういうことなんだね、先輩……)

 

ホシノは心の中でそっと呟きながら、自分の未熟さと、かつての先輩の大きさを思って、人知れず頭を抱えた

 

美味しい朝食をモグモグと咀嚼しながら、ホシノには家事スキルの大敗の他にも、もう一つだけ深い悩みがあった

 

「ホシノ、美味しい?」

 

「う、うん……。ものすごく美味しいよ、シロコちゃん」

 

パンに一生懸命にかじりつきながら、小首を可愛らしく傾げて尋ねてくるシロコ

 

その姿は文句なしに愛くるしいのだが、問題はその「呼び名」だった。出会ったその日から今まで、彼女の中でのホシノの呼び方は一貫して『ホシノ』の三文字で統一されているのだ

 

最初の頃こそは、ホシノも優しく、根気強く諭そうとしていた

 

『シロコちゃん? 今は二人きりだからまだいいんだけどね……? ほら、私の方が一応年上だし、学校の副生徒会長だしさ……。だから、ちゃんと『先輩』って付けて呼んでくれたら、お姉さんすごく嬉しいなーって、思うんだよね……?』と。

 

だが、その度にシロコは『ホシノはホシノ。他の何でもない』と、理解しているのかいないのか、真っ直ぐな瞳で言い返してくるばかりで、最終的にはホシノが根根負けして諦めてしまっていた

 

しかし、いくら家事スキルで完敗しているとはいえ、自分は仮にも年上であり、アビドスを引っ張っていかなければならない立場だ。根が真面目で責任感の強いホシノにとって、いくら可愛い後輩とはいえ呼び捨てにされ続けるのは、少しだけ、本当に少しだけ抵抗があった

 

「ね、ねぇ……? シロコちゃん……。やっぱり、私のこと『ホシノ先輩』って呼んでみて欲しかったり、欲しくなかったり、するなー……?」

 

上目遣いで、恐る恐る探るように提案してみるホシノ

 

「……?」

 

シロコは咀嚼の動きをピタリと止め、不思議そうに、けれど特に興味もなさそうに、ただ黙々とトーストを再び頬張り始めた

 

「ぐぅ……」

 

言葉ではなく、その圧倒的な無垢の可愛さとマイペースさで正面からねじ伏せられ、ホシノは口を噤むしかなかった

 

かつて、愛犬の白子が自分の言うことを聞かずに勝手気ままに砂漠を駆け回っていた時にも薄々感じていたのだが、自分はきっと、大切な存在に対してはどこまでも甘くなってしまう、どうしようもない「親バカ」のような運命を背負っているのだろう

 

ホシノは心の内で深い溜息を零しながら、それ以上は呼び名について追及することをやめ、シロコが作ってくれた温かい朝食を静かに胃へと収めていった

 

 

朝食を食べ終え、食器を手早く片付けた二人は、並んで一緒にアビドス本校の校舎へと向かった

 

シロコ自身はまだ正式な手続きを踏んで入学したわけではないため、本来であれば毎日学校に来る必要は全くない。しかし、一人でアパートに留守番しているのは寂しいのか、あるいはホシノから離れたくないのか、「ん、一緒に行く」と言ってきかないのだ

 

ガタゴトと、建て付けの悪い古い生徒会室の木製の扉をスライドさせ、二人は埃っぽい室内へと入った

 

「それじゃあ、私はこれから少し、校舎内の廊下とかの掃除をしてくるから。シロコちゃんはここで大人しく、お茶でも飲んでくつろいでてね。そこにお煎餅の残りもあるし」

 

ホシノは使い古した自分の鞄を重い事務机の上に置き、シロコに向かって優しく微笑みながらお留守番を頼もうとした

 

しかし、やはりこの銀髪の少女は、一筋縄ではいかない筋金入りの自由人だった

 

「ん。お茶は要らない。私はいつものところで、特訓してくる」

 

「えー……せっかくのお煎餅なのに。できれば大人しくくつろいでて欲しいんだけどなー……」

 

「ダメ。強くならなきゃいけない。ホシノを倒すために」

 

シロコはホシノの引き留める言葉が終わるよりも早く、ふんすと鼻腔を鳴らすと、自分の華奢な体躯にはおよそ見合わない重厚なアサルトライフルを片手でしっかりと携え、軽い足取りで生徒会室の外へと飛び出して行ってしまった

 

初めてこの学校の中庭でホシノと遭遇し、交えた時、圧倒的な実力差で地面に組み伏せられたことが、彼女のプライドにとって余程悔しかったのだろう

 

学校内を案内している最中、ホシノが普段から好んで使っている射撃訓練場を見せてあげたところ、シロコの瞳はこれ以上ないほどにギラギラと野生的な輝きを放ち始めた。それ以来、彼女は毎日欠かさず、その訓練場に籠っては凄まじい量の銃撃特訓を繰り返しているのだ

 

(あんなに筋が良いんだもん。私が教えてあげられることなんて、きっとすぐに無くなっちゃうよ。いつかは私も、あの小っちゃい背中に追い抜かされちゃうのかなぁ……)

 

まるで前線を退いた老兵のような、あるいは我が子の成長を寂しがる親のような思考が、ふと頭をよぎる

 

ホシノは自嘲気味に小さく微笑みながら、朝の光が斜めに差し込む廊下を、愛銃を抱えて全力で走り去っていくシロコの小さな背中を、その足音が聞こえなくなるまで静かに見送っていた

 

胸の奥に灯ったシロコという名の小さな温もりを愛おしく思う反面、自分が背負うべき重く冷たい現実が消えてなくなったわけではないことを、足音が消えた後の静寂が容赦なく思い出させる

 

「さてと……。お姉さんも、お姉さんとしての仕事を始めますかね」

 

ホシノは小さく息を吐き出すと、生徒会室の隅にある備品ロッカーから、使い古されて毛先のすり減った竹箒と、プラスチック製の黄色もちりとりを取り出した

 

それらを両手に持ち、静まり返った廊下をゆっくりと進んでいく

 

向かうのは生徒会室のすぐ隣にある、普段は立ち入りが禁止されているはずの、固く閉ざされた教室だった

 

ドアノブに手をかけ、制服のポケットから取り出した、傷だらけの専用の鍵を差し込む。ガチャリ、と静かな金属音が響き、ゆっくりと重い扉を押し開けて中へと足を踏み入れた

 

そこは、砂が侵入し放題になっている他の教室のような乱雑さは一切なく、奇妙なほどに清浄な空気が保たれた空間だった

 

部屋の奥、かつて教卓が置かれていたであろう場所には、アビドスの荒涼とした青い空には少し不釣り合いな、パステル調の淡いピンク色の小さな仏壇が安置されている

 

その中央には、かつてこの校舎を元気に駆け回り、ホシノのすさんだ心の唯一の支えであり、そして数か月前に逝ってしまった愛犬――『白子』の写真が、穏やかな表情で飾られていた

 

「ふんふんふ〜ん、ふ〜ん、ふふ〜ん……」

 

ホシノは静寂を紛らわせるように、小さく優しい鼻歌を交えながら、慣れた手付きで手際よく作業を進めていく

 

まずは仏壇の周囲に積もった、目に見えないほど小さな砂埃を、水で濡らして固く絞った柔らかな布で優しく拭き取る。それから、昨日お供えしていた古いドッグフードを下げ、新しい袋から香ばしい匂いのする茶色い粒を、陶器の器へと丁寧に盛っていく

 

古くなった水も捨て、水道で何度も濯いだ清潔な湯呑みに、並々と新しい新鮮な水を注いで供えた

 

「よし、これで白子のご飯はばっちりだね」

 

続いて、部屋の隅に置かれた、白子がかつてお気に入りだった大きな木製のドッグタワーや、噛み痕だらけのおもちゃのボールが転がる床に積もった砂を、箒でシャッ、シャッと静かに掃き集めていく

 

シロコがアパートに来てからの数日間、どうしても自分の自由な時間は削られてしまっていたが、この日課だけは、たとえどんなことがあろうとも一日たりとも欠かしたことはなかった

 

一通りの掃除を終わらせると、ホシノは仏壇の前に静かに正座した。マッチを擦って線香に火をつけ、白い煙が細く揺らめきながら立ち上るのをじっと見つめながら、小さな真鍮の「りん」を棒でそっと叩く

 

チーン――

 

高気密に閉ざされた部屋の中に、どこまでも澄んだ、哀しいほどに綺麗な音が染み渡っていく。ホシノはそっと両目を閉じ、胸の前で静かに手を合わせた

 

(白子。私ね、昨日もシロコちゃんにすごく怒られちゃったんだよ。料理の味付けを間違えて、あの子にお腹を壊させちゃってさ……。本当に、私って駄目な先輩だよね。白子がいてくれたら、きっと呆れて私の手を舐めて慰めてくれたのかな……)

 

これがホシノの、誰にも明かしていない隠された日課だった。この部屋の存在も、愛犬の白子のことも、人間のシロコには完全に秘密にしている

 

それは、あの純粋な少女に対して、どこか奇妙な、言葉にできない負い目があるからかもしれない

 

同じ名前を持つ、犬の『白子』と、人間の『シロコ』。もし感受性の強いシロコがこの部屋を見つければ、自分はあの死んだ犬の「身代わり」として砂漠から拾われたのではないかと、そんな余計な傷を彼女の心に負わせてしまうかもしれないという恐怖が、どうしてもホシノの足をすくませるのだった

 

それだけではない。ホシノが誰にも頼らず、一人で全ての責任と孤独を背負い込もうとする最たる理由――このアビドス高等学校の正規の生徒会長であり、ホシノにとって唯一無二の光だった先輩、梔子ユメが、今もなお意識不明の重体に陥り、アビドス病院の白いベッドで幾本もの管に繋がれて静かに眠り続けているというあまりにも重すぎる事実も、シロコには一切伏せていた

 

あの子には。そして、これからいつか入ってくるかもしれない、まだ見ぬ新しい後輩たちには

 

過去の血生臭い因縁や、学校が抱える何億という天文学的な借金の恐怖、大人の汚い利権争いなんてものは何一つ心配せず、ただただ普通の、どこにでもある楽しい学校生活を送ってほしい

 

そのための、頑丈で決して崩れない「防波堤」になることこそが、今のアビドスに一人残された自分の絶対的な義務なのだと、ホシノは頑なに、自らを追い詰めるように信じ込んでいた

 

「……それじゃ、また来るね。お留守番、よろしく。白子」

 

ホシノはそっと目を開け、遺影の中の愛犬に寂しげな微笑みを投げかけると、静かに教室を後にした。入念に鍵を二重に閉め、誰もいない冷たい廊下を渡って生徒会室へと戻る

 

室内の机の上で彼女を待っていたのは、山積みにされた未記入の書類や、周辺地域からの砂害に関する苦情、そしてカイザーローンからの執拗で脅迫めいた催促状の束だった

 

ホシノはギシギシと鳴る重い事務椅子に腰を下ろすと、黒いボールペンを強く握り、それらの書類との孤独な、終わりのない格闘を開始した

 

――ちちち、と古い時計の秒針だけがペンを擦る音に混ざる静かな空間で、じっと二時間ほどが経過した頃だった

 

ホシノの視界が書類の細かい数字の羅列で霞み、ひどく目が疲れてきたのを感じて小さくペンを置いた、まさにその瞬間。廊下の向こうから、ドタドタと激しく床を叩く、これ以上ないほどに騒がしい足音が近づいてきた

 

バシャァン!! と勢いよく生徒会室の扉が開け放たれる

 

そこに立っていたのは、案の定、全身が火薬の煤と泥、そして激しい硝煙の臭いで見る影もなく汚れたシロコだった

 

彼女は肩を激しく上下させて荒い息を吐きながら、手にした愛銃の銃口を、真っ直ぐにホシノの額へと向けた

 

「ホシノ、特訓終わった。……今日こそ、今日こそ勝つ……っ! 準備して」

 

「うへ……相変わらず泥だらけだねぇ、シロコちゃん。今朝綺麗な制服に着替えた意味が、これじゃあ毎日台無しだよ。……で? そんな自信満々な顔をして、何かこの私に勝つための秘策でも見つけてきたのかな?」

 

ホシノは椅子の背もたれにゆっくりと身体を預け、呆れたような、けれどその実、どこか嬉しそうな楽しげな声を出す

 

「ん! 良いから、早く外の運動場に来て。絶対に、びっくりさせるから。ホシノの驚く顔が見たい」

 

「はいはい、分かったよ。そこまで言うなら、お姉さんもお付き合いしちゃおうかな。仕方ないなー……」

 

ホシノは苦笑いを浮かべながらゆっくりと腰を上げると、壁のラックにかけられていた、自分の身長ほどもある愛用の巨大な盾と、ずっしりと重いショットガンを手にとった

 

やる気満々で既に踵を返し、廊下を突き進んでいくシロコの小さな後ろ姿を追いかけ、ホシノもまた、あえて重い足取りを装いながら、広大な運動場へと歩みを進めた

 

 

「はぁ……っ! ……はぁ……っ! ……くっ……、まだ……っ」

 

それから数分後

 

遮るもののない広大な運動場の真ん中で、シロコは完全にすべての体力を使い果たし、大の字になって砂塗れの地面にひっくり返っていた。その支給されたばかりの制服はさらにボロボロに破け、白い頬には新しく黒い煤の跡が何筋も痛々しくついている

 

「んー……。それにしてもシロコちゃん、あの青いドローン、一体どこで拾ってきたの? もしかして、北校舎の裏にある『開かずの倉庫』の中をまた勝手にピッキングして漁った?」

 

ホシノは銃口を地面に下げ、シロコのすぐ傍らで完全に機能停止し、小さな火花をパチパチと散らしながら転がっている、アビドス仕様の青い小型戦術ドローンを、ブーツのつま先でツンツンと突いた

 

勝負が始まったと同時に、シロコが鋭い口笛を吹いて背後の遮蔽物の物陰からあのドローンを急出現させ、空中からの三次元的な十字砲火を仕掛けてきた時には、ホシノも流石に驚いて目を見張った。その戦術の発想自体は、決して悪くなかったのだ

 

「うぐぅ……。完璧なアイデアだと、思ったのに……。背後からの奇襲、ホシノでも防げないはずだった。計算では、当たってた」

 

シロコは悔しそうに両手で運動場の砂をギュッと掴み、じたばたと地団駄を踏むように足を動かした

 

その無表情な仮面の奥にある、負けず嫌いな熱い炎がメラメラと燃え盛っているのが、ホシノには痛いほど伝わってくる

 

「そうだね。ドローンを使った二次元と三次元の挟み撃ち、発想自体はすごく面白かったよ。ただね、シロコちゃん。武器っていうのは、自分の身体の延長線上になきゃダメなんだ。あの子の不規則な動きに君のステップが引っ張られちゃって、連携が途中で完全に瓦解してた。あの子の動きに君が合わせるんじゃなくて、君の意志で、手足のように完璧にあのドローンを支配できるようになれば……うん、いつかは私にとっても、相当手強くて恐ろしい武器になるかもね」

 

ホシノはそう言って、巨大な盾をズシンと地面に突き立てると、大の字のまま悔しさで動けないシロコの前にゆっくりとしゃがみ込み、その泥だらけの額を、包み込むように手のひらで優しく撫でてあげるのだった

 

まだ小さな、けれど驚くほどの純粋な熱量を持った後輩のひたむきさが、頑なに閉ざされたホシノの心を、ほんの少しだけ緩ませていく

 

「ん……もう1回。もう1回だけ勝負。次はドローン、もっと上手く制御する」

 

シロコはホシノの手のひらの心地よい体温に大人しく額を委ね、気持ち良さそうに耳をピコピコと動かしながらも、悔しさの滲むムスッとした表情のまま、泥に汚れた人差し指をピンと立ててホシノの鼻先に突きつけた

 

「だーめ。さっきも言ったでしょ? 勝負は一日1回まで。そうじゃないと、いくらタフなシロコちゃんの身体でも、本当にボロボロに壊れちゃうからね。先輩との約束」

 

「んんんんん……」

 

言葉の代わりに、喉の奥から小さな寂しげな猛獣のような、不満の唸り声を漏らすシロコ

 

「そんなに可愛く唸っても、駄目なものは駄目だよー。ほら、午前中あんなに激しく身体を動かしたら、もうお腹空いたでしょ? そろそろお昼ご飯の時間だし、何か食べよ?」

 

ホシノが優しく宥めるようにして提案すると、それまで不満げに尖っていたシロコの唇の端が、一瞬だけ、ニヤッとした得意げな形に歪んだ

 

水色の瞳に、勝利を確信したような光が宿る

 

「……お昼ご飯、私が作るんだけどね。ホシノは待ってるだけでいい」

 

「うぐっ……! それは……何も言い返せないよ……」

 

実戦の勝負には完勝したはずなのに、何故か生活能力の面で強烈な敗北感を味わう羽目になったホシノ

 

そんな先輩の様子をどこ吹く風とばかりに、シロコはムクっと軽快に起き上がると、先ほどまでの悔しさが嘘のように、少しだけ機嫌の良さそうな足取りで黒焦げのドローンを両手で回収し、青いマフラーをパタパタと揺らしながら一目散に調理室へと向かっていった

 

 

それから、調理室でシロコが手際よく作ってくれた、パラパラで絶品の特製チャーハンをお腹いっぱいに平らげ、二人は再び生徒会室へと戻った

 

ホシノは再び事務机に向かい、ペンを握って午前中の残りの書類仕事に取り掛かった。一方のシロコは、午前中の猛特訓による全身の筋肉の疲労と、絶品チャーハンによる心地よい満腹感が一気に押し寄せてきたのだろう。生徒会室の隅にある、すっかりスプリングのへたった革張りのソファーに小さな身体を丸めると、いつの間にか規則正しい寝息を立てて、すやすやと深い眠りに落ちていた

 

ちちち、と部屋の古い掛け時計の秒針だけが、ホシノのペン先が紙を擦る音に混ざる静かな室内。窓から斜めに差し込んでいた西日の光が、砂漠の地平線に近づくにつれて、徐々に濃い茜色へと部屋を染め上げていく

 

「……ん。これで今日の分の督促状への返信は終わり、っと」

 

カチャリとペンを置き、ホシノは大きく背伸びをした

 

窓の外を見やれば、アビドスの広大な空はすでに茜色から深い群青色のグラデーションへと移り変わり、完全に日が沈みかけていた。部屋の中もすっかり薄暗くなっている

 

ホシノは椅子から立ち上がると、ソファーの傍らに膝をついて静かにしゃがみ込み、気持ち良さそうに眠るシロコの小さな肩を優しく揺すった

 

「シロコちゃん、起きて。朝になっちゃうよー……は嘘だけど、もうすっかり暗くなっちゃったよ」

 

「んん……あぅ……まだ、撃てる……」

 

「うへえ、夢の中でまで特訓中かい? ほらほら、起きて起きて」

 

シロコは寝ぼけ眼をこすりながら、ゆっくりと上体を起こした

 

身体を優しく揺すって起こす先輩と、寝惚けながらそれに応じる後輩。その構図は、今朝アパートの薄暗い寝室で繰り広げられた光景と、ちょうど綺麗に立場の逆転した真逆のものになっていた

 

「今日も特訓で全身泥だらけになっちゃったしね。このまま帰ったらアパートの床が砂漠になっちゃう。校舎裏の浴場でお風呂に入って、さっぱりしてから帰ろっか」

 

「ん……!」

 

お風呂という単語を聞いた瞬間、シロコはパチリと完全に目を覚まし、勢いよくソファーから飛び起きた。その水色の瞳が、暗い室内でやけにらんらんと輝き出す

 

「お風呂、賛成。……今日は、ホシノから貰った、あの子の犬さんの下着を穿く日だから。お風呂上がりにつけるの、すっごく楽しみ」

 

「そ、その報告はわざわざ声に出して主張しなくてもいいんじゃないかな!? あと、何回も何回も言うけど、それは私のじゃなくて! ええっと……ここにはいない、ある人の予備だからね!?」

 

ホシノが顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げながら必死に大慌てで反論するものの、シロコはそんな先輩の狼狽ぶりをどこ吹く風とばかりに、綺麗に右の耳から左の耳へと受け流していた

 

それどころか、心なしか嬉しそうにフンフンと小さな鼻歌まで歌いながら、自分のスチールロッカーの中から、丁寧に畳まれた着替えの新しい制服を取り出していくのだった

 

 

校舎の浴場で一日の汗と汚れを綺麗さっぱりと洗い流したあと。二人は並んで、すっかり夜の帳が下りたアビドスの静かな夜道を歩いていた

 

街灯の極端に少ない暗闇の中、シロコの首元に巻かれた、あの鮮やかな水色のマフラーだけが、夜空に浮かぶ月光を浴びて仄白く浮かび上がっている。アビドスの夜は昼間の猛暑が嘘のように冷え込むが、お風呂上がりの身体はまだじんわりと温かかった

 

「それじゃあ……私、これからちょっとだけ、外に寄るところがあるから。シロコちゃんは脇見をしないで、真っ直ぐお家に帰るんだよ? いいね?」

 

路地裏の小さな分岐点に差し掛かったところで、ホシノは足を止め、シロコの目を真っ直ぐに見つめて言い含めた

 

「ん? ホシノ、どこか行くの? 一緒に行く」

 

「だーめ。ちょっとした書類の提出だからね。すぐ終わるよ。シロコちゃんは先にお家に帰って、お布団を敷いて待ってて」

 

「ん……分かった。ホシノ、遅くなったら迎えに行くから、早く帰ってきてね」

 

ホシノの言葉に、シロコは小さく、けれどしっかりと頷いた。そして、抱えた荷物が落ちないように両手で大事そうに抱え直すと、小さな両手をブンブンと大きく振り、温かい明かりの待つアパートの方へと、タッタッタと軽い足取りで小走りに駆けていった

 

(私とそんなに年齢は変わらないはずなんだけどなぁ……。やっぱり若い子は元気だねぇ、うへへ)

 

砂塵の舞う冷たい夜道を進んでいく、愛おしいその後ろ姿を見送り、完全にその気配と足音が闇に消え失せたのを確認したあと

 

ホシノの表情から、先ほどまでシロコに向けていた温和なひだまりのような灯火が、スッと消え失せた。

 

彼女はゆっくりと踵を返すと、シロコには決して明かしていない目的地――かつて激しい戦闘で廃墟と化し、今では辛うじて最低限の設備だけが稼働しているアビドス病院へと向かうために、静かに歩みを進めた

 

砂漠の静寂の中にぽつんと佇むアビドス病院の、錆びついた重い金属扉をホシノは静かに引き開け、奥の個室へと足を踏み入れる

 

静まり返った白い部屋の中に響くのは、規則的な人工呼吸器の、シュー、シューという無機質で冷たい機械音だけだった。ベッドの上には、幾本ものプラスチック管に繋がれ、まるで壊れやすいガラスの細工物のように静かに眠り続けているアビドス生徒会長、梔子ユメの姿があった

 

トリニティの総合病院からこの寂れた地へ移送されてきて以来、彼女の容体は一進一退を繰り返している

 

「ユメ先輩、こんばんは。……最近、夜は一段と冷え込みますけど、そっちは寒かったり、逆に暑かったりしませんか?」

 

ホシノは普段より少し掠れた、幼さの残る声でそう語りかけながら、ベッドサイドに置かれていた小さな花瓶の水を替え、持参した新しい新鮮な花へと手際よく取り替えた

 

それから、備え付けの古いパイプ椅子に、極力音を立てないよう静かに腰を下ろす

 

「……今日もね、シロコちゃんには『ホシノ、ホシノ』って呼び捨てにされちゃいました。何度言い聞かせても、全然『先輩』って呼んでくれないんです。……ねぇ、ユメ先輩。実は先輩も、アビドスに入った当初の生意気だった私に、これくらい苦労させられてたりしたんですか?」

 

ホシノの少し拗ねたような、甘えるような問いかけに、当然ながらユメは何の言葉も返さない

 

ただ、人工呼吸器の無機質なリズムに合わせて、その淡い胸が小さく上下するだけだった。そのあまりにも残酷な静寂が、ホシノの胸の奥をキリキリと締め付ける

 

「……それにね、シロコちゃんの料理のスキルが、また一段と上がっちゃって。なんだか、私の方がひとつ歳上のはずなのに、すっかり隠居してお世話されてるお年寄りみたいな気分ですよ。このままだと、私、本当に駄目な大人になっちゃいそうです」

 

ベッドの上のユメと対峙している時だけは、ホシノの口調は、あの「1年生の頃」の、ユメに甘えたくても素直になれなかった頃の話し方へと自然に戻っていた

 

無理にお姉さんぶって背伸びをする必要のない、誰かの庇護下にあった頃の、ありのままの「小鳥遊ホシノ」

 

けれど、ユメの固く閉ざされた瞼を見つめるうちに、ホシノの瞳は徐々に、暗く深い後悔の影に覆われていった。膝の上で、自分の小さな手をギュッと強く、指先が白くなるほどに握りしめる

 

「……そういえば、先輩にはずっと言えなかったんですけど……。ヒナとは、あれから一度も連絡を取っていないんです。……いえ、『していない』んじゃなくて……本当は、怖くて、私からはどうしても出来ないんです」

 

脳裏に、あの夜のトリニティ総合病院の待合室の光景が、鮮烈な痛みを伴って蘇る

 

自分の忠告を無視され、一人で何もかもを抱え込まれ、ボロボロになったホシノを前に、膝の上の小さな手を強く、白くなるほどに握りしめていたヒナの姿

 

あの時の自分は、ただひたすらに心の余裕を失っていて、ユメ先輩のことや白子のことで頭がいっぱいで、ヒナがどれほどアビドスを、そして友達である自分のことを心配してくれていたのかを思いやる優しさを持てていなかった。差し伸べられた温かい手を、頑なな態度と冷徹な拒絶の言葉で、一方的に振り払ってしまったのだ

 

『……ヒナは……他の学校の『生徒』だよ…これ以上無関係なヒナには関係ないよ』

 

そんな、心にもない冷たい言葉を突きつけられた時、最後に見たヒナの、激しい怒りと、それ以上に張り裂けそうなほどに悲しそうだった顔が、今も網膜に焼き付いて離れない

 

あの時、もっと違う言い方ができていれば、ちゃんと頼ることができていれば、あんなに彼女を傷つけることはなかったはずなのに

 

そんな後悔の念が、鋭い棘となって今もホシノの胸をチクチクと刺し続けている

 

「……私たち、いつか、ちゃんと仲直りが出来る時が来るんでしょうかね。……うへ、私、ちょっと弱気になっちゃったかな」

 

困ったように、自嘲気味な笑みを浮かべてユメに語りかけるホシノ。けれど、その乾いた笑い声も、部屋の白い壁に虚しく吸い込まれて消えるだけだった

 

「それじゃ……シロコちゃんも、お家で待っててくれてると思うので。……また、来ますね。ユメ先輩」

 

ホシノはゆっくりと立ち上がり、もう一度だけ先輩の穏やかな寝顔を目に焼き付けると、静かに背を向けた。扉の方へと歩き、ゆっくりと、音を立てないように開けて廊下へ出る

 

病院の外へ出ると、夜の帳はさらに深く降りており、周囲は完全な静寂と闇に包まれていた。冷たい砂漠の夜風が、ホシノの火照った頬を優しく撫でる

 

カバンにつけた大切なアビドスのお守りをギュッと握りしめ、ホシノは誰にともなく、小さく呟いた

 

「……早く、帰らないと。あの子が、お家で待ってる。私がいないと退屈して、またロッカーのピッキングとか始めちゃうかもしれないしね」

 

冷え切った夜気の中に、ふっと白い息を吐き出しながら、ホシノは自分のマフラーを少しだけきつく巻き直した。そして、温かい明かりと愛しい後輩の待つ我が家を目指して、暗い夜道を急ぎ足で歩き始めるのだった

 

 




読んでくださった方へ…1つ前のやつ(全てを失ったホシノと謎の少女)を新しく出しています

順番的にこっちが後になります…豪華2本立て…((
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