白子とシロコ   作:気弱

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シロコの欲しいもの

「ん……。今日の晩御飯は、ビーフシチュー……。それも、お肉がいっぱい入ったやつ」

 

アビドス自治区の一角に残る、すっかり寂れた商店街

 

砂風に晒されて色褪せた看板が並ぶ中、シロコは一軒の精肉店のガラスショーケースの前に立ち、ガラスに鼻先を押し付けんばかりの勢いで中を覗き込んでいた

 

その小さな眉間には、これ以上ないほど深い皺が刻まれており、まるで国家の重大な機密文書でも解読しているかのような、凄まじく難しい顔をしている

 

「おや、そこにいるのはシロコちゃんじゃないかい?」

 

量りの上で置かれた肉を包丁で切り分けていた、猫の獣人である店主が、ガラス越しの気配に気づいて顔を上げた

 

ピコピコと動く大きな耳を揺らし、人の良さそうな笑みを浮かべて声をかけてくる

 

「ん……。店主さん、こんにちは」

 

シロコはショーケースからパッと顔を離すと、頭の上の獣耳を一度だけ小さく跳ねさせ、丁寧にお辞儀をした

 

「おう、こんにちは! 今日はこれからお夕飯の買い出しかい? 肉料理にするのかね?」

 

「そのつもり。ホシノに美味しいものを食べさせたいから、ビーフシチューにしようと思って。……でも、牛肉はやっぱり少し高いから、お財布と相談中。むむむ……」

 

シロコは再びショーケースの中の、綺麗にサシの入った牛肉の塊を見つめながら、喉の奥で「むむむむ」と低く唸り始めた

 

小さな指先で、ホシノから預かってきた生活費の入ったがま口財布を何度も開け閉めし、真剣に計算を繰り返している

 

店主は、そんなシロコの愛らしい様子を、目元をすっかり細くして眺めていた

 

シロコ本人は全く無自覚だったが、ホシノと二人でアパートでの共同生活を始めてから数日、料理担当を自任した彼女がこうして一人で買い物に出歩く姿は、いつの間にかこのアビドス商店街の店主たちの間で、隠れた「オアシス」であり、ちょっとしたアイドル的な存在になっていたのだ

 

砂漠化が進み、若い学生の姿がほとんど消えてしまったこの街で、アビドスの制服を小さく着こなした女の子が、一生懸命にお財布を握りしめて歩いているだけでも、大人たちにとっては目に入れても痛くないほど愛おしい光景だった

 

「ほうほう、ビーフシチューかい! それはいい。よし、それなら少しばかりまけてあげるから、他所に行かないでうちの肉を買っていきな!」

 

「え……いいの? おじさん、損しちゃう」

 

「いいのいいの! 商店街の仲間うちで、頑張る学生さんを応援するのは当然の義務だからね!」

 

店主はポンと自分の頑丈な胸を叩くと、豪快に笑った

 

「ん……! それじゃあ、牛肉をください。……えーと、予算的に、250グラム!」

 

シロコの水色の瞳が、待ってましたとばかりにキラキラと輝き出した

 

小さな人差し指で、ショーケースの奥にある一番質の良さそうな赤身の塊をビシッと指さす

 

「あいよ! 特上のところを切り出すから、ちょっと待ってな」

 

店主は慣れた手付きで巨大な肉の塊からナイフで豪快に肉を切り出すと、量りにも載せず、そのまま素早く透明な袋へと詰め込んでいった

 

「はいよ、お待ち遠さま!」

 

手渡された袋を受け取ったシロコは、そのずっしりとした重量感に、思わず目を丸くした

 

「……おじさん。これ、多いよ。250グラムの重さじゃない。袋がパンパン」

 

「がはは、気にすんな! いつもアビドスのために頑張って、健気に買い物してるシロコちゃんへの、おじさんからの特別なオマケだ。一緒に住んでるホシノちゃんにも、美味しいお肉をたくさん食べさせて、元気をつけさせてあげな。二人とも、まだまだ育ち盛りなんだからさ」

 

ニコニコと顔を綻ばせる店主が手渡してくれた袋には、どう見ても、確実に500グラム、いやそれ以上の大容量の牛肉がパンパンに詰まっていた

 

「ん。おじさん、ありがとう。ホシノと大事に食べる」

 

シロコは嬉しさを噛み締めるようにコクコクと深く頭を下げると、きっちり250グラム分のお金を支払い、お肉の入った袋を胸に抱きかかえるようにして、小走りで次の店へと向かった

 

その後も、シロコの買い物は幸運の連続だった

 

八百屋に立ち寄り、ビーフシチューの彩りに必要なブロッコリーと人参を品定めしていた時にも、頑固そうな顔をした太めのロボットの店主が、「これ持っていきな!」と言って、頼んでもいない大きなジャガイモと玉ねぎをいくつもカゴに放り込んでくれたのだ

 

結果として、ホシノから「これで今日のおかずを買ってきてね」と手渡されていたお小遣いは、予想を遥かに超える大半が残る形になってしまった

 

「ん……。アビドスの商店街の人達、みんなすごく良い人。あったかい」

 

帰りがけの小さな商店で、シロコはシチューの隠し味にするための調味料を揃え、お財布の中のたっぷり残ったお釣りを確認しながら、普段は滅多に見せないニコニコとした満足げな表情で帰路につこうとしていた

 

しかし、その帰り道の途中のことだった

 

「……っ」

 

シロコは、ある個人経営の古びた店舗のショーケースの前で、文字通り釘付けになり、ピタリと足を止めてしまった

 

そこは、色褪せた看板を掲げた小さな自転車屋だった

 

シロコの視線の先に飛び込んできたのは、薄暗いショーケースのライトを浴びて、鈍い金属光沢を放っている一台の「ロードバイク」

 

それは流線型の美しいフォルムを持った、鮮やかで深い青色のフレームのスポーツバイク。そしてその背後には、まるでセットであるかのように、プロが着用するような洗練されたデザインのサイクリングジャージと、レーサーパンツがマネキンに飾られていた

 

(か、かっこいい……っ!)

 

シロコは買い物袋を抱えたまま、一歩、また一歩と引き寄せられるようにガラスへと近づき、そのままショーケースにぴったりと張り付いた

 

水色の瞳が、今までにないほどの熱量で激しく燃え上がっている

 

(……これがあれば。この自転車があれば、アビドスの…ううん、キヴォトスのどこにだって、自分の足で、もっと遠くまで行ける)

 

シロコの脳内で、一瞬にして鮮明なイメージが駆け巡った

 

あの青い自転車に跨り、強い砂風を切り裂きながら、どこまでも続くアビドスの外周道路を爽快に全力疾走する自分の姿

 

これがあれば、毎日の学校への登下校も、こうして商店街まで買い出しに来る移動の時だって、何倍も楽になる。そして、あの体にぴったりとフィットした機能美溢れる専用のウェアに身を包むことによって、今の制服姿よりも、圧倒的な「かっこよさ」が自分に追加されるに違いない

 

欲しい。何としてでも、死んでもこれが欲しい

 

シロコはごくりと唾を飲み込み、胸ポケットから先ほどのお釣りが詰まったがま口の財布を取り出して、中を見つめた

 

お肉屋さんや八百屋さんの店主たちの破格の優しさのおかげで、当初の計算よりも想像以上にお金は残っている。だが、目の前の、値札に書かれた数字のスポーツバイクを買うには、これっぽっちの小銭では圧倒的に、絶望的なまでに足りなかった

 

「……」

 

シロコは一瞬だけ、無表情のまま、自分の背中に背負っている愛用のアサルトライフルへと視線を落とした

 

(……これを引き抜いて、中に入って、銃口を突きつければ。そうすれば、このかっこいい青い自転車も、服も、全部タダで手に入る……)

 

そんな危険極まりない、野宿生活時代の荒々しい思考が脳裏をかけ、シロコの手がゆっくりと、背中のライフルのグリップへと伸びようとした

 

しかし――その指先が金属の冷たさに触れる直前で、シロコの動きがピタリと止まった

 

(……だめ。そんなことをしたら、商店街の人が悲しんじゃう)

 

この自転車屋の店主とは、まだ話したこともないし、今日初めて立ち寄った。けれど、ここも間違いなく、あのアビドス商店街の一部なのだ

 

きっと、先ほど自分にお肉やお野菜をたくさんオマケしてくれた、あの優しい店主たちとも、何らかの繋がりや深い関わりがあるはずだった

 

自分に対して、あんなにも温かい笑顔を向けて、優しくしてくれたアビドスの人たち

 

その人たちが、自分の犯した罪のせいで、悲しそうな顔をしたり、怯えたりする姿だけは、どうしても見たくなかった

 

「……ん。ここの、強盗は、ダメ」

 

シロコは引き結んだ唇から小さく呟きを零すと、背中からスッと手を下ろした

 

もう一度だけ、後ろ髪を引かれるような思いでショーケースの中の美しい青いロードバイクを見つめてから、シロコはぎゅっとお肉の袋を抱き直した。そして、ほんの少しだけ肩を落とし、夕暮れの長い影を引きずりながら、ホシノの待つ小さな我が家へと向かって、とぼとぼと歩き始めるのだった

 

 

それから数日後のこと

 

がらんとしたアビドス本校の生徒会室で、ホシノは一人、木製の事務机に向かって黒いボールペンを走らせていた。しかし、その手元はいつものように素早く的確に動くわけでもなく、数行書いてはピタリと止まり、また少し書いては止まりを繰り返している

 

「ふ、んん……」

 

椅子の背もたれに体重を預け、凝り固まった身体をほぐすように大きく背伸びをすると、ホシノはカチャリとペンを置いた。そして、あてどなく視線を彷徨わせ、すぐ横の大きな窓の外へと目を向ける

 

窓の向こうには、冬枯れの乾いたアビドスの広大な砂漠が広がっており、お昼時の陽射しがさんさんと室内へ降り注いでいた

 

(暦の上ではもうすっかり冬になっているはずなんだけどなぁ……。今日はなんだか、少しだけ汗ばむくらい暑く感じるほどのいい天気だねぇ……)

 

「うへ……」

 

いつもの締まりのない口癖を小さく漏らし、ホシノはぽりぽりと頭を掻いた。しかし、のんびりとした仕草とは裏腹に、そのオッドアイの瞳の奥には、どこか晴れない、少しだけ困ったような複雑な表情が浮かんでいる

 

窓の外を見つめたまま、彼女の思考は自然と、ここ最近の「おかしな後輩」のことでいっぱいになっていた

 

(うーん……。何かあったのかなぁ、シロコちゃん……)

 

頬杖をつきながら、ホシノは再び手元の書類に視線を落とした。けれど、やっぱりペンは進まない

 

最近のシロコの様子がどこかおかしいのは、間違いのない事実だった。だけどそれが、何か無茶な荒事を企んでいるだとか、悪いことをして必死に隠そうとしているだとか、そんな風な不穏な感じでは決してない

 

むしろ、妙に規則正しく、妙に真面目で、何か大きな目標に向かってひた走っているような……そんな健気でひたむきな空気感が、今の彼女からはひしひしと伝わってくるのだ

 

「ホシノ、浴場の方、雑巾がけまで全部終わったよ」

 

ガラリと年季の入ったスライド式の扉が開いて、噂をすれば影、お目当ての後輩が中に入ってきた

 

その小さな頭には、なぜか白地に小さな花柄があしらわれた三角巾をちょこんと被り、両手には自分の背丈よりも少し大きな竹箒をがっしりと握りしめている

 

額にはうっすらと健康的な汗の粒が浮かんでおり、衣服の袖をきっちりと捲り上げたシロコは、「どう?」と言わんばかりに、ふんすと鼻を鳴らして誇らしげに胸を張っていた

 

埃を被らないようにと彼女なりに工夫したスタイルなのだろう

 

そのあまりにも微笑ましく、愛らしい姿に、ホシノは先ほどまでの深刻な考えを吹き飛ばされ、思わず目元を緩ませてしまう

 

「うへぇ、シロコちゃんお疲れさま〜。相変わらず仕事が早いねぇ。いつも本当に助かっちゃうなぁ。……はい、それじゃあお約束の、今日のお駄賃だよね」

 

「ん!」

 

ホシノは苦笑しながら、スカートのポケットから使い古されて柔らかくなったがま口の財布を取り出すと、丁寧に四つ折りにされた一枚の紙幣を引き抜き、シロコの前へと差し出した

 

「はい、どうぞ」

 

「ん。確かに受け取った」

 

それを見た瞬間、シロコの水色の瞳が分かりやすくパッと輝く

 

彼女は竹箒を壁に立てかけると、両手で恭しく紙幣を受け取り、自分のスクールバッグの中から、宝物でも扱うかのように大切そうに一つの缶詰型の貯金箱を取り出した

 

パチン、と細い投入口からお札が押し込まれる鈍い音が響き、シロコは満足そうに貯金箱の重さを確かめるように小さく振った。チャリン、チャリンと、中でこれまでに貯まった小銭とお札が擦れ合う音が、静かな生徒会室に響く

 

ここ最近、シロコの方から『学校の掃除や、備品の手入れ、倉庫の整理なんかをする代わりに、少しでもいいからお小遣いが欲しい』と、真剣な眼差しで提案してきたのだ

 

最初は、年頃の女の子だし、何か個人的に欲しいコスメや可愛いキーホルダーでもあるのかな、とホシノは思った。もしシロコが何かを欲しがっているのなら、自分としては、それこそ犯罪以外のどんな手を使ってでも、先輩としてお金を工面して買ってあげるつもりだったのだ

 

「お姉さんに甘えていいんだよ」と、そのときは優しく微笑みかけてみた

 

しかし、そのことをそのまま伝えた時のシロコはふるふると首を横に振る

 

『ダメ。何もしてないのに、ホシノから一方的にお金を貰うのはいや。ちゃんと自分で働いて、その対価として貯めたいの。……それに、これは私の力で手に入れたいから』

 

そう頑なに断られてしまい、今の「お駄賃制度」に至る

 

「……ん。今日も確実に一歩、前進した」

 

「あはは、満足そうで何よりだよ。でも、あんまり根を詰めすぎて倒れないでおくれよ?」

 

「大丈夫。私の体力、ホシノが一番よく知ってるはず」

 

(うへぇ、本当に真面目というか、なんというか……。一体何のために、あんなに一生懸命お金を貯めてるんだろうねぇ……)

 

コツコツと貯金箱に財産を蓄えていくシロコの小さな背中を見つめながら、ホシノはどこか誇らしく、そしてそれ以上に、やっぱり不思議でたまらないといった様子で、心の中で首を傾げるのだった

 

 

「ん、じゃあ私、今日はお買い物して帰るから先に行くね。……今日はコロッケの予定だよ。サクサクの揚げたてを食べるべき、ホシノも寄り道しないで帰ってきてね」

 

夕暮れ時。オレンジ色の光が教室の床に長い影を落とす頃、シロコは手際よく自分のスクールバッグを肩にかけると、振り返ってそう告げた

 

いつもより少しだけ早足なその足取りからも、彼女の「目的」へのひたむきさが伝わってくるようだった

 

「あはは、そうだねぇ。私もシロコちゃん特製の揚げたてコロッケは絶対に逃したくないし、なるべく早く帰れるように頑張っちゃおうかな」

 

ホシノは緩みそうになる頬を意識して引き締め、いつものようにのんびりとした調子で手を振りながら、教室の扉から出ていく後輩を見送った

 

パタン、と木製の重い扉が閉まり、廊下を駆けていくリズミカルな足音が次第に遠ざかっていく

 

「……さてと」

 

足音が完全に聞こえなくなったのを確認した瞬間、ホシノの目がきらりと光った

 

いつもの気怠げな雰囲気は霧散し、まるで獲物を見つけた猫のような敏捷さで、机の上にあった書類を素早く束ねて鞄に押し込む

 

「お姉さん、ちょっとだけ悪い子になっちゃおうかな?」

 

普段の寝癖だらけの髪を隠すように帽子を深く被り、変装用の薄いコートを羽織ると、気配を殺して滑り出すように生徒会室を後にした

 

(うへー……やっぱりシロコちゃん、普通に歩いてるつもりでも足が速いなぁ……。もうあんなところまで行っちゃったの?)

 

校門を飛び出し、砂埃の舞う一本道を急いで追いかけたものの、日頃からトレーニングで鍛えているシロコの脚力は尋常ではない

 

曲がり角をいくつか過ぎた頃には、すでにその小さく揺れる銀髪と狼の耳を見失ってしまっていた

 

だが、ホシノは慌てずに口元を綻ばせる。彼女が「今日の晩御飯はコロッケ」だと事前に教えてくれたおかげで、立ち寄る場所の予測は完全に立っている

 

この先にある、寂れた商店街の片隅で営まれている唯一の肉屋だ

 

(本当はこういうの、シロコちゃんのプライベートなんだから、私が無粋に邪魔しちゃいけないとは思うんだけどねぇ……。でも、あんなに一生懸命にお金を貯めてる姿を見せられたら、どうしても気になっちゃうよ)

 

夕暮れの路地裏をコソコソと隠れながら進む我が身に、少しばかりの罪悪感を覚えつつも、ホシノは好奇心と後輩への過保護な心配性に突き動かされて歩みを進めた

 

商店街の入り口までたどり着き、お目当ての肉屋の軒先が見える建物の陰に身を潜める

 

すると、夕飯時の買い物客もまばらな店先から、馴染み深い、少し低めで落ち着いた声が聞こえてきた

 

「お、シロコちゃん! いらっしゃい、今日も来てくれたのかい」

 

猫の獣人である店主のおじさんが、ねじり鉢巻を直しながら、店の奥から嬉しそうに顔を覗かせた

 

大きな耳が歓迎を示すようにピコピコと動いている

 

「ん。おじさんのところのお肉、安くてすごく美味しいから。今日はコロッケにするって言ったら、ホシノも喜んでた」

 

シロコは抱えたカバンをそっと押さえながら、心なしかいつもより少しだけ声を弾ませて答えている

 

「ハハハ! 嬉しいことを言ってくれるねぇ、シロコちゃんは! よし、それなら今日も美味いひき肉をしっかり選んで、またオマケしちゃうよ! ジャガイモに負けないくらい、肉たっぷりの贅沢なコロッケにしな!」

 

「ん、ありがとう。おじさん。でも、あんまりオマケが多いと、お店が赤字になっちゃう」

 

「気にするなってことよ! 頑張る学生さんを応援するのは大人の役目だからね!」

 

ショーケース越しに繰り広げられるその温かいやり取りを、電柱の影からそっと覗き見ながら、ホシノは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた

 

(ふむふむ……。シロコちゃん、いつの間にかすっかり商店街の人たちと仲良しだねぇ。アビドスの街の人に可愛がられてるみたいで、うん、お姉さんとしてはすごくいい事だと思うな)

 

優しく目を細め、後輩の成長を喜ぶ親のような気持ちに浸るホシノ

 

その後、シロコがトコトコと歩いて向かった先の八百屋さんでも、全く同じような温かい光景が繰り広げられていた

 

「おぅ、シロコちゃん! 今日も偉いねぇ。ほら、コロッケならこの泥付きのジャガイモが一番ホクホクして美味いんだ。玉ねぎも甘いやつを選んどいたからね」

 

頑固そうな顔をした太めのロボットの店主が、無骨なアームで立派な野菜を次々と袋に詰めてくれている

 

シロコは頭の上の耳を嬉しそうに動かしながら、何度も小さくペコペコと頭を下げていた

 

「ん。ありがとう、店主さん。大事に料理する」

 

そのひたむきで愛らしい姿が、この寂れかけた商店街の大人たちにどれほど深く愛されているのかが、見ているだけで痛いほど伝わってくる

 

ホシノの胸の奥には、まるで我が子の授業参観を見守る親のような、誇らしくて堪らない、じんわりとした嬉しい気持ちが溢れて止まらなかった

 

(ふふ、あんなに上手に一人でお買い物ができるなんてねぇ……。でも、んー……)

 

ホシノは再び建物の陰に身を潜めながら、小さく首を傾げた

 

(今のところ、シロコちゃんがそこまで必死になってお金を貯める理由になりそうなものは、何も見当たらないよね)

 

八百屋さんでもお肉屋さんでも、シロコは今夜のメニューであるコロッケの材料以外には、一切余計なものに興味を示さなかったのだ。買い食いをするわけでもなければ、女の子らしい可愛い雑貨を眺めるわけでもない

 

そもそも、その日の夕飯の材料を買うだけなら、毎朝ホシノが手渡している生活費だけで、お釣りが来るくらいには何の問題もなく賄えるはずなのだ

 

わざわざ学校の掃除を自ら買って出てまで、コツコツとお駄賃を貯金箱に貯め込む必要性が見つからない

 

(……あ。シロコちゃん、また歩き出しちゃった。うへ…そろそろ商店街の通りも終わって、お家へ続く暗い夜道に入っちゃうよ?……もしかして、今日はこれ以上つけても理由は分からないままかなぁ)

 

夕暮れの茜色の光がすっかり退き、アビドスの冷たい夜の帳が周囲を包み込み始めていた。これ以上コソコソと後を追いかけるのも、さすがにフェアじゃない

 

そろそろ電柱の影からひょっこり姿を現して、変装用の帽子を脱ぎ、「やぁやぁシロコちゃん、奇遇だねぇ」と声をかけて、一緒に並んで帰ろう

 

ホシノがそう決意し、一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった

 

「ん……」

 

商店街の最果て、ほとんど人通りの途絶えた薄暗い路地の角で、シロコが突然ピタリと足を止めた

 

吸い寄せられるようにして、ある一件の小さなお店の前に歩み寄り、ガラスのショーケースをじっと食い入るようにして覗き込み始めたのだ

 

その背中はどこか緊張しており、先ほどまでのお買い物で見せていた穏やかな雰囲気とは、明らかに違う張り詰めた空気を纏っていた

 

(おや……? あそこは……確か、自転車屋さん、だったっけ?)

 

ホシノは思わず踏み出した足を止め、再び影へと身を潜めて異色瞳を凝らした

 

シャッターが半分閉まりかけたその古い自転車屋のショーケースの奥で、薄暗いスポットライトを浴びて妖しくも美しく輝いている、鮮やかな青色のロードバイク。そして、それに寄り添うように飾られた、洗練されたデザインのサイクリングウェア

 

シロコはコロッケの材料が詰まった買い物袋を胸の前にぎゅっと抱きしめたまま、夕暮れの街角で微動だにせず、ただ真っ直ぐにその青い世界を瞳に映し出していた

 

その小さな横顔は、言葉を失うほどに真剣で、どこか切なげで、狂おしいほどの憧れに満ち満ちている

 

(なるほどねぇ……。シロコちゃん、あれが欲しかったんだ。ふふ、それじゃあ、いつも私を振り回してばかりの後輩ちゃんを、ちょっとだけ驚かしてあげようかな)

 

ホシノは悪戯っぽく目を細めると、頭に被っていた変装用の帽子を静かに脱いで鞄の奥へと押し込んだ。そして、気配を完全に消すアビドス最高の戦士としての技術をこんなところで無駄に発揮しながら、一切の足音を立てずにシロコの真後ろへと忍び寄る

 

「シーローコーちゃん♪」

 

がばりと後ろから抱きつき、その細い身体を柔らかい熱量で包み込んだ

 

「!?……ほ、ホシノ……っ! びっくりした……」

 

不意を突かれた仔狼のように、シロコは面白いほど肩を跳ね上げて驚いてくれた

 

耳がピンと逆立ち、大きな水色の瞳が珍しく丸く見開かれている

 

「うへへ、大成功。で、こんなところで何してたの、シロコちゃん?」

 

ホシノはシロコの肩に顎をちょこんと乗せたまま、ガラスの向こうを見つめてわざとらしく首を傾げた。シロコから漂う、先ほどの肉屋の油の匂いと、八百屋の土の匂いが鼻腔をくすぐる

 

「うっ……な、なんでもない。ただの、寄り道。ホシノこそ、どうしてここに」

 

シロコは動揺を隠すように、すぐにいつものぶっきらぼうな無表情に戻ろうとするが、抱きしめた身体が微かに強張っているのがホシノには筒抜けだった

 

「えー? そんな風には全く見えなかったけどなー。完全にガラスに吸い込まれそうな勢いだったよ?」

 

「……何時から、見てたの」

 

シロコは観念したように小さなため息を漏らし、ジト目になって背後のホシノを振り返った

 

「んー? 何時からかなー。お肉屋さんで可愛い笑顔を振りまいてたあたりからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。お姉さん、忘れっぽいから分からないかも〜」

 

「んんんんん……。ホシノ、いじわる。ストーカーは犯罪」

 

「うへえ、ストーカーだなんて人聞きが悪いなぁ。ちょっと心配性の先輩が、可愛い後輩のうしろをトコトコ歩いていただけだよ?」

 

ホシノのわざとらしいはぐらかしに、シロコはいつものように喉の奥で唸りながら、不満げに頬をぷくーっと大きく膨らませた

 

その姿がまた可笑しくて、ホシノは胸の内でくすくすと笑う。しかし、すぐにその視線をガラスの向こうへと戻した

 

「あのさ、シロコちゃん。……あの自転車、欲しいの?」

 

「!」

 

ホシノが核心を突くように、ガラスの向こうの青いロードバイクを指さすと、シロコは分かりやすくサッと視線を斜め下へと逸らした

 

耳が気まずそうにぺこりと伏せる

 

そのあまりにも素直で分かりやすい反応が愛おしくて、ホシノの表情には自然と優しい笑みが浮かんでいた

 

「買ってあげようか? お姉さん、これでも一応は先輩だしさ。これくらいなら、なんとか工面できないこともないよ?」

 

「……だめ。私のお小遣いを、ちゃんと貯めて買う」

 

ホシノの提案に、シロコは一瞬だけ心が揺れたように小さく眉を動かしたが、すぐに自分のスクールバッグの奥にある、あの缶詰型の貯金箱が入ったあたりを衣服の上からそっと触りながら、断固とした口調で答えた

 

ホシノ自身もシロコがお金を貯めて買うこと自体は否定はしていない

 

しかし

 

「うん、そうだね。私も本当は、シロコちゃんが自分で一生懸命頑張って貯めたお金で、大好きなものを買って欲しいなって思うよ。でもさ……今のシロコちゃんのお駄賃のペースだと、あの金額に届くのが一体いつになるか、お姉さんにもちょっと分からないよ?」

 

ガラスに貼られた値札には、シロコのお小遣いとしては途方もない額の数字が並んでいる

 

今のままコツコツと学校の掃除をするだけでは、何ヶ月、あるいは何年かかるか分からない

 

「……それでも、貯める。自分で、貯めて買いたい」

 

「……その理由、聞かせてもらってもいい?」

 

「それは……その……ただ、貯めて、買いたいから。自転車があれば、もっと遠くまで行けるし、トレーニングの効率も上がる」

 

シロコの声は静かだったが、その視線がガラス越しに、ロードバイクの本体からその下に飾られている「サイクリングウェア」のマネキンへと、不自然に下がっていくのをホシノは見逃さなかった

 

無表情な仮面を被ってはいるが、彼女の視線はあまりにも雄弁で、あまりにも素直だった。その仕草の意図を、鋭いホシノが察しないはずがなかった

 

「……本当に、それだけ?」

 

ホシノは抱きしめる腕に少しだけ力を込め、シロコの耳元で意地悪く囁く

 

「んっ……」

 

「私はさ、嘘をつかない、素直なシロコちゃんが大好きだなー。シロコちゃんが私を頼れない理由を教えて欲しいな」

 

「……ホシノ、ズルい。そういう言い方、卑怯」

 

観念したかのようにシロコは小さく呟き、ふう、と長い息を吐き出した。狼の耳が完全にペタンと寝てしまう

 

「うへへ、先輩っていうのはね、時と場合によってはとってもズルい生き物なんだよ?」

 

ホシノが勝ち誇ったように笑うと、シロコはぽつりぽつりと、胸の奥に秘めていた本当の想いを言葉にし始めた

 

「……ホシノ。アビドスには、たくさんの借金があるんだよね……」

 

夕闇が迫る静寂の中で、シロコの口から飛び出したそのあまりにも重い単語に、ホシノの身体が一瞬だけ、硬直した

 

「……え? どうして、シロコちゃんがそう思うの?」

 

「前に、自転車を見た日…頼もうとした時に、生徒会室の床に書類が落ちてたの、見たから。カイザーローンって書かれた、すごい桁の請求書。だから……知ってる。アビドスが、すごく大変なことになってるの」

 

「うへぇ……。やっちゃったなぁ……」

 

ホシノは心の中で激しく舌を打った。あの膨大な借金のことについては、アビドスに籍を置く以上、いずれはシロコにもバレることだと分かってはいた

 

今はまだ自分とシロコの二人きりの学校だからこうして隠し通せているが、これから先、もし他の新しい後輩たちが入ってきてしまえば、学校の財政状況なんてものは真っ先に共有される現実だ

 

そこは仕方のないことだと、頭では割り切っていた

 

だが、それでも――せめて、次の新しい後輩たちが入ってくるまでは。このアビドスという傷だらけの学校で、シロコには何の重圧も、大人の汚い事情も知らずに、ただただ楽しく、健やかに普通の学生生活を送っていて欲しかったのだ

 

ユメがかつて自分にそうしてくれようとしたように

 

しかし、知られてしまったものは、もう仕方がなかった。ホシノはすぐにいつものへらへらとした笑みを顔に貼り付け、シロコの頭を優しく撫でた

 

「あはは、知っちゃったかー。流石はシロコちゃん、目ざといねぇ。でもさ、そんなの全然大丈夫だよ? 借金のことは全部私がお姉さんとして解決するし、シロコちゃんが欲しいものなら、私、本当に何だって買ってあげるからさ。だから、そんなに遠慮しないで――」

 

「……やだ」

 

シロコはホシノの言葉を遮るように、短く、けれど明確な拒絶の意志を込めて、そう呟いた

 

「うへえ……シロコちゃんは本当に頑固だねぇ……」

 

後輩のあまりにも頑なな横顔に、ホシノは困ったような苦笑いを浮かべるしかなかった

 

いつだってマイペースで、一度言い出したら絶対にテコでも動かない性質だということは短い共同生活の中でもよく分かっていたつもりだったけれど、まさかこれほどまでに強固な壁となって自分の提案を跳ね返してくるとは思わなかったのだ

 

けれど、シロコは伏せていた狼の耳を微かに震わせると、胸の前の買い物袋をさらにぎゅっと強く抱きしめ、消え入りそうな、けれど確かな芯のある声で言葉を紡いだ

 

「……だって。ホシノ、すごく辛そうだから」

 

「……え?」

 

背後から抱きしめていた両腕の中で、シロコの小さな身体が微かに強張る

 

想定していなかった後輩からの言葉に、ホシノの思考は一瞬で真っ白に固まってしまった

 

「な、何を言ってるの、シロコちゃん。お姉さんが辛そうなんて、そんな訳ないじゃない。毎日シロコちゃんの美味しいご飯を食べて、昼間は確かに大変だけど夜は……」

 

「嘘。ホシノ、目の下にずっと、黒い隈がある。……夜、私が寝たあと、いつも起きて何かしてる。眠れないほど、アビドスのことで頭がいっぱいで、大変なんだよね。それなのに、私に高い自転車を買い与える余裕なんて、ないはず。私は、ホシノの重荷になりたくない」

 

「それは……っ」

 

息を詰まらせたホシノは、言い訳を並べようとした口をアザラシのように開けたまま、言葉を失った

 

「そんなことないよ? 私、毎日シロコちゃんと一緒にたくさん眠ってるから、むしろ寝不足どころか寝過ぎなくらいでさ……」と言葉を続けようとしたものの、その声は自分でも驚くほど上擦り、ひどく頼りなく夕闇の街角に消えていった

 

動労を隠せないまま、ホシノはチラリと、自分たちの姿を鏡のように反射している自転車屋のショーケースへと視線を向けた

 

薄暗いガラスの向こうには、鮮やかな青色のロードバイクの影に隠れるようにして、愛しい後輩に背後からしがみついている、一人の少女の姿が映し出されている

 

淡いピンク色の長い髪、左右で色の異なる歪なオッドアイ。そして――シロコが指摘した通り、その瞳の真下には、夜の闇よりもなお色濃く、痛々しいほどの漆黒の隈がくっきりと刻み込まれていた

 

(しまった……。確かに、ユメ先輩のいる病院に通ったり、夜中に一人で過去の膨大な債務書類をひっくり返して計算したりして、まともに眠れていなかったのは事実だけど……。まさか、自分でも気づかないうちに、ここまで酷い顔になってたなんてね)

 

毎日すぐ隣で自分のことを見つめてくれている後輩の観察眼を、完全に甘く見ていた。ホシノは自嘲気味に内心で奥歯を噛み締め、己の不甲斐なさに胸を痛めた

 

隠し通せていると思っていた傷口を、一番傷つけたくないはずの幼い後輩の手で、優しく、けれど真っ直ぐに触れられたような感覚だった

 

シロコはガラスに映るホシノの隈のある目をじっと見つめ返しながら、がま口の財布が入ったカバンの紐をこれ以上ないほど強く握りしめた

 

「だから……ホシノだけにこれ以上、お金のことで無理をさせたくない。学校のお掃除でも何でも、私にできるホシノのお手伝いをたくさんして、自分の力でちゃんとお金を貯めて……それで、あの自転車を自分で買うの」

 

シロコの小さくも鋼のように硬い決意の言葉が、アビドスの静まり返った夜の路地に響いた

 

ホシノはシロコのその真っ直ぐすぎる覚悟に、何一つ言葉を返すことができなかった

 

これ以上、アビドスという名の重荷で幼い後輩を困らせたくなくて、苦しい現実も、押し潰されそうな未来も、すべて自分一人だけで抱え込んで笑顔の仮面を被ってきたつもりだった。けれど、それは独りよがりな誤算でしかなく、逆にシロコにここまで気を遣わせ、その小さな胸を痛めさせていた

 

(何が『お姉さんにお任せ』だよ、私……。全然守れてないじゃん。シロコちゃんに、こんな顔をさせるなんて……)

 

胸を締め付けられるような深い悔恨の念が、ホシノの心をチクチクと刺す。しかし、それと同時に、ホシノの胸の奥で別の、もっと強固な感情が燃え上がっていた

 

まだ入学前だというのに、これほどまでに自分を、そして学校の未来を心配してくれる優しい子だ。ただお金がないという大人の汚い事情だけで、彼女が生まれて初めて見せたかもしれない「狂おしいほどの憧れ」を我慢させるようなことなんて、絶対に、天地がひっくり返ってもしたくはなかった

 

ユメから受け継いだアビドスの看板にかけても、それだけは自分のプライドが、いや、ホシノという一人の人間の魂が許さなかった

 

「……そっか。そこまで強い覚悟があるなら、お姉さんももう無理は言わないよ」

 

ホシノはシロコを抱きしめていた腕をゆっくりと解くと、一歩下がって、いつものように穏やかな、けれどどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた

 

「ん……。分かってくれればいい。……それで、明日は学校のどこをお掃除する? 倉庫の整理? それとも、裏手の草むしり?」

 

シロコはホシノが自分の意志を尊重してくれたのだと思い、ホッとしたようにがま口の財布をカバンに仕まい直しながら尋ねてきた

 

「そうだねぇ……。それじゃあ、明日はお姉さんのワガママを一つだけ聞いてくれないかな?」

 

「ワガママ? ……ん、何?」

 

シロコは頭の上の耳を不思議そうにパタパタと動かし、キョトンとした表情でホシノの異色瞳を見つめ返した

 

「うん、私のワガママ。……私ね、シロコちゃんがその格好いい青い自転車に乗って、アビドスの広い砂漠を気持ちよさそうに走るところが、今すぐにでも見たいなぁって思っちゃったんだよね」

 

「え……?」

 

シロコは水色の目をパチパチと何度も瞬かせ、完全にその場でフリーズしてしまった。それもそのはず、自分でコツコツとお金を貯めて数ヶ月、あるいは数年後に買うという大いなる決意を語ったその次の瞬間、あろうことか「明日乗っている姿を見せて欲しい」と無茶苦茶なスケジュールを提示されたのだ

 

「で、でも……まだ買えない。お財布の中身、全然足りない。明日には、絶対に間に合わない」

 

「うへへ、だからさ。今から私が、あのショーケースの中のものを全部お買い上げしちゃうから」

 

「……っ、さっきその話は…しないって…――」

 

「シロコちゃんが乗って走る姿を、私に一番最初に見せて欲しいなーって。それがシロコちゃんの、明日の一番大切なお仕事だよ」

 

「や……っ、ホシノ、話を聞いて。それはホシノの負担に――」

 

「お金の苦労なんてね、シロコちゃんの弾けるような喜ぶ顔を見れば、私の毎日の疲れなんて一発で吹き飛んで最高の特効薬になると思うんだけどなー!」

 

シロコが反射的に紡ごうとした拒絶の言葉に、ホシノはわざと大声を被せて、その唇を笑顔で塞いだ

 

買って欲しくないというシロコの頑なな気持ちも、どうしても買ってあげたいというホシノの譲れない気持ちも、その根底にあるのは2人とも、お互いを心の底から思いやっての、優しすぎるが故の衝突だった

 

「……ホシノ、やっぱりズルい…」

 

シロコはぐうの音も出ないといった様子で、ムスッとした顔のまま唇を尖らせた

 

けれど、その白い頬が微かに赤みを帯びているのを、ホシノは見逃さなかった

 

「さっきも言ったでしょ? 先輩っていうのは、ズルくて強かで、後輩をこれでもかってくらい甘やかすために生きてる生き物なんだよ?」

 

そう言って微笑むホシノは、少しだけ膝を折り、しゃがみ込んでシロコと目線を合わせると、今度は一切のからかいを排した、真摯な声で問いかけた

 

「それで……私のワガママ、通させてもらってもいいかな? これを買わせてくれるかな、シロコちゃん」

 

ホシノの嘘偽りのない真っ直ぐな瞳に見つめられ、シロコはしばらくの間、何も返せなくなって沈黙してしまった

 

砂漠の夕日が完全に地平線の彼方へと落ち、あたりが藍色の深い夜の闇に包まれ、古びた街灯の灯りが2人を仄白く照らし出した頃。長い沈黙を破って、シロコが小さく口を開いた

 

「……ホシノは、私があの青い自転車に乗る姿を見て……本当に、嬉しい?」

 

「うん、もちろん。世界中の何を見るよりも、嬉しいよ」

 

シロコのどこか震えるような、確かめるような問いかけに、ホシノは一瞬の迷いもなく、即答で返した

 

普段は煙に巻くような隠し事の多いホシノだったが、この言葉だけは、胸の奥底から湧き出た純度百パーセントの本心だった

 

それを聞いたシロコは、ガラスの向こうのロードバイクと、自分の前に佇む大切な先輩の姿を一度だけ交互に見つめたあと、深く息を吸い込んで、小さく、けれどはっきりと告げた

 

「……ん。買う。ホシノに、買ってもらう。その代わり、私もこれから、たくさんたくさんホシノを助けるから」

 

「うん! それじゃあ、これからのことは全部先輩に任せときなさい!」

 

シロコの承諾の言葉を聞いた瞬間、ホシノはまるで自分のことのように嬉しそうな満面の笑みを浮かべると、半分閉まりかけていた自転車屋の重い引き戸を勢いよく押し開けて中に入っていった

 

それからしばらくして

 

ホシノは店の老店主と何やら笑顔で書類を交わしたあと、美しく整備された青いロードバイクを片手で押し、もう片方の手には、専用のライディングスーツやヘルメットが入っているであろう大きなロゴ入りの袋を抱えて、店から出てきた

 

「お待たせ、シロコちゃん!」

 

「ん……っ!」

 

店内の明かりの下で、新車独特のオイルと金属の清々しい匂いを漂わせるロードバイクを目にした瞬間、シロコの瞳はこれまでにないほど激しく、らんらんと輝き出した

 

ホシノは「はい、どうぞ」とそのハンドルを優しく手渡す

 

「今日はもうすっかり暗くなっちゃったし、視界も悪いからね。明日の朝、砂漠の道で思いっきり乗ってみようか」

 

「ん! ありがとう、ホシノ。私、この自転車を一生大事にする」

 

愛車のハンドルを握りしめ、サドルの感触を確かめながら、シロコは心の底から嬉しそうに、言葉少なながらも最大級の喜びを表現していた

 

(あぁ、本当に良かった……。シロコちゃんがこんなに喜んでくれて。うへへ、お姉さん、夜通し書類仕事を終わらせた甲斐があったよ)

 

シロコがそれまで持っていた夕飯の買い物バッグと、新しく買ったスーツの袋を両手に持ち直しながら、ホシノは愛しい後輩と肩を並べてアパートへの夜道を歩き始めた

 

この子のこんなにも美しい笑顔が見られるなら、そのためならどれだけ夜通し苦労したっていい、どれだけ重い借金を背負ったって構わない――本気でそう思えるほどに、ホシノの胸は幸福感で満たされていた

 

そんな、温かい感動の余韻に浸っていた、まさにその時だった

 

「……それじゃあ。せっかくホシノにこれを買ってもらったから、あっちの、事前に準備してた『あれ』は、もう使わなくなったかも。少しもったいないけど」

 

シロコが嬉しそうに隣でロードバイクを押しながら、ふと思い出したかのように、事も無げにそんな不穏な言葉を口にした

 

「あれ? あれって何だい、シロコちゃん?」

 

「ん」

 

ホシノが何気なく首を傾げると、シロコは自転車を片手で支えながら、もう片方の手で自分の通学カバンのチャックをジジジと開け、中から「それ」を取り出して見せた

 

それは、目出し帽のように頭をすっぽりと覆うことができる、怪しげな、けれど妙に編み目のしっかりとした「鮮やかな青色のニット帽」だった

 

しかも目の部分だけが器用にくり抜かれている

 

「え? え、えーと……シロコちゃん? それは一体……何に使うのかなー、なんて……?」

 

ホシノの頬が引きつる

 

「ん。ここの商店街の人達、みんな私にオマケしてくれて、すごく優しいから……。お店を襲ったら、みんなが悲しい思いをする。それは絶対に嫌」

 

「うん、そうだね? 襲うとか言ってる時点でちょっと不穏だけど、お店を襲うのは絶対にダメだね?」

 

「……でも、銀行なら、どれだけ襲ってお金を奪っても誰も悲しまないし、いくらでも代わりがあるからいい。だから、お金が足りなかったら、今度あそこの銀行を襲撃して、そのお金で自転車を買うつもりだった。そのための、覆面用のニット帽。色も、あの自転車に合わせて青にした」

 

シロコは至って真面目な、何一つ間違ったことは言っていないと言わんばかりの澄んだ瞳で、その物騒極まりない青いニット帽を再びカバンの中へと大事そうに仕舞い込んだ

 

それを横で聞いていたホシノは、文字通り、完全に思考が停止した

 

(え? い、いま何て言った……? ぎんこうごうとう……?? 自転車の色に合わせるって、そこ拘るところなの……??)

 

さっきまで、自分の目の前で健気に涙ぐましい貯金を繰り返し、自分の身体や隈を心配してくれていた、あの素直で可愛い、世界一愛しいはずの後輩の口から飛び出した、あまりにもアグレッシブでバイオレンスな「銀行襲撃計画」というパワーワード

 

その凄まじい落差にホシノの優秀な頭脳は完全にショートしてしまい、夕闇の冷たい風の中で「うへ……?」とマヌケな声を漏らすことしかできないのだった

 

ホシノの脳内では、アビドス副生徒会長として、あるいは一人の先輩として、ありとあらゆる常識的な思考や説教の言葉が、まるでもつれた糸のようにぐるぐると浮かんでは消えていった

 

『コラコラ、シロコちゃん、犯罪は絶対にダメだよ?』とか、『商店街の人が悲しまなくても、銀行を襲ったら巡り巡って他のたくさんの人が悲しむし、何よりお巡りさんに捕まっちゃうからね?』とか。アビドスの治安を守る立場としても、当然ここで厳しく嗜むべきだった。

 

しかし――

 

ふと隣を見やれば、新車の青いロードバイクのハンドルを大事そうに両手で握りしめ、まるで宝物を手に入れた子供のように、普段の無表情からは想像もつかないほど満足げな、それはそれは嬉そうな笑みを浮かべているシロコがいた

 

その水色の瞳は、夜闇の中でも星のようにキラキラと輝いている

 

その純粋無垢な喜びの表情を見た瞬間、ホシノの胸の中にあった小難しい正論や説教の義務感は、一瞬にしてすべてがどうでもよくなって霧散してしまった

 

この子がこれだけ笑ってくれているなら、その手段がちょっとばかり過激だった(あるいは過激になりそうだった)としても、結果として自分が身銭を切って引き止められたのだから、もうそれで十分じゃないか、とすら思えてきたのだ

 

「……う、うへぇ。あのさ、シロコちゃん……。やるにしても、あ、あまり無茶な計画だけはダメだよ……? ちゃんと安全第一で、ね?」

 

散々脳内で葛藤した挙げ句、ホシノの口からようやく絞り出されたのは、あまりにも締まりのない、ひどく頼りない妥協の言葉だった

 

「ん! 分かってる。ホシノが自転車を買ってくれたから、もう銀行を襲う必要はない。作戦は中止。安全第一」

 

ホシノの精一杯の忠告に対して、シロコは本当に理解しているのか、それとも全く聞いていないのか分からないほど、元気の良い声でコクコクと力強く頷いた

 

その潔い態度に、ホシノは「うへぇ……」と深い溜息をつきながら、再び自分の頭をぽりぽりと掻くしかなかった

 

(まあ……今回は未遂で済んだわけだし? 結果オーライ……なのかなぁ。あはは、ユメ先輩、私、先輩らしいことできてるのかな……)

 

遠い夜空を見上げながら、ホシノは密かに冷や汗を拭う。隣では、シロコが嬉しそうにペダルを軽く回す金属音が、夜の静寂に心地よく響いていた

 

 

その後、二人は夜道を並んで歩き、アビドスの静かなアパートへと帰り着いた

 

シロコは荷物を置くやいなや、キッチンへと直行した。「ホシノ、今から夕飯を作るね。宣言通り、腕によりをかける」と意気込み、買ってきたばかりの挽き肉とジャガイモを取り出す

 

パチパチと小気味よい音を立てて揚がったのは、黄金色のサクサクな絶品コロッケだった

 

「ん。ホシノ、たくさん食べて。お掃除を手伝う代わりに、体力をつけてもらう」

 

「うへへ、ありがとねぇシロコちゃん。お姉さん、こんなに美味しいコロッケ食べたら、明日からまた頑張れちゃうよ」

 

二人はちゃぶ台を挟んで仲良くコロッケを平らげた

 

その後、交互にお風呂に入り、サッパリとしたところで最後の重要な仕事が待っていた。新しく手に入れた大切な相棒――青いロードバイクを、玄関の決して広くはないスペースに、傷がつかないよう毛布を敷いて丁寧に飾る

 

「ん、完璧。格好いい……」

 

「そうだねぇ。暗い玄関が急に華やかになったよ。さあ、シロコちゃん、夜更かしは美肌の敵だよ? 明日のために早く寝よっか」

 

「ん。明日が楽しみ。朝一番で、砂漠の一本道を走る」

 

シロコは明日への期待で胸を膨らませながら、早々にベッドへと潜り込んで、驚くほどの速さで深い眠りに落ちていった

 

スースーと規則正しい小さな寝息が、薄暗い部屋の中に響き始める

 

静寂が戻った室内で、ホシノはしばらくの間、天井を見つめていた。しかし、どうしても先ほどの帰り道の言葉が頭から離れない。「事前に準備してたあれ」――あの不穏極まりない言葉が、胸のざわつきとなってチクチクと神経を逆なでする

 

(もしかして……私が今日、あの自転車を買わなかったら、シロコちゃんは本当に……。いやいや、ま、まさかねぇ……?)

 

ホシノはそっと布団から抜け出すと、足音を完全に殺して畳の上に置かれたシロコのスクールバッグへと近づいた

 

普段なら後輩のカバンを勝手に開けるような真似は絶対にしないが、今回ばかりは第六感が激しい警報を鳴らしている

 

そっとチャックをジジジ……と音を立てないように開け、中を漁ってみる

 

ノートの隙間、あの鮮やかな青いニット帽のすぐ脇から、綺麗に折り畳まれた数枚のルーズリーフが滑り出てきた

 

「……何、これ」

 

ホシノがそれを広げて、窓から差し込む淡い月明かりの下でそっと目を凝らした瞬間、彼女の背筋にゾクリと冷たいものが走った

 

そこにあったのは、アビドス自治区内にある特定の銀行の、驚くほど精密に描き込まれた手書きの見取り図だった

 

それだけではない。防犯カメラの死角となる動線、警備員の人数と詳細な巡回ルート、さらには『どの時間帯に窓口の人数が最小になるか』『周辺の治安維持部隊や増援が到着するまでに何分何秒かかるか』といったシミュレーションデータが恐ろしく客観的で、事細かな文字でびっしりと書き連ねられていたのだ

 

(……これ、ただの思いつきや夢想じゃない。今すぐにでも、実行に移せるレベルの……本物の『完璧な襲撃計画書』じゃん……)

 

「……」

 

ホシノは数秒間、その紙切れを凝視したまま静かに硬直した。あまりの完成度の高さに、ホシノでさえ、言葉を失って冷や汗を流す

 

しかし、ホシノはそっと深い息を吐き出すと、何事もなかったかのようにルーズリーフを元の通りに折り目に沿って綺麗に畳んだ

 

そして、シロコのカバンの奥底へと、何かの間違いであるかのように静かに戻した

 

チャックを再び音を立てずに閉め、ホシノは心の中で強く自分に言い聞かせる

 

(私は今、何も見なかった。うん、何も見ていないね。ただのメモかなにかだ。うへへ……)

 

脳内の記憶のゴミ箱へとその恐ろしい計画書の内容を強引に放り込み、蓋をして鍵をかけた。すべては、自分が今日あの店でロードバイクを買い上げたことで、未遂のまま永遠に葬り去られたのだ

 

自分の選択は、アビドスの治安的な意味でも大正解だったのだと、無理やり自分を納得させる

 

ホシノは振り返り、ベッドですやすやと気持ち良さそうに眠る未来の凄腕(?)後輩の寝顔を見つめた。昼間の強固な態度が嘘のように、眠っている姿はただの年相応に可愛い女の子だ

 

(まったく……とんでもない子を拾っちゃったなぁ、私は)

 

苦笑しながらも、ホシノの胸の奥には温かい灯火が宿っていた

 

明日は朝一番で、彼女が新しい青い自転車でアビドスの広大な砂漠を駆ける姿を、誰よりも特等席で見守ってあげよう

 

そのために、今日だけは自分を悩ませる全ての現実から目を背けて

 

「おやすみ、シロコちゃん。いい夢見てね」

 

小さく呟き、今度こそ自分も泥のような深い眠りへと就くために、ホシノはそっと布団へと潜り込むのだった

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