白子とシロコ   作:気弱

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秘密の共有 十六夜ノノミ登場

空が茜色から徐々に紫がかった薄暮へと移り変わる、夕暮れ時のアビドス中央公園

 

かつては緑豊かで、市民の憩いの場だったであろうその場所も、今ではベンチの半分が容赦なく押し寄せる砂に埋もれ、枯れ果てた芝生が広がる寂しい空間となっていた

 

しかし、今のその公園には、世界のどこよりも純粋で賑やかな、風を切る音と小気味よいラチェット音が響き渡っている

 

「ホシノ〜! 見て、すっごく気持ちいいよ〜っ!」

 

制服のスカートを激しくはためかせながら、傾いた夕日を浴びてキラキラと眩しく輝く青いロードバイクを駆るシロコが、満面の笑み――とまではいかなくとも、普段の彼女の淡々とした様子からは想像もつかないほど、微かに頬を紅潮させ、高揚した声を響かせていた。

 

園の辛うじて砂に埋もれていない舗装された遊歩道を、彼女は颯爽と駆け抜けていく

 

「う、うへぇ……! シロコちゃん、ちょっとスピード出しすぎだってばー! 慣れてきたからって調子に乗ると危ないよー! け、ケガだけはしないでねー!」

 

ホシノは砂に半分埋まったベンチの脇に立ち、小柄な両手をメガホンのように口元に当てて、ハラハラとした様子で大声を張り上げていた

 

昨日の今日ということもあり、まだ本格的なサイクルジャージやライディングスーツは、身体の小さなシロコにはブカブカでサイズがまるで合わなかった。そのため、今日のシロコはいつものアビドスの制服姿のままだ

 

ただ、安全のためにとホシノが絶対に譲らなかった、新調したばかりの鮮やかな青いヘルメットだけは、その白い髪の頭の上にちょこんと乗っかっている

 

少し不格好だが、それがかえってシロコのひたむきさを際立たせていた

 

実は、つい数時間ほど前、公園に到着したばかりの頃のシロコは、お世辞にも上手には乗れていなかった

 

彼女の体格に対してまだ車体が少し大きいせいもあり、サドルを一番下まで下げて、ようやくつま先が地面に届くかどうかという状態

 

最初の数歩はペダルに足を乗せることすらままならず、右に左にと大きく車体をフラフラと揺らし、転びそうになるたびに、見ているホシノの心臓を何度も縮み上がらせていたのだ

 

『ん……。このマシン、バランスを取るのが少し難しい…』

 

そう言って、何度もペダルから足を滑らせて脛をペダルで強打し、痛みに眉を顰めながらも、シロコは決して諦めなかった

 

それどころか、持ち前の並外れた身体能力と底知れない集中力を極限まで発揮し、わずか数十分の間にコツを完全に掴んでしまったのだ

 

今やフラつきは一切消え去り、まるで自分の手足、身体の一部であるかのように滑らかに、かつ力強くペダルを漕ぎ回している

 

(あはは、さすがはシロコちゃんだねぇ。驚異的な学習能力っていうか、野生の勘っていうか……。あの調子なら、ヘルメットが必要なくなる日もそう遠くなさそうかな……)

 

風を味方につけてぐんぐんと加速していくシロコの、小さくも頼もしい背中を見つめながら、ホシノは細められた瞳の奥に、心からの愛おしさと微笑ましさを浮かべていた

 

しかし――

 

そんな穏やかで幸福な光景の裏側で、ホシノの脳の半分は、冷徹なまでの警戒モードを維持し続けていた

 

シロコを視界の端できちんと捉え、彼女の安全を確保しながらも、ホシノは目に見えない意識の触手を、静かに「辺り一帯の気配」へと張り巡らせる

 

「…………」

 

首を動かさず、視線もシロコから外さない。ただ、肌に触れる空気の揺らぎと気配だけで、自身の背後を探る

 

公園の入り口付近にある、錆びついた街灯の影。あるいは、砂に削られて崩れかけたレンガの壁の向こう側。そこから、じっと息を潜めてこちらを凝視している「誰か」の存在を、ホシノは皮膚がチクチクとするような感覚で、明確に感じ取っていた

 

(……やっぱり、私の気のせいじゃなかったか。昨日からずっと、粘着質についてきてるよねぇ……)

 

それは、今この場所で唐突に始まったことではなかった

 

実は昨日、一人でシロコの跡をつけていた時から、背後に微かな違和感、視線の気配を感じていたのだ。それはシロコと合流し、賑やかな商店街を出る頃までずっと途切れずに続いていた

 

昨日は「まぁ、大きな商店街だし、たまたま同じ方向へ歩いているだけの買い物客だろう」と自分に言い聞かせ、シロコが新しい自転車を貰って喜んでくれているその特別な瞬間を台無しにしたくなくて、あえて気にしないように努めていたのだが

 

だが、今は状況が違う

 

ここは見通しの良い、すっかり寂れた黄昏時の公園で、周囲には自分たち以外に人影は一つもない。それなのに、シロコが自転車を完全に乗りこなし、スピードを上げて公園の周回ルートを走り始めた辺りから、その視線は隠そうともせず、はっきりと自分たち二人に向けて突き刺さるようになった

 

(まあ、唯一の救いなのは……今のところ、その視線に明確な『悪意』とか『殺気』の類が混ざっていないこと、かな。どちらかといえば、戸惑いとか、観察とか……そういう感じ?)

 

ホシノは、自身の血生臭い過去の経験から、自分に向けられる敵意や害意に対して人一倍敏感だった。かつて「暁のホルス」などと呼ばれ、数多のヘルメット団や悪徳企業の傭兵たちを容赦なく叩き潰してきた彼女は、文字通り無数の恨みを買っている

 

油断をすれば、いつどこから闇討ちの銃弾を仕掛けられてもおかしくない身の上なのだ

 

(私個人に恨みがある復讐目的の奴なら、とっくに銃を抜いて襲ってきそうなものだけど……。今はただ、物陰からじっと見てるだけ。私たちアビドス生徒会の動向を観察してる……? まぁ、あっちから実力行使に出てこない内は、こっちも大人しく泳がせておいてあげようかねぇ)

 

もし、その影が物陰から銃口を覗かせたり、あるいはシロコに向かって一歩でも不審な動きを見せたりした瞬間。ホシノは手元にある頑強な盾を展開し、ショットガンでその頭火を瞬時に、かつ徹底的に叩き潰す算段を脳内で完了させていた

 

どれだけ腹の中で警戒していようとも、その凶暴な本性を表に出すことは決してない。ただ、いつものダラけた「だらしない先輩」の仮面を被ったまま、静かに牙を研ぐ

 

「ホシノ〜! 見て、見て〜! 両手を離しても、体幹だけで真っ直ぐ進めるようになった!」

 

「わわわっ!? ちょっとシロコちゃん、それはさすがに危ないから! そういう芸当はもっと数をこなしてから! ほら、ちゃんとハンドル握って! お姉さん、見てるから! ちゃんと見てるよ〜、シロコちゃんは本当に何をやらせても天才だねぇ〜!」

 

ホシノは背後の不審な気配からスッと意識を切り離し、再びシロコの方へと視線と、そして極上の柔らかい笑顔を向けた

 

大声を上げながら、大きく両手を振って後輩の快挙(と、危なっかしいスタンドプレー)を大袈裟に称える

 

手を出してこない内なら、その影が好きに見物していればいい。アビドスの静かな夕暮れを、シロコの記念すべき最初のサイクリングの思い出を、他人に邪魔させるわけにはいかないのだから

 

だが、もし。もしもあの影が、この愛おしい後輩の笑顔を奪おうと、何か一つでも不穏な行動を起こそうものなら――

 

ホシノの瞳の奥で、夕日の赤い光に紛れて、冷徹な黄金色の光がギラリと微かに揺らめいた

 

だが、それもほんの一瞬のこと。ホシノは一度「ふぅ」と深く息を吐き出すと、まるで見えない仮面を綺麗に付け替えるように、いつもの気の抜けた笑みを顔に浮かべて声を張り上げた

 

「シロコちゃーん! そろそろお日様も完全に沈んじゃいそうだし、暗くなる前にお家に帰ろっかー!」

 

「んー! 了解!」

 

遠くの方で、自転車に乗ったままシロコが小さく片手を挙げた。ホシノの言葉に弾かれるようにして、青いロードバイクは見事な弧を描いてこちらへと方向転換する

 

流れるような美しい動作でホシノのすぐ近くまで戻ってくると、シロコはブレーキを軽く握ってピタリと停まり、器用にシートから腰を下ろした

 

少し息が上がっているが、その表情は充実感に満ちている

 

「ふいー、お姉さん、シロコちゃんが走るのを見てるだけでお腹ペコペコになっちゃったよ。シロコちゃん、今日の晩御飯は何にしようか?」

 

「ん。今日は……お好み焼き、かな。この前、八百屋のおじさんに、いい小麦粉をたくさんもらったから。ホシノ、海鮮とお肉、どっちがいい?」

 

「ええっ、お好み焼き! いいねぇ、最高じゃん。それじゃあ、今日は海鮮にしよっか。イカとかエビとか、贅沢にたっぷり入れちゃおう」

 

「ん、わかった。特製海鮮お好み焼きにする。キャベツも細かく、たくさん刻む」

 

そんな何気ない、けれど温かい他愛のない会話を交わしながら、二人は並んで歩き、夕闇に包まれつつある公園を後にした

 

シロコは大切な相棒である自転車のハンドルを嬉しそうに握り、時折そのフレームを愛おしそうに撫で、見つめている

 

二人の姿が完全に公園の敷地から消え、周囲に完全な静寂と夜の帳が戻った頃

 

赤茶けてひび割れたコンクリートの建物の影から、一人の人影がそっと這い出るようにして姿を現した。上品な仕立ての制服を身に纏った少女だ

 

「……あの方が、アビドスの副生徒会長、小鳥遊ホシノさん……。それと……横にいるあの子は、一体誰でしょう……?」

 

西の地平線へと沈みきった太陽の、僅かな残光に照らされながら、少女は二人が去っていった道の先をじっと見つめ、小さく、戸惑うような声で呟いた

 

その手は不安げに、自らの制服のポケットをぎゅっと握りしめていた

 

 

次の日の朝

 

遮光カーテンの隙間から寂しい砂漠の朝光が差し込む生徒会室で、ホシノは一人、木製の古い机にべったりと突っ伏していた

 

「うへぇ……。もうダメ、目がチカチカするぅ……。字を見たくないよぉ……数字がゲシュタルト崩壊を起こしてる……」

 

手元の分厚い書類には、アビドス自治区内のインフラ維持費の計算や、先週の砂嵐による防壁の被害報告書、さらには膨れ上がる利子の計算といった、お世辞にも楽しいとは言えない現実的な数字がびっしりと並んでいる

 

時計の針はすでに登校時間を3時間ほど過ぎていたが、いつもなら自主トレーニングや銃のメンテナンスをしに来ているはずのシロコの姿は、まだなかった

 

余程、昨日手に入れたロードバイクが気に入ったのだろう。今朝も「朝の空気は気持ちいいから、少しだけ砂漠のルートを走ってくる。脚力を鍛える」と言い残し、一人で嬉々としてサイクリングに出かけていったのだ

 

「お昼になる前には生徒会室に行く」と言い残してはいたものの、時計の針はそろそろ正午を指そうとしている

 

(それにしても、シロコちゃんのあの底なしの体力……。まだ出会って間もないっていうのに、素の基礎スタミナだけなら、もうとっくに私を追い抜いてるかもねぇ……)

 

かつて、戦場のような自治区の最前線で「暁のホルス」として傲慢に暴れ回っていた頃のギラついた自分を思い出し、ホシノは自嘲気味に、どこか寂しげに微笑んだ

 

重い腰を上げ、木製の古びた机の上に乱雑に散らばっていた、書き終わったばかりの膨大な書類をトントンと綺麗に叩いて束ね、机の端へと寄せる

 

心の中で(よし、今日の分の面倒な事務仕事はここまで!)と一方的に終了を宣言し、ホシノは無言のまま、机の右側にある少し建付けの悪い引き出しを引いた

 

引き出すたびに「キィ…」と頼りない音を立てるその引き出しは、彼女にとって過去へと繋がる秘密の扉でもあった

 

引き出しの奥底。色褪せた書類の束の下に、数枚の写真がひっそりと大切に収められている

 

一枚目は、前生徒会長のユメが撮影した写真だ。生徒会室のソファーで完全に無防備に転がって昼寝をしている白子の足を、ホシノが面白がってぺたぺたと触って遊んでいる、なんとも緊張感のない穏やかな日常の一コマ

 

二枚目は、ホシノがアビドスに入学し、この生徒会室に初めて足を踏み入れた時に、ユメと二人で撮った記念すべき最初の写真。とびっきりの、太陽のように輝かしい笑顔をカメラに向けているユメと、その圧倒的な身長差、そして胸のボリュームのせいで、顔をユメの胸元に思いきり埋め尽くされながら、どこか不満げなツンとした無表情で写り込んでいる、トゲトゲしていた頃の初々しい自分の姿

 

そして三枚目は、ゲヘナ学園のヒナと、ホシノ、そしてシロコが、楽しそうにフリスビーを追いかけて遊んでいる、今となっては奇跡としか言いようのない一瞬を切り取った写真

 

その他にも、砂漠の夕日をバックに笑うユメの姿や、まだ小さかった子犬の白子が尻尾を振っているブレた写真など、沢山の思い出がアルバムの頁を静かに埋めていた

 

(はぁ……。いつの間にかユメ先輩の机、私が引き継いで使っちゃってるけど……。このアルバムを最初に見つけた時は、本当に心臓が止まるかと思ったなぁ。先輩ってば、一体いつの間にこんなの隠れて撮ってたんだろ)

 

いくつかに関しては、ちゃんとホシノに「写真撮るよー!」と許可を取って撮影していた記憶がある。だが、ユメは普段のドジで抜けた様子からは想像もつかないほど、こういう優しい隠し事が得意だったらしい

 

ホシノや白子はもちろん、あの鋭いヒナにさえ一切気づかれることなく、生徒会の温かい思い出のアルバムを静かに、着実に埋めていたのだ

 

もっとも、数回しか撮られていないため、ヒナが本当に気づいていなかったのかは少し怪しいところだが、ホシノに関して言えば「ユメ先輩だから」と完全に心も牙も許しきっていたせいで、自分の背後にカメラが迫っていることすら全く察知していなかっただけかもしれない

 

失われてしまった、眩しくて、狂おしいほど楽しかった日々

 

ホシノはこの写真たちを発見して以来、今のシロコに余計な心配や、名前の呪縛による罪悪感を悟らせないよう、彼女が室内にいない時や、自分の心が泥のように疲れ切って押し潰されそうになった時にだけ、こうしてこっそりと引き出しを開けて、過去の光を覗き込むようにしていた

 

(……いつかは、私も。この写真の中の私みたいに、偽物の仮面じゃなくて、心の底からちゃんと笑えるようになりたいな。ユメ先輩……)

 

色褪せない写真の中で、大好きな先輩の隣で文句を言いながらも確かに幸せそうにしている過去の自分を、ホシノは人差し指の腹で優しく、愛おしそうに撫でた

 

大丈夫。きっと、今のシロコの前で見せている私の笑顔だって、全部が偽物なんかじゃない。そう自分に強く言い聞かせるように、そっと一度だけ瞳を閉じる

 

そんな、切ない感傷に深く浸っていた、まさにその時だった

 

――バタンッ!!! がらがらっ!!

 

「ん。ホシノ、ただいま。今来た」

 

信じられないほどの勢いで生徒会室の扉が開き、ホシノは「ひゃぅっ!?!?」と情けない裏返った声を上げて飛び上がった

 

心臓をバックバクと限界まで高鳴らせながら、電光石火の、文字通り神速の早業でアルバムを引き出しの奥へと滑り込ませ、バタンと閉めると、大慌てで冷や汗を流しながら扉の方を振り向く

 

そこには、少しだけ制服の襟元を乱し、どこか満足げで達成感に満ちた表情で佇むシロコの姿があった

 

ホシノは一瞬で脳内を切り替え、いつもの「頼りないだらしない先輩」の笑顔を完璧に作り直すと、バクバク言う胸を撫で下ろしながら苦笑いを向けた

 

「び、びっくりしたぁー……! もう、シロコちゃん? 入ってくる時は、もう少し私の脆い心臓に優しく、静かに扉を開けてくれたら嬉しいなー? なんてね、うへへ……」

 

「ん。それは善処する。それよりホシノ、今日のパトロールのお土産があるよ」

 

「お土産? 砂漠に何か落ちてたの? また壊れた戦車のパーツとか、そういうのは室内に持ち込み禁止だよ?」

 

ホシノが不思議そうに首を傾げると、シロコは手元にしっかりと握っていた、やたらと太くて頑丈な麻縄を、ぐいっと力任せに引っ張った

 

その縄の先は、生徒会室の外の薄暗い廊下へとズルズルと繋がっている

 

「ん。違う。パーツじゃない。校門の近くでうろついていた、怪しいヤツ、捕まえた」

 

「怪しいヤツ……って、ええええええええっ!?!?」

 

引きずられるようにして、縄に縛られて室内にずるずると現れた人物を見て、ホシノの目は完全に点になった

 

そこにいたのは、艶やかなベージュのロングヘアを、左側だけくるりと可愛らしく輪を描くように結んだ、見慣れない少女だった。シロコよりも(身長も、そして制服の上からでも分かる胸のあたりも)ふた回りほど発育が良く、非常に上質な、お高そうな生地で作られた他校の制服を着ている

 

しかし今の彼女は、すっかり縄で身体をぐるぐる巻きにされ、自由を奪われ、少し息を切らしながら、今にも泣き出しそうな涙目でホシノを弱々しく見上げていた

 

「うう……縄が、縄がくいこんで痛いですぅ……。あと、引きずられて制服が砂まみれに……」

 

これ、絵面的にも色々とまずいのでは? どこかの自治区の生徒の誘拐や拉致だと思われて、アビドスにヴァルキューレ警察学校のヘリでも飛んでくるんじゃないだろうか

 

そんな最悪の治安悪化ケースがホシノの脳裏をマッハで過る

 

「え、えーと……シロコちゃん? 私、ちょっと状況が掴めないんだけど、これ、一体全体どういう大捕物なのかな?」

 

シロコは麻縄をグッと一巻きして、淡々と説明を始めた

 

「学校の正門のところにいた。門の隙間から、不審な様子で中をじっと覗き込んで、何かをメモしてた。だから、事情聴取しようと思って声をかけようとしたら、私の顔を見た瞬間に脱兎のごとく逃げた。怪しい、後ろ暗いことがある証拠。だから、全速力で追いかけて捕縛した」

 

「あー……。それで、朝のサイクリングから登校がこんなにお昼前になっちゃったわけ?」

 

「ん。約二時間、ノンストップでアビドス中を自転車と徒歩で追いかけっこしてた。かなりタフな獲物だった。捕獲できて満足」

 

「な、何してるのぉーーーっ!?!?」

 

ホシノは思わず両手で頭を抱えた。まさか、楽しく優雅にサイクリングをエンジョイしていると思っていた時間のほとんどが、この見知らぬ少女をアビドスの広大な砂漠地帯の中で追い回すチェイス時間に使われていたとは

 

なるほど、だからこの捕まった少女は、豊かな胸元を大きく上下させて激しく肩で息切れしているのだ

 

二時間もの間、あの野生児並みの体力と執念を持つシロコの追跡から逃げ回り、最終的にこうして捕縛されたのだから、むしろ「よくあのシロコちゃん相手に二時間も逃げきれたものだ」と、ホシノは感心すらしてしまいそうになる

 

危ない拉致の絵面であることには変わりないが

 

ホシノは「はぁ……」と実にもったいぶった大きなため息を吐くと、腰に手を当てて、気持ちを完全にアビドスの「副生徒会長」としての冷徹な警戒と査問モードへと切り替えた

 

「えっと……あの、その……わ、私、別に怪しいものでは……ただの通りすがりの、見学の、ううっ……」

 

「君。私たちに何か用があるの? ――昨日から、ずっと私たちの後ろをストーキングしてたよね?」

 

ホシノがジロリと鋭い視線を向けると、少女は「あぅ……っ」と小さく声を漏らし、分かりやすくビクッと肩をすくめた

 

「ば、バレてましたか……」

 

「私を舐めないでほしいな。一昨日からずっと視線を感じてたんだよ。で、君はどこの生徒? 所属する学園と学年は? ……まあ、仮に私より歳上の先輩だったとしても、理由の内容次第ではタダで帰すわけにはいかないんだけどね?」

 

ホシノの言葉のトーンが、わずかに、低くなる

 

かつて数多の敵を震え上がらせた「暁のホルス」の威圧感が室内に満ち、少女はさらに大きな涙目を潤ませて、首を激しく横に振った

 

「ううっ、そんな、乱暴なことや、スパイ行為をしにきたわけじゃないんですぅ……! 本当に、ただアビドスが今どうなっているのか、自分の目で確かめたくて、気になって……!」

 

「ん。そういう言い訳、テンプレ通りですごく怪しい。ホシノ、やっぱりこのまま口を割るまで砂漠に生き埋めにして尋問したほうがいい。スコップなら私が持ってる」

 

「ひぃぃぃーーーっ!? 生き埋め!?!?」

 

「シロコちゃん、さらっと物騒なこと言わないの。アビドス生徒会は非人道的な組織じゃないよ。……ん? あれ? ちょっと待って。よく見たら、その制服の襟元にある校章……」

 

不意に強烈な違和感を覚えたホシノが、縄でぐるぐる巻きにされた少女のすぐ傍へと歩み寄り、その豊かな胸元にピンで留められた、見覚えのある金属製の精巧なバッジ、その「校章」を見つめた

 

そこにあったのは、大きな三角形の左右に、それぞれ小さな三角形がくっついた、どこか見覚えのある特徴的なデザインの校章だった

 

「は、はい……! 私、そんな他校の密偵とかじゃなくて、私も同じアビドス自治区の生徒なんです……! それに、その……まだ、こう見えても中学三年生なんですっ! もうすぐ卒業ですけど……!」

 

「…………は?」

 

ホシノの口から、間の抜けた声が漏れた

 

「嘘でしょ?」と言いたげな、あり得ないものを見るような目を、縛り上げられた少女へと向ける。しかし、少女の必死に潤んだ瞳と、小刻みに震える肩を見る限り、これが保身のための出任せであるようには到底思えなかった

 

自分よりも遥かに発育が良く、目測ではあるが身長だって10センチメートル近く高い少女が、まさか目の前にいる小柄なシロコと同年代の中学三年生なのだと、一体誰が一発で見抜けるだろうか

 

「…………」

 

ふと横を見ると、それまで堂々と胸を張っていたシロコが完全に無言になったまま、自分の平坦な胸のあたりをぺたぺたと両手で寂しそうに触っていた。そして、そのまま肉体的な実力差を思い知らされたかのように、少しだけショックで獣耳をヘタレさせるようにしてガックリと落ち込んでいる

 

「はぁぁ……。シロコちゃん、とりあえずその子の縄を解いてあげて。ほら、早く、急いで」

 

もし彼女が、ホシノが過去に容赦なく壊滅させたどこかの不良組織の残党や、悪徳ヘルメット団の回し者、あるいは他学園から送り込まれた暗殺者の類であれば、副生徒会長として容赦なく牙を剥くつもりだった

 

しかし、いくらキヴォトスの掃き溜めと呼ばれるような連中であっても、さすがにこんな可憐で世間知らずそうな中学生を刺客として送り込んでくることはないだろう

 

「……ん……」

 

「ええと……なんだか、お騒がせしてしまってごめんなさい……?」

 

シロコにしぶしぶといった様子で縄を解かれ、赤くなった手首をさすりながらも、二人の奇妙な反応に対してどこか申し訳なさそうな苦笑いを浮かべる少女

 

ホシノは本日何度目になるか分からない、深い、深い溜め息を、砂埃の舞う生徒会室の中に響かせた

 

その後、ようやく落ち着きを取り戻した少女を応接用の古いパイプ椅子に座らせ、シロコが少し複雑な表情を浮かべたまま、三人分のお茶を淹れてちゃぶ台に並べた。温かい緑茶を一口すすり、少女は小さく息を整えると、背筋をピンと伸ばして上品に微笑んだ

 

「それじゃあ、改めて自己紹介をさせていただきますね! 私の名前は十六夜ノノミ。一応……これでも、アビドス籍の中学三年生です!」

 

ノノミと名乗った少女は、先ほどまでの涙目が嘘のように、育ちの良さを感じさせる優雅さで、かつ元気いっぱいの満面の笑みで挨拶をした

 

「……あ、思い出した。その特徴的な校章、確かネフティス中学校のマークだよね」

 

「ん……。本当に同い年……。神様の不条理を感じる。信じられない、普段から一体何を食べたらそこまで規格外に育つのか、後で詳しく教えてほしい」

 

シロコが未だにノノミの豊かな胸元あたりをじっと凝視しながら、精神的に大きなダメージを受けてブツブツと呪詛のように呟いている

 

ホシノは(シロコちゃん、私以外の歳の近い子とまともに接するのがほぼ初めてだからねぇ……。発育の面で完敗してるの、相当ショックなのかな。お姉さん、その置いてきぼりにされた気持ちは痛いほどよく分かるよ……)と心の中で血の涙を流しつつ、意識を切り替えて話を本筋へと戻した

 

「でも、おかしいね。ネフティスグループの本社は、このアビドス自治区が砂に埋もれ始めてから別の地区へと移動して、もうずいぶん経つはずだし……。確か、そっちの中学校も、企業の撤退と共に生徒が誰もいなくなって、廃校になったって聞いてたけど?」

 

ホシノの鋭い、逃げ道を塞ぐような指摘に、ノノミは少しだけ寂しそうな、翳りのある笑みを浮かべてローカルな事情を語り始めた

 

「はい、その通りです。学校自体はもう、とっくの昔に機能していません。……私が最後の生徒で、私がこの春に卒業したら、その後、完全に書類上も廃校になることが決まっています」

 

「ふーん……。最後の生徒、ねぇ……」

 

ノノミの言葉を聞いた瞬間、ホシノの纏う雰囲気が、一瞬にして声音ごとガラリと変わった

 

先ほどまでのだらけきった「先輩」の空気は一瞬で霧散し、かつて単身で戦場を支配した冷徹なリアリストの瞳が、ノノミを真っ向から鋭く射抜く

 

「なるほどね。ネフティスグループの最高幹部の血族……いわゆる『大富豪の後継者』の女の子が、今もこの寂れたアビドスに一人だけ残されてるって噂には聞いてたけど。――君が、そのお嬢様だったんだね」

 

「……ネフティス?」

 

不穏な空気の変化を敏感に察知しながらも、シロコが不思議そうに小首を傾げた

 

ホシノはノノミから一切視線を外さないまま、低く、低く冷え切った声で後輩に告げた

 

「うん。このアビドスを急速な砂漠化に追い込んだ元凶の一つ。利権のために鉄道網を敷くだけ敷いて、都合が悪くなったら真っ先に逃げ出した、あくどいやり方で有名な大手の鉄道・土地開発企業だよ」

 

「そ、それは……その……」

 

ホシノのあまりの豹変振りと、向けられた剥き出しの敵意の言葉に、それまで天真爛漫に笑っていたノノミは一瞬で顔をこわばらせ、言葉を詰まらせた

 

「さっきは、無害そうな迷い込んできた中学生だから、お説教だけで解放してあげようと思ったけど……君がネフティスの人間だって言うなら、話は完全に変わってくるねぇ」

 

ホシノはパイプ椅子に座るノノミを見下ろしたまま、一歩、また一歩と無音で距離を詰めていく

 

その足音には一切の生活感がなく、ただ獲物を確実に追い詰める冷徹な戦士の重圧だけが、狭い室内に満ちていく

 

「今のこのアビドス生徒会には、私とシロコちゃんの二人しかいない。だから簡単そうに見えて、本社の人間か上層部に言われて偵察にでも来たのかな? 『アビドスの残党は今、どれくらいの戦力が残っているか』ってね」

 

「……ち、ちが……違いま……っ。そんなこと、私は一言も……っ」

 

「何が違うのかな?」

 

ノノミの消え入りそうな弁明に、ホシノは容赦なく氷のような言葉を被せた。その瞳からは完全に温情の光が消え、暗い黄金色と青色の双眸が、ノノミの存在そのものを値踏みするように冷たく射抜いている

 

「君が本当にネフティスの令嬢なら、私の過去についても当然、調べがついてるよね。私は自分の大切な学校を、これ以上傷つけられないためなら、手段なんて選ばないんだよ。もし、今でもネフティスがこの学校に汚い手を伸ばそうって言うなら……相手が中学生だろうが、大企業の令嬢だろうが、私は容赦なく、その足元ごと徹底的に叩き潰す。――言葉は、ちゃんと選んで言った方がいいよ?」

 

「…………ホシノ……?」

 

生徒会室の空気を完全に凍りつかせるような低く冷徹なトーンに、それまで黙って聞いていたシロコが、小さく息を呑んでホシノの服の袖を強く引いた

 

シロコにとって、ホシノはいつも優しくて、どこか抜けていて、ダラダラしている「少し頼りないお姉さん」でしかなかった。そんな彼女が今、目の前で見たこともないような昏い「狂気」と「殺意」を放っている

 

その姿は、シロコにはどうしても、言葉にできないほど恐ろしく、悲しいものに感じられた

 

ノノミは恐怖に身体を震わせ、喉をこわばらせていたが、ぎゅっと自分の膝の上のスカートを白くなるほど握りしめると、一度深く、深く息を吸い込んだ

 

そして、震える声を必死に抑えながら、真っ直ぐにホシノの瞳を見つめ返す

 

「……確かに、私達ネフティスが過去にこのアビドスに対して行ったことは、ここの人たちには決して許されないことかもしれません……。利権のために砂漠化を加速させ、皆さんを置き去りにして追い詰めた……。ですが……私は……!」

 

ノノミの瞳に、恐怖を塗りつぶすほどの強い意志の光が宿る

 

「私は、小鳥遊ホシノさん……そして、生徒会長の梔子ユメさんが、二人きりになっても必死にこのアビドスを立て直そうと泥だらけで頑張っている姿を、ずっと、遠くのネフティス領から影で見守っていました。だから、私も……私も、皆さんの手伝いがしたくて、ここに来たんです!」

 

「……私とユメ先輩が、ここにいる所を……見た、と?」

 

「ユメ」という名前が出た瞬間、ホシノの眉がピクリと跳ねた

 

「は、はい……たまたま、自治区の境界近くの砂漠で見かけて……。お二人が楽しそうに笑いながら、砂を払って歩いているのを……。でも、最近は生徒会長の姿を全然見かけなくなって、私、すごく心配で……。あっ……そういえば、あの時お二人の後ろをトコトコ付いて歩いていた、あの小さくて白い……」

 

「っっ!!!!」

 

ガタンッ!!!

 

ノノミが「子犬」という言葉を最後まで紡ぐより早く、ホシノの身体が弾かれたように動いた

 

激しい音を立てて椅子が後ろに倒れ、ホシノは一瞬でノノミの目の前まで間詰めすると、その白く小さな手で、ノノミの口元を極めて強い力で、強引に塞ぎ込んだ

 

「!? むーっ!?」

 

「ほ、ホシノ!? 急にどうしたの……っ?」

 

突如目の前で起きた異常な光景に、ノノミもシロコも完全に狼狽え、息を呑んだ

 

ホシノは肩を激しく上下させ、まるで極限の戦闘の最中であるかのように「はぁ……はぁ……」と荒い息を吐きながら、ノノミの口を塞いだまま硬直している

 

その顔は青ざめ、目元は必死に何かを隠そうとする激しい焦燥感に満ちていた

 

今のシロコには、ユメが今アビドス病院で目を覚まさないこと。そして、かつてユメと一緒に飼っていた『白子という名の子犬』の情報を、絶対に知られる訳にはいかないのだ

 

「はぁ……はぁ……。シロコちゃん、ごめん……」

 

ホシノは顔だけをシロコの方へと向け、掠れた声で静かに告げた

 

「少しの間だけでいいから……私を、この子と二人きりにさせてくれないかな……?」

 

「で、でも……今のホシノ、なんだかおかしい。そんなの、置いていけない。何か、隠してる」

 

親鳥を心配する雛のように、不安げにその場に立ち尽くすシロコ

 

ホシノはノノミの口からそっと手を離すと、まるで作られた機械のように、一瞬でいつもの、あの垂れ目の優しい先輩の笑顔へと表情を戻した

 

そして、シロコの元へと歩み寄ると、その銀髪の頭を、いつもより優しく、言い聞かせるようにゆっくりと何度も撫でる

 

「大丈夫だよ、シロコちゃん。ちょっと……大人同士の、あ、この子は中学生だから違うか。ええと、ここの大人の難しいお話をしたいだけだから。シロコちゃんが心配してるような、酷いことはこれ以上絶対にしないよ。お姉さんを、信じてくれる?」

 

「…………分かった。ホシノがそこまで言うなら」

 

ホシノのオッドアイの奥にある、必死に懇願するような痛々しい光

 

それを見たシロコは、それ以上何も言わず、小さく頷いた。そして、畳の上に置いてあった自分のスクールバッグを持ち上げると、最後まで名残惜しそうに振り返りながらも、生徒会室の扉を開けて静かに外へと出て行った

 

パタン、と扉が閉まり、廊下を歩くシロコの足音が完全に遠ざかる

 

放課後の静まり返った生徒会室には、針が落ちても聞こえるほどの、重苦しく気まずい沈寂が流れていた

 

ホシノは倒れたパイプ椅子を無言で拾い上げると、そこに深く腰掛け、机の上の冷めかけたお茶を見つめながら、ぽつりと呟くように話を再開した

 

「……さっきの話。君は、私とユメ先輩がここにいたのを見たんだよね。……その時に、一緒にいた、あの『子犬』のことも」

 

「は、はい……。急に声が出せなくなって、うぅ……びっくりしました……」

 

「うん、その事は……驚かせて本当にごめんね」

 

ノノミは赤くなった口元を抑えながら、コクコクと小さく首を振る

 

ホシノは一度、天井を仰いで小さく息を吐き出すと、先ほどまでの刺すような殺気を綺麗に消し去って、ぽつりと言った

 

「……分かった。ネフティスの事はともかく、君が私たちに対して、敵対だとか、そういう悪意を持って近づいてきたわけじゃないってこと……今ので信じるよ」

 

「え……? き、急に、どうしてですか……?」

 

あまりにもあっさりとした態度の軟化に、ノノミは大きな瞳を丸くして困惑した

 

「……もし、君がネフティスの名前を使って、本当に私達を……いや、私のことを完全に掌握して、脅迫でもして操りたいんだとしたらさ」

 

ホシノは椅子の背もたれに体を預け、わざとらしく両手を広げてみせた

 

その動作は軽薄に見えて、向けられた眼光だけは未だにノノミの肌をチリチリと灼くような鋭さを孕んでいる

 

「その『子犬』のことや、ユメ先輩の現在の状況を、一番の『人質』として使って私を脅せるはずなんだよね。そんな風に、無防備に私たちの前に現れて、シロコちゃんに縄で縛られたりせずにさ。……もっと裏から、じわじわと私を追い詰める方法なんて、いくらでもあったでしょ?」

 

「それは……はい……」

 

ノノミは小さく身を縮め、痛ましそうに眉をひそめた

 

「私には、そんな恐ろしいこと、思いつきもしません……。本当に、ただ皆さんのことが心配で……力になりたくて、気づいたら足が動いていたんです」

 

「そうだと思ったよ。……それにね」

 

ホシノは少しだけ目を細め、静かに、値踏みするような視線をノノミの双眸へと注ぎ込んだ

 

「ユメ先輩が今どこにいるのか……そして、あの時一緒にいた『子犬』が、今どうしているのか。ネフティスレベルの強力な情報網と捜査能力があるなら、本気で調べればすぐに『真実』なんて分かっちゃうはずなんだよ。それを、本当に何も知らない様子で、純粋に心配そうな顔をして話す……」

 

そこまで言って、ホシノはふっと自嘲気味に口元を綻ばせる

 

「それが、君が嘘をついてないっていう、何よりの証明だから」

 

アビドスをかつて牛耳り、今でもキヴォトス有数の財力を誇るネフティスグループ。その本気が動けば、ホシノがどれだけ巧妙にユメや白子という犬の件を隠蔽しようと、すべての真実は白日の下に晒されてしまうはずなのだ

 

それを全く知らない様子で、ただ純粋に「心配だったから」という理由だけでアビドスを訪れたノノミ。少なくとも、彼女がネフティスという組織の意思を代表した「刺客」や「スパイ」ではなく、ただの世間知らずで心優しいお嬢様なのだということだけは、ホシノにも痛いほど伝わってきた

 

「あ、ありがとう……ございます。信じて、いただけて……」

 

ノノミはホッと胸を撫で下ろし、パイプ椅子のの上で小さく頭を下げた。張り詰めていた緊張が解けたのか、その長くて綺麗な睫毛が微かに震えている

 

しかし、そのノノミの安堵した表情とは対照的に、ホシノの胸の奥には、冷たい泥のような焦燥感が居座り続けていた。ノノミが「何も知らない」ということは、すなわち、まだ彼女の背後にいるネフティスの本体は、このアビドスの内情に本格的な興味を示していないということでもある

 

(今は、まだね……)

 

ホシノはそっと自分の拳を強く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む微かな痛みが、昂ぶった感情を無理やり引きずり下ろしていく

 

視線は、先ほどシロコが不安げな表情を残して出て行った、古い木製の扉の向こうへと静かに向けられていた。今はただ、あの実直で危うい後輩に、これ以上の不穏な影を近づけたくなかった

 

ホシノは握った拳を緩めると、ゆっくりとノノミへと向き直り、再び尋問するような低いトーンに声を落とした

 

「……それで? 君は一体どうして、こんなリスクを冒してまでここに足を運んだの? ほんの少し話しただけだけどさ、君がネフティスの看板を背負ってアビドスに近づけば、どんなに最悪な事態になるか想像できないほど、馬鹿じゃないのは分かってるよ。最悪、私が君のヘイローを破壊する可能性だって、十分にあったわけだしね」

 

「それは……はい。すべて、覚悟の上で来ました」

 

ノノミは威圧感に気圧され、一瞬だけ痛みを堪えるように目を逸らした。しかし、すぐに自らの細い指先をぎゅっと握りしめ、まるで腹を括ったかのように、まっすぐホシノの瞳を見つめ返した

 

その大きな瞳は潤んではいたが、芯にある意思は決してブレていなかった

 

「私、あの日の夕暮れに、ボロボロになったアビドスの街で、笑いながら街の人のために動いていた生徒会長さんとホシノ先輩の姿を見て……どうしても、ここに入りたいと思ったんです」

 

「私達を……?」

 

「はい。かつて私達の会社が踏みにじり、砂に埋もれさせてしまったこのアビドスのために、泥だらけになりながら頑張るお二人の、本当の力になりたいって。それが、ネフティスの血を引く私の、せめてもの責任だと思ったから」

 

ホシノはその言葉を鼓膜に受け止めながら、静かに、品定めをするようにノノミの瞳の奥を覗き込んだ

 

(……あはは。参ったな、本当に覚悟が決まってる。すごく、良い目だね……)

 

この少女とはまだ出会ってほんの数十分しか対話をしていない。だけど、このまっすぐで曇りのない目を見れば、一発で分かってしまう

 

本当にこの子は根が優しくて良い子で、歪んだ義務感ではなく、自らの純粋な意志でアビドスのために何かをしたい、償いたいという温かい気持ちが、その全身からひしひしと伝わってきたのだ

 

「ふぅ……。それならそうと……そんなストーカーみたいにコソコソ隠れてないで、最初から正門を堂々と叩いて、ちゃんと面接に来てくれたら良かったのにさ」

 

ホシノは深く、けれど今度は呆れたようなため息を吐きながら、困ったように苦笑いをした。室内に充満していた凍りつくような緊張感が、その一言で一気に霧散していく

 

ノノミもその変化を敏感に察知し、張り詰めていた肩の力を抜いて、どこか申し訳なさそうに「えへへ……」と眉を下げて笑った

 

「ごめんなさい。少し、その……小鳥遊ホシノという人物が、怖いという噂を聞いていて、声をかける勇気が出なかったんです」

 

「うへ、お姉さんそんなに怖かった? 傷ついちゃうなぁ。――でも、そっか。それじゃあ君も、これから私が何があっても守らなきゃいけない、可愛い『後輩』になるって事だね」

 

「……っ。そう……なりますね。あはは、よろしくおねがいします、先輩」

 

ホシノはパイプ椅子からゆっくりと立ち上がると、ノノミの前に歩み寄り、その小さくも頼もしい手のひらを差し出した

 

あまりにも唐突な「歓迎」の仕草に、ノノミは驚いて長い睫毛を揺らし、キョトンと固まってしまう

 

「これからよろしくね、『ノノミちゃん』。アビドス高校へようこそ」

 

「――っ! は、はい! よろしくお願いします、ホシノ先輩!」

 

初めてホシノが自分の名前を呼び、優しい笑みを向けてくれたことに、ノノミはパッと目を輝かせた。そして、差し出されたホシノの手を、両手で包み込むようにしてぎゅっと力強く握り締める

 

冷え切っていたホシノの手のひらに、ノノミの持つぬくもりが心地よく伝わっていく

 

二人はしばらくの間、確かめ合うように手を繋いでいたが、やがて気恥ずかしそうに離すと、再びちゃぶ台を挟むようにして椅子に座り直した

 

「さっきは本当に、手荒な真似をして悪いことしちゃったねぇ。怖かったでしょ? ごめんね」

 

先ほどまでネフティスの令嬢を殺気で脅していた人物とは到底思えないほど、いつものダラけた、どこか陽だまりのように緩やかな笑顔を向けるホシノ

 

ノノミは首を小さく横に振ると、困ったような、けれどすべてを受け入れるような笑みを浮かべた

 

「あはは、まぁ……あの状況でしたし、理由が理由なので仕方ないですよ。ホシノ先輩がそれだけ、何か大切なものを必死に隠そうとしていたのは分かりましたから」

 

「うへへ、物分かりが良くて助かるよ。本当に中学生?実は大人だったりしない?」

 

「もう、からかわないでください。まだ中学生ですよー……。……あ、その……言いたくなかったら、本当に言わなくてもいいのですが……」

 

「ん?」

 

ノノミはそこでお茶の入った湯呑みを両手で弄びながら、少しだけ言いにくそうに、視線を泳がせた。湯呑みから立ち上る微かな湯気が、彼女の困惑した表情を微かに濁らせる

 

「……あの、生徒会長さんと……あの時一緒にいた、可愛い子犬さん……。今は、どうしてしまったんですか? 学校にはホシノ先輩と、さっきのシロコちゃん?しかいないみたいですし……」

 

「…………」

 

ホシノは何も言わず、すっと視線を落とし、無言のまま畳の目をじっと見つめた。室内の温度が、再びふっと下がったような錯覚を覚える

 

「あ! む、無理にとは言いません! 言いたくない過去なら、私、これ以上は絶対に聞きませんからっ!」

 

ノノミは急に黙り込んでしまったホシノの横顔を見て、地雷を踏んでしまったのではないかと大慌てで手を振り、弁明の声を上げた

 

(……ユメ先輩のことはともかく……白子のことは、ずっと誰にも言わず、墓場まで秘密にするつもりだった。誰かに教えて、何かの拍子に、何も知らないシロコちゃんに真実が伝わってしまうのが、何よりも怖かったから。でも――)

 

ホシノはゆっくりと顔を上げ、ノノミの方をまっすぐに見つめた

 

中学三年生という若さでありながら、ネフティスの関係者だと自分に明かせば、自分からどんな報復を受けるか分かっていながら、それでもアビドスのために進学を決めた少女だ

 

(……覚悟が足りていないのは、隠し事をして怯えている、私の方か)

 

「……いいよ。見られていたのなら、仕方ない」

 

「い、いいんですか?」

 

「うん。それに中途半端に知てったら、いつかはノノミちゃんにはバレてしまう。だからここで私が言っても言わなくても、結果は早くなるか遅くなるかで変わらないよ」

 

ホシノは湯呑みを引き寄せ、ぬるくなったお茶を一口だけ喉に流し込んだ。そして、意を決したように息を吐き出す

 

「……少し、長い話になるけど、聞いてくれる?」

 

「はい!」

 

ノノミは居住まいを正し、ホシノの言葉を逃さないよう、真剣な眼差しで頷いた

 

ホシノは小さく息を吐き出すと、ぽつり、ぽつりと、アビドスの屋根の下に埋もれた残酷な真実を語り始める

 

「……実はね、ノノミちゃん。あの日、君が目撃した小さくて白い子犬……あの子には、名前があったんだ」

 

ホシノは遠い目をしながら、湯呑みの縁をそっと指先でなぞった

 

「名前はね、『白子(シロコ)』。……白に、子供の子、って書いて、白子ちゃん」

 

「白子……ちゃん……」

 

ノノミはその名前を口の中でそっと反芻し、それから、つい先ほど生徒会室の外へと出ていった、同じ名前を持つ銀髪の少女の姿を思い浮かべた

 

「ユメ先輩がある日、通学路に倒れていた子犬を保護したのが始まりだったんだよ。先輩はさ、ああ見えて一度こうと決めたら絶対に引かない人だから。『この子はアビドスの新しい家族です!』なんて言って、大はしゃぎで生徒会室に連れてきちゃってね。私も最初は呆れてたんだけど……気づけば、あの子のいないアビドスなんて考えられないくらい、大切な存在になってたんだ」

 

そこまで語り、ホシノの表情から完全に温度が消えた。瞳の奥に宿ったのは、昏く、どす黒い過去の残り火だ

 

「でも……私が、全部壊しちゃったんだよね」

 

「ホシノ先輩……?」

 

「当時の私はさ、今よりもずっとトガってて、アビドスに仇なす奴らは全員力ずくで叩き潰せばいいって本気で思ってた。過剰な防衛戦、なんて言えば聞こえはいいけど、要するに敵を徹底的に追い詰めて、再起不能にするまで容赦なく潰してたんだよ。……そのせいで、深い恨みを買った。私が潰したあるグループの残党が、アビドスへの、何より私への復讐のために、生徒会長であるユメ先輩を拉致したんだ。砂漠の、誰も近づかないような奥地へと連れ去られた」

 

ノノミは息を呑み、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた

 

ホシノの口から語られる言葉の端々から、当時の血生臭い空気と、張り詰めた狂気が伝わってくるようだった

 

「知らせを受けた時の私は、完全に理性を失ってた。激昂、なんて生易しいものじゃないよ。ただユメ先輩を助けること、そして先輩に触れた有象無象を一人残らず消し去ることしか頭になかった。単身で敵の拠点に乗り込んで、文字通り全てを壊滅させて……ユメ先輩を助け出すこと自体には、成功したんだ。だけど……」

 

ホシノの声が、微かに震えた

 

「撤収する時、最後の足掻きで親玉が爆発したんだ。私はユメ先輩を庇うので手一杯で、完全に避けるタイミングを逃した。……痛いけど、私ならなんとかなる、そう思ったよ。でもね」

 

「……っ」

 

「生徒会室で、大人しく留守番をさせていたはずの白子が……そこにいたんだよ。あの子、私の危機を野生の勘か何かで察知して、あの広大な砂漠をたった一匹で、必死に駆けつけてきてくれたみたいでさ。爆発の瞬間、私の前に飛び込んできて……私の『身代わり』になって、そのまま……」

 

ホシノはそれ以上、言葉を紡げなかった。ただ、静かに目を閉じる

 

「そんな……。じゃあ、あの子は……あの時、私が見た小さくて白い子犬は……」

 

ノノミは顔を青ざめさせ、戦慄に唇を震わせた

 

「うん。もう、この世界にはいないよ。私の、身勝手な怒りと油断のせいで、死んじゃったんだ」

 

絶句するノノミを前に、ホシノはさらに淡々と、自らの罪を告白するように言葉を続けた

 

「私の自業自得なのにさ……。心に深い傷を負って、自分のせいで白子を死なせてしまったって、毎日毎日、自分を呪って落ち込んでる私を見て、ユメ先輩は何とかして元気づけようとしてくれたんだ」

 

ホシノはそこで一度言葉を切り、ちゃぶ台の横に置いてあった、年季の入ったカバンへとそっと手を置いた

 

そこには、拙い刺繍で書かれた、小さな白い犬の姿が付いたお守りがぶら下がっている

 

「白子がね、先輩と私にプレゼントしてくれた、綺麗な石があったんだよ。あの子からそれを貰った日にさ、『これでいつか、ホシノちゃんにお守りを作ってあげるね』って、先輩と約束を交わしてて……それがこのお守りなの」

 

愛おしそうにお守りの表面を親指でなぞるホシノ。今はもう触れることのできない、けれど記憶の中のユメは、確かにその約束を交わしたあの日、眩しい夕暮れの中で笑っていた。

 

「先輩はさ、私のために、その約束をどうしても今すぐ果たしたかったんだと思う。だから、一人で必要な材料を買いに、トリニティへと出かけていった。……だけどね、その帰り道に、近年稀に見るような巨大な砂嵐が発生したんだ。視界を完全に奪われたユメ先輩は、アビドスの境界付近で遭難して、崩落した崖から転落……遺跡の瓦礫に、頭部を強く打ち付けちゃってね」

 

「っ……」

 

「今もなお、アビドス病院の奥で……意識が戻らないまま、植物状態のベッドに横たわっている。それが、今のユメ先輩の『本当の状況』だよ」

 

生徒会室を支配する沈黙は、あまりにも重く、冷たかった

 

ノノミは膝の上で拳を握りしめ、ボロボロと大粒の涙を畳へと落とした。あの夕暮れ、黄金色の光の中で砂を払って笑い合っていた二人の少女の裏に、これほどまで残酷で、理不尽な運命の連鎖が隠されていたなんて、想像できるはずもなかった

 

「……でね、それから1週間くらい経ったお見舞いの帰り、ただ砂漠の真ん中で座り込んで、死を待つみたいに呆然としていたその日の夜にさ。……出会ったんだよ。あの、銀髪の、記憶を無くして行き倒れていた女の子に」

 

ホシノは視線を少しだけ和らげ、先ほどシロコが出ていったドアの方を静かに見つめた

 

「荒みきっていた当時の私はさ、あの子の冷徹で、どこか捨てられた獣みたいな目を見た瞬間……死んでしまった『白子(シロコ)』を、どうしても重ね合わせちゃったんだよね」

 

自嘲気味に、けれどどこか愛おしそうにホシノの口元が微かに緩む

 

「だからさ、あの子が唯一覚えてる自分の名前が『シロコ』ってわかった時……ああ、この子はあの子の生まれ変わりなのかなって、運命みたいなものを感じて、一緒に暮らすことにしたの。……これが、白子と私とユメ先輩の話。そして、シロコちゃんとの出会いの話だよ」

 

すべてを吐き出し終えたホシノは、まるで自らの魂を内側から削り取ったかのように、酷く疲れ切った笑みを浮かべた。

 

「うへ……我ながら、本当に最低な先輩……だよね。シロコちゃんで、死んだ白子の穴を埋めようとしてるんだから」

 

過去の十字架の重さに耐えるように細い肩を震わせるホシノに対し、ノノミは潤んだ瞳をドレスの袖で力強く拭うと、ガタッと勢いよくパイプ椅子を鳴らしてその場に立ち上がった

 

「……そんな、胸が張り裂けそうなほど辛いお話を……私に話してくださり、本当にありがとうございます…!」

 

「いいよ。さっき、君にもの凄く怖い思いをさせちゃったからね。そのお詫びのつもりだと思って受け取ってもらえたら、お姉さん少しは救われるかな」

 

「いいえ……! お詫びだなんて、逆に私の方が、全然っ……全然っ、渡し足りません!」

 

ノノミは感情を高ぶらせ、台に身を乗り出した。その大きな瞳には、同情の涙ではなく、明確な「決意」の光が宿っていた

 

「私、中学校の全課程が終わって、卒業式までずーっと暇なんです! だから――明日から毎日、ここに遊びに来ます! いえ、アビドスのお手伝いに来ます!」

 

「え、ええ……っ!? ま、毎日……!?」

 

あまりにも斜め上、かつ怒涛の勢いで放たれたノノミの宣言に、ホシノは思わず困惑の声を漏らして一歩引いた

 

「私なんかが、ホシノ先輩の心に負った深い傷を、埋めるなんて大それたことは無理かもしれません……。でも、それでも私は、アビドスのために、そして何よりホシノ先輩のために、隣で何かしたいんです! だから明日から、お邪魔させてください!」

 

ノノミはそこまで一気にまくし立てると、腰の角度が直角になるほど、深く、深く頭を下げた。綺麗なベージュ色のロングヘアが、さらりと目の前で揺れる

 

「わ、分かった、分かったから! ノノミちゃん、とりあえず頭を上げてよぅ……! 私、そんな風に真っ直ぐな目で来られるの、一番弱いんだから……うへへ」

 

ホシノは慌てて両手をパタパタと振り、ノノミの頭を上げさせようとする。その狼狽える姿を見て、ノノミは顔を上げると、先ほどまでの悲痛な表情を完全に吹き飛ばすような、とびっきりの「ニコリ」とした太陽のような微笑みを浮かべた

 

「えへへ……。それじゃあ、明日からよろしくお願いしますね、先輩!」

 

目の前で咲いた大輪のひまわりのような笑顔を見て、ホシノは完全に白旗を上げるように、眉を下げて困ったように笑うしかなかった

 

「はぁ……全く。アビドスを心配してストーキングしてくる中学生かと思ったら、とんでもなく強引で、でも、すっごく心強い後輩が増えちゃったものだねぇ……」

 

「えへへ。そう言っていただけると、すっごく嬉しいです!」

 

「……うへ。これだけしっかりした後輩ちゃんが二人も揃うなら、そろそろ『おじさん』も現役を退いて、隠居生活に入ろっかなー。毎日昼寝して過ごしたいなぁ」

 

「へ? お、おじさん……?」

 

突然、自分のことを「おじさん」と自称し始めた目の前の小柄で可愛い先輩を見て、ノノミは頭の上に大きな疑問符を浮かべて小首を傾げた

 

「うん。この前ね、シロコちゃんにも『ホシノって、なんか動きがおじさんみたい』って言われちゃってさ。あはは、シロコちゃん達みたいなピチピチした元気はもうないし、肩は凝るし、ちょうどいいかなーって」

 

「う、うーん……女子高生が自分のことをおじさんって呼ぶの、その…いいの……でしょうか……?」

 

ノノミがなんとも言えない複雑な苦笑いを浮かべていると、生徒会室の扉が、今度は躊躇いがちにゆっくりと開いた

 

「……二人とも、話、終わった?」

 

ひょっこりとドアの隙間からオオカミのような耳を覗かせたのは、先ほど外に出されていたシロコだった

 

ほっとした表情のホシノが「あ、シロコちゃ……」と言いかけたところで、その言葉がぴたりと止まる。入ってきたシロコの両手には、なぜか冷え切った瓶入りの牛乳が数本、ぎゅっと握りしめられていたからだ

 

「ん。牛乳。アビドス商業街の寂れた自販機で買ってきた。冷えてる。ホシノにもあげる」

 

「……うん。牛乳なのは見たら分かるけど……うへへ、気が利くねぇ、ありがとう」

 

ホシノは手渡された冷たい牛乳瓶を不思議そうに受け取る。シロコはそのまま、もう一本の牛乳の紙キャップを爪で器用に剥がしながら、じーーっと、ノノミの「ある一部分(胸元)」を文字通り穴が開くほど凝視し始めた

 

「ん。どこかで聞いたことある。身体を劇的に成長させるには、毎日欠かさず牛乳を飲んだらいいって、キヴォトスの裏の噂で聞いた」

 

「……?」

 

「それで、わざわざ牛乳を買ってきたの? でもね、シロコちゃん。そんなに焦らなくても、シロコちゃんもいつかは成長すると思うよ? 高校生はまだまだ成長期なんだから」

 

ホシノがフォローを入れるように優しく笑いかけるが、シロコは牛乳をストローで「ちゅーっ」と不満げにすすりながら、冷ややかな、どこか恨めしそうな視線をホシノへと向けた

 

「…………世の中には、高校生になっても、一ミリも、どこのパーツも成長してない人が身近にいるから。私は、手遅れになる前に、ノノミみたいに大きくなりたい。格差社会に負けたくない」

 

「がはっ……!?」

 

シロコが放った容赦のないクリティカルヒットの一言に、ホシノはその場にガクリと両膝を突き、床に崩れ落ちた

 

確かに、ホシノはアビドスに入学してからもうすぐ一年が経とうとしているが、入学前から身長も、そして胸のボリュームも、全くと言っていいほど成長していないことを密かに、かなり深く深く悩んでいたのだ

 

(唯一伸びたのは髪の毛だけである)

 

ただでさえ、かつては生徒会長のユメという、別の意味で規格外の「暴力的な果実」を日常的に目の前で揺らされ続け、その度に格差社会の縮図を味わってきたというのに、まさか新しく入ってきた中学生にまでその現実を突きつけられるとは

 

「あ、あのー……ホシノ先輩……? 大丈夫ですか……?」

 

床に突っ伏してアイデンティティを喪失しているホシノに対し、ノノミがおずおずと心配そうに声をかける

 

するとホシノは、まるで油の切れた錆び付いたゼンマイ人形のようなギチギチとした動きで顔を上げ、怨念の篭ったオッドアイでノノミの方を睨みつけた

 

「……シロコちゃん。おじさん、今分かったよ。やっぱり、このノノミちゃんはアビドスの財政だけじゃなく、おじさんたちの尊厳をも脅かす、とんでもない『敵』なのかもしれない……!」

 

「ええっ!? ひ、ひどいです先輩! 私、何もしてませんよぅ!?」

 

「ん。ホシノ、どうすればいい? 捕獲する?」

 

床から這い上がったホシノは、ノノミの胸元をビシッと指差しながら、シロコに悪魔の作戦を伝達した

 

「シロコちゃん! GOだよ! ノノミちゃんの、あの理不尽に大きく実った果実を揉みしだいて、未知の成長エネルギーを吸い取れば、きっと私たちもナイスバディになれるはずだよ!」

 

「ん! 目指せ、ナイスバディ」

 

「えっ、ちょっと待ってください、そんなオカルトな方法あるわけ……きゃぁぁぁっ!? どこ触ってるんですかシロコちゃん!? 冷たいですっ! ホシノ先輩まで後ろから乗っかってこないでくださいぃぃーっ!」

 

「うへへ〜、減るもんじゃないしちょっと揉ませておくれよ〜! これがアビドスの伝統的な歓迎の儀式だよ〜!」

 

「ん、未知の柔らかさ。これは牛乳十本分以上の効果が期待できる。……ん、もちもち」

 

「ふ、二人ともいい加減にしてくださいーっ!」

 

先ほどまでの重苦しいシリアスな空気はどこへやら、生徒会室には、女の子たちの賑やかで、どこか少し破廉恥な悲鳴と笑い声が、夕暮れのアビドスの茜空へと、どこまでも響き渡っていった

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