ジリジリと肌を焼くような昼の強い日差しが、ひび割れたアスファルトに容赦なく照りつけている
かつては多くの生徒が行き交ったであろうアビドス高等学校の正門。今はただ砂嵐に削られるだけの静寂が広がるその場所に、場違いなほど軽やかな足取りで、機嫌の良さそうな鼻歌を響かせながら歩いてくる少女がいた
手にした大きめの袋からは、食欲をそそる香ばしいチーズと、じっくり煮込まれたトマトソースの匂いがふわりと漂っている
「今日のお昼ご飯はピザですよ〜……ふふっ♪ ホシノ先輩達、喜んでくれるといいですけど……♪」
長い金髪を揺らし、おっとりとした上品な笑顔を浮かべるその少女の名は、十六夜ノノミ。キヴォトス有数の巨大企業「ネフティス・グループ」の令嬢であり、この春からアビドスの一員となることが決まっている中学三年生だ
彼女は、生徒会長のユメ、副会長のホシノ、そして白い子犬の「白子」が、まだ三人で笑い合いながらアビドスを支えていた頃の輝きを、外側から知る唯一の人物でもあった
アビドスに憧れ、力になりたいと願うあまり、最初の頃のノノミは緊張の裏返しで、物陰からホシノ達を覗き見るようなストーカーまがいの行動を繰り返してしまっていた。おまけに、その背中に背負っているのは、アビドスを砂に埋もれさせる原因を作ったネフティスの看板だ
そんな背景があれば、ホシノから文字通り肌を刺すような、苛烈な「殺気」を向けられたのは当然の報いと言える。あの時のホシノが放った圧倒的な威圧感たるや、周辺でカツアゲを働いているヘルメット団程度なら、目が合っただけで武器を放り出して脱兎のごとく逃げ出すレベルの狂気と冷徹さに満ちていた
『――言葉は、ちゃんと選んで言った方がいいよ?』
それでも、ノノミは逃げなかった
恐怖に震える足をきゅっと押さえ、勇気を振り絞って真っ直ぐに自分の思いをぶつけたのだ。ネフティスの令嬢としてではなく、一人の人間としてこの学校に入学し、先輩の力になりたいのだと。その真っ直ぐで底知れない覚悟が、ついにホシノの頑なな心を動かし、「可愛い後輩」としての席を勝ち取った
さらに、白子がいたあの温かい時代をノノミが遠くから見つめていたことを知ったホシノは、自嘲気味に、どこか寂しそうに笑いながら、こう言ってアビドスの深い闇を打ち明けてくれた
『そっか……見られていたのなら、いつかは知られることだよね』
それは、まだ中学生のノノミが背負うにはあまりにも重すぎる、血と涙と後悔の混じる過去の真実。ユメの昏睡、白子の最期、そして書類整理と襲い来る後悔に追われるホシノの、小さな身体には似合わない巨大で歪な秘密の数々
(――でも、ここまで話してくれた先輩のためにも、私に出来ることを全部やりたい)
最後まで話を聞いても、ノノミの決意は微塵も揺るがなかった。幸いにも中学校の課程はほぼ修了しており、卒業式を迎えるまでの間は予定が一切ない
「私、卒業までずーっと暇なんです!」
それをいいことに、ノノミは次の日から本当に、この寂れた学び舎へと足を運んでいた。少しでもアビドスの財政の助けになれば、そして少しでも、ホシノの心の荷物を軽くする手伝いができれば、と
生徒会室の扉を、ノノミは元気よく押し開ける。
「お二人とも! 今日はとっても美味しそうなピザを買ってきましたよー♪」
部屋いっぱいに響く楽しげな声。しかし、帰ってきたのはいつもの気怠げな「うへ〜」という声ではなかった
「ノノミ、おはよう」
低落ち着いた声の主は、部屋の真ん中で工具を握りしめたシロコだった
「あれ? シロコちゃんだけですか? ホシノ先輩は……?」
ノノミが首を傾げると、シロコは作業用のマットにしゃがみ込んだまま、視線を工具の手元に戻した
「ん。ホシノなら、月終わりのこの時期のこの時間、殆ど学校にいないよ。どこに行ってるのかは知らない」
シロコは頬のあたりに黒いグリスをべったりと付けたまま、お気に入りのロードバイクのチェーンを手慣れた手つきで調整している
「んー、それはちょっと残念ですけど……でも、シロコちゃんがいるので大丈夫です♪」
「ん、それなら良かった。……それと、その袋、ご飯? すごくいい匂いがする」
シロコの鼻が、ノノミの持つ袋へ向けてピコピコと敏感に動く。工具を床に置き、じっと袋を見つめるその様子は、どこか餌を待つ従順な仔犬のようだ
「はい♪ そろそろお昼の時間だと思ったので、奮発して買ってきちゃいました! さ、食べる前にちゃんと手を洗いに行きましょうねー?」
「ん〜。早く食べたい。お腹、すいた」
机の真ん中に、まだ熱気を持つ箱を丁寧に広げると、二人は並んで廊下の洗面所へと向かった
「ふふ、シロコちゃん。ほっぺにもグリスがついてますよ。じっとしててくださいね?」
「ありがとう……ん」
冷たい水で大まかに汚れを洗い流し、シロコの白い頬をノノミが自分のハンカチで優しく拭いてあげる。そんな何気ないやり取りすら、アビドスに新しく灯った、確かにそこにある温かい日常の縮図だった
生徒会室に戻り、箱の蓋をパカッと開けると、黄金色に美しく焼けたチーズとバジルの香りが一気に部屋を満たした
「ん……美味しい……!」
シロコは一切れを大きく頬張ると、その瞳をキラキラと輝かせる。口元からビヨーンと長く伸びるチーズを、器用に口に収めながら、黙々と、しかし猛烈な勢いで食べ進めていく
「少し冷めちゃってますけど、気に入ってもらえて良かったです♪」
夢中でピザを頬張るシロコの姿を、ノノミはまるで自分のことのように、とても嬉しそうに見つめるのだった
今はまだ、ホシノの隣に並び立つには小さな自分たちかもしれない。けれど、こうして一つの机を囲み、温かいご飯を美味しいと笑い合える時間を積み重ねていくこと
それこそが、いつか先輩の閉ざされた心を溶かす鍵になると信じて、ノノミは優しく微笑みながら、自分の一切れにそっと手を伸ばした
「それにしても……ホシノ先輩がいらっしゃらないとなると、私、今日はいったい何をしたらいいのでしょう?」
ピザを一口上品に食み、もぐもぐと咀嚼しながら、ノノミは小首を傾げて目を閉じた。アビドスの力になりたいと意気込んでやってきたものの、いざホシノが不在となると、中学生の自分にできる仕事が思い浮かばない
「ん。お仕事なら、そこにあるけど」
シロコがピザを持ったまま、顎で生徒会室の机の端を指し示す。そこには、崩壊寸前のアビドスが抱える膨大な債務処理の書類や、複雑に絡み合った地域交渉の報告書がうずたかく積まれていた
「あはは……。これらはまだ通い始めて日の浅い私が手を付けられる領域ではなさそうですね……。何より、ホシノ先輩にしか分からない固有の暗号や処理手順があるかもしれませんし。勝手に触って、ただでさえ余裕のない先輩の手を煩わせるわけにはいきませんから」
「ん。それはそう。ホシノの書類、時々すごく変なバツ印とか書いてある」
「そうなんですか? ふふ、意外と大雑把なところもあるんですね。――んんん……。それなら、学校のあちこちをお掃除……でもしましょうか……!」
せめて体を使う雑用で貢献しようと、名案を思いついたように顔を輝かせるノノミ。しかし、シロコはピザの耳を小さくかじりながら、淡々とその希望を打ち砕いた
「ん、お掃除なら、私が今朝全部やったよ。廊下も、窓ガラスも」
「はぅ……、そうなのですか……」
ノノミはがっくりと肩を落とし、情けない声を漏らした。確かに、今日この学校に足を踏み入れた際、廊下や生徒会室の周辺には目立った砂埃が溜まっていなかった
シロコが毎朝、驚くほど真面目に、そして丁寧に雑巾がけや掃き掃除をこなしている証拠だった
ホシノの帰りを待つにしても、シロコの口ぶりからすれば、彼女がいつこの部屋に戻ってくるのかは完全に不透明だ。夕方になるかもしれないし、最悪の場合は夜まで帰ってこない可能性すらある
せっかくのノノミのやる気の炎に、容赦なく冷水が浴びせられたような形だった
「うう〜……。せっかくやる気満々で来ましたのに、何もできないというのは、なんだかちょっぴり寂しいですね……」
大きな身体を心持ち小さくして、いじけるように溜息をつくノノミ
そんな彼女の様子をじっと見つめていたシロコは、最後の一切れのピザを手に取りながら、ぶっきらぼうに、けれど彼女なりの優しさを滲ませて提案した
「ん。それなら……今日は私が、学校の案内をしようか?」
「え!? 本当ですか!? いいのですか!?」
「う、うん。ノノミ、すごく暇そうだし。あちこちでうろうろされると、自転車の調整に集中できない」
「ありがとうございます、シロコちゃん♪ この学校に何があるのか、ずっと気になっていたのです!」
ガタッと椅子を鳴らすほどの勢いで身を乗り出し、目をらんらんと輝かせるノノミ
そのあまりの距離感の近さと猛烈な熱意に、流石のシロコも少しだけ気圧されたように身を引きながら、ピザの最後の一切れを口に放り込んだ
「ん。と言っても、特段珍しいものはないよ? 過半数は砂の影響で精密機器が壊れて使えなかったり、今の私たちには使う用途がなかったりする部屋ばかりだから」
「なるほど、使えないお部屋がどれくらいあるのかを把握しておくのも、これからのアビドスにとっては大切なことかもですね!」
どこまでも前向きで、どんな状況にも希望を見出すノノミの言葉に、シロコはふっと目を細めた
「それじゃ、片付けたら行こうか。ん、ごちそうさまでした。美味しかった」
「はーい♪」
ノノミはニコニコと満面の笑みを浮かべ、食べ終えた空き箱を器用に折りたたんで袋にまとめると、慣れた足取りで歩き出すシロコの斜め後ろを、弾むようなステップで着いていった
人気のない、がらんとした廊下に二人の足音が響く。窓から差し込む陽光には、細かな砂の粒子がキラキラと踊っていた
「シロコちゃんは、ここに暮らすようになってから、どれくらいになるのですか?」
「ん、確か……そろそろ三ヶ月、かな。記憶がない私を、ホシノが拾ってくれてから」
「そうなのですね! ということは、ここではある意味、シロコちゃんが私の『先輩』になりますね!」
「ん!」
ノノミの「先輩」という言葉が琴線に触れたのか、シロコはふふん、と鼻を鳴らして嬉そうに薄い胸を張った。普段は物静かなシロコが、少しだけ得意げになっている姿がたまらなく愛らしい
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は古びた扉の前で足を止めた
「まずはここ、家庭科室。火とか水とかも、一応ちゃんと使える。私がここに来た時から、なぜかここだけは綺麗だったよ」
扉を開けると、ステンレスの調理台が綺麗に磨かれた広々とした空間が現れた。確かに砂の侵入が少なく、今でも十分に調理ができそうな状態が保たれている
「本当ですねー、外見からは想像つかないくらい整頓されています。……あれ? でも、あちらの棚にある……あの黒焦げの鍋は何でしょうか?」
ノノミが好奇心旺盛に調理棚を開けて中を覗き込むと、ピカピカに磨かれた他の調理器具の奥に、見る影もなく真っ黒に変色し、熱で歪んでほとんど使い物にならなくなった不気味な鍋や、原型を留めていないお玉が、まるで封印されるかのようにひっそりと収納されていた
「あ、それ……近寄っちゃダメ。呪われてる」
「えっ、呪いですか!?」
「ん。私も気になって前にホシノに聞いたことがある。でも、ホシノはすごく気まずそうに目を泳がせて『それは砂漠の魔物が残していった遺物だよ〜』って、何も教えてくれなかった。……だけど、私の生存本能が言ってる。あれは、ホシノが料理を失敗した跡」
「え? ホシノ先輩が、料理を失敗……ですか? 先輩は何でも完璧にこなせてしまうイメージがありましたけれど、意外です」
ノノミの脳裏には、どんな重い盾も軽々と扱い、襲い来る悪党を冷徹に叩き潰す、あの無敵の副生徒会長の姿が浮かんでいた。しかし、シロコは思い出すだけでも恐ろしいと言わんばかりに、瞳の光を消し、幽霊でも見たかのような深刻な表情で首を振った
「……ノノミは、まだホシノの手料理を食べたことがないから、そんなことが言える。……あの、食べた瞬間に視界がチカチカして、トイレから一日中出られなくなる恐怖は、経験した人にしか分からない……。あれは料理じゃない。炭素の塊。もしくは、新種の化学兵器」
「あ、あははは……」
シロコの尋常ではない怯えっぷりと、そのリアルな表現を目の当たりにして、ノノミはすぐにすべてを察した。引きつった笑みを浮かべながら、そっと棚の扉を閉める
どうやら、あの小さな副生徒会長は、壊滅的なまでに料理の才能が皆無であるらしい。初めて見かけた時は、触れれば切れる剃刀のような冷徹さと、何でも一人で抱え込んでこなしてしまう超人のような危うさを感じていたが――まさか、そんな家庭的な部分で致命的な弱点があるとは
(ふふ、何だかそういう抜けたところがあるのは、とっても可愛らしいですね)
ホシノの新たな一面を知り、少しだけ親近感を覚えたノノミだったが、そこでふと、先ほどのシロコの言葉に小さな疑問が湧いた
「そういえば、シロコちゃんとホシノ先輩は、今はお二人だけで生活されているのですよね? 毎日のご飯とかは、いったいどうされているのですか?」
「ん、私が作ってる。三食すべて」
「えっ!? シロコちゃん、お料理ができるんですか!?」
驚きのあまり、少し声を裏返してしまったノノミ。すると、シロコは眉間に小さな皺を寄せ、ムッと不満そうに頬を膨らませた
「ノノミ、それ、私に対してすごく失礼。私だって、やればできる。レシピの分量、ミリグラム単位で正確に守るタイプだから」
「あ、ごめんなさい! 決してお料理ができないなんて思っていなくて、ただ、少し意外だったもので……!」
慌てて手を振って弁解するノノミに、シロコは少しだけバツが悪そうに視線を彷徨わせながら、ポツリと本音を漏らした
「……ん。まぁ、私も、最初は全然できなかった。でも、ここに来て、ホシノが最初に作ってくれた『スープ』を口にした時、本能が全力で警鐘を鳴らした。……このままこの人の料理を善意で食べ続けたら、アビドスが借金を返す前に、私が確実に死ぬって。だから、生きるために必死動画を見て、レシピを学んだ。結果、今の私の料理は完璧」
「なるほど、それは……本当に必死のお勉強だったのですね」
それは、アビドスの過酷な環境が生んだ、シロコなりの生き残るための戦い(?)であったらしい。ノノミは感心すると同時に、シロコの健気な努力に胸が温かくなるのを感じた
「……だから、もしノノミが良かったら、今度私の作ったご飯、食べる? 栄養バランスも、味も、保証する」
「はい! ぜひ食べたいです!」
身を乗り出して即答したノノミに、シロコはちょっぴり照れくさそうに、けれど今度は自信に満ちた笑みを浮かべて頷いた
「ん。その時は事前に言ってね。腕によりをかけて、とびきり美味しいのを作るから」
「ふふ、楽しみにしていますね♪」
無邪気に笑い合う二人の声が、誰もいない校舎の静寂に温かく溶けていく。ホシノのいない寂しさは少しだけあったけれど、こうして「先輩」であるシロコとの距離が、一歩ずつ確実に縮まっていくことが、ノノミには嬉しくてたまらなかった
「――つぎはここ。浴場だよ。たまに私とホシノが使ってる。砂を落とすのに便利」
シロコが案内したのは、体育館の裏手にひっそりと佇む平屋の建物だった。アビドスを覆う容赦ない砂の侵食から守るように、シロコ自身が丁寧に枯れた雑草を毟り、砂を掃き清めているのだろう
浴場へと続くコンクリートの渡り廊下は、他の打ち捨てられた通り道に比べて見違えるほど綺麗に保たれていた
鉄扉を開けて中を覗き込んだノノミは、その奥行きにパッと顔を輝かせた
「わぁ……! すごく広いですね! 銭湯みたいです!」
「ん。ホシノの家のお風呂はすごく狭いから、私はこっちの大きい方が好き。手足を伸ばして泳げる」
「ふふ、確かにこれだけ広ければ、毎日温泉気分を味わえちゃいますね♪ ええと、大体私のお家のお手洗いくらいの大きさでしょうか」
「…………お手洗い?」
シロコの手がピタリと止まり、その精悍な顔がにわかに引き攣った
「ん。ノノミ、今なんて言った? お手洗い……?」
「はい、お家のお手洗いです。ちょっとしたドレッサーとソファが置いてある、ここと同じくらいかなって」
「……ソファがあるお手洗い。意味がわからない。トイレは、用を足す場所」
「あら、そうでしょうか? 落ち着いて本を読んだり、メイクを直したりするのに丁度いい広さって、これくらいになりますよね?」
お手洗いが、この、何十人もが一度に入れるレベルの浴場と同じ広さ
ネフティス・グループの底知れない財力と令嬢の規格外な生活水準を突きつけられ、シロコは脳内でどれだけ巨大なトイレなのかを想像しようとして、危うく思考迷宮に迷い込みそうになった
「ん。ノノミの家、大富豪すぎる。世界が違う」
「ええへへ、そんなことないですよぅ」
そんなシロコの内心の動揺を知ってか知らずか、ノノミは楽しげにステップを踏んで脱衣所の中へと足を踏み入れる
「わー、木製の棚はほとんど湿気と砂でダメになっちゃっていますね……あっ、あそこの二つだけ、とっても綺麗に直されていますね?」
「ん。そこ、ホシノが昔、器用に部材を切り出して直したみたい。今は私とホシノで一つずつ、そこを使ってるよ。……なんでホシノがわざわざ二つだけ直したのかは、私には分からない。私の他にも、誰か居たみたいだけど」
(昔……ということは、やっぱり生徒会長さんと使われていた時のもの、でしょうか……)
シロコの話を遮らないように聞きながら、ノノミはそっと胸元に手を当てた
「シロコちゃん、ホシノ先輩からその『誰か』について、何か聞いたことはありますか?」
「ん。何回か聞いた。でも、いつも『シロコちゃんにはまだ早いかな〜』って言って、話を逸らされる。ノノミは、何か知ってる?」
「……いいえ。私からは、何とも」
やはり、ホシノはシロコに対しても、過去のことはほとんど教えていないのだ。白子のこと、ユメのこと。ホシノの過去を知るノノミだからこそ、その徹底した「隠蔽」の意味が痛いほどよく分かる気がした
料理の下手さを隠すのはただの可愛い羞恥心かもしれないけれど、過去を隠すのは、これ以上誰も傷つけたくないというホシノの痛々しい防衛本能の表れなのだ
そんな少しだけ重い空気を振り払うように、二人が次に向かったのは、校舎の地下に位置する屋内射撃場だった。そこはシロコが日々、肉体と技術を限界まで追い込むために使っている神聖な特訓の場だ
コンクリート剥き出しの壁には、無数の弾痕が深く刻まれており、硝煙の匂いが微かに鼻腔をくすぐる
「ここで毎日、特訓してる。銃の整備も、タクティカルリロードの練習も、全部。……いつかは、ホシノを倒す」
「ホシノ先輩を倒す、ですか? 喧嘩をしちゃうという意味ではなくて?」
「ん。ホシノは強い。私がどんなに不意打ちしても、全部いなされる。だから、あの人をちゃんと倒して、私がアビドスで一番強くなる。そうすれば、ホシノを私が守れる」
「ふふ、シロコちゃんは本当にストイックで、頑張り屋さんなんですね」
「ん! 負けない」
鋭い眼差しで標的を見据えるシロコの頭を、ノノミは「偉いですね〜」と撫で回したい衝動をグッと堪えた
こうして一通りの案内を終えた二人は、長い探索の心地よい疲労感を覚えながら、再び生徒会室へと戻ってきた
「とっても楽しかったです、シロコちゃん! 案内してくれてありがとうございました♪」
「ん、ノノミが楽しかったなら良かった。……はい、お茶。熱いから気をつけて」
「わぁ、ありがとうございます」
シロコはすっかり慣れた手つきで、急須から湯気の立つ温かい緑茶を二つの湯呑みに注ぎ、ノノミのすぐ隣のソファにちょこんと腰掛けた
ズ、ズズ……と、ほぼ同時に温かいお茶を口に含み、二人は波の引いた海岸のような、のんびりとした沈黙を楽しんでいた
そんな穏やかな空気の中で、シロコが湯呑みを見つめたまま、ふと疑問を口にした
「そういえば……ノノミは『ネフティス』っていう凄いところの人なんだよね?」
「んんっ!? ――ごほっ、けほっ、けほ……! は、はい、そう、ですね……?」
突然核心を突くワードが飛び出し、お茶を変なところに入らせて激しくむせるノノミ。涙目でハンカチを口元に当てながら、何事かとシロコを見つめ返す
「びっくりした……。どうして急にそのお名前が?」
「ん。ホシノがたまに、書類を見ながら『ネフティスがどうこう』って独り言を言ってたから。……でも、ノノミがそんなにお金を持っているのなら、アビドスが抱えているあの膨大な借金も、なんとかできたりするの?」
「…………それは……」
ノノミの笑顔が、ほんの少しだけ陰り、複雑な色彩を帯びた
彼女は制服のポケットにそっと手を忍ばせると、小さなパスケースを取り出し、その中から先ほどピザの会計でも使った、金色に怪しく輝くクレジットカードを指先に挟んで取り出した
「……綺麗。……それ、なに?」
「これは、私の個人名義のクレジットカードです。これさえあれば……ええ、アビドスが背負っている何億という借金も、一瞬で、全て完済することができます」
「!」
シロコの瞳が、驚愕に大きく見開かれる。アビドスを縛り付ける最大の呪いが、その小さな金色のカード一枚で消え去るという現実
しかし、シロコが歓喜の声を上げるよりも早く、ノノミは困ったような、ひどく切ない苦笑いを浮かべてカードをポケットへと戻してしまった
「ですが……えへへ、ホシノ先輩に、これを使うことはきつく止められているんですよね」
シロコは納得がいかないというように首を大きく傾げ、真っ直ぐにノノミを見つめた
「なんで? 借金がなくなれば、ホシノもあんなに苦しまなくて済むのに。毎日、夜遅くまでパトロールして、ボロボロにならなくていいのに」
「それはね、シロコちゃん……」
♢
それは、昨日の夕暮れ時の帰り道のこと
「ん……私、もう少しだけ自転車に乗ってから帰ってもいい?」
茜色に染まる砂漠の坂道を、三人で並んで歩いていた時、マウンテンバイクを押したシロコが不意にそんなことを言い出した
ホシノは少しだけ心配そうに眉をひそめ、沈みかけの太陽を睨むように見つめた後
「いいよ。でも、もうすぐ完全に暗くなっちゃうから、あんまり遠くに行かずに早く帰るんだよー?」
「ん! 何か悪い人が来ても、このまま自転車で轢き潰すから大丈夫」
「うへ〜……せめて轢く前に銃を使ってね? おじさん、過失致死の書類仕事は御免だよ〜」
ホシノが呆れたような苦笑いを浮かべて宥めるのも束の間、シロコは返事を聞いているのか怪しいほどの猛スピードでペダルを漕ぎ出し、あっという間に黄金の砂煙の向こうへと走り去ってしまった
遠ざかっていくマウンテンバイクの残像を見送りながら、ノノミはふと思い出したように、隣を歩くホシノへと視線を落とした
「シロコちゃん、本当に元気ですね♪……そういえばホシノ先輩。シロコちゃんって、ホシノ先輩のことを『先輩』って呼びませんよね? 何か理由でもあるのですか?」
「うへ……それね。私も最初はさ、可愛い後輩から『先輩!』って慕われたくて、何度もそう呼んでって言ってたんだけどねー……。当の本人は何度言っても『ホシノはホシノ』って譲らないもんだからさ、もう諦めちゃったんだよ」
「なるほど、シロコちゃんらしい頑固さですね……」
「まあ、名前で呼ばれるのも、それはそれで距離が近くて悪くないんだけどね〜」
肩をすくめて「うへ〜」と力なく笑うホシノの様子に、ノノミは思わずクスリと苦笑いを漏らした
しばらく二人の規則正しい足音だけが、静まり返った夕暮れの道に響く。傾いた太陽がアビドスの広大な砂漠を真っ赤に染め上げ、影を長く伸ばしていく
その美しくもどこか寂しげな光景を見つめていたノノミは、胸の奥に秘めていた「本題」を切り出すべく、制服のポケットへとそっと手を滑らせた
「ノノミちゃん?」
足元に落ちていた石ころを蹴ろうとしていたホシノが、不審な気配に気づいて横を向く
その瞬間、ノノミの指先から、夕日を浴びて目も眩むような黄金の輝きを放つ一枚のカードが差し出された
「じゃーん✨」
「わっ!? な、何そのカード……ま、眩しい!? おじさんの目が痛いよ!?」
「えへへ、驚かせてしまってすみません。このカードはですね、ネフティスから私が一人で暮らしていけるようにって渡されたカードなんです。どんなにお買い物をしても、上限額を気にしなくていい、魔法みたいな凄いカードなんですよ!」
「へー……さすが大企業の令嬢様、持ってるものの桁が違うねえ……」
感心したように目を細めるホシノの言葉に、ノノミはこれ以上ないほど声を弾ませて、一歩詰め寄った
「だから! アビドスが抱えているあの借金も、このカードで一括返済しちゃえば――」
「ダメだよ」
ノノミの言葉が最後まで紡がれるより早く、遮るように冷徹なトーンが響いた
普段の気るげな「先輩」の仮面が剥ぎ取られたような、低く、拒絶の意をはらんだ声。ノノミは差し出したカードを握ったまま一瞬だけ硬直したが、すぐに焦ったように声を裏返した
「な、なんでですか!? これさえあれば、ホシノ先輩の肩の荷が一つ降りるんですよ!? 毎日あんなに苦労して、書類や夜回りに追われなくて済むのに……!」
「うう〜ん、違うよノノミちゃん。そんなことをしたらね、借金の返済義務がカイザーローンからネフティスに移るだけだよ」
「っ……!」
「それに、そうなったらノノミちゃんは、アビドスのために一生、ネフティスに頭が上がらなくなっちゃう」
図星を突かれたノノミの息が詰まる。ホシノはそんな彼女を深く傷つけないよう、今度は諭すような、いつもの優しい口調へと戻して言葉を続けた
「ノノミちゃんが私たちのことを想って、そう言ってくれるのは本当に嬉しいよ。でもね? 今ノノミちゃんが持っているそのカードの価値は、ノノミちゃん自身の手で生み出したものでも……ましてや、私たちが汗水流して稼いだお金でもない。それは『ネフティス・グループ』という巨大な組織のお金なんだ」
「それは、そうですけど……でも、私のお金でもあるから……私、アビドスのみんなの役に立ちたくて……」
「それにさ、ネフティスに今、無償で私たちアビドスを救うほどの『余裕』は、本当にあるのかな?」
ホシノの静かな、しかし確信に満ちた言葉に、ノノミは完全に沈黙してしまった
確かに、現在のネフティスは砂漠化対策事業の失敗などにより、かつてキヴォトスでトップを争っていた頃のような絶対的な権勢を失いつつある。アビドスの借金を肩代わりする程度なら、企業体力としてはそこまで致命的な痛手にはならないかもしれない。それでも、何の利益も生まない衰退自治区のために大金を投じるとなれば、株主や上層部が黙っているはずがなかった
「だ、大丈夫です……っ! お父様たちには、私から上手にお話ししますから! ホシノ先輩やシロコちゃんには、絶対に、絶対にご迷惑はかけません……!」
必死に食い下がるノノミの言葉を、ホシノは悲しげに目を細めて受け止めた
「……あのね、ノノミちゃん。仮に一時的に払えたとしても、世の中で『無償の取引』ほど、後から求められる対価が大きいものはないんだよ。もし私やシロコちゃんが、そのお金の力で借金を払わなくて良くなったとしたら……その帳尻を合わせるための『対価』は、一体誰が払うと思う?」
ホシノは砂を踏み締め、ノノミのすぐ目の前まで歩み寄ると、その小さな身体で、大企業の令嬢をまっすぐに見上げた
「――ノノミちゃん自身、だよ?」
「っ!!」
「ノノミちゃんが普段の生活の中で、美味しいものを食べたり、好きなお買い物をしたりする分には、おじさんだって何も言わないし止めないよ。だってそれは、ノノミちゃんに与えられた正当な自由なんだから。……でもね? この学校の『業(借金)』にそのカードを使うっていうのなら、おじさんは絶対に、絶対に許可しないよ。ノノミちゃんが苦労してまで私達は楽になりたいとは思わないから。そんなの、先輩失格だしね」
「……す、すみません……。私、先輩を助けたい一心で……そこまで考えが至りませんでした……」
ノノミは力なく視線を落とし、夕日の光を失ったゴールドカードをポケットの奥深くへと仕舞い込んだ
自分がアビドスに来れば、すぐにでもその圧倒的な財力でみんなを救い出し、笑顔にできる。そう信じて疑っていなかったからこそ、現実の冷酷さと、己の未熟さを突きつけられたショックは、中学生の彼女にとってあまりにも大きかった
俯き、今にも泣き出しそうなノノミの頭を、ホシノは困ったように、けれど愛おしそうにクシャリと撫でた
「だってさ、君は今日から、私にとって大切な『後輩ちゃん』でしょ? 一緒に頑張ることと、自分の関係のない荷物を一人で背負い込むことは、全く違うんだよ。アビドスの問題は、アビドスのみんなで血と汗を流して解決しなきゃ、意味がないんだ」
「っ〜……ほ、ホシノ先輩……」
「はい! というわけで、この話はおーしまい! 借金の件はおじさんがどうにかどうにか解決してみせるから、ノノミちゃんはなーんにも気にせず、明日からも元気に学校へおいで」
ホシノは話を打ち切るように、パンッと小さく手を鳴らした
その様子を見ていたノノミは、溢れそうになる涙を指先でぐっと拭うと、どこか悪戯っぽい、彼女本来の笑顔を取り戻してホシノを睨んだ
「……ふふ、でもそれって、結局ホシノ先輩が全部『一人で背負う』のと一緒じゃないですか?」
「うぐっ……わ、私はいいの! 先輩なんだから、後輩の前では格好つけさせてよ!」
「それじゃあ……アビドスの借金じゃなくて、私個人の『大好きなもの』のためにカードを使うなら、文句はありませんよね? 借金以外なら!」
ノノミのその一言が放たれた瞬間、ホシノの背筋に、ゾクリとした戦慄が走った
まるで真冬の砂漠で、背中から直接氷水を流し込まれたかのような、防衛本能が最大限の警報を鳴らす嫌な気配
「な、何を買うのかなー、ノノミちゃん……?」
「ホシノ先輩の、お洋服を買いに行きます♪ 先輩、いつも同じ服ばかりなんですから、もっと可愛いお洋服を着てください!」
「うへぇ!? なんで話がそうなるの、おじさん服なんてこれ一着あれば十分だよ!? やめてノノミちゃん、その眩しいカードをしまってぇー!」
♢
「――ということが、昨日あったんですよ〜」
「…………」
生徒会室でノノミの話を最後まで聞き終えたシロコは、手にした湯呑みを口元に付けたまま、完全に唖然とした表情を浮かべて固まっていた
「……なんで借金の話から、ホシノの服を買う話になるの? ネフティスのお金、使い道が極端すぎる。ん、意味がわからない」
シロコは怪訝そうに眉をひそめ、湯呑みをテーブルに置いた
そんな心底呆れ果てたような表情に対しても、ノノミは少しも動じることなく、上品にセーラー服の袖で口元を隠しながら「ウフフ……♪」と満ち足りたおっとり笑顔を浮かべている
「ふふっ、乙女の純粋な投資ですよ♪ いつものホシノ先輩も素敵ですけれど、たまにはフリルのついた可愛いワンピースとか、お花の髪飾りとか、絶対に似合うと思うんです! シロコちゃんもそう思いませんか? お洋服、一緒に買いに行きましょう?」
「ん、長くなりそうだから遠慮する。服は動ければ何でもいい。……というか、ホシノにそんな服を着せたら、恥ずかしがって砂漠に生き埋めにされる気がする」
「あら、それはそれで可愛いかもしれませんね♪」
「ん、ノノミの基準がわからない……」
令嬢の常識外れな行動力と独特の感性には、さすがのシロコも翻弄されるほかないらしい
湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら、ノノミは少しだけ声音を落とし、優しく問いかけた
「でも……シロコちゃんも、アビドスが抱えているあの借金のことは、ちゃんと知っていたんですね」
「ん、もちろん。……ホシノは、私に心配をかけたくないからって必死に隠してやってるつもりみたいだけど……隠し事、下手くそだったり、色々分かりやすいから。夜中に、すごく難しい顔をして数字の並んだ紙を見てるのも、知ってる」
「……あらあら、それは」
ノノミは胸の前で両手を合わせ、困ったような、しかし愛おしそうな笑みを深めた
シロコの発言には、どこか深い含みがあった。ただ単に借金の存在を知っているというだけでなく、ホシノが夜も眠らずに一人で背負い込んでいる孤独も、そのために削られている小さな背中の傷も、全て分かった上で見守っているかのような、そんな静かな確信
「ん。だから、ノノミがさっき言ったことも、少しはわかる。あのカードがあれば、ホシノが夜回りでボロボロにならなくて済む。……だけど、ホシノが怒るのも、なんとなくわかる」
「え……? シロコちゃんも、そう思うのですか?」
「ん。ホシノは、誰かに頼るのがすごく怖いんだと思う。自分で背負っていないと、いつかまた、大事なものが砂の中に消えていっちゃいそうで……だから、自分で抱え込もうとする。……でも、私はそれが悔しい」
シロコはキュッと小さな拳を握りしめた。無理にこじ開けようとしても、ホシノはきっともっと頑なになって、さらに遠くへ行ってしまう
「ホシノが自分から言わないなら、私は何も聞かない。だけど……ただ黙って見ているだけじゃなくて、私はホシノの手助けがしたい。そのためには、まずは私があのホシノよりも強くならないと。力でねじ伏せてでも、荷物を半分奪い取る」
「シロコちゃん……」
シロコの真っ直ぐな言葉に胸を打たれつつも、それはそれとして学校の規律は大事です、とノノミは上品に居住まいを正した
「そうです。シロコちゃんにはちゃんと話をしないとって思ってたんです」
「ん? なに?」
「シロコちゃん? さっきのお話にもありましたけど、ホシノ先輩にはちゃんと『先輩』って呼びないとダメですよ? 学校の秩序としても、可愛い後輩としても、そこは譲っちゃいけません」
人差し指を立てて先生のように諭すノノミに対し、シロコはやはり納得がいかないというように、銀髪の頭を小さく傾げ、冷淡に言い放った
「ん、ホシノはホシノだよ。……それに、アビドスは実力主義。一番強い人がルール。今のところホシノが一番強いから、呼び方はホシノの自由。でも、次は私が勝つから、呼び方は私が決める」
「ホ・シ・ノ・先・輩、ですよ? それに学校は実力主義の格闘技場ではありませんよ〜?」
「ん……そこだけは、ホシノがどれだけ強くても私は譲らなかった。それに、ノノミは見た感じ私よりも細くて弱そう。そんなひょろひょろな腕じゃ、私の呼び方に口を挟むのは百年早い」
シロコがそうぶっきらぼうに告げ、お茶をすすろうとした、その刹那――
生徒会室の空気が、まるで見えない凍土に閉ざされたかのように、一瞬でピキリと変貌した
「――シロコちゃん♪」
「な、なに……?」
いつもと変わらない、鈴を転がすような美しい声音。いつもと変わらない、極上の聖母のような微笑み
それなのに、シロコの本能は「今すぐ武器を構えて最大警戒を取れ」と警報を鳴らしていた。背筋を駆け上がるゾクゾクとした恐怖の正体が分からないまま、シロコは思わず身構える
「少し、お互いの親睦を深めるために……握手、してみませんか? これからのアビドスを引っ張っていく、大切な仲間として」
スッと差し出される、白くしなやかな、いかにも深窓の令嬢らしい美しい手
ノノミはにこやかに微笑んでいるだけなのに、どうしてこれほどの圧迫感があるのだろうか
室内が、まるで巨大な重力室に変わったかのような錯覚さえ覚える
「ん……。握手くらいなら、別にいい」
野生の直感が全力で逃げろと告げていたが、ここで引くのはアビドスの戦士としてのプライドが許さない。シロコは恐る恐る、自分の右手を伸ばし、ノノミの手を握った
触れた感触は、想像通り柔らかく、温かい。ほのかに高級な石鹸のような良い香りすら漂うその手が、ゆっくりとシロコの手の甲を包み込んでいく
――次の瞬間だった
「痛たたたたたたっ!? んんんっ!?」
ミチミチ、ギチギチと、骨と関節が悲鳴を上げる恐ろしい音が響いた
それはまさに、装甲車を油圧でひしゃげる万力そのもの。お嬢様の可憐な指先から放たれているとは到底信じられない超質量の圧力が、シロコの右手を容赦なく締め上げる
あまりの激痛にシロコは水色の目を丸くし、必死になってノノミの手を振り払おうと暴れるが、まるで強固な鉄鎖で固定されたかのように、一ミリたりとも微動だにしない
「っ、んんーっ! なにこれ、離して……っ! 力、強すぎる……!」
ノノミは相変わらず、天使のような慈愛の笑みを浮かべたまま、涼しい顔で語りかけた
「ふふ、言い忘れていましたけれど……私の愛用する武器は、6連銃身のガトリンガン――ミニガンなんですよ♪」
「みに、がん……っ!?」
「ええ。弾薬と本体を合わせて、何十キロもあるあの重たい子を、毎日こうして……ギュッと抱きしめて、片手で振り回しているんです。ですから、ほんの少しだけ、手の力が強くなってしまうみたいで」
それを普段から軽々と扱っているノノミの基礎筋力が、一般の生徒の枠に収まるはずがなかった。完全に純粋な、圧倒的パワーの暴力
「シロコちゃんは、私の本当の『強さ』を知りたいんですよね? でも、ここでお互いに銃を撃ち合うのは危ないですから……この温かい握手だけで、これからの関係性をよーく考えてくれませんか? 『先輩』という言葉の重みについて……ね?」
ギチ、とさらに一段階、万力の出力が上がる。シロコの視界が痛みのあまりチカチカと明滅した
「んんん!! わ、分かった! ちゃんと! 呼ぶから! 痛い、手が潰れる、骨がバラバラになるっ!」
普段は滅多に感情を表に出さないシロコが、涙目で必死に降伏の意思を示すと、ノノミは「あらあら♪」と満足したようにパッと手の力を抜いた
「ふふ、ご理解いただけて嬉しいです♪」
拘束から解放されたシロコは、大慌てでソファの端、いや、窓際の隅っこまで一瞬で飛び退いて距離を取ると、真っ赤になった右手を必死にさすりながら、フーフーと息を吹きかけて涙を堪えていた
ノノミ、恐るべし
その実力はアビドスの序列を根底から揺るがすに十分だった
「ただいま〜……って、うへ? 二人とも何して遊んでるの?」
ガラリと生徒会室の扉が開き、あまりにも絶妙なタイミングで副会長が帰ってきた
手にした巨大な盾とショットガンを慣れた動作で壁のラックに掛けながら、ホシノはキョトンとした表情で、涙目のシロコと、何食わぬ顔で微笑むノノミの二人を交互に見つめていた
室内に漂うのは、先ほどまで食べていたピザの香ばしい名残と、それに全くそぐわない、一触即発の戦闘直後のような奇妙に張り詰めた空気だ
「あ、ホシノ……。おかえり」
シロコの声が心なしか震えている
「うへ? シロコちゃん、どうしたのその目? もしかしてノノミちゃんにいじめられた?」
「いえいえ、何も怪しいことなんてしていませんよ? 少しシロコちゃんと、今後のアビドスについて、先輩と後輩の絆を深めるための有意義なお話をしていただけですから。ね? シロコちゃん♪」
先ほどまでの肌を刺すような威圧感は一体どこへ行ったのか、ノノミはいつも通りのゆったりとした、柔らかいお嬢様オーラを全身から発している。だが、その完璧な笑顔の奥に潜む底知れない「何か」を身をもって体感したシロコは、未だにジンジンと痛む右手を制服の袖でそっと隠しながら、ボソリと小さく呟いた
「ん……ノノミ、すごく、怖い。……猛獣の匂いがする……」
「あらあら、人聞きが悪いですね。私はただ、先輩と後輩の正しいあり方について、優しくアドバイスをしただけですよ?」
小首を傾げてウフフと微笑むノノミ。その仕草一つとっても上品で非の打ち所がないが、シロコにとってはもはや、どんな凄腕の傭兵よりも恐ろしい存在にしか見えなかった
ノノミはそんなシロコの反応を大いに楽しみながら、ふと、思い出したように人指し指をチッチッと左右に振ってみせる
「あら? そういえばシロコちゃん。ホシノ先輩が戻っていらしたら……真っ先に言うべきことが、ありましたよね?」
ノノミは淹れたてのお茶の湯呑みをソーサーに乗せながら、小首を傾げてトントンと自分の唇を人指し指で叩いた
その目は「まさか忘れていませんよね?」と、言葉以上に雄弁に物語っている
「おじさんに? 一体何の話かな〜? 二人で内緒の作戦会議でもしてた?」
ノノミに促され、ホシノはますます首を傾げた。寝癖のついた桃色の髪をポリポリとだらしなく掻きながら、不思議そうに二人の様子を交互に覗き込んでいる
シロコは一瞬、プライドが高く頑固な彼女らしく、ひどく嫌そうな、猛烈に抵抗したそうな顔を浮かべた
瞳を左右に激しく泳がせ、なんとかこの場を逃れる言い訳を探そうとする
(これに逆らえば、次は握手だけでは済まないかもしれない――)
しかし、視線の先でノノミがこれ以上ないほど「慈愛に満ちた完璧な聖母の笑顔」でこちらをじっと見つめていることに気づいた瞬間、シロコの思考は完全にフリーズした
先ほどの、骨がきしむような万力のお仕置きが鮮烈にフラッシュバックする
これに逆らえば、次は握手だけでは済まない。今度は物理的にハグでもされるかもしれない――
その本能的な恐怖と調教の効果がてきめんに効いたのか、シロコは耳まで真っ赤にしながら、小さく「……はぁ」と諦めの溜め息をひとついた
そして、借りてきた猫のようによちよちとした、渋々といった足取りでホシノの正面へと歩み進めた
「どうしたのかな、シロコちゃん。そんなに神妙な顔をして。おじさん、何か悪いことでもしちゃった? もしかして、冷蔵庫のプリン勝手に食べたの怒ってる?」
「プリンの話は、あと。……そうじゃなくて、その……ほ、ホシノ……」
「うん?」
ホシノがいつもの調子で首を傾げると、シロコはきゅっと薄い唇を噛み締め、ぎこちなく視線を床に落としながら、顔をみるみるうちに林檎のように真っ赤に染めていった
両手はスカートの裾をぎゅっと握りしめ、小刻みに震えている
そして、意を決したように、アビドスの戦士としてはあり得ないほど、小さな頭を深々と、直角に下げた
「――ホシノ、先輩。……今まで、ずっと呼び捨てにしていて、ごめんなさい。私が、間違っていました」
静まり返った生徒会室に、シロコの蚊の鳴くような、しかしハッキリとした謝罪の声が響き渡る
「うへ……? ……うへぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
ホシノの眠たげなオッドアイが、これまでにないほど丸く、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。あまりの衝撃に、身体に染み付いていたはずの気怠さが一瞬で宇宙の彼方まで吹き飛んだらしい
ホシノはガタッと椅子を鳴らして立ち上がると、大慌てでシロコにすり寄り、その華奢な両肩をがっしりと掴んで、前後に激しく揺さぶり始めた
「ど、どうしたのシロコちゃん!? 悪い物でも食べちゃった!? それとも熱中症で頭の回路がショートしちゃった!? 急に『先輩』なんて付けて、しかもそんな丁寧に謝るなんて、おじさんビックリして心臓が止まるかと思ったよ! いや、そりゃあ夢にまで見るくらいめちゃくちゃ嬉しいけどさぁ!? え、本当にシロコちゃん!? アンドロイドか何かなんじゃないの!?」
「ん、揺さぶらないで、脳震盪が起きる……っ。ホシノ……じゃなくて、ホシノ先輩。私は本物。偽物じゃないから、落ち着いて」
限界まで顔を赤くし、恥ずかしさにのたうち回りそうになりながらも、ノノミの視線を恐れて頑なに「先輩」と言い直すシロコ
その様子が微笑ましくてたまらないといった風に、ノノミは胸の前でパチパチパチと、実にあたたかく、上品な拍手を送った
「ふふ、良かったですね、ホシノ先輩♪ これでアビドス高等学校の上下関係も、バッチリ健全化されました! 正しい規律の第一歩、です✨」
「うへ〜、ノノミちゃんが何か恐ろしい魔法でもかけたのかな……? でも、すごいなぁ。何はともあれ、シロコちゃんに『先輩』って呼ばれるの、なんだか心が洗われるというか、すっごく新鮮で照れ臭いなぁ……えへへ……。よしよし、いい子だねシロコちゃん、おじさん感動しちゃった」
「ん、頭を撫で回さないで。髪の毛がボサボサになる」
シロコの滅多に見られない初々しいツンデレな姿と、念願だった「先輩」の響きに、ホシノは完全に骨抜きになり、すっかり上機嫌になって顔をふにゃふにゃに綻ばせている
そんな二人の微笑ましいやり取りを、少し離れた安全圏から見つめながら、シロコはまだジンジンと赤みの引かない自分の右手を見つめ、深く、深く、それこそ魂の奥底にまで刻み込んでいた
(――ノノミだけは。この学校の中で、ノノミだけは……絶対に、何があっても、絶対に怒らせてはいけない……!)
普段は誰よりもノリが良く、ゴールドカードで美味しいご飯やピザを差し入れしてくれる、最高に優しくておっとりしたお姉さん。けれど、その底抜けの優しさの裏には、一度でも逆らえば、アビドスの誰も太刀打ちできないような、本物の「規格外の怪物」が潜んでい
ネフティスの令嬢という贅沢な肩書きよりも何よりも、十六夜ノノミという少女そのものが持つ底知れない恐ろしさと、そして味方である時の絶対的な頼もしさを、シロコは身を以て痛感したのだった