白子とシロコ   作:気弱

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シロコの独り立ち

入学式を無事に終えてから、しばらくの時が流れたある日の昼下がり

 

砂漠の熱気を遮るアビドス対策委員会の部室には、のどかで穏やかなお茶の時間がゆったりと流れていた。3人は机の上に置かれた湯呑みを囲み、テーブルの真ん中にはノノミが差し入れとして持ってきた醤油せんべいの袋が賑やかに広げられている

 

パリ、ポリ、とせんべいをかじる小気味いい音が室内に響く中、シロコがふと湯呑みをテーブルに置き、何でもないことのようにぽつりと呟いた

 

「私、一人暮らししたい」

 

「……へ?」

 

情けない声をあげて完全に動きを止めたのはホシノだった。次のせんべいを口に運ぼうとした手の形のまま、彫刻のようにカチコチに固まっている。その横で、ノノミが「そういえば」と嬉しそうに両手を合わせた

 

「シロコちゃん、今はホシノ先輩の自宅でお世話になってましたよね。2人暮らしから、ついに独立ですか〜♪」

 

「ん。ホシノ先輩にはお世話になりっぱなしだし、私ももうアビドスの一員。そろそろ自分の力で独り立ちしたい」

 

シロコは淡々としたブレない口調で、まっすぐに自分の意思を告げる

 

「とっても素敵だと思いますよ! 自立を考えるなんて本当に偉いです。ねえ、ホシノ先輩はどうおも……わぁっ!?」

 

ノノミにこやかに相槌を打ち、意見を求めようとホシノの方を振り返った瞬間、そのあまりに引きつった顔を見て思わず声を上げた

 

「ま、ままままだシロコちゃんには……は、早すぎるんじゃないかなーっ!? ほら、防犯とか! 毎日の炊事洗濯とかさ! 一人は大変だよ!?」

 

ホシノの手元では、持っている湯呑みが目に見えてガタガタと激しく震え、中のお茶が容赦なくこぼれ落ちていた

 

視線は泳ぎに泳ぎ、あちこちの壁や床、天井を高速で行ったり来たりしている。誰が見ても一目でわかるほどの、異常な動揺ぶりだった

 

「「…………」」

 

尋常ではない慌て方をする先輩の姿を、シロコとノノミはただただ呆れたような冷ややかな視線で見つめ、教室に重い沈黙が支配する

 

(よほどシロコちゃんと離れるのが寂しいんですねー……ホシノ先輩、本当に分かりやすすぎます♪)

 

ノノミは苦笑いを浮かべながら、内心でそっと温かい溜息をついた

 

(ん……その反応、そこまで引き止められるのは少し嬉しいけど。でも流石に過保護すぎて、ちょっと引く)

 

シロコはジト目のまま、お茶で水浸しになりかけているテーブルを拭くために、静かに雑巾を取りに立った。絞り方の甘い雑巾が、こぼれた緑茶をゆっくりと吸い上げていく

 

「ん……防犯なら毎日ホシノ先輩に叩き込まれてるから問題ないし……それに、普段の家事は全部私がやってるんだけど。ホシノ先輩、いつも起きたらご飯できてるでしょ?」

 

シロコの淡々とした、しかし有無を言わせぬ決定的な正論が教室に響く

 

「あら。それ……逆にシロコちゃんが出て行った後の、ホシノ先輩の生活の方が心配ですね〜?」

 

テーブルの上を丁寧に拭きながらシロコが小さくため息を吐くと、それを聞いたノノミも、困ったように頬に手を当てて苦笑いを浮かべた。確かに、家事のすべてを後輩に依存しきっているぐうたらな先輩の姿が、容易に想像できてしまったからだ

 

図星を突かれたホシノは、椅子から飛び上がるようにして身を乗り出した

 

「うぐぅ……! と、とにかくシロコちゃんの一人暮らしなんて、おじさん絶対に認めないからね! どうしてもするっていうなら、この私を倒してからにしなさい!」

 

両手を机にバンと突き、子供のようにジタバタと駄々をこねるホシノ

 

「ホシノ先輩、流石にそれは無茶苦茶過ぎますよ……。一人暮らしをするための条件が先輩との決闘なんて、どこのバトル漫画ですか」

 

「ん、倒せるならもうとっくに倒してる。ホシノ先輩が本気を出したら、私たちが束になっても手も足も出ないの分かってて言うのは酷い」

 

シロコは雑巾をバケツに放り込み、冷ややかな視線を向ける。先日の模擬戦でその圧倒的な「アビドスの最高戦力」としての強さを身に染みて理解しているからこそ、ホシノの提示した条件がいかに理不尽なものであるかがよく分かった

 

「うへぇぇ……2人ともおじさんに冷たーい……」

 

後輩2人から容赦のない正論の集中砲火を浴びせられ、完全に言い負かされたホシノは、がっくりと肩を落として椅子に深く座り直した。そして、悔しそうに涙目を浮かべながら、シクシクと音を立ててせんべいを寂しそうにかじり始める

 

(ある意味、精神的にはもうホシノ先輩を完全にノックアウトして倒してるので、条件は満たされてるのでは……)

 

ノノミはそんなことを微笑ましく思いながらも、このままでは話が平行線のままだと察し、二人の仲裁とサポートをしようとパンと手を叩いて勢いよく立ち上がった

 

「それなら、ホシノ先輩も一緒に内見に行けばいいんですよ!」

 

「うへ……? おじさんも……行くの?」

 

せんべいを口に咥えたまま、ホシノが不思議そうに目を丸くする

 

「はい! シロコちゃんが1人で見知らぬお部屋を決めてきちゃうから、心配になって反対したくなるんですよ。ホシノ先輩や私も一緒に物件を見に行って、セキュリティや周辺環境を厳しくチェックすれば、少なくとも安全面に関する心配は無くなるんじゃないですか?」

 

ノノミの提案は極めて合理的だった

 

その言葉を聞いて、ホシノは咥えていたせんべいをゴクンと飲み込み、しばらく何も言わずに腕を組んで考え込み始めた

 

「うーん……。でもなぁ……。うへぇ……」

 

唸り声を上げながら、何度も首を傾げたり、視線を色んな方向へ向けたりして葛藤を重ねる。シロコを手放したくない寂しさと、ノノミの言う最もな妥協案の間で激しく心が揺れ動いていたが、やがて大きなため息を一つついて、ようやく真っ直ぐに二人の方を向いた

 

「……うん、分かったよ。おじさんも一緒に見に行く。シロコちゃんがこれから住むお家」

 

前髪の隙間から覗くオッドアイの瞳に、まるでアビドスの命運を懸けた決戦にでも挑むかのような、重々しく覚悟を決めた光を宿してホシノが言い放つ

 

「……あの、すごくかっこいい表情をして決めてますけど……ただの後輩の引っ越しの内見ですからね? 今そんなシリアスな顔をされても、私たちは困惑の方が強いですよ?」

 

ノノミは呆れたように笑いながらツッコミを入れる

 

「ん……ホシノ先輩情けない。ただの内見なのに大裟裟すぎる。覚悟の使いどころが間違ってる」

 

シロコも容赦なく冷めた言葉を投げかけるが、ホシノはついに耐えきれなくなったように机に突っ伏した

 

「だってシロコちゃんが遠くに行っちゃうの嫌なんだもん!! 離れたくないんだもん!!」

 

「ホシノ先輩……アビドス管内での引っ越しですから、そんなに遠くには行きませんよ……」

 

「ん、このままだと話が進まないし、ホシノ先輩置いていく?」

 

「そうですね♪」

 

2人は椅子から立ち上がると荷物を持ち、スタスタと扉の方に歩き出す

 

「わー! 置いてかないでよー! 待って、おじさんも行くからーっ!」

 

この2人は本気で自分を置いていく、それを察知したホシノは慌ててスクールバッグを持つと、涙目で2人の後を追いかけていった

 

 

「こちらの6階でございますね」

 

無機質ながらも丁寧な合成音声が、静かなエレベーターの中に響く。案内役として同行しているロボットの職員が、器用に金属製の指先で「6」のボタンを押した

 

エレベーターが滑らかに上昇を始める中、シロコは少し不思議そうに、隣に立つノノミへと視線を向けた

 

「ノノミって、不動産業界とも繋がりがあったんだ」

 

「はい♪ ネフティスグループとしては、鉄道事業だけだとどうしても会社の基盤を維持し続けるのが難しいみたいで。だから、こういった沿線開発や不動産関連の動向も常に把握したり、あちこちと繋がりを持つようにしているみたいですよ」

 

ネフティスの令嬢として育ったノノミにとっては、ごく当たり前の知識のようだった

 

現在3人が訪れているこの場所も、ネフティスグループと深い繋がりを持つ大手の不動産会社が管理するハイグレード物件である。案内人のロボットも、ノノミが事前に連絡を入れたことで、非常に迅速かつ最優先で動きのいい物件を見繕ってくれたのだ

 

「まだ外観しか見てないけど、結構良さそうな所だね。周辺の環境も静かだし、ランニングコースにも良さそう」

 

「ふふふー、そう言ってもらえると嬉しいです! 実は私も、ここの会社が一番にオススメしてくれた家に住んでるんですよ。だから品質や住み心地はお墨付きです♪」

 

「ノノミお嬢様にそのようにお言葉をいただけるのは、我が社にとっても最大の幸いでございます」

 

常に一定の角度に保たれた営業スマイルを崩さないロボットの職員が、電子音を交えながら恭しく頭を下げる

 

「……でも、約1名、どうしても納得いってないみたい」

 

シロコが半眼の、呆れたような視線を背後へと向ける

 

そこには、エレベーターの壁際にへばりつくようにして、終始暗い表情で眉間を寄せるホシノの姿があった

 

「ここ、上に上がっていくタイプのお家なんだね……上に行けば行くほど、いざという時のセキュリティとか本当に大丈夫なのかな……。もしも大きな地震が来たり、火事になったりしてエレベーターが止まったら、シロコちゃんが逃げ遅れたりしちゃうんじゃ……。いや、階段の避難経路はどうなってる? 窓からの脱出ルートは……?」

 

ぶつぶと、呪詛のようにおそるおそる最悪のシミュレーションを呟き続けるホシノ。その過保護が行き過ぎて被害妄想の域に達している先輩の姿に、シロコとノノミは同時に深い、深い溜息を吐き出した

 

「……これ、ひょっとしたら物件自体がどれだけ良くても、今日は一日中難癖をつけられて決まらないかも」

 

シロコが前途多難な未来を予感して呟く

 

「ま、任せてください、シロコちゃん! 私のプライドにかけてでも、絶対にシロコちゃんが心から気に入るような、非の打ち所がない最高のお部屋を探してみせますから! ……この人が、どんなに文句を言おうとしても!」

 

ノノミは力強く胸を張る

 

「ノノミ、言ってることは凄く頼もしいけど。後ろのホシノ先輩をチラチラ見ながら言ってるから、なんかさっきのホシノ先輩と同じで形だけかっこよくて、実際はあんまりかっこよくないよ」

 

「うへぇ、2人ともおじさんに冷たい……」

 

「目的の階に到着いたしました」

 

シロコがやれやれと首を振っていると、エレベーターが小さな電子音と共に静かに停止した

 

チーン、と小気味いい音が鳴り、頑丈な金属製の扉が左右へと開く。ようやく、今回の目的である6階へと辿り着いたようだった

 

エレベーターの外に広がっていたのは、磨き抜かれたコンクリートの床と、アビドスの乾いた風が吹き抜ける開放的な外廊下だった。職員ロボットの案内で、3人は静かに廊下を歩いていく

 

手すりの向こうには、かつて繁栄していたアビドスの街並みの名残と、その向こうに広がるどこまでも青い空が見渡せた

 

「うへぇ……やっぱり高いねー……。なんか足元がムズムズするというか、おじさん落ち着かないなぁ」

 

ホシノが恐る恐る手すりの外を覗き込み、前髪を抑えながら情けない声を出す

 

「6階ですからね♪ 遮るものがなくて、とっても気持ちいい風が吹いてますよ」

 

ノノミは長い髪をなびかせながら、楽しそうに周囲を見回した

 

「ん、見晴らし最高。アビドスの砂漠も一望できるし、やっぱり住むならこれくらい高いところがいいかも」

 

シロコは手すりに手をかけ、目を細めて街を見下ろす

 

ランニングやサイクリングのルートをここから俯瞰するのも良さそうだ、と早くも想像を膨らませていた

 

「到着いたしました。こちらがお部屋でございます」

 

そんな他愛のない会話を交わしているうちに、廊下の最奥にある重厚な金属製のドアの前で、職員ロボットが足を止めた

 

電子ロックにカードキーをかざすと、ピピピッという小気味いい音が鳴り響き、カチャリと重々しい解錠の音が響く

 

案内されるままに一歩中へ足を踏み入れると、そこにはアビドスの一般的な住宅事情からはおよそかけ離れた、遮るもののない広々としたラグジュアリー空間が広がっていた

 

「間取りは、6LDKとなっております」

 

「ろ、ろ、ろく……!? 6LDKぃ!? これ、普通のマンションの1室だよね!?」

 

聞き慣れない桁数の間取りに、ホシノは文字通り目を丸くして飛び上がった。自分の耳を疑うように、耳元に手を当てて職員ロボットを凝視する

 

「はい。単身者、あるいはご家族向けの、ごく一般的な構造のマンション……となっております」

 

職員ロボットは淡々と、しかしどこか誇らしげに胸の青いランプを明滅させた

 

「ホシノ先輩、そんなに驚くことですか? どちらかと言えば、これでもかなり狭い方ですよ?」

 

ノノミは人差し指を頬に当て、心底不思議そうに首を傾げた

 

彼女の実家であるネフティスグループの基準からすれば、1つの階に部屋が6つしかないなど、ワンルームと大差ない認識なのかもしれない

 

「ん、そこも気に入った。これだけ広ければ、リビングの真ん中にロードバイクを置いたままでも全然邪魔にならない。メンテナンスの工具も全部綺麗に並べられる」

 

シロコの瞳がキラキラと輝き始める

 

すでに頭の中では、どこに自転車のスタンドを立てて、どこにヘルメットを掛けるかといったシミュレーションが完璧に出来上がっているようだった

 

その後も、職員ロボットに促されるままに部屋の奥へと案内されていく

 

驚くべきことに、リビングにはデザイン性の高いローソファーやダイニングテーブルがすでに配置されており、キッチンには最新式の大型冷蔵庫やオーブンまで備え付けられていた

 

まさに至れり尽くせり、今すぐにでも高級ホテルのような新生活を始められる完璧な環境だった

 

「こちらのバルコニーは、洗濯物を干すだけではなく、ちょっとした家庭菜園なども楽しむことができまして、あちらの洋室は……」

 

「……シロコちゃん、シロコちゃんってば」

 

職員ロボットが滑らかな合成音声で次の部屋の紹介を始めたその時、ホシノが背後からシロコの制服の裾をツンツンと引っ張った。そして、ノノミやロボットに聞こえないように声を潜めながら、手招きをして手元に呼び寄せる

 

「ん?」

 

シロコは不思議そうにしながらも、少し耳を傾けた

 

「どうしたの? まだ何かセキュリティ的なことで不満があるの?」

 

「お、おじさん、ちょっと別の意味で怖くなってきちゃってさ……」

 

「……また一人暮らしを反対するための、新しい言いがかり?」

 

じとっとした冷ややかな視線を向けるシロコに、ホシノは慌てて両手をぶんぶんと横に振った

 

「ち、違う違う! それはそれとしてまだ心の中では反対してるけど、今はそうじゃなくてね!?」

 

「ん、それじゃあなに?」

 

ホシノは周囲を警戒するように一度ノノミの楽しそうな背中を見つめ、さらに声を潜めて囁いた

 

「……ここ、家賃とか、どうなのかなーって……」

 

「……家賃?」

 

「うん。ほら、ちょっとよく思い出してみてよ。ノノミちゃんと知り合った頃にさ、おじさんたちが身を以て知ることになった、あのノノミちゃんの『金銭感覚』を……」

 

ホシノにそう言われ、シロコは脳裏に過去の、あの衝撃的な出会いの記憶を呼び起こした

 

ノノミと出会ったばかりの最初の頃は、いつも柔らかい笑みを絶やさない、非常におっとりとした優しい女の子という印象が強く、特に変わった様子は見受けられなかった

 

アビドスの厳しい環境の中でも、彼女が淹れてくれる紅茶の温かさは本物で、誰もがその包容力に救われていたのだ。しかし、共に対策委員会として行動し、仲良くなってプライベートな時間を共にする機会が増えるにつれて、段々と、いや、誰の目から見ても明確に、ノノミと自分たちの金銭感覚が「決定的にズレている」という恐るべき事実が浮き彫りになっていった

 

それは日常の些細な会話から始まった。ある日の放課後、シロコが何気なくスマートフォンを見せながら、「あそこに行列の出来る凄く美味しいラーメン屋さんがあるんだって。一度行ってみたいね」と呟いた翌日のことだ。部室に集合した一同の前に、ノノミはいつも通りの眩しい笑顔を浮かべて現れ、こう言ったのである

 

「シロコちゃん、昨日のラーメン屋さんですけど、みんなで周囲に気兼ねなくゆっくり食べたいなと思って、お店をまるごと1日貸切にしてアビドスの皆さんをご招待しちゃいました♪ さあ、行きましょう!」

 

アビドスの面々は驚愕で顎が外れそうになりながらも、彼女の「悪意なき親切心」に圧倒され、貸し切られた静かな店内で噂のチャーシュー麺を啜る羽目になった

 

さらに極めつけは、ホシノの普段着を新調しに行こうとノノミが言い出し、強引に2人をトリニティの超大型ショッピングモールへ連行した時のことだ

 

お洒落なアパレルショップに足を踏み入れるなり、ノノミの瞳は見たこともないような爛々とした輝きを放ち始めた

 

「わあ、ホシノ先輩! この淡いパステルカラーのブラウス、絶対に似合いますよ! あっ、こっちのフリルがついたワンピースもとっても可愛いです〜!」

 

次から次へとハンガーから服を引っ掴み、困惑するホシノをフィッティングルームへ押し込むノノミ

 

最初は「うへぇ、おじさんにはちょっと若すぎるよ〜」と苦笑いしていたホシノだったが、ノノミの勢いは留まるところを知らない。最終的には、ホシノ自身のコーディネートの意思や、「もういいよノノミちゃん! おじさん着る体は1つしかないからね!?」という悲鳴のような必死の拒絶など一切関係なく、試着した数十着のブランド服をすべてブラックカード一括で買い取り、「全てホシノ先輩の御自宅へ配送手続きをしておきました♪」とにこやかに微笑んだ

 

そんな次元の違う金銭感覚の持ち主、それがネフティスグループの令嬢である十六夜ノノミという少女だった

 

そして今、そのノノミが「我が社の一押しで、住み心地もお墨付きです!」と満面の笑みで紹介してくれたのが、この至れり尽くせりの超豪華6LDKマンションである

 

(……確かに、これだけの設備があって、家具も最新式で揃っていて……普通の一人暮らしの高校生が払えるような金額じゃないかもしれない)

 

最初はロードバイクを置くスペースに目を輝かせていたシロコも、ホシノの指摘を受けて改めて冷静になり、部屋の度を越した豪華さを見つめ直した

 

途端に、自分の背筋を冷たい汗がツーっと流れ落ちていくのを感じ、一気に現実へと引き戻されて激しい不安が込み上げてきた

 

「ね? 分かってくれた? だからさ、シロコちゃんからあの人に直接家賃を聞いてみてよ。おじさんが聞くとさ、ほら、『また難癖つけて一人暮らしを諦めさせようとしてる〜』とか言われちゃうからさ」

 

ホシノはシロコの制服の袖を掴みながら、捨てられた仔犬のようにすがるような目を向けて小声で懇願する

 

「ん……分かった。私もさすがに毎月の生活費に関わるから、少し気になる。直接聞いてみる」

 

シロコは小さくコクリと頷くと、依然としてバルコニーの展望の素晴らしさを滑らかな合成音声で熱弁している職員ロボットの元へと、静かに足を進めた

 

「あの、説明の途中だけど、少し聞いてもいい?」

 

「はい、シロコ様! 何なりとお尋ねください。こちらのスマートキッチンの自動洗浄機能の使い方など、何か気になる設備がございましたでしょうか?」

 

ロボットは営業スマイルのグラフィックを明滅させながら、恭しく向き直る

 

「……設備じゃなくて、ここって、毎月の家賃はいくらくらいなの?」

 

シロコの放った至極真っ当で、あまりにも現実的な質問に対し、案内役の職員ロボットは一瞬だけシステムがフリーズしたかのように動作を完全に停止させた。そして、液晶ディスプレイに表示されていた営業スマイルの目を、キョトンとした丸いグラフィックへと変化させた

 

「家賃……でございますか? ええと……お恥ずかしながら、今回はノノミお嬢様直々のご指名による最優先物件でしたので、契約に関する金銭的な詳細の確認は後回しにしておりました。少々お待ちください、ただいまデータベースを照会いたします」

 

ロボットは手持ちの高級レザー製のアタッシュケースから、最新型の薄型タブレット端末を取り出し、カシャカシャと滑らかな金属音を立てて手つき良く検索を始めた

 

「もー、シロコちゃんったら。せっかくこうしてお部屋を内見しに来たんですから、家賃のような細かいお話は一番最後でもいいじゃないですか〜。それよりも、あっちの洋室にある特注のウォークインクローゼットの広さとか、お風呂場のジャグジー機能とか、女の子の一人暮らしに嬉しい見どころがたくさんありますよ?」

 

ノノミが困ったような、どこかおっとりとした笑みを浮かべながらシロコの肩に優しく手を置く。しかしシロコは心配事が大きく他のものを見る余裕などなかった

 

ピピッ、とタブレットから軽い電子音が鳴り響く

 

「あ、データが見つかりました。こちらの物件、ノノミお嬢様のご紹介による特別なVIP割引を破格の条件で適用いたしまして……1ヶ月の家賃は、39万円になります」

 

「「さんじゅうきゅうまん!?」」

 

ホシノとシロコの声が見事なまでに完璧にハモり、家具の少ない広々とした大空間のリビングに、大音響の絶叫となって木霊した

 

「ど、どうされましたか、お二人とも? 我が社が誇る最高峰の防犯セキュリティと一等地の立地、さらにこの贅沢な広さを考慮すれば、これでもノノミお嬢様のために利益度外視の破格の安さでご提供しているのですが……」

 

「えっ? ほ、本当に39万円なんですか!? 1ヶ月で!? 年間の間違いじゃなくて!?」

 

ホシノは目を限界まで見開き、ロボットの液晶画面に掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出す

 

その迫力にロボットの職員が一歩後ずさった

 

「ホシノ先輩? そんなに顔を真っ青にして、一体どうしたんですか? アビドスの砂漠の真ん中にある廃屋ならともかく、これだけのハイグレードな最新設備が整った特区の物件なら、ごく平均的でリーズナブルなお値段だと思いますよ?」

 

あまりの取り乱しように、ノノミとロボットは心底理解できないといった風に、本気で不思議そうに首を傾げている

 

その浮世離れした「お嬢様の常識」を前にして、シロコはそっとノノミの制服の袖を指先で強く掴み、申し訳なさそうに視線を床へと落とした

 

「……ノノミ。私、そんな大金持ってないよ。毎月39万なんて、どんなに逆立ちしてバイトを掛け持ちしても、私には絶対に払えない。ここには入れないよ」

 

「あっ……」

 

ノノミの短い声が、遮るもののない静かな大空間にぽつりと響き渡り、そのまま吸い込まれるように消えた

 

ネフティスの令嬢として生まれ育ち、これまで生まれてから一度もお札の枚数を気にして買い物をしたことのないノノミにとって、それは完全に思考の盲点であり、未知の領域だったのだ。シロコが「一人暮らしをしたい」と言ったから、自分の知る限りの「安全で快適で最高の部屋」を純粋な親切心から紹介した。しかし、そこには「普通の高校生が自給自足のアルバイトで支払う現実的な家賃」という、極めて当たり前の生活の前提がすっぽりと抜け落ちていたのだった

 

 

「ごめんなさい、シロコちゃん……! 私、そこまで頭が回っていなくて……! よかれと思って段取りしたのに、本当にごめんなさい……!」

 

「ん、気にしないで。ノノミが私のために一生懸命考えて、一番良い部屋を探そうとしてくれたのはちゃんと分かっているから」

 

それからというもの、ノノミはシロコに対して、そして急な予定変更を強いることになった不動産会社の職員ロボットに対して、何度も深々と頭を下げて謝罪を繰り返した

 

すっかり落ち込んでしまったノノミだったが、すぐに気を取り直し、「今度こそシロコちゃんの予算にぴったり合う、素敵な一般向けのお部屋を探してみせます!」という強い決意のもと、別の物件を探すために3人は再びアビドス管内の移動を開始した

 

しかし、ここからノノミの「一般的な金銭感覚」への果てしない迷走劇が幕を開けることになる

 

次に案内されたのは、少しエリアを移動した場所にある、落ち着いた外観の別デザインのマンションだった

 

「ここなんてどうですか! 先程の6LDKに比べれば、お部屋は3部屋しかないので随分と狭くなってしまいますし、ジャグジーも付いていませんけど……なんと、家賃は先程の半分以下です! これならどうですか!?」

 

自信満々に鍵を開けて部屋の扉を開けるノノミ。だが、間取り図を受け取ったシロコは、一瞬だけ計算した後に静かに首を横に振った

 

「ノノミ、半分でも18万円以上するよ……。私が出せるのは、どんなに頑張っても毎月数万円が限界だから。18万でも、私にとっては高すぎるよ……」

 

「うぐぐ……。じゅ、18万でもまだ高いですか……! 高校生の一人暮らしって、そんなに厳しいものなんですね……。わかりました、それならもっともっと条件を厳しく絞って探します!」

 

お嬢様としてのプライドに火がついたノノミは、少し焦りを見せながら、ロボットから半ば強引にデータベースの入ったタブレット端末を借り受けると、その場で必死になって指を高速で動かし始めた

 

「じゃあ、こちらはどうでしょう! 敷金礼金ゼロで、管理費も込みのお得な物件です! ええと、場所は……山海経の龍門街の近郊になります!」

 

「ノノミ……山海経はいくらなんでも遠すぎるよ。毎日毎日、アビドスまでどうやって通学するの。山海経の特別管区に入るだけでも検問の手続きが大変だし、自転車で行ったら何時間かかるか分からない……」

 

「あっ、そうでした……! 通学のことを忘れていました……! じゃ、じゃあ、百鬼夜行の観光特区の近くにある離れの一軒家は……! 風情のある温泉も付いていて、とっても魅力的ですよ!」

 

「百鬼夜行も駄目。そこまで行ったら、もう一人暮らしじゃなくてただの遠距離留学か引っ越しだよ。私はアビドスの一員として、ここで暮らしたいの」

 

ノノミは「アビドスに通える範囲で、普通の高校生が払える額の部屋」という、一般人にとっては極めてシンプルでありながら、彼女にとっては人生で最も難しい条件の壁にぶち当たっていた

 

そこからさらに、アビドス地区の少し外れにある、家賃が下がる代わりに対策委員会の管轄から外れがちなローカルなアパートを何軒か見て回ることになった

 

「こちらはどうですか! 家賃はなんと8万円です! これなら……!」

 

「……ノノミちゃん。ここ、外壁がボロボロでヒビが入ってるし、何よりすぐ隣の路地にヘルメット団のアジトが見えるよ。防犯的にシロコちゃんをこんな物騒なところに住ませるわけにはいかないよ。おじさん、これだけは絶対に許さないからね」

 

ホシノが鋭い視線で窓の外の治安状況を一瞬でチェックし、即座に不合格を突きつける

 

「うう、それなら、家賃1万円という驚異的な安さのこちらは……!」

 

「……ノノミ、この部屋、壁と天井の隙間から砂がサラサラ漏れてる。それに、シャワーの水圧が弱すぎて、サイクリングの後に体についた砂を洗い流すのにも何時間もかかりそう……」

 

シロコが浴室の錆びかけた蛇口を捻り、ちょろちょろとしか出ない水を見つめながら、静かに現実的なダメ出しをする

 

高すぎれば家賃が払えない。かと言って安すぎれば周辺の治安が悪すぎるか、あるいはアビドスの過酷な砂漠化の環境に耐えられないほど設備が崩壊している。その絶妙なバランスの間で、ノノミの提案する物件は次々と撃沈していった。ロボットから借りたタブレットの画面には、膨大な「却下」の赤い文字が並んでいく

 

そして、物件探しを始めてからさらに1時間が経過した頃

 

内見中の、とある安アパートの冷たい畳の上で、完全に自信を失って真っ白に燃え尽き、がっくりと膝から崩れ落ちているノノミの姿があった

 

アパートの狭くて薄暗い玄関先には、西日の差し込む畳の上にぽつんと両手をついて肩を落とすノノミと、その傍らで「お嬢様、しっかりしてください」と電子の目をパチパチと明滅させてオロオロと右往左往する職員ロボットの姿があった。それを、申し訳なさそうに、かつどう慰めていいか分からずにただ見つめることしかできないホシノとシロコが、静かに佇んでいた

 

「うう……ごめんなさい、シロコちゃん……。せっかく一人暮らしを応援したくて張り切ったのに、何一つ力になれませんでした……。普通の人が払う家賃の感覚が分からないなんて、私、本当にダメダメです……お役に立てなくてごめんなさい……」

 

ノノミは小さな手を畳についたまま、すっかり自信を無くして消え入りそうな声で呟く。そのおっとりとした普段の輝きは完全に失われ、背中が丸まってしまっていた

 

「えっと……だ、大丈夫だよ、ノノミ。そんなに自分を責めないで。それに、アビドスで家を探すのがこんなに大変なことだなんて、事前にちゃんと下調べをしていなかった私も悪かったから……。ノノミは私のために、一生懸命いい部屋を探そうとしてくれただけでしょ? その気持ちだけで十分嬉しい」

 

シロコは玄関の段差に静かに腰を下ろし、崩れ落ちたノノミの背中を、優しくぽんぽんと宥めるように撫でる

 

シロコ自身、家賃という現実の壁に突き当たって少し気落ちしていたが、それ以上に自分のためにここまで奔走して、挙句に傷ついているノノミのことが心配だった

 

二人のその健気なやり取りと、ノノミの予想以上の落ち込みぶりをじっと見ていたホシノは、胸の内で何かを必死に天秤にかけるように、前髪を押さえながら眉間を寄せて深く悩んでいた

 

(シロコちゃんの本気の意思、ノノミちゃんの純粋な優しさ……。うへぇ、これはおじさん、いつまでも意地を張って反対ばかりしてる場合じゃないかも……)

 

ホシノは何度も周囲のボロい壁に視線を彷徨わせ、ポケットの中で小さく拳を握りしめると、ようやく大きな覚悟を決めたように一歩前に踏み出して口を開いた

 

「シロコちゃん。本当に、どうしても一人暮らし……したいんだよね?」

 

「ホシノ先輩……?」

 

突然、いつになく真剣で低いトーンで名前を呼ばれ、シロコはノノミの背中を撫でていた手を止め、怪訝そうに後ろを振り向いた。ホシノのオッドアイの瞳は、いつものからかうような緩い色を一切排し、真っ直ぐに自分を見つめている

 

その強い眼差しを正面から受け止めたシロコは、少しの間だけ自分の胸の内を確認するように目を伏せ、それから小さく、静かに頷いた

 

「ん。したい。自分の力で生活して、もっと強くなって、ホシノ先輩を安心させたいから。それが私の選んだ道」

 

「はぁ……。おじさんの完敗だよ。家探しがここまで大変で、アビドスの厳しい現実をこれでもかってくらい突きつけられたのに、それでも目が変わらないんだもんなぁ……。分かったよ、もう反対はしない」

 

ホシノはこれ以上ないほど深い、降伏と諦めを含んだため息を吐きながらぽつりと呟いた。しかし、そのタイミングと表現が、あまりにも致命的に悪かった

 

「ひ、ひどいですホシノ先輩……! 『ここまで大変』にしたのは私のズレた金銭感覚のせいです……! やっぱり、私が全部悪くて足を引っ張っちゃったんですね、ううう……」

 

ホシノが何気なく放った「ここまで大変」という言葉が、真っ白に燃え尽きていたノノミの繊細な心に見事なまでにクリーンヒットし、被弾した彼女の背後からどろりとした黒い負のオーラが立ち上り始めた

 

「あっ、待って!? 違うのノノミちゃん! 今のはノノミちゃんを責めた訳じゃないからね!? ほら、全体的なアビドスの物件状況とか、治安の悪さの話だから! ノノミちゃんの頑張りは最初から最後まで100点満点だったよ!?」

 

「いいんですよ……ホシノ先輩からしたら、話をややこしくして大変にしたのは私なので……どうせ私は世間知らずのお嬢様です……」

 

「ん、ホシノ先輩最低。傷口に塩を塗った。信じられない」

 

「二人ともそんな冷たい目で迫ってこないでーっ! 悪気は本当になかったんだってばー! おじさんを許してー!」

 

慌ててノノミの元へ駆け寄り、身振り手振りを交えて必死に弁明するホシノ

 

ようやくシロコの一人暮らしを認めるという、彼女にとって最大の譲歩を決意したまでは良かったが、ノノミが精神的に最もノックアウトされている瞬間を言葉選びで直撃してしまったのは、ホシノの絶妙な不器用さの現れでもあった

 

その後、なんとかホシノが必死の宥め文句でノノミの機嫌を半分ほど直した3人は、今日一日お世話になった職員ロボットに対して申し訳なさそうに何度も頭を下げ、西日の落ちかけるアパートの前で解散したのだった

 

すっかり日が傾き、アビドスの広大な空が燃えるような綺麗な茜色に染まり始めた頃

 

先ほどまで冷たい畳の上で真っ白に燃え尽きていたノノミも、ホシノの必死の宥め文句のおかげでどうにか復活し、まだ少し名残惜しそうに職員ロボットを見送っていた

 

そんな2人の前に、ホシノがいつものように頭の後ろで両手を組み、どこか悪戯っぽくオッドアイの瞳を輝かせながら歩み出た

 

「うへぇ、散々迷走しちゃったねぇ。でもさ、シロコちゃんの熱意もノノミちゃんの優しさも、おじさんにはちゃーんと伝わったよ。というわけで……実はおじさんにちょっと心当たりがあるから、ついてきて」

 

「ホシノ先輩の心当たり……? ん、怪しい。また何か先輩特有の監視スポットとかじゃない?」

 

「ちょっとシロコちゃん!? おじさんを何だと思ってるのさ! いいからいいから〜、おじさんを信じて付いてきなさいって」

 

そう言ってトボトボと歩き出したホシノの後を追うように、3人はアビドスの古い商店街へと向かった

 

 

「商店街……?」

 

シロコは周囲の寂れた看板や、夕暮れの風に揺れる古びた提灯を見渡しながら、不思議そうに首を傾げる

 

「ここに……シロコちゃんが住めるような、何か良いお家があるのでしょうか……? 不動産会社のデータには、このエリアの登録はなかったみたいですけど……」

 

ノノミもまだ少し目元を潤ませたまま、高級なシルクのハンカチをぎゅっと握りしめて周囲を見回した

 

「いいからいいから〜」

 

頑なに目的地を言おうとしないホシノの態度に、1年生の二人は顔を見合わせながらも、夕日を浴びて小さく伸びるその背中の後を静かに追っていく

 

商店街の比較的賑やかなエリアから少し外れた、静かで落ち着いた路地の角。そこに、年季こそ入っているものの、壁の塗り直しや庭先の掃除が実にていねいに手入れされていることが窺える、平屋の小さな一軒家が佇んでいた。ホシノはその門扉を迷いなくくぐり、玄関横の少し塗装の剥げたインターホンのチャイムを親しげに押す

 

ピンポーン、という軽快な音が静かな家の中に響き渡る

 

「はーい、ちょっと待ってねぇ!」

 

しばらくすると、バタバタと奥から小気味よい足音が聞こえ、ガラガラと小気味よい音を立てて木製の引き戸が開いた

 

姿を現したのは、頭に三角巾を巻き、チェック柄のエプロンを身に纏った、小柄で見るからに優しそうな雀の獣人の年配の女性だった

 

「はいはい、どなたかしら? ……って、あら! ホシノちゃんじゃないの〜! どうしたの、今日も商店街の夕方のパトロール? いつも本当にご苦労様ねぇ」

 

女性はホシノの姿を見るなり、その目元をシワだらけにして嬉しそうに声を弾ませた

 

その親密な空気感だけで、近隣の住民からホシノがどれほど深く信頼され、愛されているかが一目で伝わってくる

 

「うへぇ……おばちゃん、こんばんは。いつもお疲れ様。今日はね、パトロールっていうか、ちょっと別の用事……というか、おじさんから真面目な相談事があってさー」

 

ホシノはいつもの緩い笑みを浮かべながら、少し照れくさそうに頬をポリポリと掻いて言葉を返した

 

「ホシノ先輩、こちらの方はお知り合いなんですか……?」

 

不意にホシノの背後から、興味津々といった様子でノノミがひょこりと長い上体を折り曲げて顔を覗かせる

 

その穏やかで品のある上品な声に反応した雀の獣人の女性は、ホシノの小さな影から現れた二人へと視線を移し、その細い目をごしごしと擦るようにして大きく見開いた

 

「あら? あらあらまあまあ! 後ろにいるのは……シロコちゃんじゃない! まあまあ、最後にすれ違った時よりずいぶんと大人っぽくなって、大きくなったわねー! それと、その横にいるとっても可愛らしい金髪のお嬢さんは……」

 

「ん……こ、こんばんは」

 

女性が嬉しそうに羽のような温かい手を伸ばし、精一杯背伸びをしながらシロコの綺麗な青みがかった銀髪を優しく撫でる。シロコは普段のクールな無表情を少し崩し、くすぐったそうに身をすくめながらも、小さく、どこか恥ずかしそうに頭を下げて挨拶をした

 

実は、シロコ自身はこの女性と直接一対一で深い会話を交わした記憶はほとんどなかった

 

けれど、毎日ホシノの為に商店街へ買い出しに行ったり、ロードバイクで街を駆け回ったりするシロコの姿は、この寂れたアビドス商店街に住まう残り少ない人々にとっては、もはや希望であり日常の象徴のようなものである

 

誰もが親戚の子供の成長を見守るかのような温かい眼差しをシロコに向けており、この大家の女性にとっても、シロコは最初から「よく知っている可愛い身内」のような存在だったのだ

 

そして女性は、シロコの隣に立つ、ひときわ背が高く品格のある美しい少女へと視線を向け、感心したように小さく首を傾げた

 

「ええと……は、初めまして! 今年からアビドス高等学校に入学いたしました、十六夜ノノミと申します。ホシノ先輩には、学校でもそれ以外でもいつも本当にお世話になっております!」

 

ノノミは持ち前の上品な所作で、両手を体の前できちんと揃え、まるで教科書から抜け出してきたかのようなとても丁寧で美しいお辞儀を披露する

 

「まあ! そうなのね! それじゃあシロコちゃんの同級生で、ホシノちゃんの可愛い後輩じゃない! よくアビドスへ来てくれたわねー。見てるだけで心が洗われるようだわ、本当に良い子そうだわねぇ」

 

「わっ……えへへ、そんなに褒められると照れちゃいますぅ」

 

女性はさらに背伸びをし、羽のような優しい手でなんとかノノミの綺麗な長い金髪も優しく撫でてあげる

 

ノノミはくすぐったそうに身を縮めて微笑みながらも、その手の温もりを全身で受け止めるように、すっかり元通りの眩しい笑顔を満開に咲かせた

 

「えーとおばちゃん。みんなを熱烈に歓迎してくれて本当にありがたいんだけど、少し本題のお話をさせてもらってもいいかなぁ? 」

 

ホシノはその微笑ましい光景に目を細め、胸の奥が温かくなるのを感じながらも、これ以上おばちゃんを玄関先で立ち往生させて疲れさせないようにと、優しく会話の間に割って入った

 

「あらやだ、そうだったわね。おばちゃんったら嬉しくてつい舞い上がっちゃって、年甲斐もなく喋りすぎちゃったわ。それで、今日は一体どうしたの? ホシノちゃんがこうやって改まって相談事を持ってくるなんて、本当に珍しいじゃない」

 

「うん、実はね。この前おばちゃんが、自分で管理してる古いアパートに空き部屋が1つあるって話をしてたじゃない? 商店街の裏手のやつ。あれって、今でもまだ空いてるかな?」

 

「ああ、あの商店街の裏手にある、最近内装をきれいに壁も整備し直して、いつでも人が入れるようにしたお部屋ね。ええ、もちろんまだ空いているわよ! 買い手も借り手も少なくて困ってたところなの。誰か良い人でも紹介してくれるの?」

 

「良かったー! 実はね、そこにシロコちゃんを住まわせたいなーって思ってさ。諸事情あって一人暮らし用の部屋を探してたんだけど、なかなか予算と治安の折り合いがつく良い場所が見つからなくてさ。おばちゃんのアパートなら、おじさんも防犯面でも環境面でも100万倍安心だし。……どうかな?」

 

「まあ! シロコちゃんが家を探してたの!? ホシノちゃんの頼みで、しかもあのシロコちゃんが住むって言うなら、そんなのいつでも、何時でも大歓迎に決まってるじゃない! おばちゃんの一存でも良いけれど、一応確認のためにお父さんに電話を掛けてくるわね! すぐ戻るから、ちょっと待っててちょうだい!」

 

女性は弾むような軽い足取りでそそくさと家の中へと戻っていくと、廊下の奥に置かれた、年季の入ったレトロな黒電話のダイヤルをガタガタと大きな音を立てて回し、旦那さんへ電話をかけ始めた。遠くから「もしもし、お父さん? 実はね、今ホシノちゃんがね……」という弾んだ明るい声が漏れ聞こえてくる

 

その隙に、ノノミが不思議そうにホシノの制服の袖をちょんちょんと引いた

 

「ホシノ先輩、あのおば様とは、一体どういう繋がりがある方なんですか? パトロールで仲良くなっただけにしては、随分と家族のような距離感に見えますけど……」

 

「ん? ああ、あの人はね、おじさんが今住んでいるあの家の大家さんだよ」

 

ホシノが何気なく、ごく当たり前のことのようにそう告げると、シロコの耳がハッとしたようにピクリと敏感に動いた

 

「ん、大家さん……? そんな人がアビドスにいたんだ。私、ホシノ先輩と一緒に暮らしてて、ホシノ先輩が大家さんに毎月家賃を払ってたり、そういう契約書の書類のやり取りをしてる姿を一度も見たことがなかった。だから、てっきりあの家は身寄りのない空き家か何かで、そんな存在はいないのかと思ってた」

 

シロコがじっと疑り深い目でホシノを見つめながらそう言うと、ホシノは頬をポリポリと掻きながら、バツの悪そうな苦笑いを浮かべて視線を泳がせた

 

「あはは……。まあ、シロコちゃんがそう思うのも無理はないっていうか。実はね、おじさん、あのお家に住ませてもらってから……一度も家賃を払ってないんだよね」

 

「「……え?」」

 

シロコとノノミの声が再び見事にハモった

 

しかし、先ほどの39万円の驚きとは全く質が異なる、非常に冷ややかな、そして深い驚愕と疑惑に満ちた視線がホシノの小さな体に突き刺さる

 

二人の目には、明確に「もしかしてホシノ先輩……大家さんがおっとりして優しいのをいいことに、数年間にわたって家賃を滞納している、もしくは合法的に踏み倒しているのでは……」という、底知れない人格への不信感が宿っていた

 

「待って待って!? 2人とも目がマジだよ! 違うからね!? 今二人が脳内で繰り広げているような不届き極まりない悪徳なことは一切してないから! おじさん、そんな悪徳借主じゃないからね!?」

 

「そうよー? お二人さん、ホシノちゃんをそんな風に誤解しちゃダメよ。私やお父さんたちのお節介で、ホシノちゃんからは意地でも家賃を受け取らないって決めているだけなんだから」

 

ホシノが涙目で必死に手を振って弁明しようとした瞬間、奥での電話を終えた大家の女性がガラガラと扉を開けて戻ってきた。そして、必死に釈明するホシノの後ろから、愛おしそうにその小さな体を優しく包み込むように抱きしめる

 

「わっ……! も、もう、おばちゃん、おじさんを後ろから驚かさないでよー。心臓に悪いなぁ。……それで、おじいさんは電話でなんて言ってた?」

 

「ふふ、ホシノちゃんの頼みで、しかもあのしっかり者のシロコちゃんが住むって言ったら、お父さん『何言ってるんだ、悩む必要なんてどこにある! すぐに部屋の鍵を渡してやりなさい!』って、二つ返事で即決だったわよ!」

 

「よ、良かったぁ……。これでようやく肩の荷が下りたよー」

 

ホシノは心底安堵したように、はぁーっと長い息を吐き出して胸を撫で下ろした

 

だが、そのやり取りを見守っていたシロコとノノミの頭の上には、未だに巨大な疑問符が浮かんだままである

 

「あの……おば様。そしてホシノ先輩。一体どういう訳なのか、私たちにも詳しく教えていただけますか? 踏み倒しでないなら、どういう契約形態なのか……」

 

「ん、家賃を払わないでいい理由、私もすごく気になる。不法占拠じゃないなら、どうしてそこまで良くしてもらえるの?」

 

二人に真剣な顔で詰め寄られた大家の女性は、腕の中のホシノの頭をもう一度愛おしそうに優しく撫でながら、誇らしげに胸を張って微笑んだ

 

「それはね、とっても簡単な理由よ。数年前、私と旦那が夕暮れの買い出しの帰りに、薄暗い路地裏で柄の悪いヘルメット団の連中に囲まれて、売り上げ金をカツアゲされそうになったことがあったの。おばちゃんたち、怖くて足が震えて泣くことしかできなかったんだけど……その時にね、このホシノちゃんがどこからともなく飛んできて、銃を構えて、あっという間にその悪い子たちを全員やっつけて助けてくれたのよ」

 

「え……」

 

ノノミが小さく息を呑む

 

「それだけじゃないわ。ホシノちゃんはアビドスの治安がどんどん悪くなっていくのを誰よりも心配して、それから毎日、雨の日も砂嵐の日も、夜の商店街の見回りを欠かさずにずっと続けてくれているの。この寂れた街を、そして私たち残された住民を守ってくれている、アビドスの一番のヒーローなのよ。そんな命の恩人であり、アビドスの希望でもある子から、おばちゃんたちがお金なんて取れるわけがないじゃない! むしろ家賃をもらったらバチが当たるわ」

 

大家の女性の言葉には、ホシノに対する偽りのない深い感謝と、我が子に対するような果てしない慈愛がこれでもかと詰まっていた

 

その言葉の重みに、シロコもノノミも静かに圧倒される

 

「えへへ、まあ……そういう訳なのさ。おじさんは何度も『ちゃんと払う』って言ったんだけど、このおばちゃんと旦那さんの圧力に負けちゃってね。だから代わりに、街の安全でお返ししてるってわけ」

 

ホシノは、まるで特大の照れ隠しをするように、いつもの緩い「うへへ」という笑みを浮かべ、少し鼻の下を指で擦りながら言った

 

「なるほど……。ホシノ先輩が普段からどれだけこの街の人たちに深く慕われているのか、よーく分かりました! やっぱりホシノ先輩は凄いです!」

 

ノノミは深く納得したように何度も深く頷き、先ほどまでの落ち込みはどこへやら、ホシノを見る目をキラキラとした尊敬の念で輝かせる

 

「ん……ホシノ先輩、ただの過保護な先輩じゃなかったんだね。少し、いや、かなり見直した」

 

シロコも感心したように深く頷くが、ホシノは「ただのって言うなーっ! おじさんはいつだってアビドスを守るために、この老体に鞭打って身を粉にして働いているんだからね! ほら、シロコちゃんももっと敬って!」と不満げに両頬をぷくーっとこれでもかと膨らませるのだった

 

そんな3人の賑やかで温かいやり取りを微笑ましそうに見届けると、大家の女性はエプロンの大きなポケットに手を入れ、チャラリと小気味いい金属音を立てて1本の古い鍵を取り出した。真鍮製のその鍵は、しっかりと磨かれており、夕日の光を浴びて鈍く、しかし確かに光を放っている

 

「はい、これがその新しく直したお部屋の鍵よ。場所は……ホシノちゃんなら毎日のパトロールのルートだし、よく知っているわよね? 今日はもうすっかり日が暮れて暗くなっちゃったし、砂も舞うから、お部屋の内見は明日、みんなでゆっくり見に行くといいわ」

 

「ん、ありがとうございます。大切にします」

 

シロコは差し出された真鍮の鍵を両手で恭しく受け取ると、そのひんやりとした確かな金属の感触を確かめるように一度きゅっと掌の中で握りしめ、制服のポケットの奥深くへと大切にしまい込んだ

 

それは、彼女の新しい生活の第一歩となる、何よりも価値のある鍵だった

 

「それにしても、おばちゃん本当に驚いちゃったわ。昔はあんなにツンツンして堅物だったホシノちゃんが、いつの間にかこんなに柔らかくなって、おじさんだなんて可愛らしい喋り方をするようになるんだもの。月日が流れるのは本当に早いわねぇ」

 

しみじみと目を細めて語る大家の言葉に、ホシノは一瞬だけ泳ぐように視線を激しく彷徨わせた。しかし、すぐにいつもの締まりのない、へらへらとした笑みを作って頭を掻く

 

「うへぇ……おばちゃん、おじさんそんなに堅物だったかなー? 昔からずっと、こんな風にのんびりした性格のサボり魔だったと思うんだけどな〜。ねえ、シロコちゃん?」

 

「ん……ホシノ先輩の昔の話、少し気になる。普段から自分の過去のこと、煙に巻いて全然話してくれないから。おばちゃん、もっと詳しく」

 

シロコの瞳が、獲物を見つけたかのように鋭く光る

 

「私もです! 先輩がどんな風に1年生の頃を過ごしていたのか、どんな風にお勉強やパトロールをしていたのか、とっても興味があります!」

 

大家の口から飛び出した「昔のホシノ」というあまりにも魅力的なワードに、シロコとノノミは一斉に目を輝かせ、ぐいっと大家の女性の方へと身を乗り出した

 

普段、過去の出来事を聞こうとしても「うへへ、おじさん忘れちゃったなー」と逃げてばかりの先輩の素顔を知る絶好のチャンスだと、二人の好奇心は最高潮に達している

 

「そ、そんなおじさんの過去なんて、何一つ面白くないよー? ただの黒歴史っていうか、若気の至りみたいなものだからさ! ほらほら、おばちゃん、余計なことは言わなくていいんだよーっ!?」

 

後輩二人の爛々と輝く視線に完全に気圧され、困ったような、そしてどこか本気で冷や汗をかくような笑みを浮かべて手を振るホシノ

 

「あら、そんなことないわよ。それじゃあ、二人に少しだけおばちゃんの知ってるお話を教えちゃおうかしら? この子ね、昔は今みたいに優しくてとろけそうな目じゃなくてね、こう……キッ!っていう、触るもの皆傷つけるような、すっごく鋭い目付きをしていたのよ? 声をかけたら噛みつかれそうな、一匹狼の格好いい女の子だったんだから」

 

大家の女性はそう言うと、羽のような両手を顔の横に持ってきて、目尻をきゅっと吊り上げるジェスチャーをして楽しそうに見せた

 

「ん……今の、私達に過保護すぎる先輩からは、ちょっと想像がつかない。本当にそんな時期があったの?」

 

「あはは、実は私、アビドスに入学するよりも前に、少しだけその頃の鋭い目をしていたホシノ先輩を見かけたことがあるんです! 本当に隙がなくて、まるでお近づきになれないような、氷のように冷徹な雰囲気を纏っていたんですよ〜」

 

ノノミはかつて、ホシノたちがまだ違う形でアビドスで過ごしていた頃の景色を思い出し、懐かしそうに微笑みながらシロコに同意した

 

「もー! 二人とも寄ってたかっておじさんをオモチャにしないでよー! おばちゃんも話を盛らないの! ほら、ノノミちゃんまで乗っかるから、シロコちゃんが本気にしちゃってるじゃない! もう、おじさん恥ずかしくて砂に埋まりたい……」

 

顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに両手で自分の顔を覆い隠すホシノ

 

その様子を見て、シロコとノノミ、そして大家の女性の鈴が転がるような笑い声が、夕暮れの静かな路地裏に響き渡る

 

「でも、本当に良かったわ……」

 

ふと、大家の女性のトーンが少しだけ低くなった

 

その瞳に宿ったのは、冗談めかしたものではなく、本物の心からの安堵だった

 

「おばちゃんね、一時期ホシノちゃんが本当に元気がなくなっちゃって、毎日すごく心配していたのよ? 声をかけることすら躊躇われるくらい、本当に怖くて悲しい顔をしてアビドスの街を彷徨っていた時期があったんだから」

 

「ん……そうなの? 先輩が、声をかけられないくらい、怖い顔を……」

 

シロコは大家の言葉に、胸の奥がチクリと痛むような感覚を覚えた

 

自分の知らない、そして誰も触れようとしないホシノの深い闇の断片が、確かにそこにあるような気がしたのだ

 

「ええ、そうよ。あれは確か、シロコちゃんがホシノちゃんと一緒に住むようになる少し前の……」

 

大家の女性が、当時のアビドスを襲った悲劇と、ホシノの心が折れかけていた時期の記憶を辿るように、言葉を紡ごうとしたその瞬間

 

「あ、おばちゃん! もしかして家の中で何か火にかけてるんじゃないの!? なんか、気のせいか少し焦げ臭い匂いが漂ってきてるような気がするよ!」

 

ホシノがそれまでの恥ずかしそうな態度から一転、ピシャリと鋭い声を上げて大家の言葉を遮った。その声のトーンは低く、どこか強引で、有無を言わせない響きを含んでいる

 

突然の指摘に、シロコとノノミもハッとして鼻をピクピクと動かしてみる。すると確かに、引き戸の隙間から、わずかに醤油が焦げたような、ツンとした煙の匂いが漂ってきていることに気がついた

 

「あらやだ、大変! お味噌汁をお鍋にかけたまま、火を落とすのをすっかり忘れて話し込んじゃってたわ! お鍋が真っ黒焦げになっちゃう!」

 

大家の女性は顔を真っ青にすると、「それじゃあ三人とも、何かあったらまたいつでも寄ってね!」と言い残し、慌てて引き戸をバタンと閉めた

 

家の中から、タタタタという小気味いい足音が急速に遠ざかっていくのが、閉まった扉越しに聞こえてくる

 

路地裏には、再び夕暮れの静寂が戻ってきた

 

シロコは、夕闇に紛れそうになっているホシノの横顔を、じっと見つめる

 

「ん……ホシノ先輩。さっきの、何かあったの?」

 

シロコは、ホシノの先ほどの様子が、明らかに不自然だったことを感じ取っていた

 

確かに焦げ臭い匂いはしていた。けれど、ホシノがあのタイミングで、まるで大家の言葉をこれ以上先へ進ませないように、何か大切な過去を必死に隠すようにして話を遮ったのは間違いなかった

 

その過去に触れそうになった瞬間、ホシノの纏う空気が一瞬だけ、かつての「鋭い目」のそれに戻ったのを、シロコは見逃さなかった

 

「んー? なんのことかな〜? おじさん、ただおばちゃんのお鍋が心配だっただけだよー。火事は防犯の天敵だからね〜、うへへ」

 

ホシノは、いつの間にか両腕を頭の後ろで組み、何でもないことのように視線を空へと向け、いつもの気の抜けたトーンでおどけて見せた

 

「……そうですよ、シロコちゃん! それより、すっかり辺りも暗くなってしまいましたし、夜風も冷たくなってきましたから、早くお家に帰りましょう!」

 

ホシノの頑なな態度を察し、すべての事情を知っているノノミが、そっとシロコとホシノの間に割って入るようにして優しく助け舟を出した

 

ホシノの過去の痛みを誰よりも理解しているノノミは、ホシノがこれ以上追及されたくないのだということを察していた

 

(ぐぅうううう〜〜……)

 

「……ん」

 

まだ何かを問い詰めようと口を開きかけたシロコだったが、その静寂を破るように、彼女の可愛いお腹から、実に盛大で素直な虫の鳴き声が響き渡った

 

シロコは一瞬だけ目を見開き、すぐに少し耳を赤くしながら、気恥ずかしそうに両手でお腹を押さえた

 

「うへへ、シロコちゃんのお腹の時計は正確だね〜。今日はいっぱい歩いて頭も使ったもんね」

 

「ん……確かに。家賃の心配とか、色々頭を使ったら、急にすごくお腹が空いた。……帰ろっか。ねえ、ノノミ。もし良かったら、今日はもう遅いし、私たちの家に泊まっていきなよ。私が美味しいご飯、作ってあげるから」

 

シロコは照れ隠しをするように話を切り替え、ノノミの制服の袖をちょこんと引っ張った

 

「えっ!? 本当にいいんですか!? シロコちゃんの手料理、ずっと食べてみたいって思っていたんですよ〜♪ やったあ、とっても楽しみです!」

 

ノノミは先ほどの家探しの落ち込みなど驚くほど綺麗さっぱり吹き飛んだように、両手を合わせて嬉しそうに声を弾ませた

 

「よし、それじゃあ決まりだね! 今夜はノノミちゃんのお泊まり会だ。おじさん、お腹がペコペコだから、今夜は奮発して美味しいお肉でも買いに行っちゃおうか!」

 

ホシノがいつもの明るい調子で先頭を歩き出し、3人は賑やかに商店街の精肉店やスーパーへと買い出しに向かった。魚屋では気前のいい猫の店主さんから「いつも街を守ってくれてありがとうね」といつものようにオマケして貰ったり、スーパーではカゴの中にノノミが次々と最高級の油や輸入チーズを放り込もうとするのを、シロコとホシノが「ノノミ、破産する」「ノノミちゃん、ここはスーパーだよ!?」と必死に止めるという一幕を挟みつつ、両手いっぱいに買い物袋を下げてホシノの家へと帰宅した

 

玄関の鍵を開けて家の中に入るなり、シロコは「ん、待たせるのは悪いから、すぐに準備する」と言って、いつもならていねいに畳んでおく制服の上着を珍しく少し雑にハンガーへ掛けた

 

そのままクローゼットからお気に入りのシンプルなエプロンを取り出すと、慣れた手つきで後ろの紐をきゅっと結び、すぐさまキッチンへと向かった

 

トントントン、と軽快にまな板を叩く包丁の音が、静かな室内に心地よく響き渡り始める

 

その間に、ホシノとノノミは手際よくテーブルの上を片付け、湯呑みを洗って箸を並べるなど、シロコの手を煩わせないように静かにサポートに回った

 

キッチンのダクトから漂ってくる、お出汁と醤油の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、3人のお腹の虫はとっくに限界を迎えようとしていた

 

それから1時間後

 

和室の中央に置かれたローテーブルの上には、高校生が作ったとは思えないほど色鮮やかでバランスの取れた、様々な手料理が所狭しと並べられた

 

ふっくらと炊き上がった白米、油が程よく乗った焼き魚、季節の野菜を使った小鉢、そして出汁の効いた温かいお味噌汁

 

「「「いただきます!」」」

 

3人は席に座ると、しっかりと両手を合わせ、待ち望んだ夕食に箸を伸ばし始めた

 

「んー! やっぱりシロコちゃんの料理は最高だねー! おじさん、このお味噌汁の絶妙な塩加減だけで白米が何杯でもいけちゃうよ!」

 

ホシノは本当においしそうに目を細め、お茶碗を片手に次々と料理を口に運んでいく

 

「本当です! お肉の焼き加減も皮がパリッとしていて中がふっくら……料亭の味みたいです! これなら本当に、毎日でも食べに来たいくらいですよ〜!」

 

ノノミも上品に一口ずつ味わいながら、その美味しさに思わず頬を緩ませて大絶賛の声を上げた

 

「ん……二人がそんなに大裟裟に褒めるから、ちょっと恥ずかしい。……でも、口に合ったなら良かった。えへへ」

 

普段は滅多に感情を表に出さないシロコだったが、大好きな二人にそこまで絶賛されるとさすがに堪えきれなかったようで、ほんのりと頬を桜色に染めながら、嬉しそうに、UIを崩して恥ずかしそうに口元を緩めて笑った

 

その純粋な笑顔を見て、ホシノとノノミの胸の中にも温かいものが広がっていく

 

賑やかだった晩御飯を終わらせると、3人は交代でお風呂に入り、アビドスの過酷な一日で溜まった砂と疲れを綺麗に洗い流した

 

部屋に戻ると、いよいよお泊まり会の夜の配置を決める時間になった

 

普段はホシノとシロコの二人で使っている部屋ということもあり、ノノミのために床にふかふかの布団が1組敷かれ、ベッドの上にはシロコが腰掛け、壁際の使い込まれたソファにはホシノがゴロンと寝転がった

 

「あの……本当に私、こんなに良いお布団を独り占めして、ここで寝てしまっていいんですか? 先輩に申し訳ないです……」

 

普段の豪華な自宅のシルクのベッドとは違うものの、先輩たちの気遣いが詰まった寝床を前にして、ノノミは少しだけ申し訳なさそうに手を合わせて尋ねる

 

「いいよ、いいよ〜。おじさん、このソファの絶妙な硬さが体にフィットして大好きなんだから。こっちでも朝までぐっすり寝れるからさ〜、ノノミちゃんは気にせず横になりなよ」

 

ホシノはソファの上でパジャマの袖をパタパタとさせながら、ニコニコとしたいつもの笑みを浮かべて手を振った

 

「ん……ホシノ先輩。ソファじゃなくて、私と一緒にベッドで寝たらいいよ」

 

その時、ベッドの上からシロコが、シーツの端を小さく握りしめながらぽつりと言った

 

「え? いやいや、おじさんは本当にこっちでも良いんだけど……シロコちゃんも一人で広々と寝た方が……」

 

ホシノがいつものようにぐうたらな調子で言いかけ、ふとシロコの方に視線を戻した瞬間、言葉がピタリと止まった

 

シロコの瞳が、ほんの少しだけ寂しそうに、頼りなげに下を向いているのが見えたからだ。普段はあんなにタフで行動派なシロコだが、今日の一人暮らしの現実の厳しさ、そして「本当にこの家を出て1人になる」という実感が、無意識のうちに少しだけ心細さを生んでいたのかもしれない

 

その小さな変化を敏感に察したホシノは、困ったように、けれど愛おしそうにふふっと優しく笑った

 

「もう、仕方ないなー。シロコちゃんがそこまで言うなら、今日はおじさんも一緒にベッドで寝ようかな」

 

「んっ!」

 

ホシノがソファから起き上がり、ベッドの端へと移動すると、シロコは嬉しそうにシーツをめくって場所を空けた

 

その光景を見ていたノノミが、羨ましそうにパッと顔を輝かせる

 

「あー! ずるいですお二人とも! 私も、私も一緒に寝たいですー!」

 

ノノミは敷いていた布団から這い出ると、楽しそうにベッドへと突撃し、ホシノを挟んでシロコとは反対側のスペースへと滑り込んってきた

 

結果として、狭いシングルベッドの上に3人の女子高生がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、見事な「川の字」が完成してしまった

 

「んん……ちょっと狭いよ、二人とも。身動きが取れない」

 

挟まれたシロコは、窮屈そうに体を縮めながら声を少し尖らせる。けれど、その表情は全く嫌そうではなく、むしろ大切な存在に挟まれている安心感から、これ以上ないほど満更でもない、幸せそうなニュアンスを浮かべていた

 

「うへへ、ノノミちゃんまで来ちゃったら、本当におじさん潰されちゃうよ〜」

 

「ふふふー、たまにはこういう狭いお布団も、修学旅行みたいでとっても新鮮で楽しいですね♪」

 

それから3人は、部屋の明かりを消して常夜灯の薄暗い光の中で、明日見に行く予定の大家さんの新しいアパートのこと、アビドス対策委員会のこれからのことなど、他愛のない会話をヒソヒソと交わし続けた

 

夜が静かに更けていくにつれて、まず最初にノノミの規則正しい、穏やかな寝息が聞こえ始め、やがて隣のシロコからも、すやすやとした小さくて愛らしい寝息が聞こえてきた

 

二人の温もりと、アビドスの静かな夜の気配を感じながら、ホシノは暗闇の中で天井を見つめる

 

かつて一人きりで世界を拒絶し、大切なものを失う恐怖に怯えていたあの過酷な日々。しかし今、自分の腕の中には、守るべき、そして自分をこうして温かく慕ってくれる愛おしい後輩たちが確かに存在している

 

(ふふ……なんだか、すごく安心するなぁ……)

 

胸の奥に灯った確かな温かさを噛み締めながら、ホシノは二人に布団を優しく掛け直し、引き寄せられるようにゆっくりと目を閉じた。かつての鋭い目付きの面影はどこにもない、穏やかな表情のまま、ホシノもまた、久しぶりに心から安らげる深い眠りへと着くのだった

 

次の日の朝、アビドスに遮るもののない眩しい太陽が昇ると同時に、3人は早くから元気に行動を開始した

 

昨夜のぎゅうぎゅう詰めの川の字から目覚めた心地よい気怠さを残しつつも、シロコの新しい門出という一大イベントを前にして、1年生の二人はどこか遠足の当日のような高揚感を纏っていた

 

アビドスの突き抜けるような青空の下、ホシノの案内のもとで歩を進める。昨日大家のおばちゃんから預かった真鍮の鍵が、シロコの制服のポケットの中でカチャカチャと小気味よい音を響かせていた

 

「うへへ〜、二人とも朝から元気だねぇ。おじさん腰が痛くなっちゃいそうだよ」

 

「ん、ホシノ先輩が遅すぎるだけ。ほら、ノノミも早く」

 

「ふふっ、待ってくださいシロコちゃん! 商店街の裏手の坂道って、結構急なんですね〜」

 

坂を上りきった3人の前に現れたのは、アビドス地区の中では比較的築年数が新しく、綺麗に外壁が維持されている5階建てのアパートだった

 

「わあ……! 想像していたよりもずっと綺麗で素敵なお建物ですね!」

 

「ん、合格。外壁のクラックもないし、管理が行き届いてる」

 

「でしょ? おばちゃんが『アビドスに残ってくれた数少ない宝物だから』って、毎日コツコツお掃除してるんだってさ」

 

驚いたことに、この規模のアパートには珍しく、エントランスの奥にはしっかりとメンテナンスされたエレベーターが設置されていた

 

「これなら自転車や重い荷物を運ぶ時も、5階まで階段を往復しなくて済むから本当に助かりますね」

 

「ん。ロードバイクを毎日階段で担ぎ上げるのは、いくらトレーニングでも少し面倒だと思ってた。ノノミ、ナイス発見」

 

「お役に立てて嬉しいです! じゃあ、ボタンを押しますね〜」

 

ノノミが嬉しそうにエレベーターのボタンを押し、到着したカゴに乗り込む

 

5階へと滑らかに上昇していく間、シロコはポケットの中の鍵を何度も指先で確かめていた

 

チーンという電子音と共に扉が開き、目の前に鍵に刻印されている「501号室」のドアが現れる。シロコが少し緊張した面持ちで鍵を差し込み、カチャリと回してドアを開けると、そこには乾いた風の吹き抜ける、さっぱりとした1Kの空間が広がっていた

 

「……ん」

 

一歩足を踏み入れたシロコは、部屋の中央に立ってぐるりと辺りを見渡す

 

正直なところ、昨日一番最初に見せられたノノミお墨付きの規格外な「6LDK」のラグジュアリー空間の記憶が強烈に頭に残っていたせいで、第一印象としてはどうしても「少し狭いかな?」と感じてしまうのは無理もなかった。しかし、冷厳な現実としての家賃の壁を知った今、改めて冷静に空間を観察してみれば、高校生が一人で自給自足の生活を営むには、これ以上ないほど贅沢で十分な広さだった

 

「シロコちゃん、どうかな……? やっぱり、ちょっと窮屈……?」

 

「ん……ううん。部屋の片隅に愛用のロードバイクをディスプレイスタンドで固定して配置したとしても、生活動線は全く邪魔されない。むしろ、自分だけの秘密基地みたいで、すごく心地よい密度がある」

 

「うへ……気に入ってくれたみたいで良かったよー。ほら、おばちゃんが『最近内装をきれいに整備し直した』って言ってた通り、壁紙も真っ白だしさ」

 

床のフローリングもピカピカに磨き上げられていた。ホシノの紹介だからこそ、隅々まで愛情を込めて整頓されたその部屋は、これからのシロコの新しい生活を温かく迎え入れてくれているようだった

 

シロコの一人暮らしの荷物自体は、もともと最低限のものしかなく、非常にコンパクトだった

 

あらかじめまとめてあった数箱の段ボールと、何着かの衣類、そして彼女の命の次くらいに大切なロードバイク一式

 

それらをアパートのエレベーターで何度も往復させて効率よく運び込むと、時計の針がお昼を回る頃には、あっさりとすべての搬入作業が完了してしまった

 

ガランとした部屋に自分の荷物が収まった様子を見て、シロコは満足げに息を吐いた

 

「ん、これで本当に、私の家になったんだ。……でも」

 

「どうしました、シロコちゃん?」

 

「ん……部屋が片付いたのはいいけど、極めて重大な問題が浮き彫りになった。……電化製品が、何一つない」

 

そうなのだ。部屋には生活に最低限必要な水道や照明こそ通っているものの、冷蔵庫も、洗濯機も、電子レンジも、生活を支えるための「家電」が何一つとして存在していなかった

 

これではいくら家事が得意なシロコでも、自炊生活を始めることすらままならない

 

「よし! それじゃあこれから、必要な家電を揃えにいこっか! おじさん、ちょっとだけ遠出になっちゃうけど、品揃えが一番いい場所を知ってるからさ」

 

ホシノの発案により、3人はアビドス地区を少し離れ、隣接する最先端の学園都市・トリニティ総合学園の商業特区にある、地域最大級の大型電化製品店へと向かうことにした

 

トリニティの近未来的なデザインの巨大な家電量販店に到着すると、店内には最新式の白物家電からガジェット類までが、目移りするほど大量にディスプレイされていた

 

ピカピカに輝く最新のドラム式洗濯機や、鏡面仕上げの大型冷蔵庫を前にした瞬間、昨日「自分の常識のなさ」で大失態を演じ、真っ白に燃え尽きていたノノミの瞳に、再び獰猛なまでの「ネフティスお嬢様としての輝き」が取り戻された

 

「シロコちゃん! この最新のAI搭載冷蔵庫なんてどうですか!? 食材の管理も自動でしてくれて、いつでも冷たいプロテインが飲めますよ! あっ、こっちの全自動洗濯乾燥機なら、サイクリングウェアも1時間でフカフカに乾かせちゃいます! これ、全部私に買わせてくださいっ!」

 

「ん……んん……ノノミ、圧がつよい……」

 

「だーめーだーよー、ノノミちゃん!」

 

凄まじい勢いでゴールドカードを片手に詰め寄るノノミの前に、すかさずホシノが立ちはだかり、両手をバツの字にして通せんぼをした

 

「そんな高級品をシロコちゃんに買い与えたら、一人暮らしで自立するっていう意味がなくなっちゃうでしょ? シロコちゃんが自分でバイトして少しずつ揃えるか、アビドスの予算で買える身の丈に合った中古品にするべき!」

 

「ううっ……! ホシノ先輩の言うことは100%正しいです……正論です……。でも、でもっ! 私は大好きなシロコちゃんに、少しでも不自由のない最高に快適な新生活を送ってほしいんです! 昨日は私のせいでシロコちゃんを悲しませちゃったから、どうしてもその穴埋めをさせてください!!」

 

ノノミの熱意は、ホシノの想像を遥かに超えていた。なんとノノミは、ピカピカに磨かれた家電量販店の床の上に、綺麗な制服の膝をためらいもなくつき、そのまま美しい姿勢のままでホシノに向かって深々と頭を下げたのだ

 

文字通りの、完璧な「土下座」である。

 

「おねがいですホシノ先輩!! シロコちゃんの家電一式を買うのだけ、今回だけでいいですから、どうか私に許可してください!!」

 

「の、の、ノノミちゃん!? 分かった、言い分は分かったから、お願いだからそんなトリニティのど真ん中で土下座するのだけは本当にやめてーっ!?」

 

ホシノは顔を真っ青にして、周囲の視線からノノミを隠すように慌てふためきながら手をバタバタと振った

 

優雅でお嬢様気質なノノミが、まさかシロコのためにプライドを全て投げ打って土下座を敢行するとは、完全に計算外だった

 

周囲のトリニティの生徒たちが、「ねえ、あそこで先輩が後輩をいじめて土下座させてるわよ……」「ひどい……なんて鬼畜な先輩なのかしら……」「あの制服は確かアビドスよね……」と、ヒソヒソと指を差しながら噂話を始めている

 

その光景を、一歩引いたところから冷静に眺めていたシロコが、ぽつりと呟いた

 

「ん……ホシノ先輩。これでトリニティ中に、アビドスの委員長が後輩を理不尽に虐げる、冷酷で鬼畜な人だっていう風評被害が完全に確立されたね。アビドスのリテラシー的にかなりまずいと思う」

 

「そんな知れ渡り方、絶対に嫌だよーー!! おじさんはいつだって清く正しく生きてる善良な市民なのに!!」

 

ノノミの必死すぎる熱意と、これ以上ここに留まっていたら自分の社会的信用が完全に崩壊するという恐怖に負けたホシノは、ついにガックリと肩を落として降伏のサインを出した

 

「はぁ……。分かった、分かったから! その代わり、最新の超高級品じゃなくて、シロコちゃんの一人暮らしの部屋に収まる、ごくごく普通のサイズのものだけにするって約束して! それなら、ノノミちゃんのプレゼントとして許可するから!」

 

「……っ! 本当ですか!? ありがとうございます、ホシノ先輩っ!!」

 

ホシノの許可が下りた瞬間、ノノミはバッと勢いよく顔を上げると、土下座していたとは思えないほどの満面の、最高に嬉しそうな笑顔を咲かせた。そして、ホシノの気が変わらないうちに実績を解除してしまおうと、カードを指に挟んで、恐ろしいほどの俊足で「シロコちゃん、行ってきますねー♪」と、店員のいる会計カウンターへと風のように走り去っていった

 

「うへぇ……おじさん、完全にノノミちゃんのペースに巻き込まれちゃったよ……」

 

財布をすっからかんにされたわけでもないのに、ひどく疲れ切った様子で頭を抱えるホシノだったが、あのノノミの尋常ならざる執念が実を結び、結果としてシロコの新たな城には、新生活を営む上で一切の不自由がない家電たちが揃うこととなったのだった

 

♢

 

「ふぅ……! ひとまずはこんな感じかな?」

 

ホシノが腕をまくり、額に浮き出た健康的な汗をユニフォームの袖でゴシゴシと拭いながら、今しがた狭い防水パンの中にミリ単位の狂いもなくカチリと設置し終えたばかりの、ドラム式洗濯機を見つめて満足げに息を吐いた

 

トリニティの商業特区からアビドスへと帰還したあと、3人は休む間もなく設置作業に取り掛かっていた

 

ワンルームの限られたスペースの中に、冷蔵庫、全自動の洗濯乾燥機、そしてこれからのアビドスの猛暑を乗り切るための最新型エアコンの室内機と室外機が、手際よくそれぞれの定位置へと収められていく

 

「ふふ、とってもいい汗をかきましたね♪ なんだかすごく、心地よい達成感です!」

 

ノノミはふんわりとした笑顔のまま、まるでお気に入りの庭園でハーブティーでも楽しんだ後のような涼しい顔で、小柄なハンカチでちょこんと首筋を拭っている

 

「……ん。二人が満足そうなのは良いことだけど、流石にトリニティのど真ん中からアビドスのここまで、配送業者を使わずに冷蔵庫と洗濯機を人力で背負って歩いて帰ってきたら、普通はそうなると思う」

 

壁に寄りかかりながら、シロコはジト目という言葉がこれ以上ないほどしっくりくる呆れた視線を、頼もしい先輩たちに向けていた

 

素の体力自体はシロコが上なのだが、純粋な「怪力」という面においては、この二人にどうしても勝てない――そう痛感せざるを得ない道中だった

 

事の発端は、トリニティの家電量販店での会計直後のことだった

 

「買ったものは一刻も早く取り付けて、今日からシロコちゃんに快適に使ってほしいんです!」というノノミのこれまた凄まじい熱意と、それに「そうだね、配送を待ってたら数日かかっちゃうし、おじさんたちが運んじゃった方が手っ取り早いか〜」とあっさり同意したホシノのせいであった

 

結果として、トリニティの洗練された美しい並木道を、凄まじい重量の大型ファミリーサイズ冷蔵庫を背負って鼻歌交じりに歩くノノミと、ドラム式洗濯機をまるでおんぶ紐で我が子を背負うかのように背中に固定して「うへ〜、風が気持ちいいね〜」と歩くホシノという、あまりにも前衛的かつ世紀末的な光景が爆誕してしまったのだ

 

道行くトリニティの優雅な生徒たちが、すれ違いざまに「嘘でしょう……?」「あのお二人、重さを感じませんの……?」と、文字通り開いた口が塞がらないといった驚愕の目を剥いていたのは言うまでもない

 

その都度、一歩後ろを歩いていたシロコは、顔が真っ赤になるほどの羞恥心に襲われていた

 

しかし、シロコも二人よりかは幾分か重量が軽いとはいえ、エアコンの室内機と室外機をそれぞれ左右の脇にラグビーボールのごとくガッチリと挟み込み、何食わぬ顔でアビドスまで並走していたのだ

 

ペダルを漕ぐ筋肉だけでなく、彼女の全身の体幹がいかに強靭であるかを証明する姿ではあったが、客観的に見れば、トリニティの生徒たちからすれば「アビドスから来た異次元の怪力集団」という同類にしか思われていなかった

 

なお、トリニティ総合学園のトップ層には、素手で校舎の分厚いコンクリートの壁を破砕し、お菓子感覚で大岩を消し飛ばすと噂される、およそお姫様のような容姿からは想像もつかない桁外れの怪力を持つ「怪物」がいると囁かれていた

 

そのため、この凄まじい3人の搬送劇を目撃したトリニティのモブ生徒たちは、恐怖に震えながらも、どこか妙な納得の仕方をしていたという

 

「……なるほどわかったわ。他校の治安が悪い地域にも、我が校の『あの噂の方』と同じような、人間を辞めたみたいな怪力の持ち主がやっぱり生息しているのね……」

 

そんな、ホシノたちが聞けば「おじさんをそんな人と一緒にしないでよ〜!」と全力で抗議したくなるような、とんでもない誤解と風評被害がトリニティの裏でそっと補強された瞬間であったが、3人はそんなことは露知らず

 

シロコの新しい部屋にすべての家電が設置し終え、片付けまで完全に終わった頃には、窓の外の空は燃えるような茜色から、深い群青色へと移り変わり、日はほとんど沈みかけていた

 

新調されたばかりのシーリングライトが、まだ何も飾られていない真っ白な室内をぽつんと照らしていた

 

「それじゃあ、おじさん達はそろそろ帰るけど……シロコちゃん、ちゃんとお部屋の鍵とチェーンはかけるんだよ? あと、夜中に変な物音がしたからって、武器も持たずに手ぶらで外の様子を見に行ったりしたら絶対にダメだからね? すぐにおじさんに連絡すること!」

 

「ふふ、ホシノ先輩の心配は本当に尽きませんね♪」

 

玄関口でスニーカーの紐を結び終えたホシノだったが、一度立ち上がった後も、まるで初めて我が子を一人暮らしさせる親のように、最後の最後まで心配が尽きない様子でシロコの顔を覗き込んでは、あれこれと注意事項を並べ立てていた

 

その過保護な様子が微笑ましくて、隣に並んだノノミが口元をハンカチで隠しながら楽しそうにクスクスと笑う

 

「ん……ホシノ先輩、心配しすぎ。私はもう子供じゃないし、何かあったらこれで対処できる」

 

「そういう物騒な解決方法をさらっと言っちゃうところが、おじさん一番心配なの! ほら、女の子の一人暮らしなんだからさ!」

 

「それではシロコちゃん、また明日、対策委員会の教室で会いましょ……」

 

「ね、ねぇ……二人とも」

 

ノノミがホシノの制服の襟元を優しく引っ張るようにして、ドアの外へ一歩踏み出そうとしたその瞬間、後ろからシロコの、いつもよりずっと小さな、消え入りそうな声が二人の足を止めさせた

 

「どうしました、シロコちゃん?」

 

ノノミが不思議そうに振り返る

 

ドアのノブを握ったまま、シロコは珍しく視線を泳がせ、制服の袖から覗く指先をモジモジと所在なさげに絡ませていた

 

「……その、今日はいろいろ手伝ってもらって、家電まで買ってもらったから……お、お礼として、もし良かったら、今日も私の作ったご飯を食べていかないかなって、思って……」

 

「わぁ! いいで……」

 

手料理のご馳走と聞いて、ノノミがすぐに嬉しそうな声を上げて了承しようとした、その一瞬

 

ノノミは、シロコの潤んだ水色の瞳が、自分ではなく、その隣にいるホシノの顔をじっと、すがるように見つめていることに気がついた

 

(ふふ……昨日からずっと強がって、『私は大丈夫』『一人でできる』って言っていたけれど……。やっぱり、ずっと一緒に暮らしてきたホシノ先輩と、本当に離れ離れになるのは、すっごく寂しいみたいですね)

 

シロコが胸の奥に隠していた本当の甘えたい気持ちと、そのいじらしい意図にすぐさま気がついたノノミは、お茶目にポンと手を叩いて、わざとらしく声を上げた

 

「あ、そうでした! 私、急用で、今夜はもう急いで家に帰らないといけないのをすっかり忘れていました!」

 

「え? ノノミちゃん、そんな急な用事が……?」

 

「そうなんです! ですからホシノ先輩! 私の分まで、シロコちゃんと二人で、たーっぷり美味しいご飯を食べてから帰ってくださいね♪」

 

「ノ、ノノミちゃん? ど、どういう……」

 

「それじゃあお二人とも、また明日でーす! お邪魔しました〜!」

 

パタパタと軽快な足音を響かせながら、ノノミはエレベーターのボタンを目がけてあっという間に通路を駆け抜けていってしまった

 

本当は用事などない。けれど、長年アビドスで二人きりで支え合ってきたホシノとシロコにとって、これが本当の意味での「子離れ・親離れ」の瞬間なのだ

 

自分がここに居ては、シロコも本音で甘えられず、綺麗な区切りを付けられない

 

それは、いつも一歩引いてみんなを見守っているノノミなりの、最大限の優しさと気遣いだった

 

バタン、と静かに閉まった玄関のドアの後ろには、何故か嵐のように慌てて帰っていったノノミの残像を、完全に置いてきぼりにされた困惑の表情で見つめ合う、シロコとホシノの二人だけが残された

 

「……ん。行っちゃった」

 

「う、うへぇ……ノノミちゃん、本当に風みたいに去っていっちゃったね……」

 

気まずそうに、けれどどこかホッとしたように小さく息を吐くシロコと、頭を掻きながら困ったように笑うホシノ

 

静かになった部屋の中に、新調されたばかりの冷蔵庫の規則正しい静かな駆動音だけが、トクトクと時を刻むように響いていた

 

 

「はい、オムレツ。これ、ホシノ先輩の好きな物だよね。ケチャップ、少し多めにしておいた」

 

「わー! おじさんの大好物じゃないの! ありがとう、シロコちゃん!」

 

完全に帳が下り、窓の外がアビドスの深い夜闇に包まれた頃。新調したばかりの小さなローテーブルの上には、シロコの手によって美しく焼き上げられた黄色いオムレツが並べられた

 

お皿の端には、彩りとして添えられたパセリ。湯気がふんわりと立ち上り、甘酸っぱいケチャップの香りが、まだ何もない1Kの空間を優しく満たしていく

 

シロコがホシノの対面に静かに席に着いたのを確認し、二人は自然と胸の前で手を合わせた

 

「「いただきます」」

 

箸を手に取り、二人は静かにご飯を食べ進める

 

そこに会話はほとんどない。はたから見たら、静かすぎて仲が悪いのではないかと勘違いされるかもしれないほど、しんとした食卓だった。しかし、アビドスの過酷な日常の中で、言葉を介さずとも背中を預け合ってきた二人にとっては、この沈黙こそが最も自然で、気遣いのいらない心地よい空気だった

 

お互いの箸が動く音、咀嚼する音、それだけで十分だった

 

(オムレツ……。初めてシロコちゃんが作ってくれた料理も、これだったっけな……)

 

ホシノは箸の先で、柔らかいオムレツをそっと切り分けながら、遠い日の思い出に深く思いを馳せていた

 

出会ったばかりの頃、ろくに自炊もできず、ホシノが作った壊滅的な料理を食べてお腹を壊してしまったシロコ

 

申し訳なさと対抗心からか、彼女が「ん、次は私が作る」と不器用ながら初めて作ってくれたのがオムレツだった

 

あの時のものでさえ、料理初心者が作ったとは思えないほど完璧に火が通り、卵はトロトロで、ホシノの不恰好な手料理の味も見た目も遥かに超える最高の美味しさだった

 

だが、今目の前にあるオムレツは、それをさらに超えていた

 

ただトロトロなだけではない。ホシノが少し甘めの味付けを好むこと、ケチャップをたっぷりつけて食べるのが好きなこと、その全てを熟知した上での絶妙な味加減。一口含めば、卵の優しい甘みとバターの香りが広がる

 

シロコがこれまでに積み重ねてきた努力の全てが、この一皿に、そして「ホシノのためだけ」のアレンジとして詰め込まれているのだと気がつき、胸の奥がツンと熱くなる。

 

出会ってから半年ほど

 

決して、長いとは言えない時間だ

 

(……身長も、いつの間にかこんなに大きくなっちゃってさ)

 

ホシノがシロコを初めて見つけた時、その体は細く、背丈も自分より少し低いくらいの、どこか壊れてしまいそうな小さな女の子だったはずなのに

 

気がつけば、隣を歩く彼女の肩の位置は上がり、今では自分よりも少し背が高いくらいにまで、健やかに、逞しく成長していた

 

(……まだ、やっぱり一人にさせるのは怖いよ。だけど……シロコちゃんが自分で選んだ、自立への道なんだもんね)

 

最後の一口を、名残惜しそうに口に運ぶ

 

シロコが作る料理なら、学校の教室でも、これからだっていつでも食べることはできる。しかし、この狭い部屋で、まだ何もない未完成の空間で、二人きりで向かい合って食べる「最後の夜」という時間は、もう二度と戻ってはこない

 

「シロコちゃん、ご馳走様。……うん、また一段と腕を上げたね。おじさん、本当に感動しちゃった」

 

「ん! 美味しく食べてもらえて良かった。先輩がそう言ってくれるのが、一番嬉しい」

 

ホシノの心からの言葉に、シロコは少し照れくさそうにしながらも、にっこりと、ひだまりのような温かい笑顔で返した

 

愛おしく、どこか切ない時間は終わりを告げ、二人は並んでシンクに立ち、食器を片付けた。カチャカチャとお皿が触れ合う音が消え、静寂が戻ってきたところで、ホシノは玄関へと向かった

 

いつもならダラダラと居座るはずのホシノだったが、自分でも驚くほど素直な動きで、すんなりとスニーカーに足を通していた

 

「それじゃあ、おじさんは本当に帰るね」

 

「ん……もう、帰っちゃうの?」

 

ドアノブに手をかけたホシノの後ろ姿を見つめ、シロコが寂しさを隠しきれない様子で声をかける

 

「うん。おじさんもね、ちゃんと覚悟ができたからさ。それに……明日、学校に行けばまたすぐにシロコちゃんに会える。ノノミちゃんにも、みんなに会えるから。だから、寂しくなんかないよ」

 

「……分かった。……今まで、本当に色々とありがとうね。ホシノ」

 

いつも「ホシノ先輩」と呼ぶ彼女が、最後にポツリと、ただ名前だけを呼んだ

 

「こーら。ちゃんとおじさんには『先輩』を付けないとダメだよ〜? またノノミちゃんに『お話』されちゃうよ?」

 

「ん、今だけ。今日だけは許して」

 

二人は薄暗い玄関口で、顔を見合わせてクスッと笑い合う。それは、固い絆で結ばれた二人にしか分からない、信頼の証のような微笑みだった

 

「それじゃ、また明日ね!」

 

「ん! また明日」

 

バタン、と静かに、重たい鉄製の扉が閉まった。鍵が内側からカチャリ、と閉まる強固な音が響く。ホシノは一度だけその扉を見つめた後、踵を返してエレベーターへと向かった

 

アパートを出ると、夜風が火照った頬を冷たく撫でる

 

星の瞬く夜道を、ホシノは真っ直ぐに、かつてシロコと二人で暮らしていた自宅へと歩き続けた

 

「ただいまー……」

 

玄関のドアを開け、真っ暗な空間に声をかける。当然だが、返事など返ってくるはずもなかった

 

パチリ、と壁のスイッチを押して部屋の電気を点けると、白く冷たい蛍光灯の光の下に、見慣れたリビングが広がっていた

 

しかし、つい数日前まで、シロコの荷物やロードバイクの工具が乱雑に置かれていたリビングの片隅が、今は何もなくなって、ぽっかりと不自然なほど広く、虚無的に開いていた

 

「……うちって、こんなに広かったかな……」

 

ホシノは制服も着替えないまま、吸い込まれるようにベッドへと仰向けに飛び乗った

 

枕元から、微かにシロコのシャンプーの匂いが残っているような気がして、思わず胸が締め付けられる

 

チクタク、チクタク……

 

部屋の中に、古い柱時計の音だけが不気味なほど大きく響き渡る。昨日までは、すぐ隣のベッドにシロコがいて、その規則正しい寝息が、ホシノの荒んだ心をどれほど安らがせてくれていたか

 

シロコという、自分をこの世界に繋ぎ止めてくれていた絶対的な「安心」が旅立ってしまった。その冷徹な現実が、静まり返った部屋の空気を通じて、容赦なくホシノの肌に突き刺さってくる

 

白子を、ユメを失い、一人きりだったあの冷たくて恐ろしい暗闇の記憶が、再び足元から這い上がってくるような錯覚を覚えた

 

「……静かすぎて……全然、眠れないや……」

 

ホシノは小さく、重いため息を吐き出すと、寝転ぶのを諦めてベッドから起き上がった

 

このまま目を閉じれば、過去の悪夢に飲み込まれてしまいそうだった

 

彼女は無言のまま、壁に立てかけてあった愛用の重たいショットガンを引き寄せ、頑丈な盾を手に取った

 

静まり返った部屋に、冷たい金属の擦れ合う音だけが響く

 

「……よし。おじさん、ちょっと夜風でも浴びてこようかな」

 

誰に告げるでもない独り言を暗闇に落とし、ホシノは不安を振り払うように武器を固く握りしめると、再び冷たい夜のアビドスへと、いつ終わるとも知れないパトロールに一人で出かけていくのだった

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