白子とシロコ   作:気弱

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すれ違う二人 前編

秋の乾いた空気がいつの間にか鳴りを潜め、アビドス砂漠の乾いた風の中に、ちらほらと白い雪の欠片が混じり始める季節

 

かつては数千人の生徒たちで賑わっていたであろうアビドス高等学校の広大な校庭は、今や冷たい北風と薄っすらと積もり始めた白い粉雪に覆われ、静まり返っている。しかし、その静寂を引き裂くように、甲高い銃声と爆音、そして鉄と鉄が激しくぶつかり合う重低音が、灰色の空へと響き渡っていた

 

「ほらほら、2人とも。もう足元がフラフラだよー? おじさん、まだまだ準備運動にもなってないんだけどなぁ」

 

巻き上がる砂煙と雪の結晶の向こう側

 

ホシノは愛用の巨大な盾を片手で軽々と持ち、もう片方の肩に無造作にショットガンを引っ掛けたまま、にへらとしたいつもの締まりのない笑みを浮かべていた

 

その対面では、膝をついて肩を激しく上下させているシロコとノノミの姿がある

 

月に一度行われる、アビドス対策委員会による実戦形式の模擬戦。その過酷さは、他校の生徒が見れば本気の殺し合いと見紛うほどの手加減なしの代物だった

 

「ま、まだまだ……! まだまだこれからです、ホシノ先輩!!」

 

泥と火薬の煤で制服を汚したノノミが、気合を入れ直すように叫びながら立ち上がる

 

その両腕に抱えられた巨大なミニガンが、駆動モーターの悲鳴のような高音を響かせて高速回転を始めた

 

直後、鼓膜を震わせる咆哮と共に、凄まじい銃弾の嵐がホシノ目掛けて一気に掃射される。雪混じりの砂煙を吹き飛ばしながら迫る弾幕に対し、ホシノはため息混じりの間延びした声を上げた

 

「ノノミちゃーん、この前も言ったけどさぁ……。おじさん相手に適当に弾をばら撒くだけじゃダメだよ〜? ほら、それだけ派手に撃ってたら、そろそろ弾切れじゃないかな?」

 

ホシノは一歩も退くことなく、ただ盾を地面に突き立ててその影に身を潜めた

 

ガガガガガンッ!!!と、盾の分厚い特殊合金の表面をノノミの銃弾が激しく叩き、火花が夜空の星のように散る。しかし、ホシノの腕力で固定された盾は1ミリも微動だにしない。卓越した防護技術の前では、どれほど圧倒的な火力であっても無力化されてしまう

 

だが、ノノミの狙いは最初から「当てること」ではなかった

 

「今です! シロコちゃん!」

 

「ん!」

 

「おっと!?」

 

弾幕を防ぐ盾の死角――その一点を突いて、シロコの細い体が電撃のように飛び出した

 

防がれることを百も承知で猛連射を叩き込んだノノミの「視覚誘導」に完全に隠れ、極めて機動力の高いシロコが死角から同時にゼロ距離まで肉薄していたのだ

 

一瞬だけ、ホシノの瞳が驚きに丸くなる

 

そのわずかな油断の隙を、シロコは見逃さなかった。空中で身を翻し、バネのようにしなる強靭な脚から放たれた鋭い回し蹴りが、ホシノが構えていたショットガンの銃身を正確に捉える

 

(残念、そこからは届かないよ…!)

 

キィィンッ!と硬質な金属音が響き、ホシノの愛銃が手元から滑り落ちて遠くの砂地へと吹き飛ばされた

 

(――届いた!?)

 

ホシノの脳裏に、電流のような衝撃が走る

 

以前のシロコの体格であれば、この位置からの蹴りは確実にホシノの手元に届く前に見切られ、防がれていたはずだった。しかし、ここ数ヶ月で急激に伸びたシロコの身長と手脚の長さが、打撃の到達スピードと間合いを劇的に変化させていたのだ

 

ホシノの天才的な戦闘勘をもってしても、シロコの「成長」という不確定要素だけは、その攻撃範囲の予測を見誤らせるに十分だった

 

「っ……!」

 

武器を奪われ、一瞬だけ体勢を崩すホシノ

 

しかし、彼女の戦闘技術は一瞬の動揺すらも即座に次の手札へと変換する。ホシノは瞬時に腰のポーチから手榴弾を抜き取り、ピンを抜いてシロコの足元へ投げつけようとした

 

「させない!」

 

だが、今のシロコは野生動物のような鋭い反射神経を完全に覚醒させていた。手榴弾がホシノの手から離れた瞬間に反応し、手元のアサルトライフルの銃口を向け、引き金を引く

 

パンッ!

 

精密にコントロールされた一撃が、空中で手榴弾の信管部分を正確に撃ち抜き、それをホシノの背後へと激しく弾き飛ばした

 

完璧な連携 完璧な対策

 

この模擬戦を毎月繰り返してきて、初めてシロコは「ホシノに銃弾を掠め、武器を奪う」という未曾有の快挙を成し遂げた

 

(いける――このまま、ホシノ先輩からダウンを取る!)

 

勝利を確信したシロコが、追撃のために引き金をもう一度深く絞り込もうとした、その瞬間だった

 

「三段構えを、警戒しないのはダメだね〜」

 

「!?」

 

耳元で、すぐ近くで、ゾクリとするほど冷たく静かなホシノの声が聞こえた

 

そう思った瞬間、シロコの視界が不自然に歪み、腹部に鈍い、しかし強烈な衝撃が走る

 

シロコの体はなす術もなく後ろへと吹き飛び、冷たい雪が積もった地面を転がった

 

(え……? どうして……!?)

 

シロコは油断など一切していなかった

 

ホシノのショットガンは奪い、手榴弾も叩き落とした。視界の中に、別の武器を取り出す予備動作は絶対に存在しなかったはずだった。それなのに――ホシノはシロコの蹴りで体勢を崩したまさにそのコンマ数秒の間に、いつの間に抜いたのかすら分からないハンドガンを完全に構え、寸分の狂いもなくシロコの腹部を正確に撃ち抜いていたのだ

 

「シロコちゃん!?」

 

ノノミの悲痛な叫び声が響き渡る

 

同時に、非情な「カチチチチ……」という乾いた機械音が、ノノミのミニガンから鳴り響いた

 

最悪のタイミングでの弾切れだった

 

(っ! で、でも! この至近距離なら、シロコちゃんが倒れた隙に私がリロードを終えれば――!)

 

「だから、油断大敵だよ〜」

 

ノノミが弾倉を交換しようと手を伸ばした瞬間、倒れ込んだシロコの背後から、ホシノが地面に深く突き刺さっていた大型シールドを力任せに引き抜いた。そして、あろうことかその巨大な盾を、自分の背中を覆うようにして逆手に構える

 

「先輩、なにを――っ!?」

 

直後

 

先ほどシロコが正確に撃ち落とし、ホシノの背後へと転がっていった手榴弾が、時間差で凄まじい爆音と共に爆発した

 

ドォォォォンッ!!!

 

手榴弾の爆風と衝撃波のすべてを、ホシノは背中に回した盾一枚で完璧に受け止めた。指示された通りの衝撃を利用し、その背後からの「爆風の推進力」をそのまま自らの加速エネルギーへと変換して、弾丸のような速度で一気にノノミとの距離をゼロへと縮めたのだ

 

「っ!?!?」

 

あまりにも常軌を逸した荒技に、ノノミの目がこれ以上ないほど大きく見開かれる

 

「おーわり!」

 

ノノミの視界がホシノの小さな体で埋め尽くされた。その勢いのまま、ホシノはシールドの硬質なエッジでノノミのミニガンを軽々と叩き落とし、完全に無防備になったノノミの胸元へ、銃口を向けたハンドガンをピタリと突きつけた

 

「う、うう……。参りました……」

 

ノノミは完全に白旗を上げ、両手を上げてへなへなと地面に座り込んだ

 

「うん! 2人とも連携もすごく上手くなって、確実に強くなってて、おじさん本当に嬉しいよ〜」

 

そこには、先ほどまでの戦場の死神のような冷徹なオーラは微塵もなかった。ホシノは手慣れた手つきでハンドガンを腰のショルダーホルスターに仕舞うと、いつものにへらとした、締まりのない笑顔に戻って自分の頭を撫でた

 

「そ、それは嬉しいですけど……さっきのなんなんですか〜! いきなりホシノ先輩が爆風に乗って飛んでくるなんて、本当にビックリしましたよ! 心臓が止まるかと思いました!」

 

地面に座り込んだまま、頬をこれでもかとぷくーっと膨らませて、ぷんぷんと可愛らしく怒るノノミ

 

ホシノは苦笑いを浮かべながら、あやすように両手を振って説明を始める

 

「あはは、ごめんごめん。さっきシロコちゃんに手榴弾を落とされたでしょ? あれ、落とされる前にピンは抜いてたんだよね。だから、どうせ背後で爆発するなら、爆風が届く前にシロコちゃんをハンドガンで無力化して、その直後に爆風をシールドで受けて、弾切れでリロード中だったノノミちゃんのところまで一気に滑空しちゃえってわけ」

 

「……言っている意味が全く分かりません! 人間技じゃないです!」

 

「ん。その理不尽な超人機動のせいで、私、砂まみれなんだけど……」

 

「うわぁ!? び、びっくりした……」

 

いつの間にか、ホシノのすぐ横にシロコが音もなく立っていた。瞳を極限まで細めた「ジト目」で、不満そうにホシノをじっと見つめている

 

シロコの綺麗な銀髪や制服のいたる所には、ホシノが引き起こした凄まじい爆風によって舞い上がった、アビドスの細かい砂と雪の混ざった泥がこれでもかとこびり付いていた

 

「うへへ、ごめんねシロコちゃん。でも、今日のシロコちゃんのキックは本当に鋭かったよ。おじさん、本気で冷や汗が出ちゃった」

 

「ん……次は絶対に、ホシノ先輩を倒す」

 

悔しそうに泥を払いながらも、シロコの瞳には確かな闘志が宿っており、それを見たホシノは、頼もしい後輩たちの成長に心から目を細めるのだった

 

「うん……きっと、2人ならいつか、おじさんを越えられるよ」

 

お昼時のアビドスの寒空に、ホシノの言葉がぽつりと、白く冷たい息となって溶けていった

 

その声はいつもと違い、どこか遠くを見つめるような、そして言い知れぬ寂しさを孕んだ響きを帯びている

 

「?」

 

「……ホシノ先輩?」

 

シロコとノノミは、思わずお互いに顔を見合わせた

 

いつもなら「おじさんもうお腹すいちゃったよ〜」と駄々をこねるはずの先輩が見せた、ほんの一瞬の、けれどひどく痛々しい横顔

 

二人は怪訝そうに首を傾げる

 

「あはは! なんでもないよ! それじゃあ、今日の模擬戦はこれにてお開き! 解散だね!」

 

ホシノは自分の陰りを取り払うように、パンと小気味よく両手を叩いた

 

その顔には、すでにいつもの締まりのない笑顔が貼り付けられている

 

「解散……ですか? いつもなら、この後にみんなでゆっくりお風呂に入って、温まってからお茶会とかするのにですか?」

 

ノノミが不思議そうに尋ねる

 

模擬戦で泥だらけ、砂まみれになった体を、学校の古い大浴場でみんなで賑やかに洗い流すのが、この過酷な定例行事の「お約束」であり、一番の楽しみでもあったはずだ

 

風邪を引きやすいこの季節ならなおさら、お風呂を抜いて解散するなど、これまでのアビドスではあり得ないことだった

 

「ん。私も、早くホシノ先輩と一緒にお風呂に入って、泥を落いたい」

 

シロコも不満げにジト目を向け、ホシノの服の袖をきゅっと引っ張る。しかし、ホシノは困ったように眉を下げ、優しくその手を解いた

 

「ごめんねぇ、2人とも。今日はおじさん、これからちょっと出かけないといけない用事があるんだよ。だから、今日はおじさん抜きで、2人で仲良くお風呂に入って温まってほしいんだ」

 

「用事……ですか? 」

 

「ん。何か美味しいものでも食べに行くの? もしそうなら、ホシノ先輩一人で行くのはズルい。今日の模擬戦で、初めて先輩からショットガンを叩き落としたMVPの私にも、何か食べさせるべき。お肉がいい」

 

すかさずシロコがくいっと身を乗り出す。そんな後輩のいじらしい追及に、ホシノはたじたじになりながら、苦笑いを浮かべて両手を振った

 

「そ、それはまた後日、おじさんがたっぷりご馳走させてもらうからさ……! ほら、今日はお昼ご飯を食べに行くとか、そういう楽しい用事じゃないから。そこは安心してよ」

 

ホシノは引きつった笑みのまま、なんとか言い訳をひねり出した

 

「……ん。本当に? 隠れて美味しいもの食べに行くなら、私は許さない」

 

そう言われると、シロコはあからさまにがっかりしたように、頭の上の獣耳をぺたりと力なく垂れ下げた

 

ノノミも何かを察したように、それ以上の追及をそっと胸に収め、シロコの肩を優しく叩いた

 

「という訳で、みんな! おじさんのことは気にせず、風邪引かないようにちゃんとお風呂で温まるんだよ? また明日ね〜!」

 

ホシノはそそくさと、先ほど蹴り飛ばされた愛用のショットガンを砂地から拾い上げると、2人が引き止める間もなく、逃げるように校庭の正門へと駆け出していってしまった

 

残されたシロコとノノミは、遠ざかっていくホシノの小さくて、どこか焦燥感の漂う後ろ姿を、ただ唖然と見送ることしかできなかった

 

「……ん。ホシノ先輩、何か焦ってた。いつもなら、お腹空いたって言いながらも真っ先にお風呂へ行くのに」

 

「ええ……。なんだか、少し様子が変でしたね……」

 

冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。まだ高いはずの太陽の光が、砂漠の境界線に舞う薄雪のせいで、どこか寂しげにアビドスを照らしていた

 

 

学校を後にしたホシノが最初に向かったのは、寂れたアビドスの商店街にぽつんと佇む、この地区唯一のお土産屋だった

 

お昼時だというのに人通りのない店内で、ショーケースに並ぶ素朴なお菓子をいくつか選び、店主に頼んで丁寧な風呂敷に包んでもらう

 

手元に残ったその小さな温もりを抱えるようにして、ホシノはさらに歩みを進めた

 

目指す場所は、街の外れ、砂漠の境界線近くにある小さな個人経営の動物病院だった

 

病院のガラス扉には『時間外・休診』の札が冷たく下がっていたが、ホシノは躊躇うことなく、その重い木製のドアを小さくノックした

 

コン、コン、と静かな音が静寂に響く

 

「はいはい、どなたですか……今日は休診なんだけどね。急患かね?」

 

中から足音が聞こえ、解錠の音と共に扉が開いた。そこに立っていたのは、白髪交じりの優しげな顔立ちをした、犬の獣人の院長だった

 

院長は怪訝そうに眼鏡の位置を直したが、目の前に立つ、砂と雪に汚れたアビドスの制服を着た少女の姿を認めると、その目を丸くした

 

「おや……ホシノちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ。どうしたんだい、そんなに汚れて。噂の模擬戦の後かい?」

 

「はい。お久しぶりです、先生。……今日は、去年のお礼とお詫びに伺いました」

 

ホシノは小さく一礼し、両手で抱えていた風呂敷包みを院長へと差し出した。院長はそれを受け取りながら、ますます困惑した表情を浮かべる

 

「お礼とお詫び……? 急に、どうしたんだい、藪から棒に」

 

「……今日は……あの子の、あの日だからです」

 

ホシノはそれ以上言葉を続けられず、視線を泳がせるようにして下を向いた

 

その様子を見て、院長はハッとしたように、白衣のポケットからスマートフォンを取り出して画面の日付を確認する。液晶の冷たい光に照らされた日付を見て、院長は合点がいったように、深く、悲しげに頷いた

 

「そっか……。あれから、もう1年が経つのか」

 

「……はい。あの時、私は先生に、本当に酷いことを言ってしまいました。だから……そのお詫びと。それから、最期まであの子のために、手を尽くしてくれたお礼を、どうしても今日、ちゃんとお渡ししたくて」

 

今日は、かつて生徒会長のユメが拉致された際、首謀者であるロボットの自爆兵器から、身を挺してホシノを守り抜き、命を落としてしまった愛犬――ホシノがかつて「白子」と呼び、共に暮らしていたあの子の命日だった

 

あの日、爆風の中で血まみれになった白子を抱え、半狂乱になりながら辿り着いたのがこの病院だった。院長は診療時間外であったにもかかわらず、ホシノの悲痛な叫びに応え、すぐに緊急手術を開始してくれた

 

しかし、懸命な処置の甲斐も虚しく、白子は静かに息を引き取った

 

白子を失うという残酷な現実に、当時、完全に精神の限界を迎えていたホシノは、逆上して院長の肩を掴み、激しく揺さぶって泣き叫んでしまったのだ

 

頭の中ではこの人が精一杯手を尽くしてくれたのは分かっていたはずなのに、「どうして助けてくれなかったんだ」と、理不尽な怒りを命の恩人であるはずの獣医にぶつけてしまった。その記憶が、今でもホシノの胸を鋭く抉り続けている

 

院長は風呂敷包みを大事そうに抱え直すと、困ったように優しく笑った

 

「あはは、気にする必要なんてないさ、ホシノちゃん。私はこれでも獣医だからね。この仕事を長くやっていれば、悲しいお別れの場面にもたくさん立ち会う。そして、遺された家族がどれほどの絶望と悲しみを抱えるかも、十分に分かっているつもりだよ。あの時の君の言葉に、悪意なんてないことくらい知っているさ」

 

「……すみません……本当に、すみませんでした……」

 

消え入りそうな、震える声でホシノは謝罪を繰り返した

 

普段、学校で見せている「頼れる先輩」の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには過去の傷に怯える、ただの傷ついた少女が立っていた

 

院長は少しだけ目を細め、冷たい風に吹かれて震えるホシノの細い肩を見つめた。それから、空いた片手を伸ばし、彼女の頭をそっと、父親のように優しく撫でた

 

「……これは、一人の獣医としての、無責任な言葉になってしまうかもしれないけれどね。白子ちゃんは……やっぱり、君たちに拾われて、君たちと一緒に暮らせて幸せだったと思うよ。君のように優しくて、あの子のことを誰よりも大切に想ってくれる子の元で、最期まで愛されて生きられたんだから。自分を責めるのはおよし」

 

「……」

 

院長の手の温もりが、ホシノのボサボサの髪を通じて伝わってくる

 

しかし、ホシノは何も返すことができなかった

 

(私は、あの子を幸せにできたのかな。……守ることも、助けることもできなかったのに)

 

脳裏に蘇る、あの温かくて賢かった白い犬の姿。そして、その思い出と表裏一体となって呼び起こされる、かつて失った「もう一人の大切な子」の幻影

 

重すぎる過去の感触が、ホシノの心を静かに蝕んでいく

 

ホシノはただ、冷たい床を見つめたまま、絞り出すような沈黙を守ることしかできなかった。自分が犯した過去の過ちと、失ってしまったものの大きさが、冷たい鉛のように胃の腑に溜まっていく

 

そんな彼女の震える肩を、老院長はただ静かに見つめ、白衣の袖で優しくその背をさすった

 

「……立ち話もなんだ。お昼時だし、気分が落ち着くまで、中で少し座っていきなさい。温かいお茶でも淹れよう」

 

「……ありがとうございます、先生」

 

ホシノは蚊の鳴くような声でそう応えると、促されるままに、かつて何度も白子を連れて通った見慣れた待合室の、小さな丸椅子に深く腰掛けた

 

 

ストーブの暖かな熱気と、どこか懐かしい消毒液の匂いが漂う診察室の片隅で、ホシノは院長が淹れてくれた温かい緑茶を、両手で包み込むようにして少しずつ口に運んだ

 

冷え切っていた指先から、じんわりと熱が体に染み渡っていく

 

壁の時計の針が、お昼の13時を指そうとしていた。アビドスの広大な敷地内を駆け回り、お土産屋に寄り、ここまで歩いてくるうちに、いつの間にかそれなりの時間が経過していた

 

「最近の活動はどうだい? 噂では、色々と賑やかにやっているようだけど」

 

院長が湯呑みを置きながら、優しく問いかける

 

「うへへ、そうですね……」

 

ホシノの強張っていた表情が、温かいお茶のおかげで少しずつほぐれていく

 

「新しい後輩たちも入ってきて、毎日がお祭りの騒ぎですよ。おじさん、付いていくのがやっとで、毎日へとへとになっちゃいます。さっきも模擬戦で、危うく一本取られそうになっちゃって」

 

「ははは、それは頼もしいね。君がそこまで言うなら、アビドスの未来も明るいじゃないか」

 

あの子が最後に遺してくれた温かい記憶、そして今アビドスを必死に支えているシロコやノノミたち後輩のこと

 

他愛のない、けれど今のホシノにとって何よりの救いとなる会話を重ねるうちに、彼女の瞳には、いつもの柔らかい光が少しだけ戻ってきていた

 

「よし。それじゃあ、気をつけて帰るんだよ、ホシノちゃん。お昼も過ぎたし、後輩をあまり心配させないようにね」

 

「はい。本当に……お話を聞いてくれて、ありがとうございました、先生」

 

ホシノは立ち上がり、院長に向かって深く、ていねいに頭を下げた

 

木製のドアを開けると、アビドスのからりと乾いた、しかし冬の本格的な気配を含んだ冷たい風がホシノの頬を鋭く撫でた。模擬戦の泥と、先ほど流した冷や汗の残滓を冷やすその容赦のない冷たさが、今の傷ついた彼女の肌にはどこか心地よく、頭を強引に冷まさせてくれるようだった

 

老院長に何度も頭を下げて送り出されたホシノは、手元に残った風呂敷の軽さに胸の痛みを覚えながらも、次なる目的地へと足を向けた

 

動物病院を後にしたホシノが向かったのは、砂漠の境界線に近く、アビドスの寂れた街並みの中でもひときわ巨大で無機質な影を落とす「アビドス中央病院」だった

 

かつては多くの市民や生徒で活気付いていたであろうその大病院も、今や機能している区画はごく一部で、大半の窓は埃を被って暗く沈んでいる

 

人影のない、しんと静まり返ったロビーに入ると、自動受付機の電子音だけが寒々しく響いていた。機械的な手続きだけで受付を済ませたホシノは、重い上履きの音を響かせながら、無機質で冷たいコンクリートの白い廊下を進んでいった

 

壁のあちこちに貼られた古い掲示物や、色褪せたアビドスの校章が、かつての栄華の終わりを無言で告げている

 

廊下の最奥、最も日当たりの良い場所に位置する、静かな個室

 

ホシノは引き戸の取っ手にそっと手をかけ、油の切れた重い扉を音を立てないようにゆっくりと引いて中へと入った

 

規則的な医療機器の電子音――「ピッ、ピッ……」という一定のパルスだけが、暖房の効きが悪い冷え切った空気の中にトクトクと響いている

 

部屋の中央にあるベッドの上には、無数の点滴チューブや複雑な生命維持装置に繋がれたまま、深く、あまりにも長い眠りにつき続けているアビドス生徒会長、ユメの姿があった

 

「……ユメ先輩」

 

ホシノは、ベッドの脇に置かれた使い古されたスチール製の丸椅子を引き寄せ、きしむ音を立てないよう静かに腰掛けた

 

かつては誰よりも太陽のように明るく、頼りない自分を「ホシノちゃん!」と両手を広げて引っ張ってくれた、大好きな、世界で一番大きかった先輩。しかし今では、人工呼吸器のプラスチックマスクの下で、ただ機械に生かされるまま規則正しく微かに胸を上下させているだけの、驚くほど小さな、壊れそうな存在に見えた

 

ホシノは自分のひざの上に泥のついた両手を置き、じっとユメの穏やかな寝顔を見つめる。その横顔を見つめる瞳が、急速に光を失って揺れ、深い哀愁を帯びていった

 

「ユメ先輩が眠り続けて……。そして、あの白子が居なくなってから、今日でちょうど1年が経ちました。……今でもね、あの子が最後に私の腕の中で寄り添って、だんだん冷たくなっていったあの瞬間を、まるで昨日のことみたいに思い出しちゃうんだ」

 

ホシノは誰もいない病室で、ぽつり、ぽつりと、自分の胸を切り裂くような弱音を吐き出し始めた。誰もいないからこそ、ここではいつもの仮面を被る必要すらなかった

 

「ヒナちゃんともね、あの日からずっと……連絡するのが怖くて、まだちゃんと仲直りも出来ていません。今日という日が近づくにつれて、私、ずっと考えちゃうんです。私はあれから、少しでも前に進めてるのかなって。……私が選んで、必死にしがみついてきたこのアビドスでの道って、本当に正しいのかなって……」

 

ホシノはまるで、自分の犯してきた無力という名の過ちを神に告白する懺悔のように、声を震わせながら呟いた

 

ユメを襲った悲劇、白子を守れなかった無力さ、そしてヒナとの間に生じてしまった決定的な深い溝。すべてを自分の小さな背中に背負い込み、潰れそうになりながら歩んできた日々

 

ホシノはぎゅっと拳を握りしめ、一度だけ、肺に溜まった冷たい空気をすべて吐き出すように深く息を吸い込んだ。そして、無理やり顔を上げると、いつもの少し気の抜けた、優しい微笑みを無理やり唇に張り付けた

 

「でもね……。今日ね、午前中の模擬戦でシロコちゃんから、初めて一発貰っちゃいました」

 

誰も応えてくれない静寂の中に、ホシノは語りかける。その声は、まるでお昼寝の前に、優しく絵本を読み聞かせるように、穏やかで温かかった

 

「本当にびっくりしちゃいましたよ。あの子、いつの間にか体が大きくなって、手足もすっごく伸びてて……。私、あの子の攻撃の間合いを完全に見誤っちゃったんです。いつまでも出会った頃の、ちっちゃくて、迷子みたいに震えていたシロコちゃんだと思ってたら、ダメですね。……子供の成長って、本当に早いです。おじさん、完全に置いてかれちゃうなぁ」

 

ホシノは少しだけ誇らしそうに苦笑いしながら、自分の制服の袖を優しく指先でつまんだ

 

「ノノミちゃんもね、ミニガンの扱いがすごく上手くなって、おじさんを本気でハメようとしてくるんですよ。あの二人の連携、昔の私たちがやっていたものとは比べ物にならないくらい、息がぴったりで……きっと、」

 

(きっと、あの二人なら、私たちが守れなかったこのアビドスを、今度こそ本物にしてくれる――)

 

そこまで言いかけて、ホシノは言葉を喉の奥に飲み込んだ。それを口にしてしまえば、自分がアビドスにいる理由すら、本当に無くなってしまうような気がしたからだ

 

ベッドの上のユメは、何も言わずにただ静かに眠り続けている。窓から斜めに差し込む冬の淡い昼光が、眠り続けるユメの白い横顔と、それを愛おしそうに見つめるホシノのオッドアイを、静かに、優しく照らし出していた

 

「……そろそろ、行きますね。まだ、行くところがありますので」

 

ホシノはゆっくりと椅子から立ち上がり、自分の衣服についた砂を軽く払った

 

静まり返った病室を後にするため、そっと引き戸の取っ手に手をかけ、背を向けようとした――その瞬間だった

 

『……ホシノちゃん』

 

「!!」

 

ホシノの全身の動きが、凍りついたようにピタリと止まった

 

背筋に激しい電流が走ったかのような衝撃。耳の奥に響いたのは、酷く懐かしく、そして世界中の誰よりも優しくて、温かい、あの愛しい人の声だった

 

「ユメ先輩……!」

 

ホシノは、弾かれたように勢いよく振り返った。心臓が胸の骨を突き破らんばかりに痛いほど脈打ち、その瞳には一瞬にして子供のような期待と希望が溢れ出る

 

だが、振り返った視線の先にあったのは、ただ白く、静寂に包まれた病室の変わらない光景だけだった

 

ユメは、先ほどと全く同じ体勢のまま、人工呼吸器の音に合わせて静かに胸を上下させ、深く眠り続けていた。ピピッ、ピピッ、という無機質な電子音だけが、変わらずに部屋の中を冷たく漂っている

 

「……あはは、なんだ……。おじさん、ついに幻聴まで聞こえるようになっちゃったかな。気のせい、だよね……」

 

ホシノは一瞬だけ、肩を落として寂しそうに自嘲気味に呟いた

 

けれど、彼女はすぐに自分の両手で、パチン!と両頬を強く叩いた。赤くなった頬の痛みが、現実を引き戻す。彼女はその瞳から迷いを綺麗に取り払い、いつもの「小鳥遊ホシノ」としての、にへらとした頼もしい笑みを浮かべた

 

「また、来ますね。ユメ先輩」

 

そう言って、ホシノは今度こそ、迷いのない足取りで病室を後にした

 

 

アビドス中央病院を出たホシノが次に向かったのは、砂漠の境界線を大きく越え、高いビル群がそびえ立つ巨大学園都市の一角――「ゲヘナ学園」の管轄区だった

 

ガタゴトと小刻みに揺れる列車の窓から流れる景色が、どこまでも続く黄金の砂漠から、無機質な鉄骨とコンクリートの近代的な街並みへと移り変わっていく

 

アビドス以外の風に触れるのは久しぶりだった

 

駅のホームに降り立つと、そこは乾いた風が吹き抜けるアビドスとはまったく異なる、火薬と硝煙の匂い、そして独特の喧騒に満ちていた

 

ゲヘナの刺々しくもスタイリッシュな黒い制服に身を包んだ大勢の生徒たちや、行き交う市民、そして絶え間ないクラクションの音。押し寄せる人の波と圧倒的な熱量に、ホシノは気圧されそうになりながらも、アビドスの制服の襟元を少しだけ強く握りしめて歩いた

 

(……いつまでも、過去を怖がって逃げてたらダメだよね。……ヒナちゃんに、会ってちゃんと話さないと。あの日のお詫びを、今度こそ)

 

胸の奥で、心臓がバクバクと壊れた警報機のように激しく脈打っている

 

かつての自分の「冷たさ」や、あの日彼女に向けてしまった一方的な「拒絶」の眼差し。それらが重い罪悪感となってホシノの足を鈍らせようとするが、それを必死に抑え込み、人混みをかき分けるようにして歩みを進めた

 

(確か……ゲヘナの本校舎は、ここら辺のはずなんだけど……。あ、あったあった)

 

人混みの合間からキョロキョロと辺りを見渡していたホシノの視界に、重厚な黒鉄の門柱と、そこに厳めしく刻まれた「ゲヘナ学園」の文字が飛び込んできた

 

(……噂には聞いていたけれど、やっぱり……綺麗だし、もの凄く大きいなぁ)

 

門の手前で足を止め、ホシノは息を呑んで遥か先を見つめた

 

門から本校舎まではかなりの距離があるにもかかわらず、その奥にそびえ立つ美しい白亜の巨大な建物は、ここからでも圧倒的な威容を誇っている

 

ゲヘナが擁する規格外の規模と力を、その視覚的な美しさと巨大さだけで見せつけられているようだった。アビドスの砂に埋もれた校舎とは、何もかもが違っていた

 

ホシノは小さく深呼吸をして緊張をほぐすと、門の傍らに立っていたおかっぱ頭のゲヘナの風紀委員の生徒へと、おずおずと近づいていった

 

「えーと……あの、すみません。ちょっとお尋ねしてもいいですか?」

 

「ん? はい、なんでしょうか。……おや、他校の生徒さん? アビドスの……?」

 

おかっぱ頭の生徒は、絶滅寸前と噂されるアビドスの制服を着たホシノを不思議そうに見つめた

 

ホシノは心臓の激しい鼓動を悟られないよう、いつものおっとりとした笑みを浮かべて問いかける

 

「空崎ヒナさんとお会いすることはできるかな? 彼女に用事があって」

 

「空崎ヒナ……? ああ、我らが『風紀委員長』ですか」

 

「え、……いいんちょう?」

 

ホシノは思わず素っ頓狂な声を上げそうになった

 

自分の記憶の中にあるヒナは、まだ情報部に所属する一人の優秀な生徒だったはずだ。それが「委員長」と呼ばれているということは――彼女はまだ2年生であるにもかかわらず、あの混沌と暴力を極めるゲヘナ学園の頂点、最大の武力組織のトップにまで上り詰めたということなのだろうか

 

どれほどの重圧を彼女が背負っているのか、ホシノには痛いほど想像ができた

 

ホシノが胸の中でその驚きと複雑な感情を噛み締めていると、おかっぱの生徒は慣れた手つきで腰のホルダーから無線機を取り出した

 

「少しお待ちください。本部に現在地を確認しますので」

 

ピピッと言葉の途切れるノイズが走り、無線機から短い応答の声が聞こえる

 

数秒のやり取りを交わした後、おかっぱの生徒は無線機を片付け、申し訳なさそうに眉を下げてホシノに向き直った

 

「すみません。風紀委員長は現在、他管区での臨時の私用のためにお出かけになられていて、本校舎は留守にしているそうです。本日中に戻られるかも不明とのことですが……」

 

「そっか……。ううん、急に予約もなしに押しかけちゃったおじさんが悪いんだから。教えてくれてありがとね」

 

「(おじさん?)……いえ。もし緊急のご連絡や伝言などでしたら、本部経由でお伝えしておきましょうか? 席を外していても無線は繋がりますが」

 

「……いや、大丈夫だよ。何でもないことだからさ。……あ、それと、おじさんがここに来たことも、できれば何も無かったことにしておいてもらえると助かるな。内緒ってことで」

 

「分かりました。他校の戦闘登録者でもありませんし、そのように処理しておきます」

 

おかっぱの生徒に軽く手を振って、ホシノはゲヘナの重厚な門を背にした

 

本当は、あの日のお詫びを、あの時の謝罪を自分の口から直接伝えようと、なけなしの勇気を振り絞ってここまで来たのだ。けれど、肝心の相手が留守とあっては仕方のないことだった

 

張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、もう一度ゲヘナの門を叩くだけの勇気は、今のホシノの傷ついた胸の底には残っていなかった

 

どこか、会えなかったことに安堵している自分すらいて、それがまた嫌悪感を加速させる

 

(はぁ……。やっぱり、心のどこかで怖気付いちゃってたのかな……おじさん。情けないなぁ)

 

往路の時よりも、昼下がりの少し落ち着いたゲヘナ中央駅

 

ホシノは自分のショットガンのストラップを弱々しく握りしめ、アビドス行きの列車を待つホームの黄色い線の内側で、ぽつんと肩を落として立っていた

 

砂漠の我が家へ帰る列車が滑り込んでくる音だけが、彼女の孤独を慰めるように響いていた

 

(……でも、これで良かったのかもしれないな。もし本当にヒナちゃんに会えて……おじさんの身勝手な謝罪なんかを、正面から冷たく突っぱねられていたら……。きっと、今のおじさんのボロボロのメンタルじゃ、とても耐えられなかったかもしれないしね)

 

アビドスのように静まり返った荒野ではなく、こうした「普通の日常」と圧倒的な他者の熱量が色濃く残る大都市の駅に一人でポツンと佇んでいると、世界のすべてから自分たちだけが取り残されているような、底寒い寂しさが胸の奥でじわじわと募っていく

 

アビドスの外に出るたびに、ホシノはいつもこの妙な疎外感に胸を締め付けられるのだ。

 

『まもなく、アビドス方面、直通列車が到着いたします。黄色い線の内側へお下がりください』

 

ホームに響くレトロでどこか物悲しい発車メロディと共に、キィィィィンと冷たい金属音を響かせながら、塗装のはげかけた古びた二両編成の列車がホシノの目の前でゆっくりと停車した

 

プシューと重々しい音を立ててドアが開き、ホシノが模擬戦の泥がついた足を一歩車内へ踏み出そうとした、まさにその瞬間――

 

隣の車両の降車口から、ドッと吐き出される降車客の人混み。そのノイズに塗れた視界の奥に、ふと、強烈に見覚えのある「大きな一対の黒い漆黒の翼」と、風になびく薄紫色の長い髪、そしてどこか酷く眠たげでいて、同時にすべてを見透かすように鋭い、あの瞳がほんの一瞬だけ視界の端を掠めた

 

(えっ……? 今の、あれって……ヒナちゃん……?)

 

ホシノの心臓がドクリと音を立てて跳ね上がった

 

全身の血が逆流するような感覚に襲われ、踏み出しかけた足をピタリと止める。半ば無意識にそちらの方向へと泥だらけの手を伸ばし、その姿を追いかけようと体の向きを変えた

 

しかし、無情にも夕暮れの駅のホームは、アビドス方面からの乗り換え客や帰宅を急ぐ生徒たちの激しい波で一瞬にして埋め尽くされてしまう。小柄なヒナの姿は、ホシノがもう一歩を踏み出すよりも早く、黒い人混みの壁の向こう側へと完全に遮られてしまった

 

「あ、……ヒナちゃ……」

 

喉の奥から絞り出した掠れた声は、駅の喧騒と列車の激しい駆動音にかき消され、誰に届くこともなく霧散する

 

背伸びをして、必死に人の波の隙間を見渡すが、どれだけ目を凝らしても、もうあの特徴的な薄紫色の髪も、威厳に満ちた黒い翼も見つけることはできなかった

 

(……やっぱり、おじさんの気のせい、だよね。さっき風紀委員の子が『出かけてる』って言ってたんだし、こんな駅のホームで偶然会うはずないか……。おじさん、今日は本当に色んなことがありすぎて、ちょっと疲れが出ちゃったのかな)

 

ホシノは小さく力なく息を吐き、自嘲気味に首を振ると、諦めたように電車の車内へと足を踏み入れた

 

乗客のまばらな車内に冷たい空気が流れ込み、ドアが静かに閉まる。列車はガタゴトと車体を揺らしながら、夕暮れの黄金色に染まるアビドスへと向けて、滑らかに加速し始めた

 

ガタゴトと静かに去っていく列車の最後尾を、ホームの喧騒の中から、ふと、一人の少女が怪訝そうに振り返った

 

その華奢な肩には、ゲヘナ学園における絶対的な武力と秩序の象徴である、「風紀委員長」の重々しい腕章が、沈みかけた夕日に妖しく光っている

 

「……小鳥遊、ホシノ……?」

 

聞き間違うはずのない、かつて自分が決定的な「拒絶」を告げられ、そして自らも背を向けてしまった大切な旧友の後ろ姿が、遠ざかる電車の窓の向こう側に、ほんの一瞬だけ幻のように見えた気がした

 

「ヒナ委員長? 急に立ち止まって、どうされたんですか?」

 

駅の改札前で待機していた風紀委員会行政官の天雨アコが、突然歩みを止めて線路を凝視し始めたヒナの様子を心配そうに覗き込む

 

「……なんでもないわ」

 

ヒナは思わず人混みを小さくかき分けて線路の際まで数歩進み、その行方を追うように紫色の瞳を鋭く細めた。しかし、アビドス行きの列車はすでに灰色のビル群の隙間へと吸い込まれ、完全にその姿を消していた

 

「そうですか……。それより委員長、本日の午前の公務をわざわざ他の委員に代わってもらってまで、アビドスなんていう荒れ果てた自治区に一体何をしに行かれていたんですか?」

 

アコが手元のタブレットを確認しながら、少し不満げに尋ねる

 

「……ただの野暮用よ。昔の旧友『達』に、ちょっと会いに行こうと思っただけ」

 

「ええ!? ヒナ委員長、あのアビドスに旧友がいらっしゃるんですか!? 聞いていませんが!」

 

「アコ、声が大きい。そんなこと気にしてる暇があるのなら早く本部に帰るわよ」

 

ヒナはこれ以上の追及を遮るようにアコの耳をぐいと引っ張りながら、出口へと歩き出す

 

「痛たいたた! 委員長、その辺のお話、車内で詳しく聞かせて――!」

 

アコの悲鳴を背中で聞きながら、ヒナは誰も気づかないほど小さく呟いた

 

「……まさかね。あの子が、わざわざゲヘナの管轄区にまで来る理由なんて、あるはずないもの」

 

ヒナは小さく息を漏らし、自分の気のせいだと自らに言い聞かせるようにフッと視線を落とすと、寂しげな眼差しのまま踵を返した

 

もちろん、加速する列車の中で座席に深く身を沈め、窓の外の寂れていく景色を眺めているホシノが、そのヒナの切ない姿や、彼女が自分を必死に振り返っていたという事実に気がつくことは、最後までなかった

 

二人の距離は、すれ違ったまま再び離れていく

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