「や、や、やっと、終わったぁぁぁーーーーーー……っ!!」
ガタガタガタッ! と、静まり返ったアビドス生徒会室に、壊れかけのパイプ椅子が悲鳴を上げるような大きな音が響き渡った
アビドス生徒会長であるユメは、まるで全身の骨が消えて亡くなってしまったかのように、これ以上ないほど分かりやすく盛大にデスクへと突っ伏した
そのすぐ横には、ホシノの厳しい指導のもとに美しく整頓され、すべての記入欄が寸分の狂いもなく完璧に埋まった各種申請書類の分厚い束が、端を綺麗に揃えられて静かに並べられている
「あ、お疲れ様です、ユメ先輩。……よし、それじゃあ白子、とってこーい」
『わんっ!!』
ユメの派手な倒れ込みと魂の叫びを完全にスルーしながら、ホシノは手元で弄んでいたゴム製の小さなカラーボールを、対面の壁に向かって軽くアンダースローで放り投げる
それと同時に、白、あるいは神秘的な銀とも見える美しい毛並みをした子犬――白子(しろこ)が、短い四肢を弾かれんばかりに激しく躍動させて床を蹴る。リノリウムの床に小さな爪をカチカチと小気味よく鳴らしながら、嬉しそうにボールの軌道を追いかけて弾丸のように駆けていった
「ひぃん……ホシノちゃん、本当に全部、一枚残らずわたし一人にやらせるなんて酷いよぅ……。文字のゲシュタルト崩壊っていうのかなぁ? なんだか、わたしの目がぐるぐる回って、世界が回ってるよ~……」
ユメは木製の机に片頬を全力で押し付けたまま、恨めしそうな、それでいて完全にエネルギーの切れたお化けのような声を上げて情けなく呻いている
「何を被害者面しているんですか、先輩」
ホシノは呆れ果てたように深く、深いため息をつき、手元の未処理書類に冷徹な視線を落とした
「この部屋に残っていた膨大な書類の山、その九割は私が事前に全部片付けたんですよ? 先輩に押し付けたのは、名前の欄を記入して、あとは自分の判子をポンポンと押すだけの、全体の残りわずか一割。それに、こうなったのは元を正せば全部自業自得じゃないですか。因果応報、自業自得という言葉を辞書で調べてきてください」
『わふぅ……♪』
ちょうど壁に当たって跳ね返ったボールを、小さな口で器用に、そして誇らしげに咥え直した白子が、尻尾をプロペラのようにブンブンと激しく振りながら戻ってきた。ホシノの膝元にボールをポトリと落とし、きらきらとした無垢な瞳で「褒めて! 早く褒めて!」と言わんばかりに見上げてくる
「よしよし、偉いですね、白子。先輩と違って、言われたことを一発でこなせるなんて、本当に天才犬ですよ」
ホシノは床に膝をつき、白子からボールを受け取りながら、その小さな頭や、柔らかい耳の付け根のあたりを手のひらで優しく、愛おしそうになでなでした
小さな、けれど確かに温かい生き物の体温に触れている間、ホシノの瞳はまるで春の陽だまりのように蕩けるほど柔らかく細められていた
だが、そのまま首だけをギギギ、と不自然な角度でスライドさせ、机に突っ伏しているユメの方を向いた瞬間、そのふたつの瞳からは温度が完全に急降下し、極寒の絶対零度を誇る「ジト目」へと変貌を遂げる
それもそのはず、すべての元凶は昨日の「名前決め会議」の裏で、ユメ先輩が企んでいた、あまりにもセコくて浅はかな悪巧みにあったのだ
――時は遡り、前日
散々もめた挙句に、白子自身がユメの差し出した高級肉ではなく、ホシノの足元を、その温もりを自ら選んだことで、この小さな新しい家族の名前は『白子(しろこ)』に正式決定した
しかし、さすがに野生の、それも砂漠で行き倒れていた子犬をそれぞれの自宅にいきなり連れて帰るわけにもいかない。そのため、ひとまずは安全が確保されている生徒会室のすぐ隣にある空き部屋を、特設の『犬用スペース』として開放することになったのだ
ホシノは昨日、アビドス中のペットショップを文字通り死に物狂いで駆け回り、なけなしの予算を叩いて買い込んできた組み立て式の大きなドッグハウスや、ふかふかのクッション、給水器などを手際よく設置した
「また明日ね、いい子にしてるんだよ」と、後ろ髪を引かれる思いで白子をその部屋に残し、施錠をして二人は帰宅したのだった
そして、今日
(白子、夜の間に寂しがって泣いてないかな。ご飯、ちゃんと足りてたかな。変な砂虫に襲われたりしてないよね……)
昨晩、ベッドに入ってからというもの、白子のことが気になって気になって仕方がなかったホシノは、完全に重度の心配性(あるいは親バカ)に陥っていた
そのため、朝一番に行うはずのアビドス管区内の定期パトロールを、普段の倍以上の戦闘効率と、怒涛の圧倒的なスピードによって爆速で終わらせていた。遭遇した不良たちのヘルメットを容赦なく叩き割り、まさに電光石火の勢いだった
「白子に一秒でも早く会いたい」という、至極真っ当な、しかし今のホシノにとっては少し照れくさくて口が裂けても言えない本音を胸に抱きながら、彼女はいつもより一時間以上も早く、息を切らせてアビドス高等学校へと到着したのだった
ホシノは足早に軋む廊下を渡り、まだ見ぬ愛しい我が子(犬)が待っているはずの隣室の扉を、音を立てないよう静かに、そっと開ける
しかし、そこにはホシノの微笑ましい想像を木っ端微塵に打ち砕く、あまりにもおぞましく、かつ不敬極まりない混沌の情景が広がっていた
「ほらほらー、白子ちゃん。きみの本当の名前はね、白子じゃなくて……ミ・ニ・ホ・シ・ノ・ちゃん、だよ? さあ、お姉さんに続いて言ってみて? ミニホシノちゃん! ほら、この言葉をちゃんと覚えたら、この美味しいお肉のジャーキーをあげるよー♪」
「わふ?」
「………………朝早くから、一体全体何をしているんですか、先輩」
部屋の隅に据えられたドッグハウスの前で、ホシノが体調管理のために絶対に使用を禁止したはずの人間の非常食用ジャーキーをこれみよがしにチラつかせながら、生後数ヶ月の無垢で純真な子犬に対して、「ミニホシノちゃん」という悪魔の呪名(名前)を熱心に、かつ強引に刷り込もうと躍起になっているアビドス生徒会長の姿がそこにあった
当の白子自身は、目の前で揺れる肉の塊の誘惑に抗えず、言葉の意味などこれっぽっちも理解していない様子で小首を傾げながら、ただただ『早く食べさせて、それ頂戴』と物欲しそうな瞳でジャーキーをじっと見つめ続けている
「ひゃぅあ!? ホ、ホ、ホシノちゃん!? なんで、なんでこんなに早く学校に来てるの!?」
背後から突き刺さる絶対零度の声に気付いたユメは、まるで不法侵入が見つかった空き巣のように飛び上がり、手に持っていたジャーキーを慌てて背中に隠した
「定期パトロールが爆速で終わったからですよ。それよりもユメ先輩……私の居ないのをいいことに、あの子のまだ真っ白な脳内に対して、そんな不名誉かつ極めて深刻なプライバシー侵害の偽名を教え込もうと、一体どんな陰湿な独裁洗脳教育を施していたんですか。……その手に持っている不健康なジャーキーは、今すぐ現行犯で没収です。そして、我がアビドス生徒会の尊厳を脅かそうとした不敬の罪として、先輩には今日、連帯責任という名の『生徒会の全書類を一人で処理する刑』を執行します」
「ひぃぃぃぃん! ごめんなさいぃぃ!! 出来心だったの、怒らないでぇぇ!!」
――そんな、アビドスの明日の治安を揺るがしかねない朝一番の大騒動があったからこその、今の「すべての書類の一割を強制的に押し付ける刑」であったのだ
「うぐぅ……。だってさぁ、ミニホシノちゃんって呼んだ方が、なんだか私の大好きなホシノちゃんが2人に増えたみたいで、これから毎日の生徒会がもっともっと賑やかになるかなって思ったんだもん……。ちょっとした可愛い冗談のつもりだったんだよぉ……」
ユメは机に突っ伏したまま、両手の人差し指をツンツンとせわしなく合わせながら、消え入りそうな蚊の鳴くような声で未練がましく言い訳を並べ立てる
「その『ちょっとした冗談』のせいで、私の尊厳とプライドがどれだけ危機に脅かされたと思っているんですか。万が一にでも白子がその変な名詞を誤って学習してしまい、今後私が自分を呼ぶ言葉を発するたびに、あの子が条件反射で尻尾を振って喜ぶようになったら、一体どうやって責任を取るつもりだったんですか
……というわけで、残りの書類も、提出期限に間に合うまですべて終わるまで、そこから1ミリも動かないでくださいね。もし万が一にでもここから逃げ出そうとしたら、次は本当にショットガンの空砲による威嚇射撃だけでは済みませんから。容赦なく実弾でお尻をハジきます」
ホシノは手の中のカラーボールを手のひらでポン、ポン、と軽く弾ませながら、極めて淡々とした、しかし有無を言わせない強烈なプレッシャーを全身から放った
その左右で色が異なる特徴的なオッドアイは、冷徹な光を宿してユメの背中を射抜いている
「ひぃん……! もう提出分は全部、一文字残らず終わったから! 許して、もう怒らないでホシノちゃんーーー!」
情けなく両手を頭の上にまで上げて完全降参のポーズを取るユメ先輩と、そんなアビドス最高権力者のあまりにも情けない醜態を、ラグの上でちょこんとお座りしながら不思議そうに首を傾げて見つめる白子
夕暮れの琥珀色の光が、埃の舞う生徒会室を優しく満たしている。ホシノは手の中のカラーボールをポケットに収めると、小さく息を吐き出して肩の力を抜いた
「はぁ……。まぁ、今日1日、パトロールの合間に白子と遊んだお陰で、私も少しは気分がマシになりましたから、今回はこれで不問にしてあげます。今度からあんな洗脳教育は絶対にしないでくださいよ? 次やったら本当に激辛焼きそばパンを3食義務付けますからね」
「はいぃぃ……以後、厳重に慎みますぅ……」
あからさまにシュンとして、長い髪をだらりと垂らすユメ。その様子が本当に反省しているように見えたのか、あるいは単に構ってほしいだけなのか、足元にいた白子がトコトコと短い四肢を動かして、ユメの膝元へとゆっくり近づいていった
「わふ……?」
小さな鼻先をユメのスカートの裾に押し当てて、クンクンと匂いを嗅ぐ白子。その健気で愛らしい仕草を見た瞬間、ユメの顔に瞬時にいつもの快活な笑顔が戻る
「……ん、もーーー!! かわいいなぁ、もうっ!」
「わっ、先輩、急に大声を出したら――」
ホシノの制止も聞かず、ユメはすぐさま床の上の白子を両腕でひょいと抱き上げると、自身の豊かな胸元へと引き寄せ、ぎゅうううっと隙間なく抱きしめた。それはもう、骨まで埋もれてしまうのではないかというほどの猛烈な密着ぶりだった
「ちょっと、ユメ先輩。白子がその、無駄に大きな胸で窒息したらどうするんですか。早く離してあげてください」
再び冷徹極まりない「ジト目」を起動させ、鋭い視線をユメの胸元へと突き刺すホシノ
「えー? だって、こうして白子ちゃんの柔らかい毛並みとぬくもりを全身で感じてるとさ、今日の分の書類仕事の疲れが、ぜーんぶ砂漠の彼方へ吹き飛んじゃうんだもん♪ ほらほら、白子ちゃんも気持ちいいよねー?」
「くぅぅん……ぅ、わふ……」
ユメの腕の中で、身動きが取れなくなった白子が少しだけ困ったような細い声を漏らす。しかし、そこから暴れて逃げ出そうとする気配は全くない。それどころか、ユメの体温が心地よいのか、トロンとした目で大人しく身を委ねている。その様子を見る限り、白子の方も決して満更ではなさそうだった
「……まったく。これだけ一方的に甘やかしすぎたら、規律も何もあったものじゃありません。これじゃあ、どっちがアビドスを総括する野生の生き物か分かったものではありませんね」
ホシノは呆れ果てたように深くため息をつきながら、きゅっと腕を組み、古びたソファの背もたれに思い切り体重を預けた。しかし、その時、床の上でユメの胸に顔を埋めている白い毛玉をじっと見つめていたホシノの脳裏に、ある極めて素朴な、しかし動物を育てる上で避けては通れない重大な疑問がふと浮かび上がった
「そういえば……いまさらですが、ふと気になったのですが。この子は、オスでしょうか? それともメスでしょうか? 今後、動物病院に健康診断やワクチン接種で連れていくにしても、そこは事務手続き上、ハッキリさせておかないと、今後の登録手続きや備品の買い出しの時に色々と困りますよね」
「あ、それ私も今ちょうど気になってたところ! 白子ちゃんなのか、それとも白子君なのか……。どっちなんだろうね? 私たちの可愛い、アビドス生徒会3人目の役員さんは」
ユメは白子を落とさないよう大切そうに腕に抱いたまま、膝行るようにしてソファの床を移動し、ホシノの座るすぐ手前まで近づいてきた。腕の中の白子は、2人の視線が集まったのを感じて、小さく鼻を鳴らしている
「んー……。恥ずかしながら、私はその手の動物の生態に関する知識にはあまり詳しくないので……ここはひとつ、キヴォトスが誇るネットの叡智に頼ってみましょうか」
ホシノは制服のポケットから年季の入ったスマートフォンを取り出すと、検索バーに「犬 性別 見分け方 子犬 違い」と手慣れた手つきで打ち込んでいく
画面を親指で滑らかにスクロールしながら、ズラリと並ぶ解説テキストと、詳細に描かれた分かりやすい比較イラストを精査し始めた
「ふむふむ……なるほど。生後数ヶ月程度のまだ幼い子犬の場合は、人間の赤ちゃんとは違って、オヘソの下あたり……つまり下腹部のラインを確認すればいいみたいですね。そこに小さな突起があるかないかで、素人でも一目瞭然だとか」
「へえー、オヘソの下あたりを見ればいいんだね! どれどれ……? どんな風に書いてあるの?」
隣から限界まで顔を近づけてスマートフォンの画面を一緒に覗き見していたユメが、納得したように声を弾ませる
ユメは腕の中にいた白子を、一度ソファの柔らかな座面の上に、そっと仰向けになるようにして寝かせた。白子はこれから自分の身に何が始まるのか全く分かっていないようで、短い四肢を天に向けてパタパタとさせながら、キョトンとした無垢な顔で天井をじっと見つめて動きを止めている
ホシノは至極真面目な、まるで精密機械の検品でも行うかのような生真面目な表情のままソファの前に膝をつき、白子の柔らかくて少しひんやりとしたお腹の白い毛を、指先で優しく慎重にかき分けるようにして確認を始めた。入念に、どこか職人のような手つきで、その細い下腹部のラインを視線でなぞっていく
「…………。ふむ。それらしき突起は、どこにも見当たりませんね。…高確率でメスです」
「じゃあ、『白子ちゃん』だね♪ 良かったぁ、女の子同士、これで夜のガールズトークも大盛り上がり間違いなしだね、ホシノちゃん!」
確認作業を終え、ようやく仰向けの窮屈な姿勢から解放された白子は、身軽に身体をひねって四足でソファの上に立ち上がった
しかし、なぜだろう。確認を完璧に終えたはずのホシノは、自分の心臓の鼓動が先ほどから少しだけ早くなっているのを感じていた。子犬の、それも保護したばかりの野生の生き物の健康管理のための、至極真っ当で論理的な確認作業だったはずなのだ。それなのに、なんだか、してはいけない破廉恥な行為を白昼堂々としてしまったかのような、奇妙な罪悪感と猛烈な気恥ずかしさが胸の奥底からじわじわと湧き上がってくる
自分の両耳の裏が、みるみるうちに熱くなっていくのを自覚してしまい、ホシノはそれを隠すようにわざとらしく視線をパタパタと泳がせた
そんなホシノの、普段の冷静沈着な姿からは想像もつかない微妙な態度の変化を、隣の生徒会長が見逃すはずがなかった。ユメはニヤニヤとした、何とも意地の悪い、それでいて楽しそうな笑みを顔いっぱいに浮かべると、ソファの下からホシノの顔を至近距離でジッと覗き込んできた
「……ねぇねぇ、ホシノちゃん。もしかして、今のくらいの確認作業で照れちゃってるの? すっごく真面目な、怒ったような顔をして調べてたけど……ホシノちゃんって、意外とそういうの、ウブっていうか……『ムッツリ』さんだったりするのかなー?♪」
「な、ななな……ッ!? な、何を、何を破廉恥で不条理なことを言っているんですか、このお馬鹿先輩は!!」
案の定、ホシノは一瞬でその白い肌を林檎のように真っ赤に沸騰させると、ソファの前からスプリングが弾けたように跳び上がって激昂した。そのトレードマークであるオッドアイの瞳が、怒りと恥ずかしさで大きく見開かれている
「私はただ! アビドス高等学校の生徒会副会長として、今後の長期的な飼育計画および予算編成に支障が出ないよう、極めて論理的かつ医学的な観点に基づき、個体の性別を正確に識別しただけです! そこに個人的な変な邪念なんて1ミリも、いえ、1欠片もありません!! もしこれ以上変な言いがかりをつけるなら、明日からのアビドス周辺の不法投棄物の撤去および砂利の片付け作業、全部ユメ先輩一人に24時間ぶっ続けでやらせますからね!?」
「ひぃん!? ごめんなさい、冗談です! 冗談だからそんな目を吊り上げて怖い顔しないでホシノちゃんーーー!」
顔を真っ赤にして怒髪天を衝く勢いで怒るホシノの迫力に、ユメは再び涙目でソファの隅へと縮こまった。そんな2人の、いつもの賑やかな騒ぎを余所に、白子はソファの上で「遊んでるの?」とばかりに嬉しそうに尻尾をブンブンと振っていた
「はぁ、はぁ……。まったく、もう外はすっかり夕暮れですし、これ以上先輩の相手をしていると私の寿命が砂粒のように縮みます。今日はもう帰ろっかー、と言いたいところです、本当に」
「そうだね、すっかり遅くなっちゃったし、お腹も空いてきちゃった。ほら、白子ちゃんも一緒に行くよー、お部屋に戻ろうね」
ホシノが仕切り直すようにパンパンと手を叩いて呼ぶと、白子は待ってましたとばかりに、床へのワンクッションを挟むことなく、ソファの上からダイレクトにぴょんと宙を舞った
『わんっ!』
「わっ……!? と、ちょっと!?」
小さな白い塊は、夕日の差し込む室内で見事な放物線を描き、なぜかホシノの頭の上へと綺麗に着地した。白子はホシノの柔らかい水色の髪の毛に、小さな肉球をしっかりと食い込ませるようにして器用にバランスを取り、ちょこんと頭頂部に乗っかっている
「な、なんでわざわざ私の頭の上なんですか……。前が髪の毛と毛並みで見えませんし、生後数ヶ月とはいえ地味に重いんですけど……」
「ふふふ、あはははは! すっごいきれいに乗ったねホシノちゃん! きっとホシノちゃんのその、癖毛の頭が、白子ちゃんにとって一番乗りやすくて、落ち着く場所だったんだよー。なんだかお椀が乗ってるみたいで、すっごく可愛いよ?」
「……先輩。笑い事ではありません。大体、先輩が今朝、変な『ミニ』なんとかという呼び方を無駄に教え込もうとして私を精神的に疲弊させたのが、すべての元凶です。これで今日2回目……。明日、先輩の分のおやつは強制的に抜きですからね」
「ひぃぃん!! わたしの放課後の唯一の楽しみがぁ! 本当にごめんなさい、だから許してホシノちゃんー!」
またしてもホシノの絶対的な逆鱗に触れてしまったユメ。そんな相変わらず騒がしいやり取りを廊下に響かせながら、2人は白子の専用ハウスが設置されている隣の空き部屋へと移動した
部屋の中央には、ホシノが今朝方、汗水を流して設置したプラスチック製の頑丈なドッグハウスが静かに佇んでいる。ホシノは頭の上の白子をそっと両手で傷つけないよう抱き下ろすと、専用のふかふかのクッションが敷かれたハウスの中へと、優しく、壊れ物を扱うようにして入れる
「よし。それじゃあ、夜の間に白子が外に出たり、悪い人が入ってこないように、しっかり戸締まりをしないとね」
「ええ。キヴォトスの夜の砂漠は急激に冷え込みますし、何が起こるか分かりませんから。念入りに確認しましょう」
2人は部屋の窓の鍵がすべて厳重に閉まっていることを、ガタガタと引っ張って念入りに確認していく。キヴォトスの夜の砂漠は冷え込む上に、何が起こるか分からないからだ
「それじゃあ、また明日ね、白子。夜の間、寂しがらずに、良い子にしているんですよ」
ホシノがプラスチック製のドッグハウスの入り口越しに、そっと白子の小さな鼻先を人差し指で撫でる
白子は名残惜しそうにその指先を小さな舌でペロリと舐め、瞳を細めた
「白子ちゃん、また明日ね〜♪ 夢の中で、ミニホシノちゃんって名前をいっぱい練習しておいてね? 明日の朝、テストするからねー!」
「先輩、まだそんな洗脳教育を諦めていなかったんですか。本当に激辛焼きそばパンを3食義務付けますよ」
ホシノに冷徹なオッドアイの視線でジロリと睨まれ、ユメは「えへへ、冗談だよぅ」と両手を上げておどけながら一歩後退り、部屋の古びた木製の扉をゆっくりと閉めていく
カチャリ、とラッチが噛み合い、扉が閉まりきる寸前だった
薄暗くなりかけた部屋の奥から、まだ二人の温もりに触れていたいような、ひどく寂しそうな細い鳴き声が、隙間を抜けて廊下へと響いてきた
『わぅ……ぅん……くぅぅ……』
そのあまりにも切ない、胸を締め付けるような声を聞いた瞬間、帰路に就こうとしていた二人の少女の足が、まるで見えない鎖に繋がれたかのようにピタリと止まった
一瞬の静寂。二人の頭の中には、全く同じ「もう一度中に入って、夜が更けるまで一緒に遊んであげようか」「いっそこのまま、自室に連れて帰ってしまおうか」という、甘く愛おしい誘惑が同時に過っていた。互いに言葉を交わすことなく、弾かれたように顔を見合わせる
ユメの瞳には「戻っちゃダメかな?」という懇願の色が浮かび、ホシノの瞳も激しく揺れ動いていた
しかし、ルールはルールだ。ここで白子の寂しさに流されて甘やかしてしまっては、夜型の悪い癖がついてしまうし、何より砂漠化の進むアビドスの過酷な環境下で、自立した強い子に育てることができなくなってしまう
「……っ」
ホシノはきゅっと自身の制服の胸元で拳を握りしめると、愛おしさを振り切るようにして心を鬼にし、建付けの悪い重い木製扉を外側から完全に閉め切った。カチリ、と金属製の鍵が回る無機質な音が、静まり返った廊下に冷たく響き渡る
「……行きましょう、ユメ先輩。明日も、朝早くから管区内のパトロールや、やらなければならない行政手続きがたくさんありますから」
「うん……そうだね。今は我慢、我慢だよね。明日、太陽が昇ったら、またいっぱいいっぱーい遊んであげようね、ホシノちゃん」
夕闇の濃い藍色が完全にアビドス高等学校を包み込んでいく中、二人の少女は、まだ誰もいない静まり返った校舎の廊下を、互いの肩を寄せるようにして並んで歩き、それぞれの帰路に就くのだった
翌朝
地平線の砂塵の彼方から昇る朝日の光が、アビドスの広大な砂漠をうっすらと幻想的な茜色に染め上げる頃、ホシノはいつもより明らかに早い歩調で、まだ朝靄の残る校舎の廊下を歩いていた
コン、コン、と誰もいない校舎に小気味よい音を立てるローファーの歩みは、目的地である臨時の飼育部屋に近づくにつれて、制御が利かないかのように自然と急ぎ足になっていく
彼女の頭の中は、昨晩の別れ際に聞いた、あの白子の悲しそうな鳴き声の残響でいっぱいだった。胸の奥をキュッと締め付けるような『くぅぅ……』という細い拒絶の残響が、ベッドに入って目を閉じてからもずっと耳の奥から離れず、結局ろくに眠れないまま夜明けを迎えてしまったのだ
(いくら野生の砂漠で育った子だとはいえ、まだ生まれて数ヶ月の小さな子どもなんだ。一人ぼっちの暗い夜が怖くて、一晩中寂しくて泣いていたらどうしよう。もし、寂しさのあまりストレスで体調を崩していたりしたら……)
そんな、普段の冷徹な彼女からは想像もつかないような過保護な心配が次から次へと溢れ出し、居ても立ってもいられなくなった結果が、この異例の早朝登校だった。パトロールすらも超高速で切り上げてきたのだ
白子が待つ部屋の前に到着したホシノは、そこで一度、小さく深呼吸をして高鳴る心臓を落ち着かせた。まだ朝の非常に早い時間だ。もしもあの子がまだ夢の中で気持ちよさそうに眠っているのなら、乱暴に立ち入って驚かせてはいけない
ホシノは細心の注意を払いながら、ポケットから取り出した金属製の鍵をカチャリと極力音を立てずに回した。そして、建付けの悪い木製の扉を、数ミリずつ隙間を広げるようにして、ゆっくり、ゆっくりと慎重に押し開ける
「……白子。起きてる、かな……?」
そっと室内に視線を滑らせ、囁くように微かな声をかけてみる
しかし、室内からはホシノが期待していたような、主人の声を察知して駆け寄ってくる元気な四肢の足音も、嬉しそうな鼻鳴らしも返ってこない
『…………』
返ってくるのは、完全に静まり返った部屋の冷たい空気だけだった
ホシノは一瞬で血の気が引き、心臓が冷たく凍りつくのを感じた
「え……?」
慌てて部屋の中に一歩踏み込み、周囲を鋭く見渡す。ホシノがなけなしの私財を投じて購入した、あのふかふかの高級クッションの上は、昨日整えられた形のまま、ぽっかりと空っぽの状態で佇んでいた。嫌な汗が背中を伝う。まさか、窓の隙間かどこかから抜け出して、危険な外の砂漠へ出て行ってしまったのだろうか
最悪の事態が脳裏を過り、ホシノが完全にパニックに陥りかけた、その時だった
スースー、クゥ……と、規則正しく、驚くほど安らかな小さな寝息が、部屋の隅のほうから微かにホシノの耳に届い
「……あ」
ホシノは足音を完全に殺して音のする方へと近づき、ドッグハウスの裏側をそっと覗き込んだ
そこには、ホシノが買い与えた専用の快適なふかふかベッドを完全に無視し、ハウスの壁面と部屋のコンクリート壁の、僅か数十センチほどの狭い隙間にぎゅっと挟まるようにして、丸くなって気持ちよさそうに爆睡している銀白色の小さな毛玉の姿があった
野生の習性が色濃く残っているのか、広々としたクッションの上よりも、こういう身体が密着する狭くて暗い場所の方が、あの子にとっては落ち着くらしい
「ふふ、そんなところに居たんですか。……まったく、心配して損しちゃいました」
小さな可愛いお腹を小さく上下させながら、何の警戒もなく無防備に寝息を立てている白子を見て、ホシノの身体の緊張は一気に解け、その形の良い口元から自然と愛おしそうな優しい笑みがこぼれ落ちた。その瞳も、今はただの優しい姉の光を宿している
起こさないようにそっとその場を離れ、空気を入れ換えるために部屋の扉を少しだけ開けた状態にしたまま、ホシノは自分の荷物を置くために、隣の生徒会室へと向かうことにした
廊下を歩きながら、ホシノは頭の中で今日片付けるべきアビドス生徒会のタスクの予定を組み立てていく
「ふぅ、とりあえず今日は、昨日ユメ先輩が半ベソをかきながら書き終えたあの各種申請書類を、管区の提出窓口に持って行って……それから、お昼のパトロールのルートを少し変更して……って……え?」
予定を反芻しながら生徒会室の重い扉を開け、中へ足を踏み入れた瞬間
ホシノの思考は完全に停止し、その小柄な身体が文字通り石のように凝固した
「な……何が、何が起きてるんですか、これ……」
絶句するホシノの視線の先。そこには、自分の目を疑うような破滅的な光景が広がっていた
「おはよーっ、ホシノちゃん! 今日は一段と早いねー! わたしも白子ちゃんが気になって早く来ちゃっ……って、えええええええええええええっ!? なにこれ、どうなっちゃったのぉーーーっ!?」
ちょうどホシノの後を追うようにして、呑気に廊下を歩いてきたユメ先輩が生徒会室に顔を出した。そして、室内の凄まじい惨状を見るや否や、校舎の鼓膜が破れんばかりの絶叫悲鳴を上げる
「しーっ!! 先輩、朝っぱらから大声を出さないでください! 隣の部屋で白子が起きちゃいますよ!」
「んぐぅぅっっ!?」
すぐさまホシノに鋭いジト目で怒られ、ユメは慌てて両手で自分の口を力いっぱい塞ぎ、目を真ん丸にして何度も激しく首を縦に振った
二人は息を潜めながら、改めて静まり返った生徒会室の中を見渡す
そこはまるで、タチの悪い泥棒かヘルメット団に徹底的に荒らされたかのように、目を覆いたくなるほどの惨状と化していた。昨日、ホシノの鬼のような監視のもと、ユメが涙を流しながら綺麗に仕分けし、提出用に完璧に整頓してあったアビドスの最重要書類が、床一面に無残にもバラバラに散らばり、まるで室内に雪が降ったかのように白く埋め尽くしていたのだ
中には、部屋の隅の棚の狭い隙間にまで滑り込んでいる紙切れもある。さらにはソファのクッションも床に落とされ、何かが激しく暴れ回った痕跡が残されていた
「うう、うぅぅ〜〜〜……っ! 嘘でしょぅ……? わたしが昨日、あんなに文字のゲシュタルト崩壊と戦いながら、一日中一生懸命がんばって整理した書類たちがぁぁ……」
ユメは塞いでいた手を口元から離すと、今度こそ本当にボロ泣きしながら、散らばる白い紙の海の真ん中にぺたんと泣き崩れてしまったのだった
「……ハァ。泣き言を言ってる暇があったら、一枚でも多く拾ってください、先輩。私も手伝いますから。……それにしても、これ」
ホシノは深くため息をつくと、スカートの裾が床の砂埃で汚れるのも構わず、床に膝をつきバラバラに散らばった書類を一枚ずつ丁寧に集め始めた
パチパチと紙を揃える規則的な音を響かせ、機械的に手を動かしながらも、ホシノはこの異常事態をもたらした原因について冷徹な思考の巡らせ方をしていた
その瞳が鋭い観察眼を持って床の上の状況をスキャンしていく
(一体全体、私たちが帰った後の一夜にして何が起きたっていうんですか……? もしかして、本当にヘルメット団や、他校の質の悪い泥棒の類? いや、でもそれなら、金庫を破るなり何か価値のある備品を盗み出していなければ理屈が合わない。そもそも、今のこの財政破綻寸前のアビドスに、泥棒がリスクを冒してまで不法侵入して得をするような金目のものなんて、何一つ残ってない。……じゃあ、単なる腹いせの嫌がらせ? だとしたら、どうして書類をハサミで破きもせず、ただこうして派手に散らかしただけなのか。不可解という他ありませんね……)
疑問が次から次へと泉のように浮かび上がり、ホシノの眉間のシワがみるみるうちに深くなっていく
そのまま這いつくばるようにして書類を集めながら、部屋の奥、例の問題の窓際へと膝行で進んでいった時、ホシノはある奇妙な物理的痕跡の事実に気がつき、ピタリと紙を拾う手を止めた
床の上における、書類の散らばり方。そして、舞い散った紙の先端が向いている角度。それらはすべて、部屋の中央から外に向かって無秩序に散っているのではない
ある一点――そう、窓枠のある一定の方向から、部屋の奥へ向かって、まるで扇を広げたかのような綺麗な放物線状に広がっていたのだ
「…………あー。……なるほど。そういうことですか」
すべての散らばったパズルがホシノの頭の中でカチリと音を立てて噛み合い、彼女の口から完全に呆れ果てた、底の抜けたような声が漏れ出した
床に散らばった最後の一枚をパシッと小気味よく拾い上げると、ホシノは膝の上の砂を払いながらゆっくりと立ち上がり、まだ部屋の中央で涙目になりながら四つん這いで書類をかき集めている先輩の方を、冷ややかに振り返った
「ユメ先輩」
「ひぃん……なぁに、ホシノちゃん? わたしの書いた名前の欄、破れたり、砂で読めなくなったりしてなかった……ぅ?」
今にも消え入りそうな、この世の終わりのような情けない声で、床から上目遣いでホシノを見上げるユメ。そんな頼りないアビドスの最高権力者に向けて、ホシノはこれ以上ないほど冷ややかな、冬の砂漠の底冷えのするような視線を容赦なく突き刺した
「先輩。昨日の夕方、学校を出る前に、私たちは二人で手分けして室内の戸締まりチェックをしましたよね。……ここの窓、本当に全部閉めていきましたか?」
「へ? えーと……ええっとね、白子ちゃんのいるお部屋の窓は、ホシノちゃんと一緒に『よし!』って言って、すっごく厳重に閉めて、鍵の施錠もバッチリ確認したけど……」
「じゃあ、こっちの、私たちが今いる生徒会室の方は?」
「うぐっ……。それは……その……ちょっと、その時の記憶が、綺麗さっぱり抜け落ちて、ないかも……?」
ユメは気まずそうに視線を左右へと泳がせ、人差し指同士を胸の前でツンツンと合わせながら、身体を小さく丸めて完全に縮こまった
「ハァ。記憶にないじゃなくて、最初から閉めていなかったんですよ。見てください、これ」
ホシノが呆れ返った顔のまま、重要書類がうず高く積まれていたはずの、メインデスクの真正面に位置するガラス窓を指差す
ユメが恐る恐るその指の方向へと視線を向けると、そこには、本来なら夜間の防犯のために鍵がかかっているはずの大きなガラス窓が、大人の握り拳がふたつ分ほど、隙間を開けた中途半端な状態で開いていたのだ
「この書類の扇状の散らばり方を見るに、夜の間に外の砂漠から激しく吹き込んできた、強い夜風の仕業です。窓の隙間から強烈な突風が入り込んで、デスクの上に綺麗に並べてあった書類を全部床に吹き飛ばしたんですよ。泥棒でも、ヘルメット団の襲撃でもありません。ただの、先輩のイージーミス、閉め忘れです」
ホシノは冷たい瞳のまま腕を組み、トントンと不機嫌そうに床をローファーの爪先で叩いた
「ひ、ひぃぃん! ごめんなさいホシノちゃん! 昨日は白子ちゃんとお別れして帰るのが寂しすぎて、頭の中が白子ちゃんでいっぱいで、こっちの窓のこと完全に意識から抜け落ちてたよぅー!」
本日何度目かも分からないユメの情けない謝罪の悲鳴が、朝一番の静かな生徒会室に虚しく響き渡る
「……先輩の不注意のせいで余計な仕事が増えました。今日のおやつ抜き、やっぱり今日から『3日間連続おやつ抜き』に刑期を延長しますからね」
「そんなぁぁぁーーー!! わたしの放課後の幸せがぁ! 許してぇ、もう一回だけチャンスをちょうだいホシノちゃんー!」
「声が大きいって言ってるでしょう! 隣で寝てる子が起きちゃいます!」
開いた窓の隙間から、容赦なく差し込む朝の眩しい光の中で、不器用な副会長の容赦のない叱責と、おっちょこちょいな会長の悲鳴が、アビドス生徒会の新しい一日の始まりを告げるように、騒がしく響き渡るのだった
しかし。次の日も、そのまた次の日になっても、アビドス生徒会室の奇妙な異変が終わることはなかった
「よし……これで生徒会室の入り口のドアの鍵はヨシ、と。ユメ先輩、そっちの白子の部屋の鍵もちゃんとかけましたか?」
「はーい、バッチリだよ、ホシノちゃん! 窓のクレセント錠も、上から下までバチッと指差し確認、完了でーす!」
ある日の放課後、すべての山積みの業務を終えた二人は、いつものように白子に「また明日ね」と明日の再会を約束して施錠を行っていた。その際、ホシノは生徒会室の古びた窓枠をチェックしていて、ある重大な物理的欠陥に初めて気がついた
窓の中央にある鍵(クレセント錠)の回転レバーが、長年の経年劣化と容赦ない砂嵐のせいで完全にバカになっており、いくら回してもカチリと固定されず、ガタガタと緩んでしまっていたのだ
「……うーん、ここの鍵、経年劣化で完全に内部の噛み合わせが壊れてますね。これじゃあ外から強い砂漠の風が吹いたら、その振動だけで簡単にレバーが回って開いちゃうかも。ひとまずは、風の入り込む隙間が空かないように、これ以上ないくらいきっちり窓だけを力任せに閉めておくしかありませんね。今度、使えそうなジャンクの部品をパトロールがてらどこかで拾ってこなくては……」
ホシノは重い溜息をつきながら、建付けの悪い窓をこれ以上ないほど両手に力を込めてきっちりと閉め、2人は帰路につく
そして、また新しい朝がやってくる
「おはようございます、ユメ先輩。今日もアビドスらしい良い天気ですね。……というか先輩、今朝は歩く足の回転速度がいつもより数倍早いです。私の歩幅を考えてください」
「あはは、おはよーホシノちゃん! だって、一秒でも早く白子ちゃんに会いたいんだもん! 見て見て、今日はね、砂漠の西側で見つけた、すっごく面白い形をした流木を拾ってきたんだよ! これで一緒に『取ってこい』をして遊ぶんだー♪」
「……はぁ。もはやどっちが本業の生徒会業務か分かりませんね、私たちは。完全に主客転倒です」
そう呆れつつも、ホシノの足取りも心なしかいつもより軽い。正門の前で合流した二人は、逸る気持ちを抑えきれない様子で、まずは静かに白子の待つ隣の部屋へと向かった
扉の隙間からそっと中を覗き込むと、銀白色の小さな毛玉は、今朝もドッグハウスの裏の狭いお気に入りのスペースに綺麗に挟まったまま、スースーとすやすや健やかな寝息を立てて眠っている
「ふふ、白子ちゃん、まだ夢の中だね。よし、白子ちゃんを起こさないように、先に生徒会室に移動して荷物を置いちゃおうか」
「そうですね」
二人は微笑ましい気持ちのまま、隣の生徒会室へと移動し、その重い木製の扉を開け放った
しかし、その瞬間に二人の身体は同時に、まるで電撃が走ったかのようにピキリと不自然に固まった
「…………ユメ先輩」
「…………なぁに? ホシノちゃん」
開け放たれた扉の向こう側。そのあまりにも悲惨な光景を目にしたホシノの声からは、完全にすべての温度が消え失せていた。左右のオッドアイの瞳が、現実を拒絶するように細められる
「昨日は……すべての業務が終わった後、確かにここの部屋の窓、風が入らないように隙間なくきっちり閉まっているのを……二人で一緒に、指差しで確認しましたよね?」
「うん……。ホシノちゃんが『鍵がバカになってるからギチギチに閉めるよ』って言って、壊れそうなくらい力いっぱい窓を閉めてたの、わたし、この目で、真ん前でちゃんと見たねぇ……」
「……ですよね。風の入り込む隙間なんて、これっぽっちも無かったはずです。……そうなると、やはり、これは風の悪戯なんかじゃなくて……『泥棒』、あるいは何かしらの悪意を持った外部の侵入者の仕業でしょうか……」
生徒会室に一歩足を厳かに踏み入れると、そこには昨日を遥かに凌駕する、まるで大型の台風が一晩中この閉ざされた部屋の中で暴れ回ったかのような、凄まじい破壊の惨状が広がっていた
デスクの上には、今日処理するはずだった未記入の活動報告書や、厳重に保管されていた過去の財務用紙の束が、床や壁際に無残にもバラバラに、引きちぎられたかのように散乱している。それだけではない。ソファの上に綺麗に並べておいたはずの、ユメが持ってきた正方形の花柄ファブリッククッションは、どういうわけか激しく引っ掻かれ、中綿が雪のように飛び出すほどズタボロに引き裂かれ、なぜか開いた窓の下の床にぽつんと寂しげに転がされていた
そして――やはり、昨日あんなに頑丈に閉めたはずの大きなガラス窓が、外の砂漠に向かって、これ以上ないほどに大きく全開になっていたのだ
「ほらぁーーーっ! やっぱり昨日のやつ、わたしの閉め忘れのせいじゃなかったじゃん! わたし、ちゃんと閉めてたもん! ホシノちゃんの冤罪だーっ! 異議ありだよ、異議ありーっ!」
ユメはここぞとばかりに両頬をぷくーっと膨らませて、勝利を確信したように声を荒らげる。その表情はまるで、無実の罪を晴らした歴史的英雄のようでもあった
「はいはい、それはそれ、これはこれです。日頃の行いが悪いから、真っ先に疑われるんですよ、先輩」
「ひぃん! 冷たい! 濡れ衣が晴れたのに扱いが変わらない!」
ぷんぷんと怒るユメ先輩をいつもの調子で軽くあしらいながらも、ホシノの瞳は鋭く、そして冷静に部屋の状況を観察していた
(……おかしい。鍵が壊れているとはいえ、あの建付けが悪くて重い窓を内側から全開にするには、それなりの力が要るはず。一体、何が目的でこんな嫌がらせのような真似を……? ヘルメット団か、それとも他の自治区の不良たちの仕業か……?)
ホシノは油断なく周囲の警戒を強めながら、床に散らばった用紙を一枚、静かに拾い上げた
その時、紙の表面に妙な「凹凸」があることに気がつき、ホシノの手がピタリと止まる。
(ん……? この、インクが滲んだような……不自然な形の汚れは……)
「ユメ先輩。ちょっと、こっちに来てください」
「なぁにー? もしかして犯人の遺留品!? 泥棒さんの手がかりでも見つかったのー?」
ユメがドタバタと足音を立てて近づいてくると、ホシノは何も言わずに、拾い上げた書類の一角をそっと細い指で指し示した
ユメがその場所を凝視するために顔を近づける
そこには、昨日の雨で少し水気が残っていた床の砂を吸ったせいだろうか、水と砂で汚れた、なんとも可愛らしい「小さな肉球の跡」が、まるで事務用の判子でも押したかのように、何個もポンポンと書類の上にスタンプされていた
「これって……もしかして、白子ちゃんの足跡……?」
「……ええ。多分、というか、間違いなくそうだと思います。この学校の敷地内に、これほど小さな肉球を持つ他の犬がいるとは到底考えられませんし……」
ホシノは指先で器用に書類を挟み持ち、呆れと、困惑と、迅速な解決への安堵、そして隠しきれない愛おしさが複雑に混ざり合った、なんとも表現しがたい表情で、全開になった窓の向こうに広がるうららかな砂漠の景色を見つめていた
「でもさぁ……どうやって白子ちゃん、こっちの部屋に来たのかな? というより、なんでこんなにこのお部屋の中だけで、怪獣みたいに大暴れしちゃってるの?」
ユメはズタボロになった四角いクッションを両手で愛おしそうに胸に抱き抱えながら、不思議そうに首を傾げた
「私が知るわけないですよ……。あの子の頭の中なんて……」
ホシノはふぅ、と小さくため息をつき、散らばった用紙の束をトントンとデスクの角で揃えた
考えてみても、明確な答えは何も思い浮かばない。確かに白子は時折、手に負えないほどヤンチャで、目を離した隙に何をしでかすか分からない危うさがある。だが、それと同時に驚くほど利口な一面もあり、昨日今日で教えた「取ってこい」や「お手」などの簡単な芸も、数回教えただけで完璧に覚えてしまうほどの高い知能を持っていた
それなのに、なぜ他の部屋や置いてある餌には目もくれず、この生徒会室の、それもユメやホシノの私物ばかりを荒らしているのか
それに、最大の問題は侵入経路だった。鍵の壊れかかっている生徒会室の窓はともかく、白子を閉じ込めておいた隣の部屋は、ドアの鍵も窓のクレセント錠も、昨晩二人でこれ以上ないほど厳重に施錠したはずなのだ
子犬一匹がどうやって自力で抜け出し、この部屋にやってこれたというのか
(もしかして……生徒会室の窓を開けたのも、白子……? いや、でもあの建付けの悪い窓は、人間の力でも結構力を入れないと動かないはずだし……)
ホシノはそんな疑問を頭の隅で転がしながら、未だに全開になっている窓のサッシに細い指先を触れさせた。実際に自分の手で動かしてみる
やはりガタガタと引っかかりがあり、ホシノの腕力をもってしても、ただ横に引くだけでは多少なりとも力を込めなければ滑らない
(……やっぱり硬い…この窓は白子ではなく他の……ん?)
その時、ホシノの指先に奇妙な違和感が伝わった。今一瞬だけ、ガチッと硬く噛み合っていたはずの窓枠が、まるで魔法でもかかったかのように、すんなりと滑らかに動いたような気がしたのだ
ホシノの鋭い瞳が、窓のレールとサッシの噛み合わせをじっと見つめる。彼女はサッシに手をかけたまま、引く方向や力の入れ方をミリ単位で色々と変えて試してみた
すると――
(……っ!?)
ほんの少しだけサッシを奥の壁側へと押し込みながら、下から斜め上に向かって持ち上げるように引いてみると、先ほどまでの引っかかりが嘘のように消え失せ、恐ろしいほど簡単に、滑るように窓がガラガラと開いてしまった
(なるほど……。この窓、噛み合わせが歪んでいるせいで、特定の角度から衝撃が加わると簡単にロックが外れて開いちゃうんだ。……これなら、あの子が外から体当たりするか、前足でガリガリ引っ掻いた拍子に、偶然開いてしまってもおかしくない。丁度ここは1階の地面に面しているし、ここで遊んだあと外に行ったのか……)
謎が一つ解け、ホシノは窓枠をポンと叩いて振り返った
「ユメ先輩。この窓を開けた犯人も、多分間違いなく白子ですよ」
「ええ!?嘘でしょー! それはないと思うよー? 私もさっき試してみたけど、錆びついてて物揃いすっごく硬かったよー?」
ユメは信じられないといった様子で、抱えていたクッションをソファに置くと、半信半疑のまま窓際に近寄ってきた
「普通の引き方をしたら硬いです。ですから、そこを持って……少し奥にグッと押し込みながら、下から上にしゃくり上げるように引いてみてください」
「えー? こう? 押し込んで、下から上に……って、わわっ!? 本当だ、何これ! 力を入れてないのに簡単に開く!」
ガラガラと小気味よい音を立てて滑る窓を見て、ユメはまるで手品でも見せられたかのように目を丸くした
「ね?」
ホシノは少しだけ得意げに、ふふんと鼻を鳴らす
「すごーい! ホシノちゃん、まるで推理小説に出てくる名探偵みたいだよー! カッコいいなぁ!」
ユメはパチパチと両手を叩きながら、濁りのないキラキラとした真っ直ぐな褒め言葉と尊敬の眼差しの眼差しをホシノに向けた
「そ、そんなこと……大袈裟ですよ。ただの建付けの問題ですから……」
普段、あまり他人からストレートに褒められ慣れていない1年生の副会長は、急に気恥ずかしさが込み上げてきたのか、そっぽを向いて小さな顔を少しだけ赤く染めた。しかし、すぐにコホンと咳払いをして表情を引き締め、まだ残されている最大の難問へと意識を戻す
「窓の件はこれで証明が付きましたけど、あとは……肝心の白子が、どうやってあの密室からこっちの部屋に来るルートを確保したか……ですね」
「だよねー……。あっちの部屋はドアも窓も完璧だったもん。お壁をすり抜ける超能力でも使わない限り、出られないはずだよねぇ……」
二人は再び腕を組み、うーん、うーんと唸りながらしばらくの間悩み込んだ
それから数分後、ホシノは何か思い至ったように小さくため息をつくと、おもむろに壁に立てかけてあった愛用のショットガンを手に取り、慣れた動作で背中に背負って、生徒会室の扉の方へと歩き出した
「ちょっと、出かけてきますね」
「え? 申請書類の提出なら私が後で行くよ? ホシノちゃん、どこに行くの?」
ユメが不思議そうに声をかけると、ホシノは扉に手をかけたまま、振り返らずにぶっきらぼうに答えた
「まぁ……ちょっとした、ゴミ拾いです」
「?……ゴミ拾い? 砂漠に? ……うん、いってらっしゃい……?」
イマイチ意図が掴めないまま首を傾げるユメに、ホシノは「はい」と短く応じ、それから思い出したように、まるで口うるさい母親が子供に言い聞せるようなトーンで言葉を付け足した
「あ、白子が起きたら、お散歩と、それから昨日買っておいた犬用のおやつをあげるのを忘れないでくださいね。あと、砂漠の気候は乾燥していますから、水分補給用の新鮮な水も、ちゃんとお皿に入れてあげてください」
「わ、分かってるよー! それくらいわたしにだってできるもん!」
ユメがぷりぷりと頬を膨らませて返事をすると、ホシノは満足したように小さく頷き、今度こそバタバタと外に行ってしまった
静かになった生徒会室で、ユメは窓の外へと消えていった副会長の背中を思い返し、ふふっと優しく目を細める
「……ふふ、ホシノちゃんってば、口では文句ばっかり言ってるのに、白子ちゃんのことになると本当に甘いんだよねぇ……。お散歩のこともおやつの水分補給のことも、頭から爪先まで全部気にかけて。まるで、一生懸命な若いお母さんみたい」
「――筒抜けで聞こえてますからね、先輩ーーー!」
「ひぃん!?」
すでに廊下の突き当たり、昇降口のあたりまで歩いていっていたはずのホシノの、野生動物並みに鋭い地獄耳から容赦のない警告の声が飛んできて、ユメはビクッと両肩を大きく震わせた
大慌てで両手で自分の口を塞ぎ、誰もいない廊下を見つめて小さく舌を出す
それからしばらくして、シンと静まり返った生徒会室の隣、白子の部屋から『わふん!』と短くも元気な寝起きの一声が聞こえ、小さな銀白色の主が目を覚ました
ユメはホシノに口酸っぱく言われた通りの手順を、まるでチェックリストをなぞるように実行していった。白子の小さな器に新鮮な水をなみなみと注ぎ、昨日二人で吟味して買った犬用のおやつを、喉に詰まらせないように小さくちぎって差し出す
その後、まだ遊び足りない様子の白子を広い校庭へと連れ出すと、砂漠の風が吹き抜ける中、楽しそうに短い四肢で土を蹴って駆け回る子犬の散歩に、自身の長い髪を振り乱しながらどこまでも付き合った
そうしてひとしきり運動した午後、生徒会室に戻ってからは、ユメの膝の上で心地よい疲労感に包まれて満足そうに規則正しい寝息を立てる白子を、起こさないように優しく左手で撫でながら、右手で山積みの書類仕事を一つずつ終わらせていく
気がつけば、窓の外の世界はアビドス特有の黄金色の夕暮れに染まり、地平線の彼方に太陽が沈みかける下校の時間になっていた
(今日は一日、ホシノちゃんが居なくて一人きりの寂しい生徒会室だったけど……。でも、こうして白子ちゃんがずっとお膝の上で隣にいてくれたおかげで、ちっとも寂しくなかったなー……。大変だったけど、書類もなんとか終わったし!)
そんな温かい、胸の奥がじんわりと満ち足りた気持ちで、ユメが残った書類の最後の欄にアビドス生徒会長の判子をポンと押し終えた、まさにその時だった
突然、夕闇に包まれつつあった生徒会室の木製の重い扉が、勢いよく内側へと蹴り開けられた
バタンッ!! と、静まり返った部屋に大きな破壊音が響き渡り、入ってきたホシノの衝撃的な姿を見て、ユメは思わず持っていた万年筆を机の上にポロッと落としそうになった
「あ、ホシノちゃん! おかえりなさ……い? って、ええええええっ!? 一体全体、どうしたのその格好!?」
ユメは今日一番の驚愕の声を上げ、デスクから身を乗り出した
帰ってきたホシノの白い頬のあたりには、どこで何をしてきたのか、黒い硝煙の煤が点々と付着しており、紺色の袖口やプリーツスカートの裾も、細かな砂埃と硝煙でうっすらと白く汚れている
しかし、主人のそんな薄汚れたハードな格好など一ミリも意に介さないと言わんばかりに、それまでユメの膝の上で丸くなっていた白子が、弾かれたように床へと飛び降りた
『わんっ! わう、わうっ!』
白子にとっては、今日これが初めて顔を合わせる大好きな、もう一人の主人だ。千切れんばかりに短い尻尾を左右に激しく振り回し、喜びを全身で表現しながらホシノの泥のついたローファーの周りをぐるぐると嬉しそうに駆け回り始める
「わっ、ちょっと……っ、相変わらず白子はブレーキが壊れてますね。パトロール帰りの満身創痍な身体には、その全力の突進は少し骨身に応えます……」
ホシノは両腕に抱えていた謎の長方形の物体を落とさないよう慎重にバランスを取りながら、足元で熱烈な大歓迎を繰り広げる白い毛玉を、困ったように、けれど底抜けに優しい瞳で見下ろした
「ほ、ホシノちゃん……本当におかえりなさい。大丈夫? どこかでトラブルにでも遭ったの……? それに、その袖の汚れも心配だけど、その腕に大事そうに抱えてる、なんだか四角くてメカメカしい箱はなぁに?」
ユメがパチパチと目を丸くしながら、ホシノの抱える段ボールを指差す
「これですか? ――ふふん、見ての通り『ペット用見守りカメラ・高画質暗視機能付き(新品未開封)』ですよ。ミレニアムの最先端技術……とまでは言えませんが、家庭用の防犯ガジェットとしては十二分すぎる性能を誇る代物です」
ホシノは少しだけ誇らしげに胸を張ると、抱えていた長方形の段ボール箱を、部屋の中央にある古い木製テーブルの上へと、ドン、と重々しい音を立てて置いた
箱の表面には確かに、少し色褪せたフォントで犬や猫のイラストと共に『留守番中の愛犬の行動をスマホで24時間完全チェック!』と書かれている
市場では少し型落ちの古いモデルのようだが、外箱を包むビニールには破れ一つなく、一度も開封された形跡のない完全なデッドストックの新品だった
「ええっ!? ペット用カメラ!? う、動きを記録できるのは凄く嬉しいけど、どうしたのこれ……。ホシノちゃん、この前、白子ちゃんのための買い出しで『今月のお小遣い全部綺麗に使い切っちゃった、1文無しですね』って言ってたよね? 生徒会の予算も、周知の通り一円も出せそうにないし……」
ユメは部屋の隅に置かれた、真っ赤な数字ばかりが並ぶアビドスの予算簿を思い出しながら、不思議そうに眉をひそめた
アビドス高等学校の財政は文字通り火の車であり、ホシノが個人的に捻出できる貯金も、白子の豪華なドッグハウスや一か月分の高級無添加ジャーキー、知育用のカラーボール等の購入で完全に底を突いていたはずなのだ
「はい、確かに私の財布には、自動販売機で薄い缶コーヒー一本すら買えないほど現金は残っていませんでした。――ですからね、先輩。そこら辺の自治区の廃墟の陰で、昼間から不健全にたむろして通行人を脅かしていた『歩く不法投棄物のゴミども』を、少しばかり合法的に片付ける『ゴミ拾い』をしてきたんですよ。彼らが悪どく溜め込んでいた不正な裏金を、アビドス管区の治安維持の正当な報酬としてキッチリと毟り取って、その足で現金をカメラに変えてきたんです」
ホシノは愛用の重厚な散弾銃の銃口をふーっと軽く吹き、シリンダーの熱を確かめながら、何でもないことのように淡々と言ってのけた
頬の黒い煤は、おそらく路地裏での小規模な銃撃戦の際に、敵の不良どもが放った安物の手榴弾の爆煙を至近距離で浴びた名残なのだろう
(たむろしていた、ゴミ……? ゴミを拾って、お金を稼ぐ……?)
ユメは頭の上に大量の疑問符を浮かべながら、首を小さく傾げた。彼女の優しすぎる脳内フィルターでは、「ホシノちゃんが地域のボランティア清掃を頑張って、どこかの困っていた自治会の優しいおじいさんから、お礼としてお小遣いでも貰ったのかな?」という極めて平和で牧歌的な変換が行われていた。しかし、それ以上深く追求してホシノの苦労を詮索するよりも先に、ユメの旺盛な好奇心は目の前のカメラへと完全に移行してしまう
「それで、それで! 名探偵ホシノちゃん、このハイテクなカメラを一体どこにどうやって使うつもりなの?」
「決まっています。今日も昨日と同じように、すべての業務が終わって夕方になったら、白子の部屋の扉を閉めて、私たちはいつも通り鍵をかけて下校します。そして、深夜の誰もいない無人の校舎で、白子が一体どうやってあの完璧な『密室』を抜け出し、この生徒会室にやってきて怪獣のように暴れ回っているのか……その決定的な犯行の瞬間を、この赤外線レンズで克明に、一秒の狂いもなく記録するんです」
「なるほど……! 確かに動画でバッチリ証拠を押さえちゃえば、白子ちゃんがどうやってお部屋を移動したのか、その隠された秘密のルートが一発で分かっちゃうね! ホシノちゃん、やっぱり本当に頭が良いなぁ!」
『わうっ?』
自分の名前を呼ばれた白子が、作戦会議を開く二人の足元で、何かを察したように不思議そうに首を小さく右側に傾げた
「ふふ、白子。お前が夜中に誰もいないと思って何をしてるか、明日には全部お見通しになるんだからね? 悪い子の証拠をいっぱい集めて、明日の朝はたっぷりお説教タイムなんですから」
ホシノは床に膝をついてしゃがみ込むと、薄ピンク色の癖毛を揺らしながら、白子の柔らかい顎の下を指先でコトコトと優しく撫で回した
白子は気持ちよさそうに喉を鳴らし、ホシノの手のひらに全体重を預けるようにして身を委ね、小さく鼻を鳴らすのだった
「よし! それじゃあ密室の謎を暴く作戦開始だね! 早速このカメラをお部屋の隅っこに設置して、今日の業務はこれでおしまいにして帰ろっか!」
ユメ先輩がポンと小気味よく手を叩き、夕暮れの部屋に響くような明るい声でそう提案した
すると、白子の柔らかな頭を優しく撫で回していたホシノの細い手の動きが、ピタリと唐突に停止した
「……ホシノちゃん? どうしたの、急に固まっちゃって。お腹でも痛くなっちゃった?」
「………その……あの、ですね……先輩」
先ほどまで冷徹に推理を巡らせていた名探偵の顔はどこへやら、ホシノは急にバツが悪そうに視線を斜め下の床へと逸らした
制服の紺色のスカートの端をきゅっと小さな手で掴んで、モジモジと身体を揺らし始めている。その左右で色の異なる美しいオッドアイの瞳は、チラチラと、床の上で嬉しそうに千切れんばかりに尻尾を振っている白子の方を、なんとも物欲しそうに見つめていた
ユメ先輩はそのホシノの様子をじっと観察し、それから全てを察したように、ふふっと母親のような温かい微笑みをその慈愛に満ちた顔に浮かべた
「……あ、分かった! ホシノちゃん、今日は朝からパトロールと、その後の過酷な『ゴミ拾い』でずーっと忙しかったから、白子ちゃんと全然遊べなかったんだよね。本当は今すぐ一緒に遊びたくて堪らないんでしょ?」
「なっ……!? ち、違います! 誤解しないでください! 私はただ、この最新式カメラの最適な画角の調整や、赤外線センサーの夜間における感知範囲について、極めて技術的かつ合理的な思考を巡らせていただけです。断じて私情で遊ぼうなどと――」
「はいはい♪ 機械の設置作業なら、この頼れるユメ先輩がぜーんぶ引き受けてあげるから! だからホシノちゃんは、その大好きな白子ちゃんを連れて、暗くなる前に校庭で思いっきり白子ちゃんと遊んでおいで!」
「!……そ、そこまでユメ先輩が言うのでしたら……アビドス生徒会長の絶対の命令ですし、一介の副会長としては従わざるを得ませんね。せっかくの先輩の申し出を無下に断るのも、後輩として不敬ですし。……ほら! 白子、行くよ! 私が遊んであげるから、思いっきり走るよ!」
『わんっ! わわんっ!』
ユメ先輩の優しい、そして完璧なアシストを受けた瞬間、ホシノの瞳がまるで夜空の星のようにキラキラと輝き出した
彼女は先ほどまでのツンとした頑なな態度をどこかへ綺麗に放り投げ、白子を愛おしそうに両腕で抱き上げるようにして、弾みのついた非常に軽い足取りで、元気よく生徒会室の外へと飛び出していった
「ふふふ、本当に素直じゃないんだから。でも、白子ちゃんの前だと、ホシノちゃんも年相応の可愛い妹って感じだなぁ……」
遠ざかっていく、一人と一匹の賑やかで楽しそうな足音を廊下に聞きながら、ユメは嬉しそうに目を細めた
「さてと! それじゃあわたしも、アビドスの頼れる先輩としてカッコいいところを見せちゃおうかな!」
ユメ先輩は意気揚々と腕をまくり、段ボール箱を包む透明なビニールをベリベリと威勢よく破り捨てた。中からお目当てのペット用ネットワークカメラと、分厚い取扱説明書を引っ張り出す
「えーっと、なになに……? 『まずは専用のスマートフォンアプリケーションをダウンロードし、初期設定を行ってください。その後、ローカルIPアドレスを手動で割り当て、ポート開放を……』……え? あいぴーあどれす……? ぽーと、かいほう……?」
作戦開始からわずか三十秒。ユメ先輩はカタカナとアルファベット、そして専門用語が不親切に羅列された説明書を前に、完全に頭から白煙を吹き出させていた
アビドスのただでさえ古い通信環境の中でIPアドレスの手動設定を行うなど、重度の機械音痴であるユメ先輩にとっては、古代の失われた文献を解読するようなものである
「う、うぐぅ……。これ、そもそもどうやって壁に固定するの……? 付属のネジ? それとも超強力両面テープ? アプリを起動してもスマホの画面が真っ暗なままだよぅ……」
それからさらに数十分後。案の定、取扱説明書をいくらひっくり返しても、配線を繋ぎ直しても一歩も前に進めなかったユメが、涙目で窓を開け、夕暮れの校庭に向かって情けなく叫んだ
「ホシノちゃーーーん! 助けてぇーーー! 機械がわたしを拒絶するよぅーーー!」
結局、最終的には校庭から戻ってきたホシノが「ハァ……本当に先輩は機械に弱いですね。何が『ぜんぶ引き受けてあげる』ですか。おやつ抜きの刑をさらに1日追加して、合計4日間にしますよ」と、ムッとした表情でジト目を向けながら、ものの数分でカメラのシステム構築から壁面への強固な設置までを完璧に終わらせたのは、言うまでもなかった
――そして、翌朝。アビドスの砂漠に再び新しい太陽が昇る
「おはようございます、ユメ先輩。……ふぅ、今朝も白子は隣のハウスの裏の狭い隙間で、泥のようにぐっすり眠っていました。健康状態はすこぶる良好、どこにも怪我はありません」
「おはようホシノちゃん! 白子ちゃんの睡眠がバッチリなら本当に良かったー。……って、ことは……」
二人は恐る恐る、生徒会室の古びた扉のノブに手をかけ、静かにガチャリと音を立てて中へと足を踏み入れた。
案の定、というべきか
室内の光景は、昨日をさらに上回るレベルで無残かつ徹底的に散らかっていた。床には再び、未処理の活動報告書がまるで紙吹雪のように白く散乱しており、昨日ホシノが苦労して整頓したはずの本棚の専門書まで、数冊が床に無残に落とされている
「……ハァ。本当に、毎晩毎晩よくこれだけ盛大に暴れ回ってくれますね。むしろその無限の体力に感心しちゃいますよ」
ホシノは深いため息を一つ吐き出したが、しかしその表情には怒りよりも、むしろ長年の謎を解き明かす瞬間の、どこかワクワクしたような高揚感が混ざっていた
彼女は背中のショットガンをそっと壁に立てかけ、真っ直ぐに、昨日自分が完璧に設置した壁際のペット用カメラへと歩み寄る
カメラの録画インジケーターは、深夜の間も正常に作動していたことを示す鮮やかな緑色の光を静かに灯し続けていた
「さぁ、観念してください、白子ちゃん。お前の夜の秘密の行動、このカメラの映像ですべて暴かせてもらいますからね……」
ホシノはカメラ本体の側面から、小さなマイクロSDメモリーカードを手際よく指先で回収すると、自身のスマートフォンの側面に慣れた手つきでカチリと接続した。画面を横に傾け、専用の再生アプリケーションを起動する
タイムラインのバーを素早くスライドさせ、深夜2時あたりの録画データへと合わせると、電子の静寂を孕んだモノクロの映像が、固さに固唾を呑んで見守る二人の視線の先で、静かに再生され始めた
液晶画面には、月明かりだけが頼りなく窓から差し込む、不気味なほどに静まり返った深夜の生徒会室が、ノイズ混じりの白黒映像で映し出されている。まだこの時点では部屋は全く荒らされておらず、床に散らばる書類もなければ、窓もきっちりと閉まったままだ
当然、容疑者である白子の姿もそこにはまだ映っていなかった
「うぅ……なんだか夜の学校って、白黒の画面越しに見ても、ちょっとお化けとか怪奇現象が出そうで怖いね、ホシノちゃん……。アビドスの怪談とか、本当にありそうだしぃ……」
ユメ先輩はスマートフォンの小さな液晶を覗き込みながら、まるで本当に背後に誰かが立っているかのように、ぶるりと大袈裟に身震いしてホシノの制服の袖をきゅっと掴んだ
「ちょっと、先輩、引っ張らないでください。あと静かに。……一瞬のフレームも見落としちゃいますから。お化けなんて砂漠の幻覚ですよ」
ホシノはジト目を向けつつも、袖を掴む先輩の手を振り払うことはせず、瞳をさらに鋭くして画面を見つめ続けた
二人が画面の一挙手一投足にじっと視線を凝らし、生徒会室の中に静かな緊張感が漂う中、再生開始から三分が経過した頃だった。突如として、その静寂の画面に明確な異変が起きた
部屋の最奥、古びた歴史ある本棚が整然と並ぶ壁面の一部が、まるで生き物のように不自然に、ガタガタ、ガタガタと小刻みに揺れ動き始めたのだ
「ひゃぅっ!? ほ、ほら見なよホシノちゃん! やっぱりお化けだよぅ! 壁が震えてるもん!」
「ですから違いますって。よく見てください、これは……」
次の瞬間、壁のただの継ぎ目だと思っていた縦のラインが、信じられないほど滑らかに真っ二つに割れた。大人が一人ようやく身をよじって通れるほどの大きさの「隠し扉」が、まるで精密機械のように音もなく内側へと向かってスライドしていく
そして、その奥に広がる真っ暗な隙間から、まるで夜の秘密の探検を心から楽しんでいるかのように、銀白色の小さな毛玉――白子が、嬉しそうにピンと立った耳と鼻先を突き出して、トコトコと姿を現した
「えええええええっ!? う、嘘でしょぅ!? こんな場所に、あんな忍者屋敷みたいな隠し扉なんてあったのぉーーーっ!?」
録画に記録されたあまりにも衝撃的な脱出劇の全貌を目にして、ユメは本日二度目の、天井を突き破らんばかりのひっくり返った驚愕の悲鳴を上げた
「……ユメ先輩。だから朝から声が大きいと言っているでしょう。すぐ隣の部屋で泥のように眠っているあの子に聞こえて、目を覚ましてしまいます。……それにしても、これは流石に……」
ホシノもこの展開は完全に想定外だったのか、驚きに瞳をこれ以上ないほど大きく見開いていた。彼女は一度、再生ボタンをタップして映像を一時停止させると、スマートフォンの画面と、目の前にある現実の生徒会室の全く同じ壁面とを、信じられないといった様子で何度も何度も往復するように見つめた
そこにあるのは、長年の経年劣化で少し薄汚れて色褪せた、アビドス高校のどこにでもあるごく普通のベニヤとコンクリートの壁だ。どれだけ近くに寄って目を凝らし、指先でコンコンと叩いて観察してみても、そこに人が通れるほどの精巧なからくり扉が仕込まれているなどとは、とてもではないが信じられない
まるで時代錯誤な隠れ里のギミックを、現代の学び舎に無理やり埋め込んだかのような錯覚さえ覚える
(一体全体、誰が何のためにこんな大掛かりで馬鹿げた隠し通路を作ったっていうんですか……。前の生徒会、いえ、まだアビドスが完全に砂漠化する前で、湯水のようにお金が使えていて、生徒の数も数え切れないほどいた頃の先輩たちが、面白半分で、悪ノリと放課後の暇つぶしで作った……ということにしておきましょう。全く、後輩にとんでもないお騒がせな遺産を遺してくれたものです)
ホシノは頭の中でそう合理的な(あるいは呆れ果てた)結論を付け、やれやれと小さく息を吐き出すと、再び画面の再生ボタンをタップした
映像の中の白子は、自分が厳重に閉じ込められていたはずの密室(隣の部屋)から壁の内部を通る細い隙間を巧みに抜けて、見事にこの生徒会室へと誰にも見られず「密航」を果たしていた
暗い壁から這い出てきた白い子犬は、遮るもののない広々とした自由を謳歌するように、嬉しそうに短い四肢をバタつかせて部屋中を縦横無尽に楽しそうに駆け回っている。
しかし、その後の行動が、ただ暴れているだけにしてはどこか奇妙だった。白子は決して、闇雲に家具を壊したり荒らしたりしているわけではなかったのだ
白子はまず、執務用のデスクへと短い足で器用に飛び乗ると、普段ホシノが腰掛けている古いパイプ椅子の座面の匂いを愛おしそうにフンフン、フンフンと鼻を鳴らして嗅ぎ回り、その場で満足そうにクルクルと三回ほど足踏みをした
それから今度は床へ軽やかに飛び降り、ソファの上に綺麗に並べられていた、昨日ユメ先輩が壊れたクッションの代わりにと自宅からわざわざ持ってきた、少し使い古された花柄のクッションを見つけると、それにガブッと嬉しそうに噛み付くと、そのままクッションを床の上で引きずり回し中綿を少し引っ張り出して、まるでプロペラのように尾っぽを激しく振っている
「……ねぇ、ホシノちゃん。今、画面の白子ちゃんの動きを見ていて、ふと思ったんだけどさ」
ユメ先輩がスマートフォンの淡い光に照らされた顔を少しだけ曇らせ、ぽつりと、どこか寂しそうな声音を漏らした
「これ、もしかして……白子ちゃん、私たちがいつもお仕事したり、お喋りしたりして、長い時間を過ごしている『お気に入りの場所』ばかりを、重点的に探して歩き回ってない?」
「……。言われてみれば、確かにそうですね」
ホシノの視線が、再び動き出した映像の白子の動線を厳格に追う
白子が激しくじゃれつき、結果として書類を散らかしてしまった場所――それはホシノがいつも座る椅子であり、ユメ先輩のデスクの足元であり、二人が放課後に並んでお茶を飲むソファの上だった
白子は、ホシノやユメが普段から愛用しているもの、つまり「二人の匂いが最も濃く残っている場所」だけを、まるでその温もりを必死に追い求めるようにして、執拗に漁り回っていたのだ
そうして一通り、部屋の中に残る大好きな二人の匂いを嗅ぎ終えると、白子は月明かりが切なく差し込む窓際の机の上に、ちょこんと行儀よくお座りをした
定点カメラの設置位置からは、白子の小さな丸い後ろ姿しか見えない。だが、あの子は窓ガラスの向こうに広がる、誰もいない、静まり返った広大で冷たい夜の砂漠をじっと見つめながら、小さく、小さな喉を震わせるようにして、天を仰いで遠吠えを始めた
モノクロの、音のない無音の映像のはずなのに、その小さな背中からは、胸が締め付けられるような切ない響きが、こちらまでリアルに伝わってくるかのような錯覚を覚える
「なんだか、すっごく寂しそうな、今にも泣き出しそうな声で、誰もいない砂漠に向かって鳴いているように見えるね……」
ユメ先輩は胸の前に両手をそっと添え、画面の中の小さな後ろ姿を愛おしそうに、そして今にも自分まで泣き出しそうな、痛々しいほどの表情で見つめながら呟いた
「……そう、でしょうね。きっと、ただヤンチャで暴れて私たちを困らせようとしていたわけじゃなくて……一人ぼっちの暗い夜が、どうしようもないくらい寂しくて不安で、私たちの面影を探して、こんなことをしたんでしょうね。あの子なりに、私たちの傍にいたくて必死だったんです」
ホシノはスマートフォンの画面をそっと消すと、優しく、でもどこか自分自身の配慮の足りなさを責めるような声音で静かに言った。自分のせいで、夜の間にあんな小さな子供に寂しい思いをさせてしまった。別れ際の、あの『くぅぅ……』という鼻を鳴らす鳴き声は、やはりこの夜の孤独を拒む予兆だったのだ
「……それにさ、もしかしてだけど、ホシノちゃんがせっかくお小遣いはたいて買ってあげた、あのフカフカの高級ドッグハウスやクッションを、白子ちゃんが全然使おうとせずに隙間で寝てたのも……あれが『新品』だからじゃないのかな? ほら、お店から買ってきたばかりのピカピカのものって、私たちの匂いが全然ついてないでしょ? だから、白子ちゃんにとっては、どれだけ暖かくてフカフカでも、ちっとも心が落ち着かない、寂しいだけの場所だったんだよ、きっと」
ユメ先輩が、自分の胸に今も大切そうに抱きかかえていた、少し古びて色褪せた、けれど二人の匂いがたっぷりと染み込んだ花柄のクッションを見つめながら、確信を持ったようにそう言った
「なるほど……。匂い、ですか。それは確かに、鋭い野生の勘を持つ犬の習性として、大いに一理ありますね。人間の独りよがりな基準で『高価で新しいから良いものだ』と思い込んで、無理に押し付けていた私の落ち度です。あの子の気持ちを、全く汲めていませんでした」
ホシノは自分の浅はかさを少しだけ反省するように、ふぅ、と小さく長い息を吐き出す
映像の最後では、遠吠えを終えて寂しさに耐えかねた白子が、ホシノの事前の予想通り、噛み合わせの緩んでいた生徒会室の窓を器用に小さな前足でガリガリと引っ掻いて押し開け、そのまま寂しさを紛らわせるように夜の校庭へと飛び出していき、朝方になるまで外を一人で走り回っていたところでデータが途切れていた
これで、密室からの奇妙な脱出劇、生徒会室の私物ばかりを狙った破壊工作、そして窓の不可解な開閉に至るまで、すべての謎のパズルが、あの子の「寂しさ」という一つの答えによって完全に解き明かされたことになる
「……ユメ先輩。今回のこの件に対する、一番確実で、誰も傷つかなくて、みんなが幸せになれる解決法……私、思いつきましたよ」
ホシノはスマートフォンを制服のポケットにすっと収めると、左右のオッドアイをいつもの悪戯っぽい、でもどこかすべての迷いが吹っ切れたような明るい輝きへと戻し、不敵な笑みを浮かべた
「うん! 流石にこれだけ動かぬ証拠を見せられちゃったら、のんびり屋のわたしにだって一発で分かったよ、ホシノちゃん!」
ユメ先輩もまた、いつもの底抜けに明るい太陽のような笑顔をその顔いっぱいに取り戻し、大きく何度も、何度も頷いてみせた
「決まりだね、ホシノちゃん! そうと分かれば、善は急げだよ! すぐに準備にとりかかろっか!」
「ええ。そうですね、先輩。あの子にこれ以上、暗くて寂しい夜を過ごさせるわけにはいきませんから。私たちの不手際は、私たちの手でキッチリと清算しないとです」
それから二人は、床に散らかった活動報告書や申請書類を大急ぎで手際よく片付けると、弾むような足取りで一度生徒会室を後にし、それぞれの自宅の寮へと一時帰宅した
目的はただ一つ、自分たちの生活の匂い、すなわち白子が夜中に必死になって求めてやまない「大好きな二人の温もり」がこれでもかと濃厚に染み込んだ私物を、ありったけかき集めるためだ
ホシノは自室の扉を開けるなり、普段の気怠げな態度を完全に忘れて、クローゼットやベッドの周りを素早く物色し始めた
普段、あまり他人に自分のプライベートな領域を見せたがらない彼女だが、今はそんなちっぽけなこだわりなどどこかへ吹き飛んでいた。毎日使って何度も洗濯したバスタオル、お気に入りのフリースブランケット、休日に部屋で愛用している着古したスウェットシャツ
そして、ベッドの真ん中にちょこんと鎮座していた、淡いブルーの「クジラのぬいぐるみクッション」の前に立った時、ホシノの動きがほんの一瞬だけ止まった
それは彼女が幼い頃からずっと大切にしており、寝る時も常に腕に抱いている、文字通り一番のお気に入りの宝物だった。これに白子の小さな歯型がついたり、砂漠の砂埃がついてしまうかもしれない――そう考えれば、普段のホシノなら絶対に躊躇したはずだった。しかし、彼女の脳裏に今も鮮明に浮かぶのは、さっきカメラの映像で見た、誰もいない暗闇の中で小さく孤独に遠吠えをしていた白子の、あの愛おしくも切ない後ろ姿だった
「……白子。お前にこれ、貸してあげるね。だから、もう夜中に泣いちゃダメだよ」
ホシノの口元に、一切の迷いのない、優しくもどこか誇らしげな笑みが浮かぶ。彼女は大きなクジラのクッションを両手でしっかりと抱きしめると、他の衣類と一緒に大きなスポーツバッグの中へと躊躇なく押し込んだ
一方のユメの部屋でも、準備は負けじと賑やかだった
「これも! あ、これもきっと白子ちゃん安心するよね!」と、長年愛用してすっかり生地が柔らかくなった特大の花柄クッションや、業務中にいつも膝の上に置いているお昼寝用のウールブランケット、さらには「お友達がいると寂しくないかも!」と、お気に入りのぬいぐるみをこれでもかと巨大なトートバッグに詰め込み、大きな荷物で前が見えなくなりながら、学校へと全力で引き返してきた
「お待たせ、ホシノちゃん! 重かったぁー!」
「先輩、欲張りすぎですって。……ほら、白子。お土産ですよ」
夕方の西日が優しく差し込む隣の飼育部屋。扉を開けると、ちょうど夕方の気配で目を覚ましたばかりの白子が、大きな荷物を抱えて戻ってきた二人を『わふっ?』と不思議そうに首を傾げて見上げた
ホシノとユメ先輩は顔を見合わせると、持ってきた荷物をドッグハウスの周りへと手際よく、かつ愛情を込めて広げていく。ユメの花柄のクッションをハウスの入り口に敷き、その真ん中にホシノのクジラのぬいぐるみをポンと置く。さらにハウスの床には、二人の匂いがたっぷりと染み込んだブランケットを贅沢に敷き詰めてあげた
高級品だけで固められていた無機質で少し冷たかった犬小屋が、一瞬にして「二人の温もり」で満たされた最高の空間へと様変わりする
白子は最初、見慣れないクジラのぬいぐるみの周りを、警戒するように慎重にフンフン、フンフンと嗅いでいた
だが、その小さな鼻腔が、クッションの繊維の奥から漂う温もりに触れた時――白子の動きが、ぴたりと止まった
それは、いつも自分を優しく撫でてくれる、大好きなホシノの匂いだった
白子は信じられないといった様子で小首を傾げ、もう一度、今度は確かめるように深く息を吸い込む。混じり気のないその温もりが本物だと分かった瞬間、不安に揺れていた水色の瞳に、眩いばかりの光が灯る
『わぅうう……っ、わーーんっ♪』
張り裂けんばかりの歓喜の声を上げ、白子はクジラのクッションの真上へと飛びついた
「あはは! 見て見てホシノちゃん、すっごく喜んでる! 自分のしっぽで自分の顔を叩いちゃうくらい大興奮だよ! やっぱり大正解だったね!」
「……ええ。本当に、単純というか、分かりやすい子ですね。……でも、そんなに気に入ってくれたみたいで良かったです」
自分の大切なクジラが早速子犬のオモチャにされ、ヨダレをつけられているというのに、ホシノの胸にあるのはただひたすらな愛おしさだけだった
白子の嬉しそうな姿を見つめるホシノの表情は、夕日の優しい光も相まって、まるで本物の母親のように温かく、そしてどこか自身の孤独をも救われたような、満ち足りたものだった
それからというもの、アビドス生徒会室の深夜の怪奇現象はピタリと収まった
夜、誰もいなくなった生徒会室にカメラを置いておいても、もう画面にあの隠し扉がガタガタと開く様子が映ることは無くなった。夜間の記録を覗いてみても、画面の向こうの白子は、もうあの寂しそうな遠吠えをすることはなかった
白子は毎晩、部屋の片隅のドッグハウスで、ホシノのクジラをしっかりと顎の下に敷き、ユメのブランケットに優しく包まれながら、大好きな二人の匂いに守られて、満足そうにすやすやと幸せな夢の中へと誘われていくのだった
「うーん、これ以上生徒会室にカメラを置いておいても、毎晩誰もいない綺麗な部屋の静止画が撮れるだけだねぇ。泥棒さんも来ないし」
「そうですね。犯人の『正体』も行動ルートも暴けましたし、ここに設置しておく意味はもうありません。防犯の役目は十分に果たしました」
数日後、ホシノはそう言うと、生徒会室の壁から手際よくカメラを取り外した
ジャンク屋の箱へ戻そうと一瞬手を止めたが、ふと思いついたように悪戯っぽい笑みを浮かべる。そのまま隣の部屋へ足を運び、白子が眠るドッグハウスの正面へと回り込んだ
「……ここならヘンな寝相をしてても死角ナシ、ですね」
楽しげに鼻歌を交えながら、一番綺麗にハウスが映るアングルを狙って壁にカメラを固定する。手元のスマートフォンを起動し、アプリの画面に映し出された、すやすやと眠る白い毛並みの収まり具合を確認して、ホシノは満足げに小さく頷いた。
スマートフォンを通じて、いつでも、学校のどこからでも白子の様子をリアルタイムで覗き見ることができるシステム。これこそが、あの「ゴミ拾い(賞金稼ぎ)」でホシノが勝ち取った、本当の意味での最高の報酬だった
アビドスの容赦ない借金返済の督促状。山のように積み重なる、終わりが見えない行政や地域の書類。カタカタヘルメット団からの陰湿で突発的な嫌がらせ。
カタカタ、と室内に響く古い時計の針の音だけが、深夜の静寂を刻んでいく
「あー、もうダメ……数字と文字が全部砂粒に見えてきたよぅ、ホシノちゃん。お助けをー……」
ユメが完全に机に突っ伏し、折れたようにペンを転がした。その背中は、背負わされた現実の重さに、心なしかいつもより小さく見える。
「……同感です。これ以上計算を続けたら、私の脳みそが完全にオーバーヒートしてショートしますね。……よし、ユメ先輩。ちょっと『休憩』にしましょう」
「うん! 休憩、賛成!」
ホシノはそう言うと、手元に引き寄せていた督促状の束を、これ見よがしに裏返して視界からシャットアウトした。そして、おもむろにデスクの上にスマートフォンを立てかける
画面をタップすれば、青白い光が二人の疲れた顔をふわりと照らし出した
そこには、大好きな二人の私物に囲まれて、仰向けになって無防備な白いお腹を丸出しにしながら、すやすやと気持ちよさそうに眠っている白子のライブ映像が映し出されている
画面の中で小さな足が楽しそうにピクピクと動く
「ふふ、白子ちゃん、今はどんな夢を見てるのかなぁ……。きっとわたし達とお出かけしてる夢だよ」
ユメの先ほどまで掠れていた声が、今は蜂蜜が溶けたように甘く、優しい響きを取り戻している
「いいえ、きっと私たちが高級ジャーキーを山ほど貢いでる夢ですよ。……よし、少しライフが回復しました。先輩、今のうちに次のページの計算、終わらせちゃいましょう」
「はーい♪ 白子ちゃんパワーで頑張っちゃうぞー!」
ホシノは小さく伸びをして、再びペンを握り直した
画面の向こうの小さな、愛おしい寝息に守られながら、二人はまた、アビドスの明日を守るための戦いへと静かに戻っていくのだった