「物事には引き潮と満ち潮がある。満ち潮に乗れば、運命は一気に開ける。だがそれを逃せば、人生の航海は浅瀬と苦難に終始する」
——ウィリアム・シェイクスピア
大文豪が遺したその格言の通り、永いこと砂の中に埋もれ、冷たく凍りついていたホシノの運命が、少しずつ、だが着実に大きく動き出そうとしていた
◇
それは、灼熱の太陽が容赦なくアビドスの校舎を照りつけ、陽炎が校庭の砂粒を歪ませる、ある晴れた日の昼下がりのことだった
旧校舎の冷房すら効かない静かな応接室に、ガチャン、と重々しい金属音が響く
「毎度どうも! カイザーローンとお取引いただき、誠にありがとうございます!」
カチリとした黒い高級スーツに身を包んだ、一見すると丁寧で礼儀正しそうな接客用の人型ロボット
それが甲高い駆動音を響かせ、札束でパンパンに膨らんだ巨大なアタッシュケースを持ち上げると、営業用の滑らかな合成音で深々と頭を下げた
今日は月に一度やってくる、アビドス高等学校の莫大な借金の返済日
バイトのシフトを詰め込み、節約に節約を重ね、血の滲むような思いでかき集めた対策委員会の血汗の結晶——
それがただ無情に、機械的な作業で吸い上げられていくこの日だけは、メンバーの誰にとっても胸が押し潰されるように重苦しい、最悪の一日だった
ロボットは手際よく集めた現金を黒塗りの重装甲車へ積み込むと、荒い排気音と黒煙を残し、砂煙の向こうへと去っていく
その遠ざかる車影を、セリカは爪が掌に食い込むほど拳を握り締め、殺気すら込めて悔しそうに睨みつけていた
「……あーもー! 毎月毎月、アタシたちがどんだけ苦労して集めた金だと思ってんのよ……!」
「セリカちゃん、気持ちは分かりますけど……今は耐えるしかありません……」
アヤネが眼鏡のブリッジを慌ただしく押し上げながら、弱々しく、けれど諦めを含んだ溜め息をつく
カウンターの横で帳簿を整理していたノノミが、ふとパタリとペンを止め、頬に手を当てて首を傾げながら素朴な疑問を口にした
「……そういえばどうしてカイザーローンは、頑なに『現金手渡し』だけでしか返済を認めないんでしょうか〜?」
「え? 返済方法?」
セリカが振り返り、黒い猫耳をぴくりと動かす。ノノミは柔らかい笑みを浮かべたまま、顎に指を当てて言葉を続けた
「はい。今どきオンライン口座を開設して電子送金した方が、お互いに手間もコストも省けて安全なはずですよね〜。それなのにあの人たちは、どれだけ時代遅れと言われようと、絶対に手渡しの現ナマに拘っています。集金用のロボットや護衛の装甲車まで出して……少し不自然ではありませんか〜?」
その一言に、部屋にいた全員が思わず「あ……」と顔を見合わせた
言われてみれば、毎月わざわざ巨大なケースを持参させて手渡しで回収していくスタイルには、単なるセキュリティ対策では説明のつかない、どこか異様な不自然さが漂っている
「ん。言われてみれば、変。電子決済なら強盗に襲われるリスクもない」
シロコが静かに頷き、顎に手を当てて思考を巡らせる
(現金の回収……足がつかない資金移動……? まさかカイザーの奴ら、表に出せない裏金として回収した現金をどこかへ流してるんじゃ……)
ホシノは卓上に肘をつき、目を細めながら、頭の中でいくつかのピースを繋ぎ合わせようとした
みな胸の中に拭い去れない疑問と違和感を抱えたまま、気を取り直して午後の定例会議へと挑むことになった。対策委員会の教室へ戻り、長机を囲んで腰を下ろす
卓上に広げられた膨大な資料と作戦マップを前に、アヤネが静かに、だが鋭い眼光で報告を開始した
「……それでは、午後の定例会議を始めます! まず、先日セリカちゃんを誘拐したカタカタヘルメット団に関する追跡調査の結果が出ました」
アヤネがタブレットを操作し、ホログラム画面に一両の重装甲車の詳細データを映し出す
「あのヘルメット団が使用していた装甲車ですが、シリアルナンバーを照合したところ、ブラックマーケット経由で購入されたものであることが判明しました!」
ブラックマーケット——
連邦生徒会の法や監視が一切届かない、キヴォトス中の無法者たちが集う巨大な闇市。危険な違法兵器の売買や、認可されていない怪しい団体の闇取引が白昼堂々と横行する、底なしの危険地帯だ
「ブラックマーケットか……。あそこなら、ヘルメット団みたいな底辺の不良どもでも、重火器や装甲車を簡単に買い叩けるわね!」
セリカが腕を組み、忌々しそうに吐き捨てる。アヤネは真剣な面持ちで深々と頷き、さらに画面を切り替えた
「はい。そして……先日アビドスを襲撃しにやってきたゲヘナの『便利屋68』。彼女たちも頻繁にそのブラックマーケットへ足を運び、弾薬の調達や依頼の取引を行っているという目撃情報がありました」
「ん。繋がった。ヘルメット団も、便利屋68も、カイザーの怪しい動きも……全部あそこに集約されている可能性がある」
シロコが身を乗り出し、鋭い瞳でマップの一点を指さす
「……となると、指をくわえて待っている訳にはいかないねぇ」
ソファーで横になっていたホシノが、ふぁぁ、と大きな欠伸を噛み殺しながらゆるゆると体を起こし、トントンと木製の机を指先で叩いた
「うへぇ、手がかりが少ない以上、今はそのブラックマーケットに直接潜入して調べるしかなさそうだねぇ。すっごく危険な場所だけど……みんないいかなぁ?」
「勿論よ! アタシたちの学校をコソコソ嗅ぎ回る奴らの正体、絶対に暴いてやるんだから!」
セリカが拳を強く握り締め、鼻息荒く宣言する。ノノミも「ふふ、ちょっとした探検ですね〜♪」と楽しそうに頼もしく微笑んだ
他に選択肢のない対策委員会は、すべての謎の交差点——熱気と欲望、そして危険な陰謀が渦巻く闇の街『ブラックマーケット』へと、一歩を踏み出すことを決意したのだった
♢
ネオンの妖しい光と不快な砂埃が混ざり合い、怪しげな熱気を孕むブラックマーケットの喧騒。どこか淫靡で危険な匂いが漂う路地裏を進んでいると、突如として耳をつんざくような悲痛な少女の叫び声が響き渡った
「うわぁぁん! お願いですからついてこないでください〜っ!」
「待てって言ってんだろーが! おい、そこのカバンの中身を見せろ!」
見れば、綺麗な黄色い髪を大きく揺らしたトリニティ総合学園の制服を着た少女が、柄の悪い不良生徒たちに追い回され、涙目になって必死に逃げ惑っていた
「……ん。助ける」
「あ、ちょっとシロコちゃん!?……仕方ないなー!」
シロコの短い一言と同時に、対策委員会は即座に介入を開始した。シロコが瞬く間に距離を詰めて先頭の不良を蹴り飛ばし、セリカのアサルトライフルが正確な牽制射撃を叩き込む。ノノミが機関銃で退路を立ち、最後はホシノが盾でまとめて押し潰すという鮮やかな連携で、不良たちは一網打尽にされた
「ひぃぃっ! ご、ごめんなさい〜!」
蜘蛛の子を散らすように逃げていく不良たちの背中を見送り、間一髪のところで救出された少女——白石ヒフミは、胸に大切そうに抱えていた大きな紙袋をギュッと抱きしめながら、何度もペコペコと頭を下げた
「た、助かりました……! 本当にありがとうございます……!」
聞けば彼女は大好きな「ペロロ様」の限定レアグッズを扱う闇ショップに通うため、補習授業の合間を縫ってリスクを冒し、この危険なブラックマーケットに出入りしていたのだという
「まあ、ペロロ様のためなら火の中水の中ですから……! あ、でも、このあたりの地理や闇金融の仕組みなら、買い物のついでに色々見て回っていたので詳しいですよ〜!」
怪我の功名か、案内役としてこれ以上なく頼もしい仲間を得た対策委員会。ヒフミの親切なナビゲーションを借りながらさらに調査を進めていく中で、彼女が何気なく口にした一言が、事態を思いもよらぬ方向へと加速させる
「あ……闇金融が集金する際って、必ず裏で受領証明書が出ますよね〜。もしカイザーローンの金庫からその発行記録が見つかれば……彼らの不透明な資金ルートを証明できるかもしれないです。まあ、手に入ればの話ですけれど……」
「……ん。いいアイディア。銀行を襲おう」
「えっ……? えぇぇぇ!?」
ヒフミが正気を疑うような悲鳴を上げた瞬間には、時すでに遅かった
最初から手段として銀行強盗を視野に入れていたシロコと、「ふふ、ヒフミちゃんだけ仲間はずれにはしませんよー♪」となぜかノリノリで賛同するノノミの手によって、ヒフミは紙袋を頭に被せられ、半ば強制的に強盗団のリーダーへと仕立て上げられてしまったのだ
「なんで私がリーダーなんですか〜〜っ!?」
悲痛な叫びも虚しく、頭に紙袋とニット帽を被った謎の強盗集団「水着覆面団」がここに爆誕してしまった
「ゴー、ゴー!」というシロコの無機質な号令とともに、奇想天外な一悶着と激しい銃撃戦が開幕。圧倒的な戦闘力で防衛システムを突破した彼女たちは、見事にカイザーローンの闇金庫を破り、目的の極秘書類を奪取することに成功したのだった
◇
安全な路地裏まで脱出し、奪い取った極秘書類を広げた瞬間、そこに記されていた衝撃の真実に全員が息をのんだ
「これ……カイザーローンの出入金記録……? なんでヘルメット団の名前がこんなに載ってるのよ!?」
セリカが目を剥き、指を震わせる
カイザーローンは、アビドスから血の滲むような思いで回収した返済金を、ヘルメット団などの不良グループへ資金や最新兵器の購入費用として裏で横流ししていたのだ。自分たちで治安の悪化という危機を演出し、アビドスを限界まで追い詰めて土地を格安で奪い取ろうとする自作自演の悪質な陰謀——
自分たちの本当の敵は、目の前のヘルメット団でも、便利屋68でもなく、毎月返済金を渡していたカイザーローンそのものだったのだ
「私……この事を、帰ったらティーパーティーに報告しようと思います! 」
すっかり日が暮れ、オレンジ色の夕渡りが街を包む駅前で、トリニティへの帰路につくヒフミは、アビドスの面々を心から心配し、まっすぐな瞳でそう言ってくれた
「ありがとう、ヒフミちゃん! 本当に助かったわ! あんた最高ね!」
「ん。ヒフミ、最高の協力者」
セリカやシロコたちは希望に目を輝かせ、手を取り合って喜んでいた
大学園であるトリニティが動いてくれれば、この絶望的な借金地獄から抜け出せるかもしれない——そんな淡い期待が、彼女たちの胸に灯っていた
だが——ただ一人、後方で壁に背を預け、腕を組んでいたホシノだけは、静かに目を伏せ、素直に喜ぶことができずにいた
ヒフミの温かい好意や純粋な善意は、心の底から嬉しい
けれど、現実はそれほど甘くないことを、ホシノは痛いほど知っていた
トリニティのティーパーティーも、ゲヘナのや生徒会も、ミレニアムのセミナーも……このキヴォトス全域を牛耳る巨大学園たちは、アビドスが理不尽な借金と砂漠化に苦しんでいることなど、とっくの昔から知っているのだ
知っていながら、利害関係と政治的思惑、そして「他校の自治権」という冷酷な壁ゆえに、誰も救いの手を伸ばしてはくれない
(……善意だけじゃ、この砂漠の呪いは解けないんだよ、ヒフミちゃん……)
夕闇が迫る中、ホシノは首から下げた古いカメラの感触を確かめるようにそっと手に握り締め、誰にも聞こえない小さな溜め息を、静かに吐き出した
♢
「……白子」
翌日の早朝
ホシノは一人、静まり返った室内で白子の仏壇の前にぽつんと座り込んでいた
線香の煙が細く揺らぎ、朝の冷たい光が部屋の中に斜めに差し込んでいる
結局、裏で糸を引く敵の正体は判明したものの、圧倒的な資本と巨大な企業組織を持つカイザーローンに対し、たった五人の生徒しかいない今の対策委員会では、彼らが次に何を企んでいるのかを読み解き、防ぎ切る術がない
思考が行き詰まる中、ホシノは勝手に「今日はオフ」と宣言し、朝早くからこの場所で一人、黄昏れていたのだった
ここなら、頼れる大人である先生も、元気な一年生たちも、そしてノノミやシロコたちすらも立ち入ることを知らない。ホシノが仮面を脱ぎ捨て、ただの傷ついた少女として一人きりになれる、唯一の聖域だった
(……白子……ユメ先輩……)
ホシノは引き寄せた両膝の上にポスリと顔を埋めた。小さく丸まったその背中は、普段の「頼れる生徒会長」の面影もなく、痛々しいほど華奢に見える
(私……どうしたら、シロコちゃんたちを守れるのかなぁ……)
ポケットからそっと取り出したのは、古びた大切なお守りだった。ホシノはその布地を、すがるようにギュッと強く握りしめる
最近は、辛いことばかりだ
セリカたち一年生はもちろん、シロコやノノミたちだって、笑顔の裏で苦しげな表情を浮かべる時間が増えている。後輩たちにそんな顔をさせているのは、自分が無力だからだという自責の念が、胸を鋭く刺し穿つ
満ち潮に乗らなければ、船は浅瀬に乗り上げて沈んでしまう
刻一刻と迫る運命の決断の時を前に、ホシノはただ静かに、冷たい暗闇の中で膝を抱え続けていた
過去の癒えない傷跡、届かなかった手、独立した大人への憧憬と拒絶、そして今度こそ後輩たちを守りきれるのかという焦燥——。思考の深い底へと沈み込み、息さえも浅くなっていた、その時だった
ブルッ……ブルッ……
制服のスカートのポケットに入れたスマホが、冷たい静寂を破って短く震える
ホシノは無言で端末を取り出し、薄暗い部屋の中に青白く浮かび上がる画面へ視線を落とした。表示されていたのは、アヤネからの緊急を告げるメッセージとアヤネ達の現在地だった
画面をスクロールした瞬間、文字が視界に飛び込んでくる
『緊急事態です! セリカちゃんのバイト先である「柴関ラーメン」が、何者かによって爆破されました!』
『実行犯は「便利屋68」です!』
(……は……?)
その数文字を目にした瞬間、ホシノの思考が一瞬で凍りついた。直後、猛烈な熱が脳裏へと一気に駆け昇り、思考が真っ白に染まっていく
昨日、校門前で交わしたあの冷たい視線。自分の放った圧倒的な殺気を察知し、脅威を感じて引き下がったからこそ、セリカの優しさに免じて見逃してやったのだ
それなのに——彼女たちは学校ではなく、セリカが大切に守り、居場所としていたあの『柴関ラーメン』に狙いを定めて踏みにじったというのか
(やっぱり……あの時、手加減なんてしないで……跡形もなく叩き潰しておけばよかったんだ……っ)
後悔と苛烈な怒りが胸の奥で渦巻き、指先が端末を握り潰さんばかりに強く力む。あの赤髪の少女たちが浮かべていた間抜けで温かい笑みすらも、全ては自分たちを欺くための嘘だったのかと、暗い感情が視界を塗りつぶしかけた——その時だった
「……ん?」
怒りに震える指で画面を滑らせると、アヤネから送られていた続きの連投メッセージが視界に入った
『追記です! 対策委員会が現場へ到着し、便利屋68と交戦を開始しようとした直前——ゲヘナ学園の「風紀委員会」を名乗る部隊から、突然の広域爆撃を受けました!』
『これを見ていたら早く来てください!』
——そこで、アヤネからの連絡は途絶えていた
「……っ!?」
ホシノの思考が再び停止する。頭の中が混乱で真っ白になった
昨日の今日でアビドスに潜伏していた便利屋68が、何らかの理由で柴関ラーメンを爆破した犯人なのだということは分かる
……いや、あんなに嬉しそうにラーメンを頬張っていた彼女たちがそんなことをしたとは、本当は思いたくもない。だが、事実として状況はそう示している
しかし——それ以上に理解不能なのは、ゲヘナ学園の『風紀委員会』の存在だった
規律と絶対的な武力を誇るあの風紀委員会が、なぜ他校の管轄外であるこのアビドス自治区にまで介入し、セリカたち対策委員会もろとも爆撃を仕掛けてきたというのか?
(風紀委員会……確か、ヒナちゃんが率いるゲヘナの……)
重い沈黙の中、ホシノの脳裏にふと二年前の記憶が鮮明に蘇る
あの頃、まだ「生徒会副会長」として背伸びをしていた自分と、この寂れたアビドス——というよりは、当時異質な武力として目を付けられていた「小鳥遊ホシノ」そのものを偵察しにやってきた、小柄な少女・空崎ヒナの姿だ
敵地の只中に足を踏み入れた侵入者であるはずのヒナに対し、ユメは能天気に温かいお茶を差し出し、ホシノもいつの間にか「組織の上層部で人間関係に苦労している」という奇妙な共通点から意気投合していた
しかし、あの日。精神的に追い詰められていたホシノは、ヒナを巻き込みたくない一心で冷たく突き放したのだ
『……ヒナは、他の学校の『生徒』だよ……。これ以上、無関係なヒナには関係ないよ』
言葉の刃で二人の関係をバッサリと切り捨て、険悪な喧嘩別れをしたまま、二度と戻らなかったあの時間
なぜ今更になって、アビドスに、そして大切な後輩たちに容赦のない爆撃まで仕掛けてきたのか
共に過ごした期間は短く、ヒナの心の奥底にある本当の素顔まで知っているわけではない。けれど、あの厳格で生真面目な空崎ヒナが、何の正当な理由もなく他校へ侵攻し、無差別に無辜の生徒を攻撃するなどということは、絶対にあり得ない
(……っ)
思考が激しく錯綜する
今すぐ一刻も早く現場へ駆けつけ、傷つく後輩たちを助け出したいという切迫した焦燥感。それと同時に胸を締め付けるのは、もしも今アビドスを攻撃している風紀委員会の先頭に立ち、指揮を執っているのが「彼女」だったとしたら——という恐れだった
自分は一体、どんな顔をして彼女の前に立てばいいのだろう
あの日以来、モモトークの画面を何度も開いては閉じ、ゲヘナ学園の近くまで足を運んでは引き返し……『ごめん』という、たった三文字の謝罪すら口にするのが怖くて逃げ続けてきた相手だ。そんな相手と、今さら「敵」として銃口を向け合い、他の敵のように冷たい言葉を交わすことなんてできるのだろうか
逃避と恐怖で足が竦み、膝がガクガクと小さく震える
「っ……!!」
パシィンっ!!
静まり返った室内で、乾いた破裂音が鋭く響き渡った
ホシノは両手で自らの頬を、容赦のない力で思いっきり叩き上げた。ジンのりと熱を帯びる両頬の痛みが、濁りかけた意識を強烈に覚醒させる
(……今、自分は何をバカなこと考えてるんだ……!?)
確かに、ヒナと再会するのは怖い。過去の過ちと向き合うのは、身が切られるほど恐ろしい
だが——そんな自分の都合や臆病な感情のせいで、今まさに命懸けで戦っている守るべき後輩たちを見捨てるような真似をしていいはずがない
「……行かなきゃ」
己の弱さを振り払うように強く呟くと、ホシノは震えていた脚に全身の力を込め、力強く踏み出した
壁に立てかけられていた重厚なショットガンと、数多の傷が刻まれた巨大な盾を迷いなく掴み取る。オッドアイの瞳に立ち込めていた迷いの霧は消え去り、そこには後輩を守るための冷徹で鋭い覚悟だけが宿っていた
♢
ホシノはアヤネから届いた位置情報を頼りに、黒煙が幾重にも立ち上る激戦の地へと一直線に駆け出していった
現場へ近づくにつれて、空気を激しく震わせる無機質な重爆発音と、耳腔を苛烈に突き刺す乾いた小銃の連射音が密度の増した殺意となって押し寄せてくる
空を黒く染め上げる爆煙の異臭と、鼻を刺す焦げ付いた硝煙の臭いが風に乗って充満していた
(あと……少し……っ!)
息を荒らげ、おでこから冷たい汗を滴らせながら、ホシノは半壊した建造物が立ち並ぶ狭い路地裏から、一気に開けたメインストリートへと飛び出そうとした
しかし、その直前——
視界に飛び込んできたあまりにも信じられない光景に、ホシノは思わず息を呑み、反射的に路地に置かれた巨大な金属製ゴミ箱の影へと身を潜めた
(え……何、あれ……? シロコちゃんと……便利屋の……?)
アヤネの緊急連絡によれば、セリカの大切な柴関ラーメンを容赦なく爆破し、明確に自分たちへ敵意をむき出しにしてきたはずの便利屋68
その「社長」を名乗る赤髪の少女が、なぜかシロコとぴったりと背中を合わせ、圧倒的な数で包囲網を敷くゲヘナ風紀委員会の精鋭部隊に向けて堂々と銃口を構えていたのだ
硝煙と熱気が渦巻く中、アルが不敵な笑みを浮かべ、シロコへ背中を預けたまま軽口を叩く
「……さっきは余計な邪魔が入っちゃったけれど……もしあのまま私たちが最後まで戦っていたら、どっちが勝っていたかしら?」
「そんなの、最初から決まってる」
シロコはアサルトライフルのマガジンを手際よく叩き込み、首だけをカチリとアルの方へ向けて淡々と言い放つ
その迷いのない言葉を聞いたアルは、ふっと愛想の混じった満足げな笑みをこぼした
「ふふ……ええ、確かに決まっているわね」
次の瞬間、二人は示し合わせたかのように同時に背中を滑らせて滑らかに振り返り、互いの鼻先へ銃口を向け合う。殺気と信頼が不気味に同居する一瞬の交錯。そして、二人の唇が同時に重なった
「「私たちが勝つ!」」
「——くっ、来るぞ! 構えろっ!」
アルとシロコがニッと不敵に笑い合った瞬間、対峙していた風紀委員の兵士が悲鳴のような叫びを上げた
直後、再び背中を預け直した二人の銃口から、同時に凶悪な火花が散る
ガガガガガッ! ズドンッ!
(……あの子……すごく強い……!)
ゴミ箱の影から鋭い視線を送るホシノの瞳が、アルの異質な立ち回りに見入る
シロコが愛用するアサルトライフルは近〜中距離での圧倒的な取り回しの良さと火力を兼ね備えている。一方、アルが構えているのは銃身の長い大型スナイパーライフルだ。本来ならば、こんな障害物だらけの市街地戦闘や、敵の前衛部隊が群がる近接交戦において取り回しが極めて悪く、圧倒的に不利なはずだった
しかし、アルはそんな兵器の特性など嘲笑うかのように、巧みな足さばきと正確無比なクイックショットでカバーしていく。シロコの牽制射撃によって態勢を崩し、カバーから食み出した風紀委員の頭部や脚部を、一切の躊躇なく正確な一撃で撃ち抜いて完全に鎮圧していくのだ
『射撃を開始しなさい! 押し潰すのです!』
空中へ投影された青いホログラム——風紀委員会行政官と思われる少女の声が響くと同時に、前線で突撃を仕掛けてくる歩兵たちのすぐ後ろ、ガレキの山に陣取った後方支援部隊から、小型迫撃砲が弧を描いて飛来する
(シロコちゃんもアルも息がぴったりで圧倒してる……だけど、あの突撃兵のすぐ後ろに控えてる曲射砲兵が厄介だねぇ……)
迫撃砲を設置している射手を叩くには、手前の突撃兵の弾幕を突破して一気に間合いを詰める必要がある。だが、軽率に突っ込めば、周囲を固めるアサルトライフルを持った風紀委員たちの強力な十字砲火の餌食になるのは明白だった
しかし、激しい戦場の渦中にいるシロコとアルが、そんな初歩的な戦術構造を見落とすはずもなかった
『あなたたちが手を組んだところで……この圧倒的な戦力差の前では手も足も……っ!』
爆風と土煙が猛烈に巻き上がる中、突如としてその黒煙を切り裂き、何かが恐ろしい速度で飛び出した
乗り捨てられ壊れた自動車の重厚なドアパネルを、左手一枚で強引に保持したシロコだ
(あの戦い方……ッ)
ホシノの胸が強く跳ね上がる
それは、普段ホシノ自身が巨大な盾を用いて弾幕を打ち消し、敵の防衛線を強行突破する時の立ち回りと恐ろしいほどに酷似していた
シロコは車のドアを盾代わりに低く構え、注ぎ込む小銃弾の嵐を重金属の激しい打撃音とともに全て弾き返す。目の前にいる前衛の兵士を完全に無視し、横で援護射撃を試みようとした風紀委員の目前へと一瞬で肉薄した
即座に横の兵士がシロコへ射線を合わせようとする——そのコンマ数秒前
パンッ!
アルのスナイパーライフルが寸分の狂いもなくその兵士の胸元を撃ち抜き、射撃姿勢を崩させた
絶妙なカバーを受けたシロコは、そのまま目の前の兵士へ強烈な前蹴りを叩き込み、手にした銃器を遥か彼方へと吹き飛ばす。完全に無防備となった敵の胸元へ、アサルトライフルから放たれた至近距離の一発が叩き込まれ、兵士が崩れ落ちる
シロコは間髪入れず、手にしていた車のドアを後方の支援兵へ向けて力任せに投げつけた
ドカァンッ!と重苦しい衝撃音が響き、前線の突撃部隊の陣形が完全に崩壊する
(……シロコちゃん、あの便利屋の子を……完全に信用してる。じゃないと、背後や側面を丸投げしたあんな捨て身の突撃、できるわけがない……)
自分が教え込んだ戦術を、見知らぬ他校の少女との連携で完璧に昇華させている後輩の姿。ホシノの心の中に、驚きと同時にどこか温かくも切ない波紋が広がる
シロコが流れるような連撃で前衛を崩し、一人、また一人と敵を沈めていくと、突撃兵のすぐ後ろに控えていた迫撃砲部隊から、焦りとともに二発目の砲弾が発射された。鋭い金属的な破裂音が空を切り裂く
しかし、シロコは瞬時に腰のデバイスを操作し、戦術ドローンを展開。上空へ飛び立ったドローンの突起へワイヤーをかけ、振り子の原理で空中へ高く跳躍すると、着弾点の爆風を難なく回避してみせた
「しまった、もう一発装填——」
至近距離で焦り狂う迫撃砲の二砲手。だが、彼女が次の砲弾を装填するより早く、地上からアルの精密射撃が迫撃砲の砲身そのものを直接撃ち抜く。高圧で弾かれた砲身が跳ね上がり、発射直前の弾薬が空中へ向かって爆ぜる
「これで……おしまい!」
空中で着地姿勢に入ったシロコが命令を下すと、頭上のドローンに懸架された小型ミサイルポッドが一斉に火を噴いた
ドドドドドカンッ!!
迫撃砲部隊が陣取っていた道路の中央が鮮やかな炎と爆煙に包まれ、後方支援部隊は完全に沈黙する
個々の戦闘スキルの高さもさることながら、初連携とは思えないシロコとアルの鮮やかなコンビネーションは、圧倒的な数で迫る風紀委員会を完全に後手に回らせていた
飛び散る火花と熱を帯びた硝煙が漂う中、空中へ浮かぶ青いホログラムの少女——風紀委員会行政官の天雨アコは、眉ひとつひそめることなく冷ややかに口を開く
『ふふ、なるほど。どうやら先生の身柄を素直に渡してくれそうにはないですね』
「フン……この状況でよくそんなに強がれるわね。状況が見えていないのかしら?」
アルが不敵な笑みを浮かべ、長銃の銃口から立ち上る紫煙をフッと吹き消す
すると、ガレキの陰や細道から足音が重なり、今まで散らばっていたノノミやセリカ、さらには便利屋68のメンバーであるカヨコやムツキ、ハルカまでもが自然とシロコとアルの背後に集結してきた
(状況は相変わらずサッパリ分からないけど……あの短時間で、便利屋とシロコちゃんたちの間で何かがあって、今は背中を預け合う協力関係になってるんだ……)
隠れ潜むホシノは、緊張で渇いた喉を鳴らしながら事態の推移を見守る
アコは瞳を冷たく光らせ、ホログラム越しに小さく首を振った
『ふふ、まだ分からないのですか? あなた方がどれほど抗おうと、最終的には私達の要求を呑むしかないということを……。見なさい、私達の後方にはまだまだ控えている兵士たちが――』
「――アコ」
突然、激しい戦場の喧騒を静かに切り裂くような、低く澄んだ声が響き渡った
『え……?』
「!!」
予想外の場所から響いたその声に、アコは気の抜けたような声を漏らし、呆然と振り返る
『ひ、ヒナ……委員長……!? なぜ、ここに……っ!?』
先ほどまで浮かべていたアコの顔から余裕の色が一瞬で消え去り、激しい動揺が走る
そこには——ゲヘナ学園の絶対的な統率者であり、風紀委員長である少女、空崎ヒナがいつの間にか静かにたたずんでいた
(……っ! シロコちゃんたちの戦いばかりに気を取られていて……全然、気付かなかった……!)
路地に置かれた巨大な金属製ゴミ箱の影で、ホシノは息を殺したまま目を見張り、2年ぶりに目にする少女の姿に視線を奪われた
1年生の頃に初めて出会った時から、彼女の小さな体躯や小柄な身長はほとんど変わっていない
しかし、かつて情報部に所属していた頃の無骨な軍服風の制服と帽子はすでに脱ぎ捨てられ、現在は黒と紫色を基調とした、威厳に満ちた凄絶な装いを身にまとっている
その全身から溢れ出る圧倒的な存在感と貫禄は、日頃「おじさん」を自称してだらけたフリを決め込んでいる今の自分とは、あまりにも対極的だった
ホシノが息を呑んで見つめる間にも、アコは必死になって言葉を紡ぎ始めていた
便利屋68という無法者を迅速に捕縛・回収するためだったのだと、己の独断専行を正当化しようと焦り混じりに弁明を重ねる。だが、肝心の便利屋たちは、ヒナが現れたどさくさに紛れて気配を消し、手際よく雲隠れを決め込んでいた。それに気づいたアコは、顔を青くして視線を泳がせる
周囲の荒れ果てた惨状と、あちこちに転がる風紀委員の兵士たちをチラリと一瞥したヒナは、深くため息をつくと、感情の起伏を感じさせない冷徹な声で言い放った
「……状況は理解したわ。アコ、私達は『風紀委員』であって、『生徒会』じゃない」
『そ、それは……っ』
先ほどまでどれほどの劣勢に立たされても一切狼狽えることのなかったアコが、ヒナの静かな一言に言葉を詰まらせ、完全に気圧されている。他校への無断侵攻と独断専行という境界線を踏み越えたことへの、致命的な咎めだった
そんなアコの狼狽ぶりを見つめながら、ヒナは先ほどよりほんの少しだけトーンを落とした、宥めるような柔らかい声で告げた
「……詳しい話は校舎に戻ってから聞くわ。そこで謹慎してなさい」
『は、はぁい……』
アコはあからさまに肩を落とし、しょんぼりと首を垂れた。次の瞬間、通信が遮断され、青いホログラムが煙のように消えていく
不法な部隊展開を指揮していた幹部が退いたことで、戦場に束の間の静寂が訪れた
その静寂を破ったのは、その場に立っていたアヤネの震える声だった
「……ゲヘナの風紀委員長。この状況につきましては、既に正しくご理解していただけておりますでしょうか」
アヤネは眼鏡の奥の瞳を緊張で揺らしながらも、事態を穏便に収拾すべく、慎重に言葉を選んでヒナへ問いかける
「事前通達なしでの他校自治区における無断兵力運用、及び、アビドス高等学校生徒に対する不当な武力衝突——」
(……やっぱり、ヒナちゃんはすごいなぁ……)
隠れながらその姿を見つめるホシノの胸に、感嘆と切なさが混ざり合った複雑な思いが込み上げる
ほんの一瞬で戦場の全貌と非がどこにあるかを精確に把握し、一切のブレなく言葉として言語化してみせる手腕。昔と変わらないどころか、さらに研ぎ澄まされたその観察眼とカリスマ性に、ホシノはただ圧倒されるばかりだった
「はい。つまり、この件に関しては完全にゲヘナ側の規律違反であり——」
アヤネが安堵を含んだ声で核心に触れようとした、その瞬間だった
ヒナは静かに一呼吸置くと、アヤネの言葉を遮るように、被せて言い放った
「——けれど。そちらが風紀委員の公務を『妨害』したのもまた、動かしようのない事実……違うかしら?」
「っ!」
「っ……!」
アヤネの絶句した息遣いが、微かに漏れ聞こえる
論理と規律を重んじるはずの風紀委員長から投げかけられた、あまりにも強引な理屈。アヤネは反論の言葉を探そうと唇を震わせるが、出てくる言葉がない
「……だから、お互い様よ。もし貴方たちがこれ以上納得いかないと言うのなら……面倒だけど、私も黙って見過ごすわけにはいかないわ」
ヒナは疲れと呆れを隠そうともせず、小さく息を吐き出しながら淡々と言い放つ
その背後に佇む風紀委員の精鋭たちが、一斉に銃口の角度をわずかに下げ、威圧感を増した
対峙するシロコ、ノノミ、セリカ、そしてアヤネは、誰も何も言い返せないまま、ただ悔しそうに歯を食いしばり、眼前の小さな暴力を睨みつける。大気の緊張感は極限まで高まり、いつ再び火花が散ってもおかしくない爆発寸前の状況だった
(……はぁ、ダメだね。私が出るしかないか……)
ゴミ箱の影で、ホシノはそっと目をつむり、自らの胸に手を当てた
シロコたち対策委員会は、この短期間で驚くほど強くなった。それは先輩として誇らしく、頼もしくもある。けれど——相手はあの空崎ヒナだ。今の彼女たちが束になって挑んだところで、今のヒナに勝てる道理はない
このまま戦いが再開されれば、間違いなくシロコたちが深い傷を負うことになる
それだけは、絶対に避けなければならない
ホシノは腹をくくると、深く、長く一呼吸を置いた。バクバクと肋骨を叩く心臓の鼓動を強引に押し殺し、冷たいコンクリートを踏みしめて、ゆっくりとゴミ箱の影から歩み出た
「——や、ヒナちゃん」
「ッ……! ホシノ先輩!?」
「先輩……!?」
シロコたちの驚愕の声が重なる。心臓が口から飛び出しそうなほどの超緊張の中、ホシノは努めていつもの柔らかく、どこか抜けたような優しい声でその名を呼んだ
一瞬——本当にコンマ数秒の間だけ、ヒナの大きな瞳が丸く見開かれた
氷のように冷ややかだったその表情に、ほんのわずかな揺らぎと驚きが走る。しかし彼女は瞬時に目元の力を引き締め、元通りの無表情へと冷静を取り戻した
「……小鳥遊、ホシノ」
ヒナの口から、冷たく硬い響きで自分の名前が紡がれる
その音の重さに胸がキュッと絞めつけられそうになりながらも、ホシノは頭の後ろで両手を組み、フヘヘと情けない笑みを浮かべて見せた。自分でも恐怖を覚えるほど、完璧に作り込まれた『いつものホシノ』の声色で軽薄に言葉を重ねる
「いや〜、ごめんねぇ? 私の可愛い後輩たちが、色々と迷惑をかけちゃったみたいでさぁ」
——その瞬間だった
ホシノの『2年前とは変わってしまった』軽々しい態度と謝罪の言葉を聞いたヒナの瞳から、すっと温度が消えた。ヒナはわずかに視線を泳がせ、気まずそうに、そして何処か深く失望したように横を向く
本当は、ずっと会いたかった。二年前、あの日に冷たく突き放して以来、何度も後悔し、ずっと仲直りをしたかった
だからこそヒナは、一瞬だけ安堵したのだ
『あの小鳥遊ホシノ』が自分の前に現れたことに。あの時の喧嘩を、自分を傷つけた冷酷な言葉を、そして今日、白子の件も含めてしっかりと向き合って謝ってくれるのではないかと、ほんの小さな希望を抱いてしまったのだ
だが、ホシノから返ってきたのは、何事もなかったかのようにヘラヘラと笑い、後輩の不始末を「おじさん」として取り繕う、薄っぺらくて都合の良い態度だった
拒絶されている。自分と真剣に向き合うことすら、この人は放棄しているんだ
ヒナの胸の奥で、カチリと何かが冷たく凍りついた
「……まだ、ここに居てくれたのね」
「え……? ヒナちゃん……?」
ヒナの口から漏れた小さく呟くような声には、かすかな寂しさと、それを塗りつぶすほどの冷徹な諦めが滲んでいた。ホシノが首を傾げたときには、ヒナはすでに完全に感情を殺した「風紀委員長」の顔に戻っていた
「……撤収よ」
「えっ……? か、帰るのですか!?」
突如として発せられた撤収命令に、周囲で銃を構えていた風紀委員の兵士たちが困惑した叫びを上げる
「え……?」
「い、委員長!?」
対策委員会の面々も、その場に突如訪れた展開に呆然と固まる
次の瞬間、ヒナはホシノから視線を外し、シロコたち対策委員会に向かって、すっと綺麗に背筋を伸ばしたまま頭を下げた
「事前通達なしでの他校自治区における無断兵力運用、及び、他校の自治区で不必要な騒ぎを起こしたこと……」
ヒナがゆっくりと顔を上げる。その威厳に満ちた瞳が、一瞬だけ、ヒナの横に立ち尽くすホシノの姿を捉えた。だが、そこに温度は一切宿っていなかった
「この件について、私、空崎ヒナよりアビドス高等学校対策委員会に対して、公式に謝罪するわ。……撤収。行くわよ」
ヒナは翻した黒いコートの裾をなびかせ、後ろに控える兵士たちへ短く指示を出しながら、歩みを進める
撤収の準備が整い始める中、ヒナはホシノの方を見向きもせず、その横をスタスタと無感情に通り過ぎようとした
「……あ、あのさ……ひ、ヒナちゃん……っ」
冷たく拒絶されたような寂しさと、喉に引っかかったままの本当の言葉。あの時の突き放した過去を謝らなければいけないという焦燥感に駆られ、ホシノは震える声でその背中を呼び止めた
「……あの時は……私……っ」
言いかけたホシノの言葉を、ヒナは振り向くことすら叩き落とすように、冷ややかに遮った
「——安心して」
「っ……!」
言葉が詰まる。ヒナは立ち止まることすらせず、前を見据えたまま、冷酷なまでに整った声で言葉を重ねた
「『約束通り』……あなたのいるアビドスには、二度と干渉しないから」
背中に突き立てられたその言葉は、二年前、ホシノ自身がヒナを傷つけ、突き放した時にヒナが最後に放った拒絶の言葉だった
ヒナは傍らに立つ先生に対してだけ小さく視線を向け、何事かを静かに告げると、そのまま兵士たちとともに踵を返した
後悔と謝罪の言葉を胸に抱えたまま、ホシノは伸ばしかけた手をゆっくりと降ろし、ただ黙ってその小さな後ろ姿を見送ることしかできなかった
夕闇が迫るアビドスの廃墟に、風紀委員会の部隊が撤収していく重い足音が遠ざかっていく。ヒナの紫色の髪が風になびき、二度と振り返る様子もなく瓦礫の街並みの向こうへと消えていく
(やっぱり……ヒナちゃん、私のこと……避けてるんだね)
胸の奥がキュッと締め付けられ、冷たいなにかが全身の血を凍らせていくような感覚。息を吸い込むことすら苦しくなるほどの圧迫感が、ホシノの小さな身体を苛む
「ホシノ先輩っ!!」
呆然とたたずんでいたホシノの耳に、後ろからセリカのトゲのある怒鳴り声が飛び込んできた
ハッと我に返ったホシノは、心臓の跳ね上がりを悟られまいと、とっさに背中を向けたまま深呼吸をひとつ挟む
(……大丈夫。隠さなきゃ。演技しなきゃ。おじさんは、いつも通りの「ホシノ先輩」でいなくっちゃ……)
自分の心がパキリと音を立てて砕け散ったような感覚を強引に奥底へ押し込め、ホシノはゆっくりと振り返った
頭の後ろで両手を組み、いつものように目尻を下げて情けない苦笑いを張り付ける
「いや〜……参ったねぇ。おじさん、未だに何がどうなってこんなことになったのかサッパリ分からないんだけど、一体全体なにがあったの〜?」
「なにがあったの、じゃないわよ! 柴関ラーメンが……あいつらのせいで爆破されちゃったのよ!? それにあの風紀委員会って連中もいきなり出てきて……ッ!」
ぷりぷりと腹を立ててまくし立てるセリカ。その横で安堵の息をつくアヤネや、無言で自分を見つめるシロコの視線を感じながら、ホシノは完璧に「いつもの頼りない先輩」を演じ切ってみせた
けれど、軽口を叩くホシノの瞳の奥は、硝子細工のように冷たく、乾ききっていた
♢
数日後
真夏の眩しすぎる直射日光を遮るための遮光カーテンが、風もないのに重たく、静かに揺れている
アビドス中央病院の一室
白を基調とした無機質な病室の空気はどこか冷たく、規則的な心拍モニターの電子音だけが、絶え間なく寂しげに刻まれていた
その静寂を破るように、ホシノは一人で足を運んでいた
「……ユメ先輩、来たよ」
ぽつりと落とされた小さな声は、広い病室の壁に吸収されるように消えていく
ホシノはベッドの脇、入り口近くの小さなサイドテーブルに歩み寄ると、置かれた花瓶から枯れて頭を垂れていたくたびれた花を丁寧に抜き取った
カバンから取り出した新しい花へと差し替え、水道で花瓶の水を取り替えて丁寧に水切りをする
その指先の動きだけは、幾度となく繰り返してきた日常の証のように、手慣れたものだった
けれど、手入れの作業が終わると、ホシノはまるで吸い寄せられるようにパイプ椅子へ深く腰掛け、膝を抱え込むようにして小さく身体を丸めた
それからは、一言たりとも言葉を発しない
病室の静けさが深まるほどに、脳裏を苛む記憶の痛みが鮮明さを増していく
(『『約束通り』……あなたのいるアビドスには、二度と干渉しないから』)
静寂が支配する病室の中で、数日前にヒナが言い放ったあの冷酷な拒絶の言葉だけが、泥のように重く、痛々しく胸の奥で反響し続けていた
それまでの人生で、ホシノには「同級生の友達」と呼べるような存在はいなかった
不器用で、暴力的な力しか持っていなかった自分に、ただ対等に、一人の生徒としてまっすぐに向き合ってくれたのはヒナだけだった
あの日、すれ違いからひどい言葉で突っぱねてしまったけれど、いつかちゃんと向き合って、心から頭を下げて謝罪すれば、また昔みたいにくだらない話をして笑い合える日が来るんじゃないか——心のどこかで、そんな甘い幻想を抱いていたのだ
けれど、現実は違った。ヒナは自分を二度と見ようとはしなかった。完全に切り捨てられ、拒絶されたのだ
(……おじさんが……全部悪いんだから……仕方ないよね……)
そう思い知ることでしか、ホシノは崩壊しそうな己の正気を繋ぎ止めることができなかった
二年前、自分が「自分は強い」と自惚れて増長していたから、白子を護りきれずに失った
その圧倒的な喪失と絶望に耐えきれず、ユメ先輩の前で泣きじゃくり、惨めな弱音を吐き出した
そのせいで——ユメは自分を励まそうとし、起きてはならないはずの事故に巻き込まれ、今もこうして意識の戻らない身体となってベッドに横たわっている
そして、他人に頼るという当たり前のことすら出来なかった自分の不甲斐なさのせいで、ヒナにまで完全に見限られ、嫌われた
全ては自分の選択が、自分の弱さが、自分の存在そのものが引き起こした自縄自縛の惨劇なのだ
(ユメ先輩……)
ホシノは抱えていた膝から静かに顔を上げ、ベッドの上で穏やかな呼吸を繰り返すユメを見つめた
規則正しく微かに胸が上下し、今にもパチリと目を覚まして「ホシノちゃん、おはよ!」と呑気な声をかけてきそうなほどの安らかな寝顔
思い返せば、この人は本当に問題ばかりを起こす人だった。無謀な復興プランを立てては周囲に笑われ、人が離れていった
それでもたった一人で「アビドス生徒会」という看板を泥まみれになりながら背負い続けていた。そして、あんなにも不器用で冷たかった自分を、もう一度学校という温かい場所へ引き戻してくれた
底のない優しさと、決して折れない強い意志を持った、本当の意味で凄い先輩だったのだと——すべてを失いかけた今になって、痛いほど実感する
(……そうだよね……。私がこんな風に弱気になって立ち止まってたら……誰がこの学校を守るっていうのさ)
ぎゅっと、制服の胸元の生地を破れんばかりに強く握り締める
(例え、私がどうなったっていい……。この街を……ユメ先輩が命をかけて愛して、白子が走り回ったあの学校を……絶対に守らなきゃいけないんだ)
溢れ出す思い出が、走馬灯のようにホシノの脳裏を駆け巡っていく
ユメ先輩や白子と、くだらないことで大笑いしながら校舎の廊下を走ったこと
セリカやアヤネに「もう、ホシノ先輩はまたサボって!」とぷりぷり怒られた日のこと
シロコが作ってくれた、絶品のオムレツを自分とシロコで半分こにして食べたこと
ノノミの強引なペースに振り回されながらも、心がぽかぽかと温かくなった買い物の時間
あの温かな日々を、愛おしい後輩たちの居場所を、私の命と引き換えにしてでも守り抜く
決意が固まった瞬間、ホシノの瞳からすべての迷いと揺らぎが消え去った
スカートのポケットから無機質なプラスチックの端末を取り出し、薄暗い画面を操作して連絡帳を開く。スクロールした最下部、異質な威圧感を放つ登録名——『黒服』の文字
迷うことなく発信ボタンをタップし、端末を耳に当てた
プルル、と一度だけ呼び出し音が鳴り、即座に接続される。相手は最初から自分が電話をかけてくることを知っていたかのように、低く滑らかな不気味な声で応答した
『……おや、なんの御用でしょうか、暁のホルス』
「……前に私にした話、詳しい内容を聞かせろ」
乾いた病室の中に、ホシノの透き通った、しかし一切の感情を削ぎ落とした冷たい声が静かに響き渡る
『ほう? あれだけ頑なに断っていたのに、どのような心境の変化でしょうか』
「全て分かってるくせに白々しい。……お前なら、私の後輩たちの苦しみを取れるんだろ」
『ええ、可能です。……ですが……貴方の答え次第、ですがね? 暁のホルス』
「……まだ、話を聞くだけだ」
『ええ、それでも十分な進歩ですよ。クックック』
電話の向こうで嗤う闇の住人の声を聴きながら、ホシノはゆっくりと目を閉じた
もう、二度と光の射す場所へは戻れない。後輩たちの笑顔とアビドスを守るための、これが自分に残された最善の「選択」なのだと覚悟を決めて——