白子とシロコ   作:気弱

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思い出のアビドス砂漠へ

数日にわたるあの殺伐とした定例会議や、泥沼のような事件の連続が嘘であったかのように、夕暮れ時の教室には穏やかでどこか長閑な空気が漂っていた

 

西日が傾き、古びた木製の床を鮮やかな橙色に染め上げていく

 

窓の外からは、乾いた砂風が掠める音と、遠くで鳴くウミネコの鳴き声だけが静かに届いていた

 

「セリカちゃん、途中まで一緒に帰りませんか? 駅前に新しいアイスクリーム屋さんが開店したみたいなんです。美味しそうなお店でしたので、もしよければ」

 

カバンに手帳をしまいながら、アヤネが柔らかい笑みを浮かべてセリカに声をかける

 

「いいわね! あ、それと……大将のお見舞いにも行きたいんだけど、そっちも一緒に行ってくれる?」

 

「もちろんです! お見舞いのお花も買っていきましょうか」

 

「ふふ、じゃあ決まりね!」

 

弾むような二人の会話が、誰もいなくなった静かな廊下へと消えていく

 

残されたノノミも、卓上に綺麗に整頓された書類の山を丁寧にクリアファイルへ挟み込み、大事そうに胸に抱え直した

 

「私は先生のところに、今日の報告書と書類を届けに行ってきますね♪ それではホシノ先輩、シロコちゃん、お先です〜」

 

「ん、気をつけて」

 

ノノミが軽やかな足取りで教室を後にし、パタンと重い木製の扉が閉じられる

 

「ふぁ〜ぁ……それじゃあ、おじさんもそろそろ帰ろうかねぇ」

 

大きな欠伸を一つ吐き出し、口元を袖で拭いながら、ホシノもカバンを肩にかけ直して扉の方へと歩き出そうとした

 

しかし——

 

「……ホシノ先輩」

 

後ろから落とされた静かな声に、ホシノの脚がぴたりと止まる

 

「ん? どしたの、シロコちゃん? 何か忘れ物でも——」

 

振り返ったホシノは、そこに佇む少女の姿を見て、不意に言葉を詰まらせた

 

シロコは何も言わず、ただまっすぐにホシノを見つめていた。その両手はぎゅっと拳に握り締められ、白い指先がかすかに震えている。いつもの感情を表に出さない淡々とした瞳の奥には、なにか重大な覚覚悟を秘めた、凄まじい光が宿っていた

 

数秒の重苦しい沈黙。部屋の隅にある柱時計の刻む音だけが、やたらと大きく響く

 

ホシノが首を傾げかけたその時、シロコがゆっくりと、絞り出すように口を開いた

 

「……何か……危ないこと、してない?」

 

「……?」

 

唐突すぎる問いかけに、ホシノのオッドアイの瞳がコンマ数秒だけ丸く見開かれる

 

だが、長年鍛え上げられた演技の壁は、瞬時にその驚きを覆い隠した。ホシノは眉尻を下げ、いつものようにどこか抜けたヘラヘラとした笑みを浮かべると、両手を頭の後ろで組んでみせた

 

「なになに〜? おじさんのこと、そんなに心配してくれちゃってるの〜? うへぇ、シロコちゃんは本当に世話焼きさんだねぇ」

 

ニコニコと、いつもと変わらない能天気な先輩を完璧に演じるホシノ

 

だが、そのおどけた態度が、シロコの胸の奥に燻っていた焦燥と恐怖に火をつけた

 

「ふざけないで……ッ!!」

 

「わっ!?」

 

不意に叩きつけられた強い拒絶の声。シロコの表情が歪み、声が微かに震える

 

「どれだけ……どれだけホシノ先輩と一緒に居たと思ってるの。……最近のホシノ先輩が、無理してることくらい分かる」

 

「あー……あはは……」

 

ホシノは困ったように眉を八の字にし、頭を掻いた

 

今は一人で暮らしている2人だが、ホシノが1年生の時、身寄りのないシロコと出会い、2年生に上がるまでの約一年間、二人は同じ屋根の下で暮らしてきた

 

生活能力の皆無なホシノに代わって、シロコが拙い手つきで食事を作り、朝を起こし、洗濯物を畳む。言葉数は少なくても、お互いの呼吸や癖を誰よりも理解し合い、本当の家族以上に寄り添い合って生きてきたのだ

 

自分の小さな変化や破綻に、この少女が気づかないはずがないのだと、ホシノの胸の奥がキュッと悲鳴を上げる

 

「……何か、急にそんな風に思った理由でもあるの?」

 

努めて柔らかく、探るように問いかけるホシノに、シロコはまっすぐな視線を逸らさずに答えた

 

「……今朝、街中で……知らない大人の車に乗っていくホシノ先輩を見かけた。それに……あのゲヘナの風紀委員長と話してから……先輩、空を見てる時間が増えた」

 

「うへぇ……ホント、よくおじさんのこと見てるねぇ……」

 

ホシノは参ったというように肩をすくめて見せた。だが、その瞳の奥にある冷たい静寂だけは隠しきれない

 

「でもさぁ、おじさんが昔からボーッと空を眺めるのが好きなのは、シロコちゃんもよく知ってるでしょ? 雲の流れを見てると眠くなっちゃうんだよねぇ」

 

「うっ……」

 

「それにさ、おじさん今朝はぐっすり眠りすぎちゃってさぁ。学校に遅刻して、アヤネちゃんとセリカちゃんにめちゃくちゃ怒られたばかりなんだよ〜? それなのに朝おじさんが知らない人の車に乗れるわけないよ。ほら、だからさ……今日はおじさん、もう疲れちゃったから帰るね?」

 

諭すような優しい声色。だが、その言葉の節々からは「これ以上踏み込んでくるな」という明確な拒絶と、一刻も早くこの場から逃げ出したいという焦りが透けて見えていた

 

ホシノはシロコの横を通り抜け、足早に教室の扉へと向かう

 

「待って……っ!」

 

「わっ!?」

 

拒絶される恐怖に耐えかねたシロコが、咄嗟にホシノの腕を強く引き寄せた。予期せぬ力で引き戻されたホシノの肩から、抱えていたカバンが滑り落ち、乾いた音を立てて床へ乱雑に弾け飛ぶ

 

「あ……ごめ……っ!」

 

我に返ったシロコが、慌ててそれを拾おうと膝をついた——その時だった

 

カバンの隙間から滑り出し、夕日を浴びて床に落ちていた一枚の白い紙。そこに印刷された無機質な黒い文字が、シロコの視界に飛び込んできた

 

【退学届】

 

その上部には、見慣れたホシノの文字で、ハッキリと名前が記入されていた

 

「っ……!!」

 

息が止まる。世界から音が消え去ったかのような衝撃

 

シロコは弾かれたように顔を上げると、逃げ出そうとしたホシノの手首を、逃がすまいと全身の力を込めて強く、強く握り締めた

 

「痛いよー、シロコちゃん……っ」

 

「先輩……これ……なに?」

 

地面から刺すような冷たい声。シロコは拾い上げたその一枚の紙を、震える手でホシノの目の前へ突きつけた

 

「何って……あはは、今はまだなんでもない書類だよ〜?」

 

ホシノは顔を引きつらせ、乾いた笑いを浮かべながら手首を抜こうとする

 

「なんでもないって……っ! 退学届が、なんでもないわけない!!」

 

夕闇の教室に、シロコの悲痛な叫びが突風のように響き渡った

 

「こ、怖いよー……シロコちゃん……」

 

手首に食い込むシロコの指の強さと、その瞳から溢れ出そうになっている涙の熱さに、ホシノはただ、惨めに目を逸らすことしかできなかった

 

ギシ、と静まり返った教室に手首の骨が軋む重い音が響く。シロコの指先は白い関節が浮き出るほど力み、全身を震わせていた

 

退学届と印字された一枚の白い紙が、夕日の残光を受けて赤く不気味に浮かび上がっている

 

「あっ……」

 

「え、どうしたんですか!?」

 

突然、ホシノが小さく声を漏らし、困惑したように視線を教室の入り口へと向けた

 

シロコが弾かれたようにそちらへ顔を巡らせると、廊下の向こうから驚いた様子のノノミと、息を切らした先生が歩み寄ってくるところだった。つい先ほど書類を持って教室を出て行ったはずの二人が、廊下にまで響き渡ったシロコの悲痛な叫び声を聞きつけ、焦って戻ってきたのだ

 

「っ……!」

 

シロコはハッと正気に戻り、とっさに右手で掴んでいた退学届を背後へ回し、手の中に固く丸めて押し隠した

 

「シロコちゃん、ホシノ先輩……今、すごい声が聞こえましたけど、一体何があったんですか?」

 

「うん、僕もびっくりしたよ。シロコがあんなに感情を露わにして叫ぶなんて、初めて聞いちゃった……」

 

二人は息を整えながら、倒れたカバンや、重苦しい空気に包まれた二人の顔を交互に見比べ、心底心配そうに声をかける

 

「それは……その、違くて……」

 

シロコは喉を詰まらせ、言葉を濁した。この紙の存在を、ホシノが学校を去ろうとしている事実を、今この場で他の二人にも明かすべきなのか。それともホシノの秘密を守るべきなのか。思考が激しく錯綜し、シロコの瞳が動揺に揺れる

 

すると、その緊迫した沈黙を破ったのは、拍子抜けするほど軽薄なホシノの声だった

 

「いや〜、ごめんねぇ二人とも? おじさんがうっかり転びそうになった拍子にさぁ、シロコちゃんの可愛いパンツが見えちゃっただけなんだよ〜」

 

「へ……?」

 

あまりにも脈絡のない、そして状況にそぐわないホシノの言葉に、ノノミも先生も一瞬思考がフリーズし、キョトンと目を丸くさせた

 

ホシノはさらにニヤニヤとした笑みを深め、顔を覗き込むように先生へと視線を向ける

 

「おやおや〜? 先生、もしかしてシロコちゃんのパンツに興味津々なの〜? うへぇ、変態先生だねぇ」

 

「なっ!? そ、そんなことあるわけないでしょ!? 冤罪だよ、冤罪!」

 

突然の濡れ衣に、先生は顔を真っ赤にして両手をブンブンと振って否定する。場の空気が一瞬だけ和らいだかのように見えた

 

だが、シロコは手の中で握り潰した紙の感触に胸を締め付けられながら、静かに、そして切実に懇願した

 

「……二人とも、お願い。今は……ホシノ先輩と二人だけで話させて」

 

「えっと……本当に変な話じゃないんだよね……?」

 

苦笑いを浮かべながら頭をかく先生。しかし、先生よりも少しだけ長くアビドスで共に過ごしてきたノノミだけは、目の前の二人が纏う不自然なピリついた気配を見逃さなかった

 

ノノミは小さく息を吐き出し、胸元に抱えていたクリアファイルを静かに抱き直すと、ゆっくりと首を横に振った

 

「ダメですよ」

 

その静かだが毅然とした声に、シロコは思わずハッとして顔を上げた。夕闇が差し込む教室の中で、ノノミの佇まいには普段のおっとりとした雰囲気とは異なる、強固な芯が通っていた

 

「ホシノ先輩のお話が冗談なのは当然として……そんな、今にも泣き出しそうな顔をしたシロコちゃんと、何かを隠しているホシノ先輩を放っておけるわけがありません」

 

「で、でも……これは、私とホシノ先輩の……二人の問題で……」

 

喉を詰まらせながら必死に反論しようとするシロコに対し、ノノミは柔らかい歩調で一歩進み出た。そして、微かに震えるシロコの肩を包み込むように、優しく、慈しむような笑みを向けた

 

「私たちは、五人で対策委員会なんです。1人で何でも抱え込んじゃダメですよ?」

 

「っ……で、でも……!」

 

「あはは、ごめんごめん」

 

シロコが言葉を繋ごうとした瞬間、ホシノはいつもの気のない、どこか他人事のような口調で会話に割って入った

 

倒れていたカバンを手早く拾い上げると、二人とすれ違うようにして足早に歩き始める

 

「大したことじゃなかったからさ、お茶を濁して誤魔化そうとしただけなんだよ〜」

 

「ホシノ先輩……?」

 

先生とノノミのすぐ横を通り抜ける瞬間、ホシノは振り返りもせず、肩をすくめて軽薄に言った

 

「シロコちゃんは本当に心配性なんだから〜」

 

教室の出口へたどり着き、ゆっくりとドアノブに手をかける。金属の冷たい感触が手に伝わる中で、ホシノはそこでようやく足を止め、肩越しにだけ振り返った

 

斜陽の影がその顔半分を覆い尽くしていたが、露わになった口元には、いつもの眩しいほど穏やかで、それでいてあまりにも無機質な笑みが浮かべられていた

 

「でもね……おじさんのことでそんなに必死になって心配してくれるのは……とっても嬉しいんだけどね?」

 

パタン

 

静かな音とともに木製の重い扉が閉じられ、ホシノの小さな背中が遮断された。廊下へと消えていく足音が、やけに速いテンポで遠ざかっていく

 

「っ……! ホシノ先輩、まだ話は終わって——」

 

強引にその場を去った背中を追いかけようと、シロコが床を強く蹴って疾走しかけたその時だった

 

「シロコちゃん」

 

制止するノノミの声が教室に響いた。それは先ほどまでの甘く優しいトーンとはまったく異なる、凛とした威厳と寂しさを帯びた響きだった

 

「……何があったのか、私には分かりません。ですが……今は、そっと静かにさせてあげませんか?」

 

「でも……! 先輩は、今にもいなくなっちゃうそうなんだよ!?」

 

シロコは手の中で固く握り潰された紙切れ——退学届の感触を噛み締めながら、胸を引き裂くような声を張り上げる

 

「さっきはああ言いましたけど……誰だって、言いたくないことの本音や秘密の1つや2つ、抱えているものです……いつかはきっと……話してくれることを信じましょう」

 

ノノミの深く澄んだ瞳が、シロコをまっすぐに見つめ返す。その眼差しに宿る深い信頼と、どこか全てを察しているかのような切ない光に、シロコは反論の言葉を完全に失った。握りしめた拳を震わせ、小さく唇を噛み締めながら、ただ下を向くことしかできなかった

 

 

廊下に出たホシノは、扉越しに聞こえてくる二人のやり取りに足を止め、壁に背をもたせかけたまま静かに佇んでいた

 

扉一枚を隔てた向こう側から、自分を本気で案じるシロコの必死な熱量と、ノノミの静かな制止の声が伝わってくる

 

(……ありがとね、シロコちゃん……ノノミちゃん)

 

背中に冷たいコンクリートの壁を感じながら、ホシノは深く息を吐き出し、ゆっくりと歩みを進めた。静まり返った薄暗い廊下に、己の足音だけがカツン、カツンと乾いて響く

 

(こんな駄目な私を……あんなに必死で心配してくれて……。そして、ノノミちゃんは……私の見苦しい秘密を隠そうとしてくれて……)

 

ノノミは、他のメンバーの誰よりもホシノの「裏側」を察している。白子を失ったあの日の惨劇も、病院のベッドで今も規則正しい心拍音だけを響かせているユメ先輩のことも

 

けれど、ヒナとの間で交わされたあまりにも冷酷な断絶も、これから自分が黒服という悪魔と交わそうとしている恐ろしい取引の全貌も、ノノミはきっと何一つ知らない

 

それでも彼女は、ホシノという先輩を根底から信じ、シロコの暴走を止めてくれたのだ

 

その温かな配慮と無条件の信頼は、ボロボロに崩れかけていたホシノの心にとって、涙が出るほど眩しく、そして胸を締め付けるほど切ない支えだった

 

(……でも)

 

薄暗い廊下の先を見据えるホシノのオッドアイが、ふっと鋭く、冷徹な光を帯びる

 

自分のために本気で怒り、声を荒らげてくれたシロコのためにも

 

自分の隠し事を尊重し、黙って背中を守ろうとしてくれたノノミのためにも

 

(だからこそ……ここで私が立ち止まるわけにはいかないんだ)

 

自分の未来も、命も、残された居場所も、すべてはどうだっていい

 

あの愛おしい後輩たちが笑顔でいられる日常を、アビドスという大切な我が家を守れるのなら、どんな泥をかぶろうと、どんな悪魔に魂を売ろうと構わない

 

己の内に潜む恐怖と迷いを完全に押し殺し、ホシノは迷いのない足取りで、薄闇の広がる校舎の奥へと消えていった

 

 

翌朝。まだ誰も登校していない静まり返った校舎の下駄箱前で、ホシノは一人、カカトを踏み潰した上履きに足を通そうとしていた

 

薄暗い昇降口には、早朝特有の冷たい砂の匂いと、静寂が満ちている

 

「……ホシノ先輩」

 

「わっ……!? び、びっくりした……。シロコちゃん、朝早そうだねぇ」

 

声のした方に弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にかカバンを肩にかけたシロコが静かに佇んでいた

普段ならまだ登校してくる生徒など一人もいない時間帯だ

 

ホシノは胸の動揺を隠すように、大袈裟に肩をすくめてみせた

 

「ん……普段なら、ホシノ先輩から買ってもらったあの自転車で、登校前に街を何周か乗り回してる時間だけどね」

 

「そっか……。うん、あの自転車、今でも大事に乗ってくれてるならおじさん嬉しいよ」

 

遠い目をして笑うホシノに対し、シロコはまっすぐな視線を逸らそうとしなかった

 

風に小さく揺れる銀色の髪の隙間から、その真摯な瞳がホシノのオッドアイを捕らえて離さない

 

「……少し、話があるんだけど……いい? 昨日みたいに、強引な真似はしないから」

 

静かだが、固い決意の籠もった声。昨日の騒動を経て、シロコの中で何かが整理されたのだと悟ったホシノは、拒絶の言葉を静かに飲み込んだ

 

「……うん、分かったよ。行こうか」

 

二人が向かったのは、澄み渡る朝空の下に広がる校舎の屋上だった

 

錆びついた重い扉を押し開けると、乾いた砂風が二人の制服を激しく押し羽ばたかせる。ホシノはまるで自分の定位置へ吸い寄せられるかのように流れるような足取りでフェンス際へ歩み寄ると、錆びた鉄条網に肘を預け、眼下に広がる広大な荒野と静まり返った校庭を眺めた

 

シロコはその半歩後ろに立ち、しばらく言葉を探すように無言で風を受け止めていた。やがて、静寂を破るようにぽつりと口を開く

 

「……昨日は、ごめん。感情的になって……一方的に責めるような真似をして」

 

「……ううん、気にしないで。シロコちゃんが……おじさんのこと、それだけ気にかけてくれてたからでしょ?」

 

ホシノは振り返らず、校庭の砂利に落ちる朝日の影を見つめたまま柔らかく返した。声のトーンをなるべく軽く、いつもの頼りない先輩の演技でコーティングしながら

 

「……それは……当たり前。私たちは、5人でアビドス対策委員会なんだから」

 

「うへぇ……そうだねぇ。みんな、本当に頼もしくなったよ」

 

「でも」

 

「……?」

 

急に言葉を区切ったシロコに、ホシノはふと首を傾げて視線を横へと滑らせた

 

シロコは胸元へゆっくりと手を伸ばすと、自分の首に愛おしそうに巻かれている、あの青いマフラーの布地を慈しむようにギュッと握り締めていた。ホシノが彼女を拾い上げたあの日に与え、今も彼女が片刻も離さず身につけている、二人を繋ぐ象徴のようなお守りだ

 

「対策委員会だから……だけじゃない。ホシノ先輩は……私にとって、誰よりも大事な人だから」

 

「……あはは、なんだか面と向かって言われると照れるねぇ……うへぇ」

 

思わず頬を掻きながら、ホシノは照れ隠しにはにかむような笑みを浮かべた。けれど、胸の奥が冷たく締め付けられる

 

自分のような壊れた存在が、この純粋な少女にとって「大切な人」であり続けてしまっているという残酷な事実に、自責の念が深く突き刺さる

 

「ねぇ、ホシノ先輩」

 

「なぁに? シロコちゃん」

 

シロコは握りしめていたマフラーからゆっくりと手を離すと、まっすぐ前を見つめた。その横顔には、もう昨夜のような迷いや焦燥は一切存在していなかった

 

「私は……先輩がどれだけ隠し事をしていても、何を抱え込んでいたとしても……ホシノ先輩のことを信じてる。……だから、もうあの紙のことについても、他の隠し事についても何も聞かない」

 

「っ……!」

 

その一言が放たれた瞬間、ホシノの瞳が衝撃に大きく見開かれた。

 

あれほど必死に退学届の理由を詰問し、自分を掴んで放さなかった少女が。自分の秘密を暴くことを諦め、ただ「信じる」という、あまりにも重く、美しく、そして切ない選択肢を選んだのだ

 

息が止まりそうになるほどの衝撃の中、ホシノはふぅ……と静かに息を吐き出し、込み上げてくる感情を必死で押し殺した

 

「……はは、私は本当に……良い後輩を持ったねぇ」

 

ホシノがぽつりと噛み分けるように呟いた、その時だった

 

キンコンカンコン……

 

澄み渡る朝の空気に、校内放送の甲高いチャイムの音が響き渡った

 

登校後にどれほどサボりや作業に没頭していても気づけるようにと、アヤネが朝の定例会議の開始時刻に合わせて律儀にセットしておいてくれたものだ

 

「ん……アヤネに遅刻して怒られる前に、行こう」

 

「ふふ、そうだねぇ。あと……セリカちゃんにも小言を言われちゃう前にね?」

 

二人は顔を見合わせると、どちらからともなく小さく笑い合い、軽やかな小走りで屋上をあとにした

 

階段を駆け下り、対策委員会の教室へと向かうシロコの背中を見つめながら、ホシノの心は静かに固まっていく

 

自分を疑わず、ただ純粋に信じて背中を預けてくれる後輩

 

その眩しすぎる信頼に応えるための唯一の方法が、自分という存在を投げ打ってでも彼女たちの未来を買い取ることなのだと

 

ホシノは自分の決意に一切の揺らぎがないことを確認しながら、愛おしい後輩のすぐ後ろを追って、教室の扉へと飛び込んでいった

 

♢

 

「本当に、生徒会は何やってたのよッ! あんな怪しい連中に、アビドスの大事な土地を全部渡しちゃうなんて……っ!」

 

朝の爽やかな光が窓から差し込む対策委員会の教室に、セリカの怒気を含んだ甲高い声が激しく響き渡った

 

バンと力任せに木製の机を叩く音が重なり、その強い衝撃で、卓上に置かれた浅い紙コップの水面が細かく波打つ

 

「すみません……っ。私が……もう少し早く気がついていれば、こんなことには……」

 

アヤネは手にしていたホログラム端末の画面を落としそうなほど強く握り締め、心底申し訳なさそうに肩をすくめて深く頭を下げた

 

端末が投射する青い光には、赤い警告色で塗りつぶされたアビドス管区の複雑な土地権利マップが虚しく浮かび上がっている

 

柴関ラーメンの大将が入院先で漏らした「店舗周辺の地権者が昔からアビドスのものではない」という何気ない一言

 

それを不審に思ったアヤネが過去の公的記録や金融データを片っ端から照合し、紐解いた結果はあまりにも残酷なものだった

 

現在、アビドス高等学校の校舎とわずかな敷地そのものを除き、かつて繁栄を極めた自治区内の広大な土地権利のほぼ100%が、民間軍事企業『カイザーコーポレーション』とその傘下の金融機関に差し押さえられ、所有権を移行されていたのだ

 

そして、その莫大な土地取引の契約書に並んでいたのは——他ならぬ、かつて存在した「アビドス生徒会」の決済印だった

 

「アヤネちゃんが謝ることじゃないよ〜。これは全部、君たちがこの学校に入学してくるより、ずっとずっと昔に起きたことなんだからさ」

 

ホシノはパイプ椅子の背もたれに深く体重を預け、どこか投げやりな、しかし包み込むような柔らかい声でアヤネを宥めた

 

「ですが、ホシノ先輩……何か、当時の生徒会に関する記録や、当時の状況を示す手掛かりなどは残っていないのでしょうか? 例えば契約を破棄できそうなものとか……」

 

ノノミが胸元でふんわりと手を組み、困ったように首を傾げながらホシノへ問いかける。その問いかけを聞いた瞬間、隣に座っていたセリカが「は?」とあからさまに不審そうな顔を向けた

 

「ちょっとノノミ先輩、なんでそこでホシノ先輩に聞くのよ? ホシノ先輩が昔の生徒会の事情なんて知るわけ——」

 

「あれ? セリカちゃん、言っていませんでしたっけ? ホシノ先輩、昔のアビドス生徒会の『副会長』だったんですよ?」

 

「……えっ!? 嘘でしょ、ホシノ先輩が生徒会の副会長ぉっ!?」

 

あまりの衝撃に、セリカは椅子から転げ落ちんばかりに勢いよく立ち上がり、目を丸くしてホシノとノノミを交互に指差しした

 

「あはは……ノノミちゃん、セリカちゃんのあの完璧な前振りの後にそれを明かすのは、なかなかドSな追い打ちだねぇ〜」

 

取り乱すセリカの反応に、ホシノは苦笑いを浮かべながらひらひらと手を振る

 

真相を暴露した当のノノミは、まったく悪びれる様子もなく「てへ♪」と可愛らしく首をかしげ、小さなピンク色の舌を出してみせた

 

「というか……何でノノミ先輩がそんな重要そうな事実を知ってるんですか? 私、初耳なんですけど……」

 

アヤネがメガネのブリッジを慌ただしく押し上げながら、半ば呆れたように尋ねる

 

「ん……私も初耳。ホシノ先輩から直接聞いたことは一度もなかった」

 

シロコもジト目になり、じーっとホシノの顔を凝視した

 

視線の集中砲火を浴びたホシノは、参ったなというように後頭部をポリポリとかく

 

「ま、まあまあ。肩書きがなんだっていいじゃないの……と言ってもさぁ、私が生徒会に引きずり込まれた時には、もう膨大な借金の返済のために土地の大部分は売り払われた後だったんだけどねぇ。書類もどこにあったのやら……書いてたのは借金返済関係ばかりだったし」

 

ホシノは視線を斜め上の天井へ泳がせ、遠い過去の記憶を手探りで手繰り寄せるように言葉を紡ぎ出した

 

その声には、先ほどまでの軽薄さとは裏腹の、かすかな哀愁と温もりが混ざり始める

 

「残っていたのは、片手で数えられる……いや、一桁にも満たない数の生徒とさ。無鉄砲で、無計画で、アビドスで一番のポンコツだった生徒会長と……それから、世界一性格がひねくれてて生意気だった、最悪な1年生の私。……それと」

 

一瞬だけ言葉を詰まらせ、ホシノの胸が小さく跳ねた。だが、すぐにいつもの笑みで塗りつぶす

 

「……もう一人、本当に本当に……とびきり可愛い女の子。たった3人しかいなかったんだから」

 

「何よそれ……どんな無茶苦茶な生徒会よ……」

 

呆れたように大きな溜息をつくセリカ。しかし、その表情にはかつて一人で学校を守ろうとしていた先輩たちへの、複雑な感情が滲んでいた

 

ホシノはどこか愛おしそうに目を細め、話を続ける

 

「まあ、生徒会なんて言っても名ばかりの、お馬鹿な3人が集まってただけだからねぇ〜。いやぁ、あの頃は本当にひどかったよ。無意味にあちこちの砂漠をうろつき回ったり、走り回ったり……本当に、バカみたいに何も知らなくてさ。……ただ、楽しかったんだよ」

 

過去を慈しむホシノの横顔。その眼差しに宿る深い孤独と郷愁を感じ取り、ノノミが静かに口を開く

 

「……ホシノ先輩」

 

「ん……ホシノ先輩は、何も悪くない」

 

ノノミの制止を静かに遮るように、シロコがすっと立ち上がった。

 

「昔の詳しい事情や、過去に何があったのかは私には分からない。でも……今こうして対策委員会があって、私たちがここにいられるのは、ホシノ先輩がどれだけ辛くても、この学校に残り続けてくれたおかげ」

 

「シロコちゃん……」

 

真摯なシロコの言葉に、ホシノは思わず息をのむ。しかし、シロコは急にいつもの無表情に戻ると、淡々と追撃を始めた

 

「それに……ホシノ先輩は料理のセンスが壊滅的で、昔作ってくれた謎のスープを食べた時、私、一度本気でトイレの中で臨死体験したし」

 

「シロコちゃん!?」

 

「えっ!? ちょっと待って何その命がけのエピソード!?」

 

唐突すぎる暴露に、セリカが素で叫び声をあげる。シロコは意に介さず、さらに淡々と続けた

 

「私とノノミの入学式にケーキを持ってくれた時も、なぜかローソク代わりに市販の爆竹を突き刺して点火して、この教室をケーキだらけにしたし」

 

「待ってください! 私それ初耳なんですけど!? もしかして私たちの入学式の時、ノノミ先輩がホシノ先輩に怒ってた理由って…!!」

 

普段は冷静なアヤネまでもが、目を見開いて立ち上がり、激しく突っ込みを入れる。教室のテンションが一気に混沌とし始めた

 

「あと、私が一人暮らしを始める時、ホシノ先輩の過保護さが異常なレベルで発覚した。毎日盗聴器がないかチェックしに来ようとしたり……」

 

「ええっ!? シロコ先輩とホシノ先輩って、昔一緒に暮らしてたんですか!?」

 

パニックになるセリカに、ノノミが「あら?」と嬉しそうに手を叩く。

 

「あれ? 言っていませんでしたっけ? シロコちゃんが一人暮らしを始める時のお部屋を紹介したのは、実は私なんですよ〜♪」

 

「情報量が! 情報量が多すぎて処理しきれないんだけど!?」

 

絶叫するセリカ、頭を抱えるアヤネ、どこか誇らしげなノノミ。混沌を極める生徒たちを見かねて、ずっと静かに見守っていた先生が思わず苦笑いを浮かべながら助け舟を出した

 

「さ、三人とも……シロコがすごく真面目な顔で話してるんだから、一旦落ち着いて聞いてあげよう?」

 

「あはは……先生の言う通りだよ〜。シロコちゃん、おじさんの変な過去をバタバタ暴露するのは勘弁してほしいなぁ……うへぇ」

 

汗をかきながら苦笑いするホシノ。だが、シロコは茶化すことなく、まっすぐにホシノのオッドアイを見つめ直した。その瞳には、揺るぎない信頼と絶対的な誇りが満ちていた

 

「……でも。いつだって私たちのことを一番に考えてくれて、どんな危険な時も、誰よりも前に立って守ってくれる。……そんなホシノ先輩のこと、私は心から尊敬してるから」

 

「う、うぇぇぇえええ!? ど、どうしたのシロコちゃんッ!? 急にそんな……まっすぐデレないでよぉ〜ッ!?」

 

不意打ちすぎるストレートな感謝と尊敬の言葉に、ホシノは耳まで真っ赤にして両手で顔を覆い、あからさまに動転してみせた

 

そのあまりにもホシノらしくない慌てぶりに、先ほどまで重苦しい空気に包まれていた教室の全員から、自然とどっと温かい笑顔がこぼれ落ちた

 

昼日が差し込む教室で、弾けるような笑い声が響き渡る

 

ホシノは照れ隠しに顔を伏せながらも、指の隙間から見えた後輩たちの眩しい笑顔を、その胸の奥深くにしっかりと刻み込んでいた

 

それからも、夕陽が傾きかけた教室で定例会議は続けられた

 

アヤネが端末の画面に次々と映し出す過去の契約文書と、膨れ上がっていく莫大な利子の計算表

 

カイザーコーポレーションが仕掛けた法外な利息と、まるで狙いすましたかのようにアビドスをじわじわと追い詰めていった酷薄な手口の全貌が明かされるたび、セリカの怒りは頂点に達していた

 

「本当に……本当に許せない! 弱みに付け込んで、こんな詐欺みたいなやり方でアビドスの土地を全部奪い取るなんて! あいつら、どこまで汚い真似をすれば気が済むのよッ!」

 

激昂したセリカが胸を上下させ、拳を強く握り締める。今にもカイザーの拠点へ殴り込みに行きそうなほどの気迫だった

 

「……セリカちゃん、落ち着いて」

 

ホシノはなだめるように、低く静かな声で言葉を投げかけた。その穏やかな響きには、暴走しがちな後輩の熱量を優しく受け止めるような深みがあった

 

「でもッ! こんなの……こんなの納得できるわけないじゃない!」

 

セリカは悔しそうに歯を食いしばり、強く握りしめた拳を震わせる

 

「……人間っていうのはね、切羽詰まると……どんなことでもやっちゃうものなんだよ」

 

ホシノは一度、深く小さく息を吸い込んだ。そして、いつものようにどこか困ったような、消え入るような哀しみを帯びた苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと言葉を繋ぐ

 

「それが……自分にとって『悪くなる』と頭では分かっていてもね?」

 

その言葉を自分の口から吐き出した瞬間、ホシノの胸の奥深くで、冷たく鋭い棘がぐさりと刺さった

 

(……どの面を下げて、私がこんな素晴らしい説教を垂れられるんだろうね)

 

カイザーのなりふり構わない強欲さを批判しながらも、今まさに自分自身が絶望に押し潰され、どれほど最悪な結末になると理解していながら黒服との恐ろしい取引に応じようとしている

 

シロコやノノミ、後輩たち全員に本当のことを隠し通し、自ら進んで暗く冷たい破滅の道へ足を踏み入れようとしているのは、他ならぬ自分なのだ

 

自嘲と激しい罪悪感で吐き気がしそうになるのを、ホシノは完璧に作り込まれた頼りない先輩の笑みの面の下に押し殺した

 

「あ……砂漠といえば」

 

教室の重苦しい空気を察したのか、それまで静かに耳を傾けていた先生が、思い出したかのようにポンと手を叩いて会話の輪に入ってきた

 

「前にゲヘナの風紀委員会と戦闘になったあと……ヒナから少し話を聞いたんだ。アビドスの奥深くにある放棄された荒野で、カイザーコーポレーションが密かに何か大きな企みを進めているらしい、って」

 

「っ……」

 

その名を聞いた瞬間、ホシノの肩が微かに跳ねた。オッドアイの瞳の奥で、かすかな驚きと動揺が走る

 

(……ヒナちゃん、なんでそんなことを……先生に教えてるの……?)

 

『二度とあなたのアビドスには干渉しない』——あの薄暗い病院の病室で、氷のように冷たく言い放たれた拒絶の言葉。二人の関係はあの日完全に終わり、二度と交わることはないはずだった

 

それなのに、なぜ彼女はアビドスの危機に直結する重要な情報を、わざわざ先生に託したのだろうか

 

(……ううん、考えても仕方ないか。もう、あの子と私には関係ないことなんだから……)

 

ホシノは即座に思考を打ち切り、ふっと視線を落とした

 

自分が小さな逡巡に囚われている間にも、対策委員会の会議は次の段階へと着実に、力強く進んでいく

 

「そうなると……求める答えは、アビドス砂漠の奥地にあるはずです」

 

「ん、そうだね。ここでじっとしていても解決しない。現地に行って直接確かめよう」

 

アヤネとシロコの言葉に、ノノミとセリカも力強く頷いた。対策委員会は即座に、アビドス砂漠深部への緊急調査を決行することとなったのだった

 

 

果てしなく広がる砂の海。陽炎がグラグラと揺らめくアビドスの深部砂漠は、文明の息吹が完全に途絶えた死の世界だった

 

「ここから先は線路も途切れてるし、電車も通ってないよ。歩いていくしかないねぇ」

 

照りつける灼熱の太陽の下、乾いた風が砂利を巻き上げて吹き抜ける荒野を、対策委員会の面々は歩を進める

 

(アビドス砂漠……懐かしいなぁ……。確かこの先のオアシス跡で、白子やユメ先輩と宝探ししたっけ……)

 

みんなの半歩後ろを歩きながら、ホシノは制服のポケットの中に忍ばせた小さなお守りにそっと指先で触れた

 

ザラついた布地の感触が、記憶の扉を優しく叩く

 

隊列の先頭をノノミとセリカが並んで歩き、その後ろをホシノとシロコが静かに追う。先生とアヤネは学校に残り、無線を通じてリアルタイムで広域スキャンと通信サポートを行ってくれていた

 

歩調を合わせるように隣を歩いていたシロコが、風に銀髪をなびかせながら、ふとホシノの横顔を盗み見るように視線を向けた

 

「……ホシノ先輩、この辺りには昔来たことあるの?」

 

「ん? うん、前に少しだけねぇ。その時は水着を着てさ、この灼熱の砂漠の中で大真面目に宝探しをしたんだよ」

 

「……ちょっと、本当に昔の生徒会は何やってるのよ。遊んでばかりじゃない……」

 

シロコとホシノの会話を聞きつけたセリカが、呆れ果てたように肩をすくめて振り返り、声をあげる

 

「ふふ、私はとっても楽しそうだなって思いますけれど♪」

 

ノノミは大きなパラソルをくるりと軽く回しながら、楽しそうに目を細めた

 

「でもさぁ、そのあと日焼けが本当に痛くてねぇ〜……。それでもいいなら、今度みんなで一緒に埋蔵金でも掘りに来ちゃう?」

 

「ぜっっったいに嫌よ! 日焼けなんて女の子にとって最大の天敵じゃない! 砂まみれになるのも真っ平ごめんよ!」

 

セリカが即座に絶叫すると、胸元に装着された通信機のスピーカーからザザッという小さなノイズと共に、アヤネの和やかな声が響いた

 

『あはは……確かに、日焼けはお手入れが大変ですから私も遠慮したいですね。でも……なんだか昔の青春みたいで素敵だと思います』

 

『うん、僕もいいと思うな。みんなで宝探しなんて、いかにもアビドスらしくて楽しそうだ』

 

先生も無線越しに会話に加わり、過酷な砂漠の行軍の中にどこか温かな空気が広がっていく

 

「そうそう、日焼けと言えばさぁ……昔はこの何もない砂漠で、盛大な『砂まつり』が行われていたらしいよ?」

 

『ええ!? こんな一面の荒野で、ですか!?』

 

アヤネの素で驚いた声に、ホシノは満足そうに「うへぇ」と笑った

 

「昔のアビドスは緑も豊かでさぁ、すごく住みやすい土地だったらしいからねぇ。湖の周りに屋台がたくさん並んでさ……夜には大きな花火もあがったらしいよ」

 

「わー! なにそれ! もし今でもやってたなら絶対に行きたいわね!」

 

セリカがパッと目を輝かせ、想像を膨らませるように空を見上げた

 

「私もお祭り、行きたいです♪ みんなで浴衣を着て屋台巡りをするの、憧れちゃいますね〜」

 

ノノミも嬉しそうに頷いた。そんな後輩たちの楽しそうなやり取りを見つめながら、ホシノはポツリと、心の奥深くにずっとしまっていた想いを漏らした

 

「……それでね? 実は……おじさんにも、小さなお願いというか、夢があるんだ」

 

「……夢?」

 

隣を歩いていたシロコが、不思議そうに首を傾げる

 

「うん。いつかはさ、私達みんなでアビドス砂まつりを復活させて……みんなで思いっきり楽しめたらいいなぁって。実はおじさん、そういう賑やかなお祭りとか行ったことがないからさ。ずっと、ちょっとした夢だったんだよねぇ」

 

「…………」

 

その言葉を聞いた瞬間、セリカはピタリと足を止め、キョトンとした丸い目でホシノの顔をじっと見つめ返した

 

「セリカちゃん? なにかなー、おじさんの顔に何か変なものでも付いてる?」

 

ホシノが自分の頬をペタペタと触ると、セリカはハッと正気に戻り、気まずそうに視線を泳がせた

 

「え? ああ……その……ううん! ただ……ホシノ先輩にも、そんな乙女チックで真面目な夢があるんだなーって、ちょっと意外だっただけよ」

 

「酷いなぁ!? おじさんだってピチピチの女子高生なんだからね!? そういう可愛らしい夢くらい持ってたっていいでしょ〜!?」

 

「ん……私も、セリカと同感。ホシノ先輩の口からそういう言葉が出るのは意外」

 

「はい……先輩はそういう賑やかな場所は『疲れるから嫌だ〜』ってサボりたがるイメージがありましたので……」

 

シロコとノノミが当たり前のように肯定し、さらりと追撃を加える

 

さらに通信機からは、

 

『たしかに……それにホシノ先輩、小柄ですから人混みに入ったらすぐ迷子になって、はぐれちゃいそうですよね』

 

アヤネの冷静すぎる分析が飛んできた

 

『わ、私はホシノの夢、すごく素敵だと思うよ! 応援したいな!』

 

空気が気まずくなったのを感じた先生が、焦ったようなフォローを入れるものの、すでに遅い

 

「みんなして酷いよ〜! おじさん傷ついちゃったから、今すぐ誰かおんぶして運んでくれないと一歩も動けませ〜ん!」

 

砂漠の真ん中で大袈裟に泣き真似をするホシノと、それに「もう、我儘言わないの!」とプンプン怒るセリカ

 

照りつける太陽の下、後輩たちの賑やかな笑い声がどこまでも高く広がる砂漠の空へと溶けていった

 

『あ……! 皆さん、前方をご覧ください! 巨大な建造物の反応を感知しました!』

 

砂漠の果てを目指してひたすら歩みを進めていたその時、無線機からアヤネの差し迫った声が響き渡った

 

「うへ? 巨大な施設? こんな荒野の真ん中に……?」

 

ホシノは日よけのために掲げていた手を下ろし、眩しそうに遠くの水平線へとオッドアイの瞳を向けた

 

揺らめく炎熱の陽炎の向こう側に、無機質で無骨な幾何学模様のシルエットが黒々と浮かび上がっている

 

『もしかしたら……ゲヘナのヒナ委員長が言っていた、カイザーが密かに進めている企みの拠点というのは、それのことかもしれません』

 

無線の奥で、先生が低く慎重な声で言葉を繋ぐ

 

『皆さん、相手が何を潜ませているか分かりません。決して油断せず、警戒を怠らないで進んでください』

 

「了解!」

 

セリカが引き締まった表情で短く応じ、全員が手に持った銃のセーフティを素早く外した。先ほどまでの和やかな空気は一瞬で霧散し、戦場特有のピリついた緊張感が一行の肌を刺す

 

砂丘の尾根を滑るように降り、巨大な建造物がはっきりと視界に収まる距離まで近づくと、ホシノたちは巨大な岩の陰へと身を潜めた

 

岩の隙間から伺えるのは、荒涼とした砂漠の景色にはあまりにも不釣り合いな、高出力のエネルギー防壁と巨大な監視タワーに囲まれた密塞要塞基地だった。そして、その重厚な鉄門の周辺を隙間なく埋め尽くしているのは、異様な数の全身武装した機械兵士たちだ

 

「すごい警備の数……」

 

「一体なんなのよ……これ。ただの工事現場や資材置き場なんかじゃないわよ……!」

 

目の前の尋常ではない光景に、ノノミとセリカが息をのんで唖然と見渡す

 

だが、その重装備の兵士たちの胸元に刻まれた冷徹な意匠を目にした瞬間、ホシノの眼光が冷たく光った。幾度となく悲惨な戦場をくぐり抜けてきた彼女にとって、その不気味なシルエットには見覚えがありすぎたのだ

 

「カイザーPMC……」

 

ポツリと、苦々しい言葉がホシノの唇から漏れ出す

 

かつてアビドスがまだ息をしていた頃、悪徳業者や地上げ屋を相手に暴れていた時期がある。本当に資金力のある黒幕は、ヘルメット団やただのゴロツキなどではなく、この民間軍事会社『カイザーPMC』に莫大な金を払い、重火器で固めた精鋭部隊をホシノの前に送り込んできていたのだ

 

集団戦のノウハウを持たない野良の悪党とは異なり、高度な戦術連携と最新の防具で固められた彼らは、流石のホシノにとっても多少なりとも骨が折れる面倒な相手だった

 

「PMC……つまり、民間軍事会社の兵士たちですね。企業が独自に所有するプライベートな軍隊です」

 

ノノミもその危険性を察しているのか、裏事情に疎いセリカやシロコへ向けて、トーンを落とした声で静かに解説を加える

 

——その時だった

 

ウーッ! ウーッ! ウーッ!

 

地響きのような不快な警報音が、砂漠の静寂を切り裂いて基地全体に甲高く鳴り渡った。どこかの監視カメラか高精度センサーに、ホシノたちの接近が捕捉されたのだ

 

「ちっ……バレたか!」

 

ホシノたちが即座に武器を構えて岩陰から飛び出すと同時に、基地の巨大な重油扉が不穏な駆動音を立てて開き、そこから圧倒的な数の自動小銃や大型シールドを装備したPMC兵士たちが雪崩のように押し寄せてきた

 

あっという間に圧倒的な数の暴力による半包囲の形が形成される

 

「うへぇ……この数は流石にちょっと、やっかいだねぇ」

 

「ん……下手したら、あの時のゲヘナ風紀委員会とやりあうより面倒」

 

シロコがアサルトライフルを無造作に構え直し、冷徹に敵の急所へ照準を合わせる。お互いに指一歩で引き金を引ける極限の緊張。空気が破裂しそうなほどの沈黙が、灼熱の砂漠を包み込んだ

 

——突如、機械兵士たちの列が左右へ割れ、基地の奥から一行に向かって一台の豪奢な黒塗りの高級リムジンが悠然と走ってきた

 

リムジンはホシノたちの目の前、PMC兵士たちの密密な保護に守られた完璧な安全圏で静かに停車する。後部座席のドアが重々しく開き、高級な生地で仕立てられたスーツに身を包んだ、肥満体型の男がゆったりと降り立ってきた

 

「これはこれは。ネズミのような侵入者と聞いて出てきてみれば……まさかアビドス高等学校の残党どもだったとはね」

 

男は心底見下したような笑みを浮かべ、ゆっくりとホシノへ視線を固定した

 

「おや、君は……ゲマトリアの連中が執着していた生徒会長……いや、副会長だったかな?」

 

「貴方は、一体誰ですか?」

 

ノノミが銃口を下げないまま、強い警戒を露わにして冷ややかに問い詰める。男は満足そうに自身の太い顎を撫でた

 

「ほう? この私を知らんとはな……無知とは羨ましい。私はカイザーコーポレーションの理事を務めている者だ」

 

『っ! ということは……こいつが』

 

無線越しに聞こえる先生の厳しい声を受け、シロコが瞳に鋭い殺意を宿らせて言い放つ

 

「……昔の生徒会を言葉巧みに騙して、アビドスの土地を全て搾取した張本人……」

 

その言葉を聞いた理事は、可笑しくてたまらないと言わんばかりに片手で顔を覆い、甲高い不快な嘲笑を響かせた

 

「ガハハ! ほう? この私に向かって、そんな口の利き方をするとは……。どうやら貴様ら青二才には、ここが誰の土地で、誰に喧嘩を売っているのかという現実を、身体で叩き込んでやらねばならんようだ」

 

「……何をする気?」

 

シロコが不穏な予感に眉をひそめる。理事は圧倒的な優越感に浸りながら、胸ポケットから専用端末を取り出すと、短いダイヤルを回して耳に当てた

 

「私だ。……例の件、進めろ」

 

それだけを冷酷に告げて通話を切る理事。次の瞬間—

 

『なっ……!? なんですかこれ……! どうして急に……っ! 来月以降のアビドスに対する貸付金利が……3000%も上昇していますッ!?』

 

「っ!?」

 

アヤネの悲鳴のような叫びが、通信機から激しく炸裂した。画面に並ぶ数字の異常さに、セリカとノノミが顔色を完全に失って激しく動揺する

 

劇的な動揺を見せる少女たちを、理事は心底愉悦に満ちた表情で眺めながら、ゆっくりと歩み寄ってきた

 

「ふふふ……これで分かったかね? 武力などという野蛮なものを使わずともだな……貴様らの首にかけられた金の縄をほんの少し引っ張るだけで、私には貴様らをいつでも圧殺できるのだよ」

 

「っ……」

 

セリカが悔しさに唇を噛み締め、爪が手のひらに食い込んで血が滲むほど強く拳を握りしめる。返す言葉など何一つ見つからない。これが資本と契約という名の、抗いようのない絶対的な暴力だった

 

圧倒的な優位を確信した理事は、追い打ちをかけるように薄汚い嘲笑を投げかける

 

「どうしても払えないというのであれば、どこへでも転校するなり好きにすればいい。何しろ、これは昔の無能な先代たちが残した負債だ。君たち現生徒が背負う義理などないのだからね?」

 

(……このままここに居ても、弄ばれて終わるだけだ)

 

ホシノの脳裏は、冷徹な計算で満たされていた

 

この男の手の中に、自分たちの喉元を締め上げるスイッチがある。ここは敵の本陣の真っただ中

 

ここで怒りに任せて暴動を起こし、兵士を撃ち倒したところで、借金という事実は消えず、ただアビドスが法的に完全に潰される口実を与えるだけに終わる

 

「……みんな、帰るよ。ここにいても、この男に弄ばれるだけだ」

 

ホシノは静かに銃を収め、後輩たちを庇うように背中を向けた

 

「ふん、流石は副生徒会長……賢明な判断だ。君は状況が見えているようだなぁ」

 

「行くよ、みんな。アヤネちゃん、撤退のルートをお願い」

 

ホシノが後輩たちの背中を軽く押し、引き返そうとしたその時——

 

「……ああ、そうだ。今思い出したよ」

 

理事は遠ざかろうとするホシノの華奢な背中を見つめながら、己の不快な重層の顎に手を当て、思い出したように声を張り上げた

 

「賢そうな君と一緒にいた……あの、まったくもって愚かで馬鹿な生徒会長。……そして、その馬鹿と君の周りを、アホみたいな顔で走り回っていたクソ犬の事をね」

 

「っ!!!!」

 

ピキリ、と

 

世界からすべての音が消え去った

 

ホシノの足が、完全に砂の上に縫い付けられた

 

振り返り、滑らかな動作で銃口を理事の眉間へ一直線に向けたホシノの顔から、一切の色彩と人間らしい感情が消え去っていた

 

文字通り一生懸命アビドスの為に動き、目覚めなくなってしまったユメを。そして、絶望の中にいた自分たちの間に希望を持たせてくれた、白子という大切な存在を。目の前の醜悪な男は「馬鹿」と「クソ犬」と吐き捨て、泥足で踏みにじったのだ

 

許さない。絶対に、生かしてはおかない

 

殺意。透き通るような純粋で狂暴な殺意が、ホシノの瞳の奥底でドロドロと渦を巻く。その凄まじい威圧感は、周囲に展開していたカイザーPMCの訓練された機械兵士たちすら息を呑み、思わず後退りさせるほど異質で恐ろしいものだった

 

しかし、当の理事は怯むどころか、薄汚い豚のような顔を醜く歪め、ニヤニヤと愉悦に浸りながらホシノを見つめていた

 

「ほう? 撃つかね? 副会長様。私を撃ち殺せば、貴様らアビドスは文字通り破滅だ。残された数千億の負債、差し押さえられる校舎、路頭に迷う愛おしい後輩ども……すべて貴様の手で引導を渡すことになるのだぞ?」

 

ホシノの指が、重いトリガーにゆっくりとかけられる。コンマ数ミリ引き込めば、この男の頭部は瞬時に吹き飛び、不快な嘲笑は二度と聞こえなくなる

 

(……この男を殺せば、私の気は済む。でも……その後はどうなる……?)

 

脳裏に、過酷な砂漠を共に歩いてきた後輩たちの姿が横切った

 

ここで自分が感情に任せて銃弾を放てば、カイザーコーポレーションは容赦なくアビドス全域へ超法規的な法的措置と軍力を行使するだろう

 

残された莫大な借金と過酷な現実は、すべて残されたシロコ、セリカ、ノノミ、アヤネの細い肩に重く圧しかかる

 

自分という盾を失った彼女たちは、今度こそ完全に潰されてしまうのだ

 

(ダメだ……。私の個人的な怒りで……みんなの未来を奪うわけにはいかない……ッ!)

 

トリガーにかかった指が、激しく震える

 

ホシノは引き裂かれそうな胸の痛みに耐えながら、チラリと視線を後ろへと走らせた

 

そこには、息を呑んで自分を心配そうに見つめるセリカやノノミ、そして焦燥に駆られたシロコの顔があった

 

後輩たちの真っ直ぐで透き通った瞳が、ホシノの狂暴な殺意を間一髪のところで繋ぎ止める

 

「……っ……」

 

静かに、そして重く。ホシノは手にしていた銃の銃口を地面へと落とした

 

その瞬間、張り詰めていた殺意の領域が瓦解する。理事は勝利を確信したように、腹を揺らして下品に笑い転げた

 

「クハハハハ! 素晴らしい! 流石は察しが良い! では……来月以降の金利3000%増額の返済の件、よろしく頼むよ? 大切なお客様?」

 

砂漠の死界に、男の醜悪な笑い声がいつまでも、いつまでも不快に響き渡っていた

 

♢

 

夕闇が刻一刻と迫り、橙色から群青色へと変わりゆく空の下、重苦しい沈黙に包まれた対策委員会の一行は、這うような足取りでアビドス高等学校へと帰還した

 

埃っぽい教室に集まった彼女たちは、机を囲み、これからの対応についての緊急会議を開始する。しかし、黒板に書き出された数値は、あまりにも残酷で絶望的だった

 

金利「3000%」

 

それは、日勤のアルバイトを増やすだの、日々の節約を徹底するだのといった、高校生らしい生ぬるい努力でどうにかなる領域を遥かに超え去っていた

 

アビドスという広大な敷地と校舎そのものを丸ごと売り払ったとしても到底足りない、カイザーによる文字通りの理不尽な暴論であり、死刑宣告に等しい

 

「どうすんのよこれ……! こんなの、最初から返させる気なんてサラサラないじゃない!」

 

セリカはバンッと強く机を叩き、悔し涙を滲ませながら叫んだ。震える肩が、彼女の抱く底知れない恐怖と焦りを物語っている

 

「落ち着いてください、セリカちゃん! 何か……何か法的な抜け道や、昔の生徒会時代の契約書に穴がないか、私がもう一度資料を徹底的に調べ直しますから……っ!」

 

作戦室のモニター前で、アヤネもまた血の気が引いた顔でキーボードを激しく叩きつける。焦りと絶望が感染症のように広がり、教室内の空気は息が詰まるほど限界まで追い詰められていった

 

後輩たちの顔には濃い影が落ち、傍らに立つ先生も険しい表情で腕を組み、深く思考の海に沈んでいる

 

(……やっぱり、私がどうにかしないといけないよね)

 

壁際に置かれた古びたパイプ椅子に深々と腰掛けていたホシノは、後輩たちの悲壮な姿を視界の端に収めながら、静かに立ち上がった

 

「ん……やっぱり、銀行を襲うしかない。カイザーの系列銀行なら、いくらでも非合法な裏資金が流れているはず」

 

真顔で恐ろしい提案を淡々とぶち上げるシロコ。その瞳には、本気で実行に移しかねない危険な光が宿っている。それに対し、ホシノはいつものように呆れたように「うへぇ」と頭を抱えてみせた。

 

「ダメだよー、シロコちゃん。そんなことしたら本当におじさんたちが悪者になっちゃうからねぇ。はいはい、みんな今日はもうクタクタでしょ? 頭が冷えないといいアイデアも浮かばないからさ、今日のところは一旦解散にしよう?」

 

「でも、ホシノ先輩……!」

 

「そうですよ、今諦めたら……!」

 

食い下がるセリカとシロコを、ホシノは包み込むような柔らかい手つきで宥め、半ば強引に今日の定例会議を終了させた

 

もはや有効な打つ手のない後輩たちは、悔しさに強く唇を噛み締めながら、重い足取りで一人、また一人と静まり返った廊下へ消え、帰路についていく

 

やがて、人っ子一人いなくなった静寂の校舎

 

ホシノは一人、夕陽がアビドス砂漠の果てを血のように真っ赤に染め上げていく屋上へと、吸い寄せられるように足を進めていた

 

ギィと錆びた音を立てるドアを押し開け、立ち入り禁止のフェンスに身を預ける。朱色から深い群青色へと移り変わるグラデーションの空を、あてもなく見上げていると——背後の扉が、静かに開く音がした

 

「ホシノ先輩」

 

「ホシノ」

 

振り返ると、そこにはとっくに帰宅したはずのノノミと、先生の姿があった

 

「おやぁ? ノノミちゃんと……なんだ、先生か〜」

 

ホシノは意図的に大袈裟に肩をすくめ、拍子抜けしたようなわざとらしい呆れ顔を作ってみせる

 

「『なんだ』とは酷いなぁ……僕だって心配して見に来たんだよ?」

 

困ったような苦笑いを浮かべる先生。ホシノはいつものニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべると、頭の後ろで両手を組み、くるりと背を向けた

 

「どうしたの〜二人揃ってこんな静かな屋上なんかに来ちゃって……もしかして、2人はそんな関係で今から感動の愛の告白〜? ノノミちゃんからかな? それとも先生からかなぁ? うへぇ、それじゃあおじさんは無粋な邪魔者みたいだから退散しようかねぇ〜」

 

おどけた軽い足取りで二人の隙間を通り抜けようとした、まさにその瞬間

 

「先輩」

 

ノノミの、普段の甘く柔らかいトーンからは想像もつかないほど低く、凛とした声がホシノの足をその場にピタリと止めさせた

 

「およ? どうしたのノノミちゃん、そんなに怖い声を出してさぁ……」

 

「ホシノ、これについて……話を聞かせてもらってもいいかな」

 

先生の落ち着いた、しかし逃げ場を許さない声に促され、ホシノは諦めたようにゆっくりと振り向いた

 

先生の指先に握られていたのは——数日前にシロコの手から取り戻したはずの、一枚の白い紙だった

 

【退 学 届】

 

そこに記された見慣れた自分の署名をしっかりと視界に捉えた瞬間、ホシノの顔から作り物の笑みが完璧に消え去った

 

「……あはは。まさかノノミちゃんにまで知られちゃうとはねぇ〜。……先生が言ったの?」

 

「ううん。僕より先にシロコの些細な違和感に気がついて、僕に相談してくれたのはノノミだよ」

 

先生が静かに首を横に振る。ノノミはいつもの穏やかな微笑みを完全に消し去り、激しい悲痛と強い拒絶が入り混じった瞳で、ホシノの顔をまっすぐに見つめ返していた

 

「……どういうことですか、先輩。どうして……こんなものを書いているんですか」

 

震える声で絞り出されるノノミの問いかけ。屋上を吹き抜ける冷たい夜風が、三人の髪と制服の裾を激しく揺らす

 

ホシノはしばらく深く目を閉じ、長い沈黙を守っていたが、やがて小さく、重い溜息を吐き出すと、制服のポケットに両手を突っ込んだ

 

「……そっか。まあ、ここじゃ立ち話もなんだしねぇ。……3人で少し、夜風でも浴びながら歩いて話そうか」

 

言葉少なに翻ったホシノの華奢な背中を追うように、先生とノノミは無言で静かに歩みを進めた。暗闇が完全に包み込み始めた静まり返る夕暮れの校舎に、三人の足音だけが、どこまでも虚しく、寂しく響き渡っていた

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