夕闇が静かに夜のしじまへと溶けていく時間帯
昼間の刺すような残暑が嘘のように急速に冷え込む校舎の廊下には、高い位置にある窓から差し込む蒼白い月光が長々と尾を引いていた
ホシノは何も語らず、ただ制服のポケットに両手を突っ込んだまま、規則的な足音をカツン、カツンと廊下に響かせて影の落ちた空間を進んでいく
「ホシノ先輩……どこに行くんですか?」
暗がりを進む華奢な背中に向けて、ノノミが堪えきれなくなったように困惑と微かな恐怖の混じった声を投げかけた
その手は不安を懸命に押し殺すように、胸元でぎゅっと固く握りしめられている
「……着いたよ」
ホシノは旧校舎の最奥、すでに使われなくなって久しい一角にある重厚な木の扉の前で不意に足を止めた
腰のキーホルダーから見覚えのない古い鍵を取り出し、南京錠の錆びついた鍵穴に差し込む。カチャリと冷たい金属音が寂しく響き、きしみながらゆっくりと扉が開け放たれた
「ここは……?」
先生が暗闇の広がる部屋へ一歩足を踏み入れ、不思議そうに首を傾げる
ノノミと先生にとって、そこはカビと埃の臭いが漂う、ごくありふれた空き教室の一つに過ぎないはずだった
しかし、窓から差し込む月明かりが白々と照らし出した部屋の中央には、あきらかに異質な、けれど温かな空間が作られていた
「……これは……犬の写真と……小さな、ドッグハウス……?」
部屋の奥、かつて教壇があったであろう場所に置かれていたのは、手作りの小さなピンク色の仏壇だった
その傍らのドッグハウスの中には、使い込まれて毛羽立ったクジラのぬいぐるみや、たくさんの愛らしい縫いぐるみがぎっしりと詰め込まれている
脇に飾られた小さな花瓶には枯れていない花が活けられ、丁寧に手入れされた小さな台座の上には、一枚の写真立てと線香立てが静かに置かれていた
「先輩……もしかして、このお仏壇は……」
先生は周囲を見渡し、何が起きていたのか掴みかねた表情で立ち尽くしている。だが、かつて生徒会の断片的な記憶をホシノから聞いたことのあるノノミは、ホシノの真意を悟り、悲痛な眼差しでその手作りの祭壇を見つめた
「うん……。生徒会、3人目の生徒の……お墓だよ」
「3人目……この子が……?」
先生が引き寄せられるように台座へ一歩歩み寄り、そこに飾られた小さな遺影を静かに覗き込む
そこに写っていたのは、月明かりのように澄んだ白銀の毛並みを持ち、吸い込まれるような美しい水色の瞳をキラキラと輝かせながら、砂漠の砂の上で無邪気に跳ね回る一匹の小さな子犬だった
「……ノノミちゃんはこの部屋に来るのは初めてだったよね。写真は……前に見せたことあったっけ?」
「……いえ。遠目で一度、先輩が大切そうに胸に抱えていらっしゃるのを拝見したくらいです……」
「えっと……すまないけれど、僕にも分かるように説明してもらえないかな……? 何だか僕だけ置いていかれている感がすごくて……」
「あはは、ごめんごめん!」
申し訳なさそうに頭を掻く先生に対し、ホシノは両手をパンと合わせておどけたように頭を下げた。重苦しく沈みそうな雰囲気を少しでも和らげようとする、彼女なりの痛々しい防衛本能だった
ホシノは棚の奥から小さなお線香の箱とライターを取り出し、二人に一本ずつ丁寧に手渡した
チッチッと小さな火花が散り、線香の先から細く白い煙が立ち上る。仄かな白檀の香りが静まり返った教室にゆっくりと広がっていく中、三人は静かに目を閉じ、かつてここにいた小さな命へ向けてそっと黙祷を捧げた
やがてパチッと目を開けたホシノは、ドッグハウスの脇から一冊の古びたアルバムを取り出すと、床に直接座り込んでそれを愛おしそうに広げた
「この子はね……私が生徒会に入ってから1週間くらい経った日に、ユメ先輩が砂漠の真ん中で拾ってきた子でさぁ。最初、私は『野生の子を軽々と拾ってきちゃダメだ』って、先輩をすごく怒ったんだけどねぇ……。でも、写真を見たら分かるでしょ? これだけ人懐っこい目で見つめられたらさ……おじさん、一瞬でコロッと堕ちちゃったんだよ」
アルバムのページには、セピア色に揺れるかけがえのない思い出の数々が収められていた。砂漠で眩しいほどの笑顔を見せるユメと、まだ幼さと尖った刺々しさが残るホシノ
その二人の足元で、ちぎれんばかりに尾を振る小さな白銀の子犬
「あはは、確かに……こんなに可愛い子に見つめられたら、どんな頑固な人でも堕ちちゃいそうだね」
先生もホシノの隣に屈み込み、アルバムを覗き込んで表情を緩める
「分かります♪ 特にこれ……ここのお風呂場でしょうか? タイルの上で冷たそうにスヤスヤ眠っているのとか、たまらなく可愛いです!」
ノノミも指で写真を優しくなぞりながら、愛おしそうに目を細めた
一瞬だけ、かつてこの教室に確実に存在していた温かな日常の残り香が、三人を優しく包み込む
「そうだ、この子の名前は……なんて言ったんだい?」
ふと思い出したように尋ねる先生。だが、ホシノはその問いにはすぐには答えず、アルバムの表面を撫でる手をふっと止めた
「……その前にね。先生に話しておきたいことがあるんだ」
「話……?」
ホシノは視線をアルバムから外し、窓の外に広がる深く暗い夜空へとゆっくりと向けた
「私さ……大人が大嫌いだったんだ。狡くて、嘘つきで、都合が悪くなると全部子どもに押し付けて逃げ出す……そんな奴ばかり見てきたからね。だから、先生が最初にアビドスに来た時も『なんだ、また頼りない大人がやってきたなー』って、全然信用してなかった」
「あ、私も最初は少しだけそう思っていました♪お世話したいなーって♪」
「二人とも酷いなぁ……まあ、否定はできないけど」
先生が困り顔で眉を下げて肩をすくめると、ホシノはクスクスと小さく喉を鳴らして笑った。だが、そのオッドアイの瞳には、どこか透き通った真っ直ぐな光が宿り始めていた
「でもね……シロコちゃんやノノミちゃん、アヤネちゃん、セリカちゃん……みんなの笑顔が、先生がこの学校に来てくれてから確実に増えたんだよ。それは、誰の目から見ても明らかだった」
「それは……僕の力というより、みんなが諦めずに目標に向かって努力しているからだよ」
「それもあるとは思いますけれど……先生には、誰もが思わず甘えたくなっちゃうような、不思議な力があると思うんですよね〜」
ノノミが隣で深く頷き、同意を示す
「え? そうなのかな……?」
突然の予想外の評価に、先生はキョトンとして自分の掌をまじまじと見つめた
「そうそう。頑固なおじさんすらほだされちゃうような、特別な魔法の力があるんだよ〜」
「そ、それは……先生としてすごく嬉しいことだけどさ……どうして急にそんな話をするんだい?」
気恥ずかしさに照れくさそうな苦笑いを浮かべる先生に対し、ホシノは柔らかく、けれどどこか胸が締め付けられるほど寂しげな笑みを返した
「それはね……先生なら、話してもいいかなって思えるくらい、信じられるようになったからだよ」
「ホシノ先輩……」
ノノミがはっと息をのみ、胸の前でキュッと手をもみほぐした
ホシノは手元にあるアルバムの最後の一頁へ、静かに視線を落とす。そこには、陽だまりのなかでスヤスヤと気持ちよさそうに目を閉じている、幼い子犬のアップの写真が収められていた
「……この子の名前は、白子(シロコ)。……『白い子』と書いて、白子ちゃん。1才の、女の子だったんだ」
「えっ……!?」
その名を聞いた瞬間、先生の思考が完全に凍りついた。隣にいたノノミも、まん丸く目を見開いたまま、石のように固まっている
「そう……今、私の大切な後輩としている、あのシロコちゃんと同じ名前。……あ! 言っておくけど、本当にただの奇跡的な偶然だからね? 運命の悪戯ってヤツさ」
「そ、そこは信じるけれど……。でも、どうしてその事実を……今までみんなに隠すようにしていたんだい?」
先生の声には、拭いきれない大きな困惑と、その奥に潜む切ない悲しみの気配が混ざり始めていた
「それは……さっきの先生のリアクションを見てもらえれば、一目瞭然じゃないかなぁ」
ホシノは古びたアルバムの表面を、愛おしむように掌で静かに撫でながら、どこか自嘲気味な薄い笑みを浮かべた
「僕の……反応?」
「うん。いくらこの白子ちゃんの方があとにやってきたシロコちゃんより先にアビドスに居たからってさ……あとからやってきたシロコちゃんが『自分の名前が、昔ここで死んじゃった子犬の名前でした』なんて知ったら、あの子はどんな顔をすると思う?」
「っ……!」
先生の瞳が大きく見開かれた。頭の中に渦巻いていた思考の霧が一瞬で晴れ渡り、ホシノがなぜこれほどまでにこの教室の存在を覆い隠し、たった一人で傷を抱え込んできたのか、その意図が痛いほど胸に刺さった
シロコは一見すると感情の起伏が乏しく、常に冷静沈着に見える。だがその実、誰よりも繊細で、自分が「アビドスに居ていい理由」や「居場所」を何より大切に探してきた少女だ。もし自分が、かつて先輩たちが可愛がり、そして守れなかった犬の「代用品」や「面影」として扱われているかもしれないなどと誤解してしまったら——その心の傷は計り知れない
「……だからね。シロコちゃんには絶対に……知られたくないんだよ」
ホシノは膝の上でアルバムを静かに閉じると、床に直接座り込んだまま、ゆっくりと二人の顔を見上げた
窓から差し込む蒼白い月光に照らされたそのオッドアイには、今までにないほど切実で、哀しい色が宿っていた
「それでね……二人をここに連れてきて、この場所を明かしたのには……一つだけ、お願いがあるんだ」
「お願い……ですか?」
ノノミが胸の前で小さく手を組み、心配そうに首を傾げる
「……アビドスの今回の件、カイザーの借金の件はさ、おじさんが何とかする。だから……二人には、私が居ない間に、アヤネちゃんやセリカちゃん、そして何よりシロコちゃんにここのことが絶対にバレないように……この部屋の片付けと掃除をお願いしたいんだ」
「……何とかって……ホシノ先輩、一体どうするつもりなんですか」
ノノミの声から、いつもの柔らかく穏やかなトーンが完全に消えていた
一歩前へ踏み出し、逃がさないと言わんばかりの強い眼差しでホシノを見つめる
「あはは、それは秘密……教えられないかなぁ。でもさ、絶対に安全だから……」
(ノノミちゃんたちが傷つかない方法としては、ね……)
心の中で、ホシノは冷たい嘘をひとつ付け足した。黒服との暗い取引。自らの身をゲマトリアへ捧げ、アビドスの莫大な負債をすべて帳消しにする悪魔の契約
自分が犠牲にさえなれば、対策委員会の後輩たちは救われる。それ以外の道など、最初から存在しないのだ
ノノミは到底納得がいかないというように眉をひそめ、唇を噛み締めた。ホシノの口から出た「安全」という言葉が、どこか空虚に響いたのを決して聞き逃さなかったのだ
「こんな身勝手なこと……先生とノノミちゃんにしか頼めないんだよ。……だから、お願い」
ホシノは床に座ったまま、深々と頭を下げた。華奢な肩が、冷たい床に向かって大きく折れ曲がる
「……ホシノ」
「ホシノ先輩……」
重苦しい沈黙が教室を支配する。窓の外で吹き荒ぶ夜風が、ガタガタと古びた窓枠を寂しげに揺らす音だけが響いていた
やがて、ノノミは静かに目をつむり、ひとつ大きな溜息を吐き出すと、膝をついてホシノと同じ目線までゆっくりと体を落とした
「……分かりました。ホシノ先輩が留守の間、白子ちゃんの部屋のことは私と先生に任せてください」
「うん。シロコたちには絶対に気づかれないよう、ここを綺麗に清掃して、大切な思い出を飾っておくよ」
先生も隣で屈み込み、包み込むような眼差しで静かに頷いた
「二人とも……ありがとう」
下げていた頭を上げ、ホシノの顔にパッと安堵の笑みが広がる。しかし、ノノミは「ですが……」と厳しいトーンを崩さずに言葉を続けた
「ホシノ先輩も、一人で無茶をせず……ちゃんと私たちのところに帰ってきてくださるのが、絶対の条件です」
「……ノノミちゃん」
ノノミの瞳は、どこまでも澄み渡り、真っ直ぐにホシノの奥底を見透かしていた
そのあまりにも眩しく強い光に耐えかねて、ホシノは一瞬だけ視線を泳がせ、横を向いてしまう。だが、すぐに作られた柔らかな笑みを張り直した
「……うん。約束だよ」
「はい♪ではあの退学届はこちらで処分しておきますね!」
ノノミが差し出した柔らかく温かい手を、ホシノはそっと握り返した
(——ごめんね、ノノミちゃん)
手のひらから伝わる後輩の体温。それが熱ければ熱いほど、ホシノの胸の奥には引き裂かれるような激痛が走った
最初から果たすつもりのない約束
自分を信じて疑わない後輩を騙し、嘘の約束を結んだ己の卑劣さに、心が冷たい泥の中に沈んでいくような感覚を覚える
「大丈夫だよ、ホシノ」
ホシノの顔が一瞬だけ引きつったのを、先生は見逃さなかった。包み込むような温かい声で、先生はホシノの肩にそっと手を置く
「どんなに過酷な状況でも、君一人で背負う必要はない。きっとみんなで手を取り合えば、乗り越えられるはずさ」
「……そうだねぇ。奇跡とか……そういう都合のいいものが起きてくれたら、最高なんだけどねぇ」
自嘲気味に呟くホシノに対し、ノノミはふふっと胸を張って頼もしく微笑んだ
「何言ってるんですか! 私たち対策委員会なら、奇跡なんて大層な言葉を使わなくたって、きっと何とかなりますよ♪」
「そう……だね」
ホシノは静かに一呼吸置く
「……さーてと! しんみりしたお話はこれでおしまい! 二人とも、今日はもう遅いし帰りなー? また明日ね!」
ホシノはパンと自分の膝を叩いて立ち上がると、追及を逃れるようにスタスタと素早い足取りで教室の出口へ向かった
「うん、また明日。学校でね」
「先輩! おやすみなさい!」
背中に投げかけられる、温かく愛おしい二人の声をしっかりと噛み締めるように受け止めながら、ホシノは一度も振り返ることなく、暗い廊下へと扉をくぐり抜けていった
それが、後輩たちに見せる最後の日常の姿になると知りながら
◇
「ん……気分転換には、やっぱりメンテナンスに限る」
月明かりだけが静かに差し込む自室で、シロコは一人、金属工具を握りしめながら愛用のロードバイクと静かに向き合っていた。
今日一日で起きた、まさに怒涛と呼ぶにふさわしい出来事の数々
カイザーコーポレーションの理事が冷酷に突きつけてきた「金利3000%」という、言葉を失うほどの絶望的な数字。血の気が引いた顔で悔しさに震えるセリカや、頭を抱えて必死に計算機を叩いていたアヤネの悲壮な姿
そして何より……あの理気に向けられた、普段は決して感情を荒らげないホシノ先輩の、尋常ではない怒りと殺意
さらには、あの理事が嘲笑交じりに口にした、「昔の馬鹿な生徒会長」と「クソ犬」という言葉——
じっと部屋の真ん中に座ってそれらの出来事を一つひとつ反芻していると、胸の奥底が不気味にざわつき、冷たいざらつきが広がってまったく落ち着かない。だからこそ、こうして精密機械を磨き、細かなパーツの噛み合わせを微調整して無心で手を動かす時間だけが、シロコにとって今の過酷な現実から逃れられる唯一の安らぎだった
ピンポーン
深夜と言っても差し支えない時間帯に、静まり返った部屋の中に甲高いインターホンの電子音が鳴り響いた
「ん……誰だろう。こんな時間に……」
パーツクリーナーを握ったまま、シロコは不思議そうに首を傾げた
普段、こんな夜遅くに自分の部屋を訪れる人間など存在するはずがない。もしノノミやセリカであれば、あらかじめアビドスのグループチャットに「今から行っていい?」と連絡を入れてくるはずだった
手元の工具を作業マットの上にそっと置き、警戒を怠らない静かな足取りで玄関へと向かう。金属製のドアの前に立ち、息を殺しながらゆっくりとドアスコープに目を近づけて外の様子を覗き込んだ
『おーい、シロコちゃーん。起きてる〜?』
「……ホシノ先輩?」
スコープの丸く歪んだ視界の向こう側に立っていたのは、いつもの呑気で柔らかい、どこか拍子抜けするような笑みを浮かべたホシノだった
その右手には、なにやら近所のコンビニかスーパーで買ってきたような、ズッシリと重そうな白いビニール袋が握られており、ドアスコープのカメラに向かってパタパタと楽しそうに手を振っていた
ガチャリとドアノブを回し、無機質な防犯チェーンを外して扉を開けるシロコ
「……こんな時間に、どうしたの?」
「うへぇ〜、久しぶりにさぁ、シロコちゃんの手料理が食べたくなっちゃってね〜。ほら!」
ホシノは悪びれる様子もなくニコニコと無邪気に笑いながら、手に提げていたパンパンに膨らんだレジ袋を胸の前で誇らしげに掲げてみせた
袋の隙間からは、新鮮なパック入りの卵や上質な厚切りベーコン、固形バターにケチャップ、そして色鮮やかな乾燥パセリが覗いている。まるで「今すぐ美味しいオムレツを作ってください」と全身で主張しているかのような、完璧な買い出しのラインナップだった
「……別に構わないけど。……本当にホシノ先輩って、オムレツが好きだよね」
シロコは呆れたようにジト目を向け、少しだけ眉をひそめてホシノを見つめた。そのまっすぐな視線に、ホシノは「えへへ」と気まずそうに片手を頭の後ろに回し、照れくさそうに笑ってみせる
「オムレツが好き……というよりはさ。シロコちゃんが作ってくれたオムレツが、大好きなんだよねぇ」
「……ん。……早く、入って」
不意に投げかけられた、あまりにもストレートで温かな言葉に、シロコの耳の先端がぽっと朱色に染まる。それを悟られないようにさっさと背中を向け、ホシノを室内へと促した
シロコの一人暮らしの部屋は、綺麗に整理整頓されてはいるものの、必要最低限の家具と愛用の自転車パーツ、メンテナンス工具類が整然と並ぶ、無骨でコンパクトな空間だった
ホシノは慣れた足取りで小さな流し台へ向かい、買い出しの袋を置くと、床に散らばっていた六角レンチやパーツクリーナーをそっと端に寄せ、二人で座れる小さなローテーブルの周りに手際よくスペースを確保した
「……もしかして、何か大事な作業の途中だった?」
「ん、気にしないで。自転車の定期メンテナンスをしてただけだから……。すぐ準備するから、そこに座って待ってて」
「はーい、お邪魔しま〜す」
そう言うと、シロコはクローゼットの引き出しから綺麗に折り畳まれたエプロンと三角巾を取り出した
頭に三角巾をきゅっと固く結び、エプロンの紐を背中でぎゅっと結ぶと、一人用の小さなコンロの前へ立ち、迷いのない流れるような動作で調理に取りかかる
ボウルに勢いよく卵を割り入れ、生クリームと塩コショウを少々。菜箸でリズミカルにカチャカチャとかき混ぜる軽快な音が、静かな室内に心地よく響き渡る。フライパンを熱し、バターを落とすと、ジュワッという香ばしい音と共にコクのある豊かな香りが一気に広がった
肘をテーブルにつき、頬杖をつきながらその背中をニヤニヤと楽しそうに見つめるホシノ。その熱い視線に耐えかねたように、シロコはフライパンを揺らしながら小さく肩をすくめた
「……は、恥ずかしいから、そんなにジロジロ見ないで」
「え〜? おじさん、純粋に感動してるんだよ? 昔、おじさんが作った謎の激辛スープを飲んでさぁ、シロコちゃんがお腹を壊して倒れそうになってた頃に比べたら、本当にテキパキしてて立派なお姉さんになったなぁ〜って」
「ん……その点、ホシノ先輩の壊滅的な料理音痴は、昔から何一つ変わってないけどね」
シロコは背中を向けたまま、トントンとまな板で細かく刻んだ厚切りベーコンをフライパンに投入し、冷ややかに口を挟む
「うへぇ、相変わらず辛辣だねぇ。それじゃあ名誉挽回のリベンジとして、今度またおじさんが真心を込めて手料理を作ってあげようか?」
「遠慮しておく。もし作ったら、私じゃなくてアヤネかセリカに食べさせてあげて。二人がどんな顔をするか見たい」
「二人を実験台にしようとしないで!? セリカちゃん達に大目玉喰らっちゃうよ〜」
そんな他愛もない軽口を叩き合いながらも、狭い部屋の中には香ばしく炒められたベーコンと、ふんわりと固まりつつある卵の芳醇な匂いが満ちていく
かつて荒涼とした砂漠で初めて出会い、言葉すら少なかった頃の二人からは想像もつかないほど、穏やかで温かい時間が流れていた
「……よっ」
「おおーっ!」
ホシノがジッと期待の眼差しで見守っているからか、シロコはほんの少しだけ張り切ってみせた
フライパンを巧みに手首の返しで煽ると、半熟の黄色い卵が美しく具材を包み込み、綺麗なラグビーボール状を描いて宙を舞う。くるりと一回転したオムレツは、完璧な着地でフライパンの真ん中に収まった
ホシノはオッドアイを輝かせ、パチパチと大袈裟に拍手を送る
「はい、お待たせ。出来上がり」
シロコの手によって、熱々の湯気が立ち上る美しい黄金色のオムレツが二つの皿に盛り付けられ、丁寧にケチャップで可愛らしい曲線が描かれてテーブルの上に差し出された
「「いただきます」」
二人は揃って両手を合わせると、静かにスプーンを伸ばす
シロコがこの部屋で一人暮らしを始めた当初は、こうしてまた夜遅くに二人でテーブルを囲み、同じ温かいご飯を食べる日なんて二度と来ないかもしれないと思っていた
ホシノはスプーンですくった熱々のオムレツを口に運び、目を細めてゆっくりと、噛み締めるように味わう。口いっぱいに広がるバターのコクと、ふんわりとした卵の優しさ、そしてベーコンの程よい塩気
(……美味しいな。本当に……すごく美味しい)
この味が、この温もりが、自分にとっての「大切な居場所」そのものだった
「ふぅ……ごちそうさまでした。やっぱりシロコちゃんのご飯は最高だねぇ。おじさん、生きてて良かったよ〜」
「ん……大袈裟」
面と向かってまっすぐに褒められ、シロコは照れくさそうに視線を泳がせながら小さくつぶやいた
食後、二人は少し狭い簡易キッチンへ肩を並べて立ち、流し台でお皿洗いを始める。ホシノが洗剤の白い泡で丁寧に皿を洗い、シロコが水で綺麗に洗い流して乾いた布巾で拭き取っていく
互いの吐息を感じられるほどの距離感の中で、皿と皿がぶつかるカチャカチャという静かな音だけが、深夜の部屋に心地よく響いていた
「別に、お皿洗い落としは私一人に任せてくれてもよかったのに」
洗剤の白い泡をスポンジで丁寧に泡立てるホシノの横で、シロコは濡れた皿を布巾で拭き取りながら、どこかもどかしそうに横目を向けた
「いやいや〜、おじさんは押しかけてきた押しかけ客だからね? 夜遅くに絶品オムレツを作ってくれたシェフのシロコちゃんに、これ以上の重労働をさせるわけにはいかないよ〜」
「……それ、普通は立場が逆なんじゃないの?押しかけた側が大人しく座ってるか、全部洗うのが筋だと思うけど」
「あはは、細かいことは気にしない気にしない! ほら、二人でやった方が圧倒的に早いしねぇ〜」
泡だらけの手を軽く広げて、楽しそうに喉を鳴らすホシノ。その横顔には、昼間の殺伐とした空気やカイザーPMC基地での重苦しい殺意など微塵も感じさせない、いつも通りの呑気で穏やかな笑顔が浮かんでいた
お皿洗いも無事に終わり、二人で濡れた手を洗面所のタオルで交互に拭き取る
狭い簡易キッチンから離れると、二人は特に理由を決めるでもなく、部屋の中央に敷かれた小さなラグへ、吸い寄せられるように並んで直接腰を下ろした
食後の心地よい満腹感と、深夜特有の静けさが静かに部屋を満たしていく
「あ、そうだ」
「?」
唐突に何かを思い出したように、ホシノがパンと手を叩いた
そのまま自分の膝を叩いて軽やかに立ち上がると、すたすたと窓辺へ向かい、しっかりと閉め切られていた厚手の遮光カーテンをシャッと音を立てて大きく開け放った。さらにアルミサッシの重い窓を滑らせるように押し開け、小さなベランダへと一歩踏み出す
初夏が間近に迫るアビドスの夜
昼間の過酷な砂漠の熱気をかすかに残した、ほんのりと生ぬるい夜風が、開放された窓から室内の重たい空気をごっそりと入れ替えるように勢いよく吹き込んできた。ホシノの柔らかいピンク色の長い髪が、夜風にさらさらと軽やかに揺れる
「シロコちゃん、ちょっと来てみなよ〜! 今夜は星空がすごく綺麗だよ!」
ベランダの手すりに両手を預け、身を乗り出すようにして上空を仰ぎ見るホシノ
その華奢な背中に引き寄せられるように、シロコもローテーブルから立ち上がり、裸足のままホシノのすぐ隣へと静かに並んだ
「ん……本当だ」
ふと視線を上げると、そこには息をのむほど広大な漆黒の夜空が広がっていた
街灯の明かりがほとんど存在しないアビドス自治区だからこそ、頭上を覆いかぶさるように流れる天の川と無数の星々が、まるで銀粉を一面に撒き散らしたかのように眩く瞬いている
漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ満月が、青白い静寂の光で二人のシルエットを鮮明に照らし出していた
言葉を失ったまま、二人はしばらくの間、ただ肩を並べてその美しい星空を見上げていた。夜風が通り抜けるササッという音と、遠くの無限の砂漠で砂がなびくかすかな風切り音だけが、耳に心地よく響く
「……ホシノ先輩」
長く深い沈黙を破ったのは、シロコの静かで、透き通った声だった
「なぁに? シロコちゃん」
ホシノは空を見上げたまま、いつもの軽い調子で応じる。だが、シロコはまっすぐ前方を見つめたまま、横顔の影を濃くして静かに言葉を重ねた
「……この前も言ったけど。私、昔の生徒会で何があったのかとか……詳しい事情はよく分からない。……けど。辛いことがあるなら……ちゃんと、私にも頼ってほしい」
「ど、どうしたの……急に? シロコちゃん……」
思わぬ直球の言葉に、ホシノはオッドアイを丸くしてシロコの顔を盗み見ようとした。しかし、シロコはゆっくりと首を横へ振り、隣に立つホシノの顔を正面からじっと見つめ返した
その深い水色の瞳は、夜空のどの星よりも鋭く、そしてどこまでも優しくホシノの眼光を捉えて離さない
「……昼間、カイザーの理事にあんな酷いことを言われたのに。ホシノ先輩、今夜はあまりにも『普通』すぎる。……何か、隠し事をしてるでしょ?」
「っ……」
「いつもそう。本当に嫌なことや、一人で全部抱え込もうとしてる時ほど……ホシノ先輩はそうやって、何事もなかったみたいに『普通のホシノ先輩』のフリを完璧にしようとする……この前の退学届の時より、ずっと深く悩んでる」
あまりにも正確すぎる洞察。長年、一番近くでホシノの背中を頼もしく、そして心配そうに追い続けてきたシロコだからこそ見抜ける、ホシノの歪んだ自己防衛の癖だった
図星を突かれたホシノの細い喉が、引きつるように小さく動く
オッドアイの奥に一瞬だけ揺らぎと動揺の色が走ったが、ホシノはすぐに作られた苦笑いを浮かべ、手をひらひらと振って誤まかそうとした
「あはは……何言ってるのさぁ、シロコちゃん。おじさんは本当に——」
本当に、なんともないよ。そう吐き捨てて嘘を塗り固めようとした、まさにその瞬間
「……深くは聞かない」
シロコがホシノの言葉を静かに、けれど強い意志を込めて遮った
「いま聞いたって、どうせ話してくれないから。……だから、私をもっと強くする。ホシノ先輩が諦めて一人で抱え込まなくてもいいくらい……絶対に強くなるから。だから……」
キュッと、小さな布擦れの音が静寂に響く
シロコのか細い指先が、ホシノの制服の袖口を、すがるように優しく、けれど絶対に解けないように強く引っ張っていた
「……どこにも、行かないでね……もう、寒いのも…寂しいのも嫌だから」
夜風がピタリと止まった
その切実な願い。自分を繋ぎ止めようとする後輩の指先の確かな温もりと、抑えきれない震えが、薄いパーカーの生地を通してホシノの皮膚へとダイレクトに伝わってくる
胸の奥が、力任せに握り潰されたかのように激しく痛んだ
(……ごめんね、シロコちゃん。ごめん……っ)
心の中で血を吐くような謝罪を何度も何度も繰り返しながら、ホシノは作られた完璧な「頼れる先輩」の笑みを崩さないまま、優しくシロコの頭の上に手をおいた
「……うん。どこにも行かないよ」
またしても重ねてしまった、決して果たされることのない残酷な嘘
「ん……約束」
シロコは少しだけ安心したように小さく息を吐くと、握りしめていた袖口を静かに離した。その無垢な信頼が、ホシノの罪悪感をどこまでも苛んでいく
耐えきれなくなったホシノは、おどけたように大袈裟に両肩をすくめてみせた
「さーて! しんみりタイムはこれでおしまい! 今夜はおじさん、シロコちゃんの匂いがたっぷりと染み込んだベッドで、一緒に添い寝しちゃおうかな〜!」
「……変態」
「じょ、冗談だってばー!? そんな冷たい目で見ないでよぉ〜!」
じとーっと半目で本気で軽蔑の視線を送ってくるシロコに、ホシノは冷や汗をかきながら苦笑いを浮かべた
その後、二人は交代で狭いユニットバスでお風呂を済ませた。ドライヤーの音の中、濡れた髪を乾かし、部屋の電気を消すと、シロコの少し小さなシングルベッドに二人で並んで滑り込む
狭いスペースでお互いの体温を感じながら、部屋の中に規則的な二人の寝息が重なり合い、やがて夜の深い闇の中へと溶け込んでいった
◇
ジリリリリリ! ジリリリリリ!
静寂を切り裂くように、電子的なアラーム音が高らかに鳴り響いた
「ん……ふぅ……」
あらかじめセットしていたスマホのアラーム機能によって、シロコはゆっくりと意識を覚醒させた。重い瞼を開け、寝ぼけ眼のままサイドテーブルへと手を伸ばし、画面の停止ボタンをタップする
「ふぁ……ホシノ先輩……起きて。朝だよ……」
大きなあくびをかみ殺しながら、シロコは薄布の掛かった隣の膨らみへと無造作に手を伸ばし、その肩を揺さぶろうとした
——ポスッ
手応えが、あまりにも軽すぎた
「……?」
手が触れた瞬間、掛け布団の膨らみが力なく萎み、そこにはただ丸められた予備のクッションと掛け布団が挟まれているだけだった
温もりすら、すでに綺麗に冷めきっている
シロコは瞬時に目を見開き、跳ね起きるようにベッドから飛び降りた
「……ホシノ先輩?」
小さな室内をキョロキョロと見渡す。キッチンにも、ベランダにも、脱衣所にも、ホシノの姿はどこにもない
嫌な予感が、冷たい冷気となって背筋を駆け上がる
ふと視線を走らせると、昨日パーツを横に退けた小さなローテーブルの上に、丁寧に折られた一枚の白いメモ用紙がポツンと残されていた
駆け寄り、震える手で紙を開く。そこには、丸みを帯びた見慣れたホシノの筆跡で、たった一言だけが記されていた
『ごめんね、シロコちゃん』
「っ……!!」
顔面から一気に血の気が引き、心臓が脈打つ音が耳元でうるさく跳ね上がった。全身を激しい動悸が襲う
(嘘……なんで……っ!?)
シロコは半狂乱になりながら、自分のポケットからスマホを取り出し、震える指でホシノの番号を狂ったようにタップして耳に押し当てた
プルルル……プルルル……。
電子的な呼び出し音が虚しく響く
その数秒後——ジリリリと、自分の頭元の枕のすぐ横から、聞き覚えのある着信音が小さく鳴り響いた
「……っ」
ゆっくりと振り返るシロコ
そこには、ホシノが肌身離さず持ち歩いていたはずのスマートフォンが、静かにぽつんと残されていた
着信で明るく発光する液晶画面
そこに映し出されていたロック画面の壁紙は——ピースサインでバッチリ決めるノノミとシロコ。そして、両脇で思いきり腕を引っ張られて目を見開いて驚愕するセリカとアヤネ。その真ん中で、後輩たちを両手に抱え込むようにして、この上なく幸せそうに目をつむって「にへら」と笑うホシノ。あのアビドス高等学校の入学式の写真だった
すべてを置いて、姿を消したのだ
シロコの手にあったスマホが、フローリングの床へカラリと乾いた音を立てて落ちていった