早朝のアビドス高等学校。朝日が薄く差し込む対策委員会の教室は、まるで時が止まってしまったかのように重苦しい静寂に包まれていた
その静けさを切り裂くように、アヤネの細く震える声がぽつりと響き渡る
「『アビドス対策委員会のみんなへ』——」
ことの始まりは、今朝の出来事だった
朝靄がまだ残る早朝、自室で目を覚ましたシロコが見つけたのは、あまりにも静まり返った室内と、小さなローテーブルの上にポツンと置かれた一枚の置き手紙
そしてその傍らには、ホシノが肌身離さず持っていたはずのスマートフォンだけでなく、彼女の象徴でもあった愛用のショットガンと、ずっしりと重厚なシールドが、脱ぎ捨てられた衣服のようにポツンと残されていた
大切な武器さえも置いて、先輩はどこへ行ってしまったのか——
シロコは顔から一気に血の気が引いていくのを感じながら、残されたスマホ、そしてずっしりと腕に響くホシノのショットガンと盾をかき抱くようにして部屋を飛び出した。微かな希望だけを胸にすがりつかせ、冷たい砂漠の風を切って一直線に疾走する
一方、今日の作業を少しでも進めようと誰よりも早く登校していたアヤネは、ホシノの机の上に置かれていた『対策委員会へ』と書かれた白い封筒と、新たに差し出されていた退学届を手に、青ざめた顔で小さく肩を震わせていた
「せ、先輩……っ。ホシノ先輩が……っ!」
駆け込んできたシロコの姿を見るや否や、アヤネの目からポロポロと大きな涙が溢れ出した。手にした便箋を握る手は、一目見てわかるほど激しく揺れている
シロコは荒い呼吸を整え、血が滲むほど固く唇を噛み締めた。溢れ出しそうな感情を必死で押し殺し、震えるアヤネの肩を優しく抱きしめると、静かに首を横に振った
「……とりあえず……みんなが来るまで待とう」
それだけで、シロコには何が起きたのかが痛いほど察せられた。昨日からずっと胸の奥で渦巻いていた最悪の予感が、ついに現実となって自分たちの目の前に突きつけられてしまったのだと
シロコはすぐさま端末のグループチャットを開き、セリカ、ノノミ、そして先生へ『大至急、学校に来てほしい』とだけ、短いメッセージを送信した
やがて、靴音を響かせて慌ただしい様子で教室へ駆け込んできた三人。肩を大きく上下させて息を切らせるセリカ、青ざめた表情で絶句するノノミ、そして痛痛しいほどの悲痛な眼差しを向ける先生
全員が揃ったところで、アヤネは目元の涙を強く拭い、机の上に残されていた便箋を両手で開いた
窓から差し込む斜陽のような朝の光が、埃の舞う殺風景な教室を冷たく照らし出している
アヤネは意を決し、震える息をゆっくりと吐き出しながら、ホシノが残した最後の言葉を読み上げ始めた
『まずは、こんな形でお別れをすることになっちゃったのを許して欲しい。おじさんには、こういう古いやり方が性に合っててさ……。
実は私、昔からずっとスカウトを受けてたんだ。カイザーPMCの傭兵として働く……その代わりに、アビドスが背負っている借金の大半を肩代わりしてもらう。
そういう話でね。おじさん、こう見えて結構能力を買われててさ〜。
この間の会議の時には、昔の生徒会のことで「人は追い込まれたら何でもする」なんて偉そうに言ったけど……どんな顔をしてあんなことを言ったんだろうって、今思うと本当に申し訳なく思ってるんだ。
でも、これで対策委員会も少しは楽になるはず。
これは全部、私が責任を取るべきこと。
私は……アビドスの最後の生徒会メンバーだから。
だから、みんなとはここでお別れ』
アヤネの声が途切れ、涙でしっとりと湿った一枚目の紙がカサリと音を立ててめくられた
セリカは拳を強く握り締め、爪が皮膚に食い込むほど力いっぱい唇を噛み切らんに耐えている。ノノミは胸元に両手を当て、溢れ出る涙を流しながら悲痛な眼差しで床の一点を見つめていた。シロコは微動だにせず、ただ壁にかけられた古い時計の規則的な針の音だけを静かに聞いている
誰も言葉を発しない。発することができなかった
アヤネは二枚目の便箋を開くと、涙で濡れた瞳を一度上げ、部屋の隅に立つ先生へとまっすぐに視線を向けた。先生もまた、胸を鋭い刃物で切り裂かれるような痛みを秘めながら、静かに、けれど固い意志を込めて無言で深く頷いた
アヤネは再び途切れそうな息を整え、続きを読み上げる
『先生へ。
昨日も言ったけど……私は本当に大人が……そして、アビドス対策委員会のみんな以外の人たちが大嫌いだった。
大人はすぐに嘘をつくし、人を騙すのに躊躇がないし……他の学園も、一人を除いて私たちの事情を知りながら助けにも来てくれない。
その一人も、結局おじさんのせいで、アビドスに二度と手を貸してくれなくなっちゃったんだけどね……。だからおじさんは、たった一人ででもみんなを守っていく。だから、他の人の手助けなんて必要がないって考えてたんだ。
でも……先生はどんどんみんなと打ち解けて、信頼し合える仲になっていった。
ノノミちゃんやアヤネちゃんなら優しいから、すぐに打ち解けてくれるだろうなって思ってたし。騙されやすいセリカちゃんなら……うん、時間はかかっても、きっと先生のことを認めるだろうなって思ってた
けど、シロコちゃんはおじさんと一緒に住んで、大人の怖さを十分に伝えたから……怪しい人か優しい人か、すぐに見分けがつくようになったはずなの。そんなシロコちゃんも、先生と話す時はすごく楽しそうにしてて……おじさん、少しヤキモチ妬いちゃったな。
だから……みんなが信じられるような先生なら、きっと大丈夫だと思うから。先生みたいな優しい大人と最後に出会えて、私は……
……いや、そういう照れくさいことはもういいよね?
シロコちゃん、ノノミちゃん、セリカちゃん、アヤネちゃん。
お願い。私たちの居場所……ユメ先輩が帰ってくるかもしれない学校を守って欲しい。
砂だらけのこんな場所だけど……私に残された、唯一意味のある場所だから。
……それから。
私がもしこの先、どこかで万が一、敵として相対することになったら……その時は。
私のヘイローを壊して。
よろしくね』
最後の一文を読み終えた瞬間、静まり返っていた教室に、アヤネの震える手元から紙が折れ曲がる『クシャ……』という小さく惨めな音が響いた
白く強張った指先に込められた力は、彼女のやり場のない激しい憤りと、胸を押し潰すような深い悲しみを何よりも雄弁に物語っていた
それと同時に、セリカが激しい衝動に突き動かされるように、勢いよく木製の机を叩きつけた
バァンッ!
対策委員会室中に、乾いた痛烈な打撃音が炸裂する
「なんなのよ……ッ! 切羽詰まったら人間なんでもしちゃうって、自分自身で分かってたくせに……ッ! こんな紙切れ一枚残して勝手にいなくなって……こんなので納得して受け入れられるわけないじゃないッ!!」
セリカの叫びは、怒りというよりも激しい哀叫に近かった。胸を大きく上下させ、目元に溜まる大粒の涙を必死に堪えながら、荒い息を吐き出す
「っ……」
その横で、シロコは表情を一切変えることなく、壁に立てかけていた愛用のライフルを無言で掴み取った
「シロコ! 待って!」
「私が行く……。あの、大バカな先輩を無理やりにでも連れ戻して……顔を叩いて、一言言わないと気が済まない」
先生の制止の声にも耳を貸さず、シロコは迷いのない足取りで踏み出し、そのまま一人で教室を飛び出そうとした
——その瞬間
グッと、強い力で右腕を掴み引き戻された
「……!?」
思わず足止めを食らったシロコが振り向くと、そこには無言でシロコの腕を強く握り締めるノノミの姿があった
「は、離して……ノノミ。……今回だけは許して。今行かないと、ホシノ先輩が二度と帰ってこなくなる」
掴まれた腕を強引に振り払おうとしたシロコに向かって、ノノミは今まで聞いたこともないような、悲痛な声で吐き捨てた
「私だって……私だって、許せませんッ!!!!」
「……っ!?」
静まり返っていた空間を切り裂くようなノノミの叫びに、シロコは思わず目を見開いた
ゆっくりとノノミの顔を見つめる
そこにいたのは、いつも穏やかで優しく、太陽のようにみんなを包み込んでくれていた先輩ではなかった。大粒の涙をボロボロと溢れさせ、唇を真っ赤になるほど強く噛み締め、悔しさと悲痛に顔をくしゃくしゃに歪ませたノノミの姿があった
「の、ノノミ先輩……?」
セリカも思わず息を呑み、呆然と固まってしまう
ノノミが声を荒らげることなど、これまで一度だってなかった。一年生の二人や先生はもちろんのこと、一番付き合いの長いシロコですら、こんな表情のノノミを見るのは生まれて初めてだった
「嘘つきの先輩に……私だって怒ってるんです!! 無茶はしないって……絶対にちゃんと私達の元に帰ってくるって……っ! 私と……私と手を握って、約束……したのにッ……! こんなのって……こんなのってないです……っ!!」
握りしめられたノノミの手が激しく震え、シロコの腕を掴む力が少しずつ、ゆっくりと抜けていく
その震えと冷たい涙に直接触れた瞬間、シロコの頭に上っていた灼熱の血が、急速に冷やされていくのが分かった
(……私、一人で暴走しようとしてた。……ノノミを悲しませて一人で飛び出そうとするなんて……ホシノ先輩がやったことと、全く一緒だ……)
シロコは深く息を吐き出し、掴まれていた腕をそっと下ろした
「……ごめん、ノノミ。……私がいけなかった。一人で行こうとして、ごめん」
「っ……い、いえ……私の方こそ、突然大声を出してしまって……すみません……」
ノノミは溢れる涙を制服の袖で何度も拭いながら、かろうじていつもの柔らかい声を取り戻そうと深呼吸をした
「そうだ、まずは落ち着いて状況を確認してから……」
先生が二人を庇うように立ち、次の指示を出そうとしたその瞬間——
ウーッ! ウーッ! ウーッ!
校舎全体を揺らすほどの、けたたましい非常アラームが響き渡った。今まで一度も聞いたことがない、緊急事態を知らせる不快で巨大な重低音だ
「た、大変です!! 街の方で……何者かが大規模な攻撃を開始しました!」
アヤネが端末の画面を操作しながら叫び、青ざめた顔でディスプレイをみんなに向けた。そこに映し出されていたのは、街の広場に設置された防災監視カメラの映像だった
凄まじい黒煙が立ち上り、あちこちで激しい爆発と炎が巻き起こっている
「みんな、ホシノのことも気になるけれど……今は市民の避難と防衛が最優先だ。行こう!」
「「「はい!」」」
先生の力強い一言で、後輩たちはそれぞれ武器をしっかりと構え直し、弾かれたように教室を飛び出していった
「先生!」
先生も慌てて後を追おうと扉に手をかけた瞬間、最後に部屋を出ようとしていたシロコに呼び止められた
「これ……持ってて。戦場では危ないかもしれないから」
シロコが差し出したのは、ホシノがシロコの部屋に残していった、あの重厚で大きな「アイアンサイド」——ホシノの盾だった
「これは……ホシノの盾……。僕が持っていていいのかい?」
「ん……。今の先生を守るのに、これが一番頼りになるから」
シロコが静かに、けれど強く頷くと、先生はそのずっしりとした金属の重みと冷たさを胸に受け止めた。そこには、ホシノが長年アビドスを守り続けてきた歴史と誇りが確かに宿っている気がした
「ありがとう、シロコ。大切に使うよ」
先生は盾をしっかりと腕に抱え、急ぎ足で砂漠の街へと駆け出していくノノミたちの後を追って、爆煙のあがる戦場へと飛び出していった
♢
アヤネたちが市街地にたどり着いた時、そこに広がっていたのは凄惨な光景だった
普段は静かで穏やかな街の至るところから黒煙が立ち上り、割れたウィンドウガラスの破片が日光を反射して鈍く光っている
焦げた匂いと硝煙の香りが重く立ち込め、風が吹くたびに黒い煤が舞い上がった
「……誰が、こんなことを」
シロコが銃を構え直しながら、感情の読み取れない声でポツリと呟いた。その瞳は鋭く先を見据えているようでいて、どこか焦点を結んでいない
「うう……っ」
「だ、大丈夫ですか!?」
「こちらにも人が倒れています!」
アヤネとノノミが、瓦礫の陰でうずくまっている住民の元へ駆け寄る。服は煤だらけになり、擦り傷や擦過傷を負っているものの、幸い命に別状のあるような大きな怪我はないようだ。二人は安堵の息を吐きながら、手際よく救護を進めた
「一体何があったんですか!? 誰に襲われたんですか!?」
「わ、分からない……! 突然、見たこともない兵士たちがなだれ込んできて、片っ端から砲撃を……っ」
先生が怯える住民から事情を聞き出そうとした、その時だった
「アビドス対策委員会を発見! こっちだ!!」
「囲め! 一人たりとも逃がすな!」
物陰から次々と姿を現したのは、カイザーPMCの武装兵たちだった。十数名の兵士が一斉に集まり、シロコたちに向かって銃口を向ける
「シロコ先輩! ノノミ先輩!」
セリカの鋭い声に、シロコとノノミは無言で頷いた。二人は弾かれたように踏み出し、向かってくる兵士たちへと突き進む
「ふっ……!!」
「ぐぁ!?」
シロコが先頭の兵士の懐に踏み込み、鋭いローキックで体勢を崩させると、そのまま迫り来るもう一人へ容赦なく撃ち抜いた
「どいてください!!」
「ぐぁぁ!?」
ノノミもまた、重厚なミニガンを振り回すようにして目前の敵を薙ぎ払う。けたたましい掃射音が響き渡り、火花が散った
「邪魔よッ!!」
ノノミの攻撃をかわして前に出ようとした兵士の隙を見逃さず、セリカが正確な射撃で胸元を撃ち抜く
「はぁぁ!!」
「っ!?」
「隙あり!!」
シロコが一人を倒した直後、その影に潜んでいた兵士が銃身を振り下ろし、襲いかかってきた。シロコは間一髪で銃身を受けて防ぐものの、押し返そうとした瞬間、死角である背後からもう一人の兵士が刃物を構えて突進してくる
(……あ)
反応が、ほんの一瞬遅れる。いつもなら身体が勝手に動くはずの回避行動が取れない
「何やってるのよッ!!」
セリカの叫び声と同時に、背後の兵士へ弾丸が命中し、衝撃で敵が吹き飛んだ。シロコはその隙を逃さず、目の前にいた最初の兵士の頭部へ強力な回し蹴りを叩き込み、ようやく沈黙させた
「ハァ……ハァ……っ。シロコちゃん! 集中してくだ……」
「貰ったぁ!!」
「ノノミ先輩!!」
シロコの遅れに焦りを感じたノノミが言葉をかけようとした瞬間、彼女自身の背後からも別の兵士が迫っていた。ノノミは背後の気配に全く気づいていない
「ぐあ!?」
「っ!!」
間一髪、先生の隣で後方支援を行っていたアヤネがハンドガンを連射し、兵士の足元を撃ち抜いて注意を逸らした。ノノミはハッと振り向き、ギリギリのところでミニガンの重い銃身を振るい、迫っていた兵士を力任せに吹き飛ばした
(セリカとアヤネは苦戦しながらも善戦している……だが、ノノミとシロコの動きがおかしい)
先生はシロコから預かったホシノの盾を抱えながら、前線の戦闘を冷徹に分析していた
確かに、襲いかかってくる兵士の数は多い。しかし、あのホシノによって鍛え上げられたアビドス対策委員会の実力をもってすれば、本来ならこの程度の小隊など造作もなく無力化できるはずなのだ
現に、後方と側面を固めるアヤネとセリカは、焦りを見せつつも的確に敵兵をなぎ倒して前進している
それに対し、4人の中で実力も学年も上であるはずのシロコとノノミの二人が、1年生の二人よりも明らかに肩で息をしており、アヤネの支援を何度も取り逃し、何度も死角を取られ、逆にセリカ達の足を引っ張る形になっていた
——理由なら、分かっていた
今朝読んだホシノの手紙。「どこにも行かない」という約束を破られたショック。「ヘイローを壊して」というあまりにも残酷な遺言。不快な雑音のように頭から離れない後悔と動揺が、二人の冴え渡るはずの戦術直感を根底から狂わせているのだ
「大丈夫か! シロコ、ノノミ!」
目視できる範囲の敵をなんとか殲滅したところで、先生は4人の中で最も肩を揺らし、疲弊しているシロコに駆け寄り声をかけた。
「っ……なんとか……。でも……っ」
シロコは乱れた息を整えようと胸に手を当てながら、道の先をぎろりと睨みつける
その視線の先——曲がり角の奥から、無数の靴音が砂利を蹴る不気味な足音が響いてきた
先ほど撃破したPMC部隊の、少なくとも倍以上の増援。重装甲に身を包んだ精鋭部隊が、黒い鉄の壁となって街道を隙間なく埋め尽くし、こちらに向かって怒涛の勢いで押し寄せてくるのが見えた
軍靴の底が容赦なく地面を踏み鳴らす重厚な足音が、アスファルトの底を微かに揺らしていく。黒煙と砂塵埃が立ち込める街道の先で、光を一切反射しないタクティカルギアの群れが、圧倒的な質量となって少女たちの視界を埋め尽くしていく
「き、キリがありません……っ! で、ですが……っ!」
ノノミが半歩前へ踏み出し、引きつった声で叫ぶ。その美しい額にはびっしりと冷や汗が浮かび、綺麗な髪が頬にくっついていた。それに続くように、シロコもまた前へと踏み出す
「……私達が、守らないと……っ!」
シロコとノノミが銃を握る手にぐっと力を込める。しかし、その肩には不自然で硬い力みが走り、爪が掌に食い込むほど握り締められたグリップは、見てわかるほど微かに震えていた
焦燥と恐怖、そして胸を切り苛むような『置いていかれた』という悲痛
それらの感情が二人の身体から本来のキレを奪い、かつてホシノによる地獄のような模擬戦で何度も体にしみ込ませたはずの『チームワーク』を、内側からボロボロと瓦解させていく
距離の取り方は不揃いで、互いの射撃線を無意識に遮ってしまうような拙い位置取りになってしまっていた
お互いが完全な射程距離に入った瞬間、押し寄せていた兵士たちの動きが、まるで機械の電源を切ったかのようにピタリと止まった
統制された冷酷な殺気が空間を圧迫する。その異様な沈黙の中、シロコとノノミは荒い息を吐きながら、敵の陣形を射抜くように必死で睨みつけた
「ふむ……学校まで直接出向いて交渉を終わらせようと思ったのだが……わざわざ出迎えてくれるとは感心だな、アビドス高校の諸君」
黒い兵士たちの部隊中央がゆっくりと割れ、高級な黒の仕立てスーツを纏ったカイザーPMCの理事が、靴音を低く響かせて堂々と歩み出てきた。その背後には厳重な護衛の重装兵が控え、彼はまるで自分の庭を散策するかのような不敵で歪な笑みを浮かべている
「き、企業が街を直接攻撃するなんて……っ! いくら貴方達がこの土地の所有権や債権を持っているとしても、やり過ぎです!! こんなの、ただの集団暴行です!」
ノノミが銃身を向けながら、かき消されそうな叫び声を上げる
アヤネもまた、震える指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら、必死に声を張り上げた
「それに……学校の敷地および周辺地区は、法律上まだアビドス高等学校の管轄下にあります! このような武装勢力による侵攻は明白な違法行為……連邦生徒会に直ちに通報しますよ!」
「この悪党め……っ! ホシノ先輩を……ッ!」
セリカが歯を砕かんばかりに食いしばり、小銃の照準を理事の胸元へ合わせる。そのセリカの叫びを塗りつぶすように、シロコが被せるように怒号を上げた
「ホシノ先輩を……返せッ!!」
いつもなら感情を殺し、冷徹に状況を観察するシロコの顔には、見たこともないほどの激しい憎しみと激情が泥のように渦巻いていた。瞳が真っ赤に血走り、目の前の敵を噛み殺さんばかりに牙を剥く
しかし、理事は眼前で突きつけられた数々の銃口など歯切れ悪く気にする様子もなく、むしろ可笑しそうに口元を歪めた
「揃いも揃って……一体なんのことだ? 連邦生徒会に通報だと? ……ハハハ、実に面白い」
理事は両手を大袈裟に広げ、心底から見下すような蔑みの視線を一同に注ぎながら言葉を続ける
「連邦生徒会だけではなく、他学園に助けを求めてはどうだ? 君たち……いや、生徒会が存在していた時代から、何度も救援の打診を外へ伝えてきたはずだろう?」
その低く冷ややかな声が、煙の立ち込める街並みに不気みに響き渡る
「その結果……どうだった? 膨らみ続ける借金の問題はおろか、誰か一人でも、他の学園が君たちに差し伸べられた手をとって助けに来てくれたか?」
「っ……!」
「そろそろお前達でも気がついているだろう。この広大なキヴォトスにおいて……衰退し、砂に埋もれゆくアビドス高校を助けに来る者など、最初からどこにもいないのだよ」
現実という冷酷な刃で容赦なく切り裂くような理事の言葉に、セリカもアヤネも言葉を詰まらせた。返すべき言葉が見つからず、突きつけていた銃口が、鉛のように重くなってじわじわと下がっていく
理事は臆する風もなく、靴音を低く鳴らしながらズカズカとシロコたちの目の前へと歩み寄ってきた
威圧的な彼の影が、立ちつくす彼女たちを黒く覆い隠す
「そして……アビドス最後の生徒会メンバーであり、副会長であった小鳥遊ホシノは正式に退学した。今やアビドスにおいて、生徒会という組織は完全に消滅したのだ」
理事はシロコの目の前で立ち止まると、感情の削ぎ落された冷酷な瞳で、小さく身を縮こまらせるシロコを見下ろした
「君達はもう、何者でもない」
その一言が、鋭い氷の棘となってシロコの胸を深く刺し穿つ
「っ……! 私達は……私達は生徒会が無くなったって、対策委員会がある……! ホシノ先輩の意思を受け継いだ私達がいる……っ!」
「そうです!! 私達がここにいる限り、アビドスには指一本触れさせません!!」
シロコとノノミが振り絞るような声を張り上げ、必死に自分たちの存在価値を証明しようとする
しかし——
「た、対策委員会は……公式な委員会としての認可を……受けていません……っ」
消え入るようなアヤネの震え声が、二人の叫びを残酷に遮った
「え……?」
シロコが弾かれたように首を曲げ、絶望に満ちた表情でアヤネを見つめる
前会長であるユメが入院し、実質的に生徒会としての機能が完全に停止していたアビドス高校
規約に基づいた正式な役員が存在しない以上、対策委員会という集まりは「生徒たちが自主的に名乗っているだけの非公式な集まり」に過ぎなかったのだ
行政上の証明など降りるはずもなく、彼女たちが「アビドスの代表」として交渉する権利すら、初めから存在していなかった
「ふはは、その通り! だが喜ぶといい! お前達はこれで晴れて、前の世代から縛られ続けてきた不条理な借金地獄から解放されるのだ!」
アヤネの絞り出すような絶望的な事実に対し、理事はあざ笑うように補足を加え、あたかも自分たちが慈悲深い救済者であるかのように両手を広げてみせた
「そんな……そんなことになったら……っ! 今までの私達の……ホシノ先輩の血の滲むような努力は……っ!」
ノノミが悔しさに全身を震わせ、涙声で噛みつく。だが、理事はわざとらしく首を傾げ、可笑しそうに自分の頭を掻いてみせた
「ほう? 本当にお前達だけで、何百年もかけてあの巨額の借金を返せると思っていたのかね? ……当の小鳥遊ホシノ自身が『絶対に不可能だ』と判断したからこそ……自らアビドスを捨て、退学届にサインをしたのだぞ?」
「っ!?」
「何故、小鳥遊ホシノすら見限った廃校寸前の学校を、残留したお前達がそこまで頑張るのか……私には到底理解できんな。何のために? 誰のためにかね?」
芝居がかった仕草で肩をすくめる理事。その言葉の端々に散りばめられた毒が、彼女たちの心を確実に蝕んでいく
「黙ってください……っ。ホシノ先輩は……学校を、私達を諦めてなんか居ません……っ!」
「……それ以上、ホシノ先輩を侮辱するなら……今度こそ撃つ……っ!」
ノノミとシロコが再び銃口を理事の額へと突きつける。しかし、その銃口は暴風に晒された細枝のように、痛々しく大きく震えていた
引き金にかけられた指には、相手を撃ち抜くための確信が宿っていない
「無理をするな。お前達自身が、一番よく分かっているのだろう?」
理事は眼前に突きつけられた銃身の先を指で優しく弾くような仕草を見せ、嘲笑を深めた
「自分達は……小鳥遊ホシノに見捨てられたのだと」
「っっっ……!!」
息が止まる。シロコとノノミの瞳から、サッと光が消え失せた
「私も伊達に大人をやっているわけではない。お前達のその惨めな表情……特に、今私に怯えた銃口を向けているお前達の目を見れば、全てお見通しだ。『みんなで頑張ろう』『一緒に乗り越えよう』等と甘い約束を交わし……そして、あっさりとそれを破られたのだろう?」
理事の一言一言が、まさに今朝、彼女たちの胸に突き刺さった最も深く重い傷口を容赦なく抉り出していく
砂嵐の音だけが空虚に響く大通りで、シロコとノノミの手からスルスルと力が抜け、重い銃口がズルズルと地面に向かって下がっていった。絶望の深淵に呑み込まれ、指先一つ動かせなくなる
「そんなはずないでしょッ!!」
その沈黙を破ったのは、裂けるようなセリカの叫び声だった
「私達は……っ! 二人がホシノ先輩と昔どんなことをしてたのか、どんな過去があったのかは知らない! でも、ホシノ先輩が二人を……私達を見捨てるわけないじゃない!!」
セリカは血が滲むほど拳を握り締め、涙で歪んだ目で理事を強く睨みつけた
「ほう? それでは何故……奴はお前達の前から黙って姿を消したのだ?」
理事は面白がるように首を傾げ、冷酷な薄笑いを浮かべる
「それはあんた達が……!」
「私達のスカウトを受ければ何かが変わるとでも思ったのかな?」
「っ……!」
「自分が抜ければ残されたアビドスがどうなるかなど、少し考えれば分かるはずだ。それを知りながら奴は去った。これを『裏切り』『見捨てた』と言わずして、一体何と言うのだね?」
「そんな……ホシノ先輩が……私達を……」
理事の毒を含んだ言葉が、ノノミの胸を完全に打ち砕いた。糸が切れた人形のように、ノノミはその場に膝から崩れ落ちる
シロコもまた、視線を地面に落としたまま一言も言い返せない。固く結んだ唇からは鮮血が滲み、影に覆われた瞳からはすべての光が完全に消え失せていた
「二人とも……た、立ってください……! 負けちゃダメです……っ!」
アヤネが泣き叫びながら二人の肩を何度も揺するが、二人からの反応はない。ただ力なく下を向いているだけだった
「ガーハッハッハ! 実に愉快だな! 私に生意気な口を叩いたガキ共の心が、内側からバリバリとへし折れる瞬間というのは……ッ!」
理事が腹を抱えて高笑いを響かせた、まさにその瞬間だった
ズズズ……ッ!
地鳴りのような重低音が周囲に響き渡り、理事たちのすぐ背後に位置するビルの屋上で、巨大な爆発と猛烈な黒煙が巻き起こった
「な、何事だ!?」
理事が唐突な事態に狼狽し、驚愕の声を上げて後ろを振り返ったまさにその瞬間、頭上からそれを遮るような、よく通る高らかな声が降り注いだ
「まったく……大人しく聞いていれば、何をクヨクヨとへこたれてるのよ! そんなもの、それすらも考えられないほど追い詰められたってだけのことじゃない!!」
「あ、あなた達は……!?」
アヤネが息を呑んで見上げた次の瞬間、一筋の鮮烈な赤い影が旋風のようにビルの屋上から飛び降り、激しい着地音と共に可憐かつ華麗に立ち上がった
渦巻く煙の中から現れたのは、漆黒と真紅のロングコートを夜風のように棚引かせた少女——便利屋68の自称社長、陸八魔アルだった
「私、こんな情けない人たちに背中を一度でも預けたつもりはないわよ?」
「う~ん、私の予想では眼鏡っ娘ちゃんかバイトちゃんがシクシク泣く場面だと思ってたんだけど~……まさかゆるふわちゃんとおおかみちゃんが泣きそうになってるなんてね~」
アルの背後に軽やかに着地したムツキが、小悪魔的な笑みを浮かべながらシロコとノノミへ視線を向ける
さらにその左右には、カヨコとハルカも武器を手慣れた手つきで構え、静かに後方を固めていた
「なんで……アルたちが……ここに……」
シロコが弱々しく首を持ち上げ、信じられないものを見るような瞳で呆然と呟く
「私達には、私達なりの仁義があるの。……借りを作ったままにするのは便利屋のプライドが許さない。それを返しに来ただけよ」
カヨコが呆れたような、けれどどこか温かみのある声で静かに言った
「うんうん。私達の……というより、アルちゃんのライバルをここまで勝手に追い詰めた罪は重いよ~? ……だからもう、これは……ぶっ殺すしかないよね!」
ムツキの容赦のない言葉にハルカが深々と頷き、目の奥に激しい殺気を漲らせながらショットガンの遊底をガチャリと力強く引いた
「何をすればいいのか分からない……この狸親父が言うように、何故小鳥遊ホシノが去ったのか本当の理由を知りたい……」
「た、たぬきだと!?」
アルがゆっくりと足音を響かせて歩みを進め、膝をつき打ちひしがれるシロコたちの前に堂々と仁王立ちする
「この先に、どんな絶望的な辛い話が待っているのかも分からない……!」
アルが熱っぽく語りかける最中、理事たちの背後の上空から、バリバリと重苦しく空気を切り裂く激しいローター音が急速に近づいてくる
カイザーPMCの大型攻撃ヘリが、圧倒的な火力支援のために飛来したのだ
「フハハ! 来たか!」
勝利を確信して勝ち誇る理事の声を完全に打ち消すように、アルが喉が千切れんばかりの叫びを上げる
「だから……なんなのよッ!!!!」
アルは叫ぶと同時に、愛用の大型スナイパーライフルを片手だけで一瞬のうちに構え、一切の迷いも躊躇もなく引き金を弾いた
放たれた大口径の狙撃弾は、激しく旋回しようとしていた大型ヘリのメインローター結合部を、正確無比に撃ち抜いた
キーーーンッ! ガガガガッ!
「ぬぁぁ!?」
耳を刺す金属の悲鳴と共に瞬時に制御を失ったヘリが、尾翼を撒き散らしながら大通りへと一直線に急降下し、理事たちの目の前で凄まじい大爆発を起こして燃え上がった
激しく巻き起こる熱い爆風が、アルの着ているコートを猛烈に翻す
「そんなもの……仲間を力ずくで連れ戻してから考えなさいよッ!! このままじゃあなた達は、仲間も、大切な居場所も全部失うのよ!? それで納得できるわけ!?」
「……アル……」
「それなのに! 自分達を苦しめてきた敵の言葉をあっさり信じて、一緒に戦ってきた仲間の思いを信じられない……! あなた達は、そんな惨めで情けない集団だったの!?」
アルの雷鳴のような怒声が、絶望に沈んでいたシロコとノノミの頭蓋を直接叩き割るように強く響き渡った
「……ッ!」
その魂を揺さぶる言葉が、二人の胸の奥底で消えかけていた炎に、一気に油を注いだ
シロコの瞳に、獣のような生々しく鋭い光が解き放たれる。ノノミもまた、袖で涙を強く拭いながら、ミニガンを握り直してゆっくりと立ち上がった。自分たちが今何をすべきなのか、その迷いが綺麗なまでに霧散していく
「くそ……便利屋め……っ! 貴様ら、飼い犬の分際でよくも……ッ!」
爆煙の瓦礫から這い出でてきた理事が、顔を泥と煤だらけにして激高の叫びを上げる
「うるさいわね。私はこの子たちの心の強さに惹かれ、利用させてもらった。ただそれだけよ。自称・ビジネスパートナーに対する義理くらい、果たさせてもらうわ!」
アルは鼻で嘲笑い、吐き捨てるように言った
「くそがぁぁッ! この期に及んで無駄な抵抗を……ッ! 私に刃向かったことを、その身をもって後悔させてやる!!」
理事が半ば狂気的にスマートフォンを操作すると、ズズズ……と地鳴りのような重低音と共に背後の壊れた道路へ、巨大な鋼鉄の塊が上空から凄まじい重量感で姿を現した
厚みのある重装甲に覆われた四足歩行の超巨大兵器。全身に多連装ロケットランチャーと高出力レーザー砲を装填したその怪物が、赤いセンサーを不気に発光させながら、耳を刺すような駆動音と共に咆哮を上げる
「見たか! 我々の科学技術の粋を集めて建造された最新鋭・自律殺戮兵器……『ゴリアテ』だ!!」
理事が狂気じみた高笑いを上げながら、誇らしげに両手を天へと突き出す
地響きと共に現れた巨大な鉄の塊が、周囲に立ち並ぶ崩落しかけたビル群を見下ろすようにその巨躯をそびえ立たせていた
圧迫感のある機体から放たれる熱風と不快な重低音の駆動音が、周囲の空気を重く震わせる
「うわ……強そうな見た目の割に、名前がすっごくダサいね〜」
その圧巻の威容を前にしても、ムツキは一切怯む様子もなく、口元を手で覆いながらケラケラと軽快に笑い飛ばした
「ふふ、同感だわ」
アルは口元に不敵な笑みを浮かべつつ、バサリと赤いロングコートの裾を揺らして一歩前へ踏み出した。そして、勝ち誇る理事へ向けて冷徹な視線と声を突きつける
「それと……そこの狸親父。アビドスを助ける者などこのキヴォトスに誰一人としていないと言ったこと……訂正してもらうわ」
「なっ……! 誰が狸親父だ!! 私の言葉に訂正する内容など何一つとして存在しないわ!! 貴様ら便利屋のような有象無象の無法者など、助けの手を差し伸べたうちにも入らんわッ!!」
理事が額に激しい青筋を立てて怒号を叩きつけるが、アルはその醜悪な取り乱し様を鼻で笑い飛ばした
「そう? 私達が有象無象なら……この『臨時の新人』ならどうかしら? 普段なら絶対に顔すら合わせたくない相手なのだけど……今日ばかりは特別よ!」
「し、新人だと……!?」
思いもよらないアルの言葉に、理事が不快そうに眉をひそめる
「……敵として立ち塞がれるならこれ以上なく恐ろしいけど、味方としてそこにいてくれるなら……これほど心強い存在もないよね」
カヨコが呆れ混じりの溜息をつきつつも、どこか諦めたような、けれど絶対的な信頼を込めた呟きを漏らす
「そーそー! ホント、今日だけは奇跡的な特別大サービスだよ〜?」
「は、はいっ! 臨時の……臨時ですが、素晴らしいお方ですっ!」
ムツキが楽しそうに小悪魔的な笑みを浮かべ、ハルカまでもが胸の前で両拳を固めて力強く頷いてみせた
「な、何言ってるのよ、便利屋……? 新人って、一体……」
セリカが困惑を隠せない様子で銃を構え直した、まさにその瞬間だった
「……誰がいつ、貴方たちの部下になったと言うのかしら」
煙の立ち込める暗い路地裏の奥から、深く、そしてあまりにも冷徹な低い声が響き渡った
その声には、周囲の爆炎と喧騒を一瞬で静まり返らせるほどの絶対的な威圧感が宿っている
かつてアビドスの地で一度だけ耳にしたことのあるその声に、シロコたちの身体が咄嗟に強張り、息を呑む
「……ッ!?」
「まったく……そういう程度の低い冗談は、マコトだけにしてほしいものね」
コツ……コツ……と、瓦礫を踏みしめる重厚な靴音が静寂を切り裂いて近づいてくる
散乱する砂煙を割り、薄暗い影の中からゆっくりと姿を現したのは——巨大な漆黒の翼を背に大きく広げ、紫煙のような苛烈なオーラを全身に纏った、ゲヘナ学園・風紀委員長、空崎ヒナだった
「き、貴様は……っ!? なぜゲヘナの風紀委員長がこんな場所に……!?」
理事が顔を真っ青に染め上げ、信じられないものを見たかのように絶叫した。それと同じく、対策委員会の面々もこの場には居ないはずのヒナが自分達の助っ人に来てくれたという信じがたい事実を、いまだ飲み込めないと言った表情で見つめていた
大威徳明王の如き圧倒的な存在感を放ちながら、ヒナは氷のように冷たい瞳で理事と巨大兵器ゴリアテを射抜き、無言で愛用機関銃『終幕:デストロイヤー』の重い鉄の銃身を引き抜くのだった
♢
「っ……く……っ」
頭上からパラパラと静かに降り注ぐ微小な砂粒と、遠くで地響きのように腹の底を揺らす激しい爆発音によって、ホシノは途切れていた意識をゆっくりと取り戻した
重く開かない瞼を気力だけで無理やり持ち上げると、視界にぼんやりと飛び込んできたのは、無機質で冷たく荒々しいコンクリートの天井だった
身を起こそうと身体に力を込めてみるが、両腕は背後でガチリと固く拘束されており、指先ひとつ自由に動かすことができない
手首を力任せに縛り上げているのは、通常の縄や手錠などではなく、薄暗い室内で怪しくピンク色に明滅する特殊な光の粒子——ヘイローを強制的に中和し、生徒の驚異的な身体能力とシールドを極限まで抑え込むカイザーPMC製の拘束ギアだった
(……私……なんで、こんな所に……)
割れるような激しい頭痛に苛まれながら、ホシノは重く霞む思考を必死に巡らせる
すべてを自分の手で終わらせるため、アビドスのみんなと永遠の別れを告げる直前のことだ。最後にどうしてもシロコの手料理が食べたくなり、夜遅くであったにもかかわらずシロコの家に突撃し、シロコは嫌な顔ひとつせず、いつもの無口さで静かに暖かい食事を作ってくれたのだった
その素朴な味と温もりを胸の奥深くに刻み込み、心から満足したホシノは、シロコが心地よい寝息を立てて眠った後、一人静かに黒服の待つカイザーPMCの秘密拠点へと足を進めた
しかし——この冷酷な実験室のような施設に到着した後、黒服の手によって大型スクリーンに映し出された映像は、あまりにも残酷で目を覆いたくなるものだった
画面に映っていたのは、カイザーPMCの武装兵たちによって無惨に踏みにじられ、荒らされていくアビドスの住み慣れた街並み
そして、理事の放った冷酷な言葉の刃によって心を木っ端微塵に打ち砕かれ、膝から崩れ落ちていくノノミやシロコたちの悲痛な姿だった
最初から、すべては仕組まれた地獄の罠だったのだ
黒服は神秘の最高峰である『小鳥遊ホシノ』という存在そのものを手に入れ、自らの実験体とするため。カイザーPMCは生徒会という盾を失ったアビドスの広大な土地と膨大な利権を、完全に乗っ取るため
二つの邪悪な企みが裏で手を組み、ホシノを誘い出すための完璧な罠を張り巡らせていた。そして自分は、みんなを守りたいという一心から、そのあまりにも出来過ぎた罠へと自ら愚直に飛び込んでしまったのだ
(……そうだった。私……また、大人の狡猾な嘘に騙されたんだ)
暗闇の中、ホシノの瞳から完全に生気の光が消え去っていく
白子という存在を失ってしまったあの日と同じ——深く、果てのない絶望の渦が、再び彼女の心を冷たく、逃げ場のない漆黒の中へと呑み込んでいこうとしていた
冷徹な実験室のような室内には、電子機器の無機質な機械音だけが虚しく響いている
ここに来てから、もう何度目を覚まし、何度意識を失っただろうか
拘束器具から全身へと伝う特殊なパルスがヘイローを不自然に抑え込んでいるせいなのか。それとも、またしても大人の狡猾な嘘に騙され、守りたかったはずのシロコたちを逆に絶望の淵へ突き落としてしまったという、凄惨な自責の念からなのか
ホシノは何度も意識を混濁させ、そのたびに悪夢のような現実へと強制的に連れ戻されていた
(……みんな……あれから、大丈夫かな……)
瞼を閉じるたび、黒服に見せられた映像——崩れ落ちる街と、絶望に顔を歪めて膝をつくシロコたちの悲痛な表情が、鮮明に脳裏を焼き尽くすように何度も浮かんでは消える
誰にも相談せず、自分の思う「正義」だけを信じて一人で突っ走った
「絶対に無茶はしない」「ちゃんとみんなのもとに帰ってくる」と、ノノミと小指を絡めて握手をしたあの温かな約束も
「どこにも行かないで」とシロコが見せた、初めての弱音も
全部、全部、ホシノ自身の手で惨めにもぶち壊してしまったのだ
みんなを守るために、すべてを諦めてここへ来たはずだったのに
結局は汚い大人に都合よく踊らされ、大切だったアビドスは踏みにじられ、あの子たちにどれほど残酷で辛い思いをさせてしまったことか
(私のこと……きっと、心の底から恨んでるよね……)
自分にはこの方法しか残されていないのだと、どこかで慢心していたのだ
かつて自分の過ちと慢心によって、白子をあの砂漠の渦の中へ死に追いやった時と、何一つ変わっていない。私はまた、同じ愚かな間違いを繰り返してしまった
もし——あの時、別の方法があったのだとしたら
『……なんで、全てが終わった後に、私に相談してくれなかったのよ……! 辛いのを、一人で抱え込んで……なんで話してくれなかったのよ!!』
(……っ!)
唐突に、痛切な過去の記憶が脳裏を強く打つ
まだ友達だった頃、今にも泣き出しそうなほど険しい顔をしたヒナに叫ばれた言葉が、鮮烈な痛みを伴って蘇ってきた
あの時もそうだった。ヒナから「嫌な予感がするから気をつけて」と何度も忠告されていたのに、私は大丈夫だと慢心した
その結果、敵の仕掛けた爆破に白子が巻き込まれ、ユメが入院するような重態に陥るまで、自分は誰一人として頼ることができなかったのだ
「……結局……私は、どんなに見栄を張っても……何一つ成長しない、馬鹿なままなんだね……」
冷たいコンクリートの床に突っ伏したまま、ホシノの乾いた唇から虚ろな自嘲が漏れ出る
「ちゃんと……最初からみんなと向き合えてたら……。みんなのことを、ちゃんと心から信じて……全部打ち明けられてたら……何か、変わってたのかな……」
もしも、あの過去の日に、ヒナの忠告通りに極限まで警戒しながらユメを助けに行っていたなら
ユメがあんな悲しい顔で自分を心配することも、白子が命を落とすこともなかったはずだ
もしもあの日、ノノミに強く手を握られて「約束」を突かれそうになった時に
シロコに「離れないで」と引き止められた時に
すべてを打ち明けて相談していたなら、大人に弄ばれることもなく、先生やみんなと一緒に別の道を模索できたのではないか
(どれもこれも……全部、全部……私のせいで……)
溢れ出た涙が目角を伝い、冷たい床の上に小さな輪を作って染み込んでいく。どれほど胸をかきむしり、地獄のような後悔に苛まれようとも、今の自分はこの冷たい鎖から逃げ出すことすら叶わない
(ごめんね……ノノミちゃん……シロコちゃん……。約束……破っちゃって……ごめんね……)
(ごめんね……セリカちゃん……アヤネちゃん……。こんな……頼りなくて、ダメな先輩で……)
届くはずもない謝罪を、何度も、何度も、消え入るような心の中で繰り返した
その時——
ドドンッ!!
重厚なコンクリート壁をまるごと吹き飛ばすような、凄まじい衝撃波と猛烈な爆風が室内に吹き荒れた
ホシノの肉体を痛烈に苛んでいたカイザーの拘束機器が、爆発の苛烈な余波によって木っ端微塵に砕け散る。
「けほっ……けほっ……ッ!」
煙と砂塵が充満する中、ホシノは床に倒れ込みながら強く咳き込んだ
何が起きたのか、頭が全く追いつかない。だが、ヘイローを抑え込んでいた不快な異物感が消え去り、手足に再び自分の自由な感覚が戻っていた
ホシノはかすむ視界の中、ゆっくりと目を開ける
爆風によって周囲に散らばった瓦礫の隙間に、何かが小さく落ちていた
それは、制服のポケットに入れて持ち歩いていた、なんてことのない日常の一枚
対策委員会のみんなで肩を組み、照れくさそうに、けれど温かく笑い合っている大切な記念写真
そしてその横には、あの日からずっと肌身離さず持っていた、小さな思い出のお守りが転がっていた
(みんな……ユメ先輩……白子……)
震える指先を必死に伸ばし、その二つを愛おしそうに強く抱きしめると、再び制服のポケット深くへと大切に仕舞い込む
ホシノは両手を冷たい床につき、フラフラと覚束ない足取りでゆっくりと立ち上がった。そして、煙の向こうに見える崩れた出口に向かって、一歩、また一歩と力強く歩みを進める
かつて、白子を失って自暴自棄になり、自分自身の存在価値を見失ってユメに初めて弱音を吐き出したあの日のことが、鮮明に思い出されていた
『私たちは……あの子の分まで、ちゃんと前を向いて生きないとダメなんだよ。生きて……あの子が遺してくれたこの命を、大切に繋いでいかなきゃいけないの……』
あの頃の自分は、悲しみのあまり現実を受け入れたくなくて、「こんな命なんてどうでもいい」「自分が死ねばよかった」と心を閉ざしていた
けれど、幾多の時間を重ね、新しい後輩たちや先生と出会った今なら——あの言葉の本当の意味を、まっすぐに受け止めることができる
あの子が遺してくれた命を、未来へ繋げていくこと
あの子が生きていた証を、この学校とみんなの笑顔の中に……残していくこと
「だから……! 私は、帰るんだ……!!」
ホシノの瞳に、途絶えていたはずの蒼い炎が激しく燃え上がる
「みんなの……対策委員会の元に……っ!!」
ホシノが魂を振り絞るように叫んだ、まさにその瞬間——
ドガァァンッ!!
上層階での激しい戦闘の影響か、施設全体の天井が耐えきれずに大爆発を起こした。ホシノが立っていた床が豪快に崩落し、大量の瓦礫と共に、彼女の身体は暗い奈落の底へと呑み込まれていく
(ああ……みんなに……ちゃんと、謝りたかったな……)
無重力感の中で落ちていきながら、ホシノの視界が急速に白く染まっていく
(……ヒナちゃんにも……結局、最後まで謝れなかったし……)
急速に重くなる瞼。周りの激しい破壊音が、まるで遠い世界のことのように小さく遠のいていく
いよいよ意識が完全に途切れそうになった、その刹那——
「……ノ!!……手を……!!」
爆炎と砂煙を切り裂いて、誰かが自分の名前を狂おしいほど強く呼ぶ声が響いた
鼻腔をくすぐるのは、あまり嗅ぎ慣れていない……けれど、どこか無性に懐かしく、温かい匂い
そして、優しく、けれど決して離さないという強い意志を込めた手袋の感触が、落ちていくホシノの手に力強く触れた
その確かな温もりに包まれながら、ホシノの意識は静かに、深い闇へと落ちていった
♢
「っ……!?」
ホシノは勢いよく弾かれたように跳ね起き、荒い息を吐き散らしながら咄嗟に周囲の気配を探った
肌を痛いほど刺す夜風の冷たさと、微かに鼻腔をくすぐる焦げた木屑の匂い。視界に広がっていたのは、先ほどまで自分を苛んでいたあの不気味で無機質な実験室の天井ではなく、見渡す限り果てしなく暗闇が広がるアビドスの静寂な砂漠だった
月明かりだけが白々と砂丘の起伏を浮かび上がらせる深い闇の中、彼女のすぐ目の前には、すっかり鎮火して黒い灰と化した小さな焚き火の跡が残されている
どうやら自分は、この冷たい砂の上でいつの間にか深い眠りに落ちてしまっていたらしい
砂漠での長距離移動に、連日連戦の無理が続いていたのだから無理もないことだった
「……はは、久しぶりに……見たなぁ、あの夢」
黒く煤けた木炭の残骸を見つめながら、ホシノは引き寄せた膝を抱え、小さく掠れた声でぽつりと呟いた
あの日——絶望の底に沈み、崩落する瓦礫の奈落へと落ちていった自分を、対策委員会のみんなと先生が命がけで救い出してくれた
あの極限の瞬間に、崩れ去る床の寸前で自分の手を力強く掴んで引き上げてくれたのが誰だったのか……その温かい手袋の主が誰だったのかは、結局うやむやになったままだ
けれど、そんなことは今のホシノにとってどうでもいいことだった
結果として自分は、あの愛おしい温かな日常へと、みんなの待つ掛け替えのない居場所へと無事に帰ることができたのだから
(……まあ、帰った後は対策委員会のみんなに死ぬほど怒られたし、なんならノノミちゃんのあの本気で怒った顔は今でも夢に出るくらいトラウマになってるんだけどね……)
「……まったく。おじさん、今度はちゃんと全部わかった上で同じことしてるんだから……本当に、全然反省してないよね」
自嘲気味にくすりと呟きながら、ホシノは手のひらについた乾いた砂を払って立ち上がった
手元に残っていた僅かな火種を念入りに砂で踏み消すと、夜空を見上げて深く静かに息を吸い込む
冷たい夜気が肺いっぱいに満ち、重く霞んでいた頭が急速に冴え渡っていく
体力は決して万全と言える状態ではないが、この短い微睡みのおかげで、再び前へ進むには十分なほどの気力と活力が戻っていた
ホシノは手元と身体の装備へ順番に視線を落とし、一つひとつ確かめるように愛おしげに指先で触れていく
胸元にしっかりと固定されたハンドガン
長年使い込み、数々の死線を共にくぐり抜けてきた、重厚で頼もしい鋼鉄の盾
そして——愛用のショットガン
指先に直に伝わる冷たい金属の質感が、不思議と自分の体温のように温かく感じられた
「……よし。行こうか」
ホシノの瞳に宿るのは、もう迷いも絶望も欠片もない、澄み切った確固たる決意の蒼い光だった
見上げる広大な夜空の向こう、東の果てしない地平線には、薄っすらと蒼白く夜明けの兆しが見え始めている
彼女がこれから目指す場所——それは、アビドス自治区の最深部に位置する「生徒会の谷」
そこに眠る、カイザーPMCとその背後にある邪悪な企みがアビドスを完全に滅ぼすために起動させようとしている絶対的な破壊兵器——今もまだ目覚めぬ生徒会長、梔子ユメが関わってしまった、「列車砲」という過ちの負の遺産を、この自分の手で完全に粉砕するために
過去から連なるすべての暗い因縁をここで断ち切るため、ホシノは一人、暁前の静寂な砂漠へと力強く歩みを進めた
アニメや原作リスペクトし過ぎて難航してました……あまりにも同じだつまらないしかといってどう外そうか……次回から最終章になります
ps
地震のため次の投稿は停電が解除されてからにします