「ついた」
プシュー……という、湿った蒸気と熱した機械油が混ざり合った独特の匂いとともに、プッシュロッドがぎしぎしと軋む低い重低音がホーム全体に響き渡る
直後、長旅の煤に汚れた重厚な金属製のスライドドアが、エアの抜ける音を立てて左右へと滑らかに開いた
シロコは手に持った紙袋の持ち手を軽く抱え直し、一歩、ホームの冷たいコンクリートへと足を踏み出した
途端に鼻腔を突いたのは、日常的にアビドスを包み込んでいる、どこか気怠く静かな砂の匂いとは真逆の空気だった
激しく往来する列車の排気、焼き付いたブレーキパッドの臭気、そしてどことなく荒々しい熱を帯びた、異国特有の気配が渦巻いている
「……すごい人混み」
ぽつりと呟き、視界を塞ぐほどの人波を見渡す
黒を基調とした隙のない制服をピシッと着こなし、腰のホルスターに手を添えながら油断のない鋭い視線を走らせる生徒たち
そのすぐ脇を、なぜか巨大なツルハシや建築用の大型ハンマーを無造作に肩に担ぎ、鮮やかな黄色い安全ヘルメットを被ったまま「今日の地下掘削ポイントはさぁ〜」「爆薬足りなくね?」などと威勢よく議論する現場帰りのような生徒たちが、肩をぶつけ合いながらごった返して通り抜けていく
軍事都市のような緊張感と、荒々しい活気が無秩序に同居する場所。治安が良いのか悪いのか、真面目なのか不真面目なのか、その境界線すら定かではない混沌とした光景
今、シロコが降り立ったのはゲヘナ学園自治区のメインライン——「ゲヘナ中央駅」の巨大なホームであった
今日は他でもない、誰にも言えない個人的な用件があり、たった一人でこの巨大な学園都市へと足を運んでいたのだ
「……よし。一応お土産も持ったし……先生経由で事前連絡も行ってるはず」
乗ってきた大型列車がキーッと甲高い制動音の残響を響かせ、重厚な金属音を周囲に木霊させながらゆっくりと加速を開始する。暗いトンネルの漆黒の闇の中へと巨体が吸い込まれていくと同時に、強烈な巻き上げ風がホームを吹き抜け、シロコのアビドス指定マフラーと綺麗な銀髪を激しく揺らした
シロコはその風圧を背中でしっかりと受け止め、前髪を軽く手で押さえながら、左手にした紙袋のずっしりとした重みと感触を改めて確かめる
中に入っているのは、今朝早くに登校した際、調理室でノノミと一緒に丁寧に焼き上げた手作りクッキーの小箱だ
『まあ! シロコちゃん、とっても器用なんですね! 型抜きも生地の伸ばし方も、プロのお菓子職人さんみたいで完璧です〜!』
作業中、ノノミは目を輝かせて大絶賛してくれていた
以前、屋上で日向ぼっこをしていたホシノから「シロコちゃんは手先が器用で、意外と料理も上手いんだよ〜」と聞いたことはあったノノミだったが、実際にその職人技のような手際を目の当たりにしたのはこれが初めてだったのだ
箱の蓋を開ければ、ノノミが作った可愛らしい花やハート型のクッキーに混じって、シロコが型抜きした寸分の狂いもない精巧な星型、アサルトライフルのシルエット、果てはあの「覆面水着団」の重厚な覆面マスクの形をしたクッキーが、驚くほど緻密な造形で美しく並んでいる
『風紀委員会の方々への差し入れです♪ シロコちゃんが手伝ってくれたから、味も見た目も完璧ですよ〜!』
そう言って、弾むような可憐な笑顔で持たせてくれたその箱の重み
中の繊細なクッキーを壊してしまわないよう、愛おしむように大事に抱え直すと、シロコは人の波をすり抜けながら、改札口を目指して静かに歩みを進め始めた
その時である
駅前広場の雑踏を切り裂き、耳を刺すような高らかな大音声が響き渡った
「ハーッハッハ! 聞くがよい同志たちよ! 今日の風水と地脈の流れは最高だ! 素晴らしい、実に素晴らしいぞ! 今日こそは、このゲヘナ中央駅前広場の真下に眠る『至高の源泉』を掘り当てるのだーッ! 全員、削岩機と重爆薬の準備を始めよーッ!」
「ぶ、部長! マズいです! 今日は風紀委員長がいつも以上にピリピリしてて、本当に命の危険がありますよ! 先ほども突っ込んできた美食研究会の皆さんが、普段の三倍増しでズタボロにされて惨死寸前で鎮圧されてましたから!」
「……な、なにぃ!? ズ、ズタボロ……!? さ、三倍……!? こ、今日は……今日は大人の対応として引き揚げておこう! 撤収だ撤収ーッ! 地脈が荒れておる! ……ひぇぇ……!」
(……ここも、相変わらず賑やかだね……。確かあれは、温泉開発部だっけ)
ホームから長い階段を上がった先の広場で、赤と黒の派手な衣装を羽織り、巨大な起爆装置のT字スイッチを両手で堂々と掲げて高笑いしていた少女——温泉開発部部長、鬼怒川カスミ
しかし、汗だくの必死な様相で駆け寄ってきた部下からの切迫した一言を聞いた瞬間、彼女の誇り高き表情は一変
独特の困り眉と涙目の情けない泣き顔を浮かべるや否や、抱えていた高級爆薬の箱を放り出しそうになりながら、脱兎のごとくスカートを翻して逃げ出していった
シロコはそんな、ゲヘナ自治区では日常茶飯事であろう大騒動のドタバタ劇を、表情一つ変えずに毛先を揺らすだけの静かな視線の端で受け流す
「……平和そうで何より」
慣れた手つきでポケットからICカードを取り出すと、ピピッという軽快な電子音を鳴らして自動改札のゲートをスムーズに通り抜けた
改札を抜け、雑多な飲食店の香ばしい匂いや、怪しげな露店がどこまでも並ぶゲヘナ自治区のメインストリートをしばらく進む
立ち並ぶ漆黒の建造物の間からふと視界が開けた瞬間、遠くからでも一目でそれと分かるあまりにも巨大な構造物が、圧倒的な存在感で聳え立っていた
天を衝くような漆黒の尖塔群、異様な重厚感と歴史的な威容を誇る巨大な校舎本体、そして敷地全体を強固に区画する、強固な鉄柵門
(……何度見ても大きい。アビドスの本校舎なら何個分だろう。十個……いや、もっと入るかもしれない)
漆黒の巨大な鉄柵の前まで辿り着いたシロコは、一瞬足を止め、深く息を吸い込んだ
冷たい金属の質感が漂う重々しい門を見上げていると、脳裏に忘れることのできない過去の記憶が不意に蘇ってくる
かつて、姿を消したホシノを救出するため、藁にもすがる思いで協力者を求めて奔走したあの日のこと
あの時の自分たちには、こうして落ち着いて巨大な校舎や空を見上げる心と時間の余裕など微塵もなかった。一刻を争う絶望的な状況の中、先生が風紀委員会との必死の交渉に当たっている間、シロコたち対策委員会の面々は応接室へと通され、ただアコと会話をしていただけだった
(あの時は……本当に余裕がなかった。でも、今は違う)
シロコは小さく首を振り、胸の中に渦巻きかけた過去の苦い緊張感を払いのけた。そして、門の前でアサルトライフルを抱え、厳しい表情で直立している風紀委員の生徒へと一歩近づき、静かに声をかけた
「ん……風紀委員長と、話があるんだけど」
「風紀委員長に……? あ、あなたは……もしかして、アビドス高等学校の砂狼シロコさんでしょうか?」
「うん。アビドス対策委員会のシロコ」
「お話は事前に伺っております。ヒナ委員長でしたら、執務室でお待ちですよ」
そう言うと、門番の生徒は胸元のインカムに手を当てて短く連絡を入れ、ギギギ……と低い重低音を響かせるずっしりと重い鉄柵の門を開放した
シロコが「ありがとう」と短く頭を下げて敷地内へ足を踏み入れた。すると、エントランスで待機していた別の風紀委員の生徒が静かに歩み寄り、「こちらへどうぞ、ご案内いたします」と丁寧な仕草で先導を開始した
整然と磨き上げられ、足音が美しく響く広い廊下。しかし、そこにはゲヘナ特有の自由奔放さとは全く異なる、ピリピリと肌を刺すような重厚な緊張感が漂っている
だが次の瞬間、曲がり角の向こうから台無しな大声と叫び声が響き渡る
「イロハ! 今回こそあの生意気な風紀委員長に万国驚天の仕返しと悪戯を——ッ!?」
「はぁ……会長、余計な大声を分不相応に出さないでください。保健室に行きますよ。まずはそのお見苦しいアフロヘアーをどうにかするのが先です」
曲がり角から現れたのは、心底面倒くさそうな死んだ魚のような目をしたイロハ。そしてその手には、爆風で頭全体がチリチリに焦げて巨大な丸い球体と化したアフロヘアーのまま叫ぶパンデモニウム議長・マコトの首根っこが、まるで荷物のように無造作に握られていた
「離せイロハ! 私はパンデモニウム議長だぞ! 離さぬかーっ!」
ドナドナのように引きずられていくゲヘナのふたりを、シロコは数秒間、首を傾げながら無言で見送る
(……ゲヘナでは、アフロって重病扱いなのかな。あそこまで焦げたら、毛根のダメージは深刻かもしれない)
思考を巡らせつつも疑問を口にすることなく、シロコは静かに先導する生徒の後を追って足を前へと進めた
「ここでヒナ委員長がお待ちです」
案内されたのは、重厚な高級木目調の装飾が施された、重々しい観音開きの巨大な扉の前だった
生徒がトントンと規則正しく扉を叩き、「お客様をお連れしました」と告げると、シロコへ深々と頭を下げてその場を静かに辞していく
「入ってちょうだい」
扉の向こうから、どこかすり減って過労に瀕しているような、だが決して凛とした威厳を失わない、澄んだ可憐な声が届く
シロコは静かにドアノブを回し、その重い扉を押して、静寂の広がる部屋の中へと足を踏み入れた
広がっていたのは、落ち着いた重厚な調度品で整えられた広大な執務室だった
その中央に鎮座する大きな執務デスクには、真っ白な包帯を頭部に痛々しく巻き、見るからに重傷を負っているはずの身体で、山のように高く積まれた書類を信じられない速度で処理している少女——風紀委員長、空崎ヒナの姿があった
カチカチという時計の針の刻印と、万年筆が上質な紙の上を軽やかに滑るサラサラという音だけが、広い室内に静かに響いている
「よく来てくれたわね、砂狼シロコ。遠いところを歓迎するわ」
ヒナは手元から視線を一切外さず、絶え間なく書類へサインを走らせながら、静かに来客の到来を告げた
「……元気そう……には見えないね。身体、まだボロボロ」
「……ええ、おかげさまでね。どこかの誰かさんに『休んでいる暇があるなら、今回の復旧作業に回す予算申請と事後処理の書類でも終わらせておきなさい』って、山のように置いていかれたのよ」
ヒナは心底疲れたようにハァ……と長いため息を吐き出すと、握っていた万年筆を静かにペンスタンドへと戻した
ゆっくりと椅子から立ち上がると、サイドテーブルに用意されていた温かい紅茶を丁寧に二つの磁器カップへ注ぎ、中央の応接用革張りソファへと移動すると対面の椅子をそっと指差し、座るよう促してきた
シロコは言われた通りに静かに腰を下ろすと、抱えていた持参の紙袋をローテーブルの上にそっと置いた
「これ、ノノミから……私とノノミの手作りクッキー。風紀委員のみんなで食べて」
「お土産なんて気を使わなくて良かったのに……ありがとう、ありがたく受け取るわ。後でアコたちにも分けることにするわね」
「ん」
湯気が柔らかく立ち上る紅茶のカップを手に取り、ヒナは一口含んで心を落ち着かせるようにふぅと息を吐いた
「どう? 久しぶりのゲヘナは、相変わらず騒がしいでしょう」
「駅前で『至高の温泉を掘る』って大声で叫んでた人と、さっき廊下で風紀委員長に嫌がらせをするって笑ってる焦げたアフロがいた」
「カスミとマコトね。カスミに関しては、今日は大人しくするよう部下を脅しておいたから大丈夫よ。マコトなら……この前の事件で爆発してアフロになった髪を元に戻すのに必死だから、当分は物理的には私の邪魔をしに来ないわ」
シロコは頭の中で「アフロは元に戻るものなのか」とますます疑問を深めたが、ヒナの疲弊しきった表情と目の下に刻まれた濃い隈を見るに、これ以上その話題を掘り下げるのは不毛だと判断し、それ以上の追求を諦めた
「……それにしても、本当に大変だったんだね。身体、まだ全然治ってない」
シロコは、ヒナの説明に数秒の間無言で返すと、ヒナの頭に痛々しく巻かれた白い包帯と、未だ鋭い痛みに耐えているであろう小さな身体を、気遣うような澄んだオッドアイの瞳で見つめながら呟いた
「いつものことよ……と、言いたいところだけれど……。ふふ、今回ばかりは、本当に……本当に大変だったわね」
ヒナは自嘲気味に細い目をさらに細めると、湯気の立つ紅茶のカップへ静かに手を伸ばした
——エデン条約調印式で起きた未曾有の惨禍
天を覆ったアリウスの軍勢、血と硝煙に染まった古聖堂。そして、傷つき倒れた先生の姿。 遠くアビドスから救援に駆けつけたシロコ達にとっても、あの地獄のような光景は今も脳裏に焼き付いている
鉄の風紀委員長と呼ばれたこの小さな少女が、どれほどの重圧と裏切りに耐え、心折れかけながら戦い抜いたのか。言葉にされずとも、痛いほど分かっていた
「それで、わざわざゲヘナにまで来て私に話って、どうしたの? 単なるお見舞いというわけでもないでしょう」
カチャリと静かな音を立てて磁器のカップをソーサーへ戻すと、ヒナは雰囲気を切り替えるように、少しだけ眉をひそめて紫色の瞳をシロコへと向けた
「……心配だったのと……この前、私達を助けてくれたお礼に」
シロコは逃げずにまっすぐヒナの視線を受け止め、静かに、けれど強い意志を込めて自分の言葉を紡いだ
「ああ……そのことね。あの時も言ったけれど、気にしなくてもいいのよ」
ヒナはほんの少しだけ困ったように眉根を寄せると、可憐な唇に柔らかくもどこか諦めたような苦笑いを浮かべ、小さく首を振った
あの日——アビドスの危機を前に、ホシノが一人で何も言わずに姿を消した、あの最悪な日のことだ
カイザーローンの理事が繰り出す冷酷な企みによって絶望的な窮地に追い詰められたシロコたちの前に、突如として助けに飛び込んできた便利屋68。しかし、敵が投入した規格外の大型重機『ゴリアテ』の圧倒的な火力を前に、戦況は再び暗雲が立ち込め、絶望へと傾きかけていた
その瞬間だった
依頼を受けてアビドスに潜伏していた便利屋とは異なり、本来ならこんな遠方にいるはずもないゲヘナ学園の頂点——風紀委員長・空崎ヒナが、突如として砂塵を巻き上げて戦場に降臨したのだ
あろうことか『便利屋の臨時の新人』という、子供騙しにすらならないあまりにも無理のある名目を堂々と掲げて
「……一応言うけど、たまたまアビドスの広大な砂漠を通りかかったなんて、流石に無理があるよ? 距離的にも、政治的にも」
シロコがジト目を向け、半目になりながら淡々と至極もっともな突っ込みを入れると、ヒナは「うっ……」と短く喉を鳴らし、気まずそうにわずかに視線を泳がせた
理事の野望を粉砕し、荒れ果てた戦塵が少しずつ静まり返っていったあの光景を、シロコは今でも鮮明に覚えている
ゲヘナ風紀委員長の規格外の圧倒的な戦闘力に誰もが呆気にとられつつも、颯爽と背を向けて去ろうとするヒナの小さな後ろ姿に向かって、アヤネが『あ、あの……何故ゲヘナの風紀委員長の貴方が、このような場所に……?』と至極真っ当で当然の疑問を投げかけた時のことだ
ヒナは足を止めることもなく、一切振り返りもせずに、何でもないことのように『……たまたま、近くに用があって寄っただけよ』と言い残し、風のように去っていった
勿論、絶対絶命の危機を救われたアビドス対策委員会と便利屋の面々は心から彼女に深謝していた。しかし、ゲヘナの広大な自治区とアビドスの過酷な大砂漠という、およそ「ついで」や「散歩」で立ち寄れるはずもない途方ない物理的距離感を思えば、あまりにも強引すぎるヒナの言い分に、その場にいた全員が乾いた苦笑いを浮かべるしかなかったのだ
「う、うるさいわね……。それが命を助けてもらった人の態度かしら? 事情があったのよ、事情が」
ゴホンと小さく咳払いを挟み、白い頬をわずかに朱に染めながら強がるヒナ
しかしシロコは容赦なく追撃の手を緩めない
「そこは本当に感謝してる。でも、あのアルにすら『あ、あれが噂に聞く……ツンデレというものなのかしら?』って、真顔で言われてたよ」
「……今度どこかで落ち合ったら、一度徹底的に教育……いえ、締め上げようかしら……便利屋……」
ヒナの背後から、メラメラと揺らめく禍々しい紫色のオーラが静かに立ち昇る。しかしシロコは気に留める風もなく、口元をキュッと結び、表情を少しだけ真面目なものへと引き締めた
「それと……ホシノ先輩を助けてくれたことのお礼も、まだだったからさ」
「……」
シロコが発したその静かな一言によって、直前まで室内に漂っていた軽妙な空気が一瞬にして雲散霧消した
ヒナの表情から感情の揺らぎがすっと消え去り、静寂が二人の間の空間を重く満たしていく
あの日——カイザーPMCの手によって崩壊の危機に瀕していた地下基地
狂気的な研究施設が骨組みごと歪み、爆音とともに天井や壁が崩れ去っていく極限状態のなか、シロコたち対策委員会はついにホシノが囚われていた実験室の最奥へと辿り着いた
しかし、安堵したのも束の間。大規模な二次崩落の激しい衝撃によって足場が斜めに割れ、意識を失ったホシノの身体が、暗闇が広がる深淵の底部へと吸い込まれるように真っ逆さまに落下していったのだ
『ホシノ先輩——ッ!』
助け出そうと、自分の着地後の身体のことなど頭にないまま、シロコが迷わず瓦礫の谷底へ飛び出そうとした——その瞬間、黒い風が視界を切り裂いた
崩落する瓦礫の嵐の中、宙を舞ったのは小さな風紀委員長だった
深淵へと落ちていくホシノの腕を、間一髪でその細い手が掴み取る。そのまま華奢な身体を強く抱き寄せると、降り注ぐ鉄骨の隙間をすり抜け、地を蹴った。 ホシノを絶対に離そうとしない強い眼差し
あの背中を、シロコは忘れることができない
「……約束通り、小鳥遊ホシノには黙っているのでしょうね?」
確かめるように、念を押すようなヒナの硬い問いに、シロコは深く頷いて応える
「ん……そこは大丈夫、みんなもホシノ先輩には秘密にしてる。約束は守る」
あの死闘の末、崩落する施設からどうにか安全な砂丘の影まで逃げ延び、肩で激しく荒い息を吐いていたシロコたち
その全員の無事を静かに確認したヒナは、安堵の息を漏らす暇すら惜しむように、対策委員会の面々へ向けて冷徹な声で告げたのだ
『約束通り、私たちが救援に来たこと……そして、私が彼女を救出したことは絶対に秘密にしておいて。もしこの件を彼女に漏らしたら、今後のアビドスとの交渉や支援はすべて白紙に戻すわ』
そう強く釘を刺すと、駆けつけた風紀委員会のアコや部隊とともに、砂丘の彼方へ影のように素早く去っていった
それに、今改めてあの緊迫した日々を思い出してみても、一番不思議で仕方がなかったのは、ホシノ救出のために救援を頼み込もうと、シロコたちが藁にもすがる思いでゲヘナ本校を訪れたあの初動のときのことだ
元からの複雑な政治的思惑や因縁もあり、便利屋やトリニティの面々でさえ一度は要請を断らざるを得なかった絶望的な状況の中で、ゲヘナの風紀委員会だけは、シロコたちの必死の訪問を受けるや否や、ヒナの独断によって即答で全面協力を引き受けてくれた
その際に提示された唯一にして絶対の条件が、「救出作戦が成功した後、ホシノに何を聞かれても、ゲヘナやヒナが介入した事実を絶対に口外しないこと」だったのだ
「……それなら、良かったわ」
シロコから揺らぎのない確約を得て、ヒナは胸の内に溜め込んでいた憑き物が落ちたようにそっと胸を撫で下ろし、小さく安堵の息を吐いた
「……ねぇ。どうしてそこまで、ホシノ先輩に自分たちの存在を隠そうとするの?」
シロコは逃げ場を与えないまっすぐなオッドアイの瞳で、あの日からずっと抱き続けていた純粋な疑問を投げかけた
ヒナはしばらくの間、静かに瞳を閉じ、冷めた紅茶の湯気を見つめたまま沈黙を守っていた
やがてゆっくりと開かれた紫色の瞳は、まるで冬の氷のように冷ややかで、透き通った静けさを湛えていた
「……私が、小鳥遊ホシノを嫌っている。ただそれだけのことよ」
一切の躊躇も感情の揺らぎも感じさせない、あまりにもはっきりとした拒絶の言葉
だが、その感情を完璧に削ぎ落とした氷のような言葉を聞けば聞くほど、シロコの中には納得どころか、拭いきれない違和感と疑問だけが静かに膨らんでいった
「なんで? 嫌いなら、あの時私達の救援要請も無視して放置すれば良かったのに……わざわざ怪我を押してまで助けに来る必要なんて、どこにもなかった」
「あなたには関係のないことよ。これ以上探るのもやめなさい。彼女も、私も……過去のことに過ぎないのだから」
「……」
シロコは、空崎ヒナという少女の内に秘められた本当の過去や、その深い胸の内までをすべて理解しているわけではない
けれど、こうして直に向き合い、言葉を交わし、彼女が背負っているものの重さを極限の戦場で目撃してきたからこそ、胸の中に芽生えた確信が一つだけあった
——空崎ヒナと、小鳥遊ホシノは、びっくりするくらい似ている
厳格で几帳面、何事も完璧にこなそうとするヒナと、どこかおじさんくさく、へらへらとして緩い雰囲気を漂わせるホシノ
表面的に見れば正反対の位置にいる二人だ
だがその本質——自分の本当の感情や過去に受けた深い傷を内側に隠し持ち、周りに決して心配をかけまいと嘘や強がりで身を固めて孤立してしまうところが、痛々しいほどそっくりだった
唯一違う点があるとすれば、ホシノのつく嘘は長年積み重ねられた年季が入っていて真意を見抜くのが非常に困難なのに対し、ヒナのつく嘘は、どこか不器用で分かりやすすぎるということくらいだろうか
シロコは静かに目を細め、目の前で感情を押し殺して強がる小さな風紀委員長を、ただ黙って見つめ続けた
「そう……」
シロコは短く呟くと、それ以上深く踏み込むことなく、すんなりと追及の手を引いた
シロコは知っている
ホシノという風変わりで愛おしい先輩と長く日々を共にしてきたからこそ、痛いほど理解していた
この手のタイプ——自らの内に癒えぬ深い傷や底知れない孤独を抱え込み、他人に決して弱みを見せまいと頑なになる人間は、本人が自らの意志で口を開く気にならない限り、どれほど外から問い詰めたところで器用に、あるいは拙く不器用に嘘を重ね続けるだけなのだということを
それに、これはきっと、ホシノとヒナの二人だけにしか立ち入れない特別な領域の問題だ
かつて「アビドスの最終兵器」や「最強の個人」としてキヴォトスの裏社会にまでその名を響かせた元アビドス生徒会副会長と、今やキヴォトス最大勢力の一角であるゲヘナ学園の頂点に君臨する「鉄の風紀委員長」
学園の成り立ちも、背負う立場も、普段過ごす街の風景すらも全く異なる。普通に生きているだけでは、交わるはずもない二つの異質な軌跡
過去に何があり、どうして二人の間にこれほど深い断絶と執着が生まれたのか
ホシノ自身もその過去を頑なに語ろうとはしないため、シロコや対策委員会のメンバーがその真実の欠片を知る術はない
けれど——理由や経緯など、わざわざ言葉で説明されなくても分かっていた
あの圧倒的な不利と政治的リスクが予想された救援要請に、一切の躊躇なく即答で全面協力を約束してくれたこと
そして、わざわざ過酷な猛暑と砂嵐が吹き荒れるアビドスの大砂漠にまで、「便利屋の新人」などという無理すぎる口実を作り出し、駆けつけてくれたこと
その事実だけで十分だった
二人がかつて、どんな形であれ確かに互いを認め合い、心を通わせた「友達」であったという証拠は、隠しようもなくそこに存在しているのだから
「……話は、それだけかしら?」
長引く静寂と、シロコの澄んだ視線の交錯に耐えかねたように、ヒナがそっと問いかけてくる
その澄んだ声にはどこか、防壁の向こう側を探られることを恐れるような、かすかな硬さが混じっていた
「うん。私はただ……あの時助けてくれたことのお礼を、対策委員会を代表して直接言いに来ただけだから」
「……そう。それなら……一応、受け取っておくわ」
ヒナは少し照れくさそうに、ほんのわずかに視線を横へと逸らしながら、静かにそう頷いた
シロコはその返事を聞くと、革張りのソファからすっと静かに立ち上がった
これで、今日わざわざゲヘナ本校にまで足を運んだ本当の目的は果たせた。あとは、アビドスへ帰るだけだ
「……そうだ」
重厚な木目調のドアノブに手をかけ、滑らせるように扉をわずかに開けたシロコは、ふと思い出したかのようにピタリと足を止め、静かに肩越しに振り返る
「……ホシノ先輩、風紀委員長の事、すごく心配してたよ」
「っ……!?」
そのあまりにも無防備で、一切の計算もない不意打ちの一言
その瞬間、ヒナが必死に保っていた「鉄の風紀委員長」としての感情を削ぎ落とした仮面が、音を立てて脆く崩れ去った
常に冷静沈着であり続け、ゲヘナの頂点として絶対の威厳を貫いてきた紫色の瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる
息を呑む微かな呼吸の音が、静寂に包まれた広大な部屋の中に白く弾けた
まるで世界中の時間が一瞬で凍りついたかのように、彼女の華奢な全身がピキリと固まっていた
「……そう」
痛いほどの張りつめた沈黙が数秒間流れた後、ヒナは喉の奥から絞り出すような、か細い声でポツリと呟いた
すぐさまいつもの冷徹で感情のない無表情へと戻そうと必死に試みていたが、白い包帯の巻かれた小さな肩が、堪えきれずに微かに震えているのを、シロコは見逃さなかった
シロコはそれ以上何も追及せず、ただ一度だけ深く頷くと、静かに扉を閉めた
パタン、と重厚なドアが吸い込まれるように閉まり、シロコが静かに去っていく規則正しい足音が、静まり返った廊下の彼方へと遠ざかり、やがて完全に消えていく
静寂が再び訪れた広大な執務室に、たった一人取り残されたヒナ
高層階の巨大な窓から差し込む西日が、執務机の上に静かな陰影を作り出し、彼女の可憐で華奢な影を、冷たい絨毯の上に長く長く引き伸ばしていた
「……心配……なんて……」
やがて深く、胸の底に溜まっていた熱を吐き出すように息を漏らすと、ヒナは重い足取りで本来の居場所である執務デスクへと戻った
椅子には座らず、デスクの最下段にある堅牢な引き出しの前で足を止める。暗号キーを入力して鍵を解除し、その最奥——大事な書類のさらに下に大切に隠されていた暗い木箱から、一枚の古い写真をそっと取り出した
西日に透かすように、指先で大切に掲げる
擦れ傷のついた写真の中には、今よりもずっと刺々しく目つきの鋭い少年のようなホシノと、まだ幼さの残る昔の制服を着た少女時代のヒナが、足元で尻尾を振る一匹の小さな白い犬を挟んで、互いに顔を背けながらも不器用に笑い合っている姿が写っていた
壊れものを扱うかのように慈しみをもって、華奢な指先でその表面のホシノの姿をそっと撫でる
互いに傷つくのを極限まで恐れるがあまり、幾重にも重ねてしまった不器用な強がり。お互いを守るためという名目のもと、いつの間にか高く作り上げてしまった立場という名の防護壁
「……私は……いつまで、こうして意地を張ってたらいいのかしらね……」
誰も答えてくれる者のいない閉ざされた執務室で、ぽつりと漏らしたあまりにも小さな呟きは、橙色から群青へと刻一刻と落ちていくゲヘナの静かな夕闇の中に、切なく溶けて消えていった
意地と呼んでいいのでしょうか…これ……