カイザーローンの理事が企てた身勝手な陰謀や、黒服が張り巡らせた悪夢のような計画の暗雲から、大切な仲間たちと先生の決死の奔走によってホシノが救い出されてから、それなりの月日が流れていた
あれからというもの、対策委員会のメンバー全員で無人島へバカンスに出かけては怪しげなリゾート開発のトラブルに巻き込まれたり、日常の細かな事件を突発的に解決したりと、相変わらず騒がしくもどこか温かな日々を重ねていたアビドス対策委員会
相変わらず乾いた砂嵐の吹き抜ける過酷な自治区には、あの嵐のような激動の日々が嘘だったかのように、確かな平和と穏やかな時間が戻ってきていたはずだった
しかし——そんな穏やかで退屈すら覚える日常のさなか、最近のホシノには、仲間たちには口が裂けても相談できない、ちょっとした……けれど本人にとっては非常に深刻で切実な悩みがあった
「……」
「……えっと……なんでおじさん、こんな体勢で抱きしめられてるのかなー……? 」
「ん。大人しく黙って抱きしめられるべき」
「うへぇ……全然答えになってないよ~……」
ホシノの情けない、力抜けた声が、アビドス自治区の外れにぽつんと打ち捨てられた古い空き家の静寂の中にぽつりと溶けていく
カンカンと照りつける日差しの中、ギシギシと乾いた風に揺れる痛んだ木枠の窓
埃の舞う古い部屋の真ん中で、ホシノが直面しているのがまさにこの「謎すぎる現状」だった
何故か後ろから無言でがっしりと、隙間もないほど強固に抱きつかれ、その豊かな胸の柔らかみと温もりが、ホシノの頭頂部から後頭部にかけてすっぽりと隙間なく押し付けられている
背後から包み込むように身体を預けて抱きしめている少女の美しい顔立ちは、ホシノが日頃から見慣れている、あのアビドス対策委員会の愛くるしい「シロコ」に瓜二つだった
けれど、その佇まいや醸し出す雰囲気は、決定的なまでに異なっている
腰のあたりまでしなやかに伸びた艶やかな長い銀髪、どこか喪服や悲劇のドレスを思わせる漆黒と静寂を纏ったミステリアスな衣装
そして何よりも決定的な違いは、ホシノの知る「あっちのシロコ」とは明らかに一線を画す、すっかり大人びて豊満に成長した身体つきだった
ホシノの目測で、二人の身長差はおよそ20センチ
その絶望的なまでの体格差と体型の違いのせいで、ホシノが古いパイプ椅子に腰掛けていようが、床に直接へたり込んでいようが、後ろから抱きすくめられると顔や頭がその豊かな「大きなもの」へと否応なく埋もれてしまうのだ
視界は一瞬で真っ暗に遮られ、鼻腔にはほのかに甘いコロンと、硝煙と乾いた鉄の匂いが混ざり合った、どこか哀愁を帯びた不思議な香りが立ち込める
この少女の名もまた、砂狼シロコ
と言っても——ホシノたちがいつもアビドス対策委員会で日常を共にしている、あの青いマフラーを巻き、何かにつけて「ん」と短く返事をするシロコではない
ある日突然、時空の歪みとともにキヴォトスに姿を現し、こちらの世界のシロコを強引に連れ去り、世界そのものを不可逆の滅亡へと導くために『色彩』の導き手——即ちアトラハシースの神殿の守護者として立ちはだかった……もう一人の、過酷で凄惨な別世界をたった一人で生き抜いてきたシロコ
あの日、キヴォトス全学園の防衛室と連邦生徒会、そして各校の連合軍が結成され、空を覆い尽くす虚妄のサンクトゥムの守護者たちとの死闘が繰り広げられた
そして決戦の舞台は、遥か上空の宇宙、大気圏外に浮かぶ要塞『アトラハシース』へと移る
ホシノたちアビドス対策委員会が万全の準備を整えて宇宙戦の救援に駆けつけた時には、先生とこちらのシロコの手によって、もう一人のシロコ……そして『プレナパテス』と呼ばれていた、満身創痍の異世界の先生との悲壮な戦いは、既に哀しくも切ない結末を迎えていた
……そして、世界の滅亡という悪夢のような危機が去り、彼女が「クロコ」や「シロコ・テラー」として、連邦生徒会の厳重な監視と先生の保護のもと、この世界の片隅に静かに留まるようになった現在
なぜかこの「もう一人のシロコ」は、ノノミやアヤネ、そしてこちらのシロコといった対策委員会の他のメンバーの目を巧妙に盗んでは、度々ホシノを人目のないアビドスの廃屋や崩れかけた校舎の陰に密かに呼び出し、様々な「頼み事」をするようになったのだ
ある時は「ん」と満足するまで無言で差し出された銀髪の頭を撫でさせられ、またある時は言葉もなくじっと至近距離で見つめられ、そして今日の彼女はホシノを抱きしめたい気分らしく、こうして後ろから完全密着の体勢をとられている
「……お、おじさん、そろそろ首が変な曲がり方して痛くなってきたんだけど……。あと、シンプルに息が苦しいかな〜……なんて」
ホシノが胸元の柔らかみに埋もれた頭上へ向けて、力なく降参するように声をかけると、彼女は「ん」と深く低く喉を鳴らしただけで、抱きしめる腕の力を緩める気配は微塵も見せないどころか、締め付ける腕の力をより一層強め、逃げ場を塞ぐように深くホシノの小さな身体を己の胸元に包み込むようにして、その冷たくしなやかな銀髪をホシノの丸まった頬やりんごのように赤い耳元へすりすりと甘えるように寄せてきた
「……ん。まだ足りない。もっとこうしていたい」
「うへぇ……シロコちゃん、おじさんは人間サイズの抱き枕じゃないんだよ〜……?」
抗議の声をあげてはみるものの、その背中越しに直に伝わってくる少女の確かな体温と、どこか切なく一定のリズムで刻まれる心拍を感じ取ってしまい、ホシノはそれ以上強く突き放すことができないのだった
(んんー……嫌ではないんだけど……うん、嫌じゃないんだけどさぁ)
まるで甘えたがりの本物の大型犬にでものしかかられているかのような光景に、ホシノは埋もれた頭のなかで困り果てた苦笑いを浮かべた
こうして別世界からやってきた、心に深手を負い傷ついた後輩に甘えられ、頼りにされること自体は決して嫌ではない。むしろ、あの途方もなく過酷な戦いを生き抜いてきた彼女が自分に心を開き、身を委ねてくれているのだと思うと、先輩としては満更でもないどころか胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた
……まあ、こうして密着されるたびに嫌でも分からされる、自分と彼女との決定的な身体の成長差や胸囲の圧倒的な格差には、ホシノとしてはいささか複雑で情けない気持ちになってしまうのだが
それと同時に、ホシノの頭にはかねてからの小さな疑問がふつりと浮かんでは消えなかった
(それにしても……なんでおじさん『だけ』を、こんなに熱心に呼び出すのかなぁ)
彼女はいつだって、アビドス対策委員会の他のメンバーに勘づかれないよう、驚くほど念入りに呼び出しの手段を変えてくる
ある時は夕暮れの廃校舎の陰に短く日時だけを記したメモを残し、ある時は弓矢で不意打ちのように手紙を木柱へ射ち込んできた
この前に至っては、彼女が『色彩』の残り香とともに繰り出すあの特殊な次元跳躍空間の移動能力を使い、ホシノが一人で自治区の境界線を巡回していたところを突然首元からひっつかんで、この寂れた空き家へと一瞬で転移させたのだ。あの時は空間の歪みに吸い込まれた瞬間、本気で生きた心地がしなかったし、心臓が跳ね上がった
例えば——彼女がまだ心の整理がついていないから、ノノミやアヤネ、セリカたちには会いたくないというのなら理解はできる
一度はこのキヴォトスという世界そのものを滅亡へと導こうとしたという、途方もない罪悪感。そして、彼女がいた元の崩壊した世界では対策委員会の仲間たちが誰一人として生き残れず、いま目の前にある平和なアビドスの日常の記憶と重なってしまって辛いから会えない……それなら理由として完璧に納得がいく
けれど、他の仲間たちとは頑なに顔を合わせようとせず、こうして自分だけをこっそりと人目のない場所に呼び出しては、頭を撫でさせたり抱きついてきたりするのは一体なぜだろう
「……ねぇ、クロ……」
「……」
その瞬間——後ろからホシノを優しく包み込んでいた柔らかい空気が、ピリッと肌を刺すような鋭い緊張感を孕んだものへと一変した
ホシノの細い腰を回っていた長い腕の力がわずかに強まり、後頭部に伝わっていた彼女の体温がほんの少し強張る。言葉の途中でうっかり呑み込んだ「クロコ」という呼称に、彼女が敏感に反応したのだ
初めてこの薄暗く埃っぽい空き家に呼び出された、あの日のやり取りがホシノの脳裏を鮮明によぎる
あの時はお互いに何を話せばいいのか分からず、古い床板が軋む音だけがやけに響く重苦しい沈黙が続いていた。あまりにも居心地の悪いその空気に耐えかねて、ホシノが「シロコちゃんが二人いると色々と紛らわしいし、服も黒いから『クロコちゃん』って呼んでもいいかなー?」と、場を和ませるための冗談交じりで切り出したのだ
その時、彼女は相変わらずのホシノの安直すぎるネーミングセンスにどこか呆れたような顔を見せ、けれどごく小さく口元を緩めてこう言ったのだ
『いつか……みんなと会う時が来たら、その名前でいい。でも……いま、二人だけで会う時は、シロコって呼んで』
まるでそれが二人だけの絶対に譲れない聖域であり、交わした秘密の約束であるかのように、静かに、けれど強い切望を込めて告げて承諾してくれたのだった
「し、シロコちゃん」
「ん、なに?」
ホシノが慌てて呼び直すと、背中に張り詰めていた鋭い緊張はあっと言う間に立ち消え、何事もなかったかのように彼女は「ん」と短く喉を鳴らした
ホシノは顔に浮かんだ冷や汗を拭うような苦笑いを噛み殺しながら、胸の内にずっと温めていた一番の疑問を、意を決して言葉にして投げかける
「なんでおじさんだけを呼ぶの? もしかして……みんなと会うのが、少し怖かったりするのかな」
「……ん」
「……?」
首をかしげるホシノの抱擁をふっと解き、彼女はホシノの小柄な両肩を細くしなやかな手で掴むと、そのまま正面からまっすぐに向き合う形へ身体をクルリと旋回させた
そして、吸い込まれそうなほど美しくもどこか神秘的な瞳で、ホシノの顔を至近距離でじっと見つめ返してくる。そこに残された、かつて自らのすべてであった「ホシノ」の面影を、一つひとつ愛おしむように、壊れ物を確かめるかのように
「……ホシノ先輩の言う通り。まだ、怖い。私はシロコであって……こちらの世界の『シロコ』じゃないから。……例えこっちのノノミやアヤネたち全員が、私を笑って優しく受け入れてくれたとしても、私が過去に犯した罪や、この世界を『色彩』で壊そうとした事実は絶対に消えない。……だから、いまの私にはみんなに合わせる顔がない。その資格もない」
「でも、おじさんとはこうして二人で会ってくれるよね?」
「……ん……」
不意を突かれて言葉に詰まった彼女は、視線をわずかに斜め下のアスファルトの亀裂へと泳がせると、ほんの少しだけ両頬を膨らませて、不貞腐れたようにぽつりと呟いた
「……悪い? ……先輩は記憶を失った私が、生まれて初めて本当の温かいものをもらった人。あの絶望の暗闇の中でずっと……もう一度だけ、死ぬ前にもう一度だけ会いたかった人だから」
自分のよく知るこちらのシロコと驚くほど瓜二つな、その分かりやすすぎる不貞腐れ方に、ホシノは思わず頬の緩みを抑えきれなくなった。
初めて大気圏外の宇宙要塞で相対した時の、すべてを諦めて達観していた哀しくミステリアスな雰囲気は一体どこへ行ってしまったのか。いま目の前で拗ねるように座り込んでいるのは、紛れもなくアビドスのかわいくて不器用な後輩そのものだった
「まあ、おじさん的には大歓迎なんだけどさー。頼りにしてくれる可愛い後輩がまた一人増えたと思えば、先輩としてこんなに嬉しいことはないしね? ……でもさー? 突然首根っこを掴まれて空間跳躍で拐われた時は、流石のおじさんも怖くて膝がガクガク震えちゃったよー?」
「……拐われた瞬間、コンマ一秒足らずの恐ろしい反射神経で完璧に対処しようと、私の喉元にショットガンの銃口を容赦なく突きつけてきた人のセリフじゃない」
「あれー? おじさん、そんな恐ろしいことしたっけかなぁ〜? 夢でも見てたんじゃない〜?」
あざとく頭を掻きながらとぼけて見せるホシノに、彼女は呆れたように「はぁ」と深く溜め息をひとつ吐き出すと、ようやくホシノの肩から静かに手を離した
そして、日差しが木漏れ日のように差し込む埃っぽい空き家の床に、ホシノと完全に相対する形で膝を折り、行儀よく座り込んだのだった
「……本当は、ホシノ先輩とすら会うつもりはなかったんだけどね」
「……そうなの?」
「ん」
コクリと深く、一度だけ頷く。その瞳には、先ほどまでホシノの抱き枕になりながら冗談を言っていた時の柔らかさは欠片もなく、静かで冷徹な決意の色が宿っていた
「確認したいことが、一つだけあったから」
「確認したいこと……?」
「……」
クロコは言葉を返さない
突如、彼女のすぐ横の空間に、歪んだ黒い亀裂のようなものがゆらりと揺らめき現れた。まるで世界そのものが裁ち鋏で切り裂かれたかのような、異質で不気味な空間跳躍の兆候
彼女がその漆黒の境界へと華奢で細い手を迷いなく差し入れると、ジャラ……と密室に金属の擦れ合う重厚な音が響き渡り、一丁のアサルトライフルが引き抜かれた
黒塗りの漆黒のフレーム、長年の激戦と過酷な環境を生き抜いてきたことを物語る無数の擦り傷や刻印。それはこちらの世界のシロコが肌身離さず愛用している『WHITE FANG 465』と、そのカラーリング以外は全く同じ形状をした、彼女の魂とも言える愛銃だった
引き締まった無駄のない洗練された動作でライフルを構え直した彼女は、息を吸う猶予すら与えないスピードで、その冷たい黒い銃口をホシノの眉間へ直線状に静かに突きつけた
ドス黒く放たれる明確な殺気と、針を刺されたかのように緊迫した冷徹なまでの静寂。壊れかけた空き家の中の空気が、瞬時に氷点下まで凍りつく
「……シロコちゃん。……どういうつもりかな?」
ホシノの目つきが、劇的に変貌を遂げる
さっきまで浮かべていた、後輩の甘えにのんびりと身を委ねる『怠け者の先輩』のゆるい仮面が瞬時に砕け散り、かつてキヴォトス最強の一角と謳われ、数多の暴徒を震え上がらせたアビドス最高戦力としての鋭く冷たい眼光が、左右色の異なる双眸に深々と宿る
いくら別世界からやってきた愛くるしい後輩——クロコだとは言え、これほど研ぎ澄まされた本物の殺気を至近距離で叩きつけられてしまっては、ホシノとて防衛本能と警戒のスイッチを全開に切り替えざるを得ない。密室の温度が急激に数度下がったかのような凍てつく緊張感が、二人を重く包み込んだ
——しかし
ホシノの眼光が完全に戦士のそれへと切り替わり、いつでも懐へ踏み込める隙のない体勢へ移行したのを確かめた瞬間、クロコが全身から放っていた息の詰まるような殺気が、嘘のように一瞬で霧散した
「……昔、した。模擬戦」
クロコの声には一切の抑揚がない
「今日は……定期訓練の日。ここなら誰も来ない……思い切り、本気でやれる。今のホシノ先輩に、私の力が通じるか……確かめたかった」
すっとホシノの眉間から黒い銃口を外したクロコの薄い唇に、微かな満足げな笑みが浮かんだ
(……なるほど……そういうことね……)
そのあまりにも素直で不器用な表情を見て、ホシノは胸の仕えが下りたようにすべてを察し、深く納得した
あの『色彩』を巡る世界滅亡の危機と決死の決戦の際、ホシノ……いや、真っ先に捕らわれて救出対象となったシロコ以外の対策委員会メンバーは、結局のところ、異世界のクロコと直接刃を交えることは一度もなかったのだ
クロコ側が徹底的に自分以外の仲間たち……かつて自らの無力さゆえに失ってしまった『自分以外の対策委員会』との接触を頑なに避け、胸を切り裂かれるような罪悪感から逃げ回っていたのだから、当然言えば当然だ
しかし、これは命を奪い合う殺し合いなどではない。ただの「模擬戦」だ
クロコの言う通り、今日はホシノがあらかじめカレンダーに記していた、対策委員会定期合同訓練の日だった。ホシノはいつも通りシロコやセリカ、ノノミやアヤネたちとのハードな訓練を昼過ぎに終え、彼女たちを「おじさんはちょっと用事があるから〜」と先に部室へ帰らせてから、一人でこうしてクロコとの密会に足を運んでいたのだ
大気圏外の決戦場で、先生とこちらのシロコに敗北したあの時、絞り出すような吐露とともに己の途途もない絶望を明かしたクロコだったが、それ以来、あっちの世界でなぜ仲間たちや自分が死んでしまったのかという凄惨な詳細までは決して誰にも語ろうとはしなかった
けれど、大人びて成長したその身体つきや戦熟度から察するに、彼女は少なくともあっちの世界で3年生の代まで一人孤独に生き抜き、絶望の中で戦い続けていたはずだ
ということは、悲劇が起きてからの1年間、ホシノによる激しくも温かい『アビドスの名物模擬戦』を受ける機会など、一度として無かったことになる
それを今でも日付や曜日まで克明に覚えていて、こうしてこの人目のない廃屋で再現しようとするということは——今の自分がどれほど強くたくましく成長したのかを、大好きな先輩に見てもらいたい、そしてあの日々をもう一度だけなぞって甘えたいという、切ないほどの幼い承認欲求のあらわれなのだろう
(……はぁ。おじさんも人のこと言えた義理じゃないけど……本当に、どこまでも不器用な後輩だねぇ)
薄々は分かっていたのだ
あの宇宙に浮かぶアトラ・ハシースの箱舟で、暗い情念と諦念を宿したクロコの瞳を初めて見た時。すべてを失い、自暴自棄になって自らを痛めつけていた頃の自分……姿見の鏡に映っていたかつての自分の瞳と、まったく同じ色をしていると
しかしまさか、不器用すぎる感情表現の仕方や甘え方まで自分にここまで瓜二つだとは、思いもしなかった
ホシノは困ったようにひとつ大きな溜め息をつくと、ギシギシと音を立てるパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった
埃っぽい床を鳴らして、壁に立てかけてあった愛用の巨大な折りたたみ式シールドを引き寄せると、ガチャンと重厚な金属音を立てて前方に展開する
そして使い慣れた手つきで背中から重厚なショットガンを引き抜き、ひょいと華奢な肩の上に担ぎ上げた
「ふふ、いいよー。久しぶりに、おじさんの胸を叩き込む気で貸してあげる。手加減はなしだよ?」
ホシノは巨大な盾の陰から、いつもの温かく、けれどどこか頼もしい先輩の微笑みを浮かべて見せたのだった
「……ん」
ホシノがどう出るか分からず、ほんの少し不安げに瞳を揺らしていたクロコは、その胸を貸すという返答を聞くと小さく、噛み締めるように頷いた
無表情を装ってはいるものの、その薄い唇の端には、抑えきれない歓びと微かな安堵の笑みが小さく浮かんでいる
崩れかけた空き家を出た二人は、ギラギラとした日差しが容赦なく降り注ぐ灼熱のアビドス大砂漠へと、静かに足を踏み出すのだった
周囲を見渡しても、先ほどまで潜んでいた半壊状態の廃屋以外は、すべて視界の果てまで乾いた砂利と無限にうねる大砂丘に覆われていた
人はおろか、日頃この荒涼とした自治区を徘徊しているヘルメット団のようなゴロツキすら影を潜めている
照りつける日差しは容赦なく照度を増し、乾いた熱風が砂塵を巻き上げて吹き抜けるたび、遠くで風化しかけた廃ビル群の錆びついた鉄骨がキイキイと寂しげな悲鳴をあげていた
静寂と砂嵐の音だけが支配する、二人だけの完全なプライベート・フィールド
互いに十分な間合いを取り、足元で砂粒が滑る微細な感触を確かめながら、灼熱の砂の上でピタリと足を止めて向き合う。距離はおよそ十五メートル。遮蔽物は何ひとつない
「それじゃあ……いつでも好きに撃ち込んでいいよー? 先輩風を吹かせるわけじゃないけど、一応先手は譲ってあげる」
ホシノは華奢な肩に重厚なショットガンを引っ掛けたまま、どこか脱力したような緩い声で、左腕に保持した折りたたみシールドの位置を微調整する
一見すると隙だらけの無防備な立ち姿だが、その足裏の重心はいつでも砂を爆発的に蹴り出せる究極の均等さを保っていた
「ん。あまり油断してると……私が一瞬で勝つよ? 今の私は、昔の私とは違う」
「うへぇ、凄い自信だねー? 昔、おじさんにコテンパンにされて砂まみれになった時のことは、もう綺麗さっぱり忘れちゃったのかなー?」
クロコの強気な宣戦布告に、ホシノもまたどこか楽しげな軽口で返す
かつてアビドスの広大な運動場で、ノノミやセリカたちとともに汗を流しながら行っていた、あのどこまでも愛おしく他愛もない訓練の日の空気が、揺らめく陽炎の向こうから瞬時に蘇ってくるようだった
二人は武器の銃口を下げたまま、静かに、けれど互いの息遣いまで読み取るように視線を交錯させる
しかし——クロコは引き金を引く指に力を込めるでもなく、どこか遠い過去の世界を見るような、透明で哀しい瞳でぽつりと呟いた
「……ホシノ先輩は、誰かに本気で戦ったこと、ある?」
「ん? どういう意味?」
今まさに模擬戦の火ぶたを切ろうとした矢先の、あまりにも唐突で深い意味合いを含んだ問いかけに、ホシノは首を少し傾げた
クロコは何も答えない
代わりに、再び己のすぐ横の空間に黒く不気味に揺らめく歪んだ亀裂をゆらりと出現させた。漆黒の闇の中へと細くしなやかな手を静かに差し入れると、そこからもう一丁の銃を取り出す
「……ッ!」
ホシノの眼光が、一瞬で鋭く引き締まる
クロコがその手にしたのは、細かな擦り傷や打撲痕が随所に刻み込まれ、長年の激戦と地獄のような戦場を物語るハンドガンだった
丁寧すぎるほど大切に磨き上げられ、機関部のガンオイルと硝煙の混ざった匂いが熱風に乗って鼻腔をくすぐる
それは、ホシノにとって何よりも見覚えのある、そして決して忘れることのできない自らの腰兵装——『アビドス最高戦力』の証たる特別な拳銃だった
「先輩は……本気で戦う時、ショットガンだけじゃない。そのハンドガンも含めて、全ての火力を連動させて戦闘するんだよね。盾と、近接射撃と、連射の組み合わせ」
「……そっか。そっちの世界の私は、本気でクロコちゃんたちと向き合ったことがあるんだね」
ホシノの胸の奥底に、ずしりと重い納得と、胸を締め付けるような切なさが落ちる
そのハンドガンは、ホシノがかつて「小鳥遊ホシノ」という個人のおじさんとしての限界を超え、防衛戦や絶望的な激戦においてすべてを削り倒すためにしか抜かない代物だ
それをクロコが所持しており、戦術の癖や連動速度まで熟知しているという事実
それはつまり、あっちの世界のホシノが、何らかの理由でシロコたちに対して全力を叩きつける局面が存在したという証左に他ならない
それがシロコたち対策委員会を命懸けで守るための最後の防衛戦だったのか
あるいは……絶望に呑まれ、その銃口を愛する後輩たちに直接向けざるを得なかった悲惨な暴走の結果だったのか
「わっ……」
思考の海へと深く沈みかけたホシノに向かって、クロコは容赦なくその重厚なハンドガンを放り投げた
ホシノは慌てて空中で受け止めたものの、手のひらにずっしりと伝わる重厚な金属の質感と重みに、クロコの真意を測りかねて目を丸くする
「……先輩。本気で……来て。手加減されたら、意味がない」
ぽつりと落とされたその一語に込められた、胸を切り裂くような切望と覚悟
それだけで、ホシノは彼女が何を求めているのかをすべて理解した
クロコは、慰めや手加減された「思い出ごっこ」の甘い模擬戦が欲しいわけではないのだ。あっちの世界で壊れ、失われてしまった、本気でぶつかり合えたはずの憧れの先輩の背中
その「本物の強さ」と真っ向から拳と火力を交えることで、自分が一人で生き残ってきた証を、積み重ねてきた果てしない痛みを、いま生きているこの世界に刻みつけたいのだ
「……ふふ」
ホシノは言葉を返さない。愛用のショットガンを一度背中のホルダーへ戻すと、受け取ったハンドガンのグリップを力強く握り直す
——カチリ
洗練された動作でスライドが引かれ、金属音が静寂を切り裂く。左手で重厚なシールドを前方へ展開し、黒い銃口をまっすぐにクロコへ向けた
「……可愛い後輩に胸を貸すなら。最初から全力でいかないと、失礼だよね。おじさん、本気でいくよ」
「ん……ありがとう」
クロコもまた、黒塗りのアサルトライフルを脇にしっかり締め、軸のぶれない正確無比な射撃姿勢を取る
互いに究極の集中状態へと入り込み、完全な静寂が砂漠を支配した。風がピタリと止み、太陽の熱線だけが二人を焼き照らす
その固まりきった緊迫の空間を、風に煽られた丸い乾燥した回転草がコロコロと音を立てて転がり、二人の中央をゆっくりと横切っていく
回転草が二人の射線から外れ、砂丘の彼方へと消え去った——その瞬間
爆音とともに、二人の引き金が同時に引かれた
♢
轟音が乾いた大気を激しく揺らし、白い硝煙と灼熱の砂煙が周囲一帯へ暴力的に吹き荒れる
陽光を遮るもののない大砂漠の中央
先程まで二人が雨露を凌ぐために立ち寄っていた半壊状態の廃屋の一角は跡形もなく吹き飛び、微塵に砕け散ったコンクリート片と赤く熱した砂利が、激しい衝撃波とともに周囲へと飛散していた
クロコは一定の間合いを頑なに保ち続ける
空間の歪みから次々と引き抜かれる多種多様な投擲兵器――高集束型グレネード、特殊粘着榴弾、広範囲を焦がす熱圧弾。絶え間なく繰り出される爆炎と衝撃波の嵐が、ホシノの接近を断固として拒んでいた
だが、こんなところで後輩の後塵を拝するわけにはいかない。「アビドスの先輩」としての譲れない矜持がある
(――今っ!)
――パーン!
高く乾いた銃声が一閃
黒い空間の歪みから引き抜かれ、クロコの手から離れた瞬間の投擲弾頭。その安全ピンが抜かれるよりも早く、ホシノの放った一弾がコンマ数ミリの精度で完璧にその側面を撃ち抜く
「っ!?」
甲高い金属音とともに弾頭は遥か遠くの砂丘へと弾き飛ばされ、予想外の迎撃にクロコが驚愕で瞳を見開いた――その一瞬。ホシノの足が砂を爆ぜさせた
一気の間合い
相手のアサルトライフルの砲身が跳ね上がるより早く、その懐へと深く潜り込む
「くっ……!」
近接領域。即座に白兵戦へ切り替えるクロコ
目にも留まらぬ手数の暴力。砂を巻き上げる足払い、急所を穿つ肘打ち、そしてズシリと重い砲身による鋭い打撃
ガツン、と重厚な折りたたみシールドがすべての撃打を重い衝撃音とともに跳ね返す
衝撃で生まれたわずかな隙を逃さず、盾の面で相手の体勢を崩し――叩き込む、右手のリボルバーによる近接カウンター
(クロコちゃんの本当の恐ろしさは、空間跳躍なんかじゃない……この機動力)
『色彩』の力を経て、どれほど異質で強力な兵装を得ようとも
その本質的な戦闘スタイルは、何ひとつ変わっていない
野生の直感で致命的な攻撃を紙一重でかわし、生じたわずかな隙へ容赦なく牙を剥く、泥臭い実戦派の戦術
手数が爆発的に増えようと、その根底にある戦い方が「ホシノのよく知っているシロコ」と同じである以上、ホシノが誇る絶対の防壁を破ることはできない
――ドスッ
「ぐふっ……!?」
模擬戦では滅多に出さないような、力を込めた重い前蹴りが、クロコの薄い腹部に深々と刺さる
(……あ、やりすぎた!?)
愛くるしくも華奢な後輩の体に、いくら本気とはいえ重すぎる一撃を叩き込んでしまった――そんな焦念がホシノの脳裏をよぎる
だが、次の瞬間
吹き飛んだはずの細くしなやかな腕が、しぶとくホシノの足首を掴んでいた
常軌を逸した強靭な脚力と、全身を使った凄まじい遠心力
視界が急転直下し、ホシノの小柄な身体は力任せに砂漠の真っ只中へと放り投げられていた
「うわっと……っ!?」
空中で綺麗に半回転して受身を取り、すぐさま熱い砂地に両足を着けて体勢を立て直す
シールドを正面に構え直し、反撃の突撃に移ろうと前方に視線を向け――思わず、ホシノは息を呑んだ
いつの間に異空間から引き寄せたのか。クロコのその華奢な両腕にしっかりと構えられていたのは、見覚えのある超重量級兵器――6砲身の多連装ガトリングガン
「くっ……!!」
火花とともにけたたましいモーターの回転音が砂漠に響き渡り、毎分千発を超える鉛の弾幕が激しく解き放たれる
おじさんは反射的にシールドを砂利へと深く突き立て、身体を極限まで縮めてその陰へ身を隠した
ガガガガガガガガガガガッ……!!
シールドの表面に無数の大口径弾丸が叩きつけられ、凄まい火花と強烈な衝撃が腕を通じて全身を激しく揺さぶる
(……うへぇ、ここまで本格的な重装戦闘になるなら、予備のスモークをもう少し持ってくれば良かったよ……)
あちらの世界で彼女が一人でくぐり抜けてきた、途方もない死線の数
(……引き出し多すぎでしょ、ホントに……)
タクティカルポーチに残された予備のスモークディスチャージャーは、残り2個。苦々しくそれを横目で見やる
――だが
ここで物量の少なさをボヤき、弱音を吐くなんて
全身全霊の力と敬意をもってぶつかってきているクロコに対して、最大の侮辱だ
(よし……!)
ホシノの双眸から甘さが完全に消え去り、射すような鋭く冷たい戦士の光が宿る
♢
ミニガンの回転音が、熱暴走による加熱と激しい弾切れを起こして不気味に途切れた――その奇跡的な一瞬
ホシノが迷いなくタクティカルポーチからスモークグレネードの栓を口で引き抜き、白い煙の尾を引く筒を自分の足元へ力強く投げつける。
(……やっと、本気になった)
目の前で炸裂し、瞬時に周囲の視界を濃密に塗りつぶす白煙。クロコは迷うことなく素早いバックステップで離脱
同時に空間の歪んだ裂け目から黒いアサルトライフルを引き抜き、一切の隙がない射撃態勢を素早く整える
――まさに、その瞬間。
白い煙の切れ目から、小柄な影が鋭く弾け飛んだ
「こっちだよー!」
煙を切り裂いて飛び出し、空中で水平に角度を保ちながらハンドガンの銃口を向けてくるホシノ
絶妙な隙を突いたはずのホシノの視線が、すでにこちらを射線上に捉えているクロコの冷ややかな瞳と交錯する
――しまった
ホシノの顔から余裕が消え、背筋を鋭く削るような悪寒が走るのが分かっ
――キィン!
甲高い高周波音。背後の壊れかけた瓦礫の死角から跳ね上がったのは、あらかじめ空間跳躍で仕込んでおいた小型自律ドローン。懸架されたミサイルポッドが、無防備な背中に向けて牙を剥く
「くっ……!?」
空中で正面にシールドを構えていたホシノに、背後からの急襲を防ぐ術はない
空中での身捻りと同時に泥を這うように砂地へ転がり込んで直撃こそ避けたものの、至近距離で炸裂した衝撃波と飛び散る強烈な破片が、その華奢な身体を容赦なく打ち据える
もうもうと立ち込める黒煙と砂塵の中、苦痛に眉間を寄せてハンドガンを構え直すホシノ
けれど――クロコは、すでにそこにはいない
踏み込みひとつで完全な死角へ旋回し、黒煙を切り裂いて肉薄する
視界が晴れるより早く、しなやかな足から放たれた旋風となった上段蹴りを叩き込む。正確無比な一撃が、先輩の握るハンドガンを真横から容赦なく蹴り飛ばした
カチン、と硬い金属音を立てて、一丁の銃が砂丘の彼方へ消えていく
間髪を容れず、追撃の膝蹴りでさらに肉薄する。ホシノ先輩はシールドの底面を砂利の上で上手く滑らせ、後ろへと大きく跳躍して間合いを取ろうとした
けれど、その回避行動すら予測済み。地を強く蹴り、ぴったりと死角へ追随する
(ハンドガンは叩き落とした……! 背中のショットガンを抜く隙は絶対にあげない……!)
メインウェポンへ手を伸ばすほんの一瞬の間すら与えない。繰り出す鋭い格闘とライフルの銃身による容赦ない打撃の嵐
ホシノは前に構えたシールドだけで受け止めるしかない
先ほどの爆風のダメージでわずかに鈍ったホシノの反応速度。それを、クロコの研ぎ澄まされた戦術感覚が確実に見切っていく。シールドの防壁の隙間をすり抜けた打撃が、ホシノの肩や側面をかすめ、着実にその体力を削り取っていく
「今……っ!!」
「ぐっ……!?」
完全な死角から叩き込んだ必殺の回し蹴りが、ホシノの薄い脇腹へ重く深く突き刺さった
ドゴォン! と鈍い肉砕音が響き、その膨大な運動エネルギーのまま、ホシノの身体は瓦礫の山へと勢いよく吹き飛ばされ、激しい砂煙を上げて崩れ落ちた
(……あと少し……! あとほんの少しで……私は、あのホシノ先輩に勝てる……!)
足裏から全身へズシリと伝わった、確かな撃破の手応え。胸の奥で、小さく、けれど抑えきれない熱い高揚感が跳ねた
かつてノノミと一緒に、アビドスの広大な運動場で初めてこの先輩と模擬戦をした日の記憶が脳裏を駆け巡る。あまりの強さと容赦のなさに打ちのめされ、これが毎月のように行われると知った時のあの途方もない憂鬱と困惑
けれど、それと同時に心に強く芽生えたもの
『いつか……自分一人の力で、この凄まじいホシノ先輩に勝ちたい』という、不器用で純粋な憧れ
……崩壊したあっちの世界では、最後までホシノに一人で勝つことはできなかった。悲劇の最期に至るまで、先輩は常に自分たちにとって超えることのできない絶対の壁だったから
けれど――今なら届く
あと一撃
たった一撃でも決定的な打撃を与えることができれば、あの日届かなかった夢に、手が届く
――その、瞬間
「……そっちのおじさんは教えなかったのかな?」
崩れ落ちた瓦礫の奥から響いた、低く静かな声
「『勝負がついたと思う瞬間にこそ、絶対に油断しちゃダメだよ』って……さ」
「っ――!?」
全身の皮膚がサーッと粟立ち、高揚していた心が氷のように冷え切っていく
持ち込まれた装備は、シールド、ハンドガン、背中のショットガン、スモーク2個
ハンドガンは遠くへ蹴り飛ばした。スモークは警戒の必要がない。残るショットガンも、この至近距離で構え直そうとすれば動作の出始めを簡単に潰せる
(どんな攻撃が来ようと、今のこの間合いなら確実に私が先手を取れる――!)
思考を限界まで加速させ、勝利への解を弾き出したその瞬間
瓦礫の山から、突如として腹に響く凄まじい「爆破音」が激しく轟いた
「!?!?」
世界がスローモーションへと減速する
目の前で炸裂した激しい爆炎。黒煙を真っ二つに切り裂き、まるで砲弾のように飛翔して肉薄してくるホシノの姿。その圧倒的な突進力と圧迫感に、昔、アビドスで言われた言葉が鮮明に蘇る
『だからねー、油断大敵なんだよ〜?』
1年生の時、ノノミと二人掛かりで挑んだあの模擬戦。二人でシールドを突破して初めて一撃を入れたあの瞬間。勝ったと確信して緩んだ隙を、ホシノは見逃さなかった
(でも、先輩はグレネードなんて…持ってなかった……はずなのに…!?)
無防備な腹部に蹴りを貰ってダウンし、距離を取っていたノノミに対しては、撃ち落とされ地面に転がっていたグレネードの爆風を盾で受けて推進力に変え、一瞬で距離を詰めて形勢逆転されたあの鮮やかな逆転劇
(……あ。まさか……あの時の……!?)
脳裏に閃く、開幕の攻防。弾丸で正確に弾き飛ばされた、あの高威力グレネード
煙に紛れて足元へ回収し――勝利を確信したこの瞬間の隙を突いて、己の足元で炸裂させたのだ。自分の身体を爆風で強引に押し出し、人間弾丸となるための推進力として利用するために
「これで……終わりっ――!!」
「ぐっ――!!」
爆煙を背負って迫った巨大なシールドが一閃。クロコの腕を鋭く払い、握っていたアサルトライフルが砂地へ高く弾き飛ばされる
すかさず、背中から引き抜かれたショットガンが滑らかな流れるような動作で構えられ――冷たい大口径の銃口が、クロコの額の真っ中央へピタリと押し当てられた
完全な、反論の余地もない詰み
静まり返った砂漠に、砂嵐の音だけが二人の間を虚しく吹き抜けていく
「……ふぅ。……参った。私の負け」
額に押し当てられた重厚な鋼鉄の感触を受け止めながら、クロコは静かに目を閉じ、降伏を示すようにゆっくりと両手を高く挙げたのだった
♢
「……やっぱり、ホシノ先輩は強いね」
「うへぇ……おじさんの唯一の自慢だからね〜。まだまだ後輩には負けられないよ」
すっかり澄んだ橙色から染み渡るような茜色へと優しく移ろい始めた、アビドスの深い夕暮れ時
二人が繰り広げた激しい爆炎と凄まじい衝撃波によってさらに崩れ去った廃屋の陰で、ホシノとクロコは肩が触れ合うほど近くで並んで熱の残る砂地に寝転がり、どこまでも広く、どこまでも遠いアビドスの黄昏の空を見上げていた
乾いた涼しい熱風が砂丘をそっと吹き抜けるたび、二人の火照った肌とじんわりと浮かんだ汗をすっと優しく冷ましていく
先ほどまでの息を呑むような死闘、命を削り合うかのような硝煙の緊張感が嘘のように、二人を包む時間はどこまでも穏やかで、優しく静かに流れていた
遠くで砂塵が風に舞う音だけが、心地よいBGMのように響いている
「それにしても、シロコちゃん本当に強くなったね〜。おじさん、途中から本気で背中に冷や汗が出ちゃったよ。あんな圧倒的な手数とスピードで来られたら、おじさんの骨が折れるどころの話じゃなかったなぁ。本当にびっくりしたよ」
ホシノは自分の真横で少し荒い呼吸を整えているクロコの頭へとそっと小柄な手を伸ばし、その艶やかな長い銀髪を愛おしそうに撫でた
わしゃわしゃと優しく髪を揺らすその手つきは、かつて運動場で汗を流したあと、幼い後輩を慈しんでいたあの頃と全く変わらない深い温もりに満ちている
「ん……。でも、前と同じ方法で負けた。昔、ノノミと一緒に模擬戦をした時の……あの時とまったく同じ、爆発を使った推進力の奇襲で……。それに、私は少しズルもしてる」
「ズル……?」
頭を撫でられる心地よさにうっとりと目を細めつつも、クロコはどこか申し訳なさそうに薄い眉をひそめ、ポツリポツリと胸の奥の不甲斐なさや悔しさを吐き出すように言葉を溢した
「ん……。先輩、今回の訓練にスモークとか閃光弾とか、小物系の戦術道具をほとんど持ってきてなかったでしょ」
「あー……。うへへ、確かにねぇ。いつもの感覚でショットガンと盾、あとは予備の弾薬とスモークを2個しかポーチに入れてなかったからさー」
「『本気で来て』って言ったのに……事前にどんな戦闘形態にするか告知しなかった。だから、先輩の武器や戦術の選択肢を狭めて戦わせることになった。私だけ万全の準備を整えて……あらかじめ仕掛けを用意してズルをしたのに、負けた」
頭を撫でるホシノの手の温もりに包まれながら、クロコは少しだけ恥ずかしそうに、そして己の至らなさを噛み締めるように視線を斜め下に落として小さく呟く
しかし、当のホシノは困ったような苦笑いを浮かべつつ、なんてことのない風に、けれどどこか優しく諭すような口調で言った
「うーん……確かに、もうちょっとスモークとか、できればフラッシュバンなんかも持っておかないと、シロコちゃんのあの縦横無尽な空間跳躍の機動力を相手にするのは……正直、少し骨が折れたよ?」
(少し……なんだ……)
クロコは心の中で小さく呟いた
あそこまで手の内を潰し、あらゆる火力を惜しみなく叩き込んだというのに、この先輩にとっては「少し」の範疇を出ないのだということに、呆れと同時に途途もない誇らしさが胸を突く
ホシノは沈みゆく美麗な夕日を見つめたまま、頭を撫でる手を優しくポンポンと叩いて言葉を続けた
「でもね……戦いってさ、自分が望んだ通りの道具や条件が完璧に揃ってから始まることなんて、滅多にないんだよ。それなのに、後から『あれがなかったから負けた』とか『準備が足りなかったから』なんて言うのはさ……命がけで向かってきてくれたシロコちゃんに対して、かえって失礼になっちゃうでしょ?」
「え……?」
思いがけない先輩の言葉に、クロコは驚いたように目を大きく見開いた
「手持ちの武器が少なかろうが、条件が悪かろうが、今ある自分のすべてを使って負けたなら……それは純粋に、あの瞬間のシロコちゃんの実力が、おじさんの引き出しを上回った場面があったってこと。そこまでおじさんを追い詰めたのは、誰のズルでもなく、紛れもなくシロコちゃん自身の実力だよ。だからもっと胸を張りなよ、私の可愛いシロコちゃん」
そう言って満足そうに「うへへ」と優しく笑うホシノの手のひらから、あまりにも懐かしく、そして温かい温もりが伝わってくる
あの日々からどれほど遠い絶望の果てへ来てしまっても、どんなに自分の姿や取り巻く世界が変わってしまっても——自分の大好きな「ホシノ先輩」は、ずっと変わらずここにいてくれたのだと、クロコは胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じていた
「はぁ……やっぱり、私の完敗だよ」
「およ? どうしたの急に。改まってさ」
「ん……改めて、ホシノ先輩の凄さを実感しただけ」
クロコは、この模擬戦の条件設定においてほんの少しズルをしてしまったという負い目を、心のどこかでずっと引きずっていた
けれど、当のホシノにとってそんな不利な条件など、本気を出せば足枷にすらならなかったのだ
あっちの世界で失ってしまった「無敵で絶対的な先輩」の背中
自分はどれほど泥を啜り、幾重もの死線を潜り抜けて力をつけても、この人の足元にすら辿り着けていないのではないかと、誇らしさと同時にほんの少しだけ胸が縮むような甘い敗北感を覚える
(……いやー……あはは……冷や汗出まくりだったんだけどね……)
少し満足そうに、けれど照れくさそうに口を尖らせるクロコを見て、ホシノは顔には出さずに心の中で滝のような冷や汗を流しながら苦笑いを浮かべていた
先ほどは格好をつけて「少し骨が折れた」なんて言ってみせたが、実際は本気で命取りになりかねない危険な局面が何度となく存在したのだ
いくら模擬戦で互いに決定的な殺気がなかったとはいえ、自分をここまで極限まで追い詰めるほどに彼女が成長しているという事実
そこには先輩としての本能的な焦りも確かにあったが、それ以上に、愛おしい後輩がどれほど強くたくましく絶望を生き抜いてきたかを示す証であり、胸を満たすのは圧倒的な誇らしさと溢れんばかりの歓びだった
「よしっと……それじゃあおじさん、そろそろ帰るねー」
よっこいしょ、と重い腰を上げたホシノは、膝やスカートについた乾いた砂をパッパと手で払う
「ん。今日は付き合ってくれてありがとう、ホシノ先輩。明日の予定は、また弓矢でそっちの校舎の屋上に送り届けるね」
「そ、そろそろ普通にモモトークで連絡してくれてもいいんじゃないかなぁ!? 窓ガラス割れるかと思って毎回ヒヤヒヤするんだけど!?」
いつもの無表情のまま、さらりと物騒で規格外な連絡方法を口にする後輩に情けない声をあげて焦りつつも、ホシノはひらひらと手を振って、茜色から群青色へと変わりゆく砂漠の帰り道を歩き出した
「……」
クロコは砂地に起き上がり、その小柄な背中が暗闇の深まる砂漠の彼方へと完全に消えて見えなくなるまで、膝を抱えたままじっと佇んで見送っていた
(……結局、一番聞きたかったことは、今日も聞けなかったな)
ぽつりと心の中で呟き、クロコは再び冷たくなり始めた砂の上に仰向けに寝転がった
今回の苛烈な模擬戦によって、クロコが胸に抱えていた「憧れの先輩と本気でぶつかり合いたい」という焦燥感は一つ解消された。けれど、どうしても胸の奥で重く引っかかり続けている不穏な疑問が、もう一つだけ残されている
「しろこ……か」
夜の静寂が広がるアビドスの空を見つめ、呟く
クロコはゆっくりと立ち上がると、先ほど蹴り飛ばしたホシノのハンドガンを砂の中から拾い上げると自分に着いた砂を払うこともせず、それ以上は何も言わずにホシノが去っていった方向とは全く別の誰もいない暗闇の広野へと歩き始めたのだった