「入場、からの勝利のポーズ!……んー、でもこの椅子すっごく硬いー」
アビドス対策委員会の静かな教室に、突如として響き渡る弾んだ少女の甲高い声
その言葉にタイミングを合わせるように、鮮やかな緑色のロングヘアを揺らしながら、パイプ椅子の上に勢いよく飛び乗ったのはハイランダー鉄道学園の橘ヒカリだった
彼女はビシッと両手を高々と天に向かって突き上げ、得意げなドヤ顔で勝利のポーズを決めてみせる
しかし、パイプ椅子の冷たく固いスチールとクッション性のない座面の感触にすぐ気づくと、不満そうにキュッと顔をしかめ、体をモゾモゾと落ち着きなく動かし始めた
「ここ、なんだか狭くない? それにお客さん来てるのにお茶も出ないの? ……あっ」
そのすぐ隣では、同じ緑髪で双子の妹である橘ノゾミが、部屋の狭さに文句を垂れながら物珍しそうにあちこちに視線を巡らせていた
そして、気まぐれにひょいと手を伸ばした先にある古びたスチール棚に触れた瞬間——そこに綺麗に整理して積み上げられていたアヤネのファイリング済み書類の束が、バランスを崩してガサガサガサッ!とけたたましい音を立てて崩れ落ちていく
「おい、暴れすぎだ」
「「いたっ!?」」
静まり返った教室に響き渡る、重く乾いた二つの鈍い音
書類の山に埋もれる隙すら与えず、右目に黒い眼帯をつけた少女——朝霧スオウが、容赦なく二人の頭上へ正確無比なゲンコツを同時に振り下ろしたのだった
綺麗な弧を描いて決まったその一撃は、双子の頭頂部にそれぞれ見事な威力を発揮し、二人は揃って両手で頭を押さえながら情けない悲鳴を上げる
「あ、あはは……」
その予測不能かつ容赦のないドタバタ劇を、アビドス対策委員会の面々は目の前で繰り広げられるシュールすぎる光景にただ呆然と立ち尽くし、乾いた苦笑いを浮かべて見守るしかほかなかった
「失礼した。まずはこの馬鹿どもが不躾に暴れたことを深く謝罪す……」
「ヒカリはおいしいお菓子を所望するー」
「ねぇ? ここクーラー弱くない? もっとガンガン強くしてよー」
スオウが軽く頭を下げ、場をなんとか締めようと仕切り直しかける。しかし、肝心の当事者である双子二人は、頭に出来たばかりの立派なタンコブを片手でさすりながらも、反省の色など微塵も見せずに我儘を言い続けていた
スオウは深く、それはもう深々と呆れ果てた溜め息をつき、これ以上この暴走双子に言い聞かせても無駄だと悟ったのか、諦めたような渋い顔で自ら話を先に進めることにした
「まずは自己紹介だな。私の名前は朝霧スオウ、ハイランダーの管理監督をしている。そしてその締まりのない緩そうな顔をしているのが橘ヒカリ、その横にいるのが妹のノゾミだ」
「ねぇー、退屈なんだけどー」
「ヒカリもー、退屈で死にそー」
「……こんなのだが一応、幹部クラスだ」
相変わらずマイペースに文句を垂れ続けるノゾミとヒカリの挙動に、スオウはこめかみを指で押さえて頭を抱える
その一連のやり取りだけで、この双子の暴走列車っぷりと、スオウが普段どれほど胃を痛めながら苦労しているのかが、初対面のアビドス陣営にも痛いほどよく伝わってきた
「……ところで、アビドス対策委員会はこれで全員か?」
スオウが視線をあちこちに巡らせながら、『こんなに人数が少ないのか?』と言いたげな気配を隠そうともせずに漂わせる
その無遠慮な物言いと冷めた視線を敏感に察知したシロコは、無言のまま瞳を怪しく光らせ、スオウの無防備な背後へと静かに、そして着実に殺気を孕んで間合いを詰め始めた
「シロコ先輩、待って! まだストップよ!」
「ん……」
シロコから解き放たれた不穏すぎる殺気をいち早く察知したセリカが、慌ててシロコの制服の裾を両手で必死に掴んで止めにかかると、シロコは不満そうに頬を膨らませながらも、渋々といった表情で一歩後ろへと引いた
「ねー? お菓子まだ〜?」
「客人に何も出さないつもり〜?」
「あっ、は、はい! 今冷たいお茶とお菓子持ってきますね……!」
無邪気なのか悪気がないのか、次々と飛んでくるヒカリとノゾミの図々しい要求に、アヤネは額に冷や汗を流しながらも苦笑いを浮かべ、来客用の茶菓子でも用意しようと健気に席を立とうとした
しかし——
「お構いなく。話ならすぐに終わる」
スオウの制するような冷徹な一言に、お茶を探そうとしていた双子姉妹は揃って首を傾げた
「……私達が歓迎されるわけないだろ。自分たちの仲間や大切な土地を取り戻すために、あのカイザーローンと命懸けで戦ってきた連中だぞ。さっきの煽りで即座に武力行使に出られなかっただけマシだと思え」
スオウは再び小さく息を吐き、一呼吸置いてから、どこか自嘲気味に冷ややかな言葉を続けた。
「……まぁ、仮に武力行使されたところで、最終的に勝つのは私だがな」
「……っ」
「し、シロコ先輩! リラックス! リラックスしてー! 深呼吸!」
「ほ、ほら! 先輩の好きなキンキンに冷えたスポーツドリンクですよー!」
スオウの不必要な挑発発言に、シロコの額にピキリと青筋が浮かび上がり、再び猛然と前へ足を踏み出そうとする
それを察知したセリカが必死の形相でシロコの体を全力で押し留め、アヤネはどこから取り出したのか冷えたスポーツ飲料のペットボトルを慌ててシロコの口元へ差し出した
シロコは差し出されたボトルを無言で受け取ると、アヤネの方に向けてどこか冷めたジト目を向ける
「……アヤネ、私のこと赤ちゃんか猛獣かなにかだと思ってない?」
「……話を続けてもいいか?」
自分が引き起こした直前の煽り発言の数々を棚に上げ、呆れたような口調で話題を強引に戻そうとするスオウ
これ以上シロコがキレて本当に教室で銃撃戦が始まらないうちに話を終わらせようと、先生も急いでその場を取り繕うように大きく頷くのだった
思い返せば、すべての混乱が始まったのはあの日の黄昏時のことだった
先日、対策委員会の教室で、ホシノとシロコ、そしてノノミの波乱に満ちた出逢いの物語に花を咲かせていた時のことだ。アビドスの静かな平穏を切り裂くように、アヤネの作戦用タブレットからけたたましい警報サイレンが甲高く鳴り響いた
夕闇が迫るアビドス自治区の管轄境界線付近で、何者かが大型の重機を持ち込み、白昼堂々と派手で違法な爆破工事を開始したという。対策委員会の面々はすぐさま臨戦態勢を整え、砂嵐の舞う現場へと急行した
そこで待ち受けていたのは、見慣れぬ作業員たちと、今回アビドスの教室で暴れ回っていたあのグリーンヘアの双子姉妹——橘ヒカリと橘ノゾミだった
彼女たちは無邪気な笑顔でダイナマイトの爆薬を炸裂させて巨大な岩石を吹き飛ばし、アビドスの敷地内に無断でレールを敷き、列車を暴走させていたのだ
疾走する電車の上での過酷で激しい戦闘の末、どうにか二人を拘束し、力尽くで事態を収めかけたその時だった。線路の奥から静かに現れたのが、あの右目に黒い眼帯をつけた少女——朝霧スオウだったのだ
『一応、今回のこの馬鹿二人、我がハイランダーの部下が多大なご迷惑を掛けたことについては深く謝罪する。……しかし、この線路と土地は元々我々の管轄下にあるものだ。……それはお前達も、重々承知のはずでは?』
管理監督を名乗るだけあり、部下であるはずの双子にも一切の情を挟まない冷徹な態度を崩さぬまま、スオウの口から告げられたのは——かつてアビドスの広大な土地の権利が、カイザーに代わりネフティスグループによって根こそぎ買い占められていたという、あまりにも重すぎる真実だった
結局その日は急速に夜の闇が迫っていたこともあり、スオウは暴れる双子の首根っこを猫のように容赦なく掴み上げ、「自己紹介も含め、後日改めて出直す」とだけ冷たく言い残して夜の砂漠へと去っていったのだった
そして、現在——
「それで……なぜネフティスがかつて買い占めたとされるその場所で、貴方方が勝手に重機を持ち込み、好き勝手に暴れているのですか?」
ノノミがいつものふんわりとした笑みを消し、静かに、けれど逃げ場を与えない鋭い視線でスオウをまっすぐに見据えて問い質す
スオウは表情ひとつ変えず、腕を組んだまま淡々と答えた
「ああ、どうやら根本的な認識の前提からズレているようだな。大前提として、鉄道運用を司るハイランダー鉄道学園が私企業と業務提携することはごく日常的なことだ。……そこら辺の利権や大人の事情については、あんたなら私以上に詳しいんじゃないのか? ——十六夜ノノミ」
スオウがその名を呼んだ瞬間、教室の空気がピリッと張り詰める
「……昨日からずっと気になってたけど、こいつはノノミの事をまるで昔からの知り合いみたいに話してる。……ノノミ、知り合いなの?」
シロコが怪訝そうな瞳を向け、ノノミの横顔を覗き込むように尋ねる。ノノミは一瞬だけ切なげに目元を伏せ、ゆっくりと小さく首を横に振った
「いえ……私には分かりません……これまでの人生で、お会いした記憶はありません」
「私を知らなくても別に結構だ。私は上から命じられた業務と任務を淡々とこなすだけの立場だからな。……本来なら私のような現場の監督ではなく、お前たちの新しい債権者たちが直接出向いて説明するべきなのだろうが……」
「新しい債権者……それって、ネフティスのトップってこと?」
セリカが身を乗り出して尋ねると、スオウは眼帯の奥の瞳をわずかに細めた
「確かに、ネフティスがお前たちの膨大な債権を買い取ったのは間違いない事実だ。だが、今の衰退したネフティス一社の資本だけでは、アビドスのあの莫大な土地と鉄道権利を単独で購入することなど不可能なのだよ」
「ど、どういうことよそれ!? ネフティス以外にも誰かが絡んでるってこと!?」
「私募ファンド、と言えば少しは構造を理解できるか?」
「し、私募ふぁんど……?」
難解な経済用語を前にシロコが頭の上に「?」を浮かべると、スオウの言葉足らずで雑な説明にしびれを切らしたように、ノノミがまっすぐにスオウの目を見つめた
「……つまりは、ネフティスという企業の背後に、複数の匿名投資家グループやファンドが資本を出資して関わっている、ということですね」
「そういうことだ。話が早くて助かる」
「……でも、なんで今更アビドスの土地や権利なんて買い叩くの? 」
セリカが疑問を投げかけた——まさにその瞬間
『――その疑問について、私から直接ご説明申し上げましょう』
「っ!?」
シロコがスオウに向けてさらなる追求の姿勢を見せた瞬間、教室の中央の空間が歪み、ジャリジャリと雑音交じりの電子ノイズが響き渡った
青い光の粒子が集まり、目の前に一機の洗練された人型ロボットのホログラム映像が立体投影された
その姿を目にした瞬間、ノノミは息を呑み、驚愕のあまり綺麗な瞳を大きく見開いた
『お久しぶりです、お嬢様。このような慌ただしくも不躾な形でのご挨拶になってしまい、大変申し訳ございません』
ノノミに向かって深々と恭しく一礼するホログラムのロボット
「えっ……この人、ノノミ先輩の知り合いなんですか……!?」
アヤネが驚きながら問いかけると、ノノミは胸の前で小さな手をギュッと握り締め、どこか懐かしさと戸惑いの混ざった声で応えた
「この方は……ネフティスグループの現幹部で……昔、私がまだ小さかった頃にお世話をしてくださっていた執事の方です……」
『……お嬢様と個人的な思い出話に花を咲かせたいところではございますが、あいにくこちらも時間が潤沢にあるわけではございません。……そちらのオペレーターの方の端末へ、今回の契約に関する重要な証明書データを転送いたします』
その言葉を合図に、アヤネの手元に置かれた作戦用タブレットから「ピロン♪」と軽快な電子受信音が鳴り響いた
アヤネは素早く画面を操作し、送られてきた暗号化データを展開していく
「……データの照合、完了しました。確かに……ネフティスと複数の投資家ファンドが共同でアビドスの土地および鉄道権利を買い取った正式な取引履歴が残っています……」
『では、先ほどのセリカ様の「なぜ今更アビドスの土地を買うのか」というご質問についてお答えいたしましょう。もう1枚の添付フォルダーを開いて見せてもらえますか?』
「……これですね。開きます」
『それは先日、ハイランダー学園の地下深くに眠る古い倉庫の奥底から、奇跡的に発見された古い正式な契書です』
アヤネのタブレット画面に提示された鮮明なデータには、砂漠横断鉄道における関連施設の永久使用権を、かつてネフティスからアビドス生徒会が買い入れるために交わされた、公的な契約文書が映し出されていた
アヤネが画面を凝視しながら、細かな条項を一つひとつ読み進めていく。すると突如として、画面をスクロールしていた彼女の指先がピタリと硬直した。眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれ、唇がわななぐ
「ほ、ホシノ先輩……っ!!」
「ん? どうしたのアヤネちゃん、そんな慌てちゃって。」
「こ、これ……! この書類の最下部にある、契約者署名欄を見てください……っ!」
「!!」
居ても立ってもいられなくなったアヤネがガタッと勢いよく立ち上がり、机の上に「ガチャン!」と大きな音を立ててタブレットを叩きつけるように置いた
そこには書類の拡大写真があり、震えるような文脈の中にも、確固たる強い意志を感じさせる署名欄。そこには——
『アビドス高等学校 生徒会長 梔子ユメ』
という、ホシノにとって忘れようはずもない、愛おしくも切ないあの少女の鮮やかな直筆のサインが、ハッキリと刻み込まれていたのだった
「ゆ、ユメ先輩の……サイン……!?」
『はい。今回の私達の要件は、他でもなく「その契約を今後も存続させるかどうか」についてです』
ホログラムの執事は、静まり返った室内で淡々と、けれど重みのある声を響かせた。
「……ホシノ、私達はユメの字をそこまで詳しく知らない。本当に、それはユメの本物の字かい?」
先生がホシノの隣に寄り添い、低く落ち着いた声で確かめるように尋ねる。
「疑うならば、ここに当時の現物コピーもある。電子画面のタブレットよりは、そちらの方が文字の筆跡や紙質は確認しやすいだろう」
スオウが無造作に制服のバッグから厚手の茶封筒を取り出し、ホシノへと向けてテーブル越しに軽く放り投げる
パサリと静かな音を立てて投げ出された紙を、ホシノは吸い寄せられるように両手で拾い上げた
まるで穴が空いてしまうのではないかというほどの鋭い眼差しで、そこに記された文字の払い、止め、癖を穴があくほど凝視する
「……間違いない……これはユメ先輩の字だ……。だけど、私はこんな大きな契約の話、一度も聞いたことがない……」
『恐らく、正式な手続きや最終的な契約が完全に完了する前に……あの事故が起きてしまったからではないでしょうか?』
(……確かに、それなら辻褄は合う……。ユメ先輩は大事なことでも途中経過をまともに報告してくれない人だったから……。だけど、学校の復興作業中も、放課後の生徒会室でも、私はいつもずっと一緒にいたのに……いつの間にこんな裏で……)
ホシノの頭の中で、様々な思考や記憶の欠片がぐちゃぐちゃに混ざり合い、激しく音を立てて回転していく
その傍らで執事のホログラムとスオウのやり取りが淡々と続けられているが、もはやホシノの耳には何も入ってこなかった
(なぜ、私に一言も黙ってこんな大事な契約を……?)
底なしの疑問が頭を支配する
いくらユメが大雑把で途中報告を忘れる性格だったとしても、ここまで大掛かりで長引くような契約であれば、四六時中隣にいたホシノが気付かないはずがないのだ
「……なぜ、そんなに急いでサインを求めるのですか?」
室内で、ようやくホシノの耳に届いたのは、先生の冷静で静かな問いかけだった
『……おや、少し慌てすぎましたね。ですが契約書の右下の片隅にある日付を見ていただければ分かると思うのですが……あとわずか二日で、その仮契約の有効期限が切れてしまうのです。私としても、お嬢様が深く関わっているこの学校が、知らないところで突然契約破棄を言い渡され、さらなる危機に陥るのを見るのはあまりにも心苦しくて』
ホシノは震える指先で、書類の端に小さく刻まれた日付欄に目を落とした
そこに並ぶ数字を脳が認識した瞬間、全身の血がサァッと引いていく感覚とともに、瞳を大きく見開いた
「ホシノ先輩……?」
ただならぬ雰囲気を察知したノノミが、心配そうにそっと寄り添い声をかける。
「……この日付……これ、ユメ先輩と最後に……最後に会った、その次の日……っ」
「!!」
息を呑む対策委員会の面々
そこに無情にも記されていたのは、白子の火葬を終えた絶望の中で闇雲に周辺の闇企業を潰し歩き、ボロボロになってユメの元へ帰り、彼女の姿を見て泣き崩れたその翌日——ホシノを何とか元気づけようとユメがトリニティへと買い物に出かけ、あの悲惨な事故に遭う、まさに直前の日付だったのだ
なぜ、あんな壮絶な悲劇の前に、彼女はこんな契約を進めていたのか
意味が分からない。何もかもが、繋がらなくなり、理解の許容範囲を超えていく
『……では、契約が切れるまでの残りの2日間の間に、この件をどう処理するのか、結論を出しておいてください』
「おい、用件は済んだぞ。私達も引き上げるぞ」
「はーい……お腹すいたー」
「アイス買って帰ろー」
いつの間にか淡々と話がまとまり、ホログラムがシュウッと音を立てて空中に消え去ると、スオウはぐったりとした双子の首根っこを掴んで無言で外へと歩き出していく
後に残されたのは、凍てつくような重苦しい空気と、言葉を失った対策委員会の面々だけだった
「えーと……今の話を、分かりやすく整理してまとめると……」
「まとめられるわけないでしょそんなの!!」
「せ、セリカちゃん!?」
あまりの重い空気に耐えかねて、アヤネが何とか状況を整理しようと声を張り上げた瞬間、セリカが堰を切ったように激しい怒鳴り声を上げた
「いきなり変な奴らが勝手に敷地に入って工事を始めて、借金取りの仕組みはややこしく変わるわ、結局なんでアビドスを買ったのか目的もはっきり言わないわ! 挙句の果てには、誰も見向きもしないような古い鉄道施設の使用権なんて忘れ去られた契約書を、よりによって期限切れのたった2日前に持ってくるなんて……! 絶対に裏で何か良からぬことを企んでるに決まってるじゃない!」
先ほどからのやり取りで溜まりに溜まったストレスと困惑が爆発したのか、セリカは髪を振り乱しながら床を激しく地団駄で踏み鳴らす
しかし、そのむき出しの怒りと率直な言葉のおかげで、ショックで固まっていたホシノ以外のメンバーたちの表情に、フッと新たな決意の色が灯りはじめた
「……なによ、みんなしてそんなジッと私の顔を見て!」
「ん、地雷を踏み抜くセリカなら、絶対真っ先にそう言ってくれると思ってた」
「どういう意味よそれ!! 全然褒めてないでしょ!」
「……ホシノ先輩」
少しだけ重苦しさが和らいだ空気の中、アヤネはスッと真剣な眼差しに戻り、深々とうつむいたまま動かないホシノの名前を静かに呼んだのだった
「……どうしたの、アヤネちゃん」
重苦しい静寂を破ったのは、低くか細いホシノの声
「今回のこの騒動のすべての鍵が、2年前のアビドス生徒会長――梔子ユメさんにあるのは痛いほど分かりました。ですが、私達は当時の詳しい事情を何ひとつ知りません……。だから教えてください、なぜ生徒会長はあの日、ホシノ先輩に一言も告げずに一人で遠くへ出かけてしまったのですか?」
アヤネの問いかけには、単なる好奇心ではなく、アビドス対策委員会としてホシノの抱える過去の闇を分かち合いたいという切実な願いが込められていた
「……っ」
ホシノの肩が小さく跳ね上がり、息を呑む音が静まり返った教室内で小さく響く
「教えてください……『あの日に本当は何があったのか』を」
アヤネは胸元で何度も小さく深呼吸を繰り返すと、一度だけ深く息を吸い込み、視線をその隣に静かに佇んでいたノノミへとゆっくり向けた
「ノノミ先輩も……何か本当のことを知っているんですよね? シロコ先輩すら知らない、当時の何か特別な事情を」
「そ、それは……」
突然振られた振刀に、ノノミはいつも保っている穏やかな微笑みを一瞬だけ揺らがせ、困惑したように目線を落とした
胸の前で握りしめられた手が、ぎゅっと力を持つ
「……校舎の1階に、頑丈に施錠されている2つの教室がありますよね。そのどちらかが、当時の本当の『生徒会室』なんですよね?」
「ん……私もずっと気になっていた。他の教室は鍵なんてかかっていないのに、あの1階の2つの部屋だけがいつも固く鎖で閉ざされていること」
アヤネに続いてシロコも静かに問いを重ねる。逃げ場のない、けれどどこまでも温かく切実な問いかけが、茜色から群青色へと移り変わる夕暮れの室内に重く響き渡った
「ふ、2人とも……ホシノ先輩が困ってしまっていますよ」
ノノミが胸を痛めたように眉をひそめ、詰め寄るアヤネとシロコを制そうと口を開く。しかし、その優しげで不器用なフォローを、ホシノはかぶりを振って小さく遮った
「……ノノミちゃん、いいんだ。『まだ』大丈夫……あの子の事はまだ隠して言えるから」
ホシノは重い腰をゆっくりと上げるようにして視線を上げ、じっと教室の天井の一点を凝縮するかのように見つめながら、ぽつりぽつりと話始める
その声は普段のふざけた「先輩」のものではなく、傷を隠し続けてきた一人の少女のものだった
「……まずは、ユメ先輩が今もあの病院でずっと意識が戻らず、寝たきりなのは……みんなも知っているよね」
「はい、この前も対策委員会のみんなでお見舞いに行きましたから……」
アヤネが心配そうに、しかししっかりと頷きを返す
「……あの日付の、ちょうど1週間前。ユメ先輩はある闇企業に身柄を攫われたんだ。昔、おじさんが単身でそこを襲撃して、跡形もなく叩き潰したはずの連中だったんだけど……」
「えっ」
セリカが息を呑む。これまで語られなかった、アビドスのさらなる暗部の片鱗がそこにあった
「……ユメ先輩をその場で助け出すこと自体には成功したんだよ。だけど、敵が抱いていたおじさんへの底知れぬ恨みと悪意を、おじさんが少し甘く見積もっていたせいで……奴らの道連れの最終的な自爆攻撃を許しちゃったんだ。ユメ先輩は気合でおじさんが安全な場所に放り投げて避難させることだけはできた。……だけど、その爆発の範囲からおじさんが自力で逃げ切るには、どう足掻いても時間が足りなくてね」
「……ホシノ先輩なら、その手の爆破くらい無傷で耐えられんじゃ……」
シロコがいつもの平然とした無機質なトーンのまま、どこか恐ろしい事実をサラリと口にする
それに対し、ホシノは困ったように乾いた苦笑いを漏らした
「あはは、シロコちゃん達からは日頃からおじさんのこと化け物みたいに思われてるんだねぇ。まぁ、実際のところ本当にその通りで、大抵の攻撃なら平気なんだけどさ。少しばかり痛い思いをするくらいなら耐えられるって高を括ってたんだ……。でもね、その時におじさんが実際に体に感じたのは、激しい熱風でもなければ、部屋中に飛び散った仕込みの鉄球の衝撃でもなかった……誰かに前から力いっぱい、ものすごい勢いでドンと押された感覚だったんだ」
「……」
「気がついた時に目の前で見たのは……おじさんが『危ないからここでじっとしててね』って言って、絶対に動かないように言い聞かせて隠しておいたはずの、3人目の生徒会の『子』が……全身血だらけになって、冷たくなって倒れていたの」
「それって……じゃあ、ホシノ先輩の代わりに、その『人』が身わりに……」
アヤネが絶句し、震える両手で固く口元を覆う
「うん……その子は本当にいつも元気で、おじさんの後ろを駆け回るのが好きでね。私とユメ先輩で、自分の本当の妹みたいに凄く、それはもう大切に可愛がってたの……。そんな子が、おじさんの身代わりになって……私の目の前で、守られて命を散らしていった。頭が真っ白になって、おじさん、自分のしたことへの恐怖と絶望でどうにかなりそうだった。だから、その耐えがたい現実から逃げるように、気を紛らわすために……丸1週間くらい、周辺の闇企業とか手当たり次第のゴロツキを、一人で片っ端から制圧して回ったんだ」
あまりにも過酷で、あまりにも残酷すぎる二年前の真相
その生々しすぎる絶望と後悔の告白に、セリカやアヤネ、そして先生も、喉の奥を冷たい刃で突かれたようにただ息を呑むだけで、誰も言葉を返すことができなかった
「……そしてね、ボロボロになって学校へ帰ってきて……ユメ先輩の顔を見た瞬間、ずっと我慢してたものが全部決壊して、自分のせいでその子を死なせたって、ユメ先輩の前で子供みたいに泣きじゃくりながら、懺悔のように後悔を吐き出したの。……そうして、泣き疲れて、そのまま泥のように眠ってしまった」
ホシノの瞳から、すうっと光が引いていく
「そんな情けないおじさんを見て、ユメ先輩はすごく心を痛めていてね……。『ホシノちゃんを元気づけたい、また昔みたいに笑ってほしい』って思ったんだろうね、二人で約束していた特別なお守りを作るために、一人で遠くトリニティの管区方面へ材料を買いに歩いて向かって……そして、その帰りにあの事故に遭ってしまったんだよ」
重く冷たい静寂が教室全体を支配する中、ホシノは無理やり引き攣ったような笑顔を作り、パンッ!と乾いた音を立てて両手を叩いてみせた
「はいっ! おじさんの過去語りはこれでおしまい! ……なんでトリニティに向かったはずのユメ先輩があんな契約書にサインを残していたのかは分からないけどさ……今はそんなことより、目の前にあるこの面倒な問題をどうにかしないとね」
「……確かに……ホシノの言う通りだ」
張り詰めた空気を断ち切るように、先生が力強く深く頷き、ホシノの華奢な肩にそっと温かい手を置いた
「あと二日しか残されていない。前みたいに他校の手を借りたり、悠長に話し合っている時間なんて到底ない。……こういう悲しい過去の話は、この件を全部綺麗に終わらせてから、みんなで思いっきり悲しもう」
「そう……ですね。私たちには、まだやるべきことがありますから」
アヤネがメガネの端で溢れそうになる涙を静かに拭いながら、しっかりと前を向いて頷く
「ええ……! ホシノ先輩、今回の件が無事に解決したら、柴関ラーメンで特製チャーシューメンを思いっきり奢ってあげるからね、覚悟しなさいよ!」
「うへぇ……そんなに食べたらおじさんのお腹破裂しちゃうよぉ?」
「じゃあ、そのあとに私の特製手料理もたっぷり食べさせてあげる」
「シロコちゃーん? 嬉しいけどそれじゃあおじさんの胃袋が物理的にキャパオーバーで宇宙に行っちゃうよ!?」
重苦しかった空気を和らげようと、セリカやシロコがわざとらしく軽口を叩き、ホシノを気遣うように明るく振る舞う
その不器用で温かい優しさに触れ、ホシノは今日一番の、どこか柔らかい苦笑いを浮かべたのだった
「それじゃあみんな、今日は色んな事がありすぎたし、疲れちゃったし……まずはゆっくり休もうか」
重苦しい空気の余韻が残る教室で、ホシノがどこか自分に言い聞かせるように、ぽつりと提案した
「大賛成よ! もう頭が割れそうに痛いわ……。難しそうな話に、昔の暗い話までいっぺんに聞かされたら、脳みそが爆発しちゃう!」
ホシノの衝撃的な過去の告白や、突如突きつけられた謎だらけの契約書……あまりにも情報量が多すぎたせいか、セリカやアヤネ、そしてシロコは手際よく自分のカバンをまとめると、すっかり疲れ切った重い足取りでホシノたちを残し、ガラガラと音を立てて教室を後にしていった
廊下に響くガタガタという不揃いな足音が完全に遠ざかり、静寂が訪れる
「……みんな、もう帰ったかな?」
ホシノが廊下の様子を伺いながら呟くと、ノノミが静かに頷く
「そうみたいだね、誰もいなくなったよ」
「うへぇ……疲れた……」
先生の確認の言葉を聞くと同時に、ホシノは糸が切れた人形のように力なく大きな息を吐き出し、机にぐったりと体重を預けた
「ふはぁぁ……私も、流石に疲れました……」
それまで笑顔を保ち、気丈に振る舞っていたノノミも、緊張の糸が途切れて耐え切れなくなったように、コトリと可憐な音を立てて机の上に額を突っ伏した
先ほどの話し合いの中で飛び交った事実の数々は、確かに誰にとっても頭が痛くなるような難問ばかりだった
しかし、ノノミにとってそれ以上に恐ろしかったのは——ホシノが一番触れられたくないと心の奥底に隠し続けている「白子」という存在の真実について、自分自身がどこまで知っているべきなのか、そしてこの先、シロコたち3人の前でその秘密を隠し通せるのかという凄まじいプレッシャーだった
心臓がずっと破裂しそうなほどバクバクと鳴り響き、冷や汗が止まらなかったのだ
「あはは……本当にお疲れ様、ノノミ」
「えへへ……なんだか、生きた心地がしませんでした……」
「本当にお疲れ様……ノノミちゃん。あの場に君と先生が居なかったら、おじさん、途中で全部投げ出して飛び出してたかもしれないよ……」
先生はぐったりと突っ伏しているノノミの頭を優しく、労わるようにポンポンと撫でながら、ふと真剣で鋭い眼差しに切り替えてホシノに向き直った
「それで、白子の件はなんとか隠したまま主要な過去の話はできたけど……これからどうするんだい? あのハイランダーとネフティスが強引に持ち込んできた契約を何とかしないと、このままではアビドスの土地も鉄道も、彼らに好き勝手にされてしまう」
「……正直、分からない。けれど……みんなとなら、明日には何かいいアイディアが浮かぶかもしれない」
「……そうだね。今までも君たちはそうやって、どんな困難も乗り越えてきたんだから」
先生は渋い顔で考え込みながらも、腹を括ったように力強く頷いてみせる
「うん、私にできることは、これからも精一杯力を貸すよ!」
「ふふっ、先生はいつだって本当に頼もしいですね♪」
「うん……! それじゃあ、今日しっかり体を休めて、明日またみんなと今後の作戦を立てよう」
ホシノの頭の中では、未だにユメの真意や当時の断片的な記憶に対する疑問、そして胸の奥から消えない暗い澱がぐるぐると渦巻いていた
けれど、目の前にはこうして自分を支えてくれる先生やノノミがいて、教室の外には不器用ながらも温かい後輩たちがいる
きっと今回も何とかなる——ホシノはそう自分に言い聞かせ、沈みゆく夕日の中にわずかな希望を見出そうとしていた
しかし、その穏やかであるはずだった日常の歯車は、すでに誰も気づかない場所で、凶悪な音を立てて狂い始めていたのだった
◇
「……ノノミ先輩、遅くないですか?」
「ホシノ先輩やシロコ先輩ならともかく……いつも時間に正確なノノミ先輩が、事前連絡もなしにこんな時間まで遅れるなんて、なんだか少しおかしいわね」
「ん、セリカ。そんなに私の顔にゴミでもついてる? もしかして私を馬鹿にしてるなら、たっぷり『こちょこちょの刑』だからね」
「わっ!? な、何よ急に、どこ触ってるのよ、もうっ!」
翌日の朝——アビドス対策委員会の教室には、朝日が差し込んでいた
シロコ達はいつも通り集合し、机を囲んでいた
しかし、いくら時間を潰して待てど暮らせど、いつもなら一番に教室へやってきて優しく微笑みながらお茶を淹れてくれるはずのノノミの姿が、どこにも見当たらない
「そういえば……先生も、今日はまだ来てないみたいだね。珍しいこともあるもんだ」
セリカとシロコが戯れあっている様子を苦笑いで見つめながらホシノが首をかしげると、アヤネもさすがに胸騒ぎを覚えたのか、心配そうな顔で手元の作戦用タブレット端末を慌てて起動させた
通信確認をしようとした、その時
「み、皆さん……!! これを見てくださいッ!」
アヤネの叫びとも悲鳴ともつかない金切り声に、全員の視線が一瞬で集まる
「っ!?」
アヤネが青ざめた顔でガタガタと震える手で突き出した、タブレットの画面
そこに映し出されていたのは、彼女たちの血の気を一瞬で引き散らせる、凄惨なニュース速報の赤文字だった——
『シャーレ、突如の爆発炎上 先生が緊急搬送』
ようやく書きたいところに近づいてきました…!