息を切らしながら遅れて教室へと駆け込んできたノノミを加え、アビドス対策委員会恒例の定例会議が、重苦しい空気の中で静かに始まる
(……みんな、すごく落ち込んでる……。まぁ、私だって同じなんだけどさ)
ホシノは自分の胸の奥で渦巻く暗い不安を隠すように、そっとみんなの顔を見渡した
セリカやノノミ、アヤネは一切の言葉を失い、重たい足取りでそれぞれの椅子に腰掛けていた
シロコもまた、席に着きながらもその視線はずっと机の上に置いたスマートフォンの画面に向けられている
画面上に並ぶのは、先ほどから何度も先生へ送っているメッセージの送信履歴。既読の二文字がつくか、あるいは一言だけでも返信が返ってこないかという、すがるような小さな希望を乗せた視線を、彼女は片刻も逸らすことができずにいた
(いつも頼りにしていた先生があんな状態じゃ……きっと明日までに意識が戻って復帰することなんて無理に等しい……。そうなったら……私達だけで何とかしないと)
このまま何もできずにただ教室で手をこまねいていれば、ネフティスやスオウを筆頭としたハイランダーの管理監督たちに、この愛おしいアビドスの学校も、大切な仲間たちと過ごした土地も、すべていいように食い物にされてしまう
(……ユメ先輩)
そもそも、ユメは何故あんなにも複雑で不穏な計画を水面下で進めていたのだろうか
その本当の理由は、当の本人があの静かな病院のベッドで目覚めない限り、一生永遠に分からないままなのかもしれない。だけど、だからといってこのまま引き下がるわけにはいかないのだ
仮にいつかユメが目を覚ました時、彼女が安心して帰ってくるべき「アビドス」という帰る家そのものがなくなっていたら、一体どうすればいいというのか
それに——
「……み、みなさん!」
静寂が支配していた教室を断ち切るように、ノノミがガタッと激しい音を立てて勢いよく立ち上がった
その場にいた全員が、弾かれたように驚いた顔で一斉にノノミへと視線を向ける
「先生の力を借りられないのは本当にすごく辛いですし、何より先生が今どうしているのか心配なのは、私も皆さんとまったく一緒です……! ですが、今こうして私達が教室でただうつむいて膝を抱えているだけなのは、きっと先生も望んでいないと思うんです!」
ノノミの声はわずかに震えていた
「で、でも……! 先生が居ないのに、私たちだけでいったいどうしろっていうのよ……っ! ……相手はあのハイランダーとネフティスなのよ……?」
セリカが爪が食い込むほど握りしめた拳を震わせ、不安と焦りに満ちたか細い声を絞り出す
「分かりません……! 私だってどうすればいいのか怖いですし、本当は不安で押しつぶされそうです……! でも、ここで私達がただ泣いて落ち込んでいたって、事態が好転することは何一つありません……!」
(ノノミちゃん……)
ホシノの胸に、強い痛みが走る
自分自身だって、ネフティスの一族であり今回の利権騒動の発端に深く関わっているという罪悪感に押しつぶされそうになっているはずなのだ
それなのにノノミは、仲間の前で必死に気丈に振る舞い、自らを奮い立たせてこの重苦しい場をどうにか動かそうと戦ってくれている
その力強い姿に胸を打たれたホシノは、すうっと息を吐き出すと、いつものふんわりとした柔らかい笑みを浮かべてみせた
「そうだね、ノノミちゃんの言う通りだ。ここでただ先生の心配をしたまま明日を迎えるくらいなら、私たちに今できる対抗手段がないか、ここで話し合うことの方が、きっと先生のためにもなるはずだよ」
「ホシノ先輩……! はい、その通りです……!」
「……分かりました。先生のことはもちろん心から心配ですが、今は私たちの目の前にあるこの危機を、自分たちの手で解決しましょう」
アヤネがカチリと眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、勢いよく立ち上がる
「まずは、現在私たちが置かれている状況を整理していきましょう」
アヤネはホワイトボードへと歩み寄り、黒のマーカーを手に取ると、カンカンと音を立てながらスラスラと文字や図を書き始めていく
「昨夜、私の方でもハイランダー学園やネフティスグループに関する公文書や電子データを徹底的に洗って調べていました。するとですね……明日の昼12時に、アビドス中央駅の旧庁舎にて、債権者たちによる大規模な総会が行われるようなんです。そこで正式な契約破棄が言い渡されるか、あるいは私達が欠席した時点で、その瞬間に契約は完全に失効し、すべての権利が何かを企む私募ファンド側へと渡ってしまう仕組みになっています」
「つまり、どれだけ有効な対抗作戦が思いつかなくても、明日そこに直接乗り込んでいかない限り、私達の完全な敗北……詰みってことだね」
「……はい、そういうことになります」
アヤネが苦しい表情で小さく頷くと、それまで静かにホワイトボードの文字を見つめていたノノミが、スッと小さく手を挙げた
「ノノミ先輩、どうかしましたか?」
アヤネが手にしていたマーカーを止め、不思議そうに尋ねる
「実は今朝、個人的に執事さんと直接お会いして、色々と話す機会があったんです。その時に、なぜネフティスや裏の私募ファンドの方々が、これほどまでに今回のアビドスの権利に執着しているのか、その本当の理由を聞くことができました」
「ん、そういえば……なんでそんなに必死なの? 何もない土地のはずなのに」
シロコが首をこくりと傾げながら口を開く
「それには、昔のアビドス生徒会とネフティスの間で、秘密裏に進められていた『非対称戦力兵器』の開発計画が深く関わっているようなんです」
「……ユメ先輩が……そんな物騒なものを……?」
ホシノの顔色がすっと青ざめ、か細い声が漏れ出た
大切な先輩が裏で恐ろしい兵器を製造しようとしていたのかという困惑とショックが、その瞳に影を落とす
「はい……。ですが、ホシノ先輩もよくご存知の通り、当時のユメ生徒会長はそんな危険なことを一人で好んで計画するような人ではありません。どうやら、これ自体は私達が生まれるよりもずっと昔の時代から、キヴォトスの国家間や大企業の間で極秘に検討されていたプロジェクトの延長線上にあったものみたいなんです」
ノノミは、ホシノの胸の痛みを少しでも和らげようとするように、すかさず優しく包み込むようなトーンで補足を入れた
その柔らかい言葉に、ホシノは小さく安堵の息を吐き出す
「それで……その『非対称戦力兵器』って、具体的に一体何なのよ? 名前からして物凄い物騒な感じだけど……」
セリカが腕を組み、眉間にシワを寄せながら問い詰める
「一言で言えば、超大型の移動型兵器……つまり、巨大な鉄道車両がそのまま一つの巨大な移動要塞、そして広域を殲滅する強力な攻撃兵器と化したようなものです」
「確かに……この前もあの双子の姉妹と交戦した時、疾走する列車の上を飛び回ることになって、足場も不安定ですごく戦いづらかったわね」
アヤネが先日の戦闘シーンを思い出しながら、苦い表情で頷く
「ん、しかもあの時の列車は、明らかに民生用の車両を改造しただけで、戦闘用の本気仕様じゃなかったと思う」
「……改めて思いえがいてみると、あの双子のヒカリとノゾミは、列車の運転や爆破工作の技術以外は、頭の中がすっかりおバカなんだってよく分かるわね。あんなのの何倍もヤバい兵器ってことでしょう?」
セリカが深い溜息をつきながら、前日に繰り広げられた暴走列車でのドタバタな激闘の様子を苦々しく思い返す
「その幻の兵器の名前は、『列車砲シェマタ』。もし当時、完全に完成して実戦投入されていれば、キヴォトスのどの巨大学園すらも絶対に手が出せないほどの圧倒的な威容を誇る、不落の要塞になっていたとのことです」
「……でも、実際にはそんな凄い恐ろしいものは完成しなかったんだよね?」
ホシノが静かな声で尋ねると、ノノミはゆっくりと首を横に振った
「はい。当時の段階でもほとんどの基本設計や重装甲の車体自体は完成していたのですが……どうやら肝心要の、その巨大な超重量列車を駆動させるための特殊な大出力エンジンだけが完成しないまま、技術的・資金的な問題でプロジェクト自体が頓挫してしまったようです」
「……シェマタ……確かその名前って、アビドスの大昔の伝説的な生徒会長の名前ですよね?」
ノノミが自分の華奢な顎に人差し指をあてながらぽつりと呟くと、セリカは不思議そうに首を傾げて聞き返す
「しぇまた、って……人の名前なの? 兵器のコードネームじゃなくて?」
「ええ。かつて、校内で一時期に約70名もの『生徒会長』が乱立して大混乱に陥ったアビドスの最も陰鬱な暗黒時代を、その圧倒的なカリスマ性と指導力で綺麗に平定し治めたと言われている、アビドス高等学校が最も輝かしく全盛期を誇っていた時代に実在した、伝説の生徒会長の名前です」
「70人って……一体どんな修羅の国よそれ! どこを向いても会長じゃないの!」
セリカが思わず大声でツッコミを入れ、教室の重苦しい空気が一瞬だけ和らぐ。だが、シロコは真剣な眼差しを崩さぬまま、静かに次の疑問を口にした
「でも、そんな昔の生徒会が、なんでわざわざあんな大がかりな移動要塞なんて作ろうとしたの?」
シロコが当然の疑問を真っ直ぐにノノミへと投げかける
いくらアビドスが砂漠化する前の全盛期だったとはいえ、もはや単なる学校や自治街の防衛という常識的なレベルを超え、キヴォトス全域を巻き込む一大戦争すら引き起こしかねない危険な代物を、過去のアビドス生徒会が計画した理由が、どうしても見えてこないのだ
「きっと、当時の膨大な借金を自力で一気に返済するためだったんじゃないかな。兵器や軍事技術の独占っていうのは、いつの時代だって莫大なお金を生み出す最高のビジネスになるからね」
ホシノがどこか遠くを見つめながら、乾いた声で現実的な推測を口にする。過去の悲劇や大人の思惑を嫌というほど見てきた彼女だからこそ出せる、冷ややかで鋭い分析だった
「なるほどね……。力と技術を売って、借金を帳消しにしようとしたんだ」
シロコは手にしていたペンをくるりと回しながら、なるほどと深く納得したように頷いた
「……そして、執事さんから提示された今回の件を平和的に解決するための方法ですが……私の方に、2つの具体的な提案が言い渡されました」
ノノミは胸の前でぎゅっと手を握りしめながら、意を決したように言葉を続ける
「提案、だって?」
「はい。まずひとつは……私がアビドスを退学してハイランダー学園へと完全に転校し、そのまま向こうの『生徒会長』の座に就くこと……だそうです」
「却下に決まってるね、そんなの」
ノノミの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ホシノは一切の迷いも躊躇もなく、即座にそう言い放った
その冷徹なまでの即答と力強い拒絶に、ノノミは困ったように眉を下げ、愛想笑い混じりの苦笑いを浮かべる
「あはは……ホシノ先輩なら、きっと迷わずそう言ってくれると思っていました。……実は、私自身も一瞬だけ、自分が向こうに行けば丸く収まるのかなって、どうすべきか迷ってしまっていたんですよね」
「迷うですって……!? 一体何を言ってるのよ、ノノミ先輩! ノノミ先輩があんな変な奴らの思い通りにハイランダーになんて行く必要ないわよ! 私たちが絶対に渡さないんだから!」
セリカが身を乗り出し、血気盛んに猛抗議すると、その隣に座っていたシロコがスッと半目で彼女の横顔を見つめた
「な、なによその目は! 私が何か変なこと言ってるみたいな顔してさ!」
「セリカ……多分だけど、また自分から盛大に地雷を踏み抜いてるよ」
「ええっ!? うそ、なんでよ! 私、何かおかしいこと言った!? ノノミ先輩を引き留めてるだけじゃない!」
セリカが顔を赤くして焦ると、ホシノが痛々しそうな目を向けながら静かに助け船を出した
「……セリカちゃん、ノノミちゃんがね、自分の家や立場を飛び出してアビドスに来たことで……ハイランダー側の管理体制と、実家であるネフティスの経営基盤との間に決定的な亀裂が入っちゃったんだよね」
「あっ……そ、そうだったの……?」
「えっと……はい、その通りです……」
ノノミは申し訳なさそうに視線を落とし、ぽつりぽつりと打ち明ける
「私がわがままを言って、家族の反対もすべて振り切ってアビドス高校に入学してしまったせいで、両者の間に取り返しのつかない決定的な亀裂が生まれてしまったんです。その結果、ネフティスは資金繰りに行き詰まり、事実上の倒産の危機にまで追い込まれてしまって……だから、私がハイランダーに戻ることで、その歪みを正そうという話なんです」
自分を責めるように、居たたまれなさそうに細い肩をすぼめるノノミ
その痛ましい姿と、自分の発言がどれほどノノミの傷口に塩を塗るものだったか悟ったセリカは、軽率な発言の重さに耐えかねて「うぐっ……!」と絶句し、その場でガクリと机に伏せるように崩れ落ちた
「ん、セリカはもう少し、自分の発言に対する忍耐力と防御力を鍛えないとダメだね。特攻しすぎ」
「し、シロコ先輩にだけは絶対に言われたくないわよそんなこと……! あんたが一番無鉄砲じゃないのよ……!」
「はいはい、お二人ともそこまでにして、少し落ち着いてください……! 今は喧嘩をしている場合じゃないでしょう!」
頭を抱えて唸るセリカと無表情なシロコの間に入り、アヤネが慌てて苦笑いを浮かべながら手を開いて制止する
「それで? もう一つの提案っていうのは一体何なのかな? ノノミちゃん」
そのドタバタとしたやり取りを温かいような、けれどどこか寂しげな目で見つめていたホシノは、再びノノミの方へと静かに視線を向けた
「……少し、というかかなり思い切った……私たちにとって苦しい提案なんですけれど……それは、今回の『砂漠横断鉄道の売買契約そのものを、最初から存在しなかったことにする』という方法です」
「ええっ!? そ、そんな都合のいいこと本当にできるわけ!? 相手は法的な書類まで持ってきてるのよ!?」
ノノミの予想外すぎる言葉に、セリカはショックから立ち直る間もなく、思わず椅子から跳ね上がるようにして驚きの声をあげる
「はい。そもそも今回の問題になっている契約自体が、当時のアビドス生徒会長――ユメ先輩の署名によって結ばれたものです。ですから、その契約の成立根拠自体を法的に無効にしてしまえば、『砂漠横断鉄道のすべての権利』は元の所有者であるネフティスの手元へと戻り、裏で手を引いている私募ファンドの人たちすらも、それ以上手出しができなくなるんです」
「なるほど……確かに、正体不明の怪しい私募ファンドの連中にアビドスの権利を丸ごと奪われてしまうよりかは、はるかに現実的でマシな得策ではありますね」
アヤネが眼鏡の位置を直しながら分析する
「それで……? 具体的にどうやったらそんな契約を無効にできるっていうのよ? ユメ先輩のサインが偽物だって証明するの?」
セリカの切実な問いかけに、ノノミは急にそれまでの勢いを失ったように言葉を詰まらせ、スッと視線を足元の床へと落としてしまった
その陰りのある表情に、室内の温度がすっと下がる
「ノノミ先輩……?」
「……私たちが、明日の総会の場で、大勢の債権者を前に公言するんです。『当時のアビドス生徒会は、正規の認可を受けていない非認可の勝手な組織だった』と……」
「!?」
「それって……つまり……っ!」
アヤネが息を呑み、言葉を失う。ノノミは胸を痛めながら、ゆっくりと、辛そうに頷いた
「……はい。以前、私達アビドス対策委員会が、カイザーコーポレーションの理事に脅されたのと同じように……あのアビドスの生徒会も、当時から生徒会としての正式な権限など持たず、ただの一般生徒が勝手に生徒会を名乗って活動していただけの無効な組織だったと……自分たちの口で、公式に発表して証明するということです」
「な、何よそれ……! じゃあ、生徒会が……ホシノ先輩とユメ生徒会長が、今までずっと守り抜いてきたもののすべてが、最初から何もなかった嘘っぱちだって、自分でバラすようなものじゃない……!」
セリカが怒りと哀しみに震える声を張り上げる
「ん……私も、そんなの絶対に嫌だ。絶対に認めない」
「シロコちゃん……?」
思いがけず、普段は感情をめったに表に出さず、合理的な判断を好むシロコが、固く拳を握りしめて強く否定の声を漏らした
ホシノは驚いたように目を丸くし、まっすぐ自分たちを見つめるシロコの横顔を凝視したのだった
「先輩は、ずっと一人でユメ先輩のために頑張ってきた。私はそれを一番近くで見てきたから……そんなの、先輩が積み上げてきた大切なものが全部否定されちゃうみたいで、嫌だ」
シロコは椅子に座ったまま、膝の上で自分の小さな拳をギシッと音が鳴るほど強く握りしめた
普段は淡々と感情を表に出さない彼女の瞳が、今は溢れんばかりの悔しさと、ホシノを想う痛烈な感情で激しく揺れていた
「……そっか……ずっと、そばで見ていてくれたもんね……」
ホシノはそのシロコの不器用で、けれど真っ直ぐな温かさに触れ、胸を締め付けられるような切なさを抱きながらも、ふっと柔らかい笑みをこぼした
「ありがとう、シロコちゃん。でもね、おじさんは大丈夫だよ」
「で、でも……! 先輩にとっても……ユメ先輩にとっても……そして、亡くなってしまったもう一人の大切な子が残してくれた、かけがえのない場所なんでしょ!?」
シロコの声が震える
珍しく感情を剥き出しにして食い下がるシロコの姿に、セリカもアヤネも言葉を失い、ただじっと二人のやり取りを見つめることしかできなかった
「うん、生徒会は私にとってもみんなにとっても、すごく大切な場所だよ……。正直に言えば、それが形だけでもなくなるのは、やっぱりすごく嫌だし寂しいよ?」
「じゃ、じゃあ他の方法を……!」
「でもね、私もユメ先輩も……そしてあの子も、きっと君達後輩がこれ以上ボロボロになって苦しむのを見るくらいなら、『生徒会』なんていう名前の肩書きや過去の看板なんか消えてなくなったって、笑って許してくれると思うんだ」
ホシノは自分の椅子からゆっくりと腰を上げると、静かにシロコの元へ歩み寄った。そして、膝の上で固く握られたままの小さな手を包み込むようにして、その白く柔らかな髪を優しくポンポンと撫でた
「ん……」
シロコは抵抗することもなく、ただじっとホシノの手の温もりを受け止める
「前のおじさんだったら、生徒会という名前が消えかかるだけでも意地でも突っ張って嫌がったかもしれないけどさ。でも、いまはこの教室にみんながいる。アヤネちゃんも、セリカちゃんも、ノノミちゃんも、シロコちゃんも……そして、ユメ先輩がいる」
ホシノは穏やかな、すべてを受け入れたような澄んだ瞳で、仲間たち一人ひとりの顔を愛おしそうに見渡した
「例え形だけの肩書きや過去の看板がなくなったとしても、この学校が……シロコちゃんたち大事な後輩が安心して帰ってこられるこの場所が、安全な方法で守られるなら、おじさんはそんなもの喜んで手放すよ」
その声には一切の迷いもなさもなかった。大切なものを守るために、過去の遺物など幾らでも捨て去るという一人の先輩としての揺るぎない誇りと覚悟が込められていた
「……ホシノ先輩のその覚悟、しかと受け止めました」
アヤネが胸元できゅっと拳を握り締め、自分の中の不安を完全に振り払うように力強く宣言する
「明日、昼12時の総会ではその方針でいきましょう。列車砲の裏事情や過去の因縁については一旦横回しにして、今は何が何でもこのアビドスを守り抜くことだけを考えます!」
「うん、ありがとう、アヤネちゃん。みんなも……ごめんね、おじさんの過去のことで色々振り回しちゃって」
これまでの息が詰まるような重苦しい雰囲気が嘘のように晴れ、夕暮れの教室にはわずかだが確かな安心感と、全員が同じ方向を向いた強固な連帯の空気が流れ始めていた
しかし——その穏やかな静寂を無情にも打ち破るように、静まり返った室内に突然、電子音が甲高く鳴り響いた
ピロロロン、ピロロロン——
ホシノの制服のポケットの中で、スマートフォンが激しく振動する
「ん、誰からだろ……電話?」
ホシノはポケットから端末を取り出し、その液晶画面に表示された発信者の名前に目を落とした
次の瞬間、彼女の顔からスッと血の気が引いていった。瞳の光が揺れ、息を呑む音すら聞こえないほどに固まる
画面の青白い光の中には、普段は連絡がない『アビドス総合病院』という無機質な文字が冷たく浮かび上がっていた
「あ、あの……こちらの用事は気にせずに、すぐに電話に出られてくださいね」
ホシノの異様な硬直に気づいたアヤネが、気を利かせて優しく声をかける
「分かった、ありがとうアヤネちゃん」
アヤネに軽くアイコンタクトで礼を言い、ホシノは追及を逃れるように慌てて教室の重い扉を開け、廊下へと飛び出した
パタパタと足音を立て、他のメンバーから少し距離をとって人気のない廊下の隅に立つ。冷や汗で濡れた手で、震える指を滑らせて通話ボタンをスライドさせた
「もしもし……小鳥遊ですけど」
『あ、小鳥遊ホシノ様でお間違いありませんでしょうか。突然のご連絡、大変申し訳ありません。いま、お時間よろしいでしょうか』
電話の向こうから聞こえてきた病院スタッフの声は、普段の事務的なトーンとは明らかに異なっていた
どこか浮き足立ち、そして言葉を選びあぐねているような、異質な重々しさと緊張感に満ちていた
「えっと……大丈夫です、どうかしましたか?」
ホシノの胸の奥で、嫌な予感が急激に膨れ上がっていく
『……実は、梔子ユメさんの現在の容態について、どうしてもお伝えしなければならない非常に重大なご相談がございます。……今すぐ、アビドス病院の方へ来ていただくことは可能でしょうか』
『容態』という言葉の響き、そして電話口の向こうから伝わってくる相手のあまりにも沈んだ声色
これまでに感じたことのない恐ろしい不吉な予感が、ホシノの背筋を氷のように冷たく這い上がっていった
(ユメ先輩に……何かあったの……!?)
ホシノは教室の中にいる仲間たちには絶対に余計な心配をかけまいと、激しく上下する胸を抑え、震える声を必死に押し殺しながら短く返事をした
「……すぐに行きます」
通話を切ると、ホシノは教室に戻ることもせず、誰にも何も告げないまま、夕闇が迫るアビドスの赤い砂漠の中へ、弾かれたように病院を目指して一人走り出すのだった
◇
冷たい夕風が頬を刺し、肺が焼け付くような激しい苦しさを覚えても、足だけは止めなかった。荒い息を何度も吐き出しながら、沈みゆく日に追われるようにアスファルトの急な坂道を必死の形相で駆け抜ける
空が血のような暗い茜色から重々しい紫紺の夜へと染まり始めた頃、ホシノは全身の力を使い果たしてフラフラになりながら、ようやくアビドス総合病院の自動ドアをくぐり抜けた
静まり返ったロビーに、荒い呼吸と激しい靴底の音が響く
「はぁ、はぁ……小鳥遊、ホシノだけど……っ!」
カウンターにすがりつくようにして息を切らすホシノに、受付の看護師は察したような悲しげな表情を浮かべ、静かに頷いた
「あ、小鳥遊ホシノ様ですね。お待ちしておりました。医師から話がございますので……こちらのエレベーターから、奥の特別病棟の待合室へお進みください」
案内されたのは、蛍光灯のブーンという薄暗い機械音だけが響く、殺風景で静まり返った小さな小部屋だった
パイプ椅子に腰掛けたホシノは、心臓が破裂しそうなほどの痛烈な静寂の中、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめて待ち続けた。秒針が刻む音が、まるでカウントダウンのように頭の中に響く
やがて、ガチャリと乾いた金属音がして重いドアが開き、いつもユメの治療を担当している主治医の医師が、深々と疲労の色を滲ませた重い足取りで部屋に入ってきた
「先生……! 急に呼び出したりして……いったいどうされたんですか? ユメ先輩に、何かあったんですか……!?」
ホシノは立ち上がり、すがるような切実な瞳を向けながら早口で尋ねる
しかし、医師はホシノとまっすぐ目を合わせたまま、あまりにも苦しそうに、言葉を詰まらせて小さく首を横に振るばかりだった
「……小鳥遊さん。まずは落ち着いて聞いてください。梔子ユメさんの……現在の容態についての話です」
(っ……!)
そのただならぬ重みを含んだ一言を聞いた瞬間、ホシノの心臓がドクンと嫌な音を立てて激しく跳ね上がった
一気に全身の血液が足元へと落ちていくような猛烈な眩暈に襲われ、視界が歪む
背筋を氷でなぞられたような冷たい汗が伝い、喉の奥がキュッと締め付けられて息がうまく吸えない
「……単刀直入に、結果からお伝えしますと……この数日のうちに彼女が自力で意識を取り戻してくれなければ……もう、命が持たないでしょう」
「な……なんで……? そんな……嘘だ、そんなの……おかしいよ……っ! だって、容態は安定してるって、前言ってたじゃないですか……!」
ホシノは絶望と恐怖に震える声を必死に絞り出し、取り乱しながら机に両手を叩きつけるようにして問い質す
「ここ数日、彼女の身体のバイタルサインが、何の前触れもなく急激に低下し続けているのです。ユメさんの現在の症例自体は、適切な処置と徹底した衛生管理さえできていれば、本来なら急に命に関わるような危険な状態ではないはずなのですが……」
医師の説明が、ホシノの耳の中で遠く反響する
まるで水の中に潜っているかのように、言葉が現実味を帯びずに脳裏を滑り落ちていく
「……何が原因なのか、私たちの持つ医学的な知識やあらゆる精密検査でも原因の特定が追いつかないほど……脈拍も、肺の呼吸を示す数値も、一日ごとにどんどん小さくなっており……このままいけば、あと数日も持たずに、彼女の心臓は完全に停止してしまいます」
ホシノはあまりの衝撃と信じたくない現実の前に、喉の奥を詰まらせたまま言葉を失った
何も言葉を発することができず、ただ小刻みに唇をパクパクと動かすことしかできない
目の前が真っ白になり、血の気が完全に引いた顔で医師を見つめ返すのが精一杯だった
「……本当に、本当に申し訳ありません。私たち医師や看護スタッフも、持てる医学の知識と最新技術のすべてを尽くして24時間態勢で治療にあたっているのですが……なんだか、まるで目に見えない何か恐ろしいものに、内側からじわじわと生命力を蝕まれているような……あるいは、ご本人の意識や身体が、自ら生きる気力をすっかり手放して諦めてしまっているかのような……そんな奇妙で、どうしようもない敗北感を覚えてしまうのです……」
医師は苦悶の表情を浮かべ、悔しそうに頭を下げた
その絶望的な死の宣告を受けたあとも、ホシノは魂が抜け落ちた人形のようにただその場に立ち尽くしていた
医師の言葉に返す言葉など何一つ見つからず、ただ機械的に浅くお辞儀を一つだけ残すと、幽霊のようなフラフラとした覚束ない足取りで、病院の冷たく白い廊下を後にした
◇
夜のとばりがすっかり下りて真っ暗になったアスファルトの歩道を、ホシノは行き場を失った亡霊のように宛てもなく彷徨い歩いていた
最悪の、そして一番恐れていた結末の可能性が脳裏の中をグルグルと駆け巡り、恐怖で狂いそうになる理性を必死に繋ぎ止めようと、冷たい夜風の中で首を何度も横に振った
(ユメ先輩が……死んでしまう……?)
『ホシノちゃん♪』
脳裏の奥底で、かつてのように元気だった頃の、自分を無邪気な声で呼ぶユメの姿が痛いほど鮮明に蘇り、胸をえぐる
(白子に続いて……ユメ先輩まで、私の目の前から消えてなくなってしまうの……?)
嬉しそうにふさふさとした白い尻尾を大きくパタパタと振り、ユメの膝に甘えるようにすり寄る幼い白子。そして、そんな彼女を愛おしそうに満面の笑みで優しく撫でるユメの姿
そのあまりにも大切で、自分にとっての世界のすべてだった二人が、自分の手のひらからさらさらと砂のようにすり抜けて永遠にいなくなってしまう
そんな光景を想像するだけで、心臓が握り潰されるような激しい激痛が走り、ホシノは正気を保っていられなかった
(先輩がいなくなってしまうなら……じゃあ、私は何のために、あんなにも必死になって……今まで戦い続けてきたっていうの……?)
重い足を引きずるようにして歩いていたホシノは、ふと足をとめ、力なく顔を上げた
そこにあったのは、街灯のオレンジがかった柔らかな光に静かに照らし出された、どこにでもあるなんてことのない小さな公園だった
しかし、その場所は――かつて白子を連れて毎日のように散歩をし、他愛のない温かな時間を過ごした、かけがえのない思い出のコースそのものだった
(……っ)
目の前のベンチを見つめた瞬間、過去の光景が色鮮やかにオーバーラップする
『ホシノちゃん、私ね? 白子ちゃんが甘えてくれて、しかもこんなに完璧で頼もしい後輩のホシノちゃんが生徒会に入ってくれて……私、毎日がとっても嬉しいんだよ!』
それは、いつかの穏やかな放課後の午後。白子が公園の綺麗な芝生を夢中で無邪気に駆け回っているのを横目に、ユメとホシノが並んでベンチに腰掛けていた時のことだった
前触れもなく、ふと遠い目をして楽しそうに走る白子の後ろ姿を見つめていたユメが、急にしみじみとした温かい声でそう呟いたのだ
『どうしたんですか、急にそんな改まって』
『えへへ……だってね? 今の私、人生で一番って言っていいくらい凄く幸せだから……もし明日、実は今までのは全部夢でしたーって言われても、驚かないくらいの奇跡だなって思ってるんだぁ』
『はぁ……一体何言ってるんですか。私も白子もちゃんとこうして目の前に居るんですから、れっきとした現実ですよ? 夢なわけないじゃないですか』
『ううん、それでもそう思っちゃうの! だってさ……昔の私なんて、一人でこの大きな学校をどうにかして守らないといけないって思い込んで空回りしてばかりだったのに、ホシノちゃんが自分から生徒会に入ってくれてさ……それに、あの迷子の白子ちゃんを拾って家族にして……こんな奇跡みたいな出会い、奇跡だと思わない方がどうかしてるよ!』
『まったく……先輩はすぐに「奇跡」なんて軽い言葉を使いますけど、世の中そんな甘くありませんよ? 本当の奇跡っていうのはですね……例えば、アビドスの膨大な借金が明日急にきれいさっぱり無くなりましたーとか……白子に大好物の高級なお肉を毎日お腹いっぱい食べさせてあげられましたーとか……そういうのを言うんですよ?』
『あはは……ホシノちゃん、後半の願いのほとんどが白子ちゃんのことばっかりじゃない!』
あの時、ユメが困ったように、けれどどこまでも愛おしそうに浮かべた苦笑いの温度を、ホシノは今でも鮮明に覚えている
あの頃の自分はといえば白子可愛さに夢中になっていたから、もし今の自分の目の前にあの日のような素っ気ない顔をした自分が現れたとしても、きっと全く同じ台詞を吐いていたに違いない
しかし、当時のユメはそんなホシノの生意気なツッコミを優しく受け流し、ただ静かに茜色に染まる夕暮れの空を見上げながら、ポツリと言ったのだ
『でもね、私にとっては、こうしてみんなと過ごしているこの小さな日常こそが、何にも代えがたい一生の宝物なんだ……だからね、ホシノちゃん?』
ユメはふっと優しい視線を戻し、いつになく真剣で真っ直ぐな瞳でホシノの横顔をじっと見つめた
『いつか私が大人になって卒業して……もしも、ホシノちゃんに白子ちゃんと同じくらい大切で可愛い後輩ができたらさ……その時は、今度は先輩として、その子たちのことをしっかり守ってあげてね♪』
『……そんなの、言われなくても当たり前じゃないですか。もちろんですよ』
(そうだった……私にはまだ……ユメ先輩とした大切な約束が残ってる……!)
ホシノのうつむいていた瞳の底に、消えかけていた小さな、しかし決して消えることのない強い決意の炎が再びポッと灯る
(白子にも負けないくらい、愛おしくて可愛い後輩たち……ノノミちゃん、アヤネちゃん、セリカちゃん……そして)
ホシノは力強く足を止め、すっかり夜の闇に沈み込んだ天空をゆっくりと仰ぎ見た
(……いつも私のことを一番近くで支えてくれて……そして、どんな時も私を信じてついてきてくれるシロコちゃん……みんなのためにも、私はこんなところで折れてなんていられない。この学校を、みんなの居場所を、絶対に守り抜かないと)
たとえ、これ以上自分自身がどんな辛い痛みを背負うことになろうとも
たとえ、後輩たち以外のいかなる理不尽な犠牲を払うことになろうとも
そして、たとえいつか自分が、みんなのいる温かい場所から去らなければならない日が来たとしても――
ユメ先輩が誰よりも愛し、守りたかったこの場所を。白子が安心して眠ることのできるこの居場所を。そして、未来へ歩む後輩たちが笑顔で過ごせるアビドスの学校を、何があっても自分の手で守り抜かなければならない
そう、心の底から固く、強く決意したまさにその瞬間――
静まり返った夜の静寂の中、制服のポケットに入れていたスマートフォンが震え出した
「……今夜は、やけにやることが多いし、電話の連絡も立て続けだね……」
嫌な予感を振り払うように自虐ぎみに呟きながらポケットから本体を取り出すと、その液晶画面には、「アヤネ」という文字が点滅していた
ホシノは首を傾げると一瞬の躊躇も見せず、すぐに緑色の通話ボタンを強くスライドさせる
「もしもし、どうしたのアヤネちゃん? 何か伝え忘れでも――」
『ホシノ先輩っ……!! お願いです、今すぐ、今すぐ学校に戻ってきてもらえますか……!!』
「ど、どうしたの……? そんなに息を切らして、いったい何があったっていうのさ……」
電話の向こうから聞こえてくるアヤネの声は、これまでに聞いたこともないほど完全に理性と冷静さを失い、切羽詰まった恐怖と絶望に満ち溢れていた
受話音越しにも、彼女の激しい呼吸と混乱が痛いほど伝わってくる
『ノノミ先輩が……さっき、ネフティスによって……連れ去られて、誘拐されました……っ!!』
「っ…………!!!」
その一言が、ホシノの思考を激しく突き穿った