吹き抜ける冷たい風が、岩肌を容赦なく打ち叩く「生徒会の谷」
荒涼とした砂嵐が舞うその一角では、すでに二人の間の決着が静かに、そしてあまりにも残酷で圧倒的な現実としてついていた
「……その程度なの?」
冷ややかな、まるで底冷えするような淡いオッドアイを下に向けるホシノ
その足元には、かすり傷一つなく涼しい顔で佇むホシノとは対照的に、全身が傷だらけでボロボロになり、荒い息も絶え絶えに地面に這いつくばるスオウの痛々しい姿があった
「ぐっ……はぁっ、はぁっ……! ……これほどまでに、実力差があるというのか……ッ!」
悔しさに顔を激しく歪ませながら、スオウは乾いた大地を握りしめた拳で力任せに叩きつける
吐き捨てる血の混じった唾が砂に染み込んでいく
だが、彼女のプライドと執念はまだ折れてはいなかった。震える手で愛用の銃を支え代わりに引き金へと指をかけ、膝を小刻みに震わせながら、泥臭くふらふらと立ち上がろうと試みる
「……ふぅ。まだ、やる気なの? おじさん的にはさ、シロコちゃんたちを侮辱した分の仕返しはもう十分にできたし……それに、早いところこの邪魔なものをぶっ壊さないといけないんだけど」
まるで飽きて放り投げたおもちゃを見るかのような、どこまでも冷めて虚ろな目でスオウを見下ろすホシノ
その声には苛立ちすらなく、ただ無関心な冷たさだけが漂っていた
「私は……ッ! 貴様のような、過去の亡霊のような存在を超えて……この手で、『最強』にならなければならな…い……ッ!」
それだけを絶望と執念の入り混じった声で吐き捨てるスオウ。しかし、ついに身体の限界を迎えた彼女の膝からふっと力が抜け、限界を超えていた糸がプツリと切れたように、そのまま再び冷たい地面へと突進するように崩れ落ちた
今度こそ意識は完全に途切れ、二度と動き出す気配を見せなくなった
「……この子、どこかで昔、おじさんと会ったことがあったかな……。まあいいか、そんなこと今の私にはどうでもいいや。早いところ、これを壊さないとね」
視線を昏倒したスオウから外し、チラリと頭上を仰ぎ見る
ホシノの視界の端ですら収まりきらないほどの圧倒的な質量と重厚な圧迫感を放つ、巨大な列車砲のシルエット
ようやく、すべてを終わらせるための最果ての目的地へとたどり着いたのだ
(……これさえ、完全に破壊できれば……)
握りしめたホシノの小さな拳に、爪が皮膚に食い込むほどの強い力が籠もる
この忌々しい兵器さえなくなれば、みんなが二度と大人たちの陰謀に脅かされることなく、再び温かで平穏な日常を暮らせるようになる
きっと、あの日からずっと止まったままのユメ先輩だって……いつか目を覚まして、みんなの待つ温かい生徒会室へ帰ってくることができるはずだ
そのためにも、アビドスの街と大切な仲間たちの未来を脅かすこの巨大な悪夢だけは、絶対にここで私の手でスクラップにしなければならない
覚悟を新たに、列車砲の巨大な脚部の方へと再び歩み出そうとした――まさにその瞬間
「――ホシノ先輩っ!!」
「っ……!?」
ほんの数時間前、冷酷な言葉とともに永遠の別れを告げたはずの、あまりにも愛おしく懐かしい声が、冷たい谷の空気を鋭く切り裂いて響き渡った
ハッと息を呑み、勢いよく振り返ったホシノの瞳に飛び込んできたのは――荒い息を吐きながら駆けつけてきた対策委員会のみんな、そしてその中心でまっすぐに自分を見つめる先生の姿だった
「……みんな、どうして……こんなに早くたどり着いたの……?」
ホシノの強張った表情が、動揺でかすかに引きつる
もちろん、自分を追って彼女たちがここまで来るかもしれないという予想は、頭の片隅に少なからず存在していた。しかし、総会が開かれていたあのアビドス中央駅の旧庁舎から、この険しい『生徒会の谷』までの距離は、徒歩や通常の移動手段では決して一筋縄で行けるような近さではないはずだ
それなのに、どうしてこの土壇場のタイミングで完璧に追いついてこられたのか
――もっとも、それは先ほどスオウが到着するやいなや無謀な勝負を仕掛けてきて、明らかに勝敗が見えているにもかかわらず泥臭く粘られ、無駄に時間を費やしてしまったせいでもあったのだが
「……ホシノ先輩」
重苦しい沈黙が漂う谷間を切り裂くように、シロコが先生たちの列から静かに一歩前へ踏み出した
冷たい砂風に銀色の髪をなびかせながら、その瞳はブレることなくホシノの姿を捉えている
「……どうしたの、シロコちゃん。おじさんに、まだ何か用事でもあるのかな」
シロコたちと決別するために自らの口から吐き捨てた、あの冷酷な拒絶の言葉。それが今度は皮肉にも、ホシノ自身の胸を鋭い刃のように深々と突き刺した
本当は、シロコを「白子の代わり」などと思ったことなど一度たりともなかった
だけど、これ以上危険な戦いに大切な後輩たちを巻き込まず、半ば強制的にでもアビドスへ引き返させるためには、これまでひた隠しにしてきた過去の秘密に嘘を混ぜ込み、自ら悪者となって突き放すしか道がなかったのだ
(……やっぱり、ノノミちゃんから本当のことを全部聞いたんだね……)
シロコの後ろに静かに佇む先生と、そしてこちらを見つめるノノミの姿がホシノの視界に入る
その真っ直ぐで力強い視線に気づいたホシノは、胸の奥で渦巻く疾しい感情を隠すように、思わずといった様子でムッと険しく顔を顰めた
「用ならある。先輩を、アビドスへ連れ戻しに来た」
「ふふ……懲りない子だね、シロコちゃんも。そんなに、自分を切り捨てた最低な先輩にまだ未練があるわけ? それとも……今まで散々騙されていたことに対する、せめてもの復讐かな」
シロコがそんなちっぽけな私怨や復讐のために動くような人間ではないことなど、誰よりも共に過ごしてきたホシノ自身が一番よく分かっていた
それでもなお、彼女たちにこれ以上深追いさせず、この危険な戦場から完全に諦めさせるため、ホシノはあえて冷たく刺々しい敵意の言葉をぶつけ続ける
「……先輩、もう言葉で話し合うつもりはないんだね」
「うん、ないよ。私の邪魔をするなら……いくら可愛い後輩でも、容赦しないからね」
「ん……それなら。無理にでも連れ帰って、床に正座させて怒るだけ」
シロコが躊躇なくスッと構えたアサルトライフルの銃口をホシノへと真っ直ぐに向けたのを確認するように、背後に控えていたセリカとノノミも一斉にそれぞれの武器を構え、カチリと安全装置を解除した
アヤネと先生は激しい戦闘の巻き添えを避けるためにわずかに後ろへと下がり、情報端末を開いていつでも全体を最適に指揮・支援できるバックアップの体制を整えた
「うへぇ……それなら尚更、ここで引き下がるわけにはいかないみたいだね」
ホシノはどこか寂しげな、けれど覚悟を決め切った苦笑いを浮かべながら、手元に頑丈な戦術盾を展開し、静かにハンドガンをその前方へと構えた
「4対1……それでおじさんに勝てると思ってるの?」
ホシノが挑発的な笑みを浮かべ、容赦なく引き金を引く
乾いた銃声とともに放たれた鋭い弾丸は、シロコの頬を微かな切削音を立てて掠めた
その瞬間、先生の鋭い指揮のもと、シロコたちは一糸乱れぬ迅速な動きで四方へと散開する
「行きますよー!」
ノノミがミニガンを構え、ホシノを圧倒的な密度の弾幕で包み込む
雷鳴のような轟音と激しい砂煙が舞い上がり、セリカたちの視界が一時的に遮られる。だが、激しく鳴り響く乾いた金属音から、ホシノが盾を展開し、そのすべてを恐ろしいまでの精度で冷静に防ぎきっていることが手に取るように分かった
「……なら、これならどう!」
セリカがノノミとは正反対の位置へ死角を突くように回り込み、引き金を絞る
どれほど規格外の戦闘力を誇るホシノといえど、盾を構える正面と完璧な死角となる背面から同時に弾丸を撃ち込まれれば、回避する術はないはずだ
「……残念!」
「ぐ……っ!?」
だが、ホシノの掠れた声は、なんとセリカのすぐ横――死角のさらに外側から直接響いた
次の瞬間、セリカの脇腹に痛烈な衝撃が走り、彼女の小柄な体は砂塵の中へと勢いよく吹き飛ばされる
「ノノミ先輩! ホシノ先輩がセリカちゃんの元へ……盾を置いて移動しています!」
アヤネの通信機越しのアナウンスに近い必死の報告を受け、ノノミは慌てて引き金を離す
風が吹き抜け、砂煙が瞬時に晴れた先には、地面深くに突き刺さったままの盾が、空しくノノミの弾丸を受け止めていた
ホシノはその視界の隙を突き、あえて自慢の盾をその場に固定して反対側に回り込むことで、セリカを奇襲したのだ
「シロコちゃんが隙を見つけたと思って真っ先に飛び出してくると思ったんだけど……セリカちゃんだったか」
「私なら……ここ!」
声がした方向へホシノが瞬時に視線を向けると、そこにはドローンに吊り下げられ、上空から急降下しながら銃口を突きつけるシロコの姿があった
「……また空か!」
頭上から迫るシロコの銃弾を紙一重の体捌きで回避し、ホシノは囮にした盾を回収すべく爆発的な脚力で駆け出す
「させません!」
「っ……!」
ホシノの逃走ルートを完璧に予測し、ノノミのミニガンが再び火を噴く
頭上からはシロコのライフルが正確に狙い、行く手はノノミの重厚な弾幕が遮る。盾を回収したいのに、その一歩手前で遮断され、どうしても近づけない
(……盾を囮にしたのは、少し甘かったかな)
ホシノは心の中で舌打ちをする
砂煙に乗じて3人を一気に気絶させるつもりが、アヤネによるリアルタイム監視と、シロコたちが自分の戦術癖を完璧に研究し尽くしているせいで、思い描いた計画が全く噛み合わない
そして、今ホシノが最も警戒すべきは、その生徒たちの個性を一つに束ねる男――先生の存在だった
「セリカ! 大丈夫かい!」
「も、もちろんよ……これくらい、平気なんだから!」
先生の呼びかけに応じ、セリカが蹴られた脇腹を庇いながらも力強く立ち上がる
「動けるのなら、その位置からホシノの死角を狙撃して!」
「了解!」
この4人は、かつて自分が育て上げた大切な後輩たちだ
いつか自分がいなくなってもこのアビドスを、自分たちの居場所を守れるようにと、あえてみんなが嫌がる模擬戦を月に一度課してきた
シロコとノノミは約2年間、十回以上の特訓を経て別次元の強さを得た。セリカやアヤネも、短期間ながら連携の要領を完璧に掴んでいる
そんな愛しい後輩たちを、先生という絶対的な指揮官が完璧なパズルとして組み立て、確実にホシノの逃げ場を狭めていく
きっとここへ来るまでの間に、全員でホシノの行動パターンや思考の裏を洗い出し、完璧な攻略計画を構築してきたのだろう
(……だけどね)
敵の思考の先を読み、一歩上を行く。それこそが、数多の死線を潜り抜けてきた小鳥遊ホシノという戦士の本領だった
ホシノは冷ややかな表情の裏で、ニヤリと不敵に唇の端を吊り上げる
「こっちを狙って……!?」
セリカとノノミの挟み撃ちによる精密な狙撃に対し、ホシノは回避運動の勢いを殺すことなく、ポケットから栓の抜かれていないピン手榴弾を1発、無造作に取り出した
そして、愛用の大型ショットガンをまるで野球のバットのように豪快にスイングする
栓のついていない重厚な鉄の塊が、完璧なミートポイントで弾き飛ばされ、乾いた打撃音とともに弾丸以上の速度でノノミの元へ飛んでいく
戦術マニュアルにもない、予測不能すぎる突飛なカウンター
「っ……!!」
あまりの急転直下にノノミは回避行動が間に合わず、飛来したグレネードの自重と衝撃が彼女の右肩を容赦なく直撃した
痛みに小さな悲鳴を漏らし、ミニガンの銃口が大きく跳ね上がる
「ノノミ先輩っ!?」
「くっ……! アヤネちゃん、シロコちゃん、そのまま押して!」
「分かった……!」
アヤネの通信越しのアナウンスが響くのと同時に、上空のシロコが即座にミサイルによる爆撃へと切り替える
確かに先生の指揮も、後輩たちの動きも隙がなく完璧だ。今までの自分なら、ここで完全に追い詰められ、手詰まりになっていたかもしれない
しかし、どんな優れた名軍師であろうと、相手の動きを深く知っていればいるほど、その知識の範疇にない「一度も見たことのない荒技」に対しては、判断にコンマ数秒の遅れが生じる
着弾までわずかな猶予がある追撃ミサイルを、ホシノは滑らかな紙一重のステップで軽々とすり抜けていく
セリカが死角から放った射撃さえも、首をわずかに傾けるだけで視界から完全に消し去り、爆風の砂煙を切り裂いて地面に刺さっていた自慢の大型盾へと手を伸ばした
(反撃開始だよ……!)
重い音を立てて盾を回収し、再び完全無欠の戦闘態勢を整えたその瞬間――背後で「パンッ!」という重低音とともに、濃密な灰色のスモークが爆ぜた
(スモーク……! シロコちゃんか……!!)
盾を回収し、体勢を立て直したほんの一瞬の緩み。そこを上空からの監視網は見逃していなかった
隙を突く技術と判断の早さは、昔の模擬戦の頃より確実に向上している。後輩たちの成長に心の中で感心しつつも、ホシノは悪戯っぽく胸中で毒づいた
(でも……おじさん相手に、短時間で三回も同じ手を使うなんてね)
数時間前、学校で一度同じ暗幕戦術を使い、ホシノに重い一撃を浴びせたシロコ。作戦自体は非常に優秀だが、ここは遮蔽物のないオープンな谷間だ
夜でもなければ、校舎のような閉所でもない
猛烈な砂嵐と吹き抜ける風が煙を散らすこの谷で、三度目は通じない
薄れゆくスモークの向こう側に、はっきりと人の影が見える。マガジンやダミーのデコイではない、紛れもない生徒の体躯だ
「今で――」
「させないよ!」
「「!?」」
風で煙が散るよりも早く、ホシノは煙の中から突撃してきたノノミの胸ぐらを躊躇なく掴み上げると、その腕力で、反対側からスモークに乗じて挟み込もうとしていたセリカに向かって容赦なく投げつけた
ドカンと激しい衝突音が響く
ミニガンの重さとノノミの体重をそのまま乗せた追撃は、直撃したセリカの体勢を完全に崩させ、二人まとめて地面を転がした
これなら当分の間、立ち上がることはできない
(よし……今のうちに、シロコちゃんを)
ホシノは即座に上空を見上げ、風が一瞬だけ生み出した煙の切れ間に、旋回するドローンの機体を捉える
(今!)
手にしたハンドガンからショットガンへと瞬時に持ち替え、引き金を引く
迷いなき一撃から放たれた無数の散弾が、アヤネの通信網でありシロコの空の眼であったドローンを跡形もなく粉砕した
(これで上空からの視界は潰した。あとはシロコちゃんを無力化すれば……!)
「シロコ! 今だよ!!」
その時、後方から響き渡ったのは、先生の喉を引き裂くような叫び声だった
直後、ホシノの視界の下――完全に死角となっていた足元から、あり得ない間合いと速度でシロコが滑り込んできていた
(い、いつの間に私のすぐ近くに……!!)
思考が加速し、世界がスローモーションのように感じられる
地面を滑走するような低い姿勢から、シロコの力強い蹴りがホシノの無防備な腹部を正確に狙ってしなっていくのが見えた。一度この体勢を完璧に崩されれば、追撃の銃口を突きつけられ、負けを認めざるを得なくなるだろう
(もしかして……最初から全部……っ!!)
一瞬で、ホシノの頭の中でパズルのピースが組み合わさっていく
これまでの遠距離からの激しい砲撃も、ノノミの弾幕も、すべてはこの距離までホシノを引きずり込むための綿密な布石
遠距離の火力をノノミたちに警戒させ、上空からの脅威をシロコとアヤネに意識させ、あえて一度失敗したスモーク戦術を再利用することで「甘さ」を演出し、ホシノの慢心と上空への意識を誘った
すべては、シロコが死角からこの一撃を叩き込む――この一瞬の機会を作り出すためだけに組み立てられた、完璧な罠だったのだ
「ぐふっ……!?」
加速するホシノの思考も虚しく、みぞおちに強烈な衝撃が走る
「くっ……あぁっ……!」
たまらず吹っ飛ばされたホシノは、苦悶の表情を浮かべながらも、長年の戦闘本能だけで泥臭く這い上がろうとした
しかし――
「……私達の、勝ちだよ」
「……」
カチリ、と硬質な金属音が響き、冷たい銃口がホシノの眉間に突きつけられていた
シロコは蹴りを叩き込んだ直後、勝利を確信して油断することなく、ホシノの反撃を完璧に封じる位置へと一瞬で先回りし、待ち構えていたのだ
本来、人を蹴り飛ばした後、相手が地面を転がり、起き上がる前に追いつくことは物理的にほぼ不可能だ。例えそれがシロコの驚異的な身体能力であろうと、着地と再加速のタイムラグが生じる
しかし、シロコ達は最初からそれすらも計算に入れていたのだ。蹴り飛ばした先に頑丈な岩壁がある位置関係を正確に選んで誘導し、吹き飛んだホシノが壁にぶつかって逃げ場を失うよう、周到に殺陣をデザインしていたのだった
「……はぁぁあ……」
ホシノは観念したように両手足を投げ出し、岩壁に背をもたれさせたまま、ガクリと脱力して崩れ落ちた
この状況からでも逃げる手段がないわけではない
シロコのヘイローを砕く覚悟で強引に打撃を放ち、至近距離で爆発を起こせば、この包囲網を破って逃走することは正直可能だ。だが、自分を連れ戻すためにここまで必死になり、見事な成長を遂げた後輩たちの姿を間近で見た今、そんな酷い選択肢はホシノの心の中に存在しなかった
「……私の、完敗だね」
「……ん」
「わっ……!? し、シロコちゃん!?」
ホシノが敗北を認めた瞬間、シロコの全身からそれまでの殺気と緊張感が霧散した
銃を放り投げ、感極まったようにホシノの胸元へとすがりつくように強く強く抱きついたのだ
ホシノは戸惑いつつも、腕の中に伝わる温かなぬくもりと細い身体の震えに、数時間にも及ぶ死闘の重い疲れがすーっと溶けていくような、深い安らぎを感じていた
♢
「……で、なんでおじさんがこんな冷たい岩場の上で正座させられてるのかな……」
それから数分後
激闘の末に敗北を認め、感極まったシロコにギュッと抱きつかれたところまでは、荒涼とした谷間に差す一筋の光のように平和で温かな時間だったはずだ。しかし、シロコは少し満足するとすぐにホシノからすっと離れ、冷徹なまでに落ち着き払った声で言い放ったのだ。
「ん、先輩。そこに正座して」
その一言を皮切りに、先ほどまで命懸けで戦っていたはずの対策委員会の面々が、聖母のような笑みを浮かべながらも底知れぬ圧力を全身から放ち、ホシノをぐるりと取り囲んだのだった
「ホシノ先輩……何かシロコちゃんに……言わなければいけないことがあるんじゃないですか?」
「ひっ……」
ノノミの声が、正座するホシノの背後から静かに降り注ぐ
後ろを向くことが許されないため表情こそ見えないが、その声色には「今回は絶対に逃がしませんよ」という鋼のような強い意志が籠もっている。普段は耳に心地よいはずの優しい声が、今や背筋を氷のように凍らせるほどの重圧となってホシノの項に突き刺さった
「あっ……いや、その……おじさんにもいろいろと深い事情というかですね……」
「ん、すごく悲しかった」
「うぐっ……!?」
「私はあの子の代わりなんだって冷たく言われて、胸が張り裂けそうなくらい悲しかった。先輩が私たちを遠ざけるために嘘をついていたのは分かってたけど、それでも……あんな顔で言われたら、やっぱり傷つく」
「そうよ、ホシノ先輩! いくらなんでも最低すぎるわ!」
「ええ、本当にあんまりです。私たちを頼ってくれないどころか、そんな傷つけるような嘘まで吐くなんて……」
シロコの吐露に呼応するように、セリカとアヤネが冷ややかな言葉を容赦なく投げかける
そこには隠しきれない怒りや呆れも混ざっているだろうが、それ以上に、あの小鳥遊ホシノを地面に正座させ、みんなで説教しているという極めて稀有な状況を、彼女たちが少なからず楽しんでいる空気がヒシヒシと伝わってきた
「ま、まぁまぁみんな……ホシノにも、そうせざるを得ない切迫した事情があったんだよね?」
見兼ねた先生が苦笑いを浮かべながら仲裁に入り、正座するホシノの視線と高さを合わせるように、目の前の岩場にひざをついて腰を下ろした
「……ホシノ。ノノミが危険に晒されて焦っていたのはよく分かる。だけど君は今回、明らかにやりすぎだ。大切な仲間を傷つけてまで一人で背負い込もうとした……何か、どうしても隠さなければならなかった本当の理由があるんだね?」
「……」
ホシノは一瞬間を置き、言葉に詰まって視線を泳がせた
どこまでこの人は、自分の隠したい弱さも、強がりの裏にある怯えも見透かしているのだろうか
まっすぐに向ける先生の温かな眼差しは、誰にも見せないように厳重に鍵をかけていたはずの心の奥底まで、透明に透かしてしまうかのようだった
ホシノは観念したように深く、小さくため息を吐き出す
「……ユメ先輩の命が……本当に危ないんだ」
「えっ……!? それは、どういうことだい……?」
先生の表情が一瞬で跳ね上がり、背後にいたセリカたちもハッと息を呑んだ
「分からない……詳しい医学的なメカニズムなんて、おじさんにはさっぱり分からないよ。ただ……あと数日の間にユメ先輩自身が目を覚まさないと、その生命活動が……心臓が止まってしまうって、言われたんだ……」
「……だから君は、あんなにもなりふり構わず焦っていたのか……」
「うん……こんな暴走をしたって、本当にユメ先輩が目を覚ますなんて奇跡が起きる保証なんてどこにもない。だけど、あのユメ先輩なら……必ず目を覚ましてくれるって信じるしかないじゃないか。だから私がどうなろうと、アビドスと列車砲のここだけは絶対に守り抜かないとって……それだけが、今の不甲斐ないおじさんの全てだったんだよ」
「ホシノ先輩」
震える声で告白するホシノのすぐ隣に、シロコが静かに寄り添うように立った
「……シロコちゃん」
「……私、強くなったよ? 先輩に本気で一撃入れられるくらいに。……私だけじゃない。ノノミも、セリカも、アヤネも、先生と一緒にみんなで強くなってる」
「……うん。身をもって痛いほど見せてもらったよ。本当に、驚くくらい強くなってた」
「私は、先輩とずっとアビドスで一緒にいたい。あんな別れ方なんて、二度と嫌だ」
シロコは静かに一呼吸置くと、先生と同じようにホシノの顔を覗き込むように身を屈めた
「……それとも……やっぱり私は……白子っていう子の代わりで……頼りないのかな?」
そのあまりにも切なく直球な問いかけに、ホシノは驚いて大きく目を見開いた。しかし、己のついたあまりにも酷い嘘の罪悪感から、すぐに気まずそうに視線を大きく逸らしてしまう
「……そんなわけ、ないよ。私は一度たりとも、シロコちゃんを白子の代わりだなんて思ったことはなかったよ。この子は砂狼シロコ……私たちが砂漠で見つけた、自慢の……最高に大切な後輩なんだから」
「うん……知ってる。ノノミから聞いて、分かってた。……だからこそ、私達も先輩と一緒に戦いたいの。ユメ先輩が本当に危なくて大変な状況なら、先輩一人だけにそんな重いものを背負わせないで。一緒に悩んで、一緒に苦しんで、一緒に乗り越えたいの」
シロコの透き通った瞳には、揺るぎない覚悟と、ホシノという存在を心から愛おしく想う痛切なほどの絆が宿っていた
「シロコちゃん……でもね、これは私個人の過去の不始末で、おじさんの勝手なエゴなんだよ……」
ホシノがなおも後輩たちを巻き込むまいと固く意地を張ろうとしたその時、ノノミがシロコと反対側の位置にしなやかに身を屈め、逃げ場を塞ぐようにホシノの視界へと優しく入り込んだ
「そうですよ、ホシノ先輩。もう少しだけ……先輩が手塩にかけて鍛え上げてくれた私達のことを信じてくれてもいいんじゃないですか?」
「そうよ! あの地獄の模擬戦、私達だって負けたくなくて歯を食いしばって食らいついてきたんだから! 影で『親バカ』発揮してるくらいなら、面と向かって私たちを頼りなさいよ!」
セリカがぷくっと頬を膨らませて憤慨したように声を上げると、アヤネもメガネのブリッジをそっと直しながら、控えめながら力強い口調で頷く
「あはは……まあ、まだまだシロコ先輩やノノミ先輩の足元にも及びませんけど、私だって一歩ずつ、オペレーターとして成長してますから。先輩一人にいいカッコさせたりしませんよ」
「みんな……」
後輩たちのまっすぐで温かな言葉、そして何一つ濁りのない純粋な瞳に真っ直ぐ射抜かれ、ホシノはついに言葉を失って涙をこぼしそうになりながら下を向いた
自分はなんて大バカで、愚かな先輩だったのだろう
傷つけないように守り包もうとしていたはずの後輩たちが、自分の想像をはるかに超えるほど強く、気高く、頼もしく成長していたことに、本当の意味で気づけていなかったのは自分の方だったのだ
今の彼女たちとなら、自分の弱さも過ちも分け合い、本当の意味で共に歩んでいけるというのに
「うん……みんな、ごめ……」
ホシノがふっと全身の肩の力を抜き、涙に濡れた瞳に慈しむような柔らかな笑顔を浮かべ、シロコたちへと手を伸ばそうとした――まさにその瞬間だった
――ズズズ……ッ
冷たい風が吹き抜ける不毛の谷に、地鳴りのような禍々しい重低音が重く響き渡った
全員の視線が瞬時に跳ね上がる。そこにあったのは、ホシノが破壊しようとしていた巨大な列車砲――その黒光りする銃身が、異様な紫色の光を帯びて静かに動き始める音だった
慌てて振り返ると、起動した列車砲のモニターに、ボロボロになりながらも不吉な笑みを浮かべるスオウのホログラムが映し出された
『……小鳥遊ホシノ!!』
「……っ!」
『まだ、私の戦いは終わっていない!!』
列車砲がゆっくりと巨大な車輪を回転させ、線路を軋ませ始める
『まずはあんたらの学校を吹き飛ばす……その次はお前の先輩が入院している病院だ! 列車砲を止めたければ来るがいい、『大オアシス駅』で待っている。……もし、来なければどうなるか、分かっているな?』
そこで映像は途切れ、列車砲は加速しながら闇の中へと走り去っていった
ホシノは悔しげに歯を食いしばり、先ほどまで置いていた武器と盾を瞬時に取り直して立ち上がる
「ホシノ先輩、待って……!」
私たちも一緒に行く――そうシロコが言いかけた、その瞬間
ホシノはシロコに向けて、一切の迷いなく引き金を引いた
「っ!!」
「シロコちゃん!」
背後で倒れるシロコの体を受け止め、ノノミが悲鳴を上げる
「ごめんね……シロコちゃん……みんな」
ホシノはそれだけを言い残し、立ち去る列車を追って砂煙の中へと駆け出した
セリカが追いかけようと一歩踏み出すが、意識を失ったシロコを放っておくことはできず、彼女たちはその場に釘付けになってしまった
♢
生徒会の谷に吹き荒れる砂嵐の音が、次第に遠ざかっていく
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。シロコが長い睫毛を震わせ、ゆっくりと意識を浮上させると、そこには視界を覆うように先生の眼差しがあった
「……っ……」
「シロコ、気がついたかい?」
頭が割れるような痛みが走る。シロコは無理に体を起こそうとして、直前の出来事を思い出して息を呑んだ
「……うん……。ホシノ先輩は……?」
「……追いかけたが、もう行ってしまった。一人で走り去ってしまったよ」
先生の声には、抗いがたい無力感と悔しさが滲んでいた
周囲を見渡せば、ノノミが地面に座り込み、両膝を強く抱えていた。その顔は、ホシノを止められなかった悔しさか、あるいは大切な人がまた遠くへ行ってしまった悲しみか――彼女は頬を大きく膨らませ、唇を噛み締めて感情を押し殺している
「先生、これからどうすればいいの……? 私達だけじゃ……もう、先輩を止められない」
シロコは震える拳を強く握りしめた
ようやく胸の内をさらけ出し、心を通わせたと思ったのに。その絆を信じた直後、またしてもホシノは孤独な戦いの場へと一人で駆け出していってしまった
胸が引き裂かれるような焦燥が、冷たい風となってシロコの心臓を凍らせる
「……こうなったら、奥の手を使うしかないね」
先生が静かに、しかし決然とした声で呟く。その言葉に、項垂れていたセリカやアヤネも一斉に顔を上げた
「奥の手って何よ……?そんなものあったの?」
セリカが眉をひそめて問いかける。先生は端末を片手に、遠くを見つめて小さく首を振った
「ああ。本当は、なるべくなら使いたくなかった手段なんだが……今のホシノを止めるには、彼女の力が必要だ」
「で、でも……それって……まさか、全く関係のない人を巻き込むことになるんじゃないの……?」
シロコが心配げに瞳を揺らす。彼女たちがこれまで積み上げてきた戦いは、あくまでアビドスの問題であり、他の生徒を巻き込んでいいはずがなかったからだ
「安心して。……無関係じゃない人に頼むから」
先生は端末を操作しながら、どこか寂しげで、しかし全幅の信頼を置くような眼差しを向けた
「あの子なら、今のホシノの突っ走りっぷりを真正面から止めてくれるはずだ。……いや、止めるだけじゃない。ホシノを止めて、正気に戻してくれるはずだよ」
「?」
シロコたちは顔を見合わせる
先生が端末を耳に当てると、手際よく発信音が鳴り、繋がった相手に静かに語りかけた。
「……メールで大まかな事情は送ったと思うけど、改めてお願いしたい。君の力が必要になったんだ」
端末の向こう側から、小さく、しかし冷徹なまでの静寂を孕んだ声が返ってくる
『……分かったわ』
通信が切れる。先生が端末をゆっくりと下ろすと、その表情には微かな安堵と、この先の嵐を予感させる鋭い緊張感が同居していた
♢
ガタンゴトンと、古びた鉄路を噛む単調な車輪の音が、乾いた車内にいつまでも響き渡っている
誰も乗っていない無人のローカル列車。その硬いボックスシートに、ホシノは一人ぽつんと身を沈めていた。窓の外を流れていくのは、見渡す限りの荒涼とした砂漠と、どこまでも広がる灰色の空だけだ
スオウが狂気に満ちた笑みとともに起動させた、あの規格外の巨大な列車砲
あれを今すぐ止めなければ、自分たちの愛おしい学び舎は跡形もなく吹き飛び、そして今、静かに眠りについているユメ先輩のいる病院までもが、無慈悲な鉄の暴威によって破壊し尽くされてしまう
――あの時、シロコが差し出してくれた温かい手を、自らの手で容赦なく払い除けてしまった
その冷たい感触と、銃口を向けた瞬間のシロコの絶望に満ちた瞳が、脳裏からどうしても離れない。胸を締め付けるような罪悪感が、じっと座っているだけでも全身を内側から蝕んでいくようだった
だが、それでも。これは他の誰でもない、小鳥遊ホシノという一つの「個」が、過去の因縁としてすべて背負って片付けなければならない十字架なのだ
後輩たちをこれ以上巻き込むわけにはいかない。その想いだけが、折れそうな心をかろうじて繋ぎ止めていた
列車がガクンと大きな金属音を立てて速度を落とし、やがてゴトン、ゴトンと音を小さくしながら目的とは異なる小さなホームへと滑り込んでいく
これから向かう『大オアシス駅』へと通じる鉄路の分岐レーンを切り替えるため、ホシノは重い腰を上げ、誰もいない殺風景なプラットホームへと降り立った
足元の砂利をジャリジャリと踏み鳴らしながら、駅構内にある古びた駅員室の扉へと近づく
その時、ホシノの足がふと止まった
(……あれ? ホコリが、所々ない……?)
ここは砂嵐が吹き荒れる砂漠の真ん中にある無人の駅だ。普段は作業員すら滅多に訪れず、管理者の立ち入りさえ稀なはずの場所なのに、なぜか通路の片隅やドアノブ周辺の砂埃が、不自然なほど綺麗に拭い去られていた
(まさか……シロコちゃん達が、私を追うためにここを使ったのかな……?)
ほんの一瞬、そんな淡い期待と安堵の混じった胸騒ぎがよぎる。しかし、次の瞬間には、そんな甘い考えを自ら打ち消すように、ホシノは固く結んだ口元を引き締め、警戒しながら古びた扉を押し開けた
「っ……!」
ドアノブに手を掛け、中を覗き込んだホシノは、驚愕のあまり息を呑み、その場で大きく見開いた目を固定させたまま凍りついた
「待っていたわよ、小鳥遊ホシノ」
薄暗い部屋のなかに、静寂を切り裂くようにその声が響く
そこには、純白の長い髪を風のない室内でふわりと揺らし、その華奢な体躯には不釣り合いなほど巨大な愛用のサブマシンガンを軽々と携えた、一人の少女が佇んでいた
アビドスの砂漠の圏内には、絶対に居るはずのない人物
ゲヘナ学園風紀委員会を率いる絶対的な恐怖の象徴、風紀委員長・空崎ヒナが、錆びついた操作盤の前に立ちはだかっていたのだ
「……なんで、こんな所にヒナちゃんがいるのかな。おじさんがボケてなければ、ここはアビドスの領内のはずだけど」
動揺を必死に押し殺し、ホシノはわざと気怠げで刺々しい声を絞り出す
「……また一人で、抱え込んで無理をしているのね。相変わらず、危なっかしいことばかりして」
「……ヒナちゃんには何の関係もないことでしょ。これはアビドス内部の問題だ。それに、ヒナちゃんは以前、『ホシノのいるアビドスにはこれ以上干渉しない』って、そう言ったはずじゃなかったの?」
ホシノの言葉には、トゲのある険しさがたっぷりと混じっていた
かつて同じアビドスの地で激しく衝突し、これ以上互いの領域には踏み込まないと一線を引いたはずの相手だ。そのヒナが、なぜ今、まさにこの決定的な局面で自分の前に立ち塞がり、行く手を阻もうとするのか
ホシノは努めていつもの冷めた余裕ある笑みを仮面のように貼り付けるが、腰に回したハンドガンのグリップを握りしめる指先には、自然と強烈な力が籠もっていた
「……一人で何でもかんでも背負い込んで、すべてを一人で解決しようとすることには、限度があるわ」
「へぇ、私はずっとこうやって、たった一人で自分のやり方でやってきたんだけどね。今さら誰かにとやかく言われる筋合いはないかな」
「……それって、誰かを救いたいからじゃない。ただ、これ以上誰かを頼って失うのが、怖いだけなんじゃないの?」
「っ……!」
心臓を真後ろから鋭い刃物で突き刺されたかのような、あまりにも容赦のない図星
その一言を聞いた瞬間、ホシノの中で頑なに張り詰めていた虚勢の糸が、プツリと音を立てて切れた
初めて、ホシノの瞳から余裕の色が完全に消え去り、底知れぬ動揺と剥き出しの怒りがその小さな体に宿る
「……いいから、そこを退いて」
「退かないわ」
狭い駅員室の空間で、二人が一歩ずつ、互いの間合いをじりじりと詰めていく
普段のどこか気怠げで、マイペースな空気をまとうヒナとは対照的に、今のヒナの瞳には揺るぎない強固な意志の光が宿っていた
そして相対するホシノの顔には、隠しきれない焦燥と深い怒りの炎が渦巻いている
「最後にもう一回だけ言うよ……。今すぐ、アビドスから出ていって」
「……力ずくでも、あなたのその暴走を止める」
これ以上の無駄な言葉は、もはや互いにとって何の意味も持たなかった
二人が同時に踏み込み、激突したその瞬間、静まり返った無人の駅舎に、ヒナが放った無数の銃弾をホシノの重厚な盾が凄まじい勢いで弾き飛ばす、鋭い金属音が激しく鳴り響いた
♢
無人の駅舎という限られた閉塞空間に、金属と金属が激しく衝突する耳をつんざくような甲高い打撃音が、幾重にも重なって鳴り響いた
ヒナが放った凄まじい威力を誇る初撃の弾幕を、ホシノは手にした盾で寸分の狂いもなく完璧に受け止める
ズシンと腕に伝わる重圧を殺すことなく、その反動を巧みに利用するようにして、ホシノは軽やかに後方へと跳び退いた
舞い上がる砂煙を切り裂き、滑らかな体捌きで素早く体勢を立て直す
しかし、その鋭い瞳が捉えていたのは、正面で凄まじい殺気を放ちながら銃口を据え直すヒナの姿そのものではなかった
ヒナの背後、わずか数メートル離れた薄暗い壁際に位置する『大オアシス駅』へ続く鉄路を手動で切り替えるための切り替えレバー
(……私との無駄な戦闘を避けて、強引に先へ進む気ね……)
ヒナはホシノがその思考に至るよりコンマ数秒早く意図を察知すると、逃がすまいとサブマシンガンの銃口をさらに深く据え直し、圧倒的な高火力を誇る弾丸の嵐を次々と容赦なく叩き込んだ
こうして互いに正面から本気で銃火を交えるのは、奇しくもこれが初めてのことだった
だが、互いに圧倒的な実力者であるからこそ、二人は二年前に初めて相まみえたその瞬間から、多くを語らずとも互いの底知れぬ強さと内に秘めた危険性を誰よりも深く認め合っていたのだ
だからこそ、今のホシノには空崎ヒナという最大級の障害を相手に、ここで無駄な時間と貴重な体力を削られている余裕など一秒たりとも存在しなかった
一刻も早くあの切り替えレバーを引き、この場を強引に強行突破して去ることだけを考えていた
(……おかしい。ただ防御に徹するだけで、一発すら反撃を返してこないなんて……)
絶え間なく放つ銃弾が、重厚な金属に弾かれる手応えは確かに手元へ伝わってくる
だが、あのアビドス最強の小鳥遊ホシノが、ただ黙ってこちらの攻撃を一方的に受け止め続けるだけという完全な受け身の姿勢に、ヒナは胸の奥で言いようのない強い違和感を抱いていた
ヒナがふと引き金から指を離し、猛烈な銃撃の嵐をピタリと止めたその瞬間
立ち込める濃密な硝煙の向こうから姿を現したのは、ホシノ本体ではなく――床のコンクリート深くに突き立てられ、虚しく弾丸を受け止め続けていた愛用の「盾」そのものだった
(っ……!)
盾をその場に囮として固定し、自分自身は姿を消して死角へと回り込んでいたのだ
それが巧みな罠だと直感した瞬間、すでに完全な背後を取られていたヒナの耳元を、風を切り裂くような重々しい気配と破壊音が掠める
「――もらった……!!」
駅舎の外側から素早く回り込み、ヒナの背後を守る古い木造の壁を強烈な蹴りの一撃で豪快にブチ抜いたホシノは、崩れ落ちる破片とともにそのままの勢いで一歩踏み込み、目前に迫った切り替えレバーへと力いっぱいに手を伸ばす
並大抵の相手であれば、この意表を突いた構造物破壊による奇襲に肝を冷やし、レバーを引かれて完全にホシノの思い描いた通りの展開へと持ち込まれていたことだろう
しかし、目の前に立ちはだかる相手はゲヘナ風紀委員長、空崎ヒナである
ホシノが盾を囮に使ったと見抜いた数秒の思考の中で、ヒナはホシノが最短ルートである背後の壁を壊してレバーを奪いに来る未来を完全に予測し、先回りして死角へと身体を滑り込ませていたのだ
「っ……!!」
伸ばされてきたホシノの細い腕をあえて完全に無視し、ヒナはその身に余る長大な機関銃の銃身を、まるでバットのように全身のバネを使って両手で思いきりスイングする
「な……っ!?」
重圧な鉄の塊による強烈な痛打は、レバーへ手を伸ばしきって完全に無防備になっていたホシノの腹部を容赦なく直撃した
「ぐっ……!?」
骨が軋むほどの絶大な衝撃に耐えきれず、ホシノの小柄な身体はふわりと浮き上がり、そのまま破壊された壁の隙間をとおって、駅舎の開け放たれた入口の外へと激しく投げ飛ばされていった
「そんなに……私から、逃げたいの?」
冷たい夜風が廃駅の谷間を吹き抜ける中、ヒナは静かに銃口を下ろし、足元のコンクリートの上で苦しそうにうずくまるホシノの小さく震える背中を見下ろした
その静かな声には、怒りよりもどこか痛切な悲しみが滲んでいた
「くっ……はぁ、はぁ……っ……!」
強烈な打撃を受けた腹部を片手で強く押さえ込み、吐き捨てる息を白く乱しながら、ホシノは地面を擦るように滑らせて愛用の戦術盾を泥臭く手元へ引き寄せた
悔しさと痛みに顔を激しく歪ませながら、ヒナを鋭く射抜くように睨みつける
(……キレが、完全に落ちている……)
ヒナの冷徹で正確な目測から見ても、今のホシノの動きには明らかに彼女らしからぬ単調さと、焦りに満ちた隙が生じていた
対策委員会のアビドスの後輩たちとの手加減なしの死闘を繰り広げ、学校から旧庁舎に至るまでに立ちはだかった無数の武装兵士たちをたった一人で鎮圧し、さらにスオウとの激しい消耗戦を経て、先生率いる対策委員会チームとの極限の連戦――
いかにキヴォトスでも人間離れした怪物的なタフネスと圧倒的な戦闘力で知られる小鳥遊ホシノといえど、これほど過酷で途切れのない死闘を幾度も重ねれば、その肉体も精神も限界を遥かに超えてすり減っていくのは自明の理だった
動きが鈍り、判断に僅かな遅れが生じるのは至極当然のことなのだ
――少しでも彼女の体力が回復するよりも早く、ここで完全にホシノの身柄を拘束して鎮圧し、これ以上無茶をさせないようにしなければならない
ヒナは思考を冷徹に切り替えると、再び迷いなく銃口をホシノに向け、追い打ちをかけるように高火力を誇る凄まじい弾丸の嵐を浴びせかけた
「ぐっ……うぅっ……!!」
ホシノは再び盾を前方に構えて必死に防いだものの、激しい金属音とともに伝わる圧倒的な制圧力を、満身創痍の自らの肉体だけで抑え込むには、今のホシノにとってあまりにも過酷で膨大なエネルギーを消費させた
衝撃のたびに膝がガクガクと小刻みに震え、足元がジリジリと後退していく
これほどの限界状態であれば、これ以上距離を取って撃ち合う必要すらない。一気に間合いを詰めて手元を崩し、力づくで押し勝って組み伏せることができる
ヒナは確信し、最短距離で踏み込もうとした――まさにその瞬間だった
ホシノは己の敗北を拒むかのように血走った目をカッと見開き、盾を前面に強く突き出したまま、あえて退くのではなく、むしろ自らヒナに向かって真っ直ぐに突き進む突撃を開始したのだ
そして、ほんの一瞬――ヒナが相手の突拍子もない突撃の意図を測ろうと微かに目を細め、意識を盾の動きに割いたそのコンマ数秒の僅かな隙を逃さず、ホシノは懐から隠し持っていた何かを闇雲にヒナの頭上へ向けて投げつけた
(……フラッシュバン……!!)
それが何を意味するのかを直感した瞬間、二人の目の前の狭い視界で眩いまでに強烈な白銀の光の塊が爆ぜ、鼓膜を裂くような高音の爆音と爆発光が、ヒナの視覚と聴覚を一覚にして完全に奪い去った
「っ……!」
強烈な閃光とショック波に、絶対的な強さを誇るヒナもわずかに腕で顔を覆い、思わず動きを止めざるを得なくなる
どれほど肉体と精神が途切れかけて限界を迎えようとも、小鳥遊ホシノという底知れない怪物的な人物を相手にする時、一瞬たりとも気を緩めてはならなかったのだ
ようやく視界を覆っていた真っ白なホワイトアウトが徐々に薄れ、元の色彩を取り戻した時、ヒナが慌てて顔を上げて駅舎内の操作盤の方向を確認した時には、すでにすべてが遅かった
切り替え操作盤の重いレバーは力任せに完全に引き下ろされ、鉄路のポイントは『大オアシス駅』へ向けて切り替わっていた
駅舎の外へと慌てて飛び出したヒナの目に真っ先に飛び込んできたのは、まさに今、激しい黒煙と地響きのような轟音を立てて発進しようとする列車の最後尾のデッキに、痛む体を無理やり引きずるようにして必死に飛び乗るホシノの小さく傷ついた背中だった
「バイバイ……ヒナちゃん……!」
全身から激しい汗を噴き出させ、肩を上下させて激しく荒い息を繰り返しながら、ホシノは加速して遠ざかっていく視界の向こうで、小さく、けれど固い意志を込めて手を挙げてみせた
「……」
夜の闇の中へ遠ざかり、小さくなっていく列車の赤く光るテールランプを、ヒナはただ寒風の吹き抜けるその場に立ち尽くして見送ることしかできなかった