白子とシロコ   作:気弱

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届かなかった花束と赤く染まる空

陽が沈みかけ、まるで血を流したかのような禍々しくも美しい赤い夕暮れの光が、ゲヘナ学園・風紀委員会棟の静まり返った寝室を重たく染め上げていく

 

 

「エデン条約」を巡る狂騒の果てに起きた、あまりにも悪夢のような出来事の数々

 

万魔殿であるマコトの、ヒナが嫌いだというあまりにも身勝手で愚かな裏切り。そして、トリニティとゲヘナの長年の憎悪を利用して幾重にも張り巡らされたヘルメス文書とアリウス分校の陰謀の網

 

その渦中で、彼女が何よりも大切に想い、守りたかった愛する先生が、ヒナの目と鼻の先で銃弾に倒れた

 

ドス黒い血が床を染め、一瞬にして世界から一切の色が消え去ったかのようなあの絶望の光景は、今もなお彼女の精神を内側から苛み、深く蝕み続けている

 

奇跡的に、瀕死の重体から医療部と救護騎士団の不眠不休の処置によってなんとか一命を取り留めたという報せが届き、最悪の途絶という事態だけは免れた

 

しかし、風紀委員長として背負い続けてきた極限までの緊張と責任感、そして「大切な者を守れなかった」という圧倒的な自責の念によって心身ともにボロボロにすり減らされていたヒナは、周囲の心配や慰めの声をすべて振り切るようにして、一人自室の奥深くへと鍵をかけ、閉じこもっていた

 

――すべては、私が弱いからだ

 

部屋の隅、日の光が届かない暗がりに膝を抱えて小さく身を縮こまらせながら、ヒナは震える両手で固く自らの頭を抱え込む

 

まぶたを固く閉じれば、あの悪夢の瞬間、硝煙の臭いとともに血の海へ倒れ伏した先生の姿が、鮮明な映像としてスローモーションのように脳裏を掠める

 

その度に、鋭い毒刃で胸の奥深くを力任せに抉られるような凄絶な痛みが走り、息が詰まる

 

もしも――あの時、自分にすべてを一人で焼き尽くし、世界をひれ伏せさせるほどの圧倒的な力があれば

 

エデン条約を巡るすべての陰謀を力ずくで粉砕し、アコやイオリをはじめとする命を懸けてついてきてくれた風紀委員のみんなが酷く傷つくことも、そして先生があんな瀕死の重傷を負って死線を漂うこともなかったはずなのに

 

(私はもう……風紀委員長になんて、戻りたくない……)

 

どれほど厳格に規律を正し、誰よりも誇り高く、無敗の象徴として組織を率いてきたつもりであっても、次から次へと立ち現れる悪党どもの陰謀が牙を剥く。そして、信頼していたはずの学園内部からの愚かな足引っ張りによって、かけがえのない大切な人たちが次々と血を流し、傷つき、倒れていく

 

そんな救いのない理不尽な光景を、あまりにも短い期間に連続して見せつけられたヒナの心は、すでに修復不可能なほどにボロボロに砕け散り、粉々になっていた

 

柔らかいベッドの上のマットレスに横たわることすら、今の彼女にとっては耐えがたい苦行でしかなかった

 

身体の芯がまるで重い鉛を流し込まれたかのように重く沈み込み、ただ肺を膨らませて息をしているだけで、胸の奥がキリキリと痛む

 

ヒナはよろよろと頼りない足取りで冷たい床へ這い出すと、ゆっくりとした、まるで今にも砕け散りそうな手つきで、窓際の低いサッシに体を預けるようにして腰を下ろした

 

今この瞬間も、怪我を負ったアコやイオリたちは自らの傷ついた体を引きずりながら、崩壊しかけた風紀委員会の膨大な業務と学園の治安維持を必死の思いで回していることだろう

 

そんな健気な仲間たちに一言の置き手紙すら残さず、すべての重荷と責任を投げ出して自室に閉じこもってしまった自分の不甲斐なさとズルさに、胸が締め付けられるように激しく痛む

 

(……)

 

サッシの片隅、斜陽の赤い光に静かに照らされた窓のすぐ近くに、ひっそりと置かれていた小さくシンプルな1枚の写真立てに、ヒナの細く白い指が吸い寄せられるように伸ばされる

 

それは、ヒナが過酷な風紀委員長としての日常の中で、誰にも見せずに心の底から大切にし続けてきた、遠い日の記憶が閉じ込められた宝物だった

 

今から2年前。任務のために初めてアビドスの広大な砂漠の地を踏み尽くし、小鳥遊ホシノという一人の風変わりで規格外な少女と出会ったあの日

 

あの時、ホシノが目に入れても痛くないほど溺愛していた白い子犬――白子を連れて、当時所属していたゲヘナ情報部の目を盗み、アビドスの生徒会長であるユメも交えて、3人で初めて業務を盛大にサボって砂浜に並んで撮った、青春の思い出の写真

 

その後、互いの譲れない感情や様々なすれ違いから激しい喧嘩別れのようになってしまい、二度と連絡を取り合わないと誓い合ったはずだった

 

それでもこの写真立てだけは、ヒナの部屋の最も大切で、誰の目にも触れない一番綺麗な場所に、片時も絶やすことなくずっと飾り続けられていたのだ

 

(……あなたは、本当に強いわね……ホシノ……)

 

ガラス越しに映る、満面の笑みを浮かべて白い子犬を抱きしめる1年生の頃のホシノの姿を、ヒナは震える指先で慈しむようにそっと撫でる

 

大切な家族同然だった白子を失い、さらにホシノの精神的支柱であったユメ生徒会長もいつ目覚めるか分からないほどの絶望的な昏睡状態へと陥ってしまった、あの日

 

あの時のホシノも、今の自分と同じように……いや、それ以上に世界のすべてが音を立てて崩れ去るような激しい絶望の中で、心が完全に折れ、闇の中にいたはずだった

 

それなのに、ホシノは一度粉々に砕け散ったはずの心を何とか自分自身でかき集め、新しく現れた後輩たちと共に、ボロボロになりながらもアビドスという帰るべき場所を守り抜こうと必死に立ち上がっている

 

あの日、ただでさえ限界を迎えて精神の平衡を失いかけていたホシノに向かって、自分はさらに追い打ちをかけるように容赦のない絶縁の言葉を叩きつけ、完全な拒絶を選んでしまった

 

確かに、当時のホシノが自分の抱える壊れそうな事情や苦しみを一切相談してくれず、すべてを一人で背負い込んで自分を遠ざけようとしたことは、頭が真っ白になるほど寂しく、許せないほど腹が立ったのだ

 

――そんな極限状態にまで追い詰められなければ、どうして私を頼ってくれないのかと、子どもじみた独占欲と抑えきれない怒りに狂っていた

 

けれど、今の自分なら……自らも絶望の深淵に叩き落とされた今の自分になら、痛いほどよく分かるのだ

 

本当の絶望の淵に立たされた時、人間はあまりにも深い悲しみと恐怖のあまり、他人に助けを求めることなんて思考の片隅にすら浮かばなくなる

 

誰かを頼るという心の余裕すらすべて奪い去られ、ただ暗闇の中で一人、声を殺して這いずり回るしかなくなってしまうのだと

 

そんな人間の致命的な弱さも、友人としての察するべき苦しみも何一つ理解してやれず、自分の勝手な寂しさからくる怒りとくだらないプライドを、ボロボロのホシノにぶつけてしまったのだ

 

「ぐっ……うぅ……っ……!」

 

冷たくなった写真立てを細い両手で強く強く抱きしめ、ヒナの潤んだ紫の瞳から、耐えきれずに止めどなく大粒の涙が零れ落ち、膝を濡らしていく

 

私はなんて、救いようのない愚かで身勝手な理由で、あの子と大喧嘩をして突き放してしまったのだろう

 

たった一人の大切な友人が、本当に耐え難い地獄のような辛さと悲しみを味わっているその時に、どうして隣に寄り添って手を取ってやれなかったのか

 

自分が同じ地獄に落ちて、今になってその痛みが身にしみて分かるなんて、遅すぎるにもほどがあるのだと、ヒナは自らの不甲斐なさにただ咽び泣くことしかできなかった

 

(私は……ホシノのように、あんな風に強くなんてなれない……。大切なものを傷つけられ、奪われそうになりながら、それでも立ち上がって笑ってみせるような強さなんて、私にはどこにも……)

 

このまま、いっそのこと誰も自分のことを知らないどこか遠くの場所へ消えてしまいたい

 

学園も、風紀委員長という重苦しい肩書も、全てを投げ打って世界の鬱噪から己の存在そのものをかき消してしまいたい

 

死に等しい逃避の思考が、ヒナの限界を迎えた頭と心を真っ黒な絶望で塗りつぶしていった――まさにその瞬間

 

コン、コン

 

 

静まり返った暗い自室の扉を、優しく、しかし確かな意志と温もりを乗せたノックの音が、ゆっくりと叩いた

 

「ヒナ、そこにいるかい?」

 

(っ……せ、先生……!?)

 

扉一枚を隔てた向こう側から聞こえたのは、あの絶望の日に自分の目の前で血の海に倒れた――紛れもない先生の声だった

 

そのあまりに現実味のない、けれどたしかにそこに存在する愛おしく温かな気配に、ヒナの止まりかけていた心臓が跳ね上がるように激しく脈打ち始める

 

慌ててパジャマの袖口を両口元に押し付け、溢れ出て止まらない涙と鼻水を乱暴に拭い去ると、ヒナは未だにガタガタと震える小さな手で、ガチャリと重い鉄扉の鍵を開けた

 

「こんばんは、ヒナ」

 

「っ……先生……無事、だったんだ……よかった……本当に……」

 

重い扉をそっと押し開き、静かに部屋の暗がりへと足を踏み入れた先生は、いつもの、何一つ変わらない穏やかな微笑みを浮かべ、疲れた瞳でヒナを見つめていた

 

極限の孤独と自責の念の中で凍りついていたヒナの胸に、その温かな笑顔があまりにも眩しすぎて、彼女は抑えきれない感情のまま、縋り付くように先生の胸元へと駆け寄ろうとした

 

――その時だった

 

「せ、先生……それ、は……ッ」

 

伸ばしかけたヒナの小さな手が、途中でピタリと息を呑むように空中で凍りつく

 

涙に濡れた瞳の向こう、廊下の薄暗い明かりに照らされた先生の全身を見て、ヒナの呼吸が完全に止まった

 

「あ、ああ……これかい? はは、心配しなくても大丈夫だよ。もう激しく痛むわけじゃないんだからさ」

 

先生の右手は、痛みを堪えるように自らの腹部をそっと優しく押さえていた

 

その着古した白いシャツの布地越しに、痛々しいほどに鮮やかで濃密な赤黒い染みが、じっとりと広く滲み出ている

 

それは、エデン条約の最中、アリウスの不条理な銃弾が先生の脆い肉体を抉り取ったときの、今もなお癒えることのない生々しく凄惨な傷跡そのものだった

 

病院を抜け出し、重い身体を無理やり動かしてきたことで、傷口が再び開いて血が肉体を伝っているのだ

 

「……先生……っ……あぁ……」

 

先生に縋り付こうと持ち上げたはずの行き場を失った両手が、自分の存在そのものが先生を傷つけているかのような錯覚に襲われ、力なく、ただ重たく下へと垂れ下がっていく

 

キヴォトスの神秘を纏う生徒たちにとって、銃弾など日常のかすり傷と同義であり、一晩ゆっくり寝れば綺麗に治る些細な現象に過ぎない。しかし、この世界で「神秘を持たない生身の大人」である先生にとって、あの時叩き込まれた一発は命の灯火を一瞬で吹き消しかけた、あまりにも致命的だったのだ

 

自分たちが「日常」という当たり前の中で受けている暴力の足枷が、どれほどこの人の脆く儚い肉体を脅かしているのか

 

それを覆いようのない現実として突きつけられた凄絶な罪悪感が、ヒナの華奢な肩を逃げ場のない重圧で押し潰す

 

そんなヒナの蒼白に凍りついた表情を見て、先生は気まずそうに、けれどどこか困ったような、愛おしさを湛えた優しい苦笑いを浮かべた

 

「ねえ、ヒナ。もしよかったら……そのベッドを、少しだけ借りてもいいかな?」

 

「え……?」

 

「なんだか、ここまで自分の足で歩いたら、少しだけ疲れちゃってね……。よかったら、隣に一緒に座ってくれると、すごく嬉しいんだけど」

 

その言葉の裏にある、不器用で温かな意図を、頭の切れるヒナが悟るのに時間はかからなかった

 

これは先生が歩き疲れたからではない。ボロボロになって自室の深い闇に引きこもり、心を壊しかけている自分を心配し、絶対に一人ぼっちにさせないために、こうしてわざわざ再発した傷の痛む体を引きずってまで、会いに来てくれたのだと

 

「……ばか……先生は、本当に……っ」

 

震える声を押し殺すように呟きながら、ヒナは先生の冷え切った手をそっと自分の小さな両手で包み込んだ。そして、壊れ物を扱うかのような手つきでゆっくりとベッドの縁まで案内し、二人で並んで腰を下ろした

 

静まり返った部屋の中には、遠くの街灯がかすかに落とす薄明かりと、完全に暮れ切った夜の深い闇だけが広がっている

 

二人は肩が触れ合うほどの距離で静かに並んで腰掛け、言葉もなく、窓の外に広がる暗くなったゲヘナの街並みをぼんやりと眺めていた

 

「……アコたち風紀委員の誰にも、ここにいることは黙ってきたのに……どうして、私が自室に閉じこもっているって分かったの?」

 

しばらくの重苦しい沈黙を破るように、ヒナが掠れた消え入りそうな声で、ゆっくりと口を開いた

 

「んー……なんとなくの、先生としての勘、かな?」

 

先生は少しだけ悪戯っ子のように、優しく意地悪な笑みをヒナに向けてみせる

 

「……嘘。そんなの、嘘に決まってる……」

 

「はは、速攻でバレたか。本当はね、アコが教えてくれたんだ。『ヒナ委員長のことですから、きっと遠くの遠征なんかには行かず、一人で自室の奥深くに閉じこもっているはずです』ってね。あの子も、君のことをすごく心配していたよ」

 

「……そう、なんだ……アコが……」

 

「ヒナは、これからどうするつもりだい?」

 

隣に座る先生が、一切の濁りのない、真摯でどこまでも温かな瞳でヒナの横顔をじっと見つめ、静かに問いかけてくる

 

そのあまりにも真っ直ぐすぎる瞳に見つめられていると、心の奥底に深く蓋をして、誰にも見せないように押し隠していたはずの醜い弱音や汚い感情が、すべて引きずり出されてしまいそうになる

 

「……私は……風紀委員長を、やめる」

 

しぼり出すように発せられたその短い言葉は、あまりにも重く、冷たく部屋の空気を静かに震わせた

 

「……その理由を、僕に聞かせてもらえるかい?」

 

「私は……私は……っ! もう……っ!」

 

言いたい。

 

今すぐこの胸を締め付ける破裂しそうな苦しみを、誰かに分かってほしい。

 

耐えられないほどの弱音と恐怖を、すべてこの大人の前で吐き出したい

 

けれど、「絶対無敗の風紀委員長」としてゲヘナという巨大な組織を一人で背負い、誰の前でも弱音を吐くことを固く封じて生きてきたヒナにとって、己の弱さを言葉の形にするという行為があまりにも難しく、怖すぎた

 

喉の奥に大きな固い塊が詰まったようになり、どうしても次の言葉が出てこない

 

「……急がなくていいよ、ヒナ。ゆっくりで、いいからね」

 

「っ……! あ……」

 

ふわりと、先生の大きくて温かい手が、ヒナのガタガタと震える小さな背中を優しく、慈しむように包み込んで撫で下ろした

 

誰かにこんなふうに背中を優しく撫でてもらうなんて、いったいどれくらいぶりのことだっただろうか

 

遥か昔に忘れていたはずの人の温もりが、冷たく張り詰めていたヒナの心の防壁を、内側から溶かすように温めていく

 

その一触即発の優しさに触れた瞬間、ついにダムの決壊のように、溢れ出そうとしていた感情が破裂した

 

「私は……私なりに、すごく……すごく頑張ったの……っ!!」

 

消え入りそうだった震える声が、夜の静寂を破るように激しく響き渡る

 

「ゲヘナ学園のために、規律を正して、秩序を守って、誰もが平穏に暮らせるようにって……どれだけバカにされても、風紀を正そうって必死に頑張ったの……! でも、全部ダメだった……! 私一人では、どれだけ足掻いても何も出来なくて……! 結局、私の目の前で、先生が撃たれて……私なんかがいくら強くなったつもりでいても、先生の命すら……守れなかった……っ!」

 

一度堰を切ってしまった感情の奔流は、もう誰にも止められなかった

 

普段から弱音を吐くことも、己の傷口を人に見せることも一切許されずに生きてきた少女

 

その荒削りな喉から、抑えきれない激しい嗚咽とともに、心の底深くに溜まりに溜まっていた泥のような絶望が、涙とともに次から次へと溢れ出ていく

 

「私は……小鳥遊ホシノのようには、到底なれないの……!」

 

絞り出すような絶叫のあと、ヒナの華奢な肩が激しく波打つ

 

自室の冷たい空気の中、彼女の呼吸は浅く、荒く乱れていた。涙で塗れたその瞳は、あまりにも脆く、今にも崩れ去ってしまいそうだった

 

「……ホシノ、かい?」

 

先生は驚きの色を浮かべつつも、静かにその名を反芻した

 

「彼女はね……自分の心の支えだった大切な子犬……白子を失って、いつも優しく頼りにしていた生徒会長も……いつ目覚めるか分からないほどの深い昏睡状態に陥った……。

 

そんな、世界のすべてを奪われたような凄惨な絶望の中にいたホシノに、私はこともあろうか追い打ちをかけるように酷い絶縁の言葉を投げつけて、大喧嘩別れをしてしまったの……!

 

それなのに……それなのに彼女は、自分の絶望に溺れて立ち止まったりなんかしなかった

 

諦めず、たった一人でボロボロになりながらも、新しく現れた愛おしい後輩たちを守るために、あの砂漠の真ん中で戦い続けたのよ……!」

 

「……ヒナ。君も、白子のことを知っていたんだね」

 

先生の瞳に、深い納得と、切なくなるほどの優しさが浮かぶ

 

ゲヘナ学園の風紀委員長と、アビドスの生徒会長。一見して交わるはずのない二人の間に、それほどまでに深く、痛々しいほどの因縁が存在していたことなど、今のボロボロになったヒナの口から聞かなければ、誰も想像すらできなかっただろう

 

「あの時だってそうよ……。私は、久しぶりに会った彼女にまた意地を張って……『二度と貴方の前には現れない』って……最低な拒絶の言葉を吐き捨ててしまったの。

 

でも、本当は……本当は心の底から仲直りしたくて……その後、何度かこっそりアビドスの学校まで足を運んだのよ……」

 

あの日は、忘れもしない白子の命日だった

 

他の風紀委員たちにどれほど怪しまれようとも、厳しい日常業務のすべてを同僚のメンバーに頭を下げて押し付け、驚くアコたちの視線を背中に受けながら、私は風紀委員長になって以来、人生で初めて「一日の休暇」をもぎ取ったのだ

 

綺麗に束ねた花束を大切に抱え、一縷の望みをかけて静まり返るアビドスの校舎へ向かった。けれど、そこに対策委員会の姿はなく、追っていたホシノの姿もどこにもなかった

 

行き場を失ったヒナは、ただ静まり返った校舎の一角、鍵のかかった白子の仏壇がひっそりと安置されている誰もいない部屋の扉の前に、そっとその花束を置いて立ち去ることしかできなかった

 

自分の不器用さが、惨めで仕方がなかった

 

「何度だって、やり直すチャンスはあったはずなのに……。なのに、私はプライドばかり高くて……」

 

ホシノが突如として学校から姿を消し、アビドスがカイザーコーポレーションの侵略によって最大のピンチに陥った時もそうだった。

 

対策委員会の後輩たちが必死に抗うその背中を見守るべきだと、頭では分かっていた。カイザーの理事が逃げ出したあとも、崩壊していくア棟の中で足がすくみながら、それでも居ても立ってもいられなくなって、崩れ落ちる瓦礫の中へ……傷ついた彼女を助けに行ってしまった

 

謝罪するチャンスなんて、本当はいくらでも足元に転がっていたのだ。それなのに、私は――自身の素直になれない幼さのせいで、またしても手を伸ばせなかった

 

「……そっか。ヒナも、ずっと一人でそんな深いところで悩み、苦しんでいたんだね……。うん、風紀委員のことは、私に任せなさい。今までよく、たった一人でここまで頑張ってきたと思うよ」

 

「っ……!?」

 

先生は、ヒナが口にした「風紀委員を辞める」という痛切な言葉を一蹴せず、否定もしなかった

 

当然、これまでの風紀委員長としての責任感を諭され、「戻りなさい」と叱責されるものだとばかり思い込んでいたヒナは、その予想外すぎる穏やかな言葉に涙で濡れた目を大きく丸くし、文字通り息を呑んで驚愕した

 

「でもね、ヒナ。君はまだ、風紀委員を辞める辞めないを決める前に、自分自身の心ときちんと向き合わなければいけないことがあるはずだよ」

 

「な、なにを……言ってるの……先生……」

 

「ホシノと、本当は仲直りしたいんだろう? ……それはね、たとえ明日から風紀委員を辞めてただの生徒になったとしても、ヒナが自分の心に嘘をつかずに生きていく気なら、絶対に避けては通れない道なんだ」

 

「でも……今更、私がどんな顔をして謝ったところで……あんな酷いことを言った私なんかを、許してくれるわけないわよ……!」

 

「……ヒナにとって、小鳥遊ホシノは……いったい、どういう存在なんだい?」

 

「……っ」

 

問いかけられ、ヒナは言葉を失い、ぎゅっと唇を噛み締めて下を向いた

 

――私にとっての、小鳥遊ホシノ

 

初めてゲヘナに入学したばかりの頃、周囲の誰もが敵に見えるような重圧の中で、山のような膨大な仕事を押し付けられ、その理不尽な業務の一環として出会った一人の少女

 

初めのうち、私を見る彼女の瞳は、すべてを見透かすような冷徹で警戒心剥き出しの光を帯びていて、ヒナにとっては恐怖すら感じる対象だった

 

だけど、アビドスの生徒会長や、あの愛らしい白子が間に立ってくれたおかげで、ホシノがその小柄な肩に背負っている苦労と孤独の重みが、自分自身のそれと寸分違わぬほどに同じであることに気づくことができた

 

「……私にとって、初めてできた……本当の友達よ」

 

ヒナの口から、掠れた小さな、けれど温かな声が漏れる

 

ホシノのおかげで、ただ忙しいだけの無機質な日常の中で、ゲヘナでも少しずつ友達や仲間が増えていったのだ

 

あのまま心を閉ざして仕事を押し付けられるだけの存在だったら、きっとアコやイオリたちのような、掛け替えのない仲間だって出来なかっただろう

 

「……それなら尚更、ちゃんと向き合わなきゃダメだね」

 

「……」

 

「これは私の長年の勘だけどさ、ホシノにとっても、同い年の友達ができるのは、きっと君が人生で初めてだったんじゃないかい?」

 

先生のその温かな言葉を聞いた瞬間、ヒナの脳裏に、初めてアビドスの青い空の下で出会ったあの日の記憶が、昨日のことのように鮮やかに蘇ってくる

 

白子と無邪気にグラウンドを駆け回り、砂埃で汚れた体では寮に戻れないとホシノたちに半ば強引に引き止められ、学校の銭湯のようなお風呂に3人肩を並べて一緒に入った、あの温かな夜

 

湯気の立ち込める脱衣所で、普段は不敵に笑うホシノが急に頬をぽっと赤らめ、照れくさそうにぼそりと自分の名前を呼んでくれたこと

 

そこからすべてが始まり、自分たちは立場を超えて、確かに「友達」になったのだ

 

『あ! ホシノちゃん照れてる、照れてるねー! 実はアビドスで同世代のお友達がいないから、どうやって声をかけたらいいか恥ずか……がぼがぼがぼ!!?』

 

その時、横から当時のアビドス生徒会長であるユメが、楽しそうにからかうような補足を入れたのだった

 

照れ隠しにパニックになったホシノが、真っ赤な顔をして生徒会長の頭を湯船の水底へと容赦なく沈めて黙らせようとしたせいで、肝心の最後の言葉は泡と一緒に水中に消えてしまったけれど――

 

今なら、痛いほどよく分かる。ホシノも自分と同じように、友達の作り方なんて不器用で、どうしようもなく気恥ずかしかったのだと

 

「……うん。ホシノもね……私と同じように、『初めての友達だって』……そう、照れくさそうに言ってくれたの……っ」

 

静まり返った自室の闇の中、ヒナは涙を拭いながら、どこか愛おしそうに遠い目をして呟いた。その小さな声には、過去の温かな記憶を愛しむぬくもりが宿っていた

 

「ふふ、そうだと思ったよ。やっぱり、君たちは本当に似た者同士だね」

 

隣に座る先生は、優しく目尻を下げ、包み込むような温かな笑みを向けた

 

「ど、どういう意味よ……そんな風に茶化さないでよ、先生」

 

不意を突かれたヒナは、濡れた睫毛を揺らしながら、頬をかすかに赤らめて抗議するようにそっぽを向く

 

「茶化してなんてないよ。二人とも、自分のことになるとどうしようもなく不器用で、そのくせ……誰よりも友達思いだってことさ。

 

それにね、ホシノも以前、ヒナとあんな形で喧嘩別れしてしまったことを、すごく後悔していたよ」

 

「……っ」

 

その時のヒナは、先生のその言葉のすべてを素直に信じきることができなかった

 

目の前で起きたエデン条約の悲劇があまりにも重く、自分の無力さに打ちひしがれていた彼女は、「仲直りを心から望んでいるのは、勝手で未熟な自分だけなのだ」と、心のどこかで頑なに決めつけてしまっていたからだ

 

「……それじゃ、そろそろ私は帰るよ。みんなを心配させちゃうし……ヒナもゆっくり体を休めなさい」

 

そう言って、ベッドから重い腰を上げようと身じろぎした先生の袖を、ヒナは慌てて小さな手でぎゅっと掴み、引き止めた

 

「……どうしたんだい、ヒナ」

 

「ゲヘナの仕事は……私がいない間も山積みで、アコたちが待っているんでしょ? ……私も、行くわ」

 

「あれ? 風紀委員は、辞めるんじゃなかったのかい?」

 

「……ただの迷い言よ。ほんの少しだけ、先生に甘えてみたかったんだから……意地悪言わないで」

 

「ふふ、そうだね。それじゃあ、私は廊下で待っているよ。着替えたら一緒に行こう」

 

先生のその温かな言葉と背中に背中を押されるようにして、ヒナは再び重厚な黒い制服に細い袖を通し、ゲヘナ学園・風紀委員長として組織の最前線へ戻る決意を固めることができた

 

――けれど

 

どれほど組織の規律を正し、無敗の委員長としての威厳を取り戻そうとも、心の奥底に深く巣食う「ホシノと向き合い、もう一度仲直りしたい」という切実な願いに向き合う勇気だけは、どうしても、どうしても最後まで絞り出すことができずにいた

 

拒絶されることへの恐怖が、彼女の足をすくませていたのだ

 

そんな、自分からは一歩も動けないヒナの背中を、無理やり押し込むようにして――ある日、遠くのアビドスから一人の少女がゲヘナ学園の重厚な門を叩いた

 

それは、あのカイザー理事との命がけの死闘の最中、崩壊するビルからホシノを救い出してくれたことに対する礼を言いに来たという、アビドス高等学校・対策委員会の砂狼シロコだった

 

静けさを纏った銀髪の少女は、執務室で淡々と必要な用件を済ませると、すぐにアビドスへ向けて引き返そうとした

 

しかし、なぜかその別れ際、不意にホシノの名前が会話の端々に上り、ヒナは素直になれない自身の愚かな意地から、『小鳥遊ホシノのことを嫌っている』と、吐き捨てるように冷たい言葉をぶつけてしまったのだ

 

シロコは、その刺々しく拒絶に満ちた言葉に対しても眉一つ動かさず、ただ静かに一礼して背中を向けた

 

そして、執務室の重い扉のノブに手を掛け、まさに部屋を出ていこうとするその直前

 

まるで大切な伝言をすっかり忘れていたのを思い出したかのように、シロコは振り返りもせず、淡々と、しかし確かに通る声でぽつりと呟いたのだった

 

『……ホシノ先輩、風紀委員長の事、すごく心配してたよ』

 

(――先生の言った通りだった……っ)

 

シロコの背中が遠ざかっていく風紀委員会棟の廊下を見つめながら、ヒナは胸の奥で小さく息を呑んだ

 

アビドスという荒涼とした過酷な砂漠の中で、誰よりも厳しい運命を背負いながらも、泥臭く、しかし真っ直ぐに仲間とともに生きる砂狼シロコ

 

その少女の澄んだ瞳の奥には、確かに「ホシノ」という存在への絶対的な信頼が深く、太く焼き付いていた

 

彼女ほどの後輩がわざわざゲヘナの地にまで足を運び、自分の見えないところでホシノがどれほど自分――空崎ヒナのことを気にかけていたかを、そっと教えてくれた

 

その事実は、罪悪感で冷え切っていたヒナの胸の内に、じわりと温かな痛みを伴う灯火をともした

 

(本当に、ホシノは……私なんかのことを……)

 

あの日、あの瞬間に自分が投げつけた、あまりにも冷酷で刃のような拒絶の言葉の数々

 

「二度と私の前に現れないで」と突き放し、絶縁を言い渡したあの日の己の歪んだ顔を思い出せば、今でも身がすくむようなどうしようもない自責の念に襲われる

 

それなのに、ホシノは自分のことを嫌っていなかった

 

あの喧嘩の後も、お互いに不器用なまま、心のどこかでずっとこちらのことを気にかけていてくれたのだ

 

私なんかと、もう一度あの日のように友達に戻りたいと思ってくれているのだと

 

あれだけ酷い裏切りと同義の拒絶をしたこの私のことを、それでもあの頑固で温かな少女は許そうとしてくれているのだと気づいた時、ヒナの中で泥のように溜まっていた迷いが、音を立てて霧散していった

 

ようやく、心の底からの覚悟が決まった

 

もう、臆病風に吹かれて自分の気持ちから逃げたりはしない。どんなに不格好でも、どんなに言葉が詰まろうとも、あの砂漠の真ん中で一人過酷な命の削り合いを続ける彼女の元へと走り、その両手で直接、これまでの謝罪と、今も変わらない大切な友情を伝えなければならない

 

(あの時、先生から通信が入った時――)

 

『……メールで大まかな事情は送ったと思うけれど、改めてお願いしたい。君の力が必要なんだ』

 

そう、通信越しに先生から切迫した声で頼まれた瞬間、全身の血が逆流するような強い確信があった

 

今しかない。動くなら、ホシノが再び過去の亡霊に囚われ、絶望的な混乱の渦中にある今この瞬間を置いて他にはないのだと、ヒナの本能が激しく叫んでいた

 

すべての苦い因縁に今度こそ決着をつけ、かつて繋いだ大切な友の手を、もう一度握り返しに行くために

 

ヒナは愛用の銃を強く握りしめ、かつてないほどに澄み切った紫の瞳で、激しい戦闘の気配が漂う『大オアシス』へと続く荒涼とした砂漠を見つめた

 

♢

 

ガタガタと途切れなく荒々しく振動する、老朽化した列車の最後尾デッキ

 

その重い鉄の扉を無理やり手で開け放ち、ホシノは全身を切り裂かれるような鋭い痛みに顔を歪めながら、薄暗い客車の内部へと滑り込むように崩れ落ちた

 

「はぁ……はぁ……っ、ふぅ……っ……!」

 

先の戦闘でヒナの繰り出した強烈なスイングが直撃した右側の脇腹を、ホシノは手袋越しに強く、血を止めるように押し押さえた

 

溢れ出る脂汗が視覚を濡らす中、近くにあった使い古された硬いボックスシートのシートへ、崩れ落ちるようにして深く腰を下ろす

 

たった一度深呼吸をするだけでも、肋骨の奥で内臓が悲鳴を上げて軋むような鈍痛が全身の神経へ響き渡る

 

(まったく……こんな時に……ヒナちゃんとガチで戦ってる暇、ないのにさ……!)

 

アビドスを飛び出してからの数々の過酷すぎる連戦。そして何より、自らの手で振り切り、傷つけてしまったシロコたち対策委員会の愛おしい後輩たちとの手加減なしの激闘

 

どんなにキヴォトスで常軌を逸した怪物的なタフネスと頑丈さを誇る小鳥遊ホシノといえど、流石にこれほどまで切れ目のない連続した消耗戦のツケは隠しきれるものではなく、全身の関節が鉛のように重く軋み、視界の端が黒くかすみ始めていた

 

そんな最悪なんて言葉では生ぬるいタイミングで現れたのが、よりによってあのゲヘナ学園の風紀委員長・空崎ヒナなのだから厄介極まりない

 

万全の状態であったとしても、ヒナと正面から正攻法で撃ち合えばどちらが勝つかなど五分五分、一瞬の運と隙で決まるような厳しい相手なのだ。それが、このように指一本動かすのすら億劫な満身創痍の状態で当たれば、その勝敗の行方など火を見るより明らかであった。

 

一体なぜ、このタイミングで、彼女のような超大物がこんな人っ子一人いないアビドスの打ち捨てられた無人のローカル線に居合わせたのか

 

どれほど思考を巡らせても、今の疲弊し切った頭では納得のいく答えなど出てくるはずもなかった

 

(……まあ、いいか。流石にあの速度で駅を離れて発車した列車には、いくらヒナちゃんでも自力で追いついて跳び乗るなんて芸当は無理だし……これ以上は気にしなくていいよね、おじさん……)

 

ガタゴトと重い音を立て、列車はすでに最高速度にまで加速し、広大な荒野のレールを猛スピードで疾走している

 

先ほど駅舎のホームに置き去りにしたヒナの姿は、流れる車窓のどこにも見当たらない

 

あとはこのまま『大オアシス駅』で待ち構えるスオウに決着をつけ、アビドスを脅かす暴走列車砲を完全に破壊するだけだ

 

それさえ成し遂げてしまえば、すべてが終わる

 

ホシノは張り詰めていた神経を少しでも和らげ、消耗しきった体力を一秒でも早く回復させようと、痛む体を冷たいシートの背もたれにもたせかけ、深く呼吸を整えながらゆっくりと目を閉じた

 

――まさに、その瞬間だった

 

(……ん? 今、なんか変な音が……)

 

ゴトンゴトンと規則正しく響く車輪とレールの摩擦音の合間に、頭上の薄い鉄の天井から、まるで硬質な何かが重たく落下し、踏みしめたかのような乾いた足音がかすかに聞こえた

 

このローカル線の周囲は風化の激しい崩れやすい崖が延々と続いている

 

きっと高架や崖の上から小さな岩か何かが屋根の上に転がり落ちてきただけだ。そう自分に言い聞かせ、頭の中で無理やり理屈をこじつけようとする

 

(……っ!?)

 

だが、幾多の死線をくぐり抜けてきた戦士としての長年の勘が、脳の奥底で警鐘を鳴らし続けていた

 

何故だろう、胸の奥が冷たく凍りつくような、背筋に氷の塊を直接押し付けられたかのような、嫌な予感が全身の産毛を逆立たせていく

 

ホシノはその拭えない嫌な予感を振り払うように立ち上がり、次の車両へと移動して身を隠そうと足を一歩踏み出した

 

――まさにその瞬間

 

耳をつんざくような激しい破壊音とともに、頭上の天井の鉄板が内側へと豪快にブチ破られた

 

「っ……!? なっ――!?」

 

「……さっきぶりね、ホシノ」

 

舞い散る鉄屑と木片、そして激しい風圧の向こうから姿を現したのは、確実に無人の駅舎のホームに置き去りにしたはずのゲヘナの風紀委員長――空崎ヒナだった

 

彼女はまるで散歩の途中で降り立ったかのように涼しい顔のまま、天井の残骸を小さな軍靴で踏みつけ、客車の中へと静かに降り立ったのだ

 

「ヒナちゃん、本当にしつこいね……! そんなに、おじさんのことが嫌いなの!?」

 

今の自分には、ヒナの容赦ない猛攻を盾で正面から受け止めるだけの体力など残されていない

 

せめて軽口を叩いて相手の計算を乱し、わずかでも会話を引き延ばして乱れた息を整えたい

 

そんなホシノの必死の思考など一切お構いなしに、ヒナは冷徹なまでの静けさと決意を纏った紫の瞳のまま、その華奢な体格には不釣り合いなほど巨大な銃口を、スッと迷いなくこちらへ向けた

 

「っ……!」

 

反射的に冷や汗が背中を伝う

 

ホシノは慌てて背筋を丸め、連結部の重い扉を蹴破るようにして前の車両へと転がるように逃げ込んだ

 

重い金属の扉を急いで閉め、客車の真ん中にある低いボックスシートの影へと身を小さく潜ませる

 

「……また、逃げたの?」

 

扉の向こうから、ヒナの低く落ち着いた声が響いた

 

小柄な体格のおかげで、低い背もたれの椅子の影にすっぽりと身を隠すことができ、どうやらヒナはホシノの正確な潜伏位置を見失っているらしかった

 

こんなギリギリの時だけは、自分のこの小柄な身長が少しだけ役に立っているなと、皮肉な自虐を心の中で噛み締めながら、ホシノは肺の空気を極限まで絞り出して気配を消し、息を殺す

 

そして、ヒナの足音がすぐ真横の通路を通り過ぎようと、その気配が目と鼻の先にまで近づいてきたまさにその瞬間――

 

「ここだよ……っ!!」

 

「っ……!?」

 

痛む全身の筋肉を強引に鞭打って飛び出し、不意を突く決死の奇襲は見事に成功した

 

ホシノはそのままの勢いでヒナの無防備な懐へと飛び込み、その華奢な身体を押し倒すようにして上から完全に乗りかかった

 

突然の突撃に床へ押し倒されたヒナの整った顔に、初めて微かな焦りと驚きの色が浮かび上がる

 

「なんで……っ! 全く関係のないヒナちゃんが、どうしてそこまでして私をしつこく追いかけるのさ……っ! もう関係ないって、前にそう言ったじゃないか……!」

 

「くっ……」

 

床の上で至近距離で組み合い、互いの荒く熱を帯びた呼吸が激しくぶつかり合う

 

あれほど自分を徹底的に拒絶し、二度と自分に関わらないと冷酷な言葉を投げつけて絶交してきたはずのヒナが、なぜ今になってここまで執拗に自分を追い回し、命懸けで進路を阻もうとするのか

 

その真意が、今の疲弊し絶望に囚われたホシノの頭ではどうしても理解できなかった

 

自分の往く道を邪魔されているという激しい苛立ちと、底知れない困惑が、ホシノの胸の奥でドロドロとした暗い怒りへと形を変えていく

 

(……待って、まさか……ッ)

 

激しい怒りと過呼吸の渦中で、ホシノの思考の奥底に、一つの昏く冷たい仮説が黒い稲妻のようにひらめいた

 

今のキヴォトスで、あのゲヘナ学園の風紀委員長・空崎ヒナという絶対的な存在を動かし、これほどまでに執拗に他者の領地にまで首を突っ込ませることができる人物など――この世界にただ一人しか存在しない

 

「そうか……っ、そういうことなんだね……ヒナちゃん……っ!!」

 

「……っ?」

 

「先生に……あの人に頼まれて……! 『頼りになる風紀委員長』として、良いところを見せたいからでしょ……ッ!!」

 

「っ……!? 」

 

その言葉が鼓膜を打った瞬間、ヒナの静寂を保っていた紫の双眸が、驚愕と痛みに大きく見開かれた

 

その僅かな動揺と硬直を、絶望の渦中にいるホシノの歪んだ瞳は見逃さなかった。完全に図星の顔だ――

 

ホシノの歪んだ認知は、ヒナの傷ついた表情を「真実を突かれて狼狽した証拠」として身勝手に補完し、決定づけてしまう

 

――私なんかを必死に追いかけて止めるのは、先生の命令だからだ。先生に「よくやったね」と褒められたいから、私を玩具みたいに手放さないためにこんな風に立ちはだかっているんだ。私自身の抱える破滅の苦しみや血を吐くような絶望なんて、ヒナちゃんにとってはただの任務の口実か、お気に入りの大人の機嫌を取って好愛を買うための道具にすぎないというのか

 

ホシノの細く傷だらけの指が、激しい悔しさとドロドロとした怒りでガタガタと打ち震え、下からヒナを押さえつける手に爪が食い込むほどの力を込めた

 

「そんな……ッ! そんな不純な……っ、誰かの顔色を窺って褒められたいだけの気持ちで……私の前に……立ちふさがるな……ッ!!」

 

「っ……!」

 

「ぐっ……!? かはっ……っ!」

 

怒りに任せて重心がわずかに前に偏ったその決定的な瞬間、下から鋭く突き出されたヒナの蹴りが、さきほどから悲鳴を上げ続けているホシノの負傷した腹部へ容赦なく直撃した

 

みぞおちを抉る強烈な衝撃に酸素が一瞬で肺から吹き飛び、ホシノはたまらず痛む身体を丸めながら後ろへと激しく飛び退いた

 

床に叩きつけられたヒナもまた、その一瞬の隙を逃さず即座に跳ね起きると、乱れた黒い制服の裾を翻しながら、隙のない完璧な戦闘体勢へと立て直した

 

(くそっ……なんで……! どうして何一つ言い返してくれないのさ……ッ!!)

 

図星だから言い訳すらできないのか。それとも、自分のような壊れた人間などまともに相手をする価値もないと見下しているのか

 

ただ冷たく、静かにこちらを見据え続けてくるヒナの無言の態度に、疲労と極限の焦燥からくるホシノの怒りは、もう制御不可能なほどに燃え上がっていた

 

「っ……!」

 

ヒナは一切の無駄な感情を削ぎ落としたかのように言葉を固く閉ざしたまま、再び容赦なくその巨大な機関銃の漆黒の銃身をこちらへと向けた

 

彼女の小柄な身体を中心に、周囲の空気を歪めるほどの重圧と、恐ろしいまでに濃密な紫色の熱量と破壊のオーラが渦を巻き始める

 

ホシノが胸騒ぎに背筋を凍らせ、咄嗟に盾を前面に強く構えたその瞬間――

 

ドォォォォンッ!!!

 

光の束か、あるいはレーザービームのようにも視える超高威力の高密度弾幕が、咆哮とともにホシノの全身へ強烈な勢いで襲いかかった

 

(っ……うそ……ッ!? これ、さっきまでの攻撃とは威力が次元違いに上がってる……! さっきの戦闘すら、まだ手加減……本気じゃなかったっていうの……ッ!?)

 

バチバチと火花を散らす盾の背後で、ホシノは目を見開いた

 

凄絶な爆風の余波は周囲の木製座席の残骸を粉砕するだけに留まらない。客車の分厚い鉄の壁や床、フレームすらも、まるで熱したナイフでバターを切るかのように、触れた端からドロドロに焼き切れ、スパッと滑らかに削ぎ落とされていく

 

(この狭い車内でヒナちゃんと本気でやり合ってたら……私どころか、この列車自体が持ちこたえられない……っ!)

 

こんな逃げ場のない狭い車内で戦闘の余波を広げ続ければ、車両そのものが爆破・破断して線路へ脱線し、確実にヒナの狙い通りに足止めされてしまう

 

ここで足をすくわれ、進行を阻まれるわけには絶対にいかないのだ

 

「はぁ……はぁっ……くっ、はぁっ……!」

 

 

「はぁ……はぁ……っ」

 

 

煙と粉塵が吹き荒れる破壊孔を突き破り、全速力で疾走する列車の屋根の上へと這い上がったホシノが、荒い息を吐きながら痛む足で身構える

 

そのすぐ後を追うように、ヒナもまた屋根の破れ目から羽のように軽やかに、しかし重厚な威圧感を纏って屋根の上へと降り立った

 

冷たい夜風にヒナの長い髪が激しくなびき、その華奢な肩もわずかに上下して息が上がっているのが見て取れる。だが、後輩たちや傭兵、スオウとの幾重もの過酷な連戦をすべて一人で背負い続けてきたホシノの方に、すでに残された体力の限界が間近まで迫っているのは誰の目にも明白だった

 

(……やるしかない、か……っ)

 

ヒナの本当の目的は何なのだろうか

 

おそらく、『大オアシス駅』に列車が到着する前に自分をここで力づくで捕獲・無力化するか、あるいはそれが不可能なら、この列車ごと完全に破壊・足止めして進行不能にすることだ

 

先ほど客車の内部でまざまざと見せつけられた、あの桁外れの破壊力。彼女の本気は、自分を鎮圧するのと同時に、この列車を運行不能にすることをも十分に視野に入れている

 

例え自分がこの場からうまく身一つで逃げ延びたとしても、足となる列車を失えば、荒野の先に待つ列車砲の現場には到底間に合わない

 

そこまで冷徹に計算に入れての追撃なのだ

 

(――そうなる前に、ヒナちゃんをこの列車の上から地面へ叩き落とす……! 流石にこの全速力で疾走する列車から放り出されたら、どんなに規格外のヒナちゃんでも、すぐに追いつくことは不可能なはず……!)

 

今の自分に求められているのは、正面からヒナを打ち負かして勝利することではない

 

彼女が自分に対してこれ以上追撃の手を出せない状況を作り出し、強引に振り切ることだけだ

 

プライドも勝敗も関係ない、手段を選んでいる余裕などないのだから

 

「……っ」

 

広大なアビドス砂漠を疾走する、列車の轟音と軋みだけが、耳をつんざくように二人の周囲に響き渡る

 

嵐のように吹き抜ける冷たい夜風の中、二人はわずか数メートルの狭い屋根の上で向かい合い、一言も発することなく、互いの存在を賭けた鋭い眼光で静かに睨み合った

 

ガタッ……!!

 

疾走する列車の車輪が、線路の途切れた繋ぎ目か、あるいは風化して転がり落ちた荒野の小石を踏み越えたのか

 

全速力で夜の闇を突き進む列車が、ほんの一瞬だけ大きく車体を浮き上がらせるように揺れた

 

「……ッ!」

 

その僅か数秒の姿勢の崩れを、百戦錬磨の風紀委員長が見逃すはずもなかった

 

屋根の上に降り立ったヒナは、迷いなくその巨大な機関銃の引き金を絞り、紫色の閃光とともに高密度の弾幕を展開する

 

だが、先ほど狭い車内で見せたような、周囲の鉄板ごと空間をすべて焼き尽くすほどの凄まじい密度と熱量はない。やはり、あのレベルの超高火力連射は、どれほど規格外の神秘を秘めたヒナといえど、連続して長時間維持できるものではないのだ

 

(まずは……この至近距離まで、リスクを冒してでも一気に近づかないと……ッ!)

 

ホシノは反射的に口元にくわえていたスモークグレネードの安全ピンを、鋭い歯で強引に引き抜いた。そして、激しい火花を散らす盾の隙間からわずかに顔を覗かせると、ヒナの足元に向けて狙い過たず一気に投げつける

 

「――ッ!?」

 

狙い通り、屋根の上で次々と炸裂した白煙が、視界を一瞬にして濃密な灰色の闇で覆い尽くす。遮蔽物のない強風の吹き荒れる列車の屋根の上だ

 

引き金を引いて闇雲に広圧弾幕を張り続けている間は、煙の奥にあるこちらの細かい足さばきや攻撃軌道までは視認できるはずがない

 

もちろん、嵐のような風が吹き抜けるこの場所で、スモークの効果を長く持たせることなど到底不可能だ

 

ほんの数秒で煙は吹き飛ばされ、再び無防備な姿が晒される

 

それでも――ほんの一瞬でもいい。あの絶望的な威力を秘めた漆黒の銃口を、自分から僅かでも逸らさせることができれば、そこに勝機はある……!

 

「こっちだよ、ヒナちゃん……ッ!!」

 

「……ッ!?」

 

白煙を勢いよく突き破り、ホシノは痛む足で強引に距離を詰め、己の得意とする極限の近接戦闘へと持ち込む

 

もう二度と、あの厄介な長物を自由に構えさせ、遠距離から一方的に撃ち込ませたりはしない

 

ホシノは右手に握りしめた愛用のハンドガンを抜き放ち、その照準を寸分の狂いもなくヒナの無防備な胸元へと合わせた

 

「ぐっ……!」

 

しかし、空崎ヒナという少女は、ただの煙幕程度で隙を見せるほど甘い相手ではなかった

 

ホシノが突撃してくる直線上の軌道をあらかじめ予測していたかのように、ヒナはその全長の長い銃身を、まるで長槍のように鋭く突き出し、真っ直ぐにホシノのハンドガンを押し返してきたのだ

 

(嘘でしょ……この重くて長い銃身を、そんな至近距離の槍みたいに扱いこなすなんて……っ! 流石、ゲヘナの風紀をたった一人で守り続けてきただけのことはあるよ……ッ!)

 

ホシノは内心で激しく舌打ちする

 

だが、先ほど車内を灼熱で溶かしたレーザーのような弾幕に比べれば、物理的な打撃や至近距離の牽制など、盾と肉体で受け流せば致命的な脅威にはならない

 

「くっ……!」

 

ヒナはホシノの放った至近距離からの容赦ない牽制弾を巨大な銃身で滑らかに受け流すと、そのまま風を切って華麗に身を翻し、一回転するようにして少し後方の車体屋根へと軽やかに着地した

 

(ここで……息を吹き返させるわけにはいかない……ッ!)

 

追撃の手を緩めまいと、ホシノは悲鳴を上げる全身の筋肉と負傷した腹部を死に物狂いで強打し、再びヒナに向かって一直線に爆発的な踏み込みを見せる

 

「これで……最後にするわ、ホシノ……!」

 

「……ッ!?」

 

正面から真っ直ぐに向かってくるはずだったヒナが、ふっとその華奢で小柄な体を地面すれすれにまで深く沈み込ませたかと思うと次の瞬間――背中に隠された漆黒の翼を大きく羽ばたかせ、凄まじい上昇気流と風圧とともに、ホシノの頭上高くへとふわりと飛翔した

 

(その翼で……飛べるの……ッ!?)

 

直前の瞬間、ホシノの疲弊した脳裏に、嫌な記憶が激しいフラッシュバックを起こす

 

ほんの少し前、後輩たちとの戦いで、自分自身がまざまざと見せつけられたあの一幕。『相手の実力を知れば知るほど、自分の知らなかった新たな情報や進化に直面して、思考と動きが完全に止まってしまう』――まさに、自分がさっき後輩たちに対して口にしたその通りの失態が、今度は皮肉なブーメランとなって、自分自身の喉元に突き刺さっていた

 

不意を突かれた、数秒の決定的な硬直

 

夜空へと飛び上がったヒナは、空中での姿勢制御を完璧に保ちながら、その銃口をホシノの無防備な背中へと真下から垂直に向ける

 

その瞬間、彼女の華奢な全身から、再びあの禍々しくも美しい、圧倒的な紫色の神秘のオーラが猛烈な勢いと暴風となって噴き出した

 

先ほど車内で見せたものよりも、はるかに濃密で、空間すら歪めるほどの絶対的な熱量を帯びたレーザーのような超高圧弾幕が、容赦なくホシノの小さな全身を呑み込んでいく

 

「っ…………!!」

 

あまりの圧力と衝撃に、ホシノの呼吸が完全に止まる

 

喉の奥から空気が吹き飛び、胸が押し潰される

 

さっきまでの車内での攻撃すら、自分を傷つけすぎないようにまだ手加減されていたというのか

 

ホシノは両手で必死に盾を頭上へ押し出し、全身に残されたすべてのエネルギーをそこに注ぎ込んで死に物狂いで防ごうとするが、その巨躯をも容易に押し流すほどの絶大な衝撃波に、足元がジリジリと凄まじい音を立てて後方へ押し滑っていく

 

(ここで……ヒナちゃんに、捕まえられてしまうわけには……いかない……ッ!)

 

ここでヒナの圧倒的な力の前に屈し、身柄を捕らえられてしまったら――自分はいったい何のために、あの温かく愛おしい後輩たちの手を自ら振り払った?

 

何のために、世界で一番大切で、自分が命をかけて守ると決めたシロコに向けて、銃口を向けなければならなかったのか

 

ここで立ち止まるわけにはいかない。絶対に、負けられない。後戻りなんて、もうどこにも出来やしないんだ。こんなところで……負けたくなんて、ない――ッ!!

 

「っ……あぁぁぁあぁあーーッッ!!!!」

 

喉が破れ、血を吐くような凄絶な絶叫とともに、残されたすべての生命力と神秘のエネルギーを最後のひと滴まで振り絞り、ホシノは軋む盾をさらに前へと力任せに押し返す

 

しかし――限界を迎え、悲鳴を上げていたのは、人間の肉体だけではなかった

 

ゴォンッ……!!!

 

これまで荒涼としたアビドス砂漠を全速力で疾走し続けてきた列車の車体が、二人の規格外の生徒が放つ耐えきれないほどの過負荷と凄絶な衝撃波の余波に耐えかねて、ついに内部の機関部から大爆発を起こした

 

「……っ……!?」

 

突如として足元の屋根をブチ破って吹き上がった猛烈な爆風と赤熱の衝撃波が、満身創痍のホシノの体を容赦なく直撃する

 

体勢を完全に崩したホシノの小さな体は、もはや重力に抗うこともできず、全速力で疾走する列車の屋根から大きく宙へと弾き飛ばされ、漆黒の闇が広がる険しい崖下へとまっ逆さまに放り出された

 

(……すべてを……大切な仲間も、後輩も……すべてを投げ出して、ここまで来たのに……っ……私の……負け、なの……?)

 

遠ざかっていく列車の途切れた轟音と、頬を撫でる冷たい夜風を肌に感じながら、ホシノの視界は急速に途切れ、深い深い闇の底へと沈んでいった

 

 

ヒュー……ヒュー……と、吹き荒れる過酷な寒風が、岩肌の露出した荒涼とした崖の底を無情に吹き抜けていく

 

「はぁ……はぁ……っ、はぁ……っ……」

 

荒く、途切れがちで切羽詰まった息を薄い白煙とともに吐き出しながら、ヒナは落下の衝撃で崩落した巨岩の瓦礫と鋭い砂利が散乱する足元を、軍靴で一歩一歩踏みしめて、ゆっくりとその場所へと歩み寄った

 

風圧で乱れた黒い制服の裾を払い、肩を上下させながら辿り着いたその暗がり

 

そこにいたのは、全速力で疾走する列車の屋根からの落下という、致命的かつ凄絶な衝撃を受けながらも、神秘の力を盾に注ぎ込んで何とか地表へ叩きつけられることだけは免れ――しかし、すでに全身の全エネルギーと生命力を完全に使い果たして膝から泥の上へ崩れ落ち、自力では立ち上げられないほどに追い詰められた、小鳥遊ホシノの痛々しい姿だった

 

「……私の、勝ちよ……ホシノ」

 

ヒナは荒い息を整えながら静かに足音を止め、泥と汗と血に塗れてうなだれるホシノの目と鼻の先へと歩み出た

 

そして、壊れかけた人形のように小さく震える彼女の背中を、悲哀の混じった澄んだ瞳で見下ろした

 

「なんで……っ、なんでなんだよ……っ。どうして……ヒナちゃんが、ここまでして……私を……」

 

「……っ!?」

 

地面に泥だらけの両手を突き、血にまみれた冷たい土を爪が折れんばかりの力で掴みながら、ホシノは途切れそうな呼吸の隙間から声を絞り出し、ゆっくりと……本当にゆっくりと顔を上げた

 

――まだ、意識を保っているというのか

 

通常の生徒であれば、後輩たちやカイザー、スオウとのあり得ないほどの過酷な連戦を駆け抜け、その果てに列車から崖下へ弾き飛ばされれば、とっくに意識の灯火は吹き消され、絶望の闇の底へと沈んでいるはずの状況だった

 

しかし、ホシノの歪んだ瞳には、なおも消えることのない、執念という名の暗い野火のような光がドロドロと狂おしく宿っていた

 

肉体の限界など、とうの昔に遥か彼方へと超越しているはずだ。これはもはや気力や根性、タフネスといった安直な言葉すら超越した、彼女の魂の奥底から惨劇のように発露する、執念そのものであった

 

意思の通りに動くはずもないボロボロの肉体を、激痛と意地で強引に引き裂くように歪ませながら、ホシノは顔だけをわずかにねじ曲げ、目の前に立つヒナを真正面から射殺さんばかりの勢いで睨みつけた

 

その瞳の奥底に重く沈んでいたのは、単なる戦いの疲労の色などではない

 

目の前の敵を何としても打ち倒さんとするむき出しの狂気じみた殺意。かつて不器用ゆえに互いを深く傷つけ合い、絶交を突きつけられた者同士が抱く、身を焦がすような罪悪感と裏返しの執着

 

そして――世界のすべてを失い、たった一人で暗闇の砂漠を這い回り続けなければならなかった、深淵のような孤独と絶望

 

ありとあらゆる凄惨な負の感情が、その小柄で華奢な体に渦巻き、恐ろしいほどの重圧となって周囲の空気を歪めていた

 

あまりの気迫と、彼女が背負う闇の凄まじさに、幾千の死線を潜り抜けてきたヒナの背筋を、一筋の冷たい汗が静かに伝い落ちた

 

ヒナはゴクリと乾いた唾を飲み込み、胸の奥に詰まった重い苦しみを押し出すように、一度深く息を吸い込んで吐き出した

 

「……私は、先生に頼まれて……ここに来た」

 

「……やっぱり……ッ! 私を連れ戻して……あの人に……頼りになる風紀委員長として、いい所……見せたいから、でしょ……ッ!!」

 

「違うわ」

 

絶望と被害妄想に苛まれ、血を吐くように言葉を絞り出したホシノの決めつけを、ヒナはわずかの躊躇もなく、静かに、しかし断固とした強い語気で即座に否定した

 

「先生に『助けてあげてほしい』と頼まれたのは……私を動かす、ほんの小さな引き金の一つにすぎないわ」

 

「……っ!?」

 

「私はね……私自身の意志で、あなたを……助けに来たのよ、ホシノ」

 

「ふざけ……ないで……ッ!! 関係ない癖に……ッ! 」

 

「……!」

 

「私を本当に助けたいって言うなら……お願いだから、放っておいてよ……ッ!! こんな……もう何の関わりもないはずの……余計なヒナちゃんなんかに、これ以上私は関与されたくない……っ!!」

 

ホシノは叫び声をあげるエネルギーすら惜しむように荒く短い息を吐き散らしながら、もはや自分のものとは思えない動かない両腕を死に物狂いで叱咤した

 

そして、泥の中に転がっていた愛用のショットガンへと、擦り切れた指先を這わせようと必死に腕を伸ばした

 

しかし、ホシノの肉体は、ヒナが懸念していたよりもはるかに残酷で凄まじい次元を超えて限界を迎えていた

 

「動け」と命令を出しているはずの彼女の指先は、ピクピクと痙攣するように細かく震えるばかりで、数センチ先にある重い銃の冷たい金属に触れることすらかなわなかったのだ

 

(こんなボロボロの体なのに……ここまでの凄まじい圧と殺気を放てるなんて……。もし、万全の状態の小鳥遊ホシノが相手だったら……私の方が負けていたかもしれないわ……)

 

ほんの一瞬だけ、ヒナの胸の奥を、最強と謳われる生徒に対する圧倒的な畏敬と、それ以上に一人の少女がここまで自分を破壊するまで追い詰められてしまったことへの激しい胸の痛みが駆け抜けていく

 

だが、今はそんな感傷に浸って立ち止まっている暇などなかった

 

今、自分がこの身を削り、傷口から流れる血の熱を感じながら、冷え切った崖の底に立っているのは何のためなのか

 

エデン条約の狂騒の果てに先生が撃たれ、自分自身も自室の闇に閉じこもってすべてを投げ出しかけた

 

その絶望の淵で、傷ついた体を引きずって会いに来てくれた先生の手の温もり、そして自分の背中を優しく撫でてくれたあの手

 

『ヒナ。君がもう一度立ち上がる理由は、風紀委員長のためじゃなくていい。まずは、大切な友達の手をもう一度握り返すためでいいんだよ』

 

あの時、先生が示してくれた道

 

今、目の前で絶望の深淵に呑まれ、世界を呪い、すべてを諦めようとしている友がいる

 

歪みきった誤解と独りよがりの被害妄想の底に沈むホシノの壊れかけた魂に、自分の本当の声を、胸の奥底にずっと閉じ込めてきた過ちと後悔のすべてを、逃げずに真正面から叩きつけなければならなかった

 

「関係、あるわよ……ッ!!」

 

「ないよっ!! そんなの、全部ヒナちゃんの勝手な押し付けじゃないか……ッ!!」

 

ヒナの言葉を遮るように、反射的に真っ向から否定の叫びを叩きつけてくるホシノ

 

その喉から搾り出される掠れた悲鳴を聞きながら、ヒナは出血と痛みに耐えるように、唇を破れんばかりに強く噛み締めた

 

そして、夜の静寂を切り裂くように、己の魂の全てを込めて叫んだ

 

「――あなたはね、私の……初めて出来た、大切な友達よ……っ!!」

 

「っ……!?」

 

その言葉が荒涼とした崖の底に激しく響き渡った瞬間。

 

それまで狂ったように泥を引っ掻き、動かない手でショットガンへ這おうとしていたホシノの動作が、まるで操り糸をぷつりと切り落とされた人形のように、ピタリと固まって止まった

 

「……あなたが、あの時大切な白子を失って……いつも優しく頼りにしていたユメ生徒会長も、二度と目覚めない深い昏睡の眠りに落ちて……。

 

そんな、世界のすべてをいっぺんに奪われたような、どん底の絶望の中にいたあなたに……私はこともあろうか、あんなにも酷い絶縁の言葉を投げつけてしまった……ッ!」

 

ヒナの声が微かに震え、目頭に熱いものが込み上げてくる

 

「エデン条約で先生が撃たれ……私自身が同じような絶望の淵に叩き落とされた時、私は誰にも頼ることなんてできなかった……。助けを求める余裕すら奪われるあの絶望の苦しみを、自分が叩き落とされて初めて理解したのよ……! なのに私はあの時、極限状態にいたあなたに対して、助けを求めてくれなかった怒りや子どもじみたプライドから、偉そうな説教ばかりを並べ立てて……一番酷い形で拒絶してしまった……っ!」

 

「……っ、ぐ……っ……」

 

「それでも……私はつまらないプライドと意地を張ってしまって、二度とあなたの前には現れないなんて言って……ずっと素直に謝ることができなかったわ! ……あなたの口から、私を完全に拒絶する言葉を聞かされるのが……何よりも怖かったからよっ!!」

 

ホシノはもう何も言い返さない

 

ただ、血と汗に塗れた冷たい泥の地面へと、ふっと光を失った双眸の視線を落としたまま、石のように硬直していた

 

「何度だって、あなたの顔を直接見て……謝りたくて、私は一人でアビドスの校舎へ足を運んだわ。

 

……でも、そこにあなたの姿は一度もなかった。まるで、天が私みたいな不器用な女の謝罪を拒んでいるんじゃないかって錯覚するくらい、タイミング悪くあなたはいつも留守で……。

 

私はそれに怯えて、また『届かないなら仕方ない』なんてつまらない理由をつけて、逃げ続けてしまったのよ……っ!」

 

「……そんなの……っ。そんなの、証拠なんて……どこにも、ないじゃないか……っ! 今更そんな綺麗事を言われたって……っ!」

 

震える声で、かすかに抵抗しようとするホシノ

 

ヒナはそんな彼女を見つめ、深呼吸を一つ挟むと、静かに……しかし言葉の一つひとつを噛み締めるように紡ぎ出した

 

「……あの日のこと、覚えてる……? ……忘れもしない、白子の命日の日よ。私はね、アビドスの校舎の……鍵のかかった白子の仏壇がある教室の扉の前に、一つの花束を置いてきたの」

 

「っ……!?」

 

その瞬間、ホシノの息が止まり、その双眸が驚愕に大きく見開かれた

 

自分でも、なんて女々しく、惨めで不器用なやり方だったのだろうと今でも激しい羞恥に襲われる

 

面と向かって「ごめんなさい」と伝える勇気がどうしても出なかったからこそ、普段の自分なら見向きもしないような街の花屋に足を運び、花束にひそやかに込められた「花言葉」に、自分の謝罪と後悔のすべてを託してホシノに伝えようとしたのだ

 

紫のトルコキキョウが持つ意味は『希望』

 

白い菊が示すのは『誠実』

 

そして、その脇に静かに添えられたハシバミの小枝が物語るのは――『仲直り』、そして『和解』

 

結局、最後の最後に自分の名前すらカードに書き残す勇気が湧かず、ただ花束を置いて逃げるように立ち去ってしまった自分の愚かな臆病さのせいで、その切実な想いはホシノの元へと届くことはなかったのだと諦めていた

 

だが、あの花束の存在は、紛れもない真実だった

 

「あなたのお陰でね、私は……ただ仕事を押し付けられるだけだった無機質な日常から抜け出して、ゲヘナでも、少しずつ本当の友達や仲間を増やすことができた……。

 

アコたちという大切な存在ができたのも、あの時あなたと出会えたからよ。

 

だから……相談して、どんな花を組み合わせれば自分の謝罪と『もう一度友達になりたい』という気持ちが伝わるか……必死に考えて選んだものなのよ」

 

「……っ……あ……」

 

ホシノの顔から、先ほどまで世界を呪い、自らを破滅へと追いやろうとしていたあの激しく凄惨な怒りの炎が、嘘のようにすっと消え去っていく

 

代わりに、あまりにも予想外すぎる真実を突きつけられたことによる、言いようのない深い困惑と、揺らぐような動揺の色が、その小さな顔を覆い尽くしていた

 

「……だから、あなたがこうして再び自分の手で傷を広げ、暴走してどうしようもなくなっているのを『引き留めてほしい、助けてあげてほしい』と先生から託された時、私は心の底から思ったのよ。

 

……これは、神様が私に与えてくれた最初で最後のやり直しのチャンスなんだって。あの時すれ違ったままになっていた私たちの絆を、今度こそ『友達』として、真正面から正して……あなたを救い出しなさいって……そう言われている気がしたの」

 

「……っ……そんなの……望んでなんて、ない……っ! お願いだから……誰も、私なんかに構わないでよ……っ! ほっといてよ……っ!」

 

ホシノはブルリと小さく首を振り、その真実の重みに耐えかねたように激しく目を背けた。震える声には、先ほどまでの荒々しい怒りではなく、傷口を無理やり開かれた幼い子供のような悲痛な拒絶の色が滲んでいた

 

「あなただって、本当は心の奥底では分かっているはずよ……っ! たった一人で何もかもを背負い込み、自分を壊しながら戦い続けることなんて……もう限界だっていうことくらい……っ!」

 

「私一人で……十分、解決できる……っ! もう二度と、私のせいで誰も苦しませたくない……! ユメ先輩みたいに……白子みたいに、誰一人として……これ以上私の目の前で死なせたくないんだよ……っ!!」

 

「……白子の事は、確かに悲しかったけれど……あれは事故よ。例えあなたが『自分の不甲斐なさのせいだ』とどれほど自分を責め立て、過去を否定し続けようとも……あれは、あの子自身が自分の大切な居場所を守るために選び取った……『彼女』なりの誇り高い生き方だったはずよ」

 

白子は、ただ大人しく庇われるだけの存在などではなかった。あの子の気高く真っ直ぐな生き様はホシノの心を、どれほど救い、繋ぎ止めてきたことか

 

ホシノやユメが重ねてきたの日々に、静かで温かい癒やしと笑顔を与え、他学園の委員長であるヒナにすら、初めて「互いの苦しみを分かち合える対等の友達」という存在を意識させるきっかけを与えてくれた

 

そして何よりも――大好きなホシノという居場所をその身を挺して守るために、自らを繋いでいたリードを千切り捨て、ユメが捕らわれていた敵の要塞へと、たった一匹で果敢に乗り込んで行ったのだ

 

そして最後には……大好きなホシノの未来とアビドスの明日を守り抜くために、その小さな命をあまりにも美しく散らした

 

そんな一匹の気高き子犬――誇り高き姿に対して、ヒナは心からの惜しみない敬意を込め、『彼女』と呼んだのだ

 

「分からないなんて言わせないわ、ホシノ……っ! あなたが今やろうとしている身勝手な自己犠牲はね……あなたが死に物狂いで守ろうとしているその足元で、あの子が命を賭けてまで守りたかったアビドスのすべて……そして、あなたと共に過ごした愛おしい思い出のすべてを、自分自身の泥塗れの手で容赦なく踏みにじり、傷つけているのと同じことなのよ……ッ!!」

 

「………っっ!!!!」

 

ヒナの魂を絞り出すような叫びは、ホシノが頑なにかさぶたで覆い隠していた心の最も深い核心を、鋭く、正確に突き刺した。

 

「そんなことはない」と反論するための言葉など、どこを探しても見つからなかった。喉の奥が引き裂かれそうなほど熱く軋み、息が上手く吸えない

 

「朝霧スオウの企みなんて、先生たちが何とかしてくれる。あなたが自分の手で大切に育て上げ、いまやどんな困難にも折れないほど立派に成長したアビドスの後輩たちも、あなたと同じ方向を向いて、あなたを追いかけて一緒に戦っているわ……。少しは……ほんの少しでいいから、目の前にいる仲間たちの強さを、彼女たちの絆を心から信じてあげたらどうなの……っ!」

 

ヒナは荒い息を整えながら、ゆっくりと……壊れものを扱うかのように慎重に、膝から崩れ落ちたホシノへと歩み寄った

 

そして、凍てつく風に晒された彼女の冷え切った肩を優しく抱き起こし、支えるために、小さく傷ついた白い手をそっと差し伸べた

 

――その、まさに瞬間

 

「……知ったような口を……叩かないでよ……。『風紀委員長』ちゃん……」

 

「……ッ!?」

 

ピクリと、ホシノの泥に塗れた小さな肩が小さく跳ねるように震えた

 

耳を疑うほどに、その声のトーンが一瞬で様変わりしていた。さきほどまでの悲痛な拒絶の叫びや、弱音が混じった等身大の少女の響きは綺麗に削ぎ落とされ――そこにあったのは、底冷えするような不気味なほどの静寂と、深淵の底から響いてくるような冷徹な声色

 

それと同時に、ホシノの華奢な体をすっぽりと包み込むようにして、これまでキヴォトスの誰も目撃したことすらないような、禍々しくもおぞましいまでのドス黒い異形のアウラが、地を這う泥流のようにじわじわと湧き上がり始めていた

 

「なんで……どうして、白子が死ななくちゃいけなかったの……? ユメ先輩が……あんなふうに冷たくなっていかなくちゃいけなかったの……?」

 

冷え切った夜風がヒュウヒュウと吹き抜ける崖の底

 

地面に膝を突いたまま、ホシノは目の前に差し出されたヒナの暖かい手を、まるで視界にすら入っていないかのように完全に無視した

 

そして、ただ血と汗にまみれた泥の地面の一点を、光の消えた虚ろな瞳で見つめながら、途切れ途切れの低い声で独りごとのように暗く呟き続けた

 

「死んだ人間は……二度と生き返らない……。どんなに泣いても、叫んでも、過去は絶対に戻らない……。もし、そんな理不尽で残酷な別れに何か意味があるっていうなら……あの子たちが命を奪われて、一体どんな意味があったっていうの……? 」

 

「それは……っ……」

 

あまりにも重く、世界の誰も答えを出すことのできない絶望の問いかけに、直前まで語りかけていたヒナの喉がピタリと詰まり、言葉が詰まる

 

しかし、ホシノはそんなヒナの困惑や葛藤など端から耳に届いていないかのように、ただ自分自身の内側にある終わりのない闇の問いを、呪文のように途切れ途切れに紡ぎ出し続けた

 

「どうして……あんなに小さくて、ただ私を信じて懐いてくれていた白子が……あんなに冷たくて苦しい最期を迎えることになっちゃったんだろう。一体……私の人生の、どの選択が間違っていたの……? 私は、どこから道を誤ってしまったのかな……?」

 

(……っ? おかしい……私のことが、見えていない……!?)

 

目と鼻の先に立っているはずのヒナの存在は、今のホシノの歪んだ瞳には全く映っていなかった

 

彼女の虚ろな視線の先にあるのは、目の前に差し出された暖かい手などではなく、かつての温もり溢れる在りし日の悲劇の幻影――あるいは、己の胸の奥底でドロドロと煮詰まり続ける、終わりのない血を吐くような自責の念だけだった

 

「あの時、私が白子の首輪を離さず、ちゃんとつけていれば……鍵をしっかりかけて外に出さなければ……。いや、違う……そもそも私が調子に乗って、あんな危険な闇企業を相手に暴れ回ったりしなければ……」

 

「っ……!?」

 

その瞬間、ホシノの小さな体を包み込む周囲の空気が、歪みと重力異常を起こして激しく歪み始めた

 

彼女の魂から溢れ出る圧倒的な負の感情が実体を持ったかのように、冷たい足元の影からドス黒く禍々しい漆黒のモヤが溢れ出し、まるで生き物のようにうねる蛇となって彼女の四肢や痛々しい傷口を這い上がっていく

 

「私が……あの時ユメ先輩の前で弱音を吐き出したりしなければ……。先輩があんなに一人で抱え込んで、苦しむこともなかった……」

 

「あの時、私が生徒会になんて入らなければ……」

 

「あの時、私が……あんな恐ろしい場所に行かなければ……」

 

絶望の呪文を一つ呟くたびに、ホシノの全身を取り巻く黒いオーラはさらに凄惨な濃度を増していき、周囲に転がる重い小石や鋭い砂利が、重力の法則を無視して浮遊し、パチパチと火花を散らしながら砕け散っていく

 

「……そもそも、私みたいな人間が……最初からこんなアビドスの砂漠の街に生まれていなければ……。ユメ先輩も、白子も……誰一人として死なずにすんだんだ……っ」

 

怨嗟の呟きが途切れた直後――ドス黒い黒いモヤに全身を完全に覆い隠されたホシノが、ギギ、カクカクと不気味で乾いた音を立てながら、ゆっくりと、しかし世界を圧迫するほどの圧倒的な圧力を伴って立ち上がった

 

全身の全エネルギーを使い果たし、自力では動かないはずだった肉体が、黒い執念によって暴走し、強制的に駆動せしめられているのだ

 

「!」

 

そして、その顔がふっと力なく上がると、狂気と深淵の闇に侵された虚ろな瞳が、目の前に立ちすくむヒナの姿を捉えた

 

「ああ……やっぱり……そうだ……」

 

その目は、目の前にいる「空崎ヒナ」という一人の少女を見ていながら、その実、目の前の相手すら認識できず、ただ自身が作り出した過去の罪悪感という名の幻影を睨みつけているかのようだった

 

「あの2人を……冷たい砂の中に追いやったのは……殺したのは……」

 

「っ……!」

 

「私だ」

 

「……っ……! 落ち着きなさい、ホシノ……! そんなはずないわ、しっかりしなさい……!!」

 

ヒナはあまりの異質でおぞましい気配に喉の奥を冷たく締め付けられながらも、血の引き切った口元を無理やり動かし、悲痛な叫びとともに必死に友の名前を呼びかけた

 

しかし、もはや今のホシノの耳には、その切実な制止の声すら届いてはいない。彼女は壊れた歪なからくり人形のように、ただ自身を死へと追いやる呪いの言葉を、感情の失われた機械のように繰り返し呟き続けていた

 

「……私だ……私なんだ……私が、すべてを壊したんだ……」

 

「ホシノ……っ!」

 

突如として、ホシノの壊れたレコードのような呟きがピタリと途絶えた

 

まるで内部の機関が完全に停止したかのように動かなくなったかと思うと、ギギギ、と首の骨が鳴るような人間離れした角度で、彼女は再びヒナの方を真正面から見据えた

 

その瞳には光など一切なく、ただ深淵の闇が揺らめいている

 

「この苦しみは……誰にも分かるはずがない」

 

「っ……!」

 

その絶望の宣告が発せられた瞬間、ホシノの全身を焼き尽くすように渦巻いていた漆黒のモヤが、一気に限界を超えて臨界点へと達した

 

「なにも……知らないくせに……っ!!!!」

 

世界が天地逆転したかのような凄まじい大爆発音が、静まり返っていた荒涼とした崖の底を根底から激しく揺るがせた

 

暴風と熱波、そしてホシノの底知れぬ精神の完全なる崩壊が生み出した、規格外の神秘の暴走による絶対的なエネルギーの解放

 

ヒナは、目の前の友の身に一体何が起きたのかを完璧に理解する猶予すら与えられぬまま、その絶大な爆発の嵐の中に全身を呑み込まれ、夜の闇の中へと激しく吹き飛ばされた

 

 

ホシノがその精神の限界を完全に超えて異形へと豹変し、漆黒の絶望と底知れぬ狂気のオーラを極限まで爆発させた――まさに、その直後のことだった

 

アビドスの静まり返った広大な夜空が、深遠な闇を鋭く切り裂くかのように、まるで世界そのものが血を吐いたかのような不気味で濃密な真紅の赤へと、一瞬にして禍々しく染め上げられていった

 

「な、なんだ……!? 一体、窓の外で何が起きているっていうんだ……!?」

 

アビドスの静寂に包まれた街の一角に、ひっそりと佇む古びた病院

 

その最奥に位置する暗い特別病室の中

 

幾重もの複雑な医療機器と管に囲まれた静かなベッドの上で、静かな眠りを維持し続けているユメの傍らにずっと寄り添っていた主治医が、ふと室内を襲った異様な空気の重みに違和感を覚えて窓の外を見やり、顔を蒼白にさせながら恐怖に満ちた掠れ声を漏らした

 

ありえない禍々しい色に染まりゆく天空の異常さに息を呑んだ――まさに、その次の瞬間だった

 

主治医の背後で規則正しく静かなリズムを刻み続けていたはずの生体モニターの電子音が、突如として破裂したかのようなけたたましい緊急警告音へと一変した

 

「っ……!! 大変です、先生……っ!! ユメさんの心拍が……急激に低下し始めています……!!」

 

「なっ……なんだって……!?」

 

看護師の切羽詰まった悲鳴のような叫び声に、主治医は慌ててユメの眠るベッドの傍らへと飛び寄った

 

これまでの一年間、微弱ながらも一定の落ち着いたペースを保ち続けていたはずの彼女の心拍数が、まるで砂漠の底へ何か恐ろしい力で力ずくで引きずり下ろされるかのように、突如として恐ろしい勢いで急降下を始めていた

 

モニターに描かれていた命の波形が、みるみるうちに高低差を失い、冷酷な直線へと近づいていく

 

そして――スピーカーから発せられたのは、この場にいる全員が絶対に聞いてはならない、生命の完全な停止を意味する冷酷で途切れない電子音だった

 

ピーーーーーーッ……という、脳裏を刺すような連続音が、静まり返っていた病室の薄い壁を絶望的に打ち付ける

 

「先生……っ! ユメさんの心拍が、完全に……止まりましたっ!!」

 

「くっ……ふざけるな……! まだだ、まだ終わらせてまるか……っ! 私の目の前で患者を死なせはしない! できる限りの蘇生処置はすべて行う! すぐに除細動器の用意をしろ……! 電気ショックの準備を急ぐんだ!!」

 

夜の静寂に包まれていたはずの病院の一室は、一瞬にして極限の緊迫感と死の恐怖に包み込まれ、医療スタッフたちの悲痛な怒号と荒々しい足音が床を激しく鳴らしながら駆け交う

 

「ユメさん……! しっかりしてください、どうか……どうか目を覚ましてください……っ! あなたには……あなたの帰りをずっと……今日までただ一途に信じて待ち続けている、大切で愛おしい人がいるんですよ……! こんなところで、諦めたりなんかするな……っ!!」

 

胸元を強く圧迫しながら発せられる主治医の必死の呼びかけは、急速に温度を失っていく冷え切った病室の空気の中で、虚しく虚空へ響き渡るばかりだった

 

その時――まるで主治医の悲痛な叫びと、絶命した少女の止まった心臓に呼応するかのように、地底から響く凄まじい地響きが病院全体を激しく揺さぶった

 

ガタガタと窓枠が悲鳴を上げ、病室の分厚い強化ガラスに無数の小さな砂粒がまるで銃弾の雨のように激しく打ち付けられる

 

窓の外の赤く染まりきった絶望の空の彼方から、底知れぬ狂気と滅びを孕んだ不気味な気配が、この病院の天井すらも容易に押し潰さんばかりの凄まじい重力となって迫り来ていた

 

「……一体、アビドスの街のどこで、何が起きてるっていうんだ……! この異常な揺れと気配は……っ!」

 

「先生……っ! 電気ショック、パドルの充電と準備が完了しました!!」

 

恐ろしい気配に震えそうになる手拳を必死に押しつけながら、看護師から手渡された重いパドルの機器を力強く受け取る主治医

 

その額からは、滝のような冷や汗がポタポタと冷たい床へ落ちていた

 

「……私の医師としての人生と尊厳のすべてをかけても……この手で、必ず、絶対に貴方を引き戻してみせる……っ!!」

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