白子とシロコ   作:気弱

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届かない叫び、現れた黒い狼

ここは『大オアシス駅』

 

かつては絶え間なく湧き出る豊かな水と、何重にも交差する鉄路の交易ハブとして栄華を誇り――今はただ、乾いた寂しい砂風だけが虚しく吹き抜ける打ち捨てられた終着駅

 

かつての賑わいが嘘のように静まり返っていたはずのその廃ホームに、いま、肌を刺すような極限の緊迫感が重たく張り詰めていた

 

アビドス対策委員会の面々は、過去の悲劇と罪悪感に囚われ、暴走するホシノをこれ以上たった一人で迷走させないため、そして二度とあの大切な先輩の手を離さないために、ありとあらゆる手立てとコネクションを尽くして、先回りという形でこの場所に辿り着いていたのだ

 

「ぐっ……つ……! まさか……この私が……! こんな……アビドスの落ちこぼれどもに……ッ!」

 

先ほどまでの冷徹で陰湿な笑みと、相手を見下すような尊大な態度は打ち砕かれていた

 

全身を泥と黒い煤で酷く汚し、膝を激しく折り曲げながら、冷たいアスファルトの上へと無様に倒れ込む朝霧スオウ

 

息も絶え絶えにこちらを睨みつけるその無様な姿を見下ろしながら、シロコは愛銃の残弾を確認し、静かに安全装置をかけて背中に収めると、冷ややかな吐息を一つ漏らした。

 

「ん、手応えなさすぎる。……これっぽっちの器しかなかったくせに、よくあんな大口を叩いて仕掛けたものだね」

 

このスオウの身勝手な企みと不条理な暴力のせいで、ホシノは再び誰にも胸の内を打ち明けることができず、血を吐くような想いでたった一人、暗闇のアビドス砂漠へと飛び出していってしまったのだ

 

シロコのその淡々とした冷たい声の奥底には、普段の無感情で冷静な態度からは想像もつかないほど、マグマのように燃え盛る激しい怒りと焦燥がしっかりと焦げ付いていた

 

「ぐぅっ…………っ」

 

数秒間、虫のようにピクピクと全身を痙攣させたあと、スオウの体から急速に力が抜け落ち、そのまま地面へ突っ伏した姿勢のままピクリとも動かなくなった

 

頭から叩きつけられるように倒れ込んだまま、完全に意識を手放し、気絶している

 

「パヒャヒャッ! いやー いつもあんなに偉そうに『監督官として~』とか威張ってた監督官が、今じゃただの泥まみれの芋虫みたいに地面転がってるの、すっごく新鮮で面白いねー!」

 

「おー、派手にやられちゃってる~! 完全 KO って感じ〜!」

 

スオウの完全な昏倒を確認し、対策委員会が安堵の息を漏らしたまさにその瞬間

 

背後のホームに勢いよく滑り込み、停車していたハイランド鉄道学園の自前武装列車の操縦席から、賑やかな声とともにヒカリとノゾミがひょっこりと顔を出した

 

この双子の二人――もともとは、列車に乗って行ってしまったホシノを追いかけようにも移動手段がなく、路頭に迷って途方に暮れていた対策委員会に対し、「なにそれ面白そう! 」という動機と、過去にノノミたちからもらった美味しいお菓子のお礼という、なんともハイランドらしい奇妙な義理立てと好奇心から、自慢の列車で先回りを買って出てくれた者たちだった

 

(ん……。あの二人のめちゃくちゃな運転は、正直もう二度とごめんだけど……)

 

確かに、一刻も早くホシノを追わなければならない切迫した状況だったため「なるべく急いでほしい」と頼みはした

 

しかし、ハイランドの面目躍如というか何というか、ブレーキという概念を完全にどこかへ脱ぎ捨ててきたかのような暴走機関車並みの無茶苦茶な超高速運転のせいで、ここに到着した時点ですでにシロコを含む全員の三半規管が限界を迎え、まともに立っていられないほどの酷いグロッキー状態に陥っていたのだ

 

手負いのスオウを相手に、数的には優位でありながらわずかに苦戦を強いられてしまったのは、純粋にその過酷すぎる移動の疲労と吐き気が尾を引いていたからに他ならない

 

とはいえ、さすがに満身創痍で泥を舐めているスオウを前にして「運転が荒かったせいだ」などと愚痴をこぼすような気力すら起きなかったが

 

「それにしても……ホシノ先輩、遅いわね……」

 

セリカが愛用の銃を肩に担ぎ直し、周囲の地平線と広大な荒野を鋭い視線で見回しながら、不審そうに眉をひそめて呟く

 

「確かに、そうですね……。そろそろヒナさんが追いついて足止めするか、あるいはホシノ先輩の乗る列車がこの大オアシス駅を経由するか、どちらかの展開がとっくに起きていてもおかしくない時間なんですけど……」

 

アヤネが端末のレーダーセンサーや路線情報を確認しながら、首を小さく傾げた――まさに、その数秒後のことだった

 

ドギャァァァァンッ……!!!!!

 

世界が真ん中から真っ二つに叩き割られたかのような、あまりにも凄まじい大地響きが大オアシス駅の全体を襲った

 

「な、なにっ……!? 地震……!?」

 

「きゃあぁっ……! なにこれ、すごい揺れ……っ!」

 

あまりの揺れの激しさと、底揺れする地鳴りの恐ろしさに、全員が平衡感覚を瞬時に奪われ、その場に崩れ落ちるように膝をつく

 

直立していられる者など誰一人としていない

 

「っ……! 一体、何が起きているっていうのよ……っ!!」

 

数秒間、全身の内臓が直接揺さぶられるかのような激しい激震が続いたのち、ようやく地面の鳴動が静まり返った

 

シロコは砂埃に塗れながらも、よろめく足取りでフラフラと立ち上がり、荒野の冷たい空気を大きく吸い込む

 

ふと何かを感じ取って見上げた視線の先で――シロコの動きが、完全に氷のように凍りついた

 

「……空が……」

 

つい先ほどまで、夜の帳に静かに包まれていたはずのアビドスの漆黒の夜空。それが、まるで誰かが上空で大量の血を撒き散らし、不吉な炎を燃え上がらせたかのように、ドス黒く禍々しい真紅の色へと染め上げられていたのだ

 

「な、なんですか……これ……。空が……真っ赤に燃えている……?」

 

ノノミが、自身の目を疑うような怯えを含んだ瞳で、血に染まった不気味な天を見上げる

 

「あそこ……! 光の柱が見える!」

 

シロコが息を呑み、震える指先で真南の地平線の方角を強く指さした

 

全員が弾かれたようにそちらへと視線を走らせると――そこには、地平線の彼方、砂漠のど真ん中から天を突き破るように、禍々しく暗い赤黒いエネルギーの柱が、狂ったような勢いで天空へと立ち上っていた

 

「おー……なにアレ! めっちゃ禍々しいビーム出てる〜!」

 

「パヒャッ! まるで終末映画のクライマックスみたいじゃん! すっごーい!」

 

呑気に歓声を上げるハイランドの双子を余所に、ヒカリがふと可愛らしく首を傾げながら、記憶を辿るようにぽつりと呟いた

 

「ねえノゾミ……あそこって、たしかアタシたちがここへ来るまでに走ってきた線路と並走していた……あの廃線になった『旧・中央本線』の跡地じゃなかったかな……?」

 

「あーっ! そうだ! あのボロい脱線しかけてる路線!」

 

その一言が、大オアシス駅の静寂に落ちた瞬間

 

アビドス対策委員会の面々、そして共にこの地へ駆けつけた先生の背筋に、冷たい氷水を全身に一気に浴びせられたかのような、耐えがたい絶望的な嫌な予感が激しく走り抜けた

 

「みんな、すぐに向かおう……!」

 

「「「はいっ!!」」」

 

先生の短くも力強い号令が、緊迫した夜の空気を鋭く引き締める。その言葉を待っていたかのように、対策委員会のメンバーたちはスオウとの死闘で痛む全身を強く庇い、奥歯をギリリと噛み締めて疲労をねじ伏せると、天空を貫く真紅の光の柱の根元へと一斉に駆け出した

 

ドサクサに紛れてハイランドの双子が「アタシたちも行く〜!」と無軌道に列車を動かそうとする音を背に受けながら、砂嵐が吹き荒れる極限の荒野を全速力で突き進む

 

やがて、夜空を赤く血で染め上げる光の柱の直下にたどり着いたとき、彼らを待ち受けていたのは、常人の想像を遥かに絶する地獄のような環境だった

 

「っ……! な、なにこの凄まじい熱気……っ! 肌が焼ける……!」

 

「先生、下がって……! 無理しないで……っ!」

 

過酷な砂漠の環境で日常的に身体を鍛え上げられ、キヴォトスの生徒としての頑強な身体構造を持つシロコたちでさえ、この異常な熱量は呼吸を苦しくさせ、体力を容赦なく削り取っていく

 

増してや、生身の大人である先生が受けるダメージと熱圧は、生命の危険に直結するほど計り知れないものだった

 

シロコは激しく痛む腹部と足を押しながらも瞬時に先生の横へと割り込み、小刻みに震える先生の表情を痛切な心配の眼差しで覗き込んだ

 

「なんとか……耐えられる、が……っ。しかし、この尋常ではない熱気と重圧……一体、どこから噴き出しているんだ……!?」

 

「……ぅ……っ……」

 

「!?」

 

先生が険しい顔で視界を覆う歪んだ熱気と風塵の向こうを探っていると、荒々しい風の咆哮に混じって、かすかな掠れた呻き声がシロコの耳に届いた

 

その声はあまりにも弱々しく、今にも途絶えてしまいそうなほど消え入りそうだったが、この張り詰めた死線の中で、どこか胸を突く懐かしさと聞き覚えのある響きを帯びていた

 

シロコが鋭い獣耳をピクッと大きく動かし、周囲に乱立する熱した岩の瓦礫の隙間に目を凝らす

 

「先生、あそこ……! 誰かが倒れてる!」

 

「っ……! あの姿……ヒナかっ……!?」

 

シロコが指し示した瓦礫の影へ、先生は足をもつれさせながらも慌てて駆け寄った

 

そこに横たわっていたのは、制服を黒く焦がし、全身が血と煤と砂に塗れた、ボロボロの空崎ヒナだった

 

愛用の巨大な機関銃は少し離れた地面に転がり、その小さな体からは先ほどまでの圧倒的な威圧感が嘘のように消え失せ、痛々しいほどに力なく伏していた

 

「けほっ……はぁ……っ……ふぅ……っ」

 

「大丈夫かい、ヒナ……っ! しっかりするんだ……!!」

 

先生はその小さく冷え切った身体を慌てて抱き起し、膝の上に頭を乗せて必死に呼びかけた。しかし、返ってきたのは呼吸困難を起こしている弱々しい胸の上下だけであり、彼女の紫の瞳は焦点を結ばず、虚ろに赤く染まった天を彷徨っていた

 

「……ごめん……なさい……先生……っ」

 

先生の必死の呼びかけに対し、ヒナは申し訳なさからか目を合わせることすらできず、ただ震える手袋の手で先生の着ているスーツの袖を力なく、しかし剥がれ落ちないよう固く強く掴み、血の混じった唾液を呑み込みながら絞り出すように謝罪を零した

 

「……私……っ、ホシノを……止められなかった……っ」

 

薄い唇から血が滲むほど強く噛み締めたヒナの顔が、己の無力さと悔しさ、そして約束を果たせなかった絶望に激しく歪む

 

あの無敗と恐れられ、誰よりも気高く誇り高いゲヘナの風紀委員長が、ここまでボロボロになり、悔しさに目頭を熱くして涙を堪えている姿を目の当たりにして、シロコたちアビドスの面々は息を飲み、言葉を失ってただ立ち尽くすことしかできなかった

 

「……そんな顔をしなくていい。ヒナは、自分の持てるすべての力を振り絞って、やれるだけのことを最後までやりきったんだ。

 

……あとは、私たちに任せなさい」

 

先生が優しくヒナの煤けた頭を撫でると、彼女は溢れそうになる涙を必死に堪えるように固く目を閉じ、微かに頷いた

 

「……分かった……、お願い……っ」

 

「それで……ホシノは、どこにいるんだい?」

 

痛む肩をかばいながら、先生の支えで何とか泥の上に座り込むヒナ

 

今にも意識の糸がぷつりと切れそうな朦朧とした視界のまま、彼女は震える指先で、圧倒的な熱波が渦巻く真紅の光の柱の中心を指差した

 

「……あそこよ……」

 

ヒナが指し示した、赤黒くうねる熱光の中心

 

そこには――かつての小鳥遊ホシノとしての面影をかすかに残しながらも、完全に別の異質な存在へと牙を剥いて豹変してしまった、恐ろしい人影が佇んでいた

 

全身がメラメラと燃え盛るような禍々しい黒赤のオーラに包まれ、特徴的だった長い髪は短く不揃いに乱れ破れ、その光を完全に失った双眸は、現実の風景や仲間の姿などどこをも見ていないかのように、ただ虚空の一点を虚ろに見つめている

 

キヴォトスの生徒でありながら、世界の理そのものから弾き飛ばされたような、異形の化身――あるいは破滅の神の如き姿で、彼女はぽつんと、孤高に立っていた

 

「ホシノ先輩――っっ!!!!」

 

世界が焼き尽くされるような絶望的な熱気と、血の色に染まった不気味な空の下

 

誰もが目の前の信じがたい怪異と光景に圧倒され、恐怖で体が金縛りにあったように立ち尽くすしかなかったその静寂を切り裂くように、セリカが激昂した叫び声をあげながら真っ先に一歩前へ踏み出した

 

彼女は肌を灼く耐えがたい熱風に顔を歪め、燃え盛る光の中心に向かって全速力で駆け出していく

 

「いったい、何をやっているのよ……っ! そんなワケのわからない格好して……いい加減にしなさいよ! 目を覚ましなさいよ、ホシノ先輩っ!!」

 

セリカの切実で血を吐くような叫びが、熱気の渦巻く不気味な空間に虚しく木霊する

 

その叫びに背中を押されるように、ノノミ、アヤネ、そしてシロコもまた、それぞれに決然とした、絶対に諦めない強い表情を浮かべて大きく頷き合い、セリカの背中を追うように次々と灼熱の嵐の中へと飛び込んでいった

 

「ホシノ先輩! どうか、しっかりしてください……! 帰ってきてくださいっ!」

 

「先輩、もう一人で悲しいことを全部抱え込むのはお終いにしてください! 私たちに頼ってください……! もう誰も、あなたを怒ったりなんか絶対にしませから……っ!」

 

「ホシノ先輩……お願い、私たちのところに戻ってきて……! 一緒にアビドスへ帰ろう……っ!」

 

アヤネの必死の懇願、ノノミの震える声を振り絞った説得、そしてシロコの焦燥と愛に満ちた叫び

 

4人の後輩たちの心の底からの叫び声が、かつて自分たちを温かい日射しのように優しく包み込んでくれた、大切な先輩の背中へと幾重にも重なって響き渡る

 

しかし――その命をかけた必死の呼びかけは、今の暗黒の深淵に没したホシノの閉ざされた心には届かない

 

「……ん……っ……ぱい……」

 

かすかに、彼女の乾ききった喉の奥から、絞り出すような湿った苦痛の声が漏れた

 

「……ゆめ……、せん……ぱい……」

 

虚ろな瞳を宙に彷徨わせていたホシノは、まるで失われた宝ものを狂おしく探すように、あるいは現世には存在しない過去の幻影を追うように、ゆっくりと、首の骨がキシキシと鳴るようなぎこちない動きで頭を巡らせ始める

 

「しろ……こ……どこに、いるの……?」

 

その一言が空間に落ちた瞬間、シロコの足が地面に縫い付けられたかのようにピタリと凍りついた。

 

自分の名前……いや、彼女が過去に囚われ、救えなかった『白子』の名前を呼んでいるのだ

 

「――っ!?」

 

ホシノの焦点の定まらない、濁りきった視線が、ふっと真っ直ぐにシロコたちの立つ場所を捉えた

 

それが本当に自分たちを認識しての目線なのか、あるいはただの偶然そこに視線が落ちただけなのか、判断することはできない

 

だが、その感情の欠片すらない冷めきった底なしの瞳が、確実にシロコたちの姿をその網膜に映し出していた

 

その瞬間。ホシノはまるで心や魂を失った機械のように、重く、しかし異様なほど無駄のない滑らかな動作で、手にしたショットガンをゆっくりと持ち上げると、その黒々とした殺意の銃口を、迷いなく真正面から後輩たちへと向けた

 

(なんなの……この、全身の皮膚が粟立つような……圧倒的で冷たい悪寒は……ッ!?)

 

シロコの背筋に、氷の刃を直接押し当てられたかのような凄惨な恐怖が絶大な勢いで駆け抜けた

 

その動作そのものは、どこか心が伴っておらず単調ですらある。そこに洗練された百戦錬磨の戦闘者としての熱い気配はなく、ただ肉体の残滓だけが自動で動いているかのような危うさがあった

 

憎悪や殺意といった、生きた感情の類すら感じられない

 

現に、目の前でホシノが静かに銃口を向け始めているというのに、シロコ以外のメンバーは、その静かな動作の裏に隠された危機の正体にまだ完全に気づいてすらいなかった

 

「みんな……ッ!! 気をつけ……っ!!」

 

シロコが喉の奥を裂くようにして全員へ回避の警告を発しようとした、まさにその時――

 

ドドドドォォォォォンッ!!!!!

 

乾いた弾丸の破裂音などという生易しいものではなかった

 

それはまるで大気そのものが高圧で圧壊し、足元の大地が根底から大爆発を起こしたかのような、通常の散弾銃の概念を完全に踏みにじる絶大な轟音

 

ホシノの放ったその想像を絶する超高圧の神秘の衝撃波と弾幕が、赤く染まったアビドスの荒野を深く抉り取りながら、シロコたちの立っている場所へと容赦なく襲いかかった

 

♢

 

耳をつんざくような激しい破裂音と、稲妻がすぐ真横で落ちたかのような凄まじい雷鳴が、血に染まったアビドスの荒野の空気を一瞬で引き裂いた

 

「ぐっ……うぅ……っ……!」

 

シロコの意識が、底なしの暗い闇の底から無理やり冷たい水面へと引き上げられる

 

度重なる戦闘による極限の疲労、そして先ほどホシノが放った常軌を逸した超高圧の一撃の余波によって、鉛のように重くなった瞼を、彼女は残された気力で強引に見開いた

 

「――っ!!?」

 

霞む視界に飛び込んできたのは、言語化することすら拒絶したくなるような、狂気とおぞましさに満ちた光景だった

 

そこには、巨大な人間の「顔」を模した歪な未知の質量と、その左右から青白く不気味な雷霆を帯びて禍々しく蠢く「腕」のような影があった

 

まるで怒り狂う天雷そのものを纏った異形の神話の巨像が、シロコたちを直接穿ち砕くはずだったホシノの致命的な神秘の弾幕のすべてをその身で受け止め――そして、いままさにその莫大なエネルギーの激突の果てに機能を完全に停止し、不気味に空中で動きを止めていた

 

「シロコ……っ! よかった、意識が戻ったかい……!」

 

掠れ、痛みに途切れそうな、けれど聞き慣れた必死の温かい声

 

それに導かれるようにシロコがハッと息を呑んで振り返ると、そこにはセリカやノノミ、アヤネたちが深い気絶の淵に沈んでいた

 

そしてその中心で、全身の衣服を黒い煤と砂で汚しながらも必死に肩を上下させて荒い息を吐き、今にも意識を手放しそうな先生の姿があった

 

「せん……せい……っ、一体……何が起きた……の……?」

 

「……分からない。君たちがホシノの攻撃の直撃を受けて気絶した、その後……突然、空間が歪んであの巨大な怪物が現れたんだ……。

 

そして、ホシノと激しい戦いになって……いま、ようやくその怪物が沈黙したところだ」

 

「……あれは、いったい……なに……?」

 

シロコは震える声で掠れるように尋ねた

 

何故、あんな得体の知れない化け物が突如として現れ、大切な先輩と激戦を繰り広げていたのだろうか

 

そして何より、あんな一目見ただけで常人の領域ではないと分かる強大な災厄の存在を、今のホシノはただ一人で返り討ちにしてみせたのだ

 

――こんな化け物じみた悲しい力を手に入れてしまったホシノ先輩を、今の私たちに……本当に止めることができるのだろうか

 

心の底からドロドロと湧き上がる冷たい恐怖と絶望を、シロコは血が出そうなほど唇を噛み締めて必死に押し殺した

 

「……あれは『セトの憤怒』。突如として反転してしまったホシノの魂の歪みに呼応して、この世界に牙を剥いた災厄の存在だよ」

 

「っ……!」

 

その言葉を聞いた瞬間、シロコの顔にピンと張り詰めたような驚愕の色が浮かび上がる

 

(いま、先生はなんて言った……? ホシノ先輩が……反転した……?)

 

反転――それは、かつて別の平行世界からやってきた自分自身の痛々しい姿や、かつて彼女たちが直面したもう一人の自分と同じように、存在の根幹や神秘そのものが別の理へと書き換わってしまったということなのか

 

「先生……! 教えて……! ホシノ先輩は……元の、ホシノ先輩には……もう戻らないの……!?」

 

もう一人の自分が抱えていた、世界の理から外れてしまった者としての途方もない孤独や血を吐くような苦しみを知っているからこそ、シロコは藁にもすがる思いで先生の裾を固く掴み、すがるように問い正した

 

しかし、その問いを受けた先生の顔は、苦虫を噛み潰したどころではない、言いようのない痛切な絶望の色に歪んでいた

 

「……元には、戻らない。……あれを元に戻すということは、一度永遠の眠りについてしまった人間を、この手で無理やり甦らせるようなものらしい……」

 

「っ……!」

 

その残酷すぎる事実を突きつけられた瞬間、シロコの瞳からすうっと光が失われていった

 

いつもならどんなに絶望的な状況に追い込まれようとも、真っ直ぐ前を向き、「大丈夫、なんとかなる」、「私たちが絶対に何とかしてみせる」と、誰よりも強い光で自分たちを勇気づけてくれた先生が、いま「元に戻らない」とはっきりと絶望を断言した

 

その冷徹な現実の宣告は、シロコを真っ逆さまに暗い絶望の底へと突き落とすには、あまりにも十分すぎる重みを持っていた

 

「っ……ぐぅ……っ」

 

それでも、ここで足を止めるわけにはいかない

 

あんな制御不能な悲しい化け物に成り果ててしまったホシノをこのまま放置すれば、いずれはもう一人の自分の時を遥かに超える規模で、キヴォトスのすべてに破滅的な被害が及ぶことになるだろう

 

そうなってしまえば、もはやアビドスだけの問題では済まなくなる

 

他のすべての学園が手を取り合い、ホシノを「危険な対象」として排除するために立ち上がる未来が来てしまうかもしれない

 

――そんな結末だけは、絶対に、何があっても迎えたくなかった

 

「ぐっ……あっ……!」

 

立ち上がろうと、冷たい地面に両手を強く突く。しかし、先ほどのホシノの凄まじい一撃は、シロコの頑丈な肉体の限界を遥かに突破していた

 

どうにか上半身を起こすことまではできる

 

だが、両足は濡れた紙細工のように激しく震え、愛用のライフルを支えにすることすらままならない

 

今のままでは、狙いを定めることすら不可能だった

 

「っ……くそっ……!」

 

自分一人ではどうしようもない。今のこの無様な状態では、暴走するホシノを止めるどころか、近づくことすら叶わない

 

視線だけで、周囲に倒れ伏す仲間たちの状態を確認する。無残に地面に突っ伏し、痛々しい息を漏らしながら気を失っているセリカたち。そして、奇跡的に先生の身柄の近くにいたおかげで、強烈な直撃を免れていたヒナが、朦朧とする意識の中で必死に顔を上げてこちらを見つめていた

 

「……私も……まだ、やれる……。力を、貸すわ……ぐっ……!」

 

ヒナはフラフラと、まるで壊れかけた精巧な人形のように地面から這い上がろうとする。しかし、彼女の負ったダメージはシロコを遥かに上回っており、愛用の機関銃の銃身に全体重を預けて、やっとの思いで上体を起こすのが精一杯だった

 

あんな状態では、正確な射撃どころか、立っているだけでやっとという有様だ

 

「もう少しだけ……あと少しだけ、体を休める時間さえあれば……っ!」

 

言うことを聞かない自分の震える膝を、ヒナは悔しさと無力感に歯を食いしばりながら、拳で何度も何度も叩きつけた

 

あと数分、いや、ほんのわずかな時間さえあれば、彼女は持ち前の凄まじい執念で再び不屈の戦士として立ち上がれるはずなのだ

 

その一言は、今の絶望的な状況において、何よりも頼もしい仲間の言葉に違いなかった

 

しかし――残酷にも、その「時間」というあまりにも贅沢な余白は与えられなかった

 

「……しろ……こ……」

 

虚ろに開かれた、光のない瞳のまま、ホシノが再びゆっくりと歩き始めた

 

ホシノが重い一歩を踏み出すたびに、その足元の砂漠の砂は尋常ではない超高熱の神秘によって激しい爆音を立てて溶け落ち、ドロドロとしたガラス質の結晶へと変貌していく

 

ヒナが再び立ち上がれるようになるまで、じっと牙を収めて待ってやるような慈悲は、いまのホシノの中には残されていなかった

 

この場において、倒れた仲間たちを背に、今すぐ動くことができる人間は――自分一人しかいない

 

(……ここで私が止めないと……先輩を、あの残酷な暗闇の中に置去りにしたままにしておくわけにはいかない……!)

 

けれど、果たして……今のボロボロに傷つき、息を荒らげる自分に、そんなあまりにも巨大な大役が務まるのだろうか

 

これまでの幾多の死闘でも、シロコたちは何度も何度も敵の圧倒的な暴力の前に打ち砕かれ、セリカやノノミ、アヤネ、そして先生と文字通り命懸けで力を合わせることで、ようやくホシノから勝利をもぎ取ることができたのだ

 

だが――今になって思えば、あの時、自分たちがホシノから勝ち取ったはずの勝利のすべては、私たちの力による冷酷な実力差などでは決してなかったのではないか

 

冷静に考えれば、キヴォトス最強と謳われたホシノの底知れぬ実力と、戦場をくぐり抜けてきた圧倒的な戦闘経験を思えば……本気でシロコたちと敵対し、すべてを投げ打つ悪鬼となる覚悟さえ決めていれば、あの状況でも自分たちを一瞬で無力化する残酷な策などいくらでもあったはずだ

 

それなのに、彼女はそうしなかった

 

倒れたホシノに、シロコが震える手で銃口を向けたとき――あの時の先輩はむしろ、どこか肩の荷が下りたような安堵の、すべてを受け入れた満足そうな笑みを浮かべ、自ら静かに敗北を宣言したのだ

 

――あんな奇跡のような救いが、今の完全に理性を失い、純粋な破壊と絶望の化身と化したホシノから得られるはずなどなかった

 

『もし、私が敵になってしまったら……その時は、私のヘイローを壊して』

 

「っ……!」

 

なぜ、こんな呼吸すら途絶えそうな絶望の最中に、あの日の冷たい手紙の文面を思い出してしまうのだろうか

 

アビドスの再建のため、私たち後輩の未来を守るため、たった一人でカイザーコーポレーションと不条理な交渉を続け、そして静かに学校から姿を消していったあの日

 

教室の机に残されていた、シロコたちへ宛てられたあまりにも重すぎる遺言のような手紙

 

奇しくも、あの時の不吉な予感が最悪の形で現実となり、いまホシノは自分たちにとって乗り越えなければならない、紛うことなき「敵」として目の前に立ちはだかっている

 

(……ごめん、ホシノ先輩……私には……先輩を救い出すための、そんな強い力なんて……なかった……)

 

かつてホシノが、最後に残してくれた唯一の頼みすら果たせない

 

自分がこんなにも無力で弱いために、彼女を救い出すどころか、その果てしない苦しみを終わらせてあげることすらできないのだ

 

もし私がもっと強ければ、ホシノ先輩が一人で絶望を抱え込んで自暴自棄になる前に、その変化に気づいてあげられたのではないか

 

私がもっと頼もしい後輩であれば、ホシノ先輩は最後まで自分たちを安心して頼ることができ、こんな取り返しのつかない悲劇を引き起こさずに済んだのではないか

 

(私にもっと……! あと少しだけでも、大切なみんなを救えるだけの力があれば……っ!)

 

込み上げてくるのは、胸をかきむしられるような、どうしようもないほどの熱い悔恨の涙だった

 

自分にこんなにも温かい居場所と、眩しいほどの明るい世界を見せてくれた大切な命の恩人を、助けることも、その痛ましい暴走を止めることもできない

 

まだ伝えたい言葉だって、たくさんの感謝の気持ちだって、あの『白子』というホシノの支えだった子犬の話を聞くという小さな願いだって、山ほど残っているというのに……いまのシロコの声は、どれだけ叫んでもホシノの閉ざされた心には届かない

 

あの白子のように……ホシノの一番近くで寄り添い、その心を支える存在には、結局いつまで経ってもなれなかったのだ

 

「っ……くぅっ……!!」

 

あまりの悔しさと己の無力さに、シロコは痛む唇を血が滲むほど強く噛み締め、歪んだ顔を激しく地面へと俯かせた。滴り落ちた涙が、熱した砂利に吸い込まれて消えていく

 

その時――

 

(……あれ? 周りの……景色が、急に……?)

 

不意に、シロコの足元から世界の色が恐ろしい速度で失われていった

 

先ほどまで皮膚を焼き、呼吸すら困難にさせていたあの絶望的なほどの凄まじい熱気が、嘘のようにピタリと吹き飛んで消え去る

 

それどころか、視界を覆っていた血のような不気味な赤色が、まるで底なしの深い暗黒の海へと引きずり込まれるように、急速に静かな闇へと沈んでいく

 

自分にいったい何が起きているのか。極限状態による肉体の錯覚なのか、それとも過負荷で脳の機能が停止しかけているのか

 

混乱しながらシロコがぼんやりと視線を彷徨わせたその時、目の前の虚空に、到底理解できない奇妙な現象が起きた

 

周囲の濃密な闇とはあきらかに質の違う、世界のすべてを吸い込むような「絶対の黒」を持ちながら、なぜか内側から禍々しく青白く光り輝く、得体の知れない球体がぽっかりと浮かび上がっていたのだ

 

(……なんだろう、あれ……。すごく、懐かしいような……胸が締め付けられるほど、冷たいような……)

 

先ほどまで一歩を踏み出すことすら痛痛しかったはずの四肢から、激痛と疲労がまるで嘘だったかのように引いていく

 

恐ろしいはずなのに、抗いがたい不可解な引力に導かれるように、シロコは手にしていた愛用のライフルの重みすら忘れ、自然と足を踏み出し、その青白く光る黒い球体へとフラフラと吸い寄せられるように歩み寄っていた

 

気がつけば、その異質な球体は、もう手を伸ばせば指先が触れられるほどの至近距離にまで迫っていた

 

(……触れ……そう。触れれば、この胸を刺す激しい悔恨と苦しみから……すべての絶望から解放されるって……そう、この漆黒の球体が私に囁いている気がする……)

 

なぜそんな風に思ってしまうのか、理屈も根拠も分からなかった

 

ただ、目の前にぽっかりと浮かび上がるその禍々しくも美しく光る球体が、まるで傷ついた自分の心を見透かしたかのように、「こちらへおいで、触れなさい」と、抗いがたく甘美な囁きを脳裏に投げかけていることだけが、恐ろしいほどハッキリと理解できた

 

そう直感したシロコは、吸い寄せられるように、意志を失ったようにゆっくりと震える右手をその黒い球体へと伸ばした

 

球体の表面まで、あとほんの十センチ

 

もう少しだけ……あとわずか数ミリでも指先を伸ばせば、二度と引き返せない禁断の領域へと触れてしまう

 

「――待って」

 

「っ……!!?」

 

突如として、背後の闇の底から冷たくも力強い誰かの手が鋭く伸びてきて、シロコの右手をガシリと、骨が軋むほどの圧倒的な力で掴み取った

 

今にも漆黒の球体に触れようとしていたシロコの手が、その場でピタリと強制的に止められる

 

それと同時に、シロコの耳元で幻聴のように不気味に響いていた甘い囁きが、ガラスが割れるような音とともに一瞬で霧散した

 

急速に開かれていく閉ざされた視界

 

目の前に広がっていた異質な闇の空間は泡のように消え去り、再びあの血の赤と灼熱の重圧に満ちた、あの赤黒い空に包まれた絶望的な現実のアビドスへと力ずくで引き戻される

 

「それを触ったら……シロコ、あなたも二度と……私たちのいた元の世界には戻れなくなる」

 

「……あっ……。どうして……ここに……?」

 

シロコの手をしっかりと握りしめ、力づくで引き剥がしたのは――別の滅びた平行世界から迷い込んだ、もう一人の自分

 

もう一人の小鳥遊ホシノを救えなかった痛みをその身に刻む、もう一人のシロコ――「クロコ(シロコ・テラー)」だった

 

「気配を感じたから。……この世界ではあり得ない『色彩』の、不気味で禍々しい気配が、次元の隙間を伝ってこの空に流れ込んでいるのを察知して……急いでこちらへ飛んできたの」

 

「色彩……」

 

「ありがとう、クロコ……! シロコを……シロコを止めてくれて……っ!!」

 

クロコが静かに、どこか愛おしそうに目を細めて微かに微笑んだその時、熱風の荒野で崩れ落ちていた先生が、血の滲む膝を突いて必死に這うようにして立ち上がり、二人の間に割って入るように息を切らして駆け寄ってきた

 

「……っ!」

 

その異界からの介入と新たな存在感を、敏感かつ冷酷に察知したのか

 

遠くで禍々しい真紅の光の柱を背に佇んでいたホシノが、まるで己の領域に踏み込んできた忌々しい異物を容赦なく排除するかのように、急激にその全身の戦闘機動を変化させた

 

彼女は光を完全に失った虚ろな瞳をクロコへと向け、一切の猶予もなく、手にした黒々としたショットガンの銃口をこちらへと真っ直ぐに突きつける

 

「危ないっ……!!」

 

恐ろしい威力の破壊光線や、空間すら歪める常軌を逸した散弾が発射されるよりも、わずか数秒早く――

 

クロコは空間の歪みを無造作にこじ開けると、そこから見慣れた、あの頑丈で巨大な「盾」を瞬時に引きずり出し、先生とシロコの二人をその広大な背後へと完全に庇い隠すようにして、地へと力強く打ち立てた

 

世界を破砕するような凄まじい衝撃波と無数の高圧弾丸が、盾の分厚い装甲を激しく叩き、周囲の岩盤を粉砕して激しい砂塵と火花を吹き散らす

 

しかし、クロコは髪を激しくなびかせながら、その本来なら肉体を蒸発させるほどの致命的な一撃を、微動だにせず正面から完璧に受け止めてみせた

 

「話は……あとで。2人とも、少しだけ、後ろで待ってて」

 

クロコは静かに、けれど絶対的な信頼を込めてそう短く告げると、構えていた盾を再び空間のポケットへと素早く送り返し、代わりに自分自身の手で長年使い込んできた愛用の銃をしっかりと、迷いなく握り直した

 

そして、静かで洗練された足取りで、肌を焼く猛烈な熱風が吹き荒れる真紅の荒野の中、再びホシノの元へと一人でゆっくりと歩み出していく

 

周囲を包み込む肌を焦がすような猛烈な熱気のはずなのに、修羅の道を歩んできたクロコの肌には、不思議とどこか懐かしく、心地よい故郷の風のようにさえ感じられた

 

「ホシノ先輩……。こちらの世界でも、貴方は……こうなってしまうんだね」

 

「………」

 

クロコの胸を締め付けられるような、切実な問いかけに対し――ホシノは何の表情も浮かべず、ただ冷たく、虚ろに彼女を見つめ返すだけだった

 

言葉を発することもなく、ただ機械的な正確さで、再びその小さな両手で静かに銃を構え直す

 

その構えに一切の迷いはなく、かつて自分たちを温かく見守り、後輩のために自分を投げ打っていたあの優しかった先輩の面影は、いまの彼女には微塵も残されていなかった

 

「……『今回』も……私は、先輩には絶対に負けないよ」

 

クロコは静かに、そして誰よりも力強く銃の引き金へと指をかけた

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