白子とシロコ   作:気弱

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2人と1匹の大掃除

砂漠での「宝探し」から一夜明けた、次の日の朝

 

アビドス高等学校の古びた生徒会室には、遮るもののない大きな窓から、いつもと変わらない容赦のない大砂漠の朝光が差し込んでいた

 

昨日の狂ったような熱波の後遺症だろうか、部屋の隅々にはどこかまだ熱気が重たく澱んで残っているようで、室内の空気はひどくだるそうに揺れている。そんな、静かで気だるい一日の始まりだった

 

「ユメ先輩、おはようございます。――さぁ! 今日は朝から頭を切り替えて、大掃除をしますよ!」

 

ガラリと年季の入った木の扉を勢いよく開けて、教室へと入ってきたホシノが、静寂を吹き飛ばすような戦闘モードの声を上げた

 

その頭には、どこから引っ張り出してきたのか、白地に青い水玉模様のバンダナがこれ以上ないほどきつく、気合を込めて巻かれている。それだけではない。右手には頑丈そうな年季の入った木製のデッキブラシ、左手にはカラフルなプラスチック製のバケツと、倉庫の奥から引っ張り出してきたような古びた雑巾が数枚、戦闘準備万端といった様子で握りしめられていた

 

「……ふぇ? ほ、ホシノちゃん、おはよう……。って、うわぁ、朝から物凄い重装備だね? これから防衛戦でも始まるの?」

 

先に来てソファに腰掛け、自分の足元で気持ちよさそうに丸くなっていた白子の小さな前足を両手でそっと持ち上げていたユメが、目を丸くした

 

彼女はついさっきまで、その柔らかくて香ばしい、ポップコーンのような匂いのする出来立ての肉球を至福の表情でクンクンと堪能していた真っ最中だったため、ホシノのただならぬ殺気にキョトンとした顔のままだ

 

「へ? そ、掃除……? 掃除って、一体どこのこと? 生徒会室なら、わたしが毎朝ちゃんと竹ホウキで床を掃いてるから、そこそこ綺麗だと思うんだけどな……。ほら、見てみて。机の上もピカピカだよ?」

 

「いいえ、そんな生ぬるい規模の話じゃありません。部屋一つの片付けで、私がこんな格好をするわけがないでしょう。はい、徹底的な、大・掃・除・です!」

 

ホシノは持っていたデッキブラシの柄を床にコン、と力強く突き立て、瞳をギロリと輝かせた

 

「えーと……。突然どうしたの、ホシノちゃん。そんなに鼻息を荒くしちゃって……。もしかして、昨日のお宝探しが何も見つからずに不発で終わっちゃったストレスで、急に極端な綺麗好きに変身しちゃった?」

 

「違います! ストレス発散で雑巾がけをするほど、私は従順で勤勉な生徒じゃありませんよ。……いいから先輩、そこでのんきに肉球をぷにぷにされている白子の体を、よーく、よーく、観察してみてください!」

 

ホシノがバンダナの端をグッと締め直しながら、ソファの上の白い毛玉をビシッと指差す

 

「白子ちゃん? うん、今日も相変わらず、ぬいぐるみみたいに白くて、耳が小さくて、ふわふわで、宇宙一可愛いよ? ほら、ホシノちゃんも触ってみる? すっごく癒されるよ?」

 

「そういう盲目的な親バカ発言は今は隅っこに置いておいてください! ほら、白子がちょっと身動きをするだけで、そこら中に何が落ちているか見えませんか?」

 

『わふ?』

 

自分の名前を連呼されたことに気づいた白子が、ソファの上で「なになに? 遊ぶの?」と嬉しそうに尻尾を振り、小さな体をブルブルッと大きく震わせた

 

その瞬間、遮るもののない朝の光が斜めに差し込む生徒会室の中に、キラキラと輝く無数の細かな粒子が盛大に舞い散った

 

パラパラパラ……

 

「あっ……!」

 

ユメが思わず短い声をあげる

 

さっきまで白子が座っていたソファの合皮の座面や、ユメが穿いている制服のスカートの上に、黄色いサラサラとした細かな砂粒が、確かな音を立ててこぼれ落ちていた

 

「そうなんです。昨日、砂漠のど真ん中から帰ってきてから、私たちが水を使ってタオルで白子の体を念入りに拭いたのは確かです。……ですが! あの子のあの密集した細い冬毛のような毛並みの奥の奥には、私たちが昨日、必死になって掘り返した砂漠の砂粒が、まだまだ大量に残っているんですよ! 現に、あの子が校舎を歩いたり、こうして親愛の情を示して体を振るったりするたびに、床に砂がポロポロと落ちて、まるで『動く砂時計』状態です。ただの水拭きだけでは限界があったんです」

 

「んー……。言われてみれば、確かに白子ちゃんが砂まみれなのはよーく分かったし、早く綺麗にしてあげたいのは山々なんだけど……。それと、ホシノちゃんが持ってるそのデッキブラシでの『お掃除』って、一体何がどう関係あるの? まさか、その硬いブラシで白子ちゃんをゴシゴシ洗うわけじゃないよね……!?」

 

「しませんよ!?」

 

ユメは未だに、ホシノが何を企んでいるのかが分かっていないようで、胸の前に抱き上げた白子の顔を見つめながら、不思議そうにコテンと首を傾げた

 

すると、そのユメの動きをじっと見つめていた白子も、まるで鏡に映ったかのように、ユメの角度に合わせて小さな白い首を全く同じようにコテンと真似して曲げてみせる

 

『わう?』

 

「あはは! 見て見てホシノちゃん! 白子ちゃん、またわたしと同じポーズしてる! ほんっとうにすっごく可愛いー! 天才かもしれない!」

 

「先輩、可愛いからって本題から誤魔化されないでください!……はぁ、本当にユメ先輩は、この学校の施設全体の把握が甘いんですから。実はですね……このアビドス高等学校の敷地内には、大昔に生徒数が何万人もいた時代に使われていたきり、今は完全に放置されている『巨大な旧浴場』があるんです」

 

「浴場……? あ、そういえば……! 体育館の裏手の、あのツタが網の目のように絡まった、お化け屋敷みたいな怪しい平屋の建物の中に、そんなものがあったねー……。昔の部活動の生徒たちが、夏の合宿の時に汗を流すために使ってたって、生徒会室の奥の古い日誌に書いてあったような……あ!」

 

そこでようやく、ユメの脳内のパズルがパチリと音を立てて噛み合った。大きなひまわりのような黄色の瞳が、驚きと納得で見開かれる

 

「ようやく理解できましたか? そう、あそこに水を引いて、白子をお風呂に入れるんです! ――ですが! 何十年も放置された浴場なんて、今はホコリとクモの巣と謎の乾燥した砂まみれで、とてもじゃないですが人間も子犬も一歩も足を踏み入れられる状態じゃありません。ですから!」

 

ホシノはデッキブラシを槍のように高く掲げ、勝利のポーズのように高らかに宣言した

 

「まずは今日、午前中をフルに使って、あの浴場を文字通りピカピカになるまで徹底的に掃除します! それから湯を沸かして、白子を極上のシャンプーでモコモコの泡まみれにして洗うんです! さぁ、そうと決まれば白子、ユメ先輩! 体育館裏の魔境へ突撃ですよ!」

 

『わうーーーんっ!』

 

「おー! わたしもがんばるよー!」

 

ホシノの熱い号令に、事の重大さはよく分かっていないはずの白子が、靴を脱ぎ捨てた柔らかな前足を力強く天高く突き上げて、誰よりも元気いっぱいに賛同の遠吠えをあげるのだった

 

そうして二人と一匹は、バケツやブラシを両手にジャラジャラと騒がしい音を立てて鳴らしながら、アビドス高等学校の敷地内でも特に奥まった場所にある、今は使われていない旧浴場へと向かった

 

渡り廊下を進むにつれて、いつも通る校舎のわずかな気配からも完全に離れ、周囲を飛び交う羽虫の不快な羽音や、遠くの砂漠から吹き付ける砂嵐のゴォーッという環境音だけが、不気味に大きく響き始めるのだった

 

到着した旧浴場の入り口は、長年の歳月と砂漠の砂混じりの激しい風に晒され続けた結果、元の塗装が完全に剥げ落ち、赤黒い分厚い錆に覆い尽くされた重々しい鉄扉だった

 

「……うへぇ、これは思った以上に手強そうですね。砂が噛んでるのか、取っ手が完全に固着してびくともしませんよ」

 

ホシノは持ってきたデッキブラシをコンクリートの壁に立てかけ、制服の袖を肘の上までガシガシと乱暴に腕まくりした。そして、ふんっと鼻から息を抜くと、両手でその錆びついたドアノブをがっしりと掴み込む

 

小柄で華奢な体に似合わない、アビドスが誇るその驚異的な力を足の裏から床へと伝え、一気に全身の力を爆発させる

 

「ぐ、ぐぐ……ぬんっ!……てりゃあああ!!」

 

ギギギギギギギギッ!!!

 

金属が互いを削り合うような凄まじい摩擦音と共に、今にも火花が散るかのような勢いで、頑固な鉄扉が強引にこじ開けられた

 

その開いたわずかな隙間から、何十年もの間、暗闇の中に閉じ込められていたカビと埃の混じった冷たい空気が、外の砂漠の熱気へと一気に吐き出される

 

「おおー! すごいすごい! カッコいいーっ!」

 

激しい労働の直後のように肩を大きく上下させ、ハァハァと荒い呼吸をしているホシノの横で、ユメはまるで手品でも見せられたかのように、パチパチと無邪気に両手を叩いて大歓声をあげた

 

「流石ホシノちゃん! 相変わらず頼りになるなぁ。その小さくて可愛い体のどこに、そんなお相撲さんみたいなパワーが隠されてるんだろうね?」

 

「はぁ……はぁ……。そ、そう思うなら……口を動かして呑気に拍手する前に、ユメ先輩も少しは手を貸してくださいよ……。本当に、人使いが荒いんだから……」

 

ホシノは額ににじみ出た汗を制服の腕の裏で拭いながら、恨めしそうにジト目で先輩を睨みつけた。しかし、ユメは人害のないふんわりとした、いつものおっとりした笑みを浮かべたまま、胸の前で人差し指同士を合わせてモジモジと体を揺らした

 

「んー……だってわたし、ホシノちゃんみたいに超人的な怪力なんて持ってないし、こういう力仕事じゃ絶対に足手まといになっちゃうからねー……。あ、でもね! ほら、見て見て! わたしの代わりに白子ちゃんが、足元でずーっと『ホシノちゃんがんばれー!』って、一生懸命にしっぽを振って応援してくれてたんだよ?」

 

『わう! わふんっ!』

 

「はいはい……。白子、熱烈な応援、誠にありがとうございます。先輩の百倍は励みになりますよ」

 

ホシノは呆れ半分に苦笑しながら、自分の足元で誇らしげに胸を張り、千切れんばかりに尻尾を振っている白子の銀白色の頭を、少しかしゃしゃした手つきで優しく撫でてやった

 

そうして二人は、未知の領域である薄暗い内部へと、一歩を踏み出した

 

♢

 

日の光が届かないボロボロの脱衣場を抜けると、その奥は、かつてアビドス高等学校が全盛期だった時代に、多くの生徒たちが一日の激しい部活動の汗を流していたであろう、想像以上に広々とした大浴場だった

 

中央には十数人は同時に肩まで浸かれそうなコンクリート製の四角い大きな浴槽が鎮座し、壁際には十ほど並んだシャワーの蛇口。そして床には、かつて誰かが使っていた形跡をそのまま残したような、すっかり色褪せた小さなプラスチック製の黄色い風呂椅子がいくつか、無造作に転がっている

 

しかし、その光景はまさに「廃墟」そのもの、あるいは「魔境」だった

 

長年、全く手入れをされることなく放置されていたため、浴槽の底や床の一面には、砂漠から建物の隙間を縫って侵入した黄色い砂と、灰色に変色した分厚いホコリが地層のように堆積している。さらに深刻なのは壁と天井だった

 

シャワーヘッドから壁の隅々、換気扇の格子にかけて、まるで不気味な蜘蛛の館のレースカーテンのように、幾重にも重なった大量の蜘蛛の巣が部屋全体に張り巡らされていた

 

そして極めつけは、壁に設置された大きな一面の鏡だった。長年の湿気と外からの砂嵐が混ざり合い、時間の経過とともにびっしりと緑色の苔が生え着いてしまっており、到底、人の顔など映し出せる状態ではなかった

 

鈍く濁った緑色の表面が、部屋全体の陰鬱さをいっそう引き立てている

 

「うわぁー……。ある程度は覚悟してたし、ホシノちゃんにも脅かされてたけど……いざ目の当たりにすると、言葉を失っちゃうくらい酷い有様だね……。本当にお化けが出そう……」

 

ユメは空のバケツを胸元でぎゅっと抱きしめながら、圧倒されたように浴室の惨状を見回した

 

「そうですね……。ですが、ここで日和っていたら日暮れまでに掃除は終わりません。まずは、掃除の基本通り、上から順に埃を落としていきましょうか。天井のクモの巣を全部払ってから、床を水洗いします」

 

「はーい、ホシノ隊長! 了解だよー! わたし、高いところ頑張るね!」

 

「さて、白子は……」

 

ホシノが足元の白い毛玉に目を落とすと、白子は『わう!』と短く、まるで軍人のような返事をした。だが、あの子の輝く瞳は既に二人の先輩には向いておらず、目の前に広がる「見たこともない、広くて不思議な秘密基地のようなアスレチック空間」に完全に釘付けになっていた

 

「……はは、当分の間は、あの子のことは放置で良さそうですね」

 

「あはは、そうだね。完全に新しいおもちゃを見つけた時の目をしてるよ」

 

二人は揃って顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた

 

上から落ちてくるホコリが白子の目に入らないか、ホシノは少しだけ心配したが、白子は既に、水気の一滴もない乾いた浴槽の底へと果敢に飛び降りてみたり、転がっている小さな風呂椅子を鼻先で小突いてガラガラと転がしたりと、大はしゃぎで走り回っている

 

白子の楽しそうな「ハァ、ハァ」という荒い息遣いと、小さな爪がコンクリートを鳴らす「タタタタ」という小気味いい足音だけが、静まり返っていた無人の浴室に、賑やかな活気をもたらし始めていた

 

「よし、それじゃあ私達も始めますよ。遅れをとるわけにはいきません」

 

二人は古びた竹柄のはたきと、長めの柄がついた硬いデッキブラシをそれぞれ手に取り、覚悟を決めて自分の持ち場へと散っていった

 

しばらくの間、二人が集中して作業する音だけが、浴室のコンクリート特有の独特な反響を伴って響き渡る。ユメは、グラグラと不穏に揺れる古い木製の脚立をどうにか広げ、その上に恐る恐る登ると、天井の隅に巣食う巨大なクモの巣に向かって「えいっ、えいっ!」とはたきを大きく振り回した

 

一方のホシノは、ユメが掃除している場所からちょうど反対側にあたる壁際のシャワーヘッドの前に立ち、ブラシの先端で頑固な緑色の苔をガリガリ、ゴシゴシと強烈な音を立てて削り落とし始める

 

「けほっ、けほっ……! うう、ずっと上を向いて作業してると、埃とカビの匂いがすごくて気管に入りそうだよぉ……」

 

ユメは口元を制服の腕で覆いながら、自分の頭の水玉バンダナや、いつの間にか制服の肩に付着してしまった白い蜘蛛の巣の糸を、手でパタパタとはたき落としながら情けない声を漏らした

 

「大丈夫ですか先輩? あまり無理しないで、しんどくなったら交代してくださいね。……あ、そうだ、それと先輩、これを見てください。水道管は、幸いなことにまだ奇跡的に生きているみたいですよ」

 

ホシノはユメの様子を気にかけつつ、目の前にある一番サビの少なそうな真鍮の蛇口に手をかけ、グッと力を入れて左へ捻ってみた

 

キィィ……と金属が激しく擦れる鈍い音が壁の奥で響いた後、ゴボゴボ、ゴボゴボッ! と不気味な大音量を立てて、最初は錆だらけの、どす黒い茶色の泥水が勢いよく噴き出した

 

ホシノは一瞬眉を顰めて「うわっ」と身を引いたが、そのまましばらく出しっぱなしにしていると、次第に水の濁りは薄くなっていき、やがて、完全に透き通った、ひんやりとした綺麗な冷水へと変わる

 

「おおーっ! すごい、ホシノちゃん! 本当にお水が出たよーっ! すごいすごい! これなら、天井から落とした埃も一気に床ごと水で洗い流せるし、お掃除も少しは楽になりそうだね!」

 

蛇口から勢いよく流れ出る綺麗な水を見て、ユメはそれまでの疲れを完全に忘れたように、脚立の上で身を乗り出して大喜びした

 

「ちょっと! ユメ先輩!? あまり興奮して上で体を揺らさないでくださいよ! ただでさえその脚立、ネジが緩んでてグラついてるんですから。そこから落ちて怪我でもされたら、白子をお風呂に入れるどころの騒ぎじゃなくなります」

 

ホシノはハラハラしながら、冷や汗混じりに声を張り上げて注意する

 

ユメは古い木製の脚立の手すりを両手でぎゅっと掴み直し、てへぺろ、とでも言うように可愛らしく小さく舌を出しながら返事をした

 

「はーい、気をつけるよー! でも見て見てホシノちゃん、ここから見るとね、換気扇の格子のところにもすっごく大きなクモの巣があるの。あれも『えいっ』てやっちゃうね!」

 

「あ、ちょっと先輩、だから上でそんなに身を乗り出さないでって……。もう、本当に目が離せないんだから」

 

ユメの頭上では、まだ落としきれていない大きな蜘蛛の巣が、砂漠の隙間から吹き込む乾いた風にゆらゆらと不気味に揺れている

 

ホシノはハラハラしながらため息をつきつつも、その胸の奥には、昨日までの徒労感に満ちた「お宝探し」とは全く違う、どこか心が浮き立つような、妙に充実した心地よい予感が満ち始めていた

 

それから、さらに二時間ほどが経過した頃

 

浴室を支配していたあの陰鬱で埃っぽい空気は、二人の必死な奮闘によって完全に叩き出されていた。天井を埋め尽くしていた蜘蛛の巣は一枚残らず払われ、切れていた電球も新品の明るいものへと交換され、シャワーヘッドにこびりついていた頑固な白い水垢も、ホシノの容赦のない手元によってガリガリと削り落とされた

 

何より、緑色の苔に覆い尽くされて絶望的な状態だった壁の大きな鏡は、遮るもののないアビドス大砂漠の強い朝の光をきれいに跳ね返すほど、見違えるようにピカピカに磨き上げられていた

 

鏡の前に並んで立つと、水玉模様のバンダナを巻き、額にびっしりと汗を浮かべた自分たちの姿が、驚くほど鮮明に真っ正面から映し出される

 

「ふーっ……! すごいよホシノちゃん、見て! 鏡の中に、一生懸命に働いたアビドスの美少女二人が映ってるよ! 天井と鏡を磨くだけで、もう今日の一日分の仕事を終えたような、ものすごい充実感だねぇ」

 

ユメははたきをプラスチックバケツの縁に立てかけ、制服の胸元を自分の手でパタパタと忙しなくあおぎながら、心地よい疲労感の混じったため息をついた

 

「うへえ、自分で美少女とか言っちゃいますか。……でもまあ、確かにここまでに到達するだけでも、本当に骨が折れる一苦労でしたね。これ、明日は絶対に筋肉痛になりますよ」

 

「あはは、腕がプルプルしちゃうかも。でも、お掃除ってやればやるほど綺麗になっていくのが目に見えて分かるから、なんだか楽しくなっちゃうね!」

 

「そうですね……。ですが先輩、ここからが本当の本番ですよ。次は溜まりに溜まった床の砂とホコリを、一気に水で洗い流します。……あ、その前に。白子を一旦、どこか安全な場所に移動させましょうか。これから洗剤と水を大量に使いますから、巻き添えにして濡らしちゃったら流石に可哀想ですし」

 

「そうだね! 床をゴシゴシし始めたら、どこから水や泡が跳ねるか分からないもんね。……あれ? そういえば、さっきまで椅子を鼻先で小突いて、あんなにはしゃいで走り回ってた白子ちゃん、どこにいったのかな?」

 

二人が作業の手を止め、大きな声を出して「白子ちゃん?」「白子ー?」とキョロキョロと辺りを見渡してみる

 

すると――

 

だだっ広いコンクリート製の浴槽のちょうど真ん中、天井の天窓から信じられないほど綺麗に直射日光が真下に差し込んでいる、一番暖かくて居心地のいい特等席に、小さな白い毛玉がコロンと丸くなっていた

 

二人が足音を忍ばせて浴槽の縁から覗き込んでみれば、白子は四肢の力をすっかり脱力し、お腹を小さく規則正しく上下させながら、「くぅ……、くぅ……、ふにゅ……」と、実にも気持ちよさそうに大の字になって熟睡している

 

「ふふっ、可愛い……。新しい遊び場が嬉しくて、あちこち全力で走り回りすぎちゃったんだね、きっと」

 

ユメは目尻をすっかり下げて、砂漠の熱気による寝苦しさなんてこれっぽっちも感じさせない子犬の無防備な寝顔を、愛おしそうにじっと見つめた

 

「そうでしょうね。周りであれだけ私たちがガリガリと物音を立てていたのに、よく眠れるものです。本当に緊張感のない、大物な子犬ですよ……。よし、起こさないようにゆっくりと、隣の脱衣場の方に連れていきましょうか」

 

「はーい♪ わたし、白子ちゃんが枕にしちゃってるこの黄色い風呂椅子をそーっと持っていくね」

 

ホシノは膝を砂まみれのコンクリート床につき、白子の柔らかくて温かいお腹の下に、そっと細い両手を滑り込ませた。まるで壊れやすい高級な宝物を持ち上げるように、細心の注意を払ってフワリと胸元に掬い上げる

 

白子は一瞬だけ「わう……」と小さく寝言のように鼻を鳴らしたものの、大好きなホシノの心地よい体温と匂いを感知したのか、すぐに安心したように首を完全に預けてスヤスヤと眠り続けた

 

二人は足音を可能な限り忍ばせながら、浴室の隣にある脱衣場へと繋がる扉へと向かった

 

しかし、錆びついた古い引き戸をガラガラ……と開けた瞬間、二人の足が完全にピタリと止まる

 

「…………」

 

「…………」

 

そこに広がっていたのは、先ほどの浴室に負けず劣らずの、いや、ある意味ではそれ以上に凄惨な「もう一つの魔境」だった

 

長年放置された木製の脱衣棚には、触るのも躊躇われるほどの分厚い埃が雪のように積もり、床のゴザは乾燥しきってボロボロに毛羽立って裂けている

 

さらに最悪なのは窓から侵入した正体不明の這いツタで、まるで生き物のように壁を伝ってカーテン状に生い茂り、部屋の半分を完全にグリーンカーテンのように侵食していた

 

ホシノはツタの比較的少ない、直射日光の当たらない日陰の床に、ユメが持ってきた風呂椅子を静かに置き、その上へ衝撃を与えないように白子を寝かせた

 

「……ねえ、ホシノちゃん。あっちの浴室が終わったら、次はこっちの、このお化け屋敷みたいな魔境も片付けなきゃいけないんだね」

 

ユメが頬を引きつらせた笑顔のまま、少しだけ青ざめた顔で脱衣場の天井を仰ぎ見た

 

「はぁ……。自分で『白子をお風呂に入れるために大掃除をしよう』と言い出しておいてアレですが……。これは流石に、地味に気が滅入りますね……。浴室のことばかり考えていて、脱衣場は完全に盲点でした」

 

すっかり思考から抜け落ちていた脱衣場の惨状に、二人の口から同時に、深くて、長くて、溜まりに溜まったため息が重たく漏れる。しかし、ここで立ち止まって絶望していても白子は綺麗にならない

 

二人は現実逃避をするように、お互いに顔を見合わせて力なく頷くと、すぐにきびきびとした足取りで、まだ見通しの明るい浴室の方へと引き返していった

 

「それじゃあユメ先輩、気を取り直していよいよ床を流しますよー! 水圧が思ったより強いかもしれないので、弾けないように気をつけてください!」

 

「はーい! 何時でもいいよー、ホシノちゃん! デッキブラシを構えて、準備完了!」

 

ユメが長いデッキブラシを剣道のように構えて壁際に避難したのを確認し、ホシノは壁にずらりと並んだ十ほどの真鍮製の蛇口を、端から順番に一気にバチバチと捻っていった

 

一斉にガガガッ、ゴゴゴゴッ! と壁の奥の水道管が激しく震える大音響が響き渡り、案の定、先ほどの最初の蛇口と同じように、一斉に茶色く濁った泥のような錆水が勢いよく吹き出す。しかし、配管自体の劣化は見た目ほど致命的ではなかったようで、奥から押し寄せる大量の勢いある水圧に押し出されるようにして、数十秒もすると全ての蛇口から、冷たくて透明な、綺麗な水がドバドバと勢いよく床へ流れ始めた

 

「よし、床が濡れたら一気に行くよー! ユメ先輩、洗剤をお願いします! 」

 

「任せてー! えいっ!」

 

ユメは待ってましたとばかりに、アビドス生徒会の備蓄倉庫の隅で眠っていた、業務用と思しき大きな古い粉洗剤の箱をひっくり返し、豪快に床にぶちまけた。そして、足元を流れる冷水の上から、長いデッキブラシを両手で力一杯に前後させてガリガリ、シャカシャカと床を擦り始める

 

「ごしごし、しゃかしゃか! ほらホシノちゃん、これすっごく泡立つよ!」

 

小気味いいお掃除の音が浴室全体に心地よく反響し、みるみるうちにコンクリートの床が一面、モコモコとした真っ白でクリーミーな泡の海へと変わっていった

 

ある程度泡が立ち上って全体の汚れが浮いたのを見計らい、ホシノが手際よく一度水を止めると、二人は並んで腰を落とし、今度は隅々の黒ずみや砂の塊を、手元のブラシで丁寧に落としていく

 

「よし、十分に磨けましたね。一気に流します!」

 

最後にもう一度、全ての蛇口から水を最大出力で噴射して、汚れた泡を一気に中央の排水溝へと流し落とすと――そこには、長年の砂漠の砂に隠されていた、本来の淡いパステルブルーのタイルが美しい、ピカピカに輝く清潔な床が現れた

 

「わあ……! 綺麗! 本当はこんなに可愛い色の床だったんだね、ここ!」

 

「ええ、やりましたね! では先輩、次はいよいよ本丸の『浴槽』です。こちらは白子も、そして私達も実際に直接肌を浸かる、一番大切な場所ですからね。床以上に気合を入れて、念入りに、丁寧に行きますよ」

 

「はーい! 了解! 汚れが落ちていくの、すっごく気持ちいいね!」

 

ユメは汚れが目に見えて落ちていく快感にすっかり取り憑かれたのか、ニコニコとした満面のひまわりのような笑顔を浮かべながら、元気に右手を挙げた

 

先ほどと同じ手順で、まずは浴槽の深い底へと勢いよく水を流し、ユメが豪快にブラシで洗剤を広げていく

 

「ホシノちゃん、広いところはわたしに任せて!」

 

「助かります、先輩。じゃあ私は細かいところを」

 

水を止めてからは、まずユメが長いデッキブラシを使って大雑把に全体の広い面をダイナミックにゴシゴシと洗い、その後を追うようにして、ホシノが手元用の小さな硬いタワシを握り締め、タイルの目地の細かい黒ずみや、一番厄介な排水溝の奥のヌメリを、執念深く徹底的に落としていった

 

仕上げに、二人はバケツに何度も冷水を汲んできては、コンクリートの壁面に向かって勢いよくバシャバシャと洗い流した。すると、水が排水溝へ吸い込まれていくと同時に、床と同じように見違えるほど透き通った、淡いブルーのタイルが底にきれいに並ぶ美しい浴槽がその全貌を現した

 

「ふふふー! なんだか最初は絶望的な魔境に見えたけど、お掃除ってやり始めるとどんどん成果が見えて、すっごく楽しくなってきちゃったね、ホシノちゃん!」

 

ユメは、綺麗になった浴槽を覗き込みながら、満足そうに腰に手を当てて笑った

 

「そうですね。正直、最初はどこまで綺麗になるか不安でしたけど……。ここまで徹底的にやれば、なんとか衛生的に白子も私達も入れそうです。……うへぇ、それにしても、ちょっと動くだけで信じられないくらい暑い……」

 

ホシノは完全に作業を終えてブラシを置くと、額から顎へと伝い落ちる大量の汗を、制服の袖でごしごしと乱暴に拭った

 

ジメジメとした浴室の熱気で、濡れた髪が額に張り付いている

 

「ふ、ふふふ……あはは、あははは! ホシノちゃん、変な顔になってるよ!」

 

「? なんですか、ユメ先輩。そんなにお腹を抱えてニヤニヤして、私の顔に何か変なゴミでも付いてますか?」

 

すると、隣に立っていたユメが突然、口元を両手で押さえながらクスクスと楽しそうに笑いを堪え始めた。ホシノは不思議そうに、水玉バンダナの巻かれた頭をひょいと不満げに傾げる

 

「うん、付いてる付いてる! 付いてるどころの騒ぎじゃないよ! ホシノちゃん、頭のバンダナの結び目の周りに、さっき天井から落とした蜘蛛の巣がすっごいたくさん、モコモコって付いちゃってるよ♪ なんだか白いお化けの帽子を被ってるみたい。ほら、動かないで、わたしが綺麗にとってあげるから!」

 

「え? ……あ、嘘。本当ですか……? 全然気づきませんでした……」

 

ユメはニコニコと愛おしそうに目を細めながら、ホシノのすぐ目の前に一歩近づいた。そして、長い指先を器用に動かして、ホシノの薄ピンク色の癖毛やバンダナの繊維に複雑に絡みついていた白い蜘蛛の巣の糸を、優しく一本ずつ、丁寧に摘み取っていく

 

「よし、これでよし、と。うん、いつもの可愛いホシノちゃんに戻ったよ!」

 

「う、うへ……」

 

至近距離で見つめられるユメのまっすぐなひまわりのような黄色の瞳と、自分が全く気づかずにマヌケな姿を晒していたことへの恥ずかしさが一気に押し寄せ、ホシノは急激に気まずくなってしまった

 

少しだけ頬をポッと赤らめながら、視線を斜め下へとパッと逸らす

 

「……そ、それでは! 浴室の清掃はこれで完璧ですから、あとは残されたあの、這いツタだらけの魔境の脱衣場ですね」

 

「うん! あ、でも脱衣場をこれから本格的に掃除するとなると、中で椅子の上で寝かせてる白子ちゃんをどうしよっか。また埃まみれになっちゃうよ?」

 

『ワン! ワンワンッ!』

 

二人が錆びついた引き戸の前でそんな相談を始めた、まさにその瞬間だった。まるで二人の会話のタイミングを計っていたかのように、脱衣場の奥から元気いっぱいで高らかな、透き通った鳴き声が響いてきた

 

ガララ……と引き戸を開けると、案の定、お昼寝からすっきりと目覚めたらしい白子が、風呂椅子の上の特等席でしっかりと立ち上がり、ちぎれんばかりに激しく尻尾を振りながら二人を出迎えた

 

「どうやら、ちょうどお昼寝から起きたみたいですね。タイミングがいいというか、なんというか。野生の勘ですかね?」

 

「あはは、本当だね! お腹が空いたのかな? それとも、お姉ちゃんたちのお掃除が終わったのを察したのかな? お利口さんだねー!」

 

「……よし。ユメ先輩、それじゃあここからは完全に効率重視の役割分担にしましょう。私が、あの中に籠って脱衣場のツタをむしり、一人で一気に、雑巾がけをして掃除を終わらせます。その代わり、ユメ先輩はお外の空気がいい場所で、白子を危なくないように遊ばせつつ、ついでに建物の周りの伸びきった雑草の草刈りをお願いしてもいいですか?」

 

ホシノはデッキブラシをバケツにカシャリと片付けながら、的確な指示を出した

 

「なるほど、効率的な役割分担だね! 了解だよ、ホシノ隊長! 白子ちゃんの安全は、このアビドスの生徒会長が責任を持って守るからねー! 行くよー、白子ちゃん!」

 

『ワン!』

 

ユメは胸を張って頼もしく答えると、「よし、それじゃあ白子ちゃん、お外でかけっこしよっか!」と足元に優しく呼びかけ、日の差し込む出口へと向かって楽しそうに駆け出した

 

白子も待ってましたとばかりに耳をぴんと立たせ、銀白色の小さな体を弾ませて、嬉しそうに建物の外へとその後を追いかけていく

 

タタタタと小気味よく遠ざかっていく足音と、ユメの鈴を転がすような笑い声を見送りながら、ホシノはもう一度、頭のバンダナの結び目をきつく、気合を入れ直すように締め直した

 

「よし……。あっちはユメ先輩に任せてこっちも頑張らないと」

 

ホシノは、埃っぽくカビ臭い空気が沈殿する脱衣場へと一人、果敢に突入していった

 

♢

 

そして、太陽が砂漠の地平線の彼方へと完全に沈み、辺りが濃紺の帳に包まれた頃

 

「お、終わった……!!まさか日が暮れるまでかかるなんて…」

 

ホシノは手に持っていたボロボロの雑巾をバケツへと落とし、腕で額の汗を乱暴に拭った

 

目の前に広がっていたのは、もはやあの絶望的な「魔境」と化していた脱衣所ではなかった

 

壁を我が物顔で覆い尽くしていた執念深い這いツタは、ホシノの容赦のない力によって根こそぎ強引に引き剥がされ、天井や脱衣棚に堆積していた分厚い灰色の埃は、徹底的な拭き掃除によって完全に一掃されていた

 

湿気と砂で半分腐りかけて異臭を放っていた古いゴザは、すべて力任せに外の砂場へと引っ張り出し、その下に隠れてびっしりと生え着いていた緑色の湿った苔を、硬いブラシで膝がすりむけるほど床に這いつくばって擦り、完璧に除去してのけたのだ

 

おかげで、何十年ぶりかに日光と夜風に晒された、見違えるように清潔でひんやりとしたコンクリートの床が、その平らな全貌を現していた

 

さらに、衣服を置くための木製の脱衣棚も、長年の風化のせいで板が外れかかったり全体が歪んだりしていたため、ホシノは倉庫の工具箱から持ってきた重い金槌を容赦なく振るった

 

(どうせ今のアビドスでこれを使うのは、私とユメ先輩の二人、それと白子だけですからね。全部を直す必要なんてありません。使えるパーツだけ集めれば十分ですよね)

 

そんな合理的な思考のもと、まだ生きている頑丈な棚から使えそうな比較的マシな木の板を「バリバリッ!」と丁寧に剥ぎ取り、それをパズルのように組み合わせて再利用したのだ

 

薄暗い電球の下、バチバチと力任せに釘を打ち直し、多少見た目は不揃いで強引ではあるが、実用には十二分に耐えうる二つの立派な収納スペースを短時間で完成させていた

 

「ふぅ……。これで、脱衣所もひとまずは形になりましたね。あとは……」

 

ホシノが仕上がった棚を軽く叩いて強度を確かめていると、静まり返った夜の帳を遮るようにして、外の暗闇からユメのどこまでも晴れやかで、鈴を転がすような高い声が響いてきた

 

「ホシノちゃーーん! こっちも作業終わったよーー! 終わったからちょっと出てきてみてー! 白子ちゃんがすっごく草取りを手伝ってくれたお陰で、見違えるように綺麗になっちゃったんだよ!」

 

「おや、あっちも終わりましたか……」

 

ホシノがパンパンと手のひらの木屑をはたき落とし、少し凝り固まった腰をトントンと拳でさすりながら外へ出ていくと――

 

『ワン! わふんっ!』

 

そこには、今日一日でユメと白子の二人(一人と一匹)が引き抜いたであろう、ホシノの背丈ほどもある山のように積み上げられた大量の雑草の前に、顔や前足を真っ黒な泥だらけにした白子が、これ以上ないほど誇らしげに胸を張って、キチンとお座りをして待っていた

 

昼間はお化け屋敷のようだった建物の外壁には、まだ頑固なツタの根が少しだけこびりついてはいたが、足元を埋め尽くしていた腰の高さまでの雑草は、遮るものが何もないほどにすっきりと消え去っている

 

これなら、夜暗くなってからここへお風呂に入りに来る分には、足元を滑らせたり虫に刺されたりする心配も全くないだろう

 

「これ、本当に見てよホシノちゃん! びっくりしちゃうから!」

 

ユメは軍手をはめた両手を顔の横で広げながら、興奮を抑えきれない様子で身を乗り出した

 

「白子ちゃんがね、わたしが黙々と草取りをしてるのを後ろからじーっと見てたんだけど、途中で真似したくなっちゃったみたいで……! 穴を掘るみたいな素早い手つきで、前足でガシガシ、ガシガシってお庭の硬い土を柔らかく耕してくれたの! おかげで、頑固な雑草の根っこがスポンスポンって簡単に抜けるようになって、お掃除が倍以上のスピードで進んじゃったんだよ!」

 

「おおー……。それは確かに驚きましたね。白子は本当に、そこらの野良犬とは比べ物にならないくらい賢いです。もしかして、人間の言葉が全部伝わっているんじゃないですか?」

 

ホシノが心底感心した様子で白子に近づくと、白子は泥のついた鼻先をふんふんと嬉しそうに鳴らし、『くぅーん……♪』と喉を鳴らした。そして、甘えるように目を細めながら、ホシノの泥だらけの脚に、その銀白色の小さな体をぐいぐいと擦り付けて喜んだ

 

「よしよし、お疲れ様。お手柄ですよ、白子。……さて、ユメ先輩。こちらも脱衣所の修繕を含めて、中の片付けはすべて終わりました。砂漠の夜風も本格的に冷たくなってきましたし、これ以上外にいると冷えちゃいます。私達も一度本校舎の教室に戻って、着替えを持ってから、いよいよこの大浴場に入りましょうか」

 

「はーい! 待ってました! じゃあね、着替えはわたしがまとめて取ってくるから、ホシノちゃんは先にお風呂場に戻って、お湯を貯める準備をしててくれる?」

 

「分かりました。……あ、でもユメ先輩、私の予備の服の場所、ちゃんと分かりますよね? 迷子になって別の部屋を探したりしないでくださいよ?」

 

ホシノが少し意地悪っぽく笑いながら確認すると、ユメは「もう、そんなに子供扱いしないでよー!」と頬をぷくっと膨らませてみせた

 

「うん! ちゃんと分かってるよー。ホシノちゃんがいつも使っている、あの生徒会室のロッカーの、一番下の段の引き出しの部分でしょ? そこに綺麗な制服と、タオルが入ってるよね」

 

「はい、大正解です。よく覚えられました。では、私達の分の着替え、よろしくお願いしますね。……あ、それと、ついでにそこの泥だらけの小さな働き者にも、しっかり綺麗なお水を飲ませてあげてくださいね?」

 

「はーい! 任せて! 喉乾いたよね、白子ちゃん。――よし、いくよ、白子ちゃん! ちょっと走るよ!」

 

『ワン!』

 

ユメが楽しそうに声を弾ませて夜の校庭を走り出すと、白子もその長い尻尾をちぎれんばかりにブンブンと振りながら、嬉しそうにその後をぴょんぴょんと追いかけていった

 

暗闇に消えていく二人の賑やかな後ろ姿を、どこか温かい目で見送ったあと、ホシノは再び、静まり返った浴室へと戻った

 

昼間の喧騒が嘘のように、ひんやりとした心地よい静寂が満ちる室内の壁際に立ち、浴槽の端に取り付けられている、真鍮の大きなクランク型の蛇口を両手でしっかりと掴む。先ほど床を流した時の要領で、ホシノはそれを一気に、力一杯左へと捻り回した

 

ボイラー室の古い主電源とバルブを事前に点検し、スイッチを入れておいたおかげで、今度は錆び水が噴き出すこともなかった。最初からゴボゴボ、ドバドバと小気味いい大音量を立てて、かすかに白い湯気の立ち上る温かなお湯が、磨き上げられた淡いブルーの浴槽へと勢いよく貯まり始めた

 

「よしよし、温度も丁度いい。ボイラー室のあの年代物の機械、よく生きててくれましたね……」

 

ホシノは浴槽の縁に腰掛け、流れ落ちるお湯にそっと手をかざした。手のひらを包み込む心地よい熱気に、自然と張り詰めていた肩の力が抜けていく

 

みるみるうちに白い湯気が浴室の空間を優しく満たしていき、今日一日の泥塗れの苦労が、温かい霧の向こうへとじんわり溶けていくような、至福の空間が完成しつつあった

 

お湯が溜まるのをじっと待ちながら、ホシノは静まり返った室内で、今日直したばかりの脱衣所の方向へ目を向けた

 

「……ま、とりあえず浴室と脱衣所はなんとかなったけど。あのボイラー室も、今回は応急処置で動かしただけですし。今度時間を作って、あっちも隅々まで大掃除して、配管のガタつきを本格的にメンテナンスしておかないとですね」

 

一筋縄ではいかないアビドスの広大な敷地を思い浮かべ、ホシノは小さく苦笑した

 

「それから……脱衣所の電球。さっきはとりあえず余り物の一球だけで済ませちゃったから、部屋の半分がまだ薄暗いお化け屋敷状態だし。ユメ先輩、あんなに怖がりなのに『お化け屋敷みたい』って言いながら頑張ってくれたから……。今度のお休みには、足りなかった分の電球を一緒に街まで買いに行かないとですね。あ、ついでに白子用の犬用シャンプーとか、お風呂上がりの牛乳も買えたら最高なんだけど……またヘルメット団とかでも狩りに行かないと…」

 

湯気に満ちた静かな浴室に、トトト……と心地よいお湯の音だけが響く。ホシノは湯船に映る自分のバンダナ姿を見て、少し照れくさそうに目を細めた

 

――そんな優しい静寂をぶち破るように

 

「ホシノちゃーーん! お待たせー!持ってきたよー!」

 

『わん! わわんっ!』

 

バタン!! と、先ほどホシノが建付けを綺麗に修理したおかげで、引っかかりもなくスムーズに開くようになった脱衣所の引き戸が勢いよく開け放たれた

 

ホシノが驚いて振り返ると、そこには、白いバスタオルを胸元で器用に、かつ豪快に巻き付けたユメが、子供のように目をキラキラと輝かせながら、一直線に湯船に向かって猛ダッシュしてくる姿があった

 

「え、ちょ……待っ、ユメ先輩!? 走ったら危ないって……!!」

 

「アビドス大浴場、一番乗りだあああーーーっ!!」

 

『わうーーーっ!!』

 

「あ、コラ! 白子まで! 待ちなさ――」

 

ホシノの必死の制止の声も虚しく、ユメは大きなバスタオルをパタパタと翻しながら、満面の笑みで湯船に向かってダイナミックにダイブした。さらに、そのすぐ後ろを並走していた銀白色の毛玉――白子も、小さな体をバネのようにしならせて、迷うことなく大好きな先輩の後に続いて宙を舞い、湯船へと突っ込んでいく

 

ザブーーーゥッ!!!

 

ドッパーーーーン!!!

 

凄まじい大質量が激突したかのような水しぶきが、まるで爆発でも起きたかのように浴室全体へと広がった

 

ホシノは迫り来る波を前に、手を伸ばして二人を止めようとした、その中途半端な姿勢のまま完全に硬直していた

 

二人の豪快すぎる同時飛び込みによって放たれた、大量の、そして最高に温かいはずのお湯の塊が、ホシノの顔から、髪から、制服のシャツから、つま先に至るまで、容赦なく頭上から降り注ぎ、全身を完璧に水浸しにした

 

パタパタ…

 

静まり返った浴室に、ホシノの髪の毛や衣服から床のタイルへと、虚しく滴り落ちる水滴の音だけが響く

 

「ふはぁっ! あったかーい! ……あ……えへへ……。ほ、ホシノちゃん……?」

 

湯船の中からぷはっと顔を出したユメが、あまりにも静かすぎるホシノの佇まいに、事の重大さを察して一気に顔を青ざめさせた

 

「ご、ごめんね? ついつい、お水が綺麗に出てお湯になったのが嬉しくて、学校のプールみたいにテンションが上がっちゃって……」

 

『わふ……♪』

 

しかし、そんな先輩のガタガタと震える恐怖の気配を露知らず、白子は初めてのはずの温かいお湯の心地よさがすっかり気に入ったのか、今日手伝った泥を綺麗に湯船に溶かしながら、浴槽の中で器用にスイスイと、見事な「犬かき」を披露して満足げに鼻を鳴らしている

 

ホシノは俯いたまま、その小さな肩をプルプルと小刻みに、怒りのエネルギーで震わせた

 

濡れて顔に張り付いた前髪の隙間から覗く、赤と青のオッドアイが、怪しく、そして冷酷にギラリと光る

 

「ユメ先輩……。今すぐそこ、その浴槽のフチに正座です……!!」

 

「は、はいぃぃぃっ!!!! すみませんでしたーーーーっ!!!!」

 

『♪』

 

今日一日のお掃除の中で、間違いなく一番大きくて、そしてドスの利いたホシノの怒鳴り声が、二人がかりでピカピカに磨き上げられた旧浴場の高い天井に、いつまでも恐ろしく反響し続けるのだった

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