白子とシロコ   作:気弱

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抱え続けた十字架と明日の足音

空間を引き裂くような凄まじい轟音が荒野に響き渡り、ホシノの銃口から解き放たれた破壊の弾丸が、一直線に突き進む

 

すでに満身創痍の状態で戦い続けているシロコたちにとって、その直撃を受けることは決定的な死を意味していた

 

致命傷では済まない。その肉体どころか存在そのものを跡形もなく吹き飛ばさせかねないほどの狂暴な一撃だ

 

「みんな、そのまま動かないで……!」

 

迫り来る死の威圧感に射すくめられ、シロコたちが反射的に身構えて左右へ散ろうと足を地につけたその瞬間、戦場を貫くようにクロコの冷徹かつ静かな声が響き渡った

 

次の瞬間、耳を刺す金属同士の激しい衝突音が炸裂する

 

「くっ……!」

 

重厚な衝撃波が周囲の砂を盛大に巻き上げ、凄まじい風圧が全員の頬を叩いた

 

直撃した弾丸のエネルギーを真正面から受け止め、強烈な火花が爆ぜる

 

「っ……シロコ先輩、その盾……!」

 

噴き上がる砂埃の向こう側を見つめていたノノミが、目を見開いた

 

クロコがその両手でしっかりと掲げ持ち、衝撃に耐えるように踏みしめていたのは、無数の深い傷や黒く焦げた痕が無残に刻まれた、巨大な戦術盾だった

 

それは紛れもなく、ホシノが肌身離さず愛用していた、あの盾そのものだった

 

「これは、別世界のホシノ先輩から受け継いだ盾……。危なくなったら私が前衛で防ぐから、みんなは私の背後から隙を突いて攻めて!」

 

突然の光景にノノミやセリカたちは思考が一瞬凍りつき、驚愕の表情で固まる。しかし、先ほどまでの激戦の中で、クロコが別の世界の遺品であるホシノの装備を用いて戦う姿を既に目にしていたシロコとヒナは、一ミリの迷いもなく即座に思考を切り替えた

 

二人はクロコの背後から左右へ飛び出すと、寸分の狂いもない動作で愛用の銃の引き金を引き、集中砲火をホシノへ向けて叩き込んだ

 

バババババンッ! と激しい射撃音が荒野に連続して轟き、正確無比な弾丸の群れがホシノの全身を的確に捉える

 

「――っ!」

 

 

だが、シロコとヒナによる完璧な呼吸の同時射撃が直撃したにもかかわらず、ホシノの身体は微動だにせず、微かに仰け反る気配すら見せない

 

それどころか、感情の削ぎ落とされた虚ろな瞳のまま、冷酷無比な手つきで二人へ向けて再び漆黒の銃口を滑らかにスライドさせた

 

「行きますよーっ!」

 

ホシノの視線が二人へ固定されたその絶妙な一瞬を、ノノミは見逃さなかった

 

ホシノの完全な死角となる真横へ素早く回り込んだノノミは、ミニガンを力強く抱え直すと、回転砲身を咆哮させ、ホシノの足元の砂地めがけて一気に凄まじい弾幕を叩きつけた

 

大地を削り取る激しい着着弾音が響き、爆風とともに膨大な量の砂煙が噴き上がる

 

一瞬にして視界が真っ白に遮断され、空間全体が濃密な煙幕に包み込まれた

 

「……ッ」

 

視界と足場を同時に奪われたことで、ホシノの機械的で精密だった動きがピタリと停止する

 

しかし、ホシノは動揺することなく、その濃い砂煙ごとすべてを蜂の巣に変えようと、迷うことなく銃頭を構え直し、反撃の弾幕を網の目のように解き放とうとした

 

だが――そのほんの数秒にも満たない致命的な硬直時間こそが、シロコとヒナの命を救うには十分すぎるほどの時間だった

 

二人は一瞬の隙を逃さず地を蹴り、立ち上る砂塵を振り払うようにして、それぞれホシノの死角となる位置へと鮮やかに身を躍らせて回避してみせた

 

「ノノミ、そのままの勢いで撃ち続けて……!」

 

クロコは眼前の空間の歪みへ迷いなく腕を突っ込むと、ノノミが手にする代物と寸分違わぬ形状の巨大な重機関銃を瞬時に引き抜いた

 

「!」

 

ノノミは一瞬だけ丸く目を見開いて驚いたが、すぐに笑みをその唇に浮かべた

 

ミニガンの砲身を回転させ続けながら、さらにホシノの足元へと容赦のない追撃の弾幕を降らせていく。そして、その息遣いと完全に同調したクロコもまた、別の角度から超高威力の重火器の弾丸をホシノの全身へと激しく浴びせた

 

「っ……くぅ……!」

 

いくら反転し異形の力を得たホシノであっても、圧倒的な重火器二台による至近距離からの同時集中砲火を受ければ無傷ではいられない

 

激しい衝撃にその華奢な体が、わずかに一歩、力なく後退を余儀なくされる

 

「ノノミ先輩ばかりに、いいところを持っていかせるわけにはいかないわよね……!」

 

砂塵の裏側へとすでに素早く回り込んでいたセリカが、銃のグリップを両手で強く握り締め、ホシノの無防備な背中へ向けて怒涛の連射を叩き込んだ

 

「――っ!!」

 

 

正面、側面、そして背後からの逃げ場のない完全な三方向同時攻撃

 

それに加え、絶え間なく浴びせられる重火器の爆風と負荷により、ホシノの肉体に蓄積されたダメージは確実に限界を超えつつあった。しかし、彼女はその攻撃を拒絶するように、全身の周りに黒く渦巻く禍々しいオーラの色を一段と濃く、深く変貌させていく

 

「きゃっ……!?」

 

「くっ……体が押し返される……!」

 

ホシノの肉体から放たれた凄まじい熱風の衝撃波により、間近で攻撃を仕掛けていたセリカ、ノノミ、そしてクロコとヒナの足元が大きく煽られ、その場から激しく吹き飛ばされた

 

「まだよ……! 私の役目は、まだ終わっていないわ……!」

 

完全に体勢を崩しかけたその極限状態の中、ヒナの全身から鮮烈な紫色のオーラがバチバチと激しくスパークするように立ち昇った

 

彼女は機関銃のストックを肩に強く固定し、引き金を一気に絞り込む

 

まるで空間そのものを穿ち切るレーザーのような極太の弾幕が、真っ直ぐにホシノの身体を強烈に襲いかかった

 

「――っ……!!」

 

あまりの威力の高さに、流石のホシノも両腕を十字に交差させて必死にその衝撃を防ごうとしたが、衝撃を抑えきれずにその体が後方へと大きく吹き飛ばされる

 

しかし、吹き飛ばされながらもホシノは驚異的な体幹と戦闘センスを発揮し、空中で見事な回転を描いて威力を逃すと、着地と同時にすぐさま荒い息のまま反撃の体制を整え直した

 

「今です……! シロコ先輩、お願いします!」

 

アヤネが血相を変えながら戦術タブレットを叩く

 

その言葉を合図にしたかのように、アヤネの操作する小型ドローンがホシノの頭上すれすれの死角へと高速で移動し、その機体からグレネードを三つ、連続して真下へと落下させた

 

「任せて……!」

 

そのアヤネの意図を一瞬で察知したクロコは、空間の裂け目から今度はアヤネの愛用するハンドガンを抜き取ると、迷うことなく空中でそのグレネードめがけて正確に弾丸を叩き込んだ。

 

パァンッ!

 

軽快な破裂音が高らかに響き渡り、瞬く間に高濃度の濃い煙幕がホシノの周囲を完全に包み込んでいく

 

 

「上手いぞアヤネ、シロコ……! 流石のホシノでも、この濃い煙の中で完全に視界を奪われれば、まともな狙いを定めることはできないはずだ……!」

 

先生が腹の底から絞り出すような力強い声で前線へ向けてゲキを飛ばす

 

「……っ!」

 

視界を完全に遮られ、周囲の気配すら追えなくなったホシノは、それまでの激しい熱気をピタリと収めた

 

代わりに全身から周囲のエネルギーを貪欲に吸収するかのように、禍々しいオーラをその身体の一点へと激しく集め始める

 

「っ……す、すごい吸引力……! 体が、中心に吸い込まれる……!」

 

そのあまりの強烈な引力に、必死に踏ん張ろうとするヒナたちの足元が砂ごと削られ、体勢を維持するのがやっとという状態に追い込まれていく

 

だが、それこそが――彼女らが少し前から計算し尽くしていた、唯一にして最大の勝機だった

 

「――今です、シロコちゃん!!」

 

ノノミが渾身の力を振り絞って、風の吹き荒れる荒野で叫んだ。

 

「――任せて……!」

 

 

上空の雲を切り裂くような、静かで、しかし一切の揺らぎのないシロコの声が戦場の上空から降ってきた

 

今のボロボロになったアビドス対策委員会のメンバーの火力では、そして傷を負い本来の力を発揮できないヒナの銃撃では、完全に覚醒しきった今のホシノの頑強な装甲を自力で完全に打ち破ることは不可能に近い

 

だからこそ、全員が互いに無言のアイコンタクトと緻密な連携で細かいダメージをコツコツと蓄積させつつ、この一瞬の隙、この唯一の決定打が生まれる瞬間をじっと待ち望んでいたのだ

 

常人の数倍の硬度を誇るホシノの装甲にすら、確実にダメージを通し得る圧倒的な威力を誇る、シロコ渾身の一撃

 

上空でドローンの機体から手を離したシロコは、重力を味方につけるように自らの体を宙で美しく回転させ、遠心力を極限まで高めていく

 

そして、ホシノの全身から逆巻くように放たれる凄まじい引力と、シロコ自身の突進する重力が完璧に噛み合ったその瞬間――

 

彼女のすべてを乗せた強烈なカカト落としが、ホシノの無防備な頭部へと、まるで隕石の直撃のように凄まじい衝撃音を立てて完璧にヒットしたのだった

 

「――っ!!」

 

シロコの渾身のカカト落としがその頭部を直撃した瞬間、これまで圧倒的な重圧を放っていたホシノの身体がガクリと激しくよろめいた

 

その強烈な衝撃は、彼女の全身に張り巡らされていた禍々しいオーラの結界を内側から粉々に砕き、蓄積されたエネルギーを一気に四方八方へと拡散させていく

 

「……っ……ぐぅっ……」

 

それでもなお、ホシノは完全に意識を手放すことなく、荒い息を吐きながら血走った瞳のまま再び愛用のショットガンをシロコへと向けようと腕を振り上げかける。しかし、全身の神経と装甲に致命的なダメージが蓄積していたのか、その右腕はガクリと力なく重く下垂した

 

「今だよ……先生っ……!!」

 

上空から着地したシロコが、声を限りに叫ぶ

 

「分かった……!!」

 

先生はその合図を聞き逃さず、泥と砂にまみれた地面を蹴って全速力でその場へと駆け出した

 

いまや抵抗する術を失い、その場で膝をつくように動きを止めたホシノの胸元。そこには、あの不気味な首輪のマークが痛々しく脈打っている。先生はその真ん中に、青白く電子の光を放つシチュエーションルームのタブレットを力強く重ね合わせた

 

「みんな……! あとは……頼んだよ!」

 

「っ!!!」

 

先生の気迫に満ちた叫び声に呼応するかのように、ヒナ、クロコ、そして残されたアビドスの面々もまた、それぞれの傷ついた身体から最後の一滴の力を絞り出すように全速力で駆け寄ってきた。そして、先生がホシノの胸に押し当てたそのタブレットの上に、自らの片手を次々と重ね合わせていく

 

その瞬間、世界が眩い光に飲み込まれた――

 

♢

 

気づけば、どこか見覚えのある、しかし現実のものとは思えないほど異様な静寂に包まれた電車の車内に、ノノミはぽつんと立っていた

 

ガタゴトと規則正しく響く走行音と、窓の外をあてもなく過ぎ去っていく薄暗い景色の残像

 

先ほどまで荒れ狂う砂漠の真ん中で、激しい死闘を繰り広げていたはずなのに、ここは一体どこなのだろうか

 

どこか現実感を喪失した不思議な浮遊感の中、ノノミが戸惑いながらゆっくりと車内を見渡すと、そこには流れる車窓をぼんやりと見つめながら、ぽつんと座席に腰掛けている一人の小さな黒い影のような姿があった

 

「……ホシノ先輩」

 

不思議と恐怖や警戒心は一切湧いてこなかった。直感で、そのあまりにも小さく、孤独に肩を落とす影が誰であるのかが痛いほどに理解できたからだ

 

ノノミはゆっくりと歩み寄ると、静かにそのホシノの隣の座席へと腰を下ろす

 

「……まだ一歳になったばかりの、小さな子犬だったんだ。もっともっと外の世界を走り回りたかったと思う。ユメ先輩と一緒に、大好きだったアビドスの道を、もっとたくさん歩きたかったはずなのに……それなのに、私は……」

 

隣に並んで座るホシノが、誰に問いかけるでもなく、ただ己の胸の底から絞り出すようにぽつり、ぽつりと呟いた

 

「生き物は……人は、誰しもいつか必ず死ぬことに意味がある……。それはきっと、動物だって同じなんだと思う。……それなら、あの時、白子が死んでしまった事には、いったいどんな意味があったっていうの? ユメ先輩が……死んでしまうことに、いったいどんな意味があったっていうの……?」

 

ノノミは何も言わず、ただじっと寄り添いながら、ホシノの吐露する痛切な言葉の一つひとつに静かに耳を傾け続けた

 

ホシノは「色彩」に呑み込まれ、理性を完全に失った狂気のテラーとして暴走していたはずだった。しかし、その深く閉ざされた心の奥底では、外の世界の音や、自分たちの必死の叫び声をしっかりと聞き取っていたのだ

 

「……白子は、最期に私の顔を……舐めてくれたんだ。……あれは、私にいったい何を伝えたかったのかな……。いくら考えても、最後まで……私には分からなかった」

 

ホシノは、すっかり黒く煤けてしまった自身の小さな両手を虚しく開閉してみせる

 

その指先は、今も消えない記憶の寒さに耐えるように細かく震えていた

 

「……あの子を病院へと急いで運んでいく時、腕の中でどんどん冷たくなっていく白子の小さな体温が……私を助けるために、私の代わりにあの危険に巻き込まれてしまった時の、あの子の声が……ずっとこの手に、この耳に、こびりついて離れないんだ。

 

みんなと普段通り楽しくお喋りしている時も、夜の静けさの中でも……。

 

毎日眠れなくて、自分の無力さを少しでも紛らわすために、夜のパトロールの回数をどんどん増やしていったんだよ」

 

「ホシノ先輩……」

 

「……これが、あの日逝ってしまった白子の……そして、私を信じてくれたユメ先輩の人生を、私のせいで台無しにしてしまったことに対する、せめてもの罰なのかな……」

 

 

車内に重苦しい沈黙が落ちる。ノノミは静かに息を吸い込み、隣で縮こまるホシノの横顔を見つめた

 

「……ホシノ先輩。本当は、白子ちゃんがどんな気持ちで最期を迎えたのか……先輩自身、心のどこかではもう分かっているんじゃないですか?」

 

「……っ」

 

答えの代わりに、ノノミは走行音だけが虚しく響く静かな電車の窓の外へと、ゆっくりと視線を向けた

 

自分は、対策委員会の中でも他の誰よりホシノ先輩から直接多くの悩みを打ち明けられてきた

 

だけど、それはあくまで人づてに聞いた過去の断片でしかなく、その痛ましい現場を自分の目で完全に目撃していたわけではない

 

いくら本人の口から直接語られた悲劇だとしても、それはどこまでいっても語られた記憶でしかないのだ

 

だけど――ノノミには、あの日の小さな「風景」が鮮明に焼き付いていた

 

進路の選択を迫られ、このままでは家の言いなりになってハイランダー鉄道学園に入学するだけの、どこか退屈で色のない人生を送るはずだったあの頃

 

街の片隅で、ふと目にした忘れられない光景があった

 

太陽の光を浴びて、眩しいほどに楽しそうに笑いながら歩くユメ生徒会長と、そのマイペースさに呆れながらも、どこか嬉しそうに、困ったように柔らかく微笑むホシノの姿。

 

そして、その足元には、小さな散歩用のリードに繋がれ、嬉しそうに尾をブンブンと振って二人の足元を無邪気に駆け回る、真っ白な子犬の白子の姿があった

 

自分が見たのは、本当にそれだけだ

 

ほんの一瞬の、街ですれ違っただけの日常のワンシーンに過ぎない

 

だけど、その短い光景だけでも伝わってきた。莫大な借金やいつ潰れるかも分からない廃校寸前の学校を二人だけで背負い込み、必死になっていた彼女たちが、あの白子の底抜けに明るい無邪気な愛らしさにどれほど救われ、今日を生きる力を貰っていたのかが、痛いほどによく分かったのだ

 

だからこそ、私は決意した

 

あんな風に懸命に命を輝かせる人たちと、私にとってかけがえのない大好きなアビドスという居場所を守るために戦いたいと――家族からの強い反対をすべて押し切ってでも、このアビドス高等学校へと入学することを決めたのだ

 

「……」

 

 

揺れる電車の中、ホシノは言葉を失ったようにただ沈黙を守っていた

 

ノノミは彼女の横顔をそっと見つめ、ゆっくりと口を開く

 

「……一目見ただけで、私には分かりましたよ。たとえ子犬と人間という、言葉も種族も違う生き物だったとしても……あの日、あの場所で確かにお互いを想い合っていた二人の心は、最初からずっと通じ合えていたんだって」

 

ノノミの言葉は、静まり返った車内にどこまでも穏やかに、けれど決して揺らがない強い芯を持って響き渡る

 

「先輩がこれまでずっと苦しんでこられたのは……そんな白子ちゃんの、先輩に向けられた純粋すぎるほどの優しさや最期の想いを……あの時のご自身の絶望のせいで、真っ直ぐに受け止めてあげられなかったからではないですか?」

 

ホシノは先ほど、ぽつりと呟いていた。死の間際、白子が最期に自分の顔を優しく舐めてくれたのだと

 

それは決して偶然の仕草などではない

 

激しい痛みに耐えながらも、目の前で泣きじゃくる大好きなホシノの顔を見た白子が、「もうそんなに悲しそうな顔をしないで」「お願いだから、いつものように笑ってよ」と、幼い命のすべてを振り絞って伝えようとしていた証に違いなかった

 

人間が大切な人を愛おしく想うのと同じように、白子だって、自分が心から大好きなホシノにはいつだって笑っていてほしかったのだ

 

そして――その心構えは、あのユメ生徒会長もまったく同じだったはずだ

 

白子が命を懸けてホシノに伝えようとした本当の気持ちに気づいていたからこそ、ユメ生徒会長はホシノにどうしても元気を取り戻してほしかった

 

だからこそ、自分の身体の限界などとうに超えていると知りながらも、諦めきれずに、あの荒野へと足を踏み出さざるを得なかったのだ

 

「……もしも、あんな風にすべてが壊れて失われてしまうって分かっていたなら……」

 

ホシノの手がぎゅっと固く握りしめられ、膝の上で震える

 

「私は……もっと二人に、自分の素直な気持ちを伝えておけばよかった。白子にはもっと美味しいものをたくさん食べさせてあげて、いっぱい撫でてあげて……ユメ先輩には、強がりなんて言わずに、もっと素直に甘えて……二人に向かって、大好きだったって……面と向かって伝えたら良かったんだ……っ」

 

溢れ出しそうになる後悔と情念に声を詰まらせるホシノの姿を、ノノミは温かな眼差しで包み込むように見つめ返した

 

「……急に大切な人が目の前からいなくなってしまうなんてこと、誰にも想像なんてできませんから。……先輩がご自身を責める必要なんて、どこにもないんですよ」

 

どれほど眩しく幸せな楽しい日々が続いたとしても、形あるものにはいつか必ず終わりが訪れる

 

それがお互いに笑い合い、温かな思い出とともに円満に幕を閉じるものになるのか……それとも、耐えがたいほどの深い悲しみと喪失感で溢れかえるような残酷な終わり方になってしまうのか

 

たとえどれほど優れた天才や奇跡を起こす者であっても、そんな未来の結末を事前に予知し、回避することなど不可能なのだから

 

…………

 

どこまでも果てしなく続く砂漠の熱気がゆらゆらとうねり、荒涼とした街の残骸を赤く染め上げていく

 

吹き抜ける乾いた風の真ん中で、シロコと真っ黒なホシノの二人の姿がひっそりと佇んでいた

 

静寂の中、シロコは一歩前に踏み出すと、静かに言葉を紡いだ

 

「あれは、ホシノ先輩のせいなんかじゃないよ」

 

電車の車内で交わされていた、ノノミとホシノの静かな対話

 

精神の深層で強く固く結びついていたシロコたちの耳にも、その会話のすべてが、確かに届いていた

 

白子という小さな命とホシノの間に結ばれていた、誰にも踏み込めないほどに深くかけがえのない絆。そして、あの日からホシノがたった一人でその胸の奥底に背負い続けてきた、あまりにも重すぎる十字架の存在を、シロコは知った

 

だからこそ、シロコは迷うことなく、目の前で打ちひしがれ、うつむくホシノの瞳を真っ直ぐに見つめ返して告げたのだった

 

「……頭では、分かっていても……そんな簡単に受け入れられるものじゃないよ……っ」

 

ホシノはシロコのあまりにも澄み切った、まっすぐすぎる眼差しから逃れるように、胸元を痛々しくかき抱き、わずかに身じろぎをして視線を足元の砂地へと逸らした

 

「それでも……先輩のせいなんかじゃない。絶対に」

 

シロコは一歩も引かず、はっきりとした、どこまでも力強い口調で言い切る

 

あの時、白子が命を落とすことになった元凶は、自分勝手な理不尽な憎悪に駆られ、ホシノを逆恨みして二人を巻き込んで暴走した者たちだ

 

結果として白子が自らの身を呈してホシノを庇い、その幼い命を散らすことになったのは紛れもない事実だが、なぜその悲劇のすべてを、残されたホシノ一人の責任として背負わなければならないというのだろうか。

 

「……頭の片隅ではね、ずっと理解していたんだよ……。私がこんな風にいつまでも立ち止まって泣いていることなんて、白子も……ユメ先輩も、絶対に望んでなんかいないって……。だけど……私はあの時、すべての選択を間違えた。ヒナちゃんにあんなにはっきりと警告されていたはずなのに……自分一人で全部どうにかできるなんて慢心して、思い上がっていたんだ……」

 

自分は最初から最後まで、何ひとつ守れず、何もかもを間違え続けてきたのだと、ホシノは自嘲気味に、枯れた声を絞り出した

 

だが――もし、ホシノのこれまでのすべての選択が「過ち」だったのだとしたら

 

もし、彼女の生きてきた道のりそのものがただの「間違い」だったのだとしたら、あの砂漠で記憶を失った状況で、誰にも知られることなくたった一人で寂しく朽ち果てていくはずだった自分はどうなるというのだろう

 

あの時、ホシノが私に、温かい手を差し伸べて拾い上げてくれなければ――みんなで食卓を囲んで笑い合いながら温かいご飯を食べることの幸せも、誰かに大切に想われ、守られているということがこれほどまでに胸を温かくしてくれるものだということも、自分は一生知ることはできなかったはずだ

 

「……先輩がいなかったら、私はあの日死んでいた」

 

シロコは一度大きく胸を膨らませて深く息を吸い込み、乱れる呼吸を静かに整える

 

そして、溢れ出そうになる涙で潤んだ瞳のまま、揺るぎない強い決意を秘めた眼差しでホシノの顔をじっと見つめた

 

「先輩が、私に家族の温かさを教えてくれた。みんなと一緒にテーブルを囲んで食べるご飯が、どれほど美味しいものなのかを教えてくれたんだから……」

 

「……っ……シロコちゃんのことはね……どこかあの白子と雰囲気が似ていて……ただただ、放っておけなかっただけだよ……。それに……もしあの時、ユメ先輩がそこにいたなら……絶対に『シロコちゃんを私達の家族としてアビドスに迎えよう』って、真っ先に言い出したはずだからさ……。……私の考えなんかじゃ、ないんだよ……」

 

ホシノが自虐的に目を細め、どこか諦めたような乾いた笑いを漏らす

 

「ん。それなら……私はあの二人にも、心から感謝しないといけないね。だって、白子は私の……大切な『妹』になるんだから」

 

「……え……?」

 

思いがけないシロコの言葉に、ホシノはハッとしたように小さく目を見開いた

 

「だから、これからはユメ先輩と一緒に……私に白子の思い出話を、たくさん聞いてよ、ホシノ先輩」

 

ユメがいてくれたからこそ、ホシノは生徒会に入り、アビドスという大切な学校の未来を守りたいと心から願うことができた

 

そして、白子という小さな命が寄り添ってくれたからこそ、孤独に冷え切っていたホシノの凍てついた心がじんわりと溶かされ、もう一度誰かに優しく手を差し伸べようと立ち上がる勇気をもらうことができたのだ

 

あの日々を生きたあの二人は、自分にとって――ホシノと同じ、かけがえのない大切な命の恩人に他ならなかったのだから

 

……………

 

午後の柔らかな光が、埃の積もった窓ガラスを通して斜めに差し込む、いつもの見慣れたアビドス対策委員会の教室

 

窓枠から舞い落ちる細かなチリが、オレンジ色の陽光の中でキラキラと漂っている。荒れ狂う嵐の後のような不自然なほどの静寂が室内を満たし、どこか懐かしく、そして寂しげな空気が漂う部屋の中に、静かに二人の姿が佇んでいた

 

対策委員会の書記としていつもこの部屋を守ってきたアヤネと――全身を黒く禍々しいテラーの影に蝕まれたまま、力なく佇むホシノだ

 

「私は結局……白子のことも、ユメ先輩のことも……守りたい人たちのために何一つ、本当の意味で力になれていなかったのかな……」

 

ホシノは引きずるような重い足取りでトボトボと歩み寄ると、毎日のように定位置として腰掛けていた、背もたれの軋む古びた木製の椅子に力なく腰を下ろした

 

その全身を重く覆っていた煤けた漆黒の影が、まるで静かな祈りに洗われるかのように、ほんの僅かだけ薄らぎを見せている

 

しかし、その影の隙間から覗く瞳は、痛々しいほどに色を失い、寂しげな眼差しでまっすぐにアヤネの顔を見上げていた

 

「……本当はね、もっと守ってあげたかったんだ。もっと傍にいて、たくさんの笑顔を見せてあげたかった。なのに……私の慢心のせいで……私の代わりに爆発に巻き込まれて……白子はこれから、もっと楽しいことがたくさん起きるはずだった明日を、すべて奪われてしまった。……全部、私が未熟で、余計な事件を引き起こしてしまったせいなのに」

 

「ホシノ先輩……」

 

アヤネの胸が、締め付けられるように激しく痛んだ。ホシノの手元を見れば、爪が掌に食い込むほど固く握りしめられている

 

「……ユメ先輩だってそうだよ。もしあのまま無事にこの学校を卒業できたとしても……そのあと、新しくやってくる可愛い後輩たちの顔を見るのを、あんなに……あんなに嬉しそうに楽しみにしていたのに……。『後輩が入ってきたら、まずお茶を出してあげようね』って、笑いながら話していたのに……。そんな後輩たちと一緒に、小さな規模でもいいから、いつかまた『砂まつり』をもう一度開くっていう夢すらも……私は全部、自分の手で奪ってしまったんだ……っ」

 

ぽつり、ぽつりと零れ落ちるホシノの吐露は、長年蓄積された刃となって彼女自身の心を削り削り、血を流させている。

 

「ホシノ先輩っ……!!」

 

アヤネは胸の奥でずっと燻り、痛んでいた感情をもうこれ以上抑え込むことができなくなり、堪えきれずに声を大きく張り上げた

 

「私は……ノノミ先輩やシロコ先輩ほど、先輩と一緒に長く時間を過ごしてきたわけではありません……!」

 

胸に手を当て、呼吸を乱しながら、アヤネは必死に言葉を繋ぐ

 

このアビドス高等学校に入学してから、まだ一年の月日すら経っていない

 

私は対策委員会の新参者だ

 

そんな自分が、過去の途方もない喪失と痛みを抱え続けてきたホシノに対して、一体どんな言葉をかけてあげられるというのだろう

 

ユメ生徒会長のことも、あの「白子」という小さな子犬のことも、自分はつい最近になって先輩たちの口から断片的に聞かされたばかりだ

 

正直なところ、当時のリアルな質感や痛みをそっくりそのまま体験として理解できているわけではないのかもしれない

 

だけど――これだけは

 

どれだけ時が流れようとも、アヤネの胸の中で決して揺らぐことのない、絶対の真実として確かに輝いていた

 

「先輩が……先輩がこれまで必死に、誰よりも傷つきながら生きてきたからこそ……! 白子ちゃんも、そしてユメ生徒会長も、心から貴方のことが大好きになったんです! このアビドスという学校を救いたいって……そして何より、その大好きなお二人を守りたいっていう先輩のまっすぐで温かい気持ちが、ちゃんとお二人の心に届いていたからこそ……お二人にとっても、先輩は世界で一番かけがえのない、大切な存在になったんじゃないですか……っ!」

 

「……っ」

 

アヤネの喉を詰まらせながらの必死の訴え

 

その一語一語に含まれた情熱に打たれ、ホシノは息を呑み、静かに唇を噛み締めて俯いた

 

言葉を返すことすらできず、ただ呼吸を乱している

 

「……だから、もうこれ以上……そんな風にご自分のことばかりを責め続けて、痛めつけないであげてください…… 先輩が自分を傷つけるたびに……お二人が残してくれた想いまで、傷ついてしまうみたいで……私、悲しいです……っ」

 

あんなにもお互いを愛し、命を懸けて守ろうとしたホシノ先輩自身のことを、ほかならぬホシノ先輩自身のその手でこれ以上痛めつけ、絶望へと追いやる姿など――自分たち対策委員会の仲間は、もう二度と見たくなかったのだ

 

静寂が再び戻りかけた室内に、アヤネの小さく鼻を鳴らす音だけが響く

 

「……そういえばね」

 

ふと、ホシノがどこか遠い過去を懐かしむような、少しだけ照れくさそうで気まずそうな声を漏らした

 

「え……?」

 

涙を拭いながらアヤネが顔を上げると、ホシノは窓の外の橙色に染まる空を見つめていた

 

「……私とヒナちゃんが、ずっと昔から喧嘩していたこと……気がついてくれていたんだよね? 私たちがまたちゃんと向き合って、昔みたいに仲直りできるようにって……みんなでこっそり話し合って、色々調べてくれていたんでしょう……?」

 

「っ……!」

 

アヤネは僅かに息を呑み、固まった

 

初めてゲヘナの風紀委員長であるヒナの姿を見た時から、アヤネ達は直感していた

 

ホシノとヒナの間には、一筋縄ではいかない深い因縁と、言葉には出さない複雑な感情の交錯があるのだと

 

そうでなければ、あの風紀委員長が、自発的に他学園の、それもなんの恩恵も返せなさそうなアビドスにリスクを冒してまで手を貸すはずがないからだ

 

あのエデン条約の最中、先生が狙撃されて倒れ、その現場にヒナが居合わせたという衝撃的な報せが届いた時のことを、アヤネは今でもはっきりと覚えている

 

ホシノはいつもの飄々とした態度を崩さず、激しい動揺を必死に押し殺そうとしていた。けれど、誰よりも真っ先に先生の身を案じ、そして同時に――現場で心を砕かれたであろうヒナ自身の深い傷を、誰よりも恐れ、心配していたのだ

 

『おじさんはヒナちゃんとは別に、な〜んにも関係ない関係だからね〜?』

 

そう言って、彼女は対策委員会のメンバーの前で無理に口角を上げ、いつものおどけたあくび混じりの笑顔を作ってみせていた

 

だけど、その瞳の奥に渦巻いていた焦燥と、破裂しそうなほどの痛切な心配の色は、アヤネたちの目を誤魔化しきれるものではなかったのだ

 

そしてその後、ヒナが無事に戦線へ復帰したと聞いた時、誰よりも深く、安堵の息を漏らしていたのもホシノだった

 

だからこそ、アヤネたちは影で協力し合い、二人の間に過去何があったのか、どうしてすれ違ってしまったのかを必死に調べ上げ、どうにかして二人が再び笑い合える和解の糸口を見つけ出せないかと奔走していたのだ

 

「あの時はさ……意地を張っていたし、自分の弱さを見せるのが怖くて、その場ですんなり『ありがとう』なんて言えなかったけれど……」

 

ホシノは少しだけ目を細め、どこか憑き物が落ちたような、柔らかい眼差しでアヤネを見つめ返した

 

「……本当はね。すごく、すごく……嬉しかったんだよ、アヤネちゃん」

 

夕暮れの光が二人を優しく包み込む。アヤネの胸の奥に、深く冷え切っていた痛みを溶かすような、温かく澄んだ灯火がそっと灯る瞬間だった

 

……………

 

薄暗く、冷たい静寂が澱のように沈殿するホシノの私室

 

かつては日当たりの良いポカポカとした日差しが差し込み、彼女がベットで気ままにあくびを噛み殺していたその使い慣れた部屋の真ん中に、セリカと、未だ黒い禍々しいテラーの影を纏ったホシノがぽつんと立っていた

 

部屋の隅に置かれた見慣れたクッションや散らばった小物が、どこか遠い過去の遺物のように感じられる

 

重苦しい沈黙が二人を包み込み、ホシノの影から漏れ出る冷気が部屋の温度をジワジワと下げていた

 

「……あーもう! 本当にイライラする! こういう気の利いた慰めとか、私ホントに苦手なのよ……!! いつまでもそんな陰気で情けない顔してないでさ、さっさといつもの馬鹿で図々しい先輩に戻りなさいよ!」

 

セリカは両手で自分の頭をガシガシと激しくかきむしり、自身の気まずさと照れ隠しをすべて吹き飛ばすかのように、部屋の空気を震わせる大声を張り上げた

 

「私はアヤネちゃんみたいに頭が良くないし、シロコ先輩やノノミ先輩のように自分の思っていることを上手に綺麗な言葉で飾って相手に伝える力なんて持ってないわよ! だからさ、回りくどい言い方はナシ! 私が今思ったままを、ハッキリ言わせてもらうからね!」

 

どれだけ自分の言葉を投げかけても、ホシノは何も言い返さず、ただ煤けた床の一点を見つめたまま固まっている

 

そんなホシノの頼りない肩の揺れに対し、セリカはドカドカと強い足音を立ててさらに一歩、逃げ場を塞ぐように距離を詰めた

 

「白子っていう子犬のことも、ユメ生徒会長って人のことも……正直に言えば、私自身は直接会ったこともないし、その人たちのことを何一つ知らないわよ! だけどね……私とアヤネちゃんがこのアビドス高等学校に入学したいって、ここで頑張っていこうって心から決意できたのは、間違いなくあんたのお陰なんだからね!」

 

「……私、の……?」

 

その予想だにしなかった叫びに弾かれたように、ホシノがゆっくりと、おそるおそる顔を上げた

 

影の隙間から覗くその瞳は、驚きと戸惑いに大きく揺れている

 

「そうよ! 元々、私たちがこの学校に来ること自体は自分で決めたことだけど……それでも心のどこかでは、やっぱりすごく不安で怖かったのよ! こんな何もない、砂に埋もれた借金まみれの潰れかけの学校に入ってさ……たった2人の新入生が入ったところで、私たちが一体どれだけのことができるっていうのよ、って……」

 

胸の内に重く冷たく溜まっていた当時の不安

 

自分たちがどれだけ血の滲むような努力をしたところで、この広大な砂漠と途方もない借金の前には無力なのではないか

 

そんな恐怖とモヤモヤした葛藤で、当時のセリカの心は張り裂けそうだったのだ

 

だからこそ――入学を間近に控えたあの日

 

焦りと不安に苛まれていたセリカは、駅近くの薄暗い路地裏で、胡散臭い笑みを浮かべた悪徳商法のお守り売りにあっさりと捕まってしまい、あろうことか藁にもすがる思いで手を出してしまった

 

まぁ、最終的には自分のその少しお人好しで騙されやすい性格が災いしただけなのだが、結果として怪しい詐欺グループに周囲をぐるりと取り囲まれ、巻き込んでしまったアヤネと一緒に絶体絶命のピンチに陥っていた

 

『いいから黙ってお金を置いていけ!』

 

不気味に迫る影。恐怖で足がすくみ、息が詰まったまさにその瞬間――

 

どこからともなくヒョイと軽やかな足取りで現れたホシノが、心底面倒くさそうに大きなあくびを噛み殺しながら、たった一人で数十人もの大男たちをあっという間に、瞬く間に叩きのめして制圧して見せたのだ

 

『さてと……。そこの可愛いお二人さん、怪我はなかった? びっくりさせちゃってごめんね』

 

セリカはあの日の光景を、一瞬たりとも忘れたことはなかった

 

「あの時の……あんたの頼もしくて、強くて、でもどこか不器用で温かい背中があったからこそ……今の私達がこうしてアビドスで笑っていられるのよ! だからさ……その……早く元に戻りなさいよ! またみんなで柴関ラーメンに行って、ラーメンでも食べに行くんだから! ……えっと、それから……! もしあんたが元に戻ってくれるなら……私とアヤネちゃんで、アイドルでもなんでも、あんたの頼みならいくらでもやってあげるからさ!!」

 

勢いに任せて叫びきった瞬間、セリカは自分の言った言葉の意味を遅れて理解した

 

自分でも耳を疑うような、あまりにも情けなくて支離滅裂な誓いを口走っていることに気づき、セリカの顔が一気に沸騰したかのように真っ赤に染まっていく

 

一体なぜ、突如としてアヤネと二人でアイドルになるなどという突拍子もない、意味不明な発想が口から飛び出したのか、本人ですら全く説明がつかなかった

 

「っ……!? い、今のは例え話っていうか、勢いっていうか……っ!!」

 

部屋の中に、数秒の静寂が流れる

 

「……うへへ」

 

ふっと、ホシノの全身を重く覆っていたあの不気味で禍々しいテラーの影が、嘘だったかのようにスッと薄くなり、光の中へ溶けて消えていった

 

影の晴れたその顔には、どこか気恥ずかしそうに、けれど溢れ出す愛おしさを隠しきれないといった様子で、柔らかく温かな笑みが浮かんでいた

 

「セリカちゃんは……本当に、相変わらず可愛いねぇ」

 

「なっ……! な、何言ってるのよあんたは……っ!? か、からかってるのね! 完全に面白がってるわね?!」

 

セリカは茹で上がったタコのように真っ赤になった自分の顔を両手で必死に覆い隠すと、タジタジと後ろへ大きく飛び下がりながら、上ずった声を弾ませて叫んだのだった

 

……………

 

どこまでもどこまでも高く、抜けるような茜色と藍色が交じり合う青空が広がるアビドス高等学校の屋上

 

吹き抜ける乾燥した風のなか、どこか遠い日の記憶のように懐かしく、そして少しだけ胸を締め付けるような切なさを帯びた淡い電子の光に包まれるようにして、ヒナと、そしてまだ1年生だったあの頃の小柄な姿をしたホシノが、うっすらとした影のなかにぽつんと佇んでいた

 

屋上の手すりは錆びつき、足元のコンクリートには幾重もの亀裂が入っている。あの日々からずっと変わらない荒涼とした風景の中で、1年生のホシノは、小さく肩を丸めていた

 

「……ヒナちゃんは私のことを、『強い人』だなんて言ってくれたけど……本当の私は、そんなに強い人間なんかじゃないんだよ」

 

ホシノはうつむいたまま、自分の小さな両手をじっと見つめて絞り出すように呟く

 

煤けて冷え切ったその指先を見つめる声音には、あまりにも長くたった一人で背負い続けてきた途方もない孤独と、心の奥底で澱のように沈殿していた拭えぬ恐怖が痛いほどに滲んでいた

 

「……本当はね、知っていたんだ。シロコちゃんたちが私のために……私とヒナちゃんの間を取り持って、昔みたいに仲直りできるようにってさ、陰で一生懸命いろんな作戦を考えてくれていたの……ちゃんと分かってたんだよ」

 

小さな胸が、浅く苦しげに上下する

 

「でもね……私は、ヒナちゃんに謝ったところで拒絶されるのが……本当の私の醜さを知られるのが怖くて怖くてたまらなくて……素直に『ごめんね』の一言すら言うことができなかった。……自分から酷いことを言っておいて、逃げてばかりだった」

 

ホシノはさらに視線を落とし、砂埃の舞う足元を見つめながら、震える声を繋いだ

 

「……ヒナちゃんだけじゃないんだよ。私は……シロコちゃんにも、ノノミちゃんにも、アヤネちゃんにも、セリカちゃんにも……本当の気持ちを話して素直に頭を下げることができなかった。……だからね、私は……ヒナちゃんが思ってくれているような、誇り高くて強い人間なんかじゃないんだよ。ただの、惨めで、情けない……ちっぽけで臆病な子供なんだ」

 

自嘲と後悔に打ちひしがれるホシノの言葉。しかし――

 

「――ううん、違うわ」

 

ヒナはホシノの自分を傷つけるような言葉を、澄んだ、しかし一切の揺らぎのない声で真っ向から否定した

 

「……貴方は、強いわ。誰が何と言おうと、間違いなく」

 

確かに、あの時――シロコや先生に背中を押され、自分はホシノに対して謝罪を口にすることができた

 

けれどそれは、シロコや先生という、温かく心強い仲間たちがすぐ隣で支え、背中を強く押してくれたからこそ成し得た奇跡に過ぎなかったのだ

 

だけど、ヒナには分かっていた

 

ホシノはあの日、誰に背中を押されることもなく、誰にも頼ることを許さず、自分自身の内側から激しく渦巻く絶望と死線のような恐怖をたった一人で乗り越えて、自らの足で再び立ち上がろうとしていたのだと

 

かつて、ほんのわずかで短い時間だけでも、同じ目標に向かって背中を預け合い、同じ空気を共有したあの日々。その後は互いの忙しさで、モモトークでの素っ気ないやり取りだけで繋がっていた時期もあった

 

それでもヒナは知っていた

 

ユメという太陽のような存在や、あの「白子」という幼い命が、ホシノにとってどれほどかけがえのない、彼女の世界のすべてとも言えるほど大切な宝物だったのかを

 

そんな、己の人生と魂のすべてを引き裂かれるようなあまりにも痛ましい喪失を、彼女は同時に、たった一度の人生の中で二度も経験してしまったのだ

 

ヒナ自身も、ほんの少し前のあのエデン条約の中で、もしかしたら大切な先生を、そしてアコやイオリたち大切な風紀委員会の仲間たちを永遠に失ってしまうかもしれないという激しい恐怖に、心の底から打ちのめされ、膝を折った

 

結果として、奇跡的な幸運と先生の尽力も手伝って、重い傷こそ負ったものの、先生もアコもイオリもチナツも、みんな無事に生還し、こうして今も自分の傍で変わらない温かい笑顔を向けてくれている

 

「失うかもしれない」という、ただそれだけの想像上の恐怖と絶望に直面しただけで、自分は「風紀委員長」という立場をすべて投げ出してしまいたいと本気で思うほど、心が簡単に粉々に折れかけてしまったというのに

 

ホシノは「かもしれない」などという仮定の次元ではなく、実際にそのすべてを、己の目の前で、その腕の中で、本当に奪われ失ってしまったのだ

 

そんな筆舌に尽くしがたい地獄のような絶望の淵から、胸を血で染めながらも、それでもなお再び立ち上がることのできたその凄絶な強さは――ヒナにとって、自分がどれだけ苦血を舐め、足掻いても決して手に入れることのできない、眩しすぎるほどの真の強さに他ならなかった

 

「あなたは、本当によく頑張ったわ。……たとえどれほど身体が傷だらけになろうとも、どれほど心が擦り切れようとも……大切な人たちの残した居場所を守るために、もう一度自分の足で立ち上がろうとした。……それだけの事実だけで、貴方は十分すぎるほどに強い人間よ」

 

「……そんなの、結局は強がって見せているだけだよ。へらへら笑って、おじさんぶって……本当は、中身なんて泥みたいにボロボロのままなのにさ」

 

「私はね、その『強がり』すらも最後まで貫き通せずに、一時は風紀委員長としての職務も、守るべき人たちも、すべてを投げ出そうとしたわ。……貴方よりもずっと、弱くて意気地なしだったのは私の方よ」

 

「……ヒナちゃん」

 

「でも、もういいのよ。……たった一人で何もかもを背負い込み、抱え込むのは、もう今日でおしまいにしなさい」

 

ヒナは静かに足を踏み出すと、影の中で動けずに立ち尽くしている1年生のホシノの真ん前まで歩み寄り、その冷たく凍えていた両手を、しっかりと温かい自分の両手で包み込んだ

 

「一人で何もかも耐え抜かなくてもいいの……。貴方には今、心から胸を張って自慢できる、最高の仲間と後輩たちがいるじゃない?」

 

先ほどまで繰り広げられていた、息を呑むような激しい戦場の記憶が脳裏を駆け巡る

 

私は負傷していた身体のせいで、前衛として満足なサポートをすることができなかった

 

それでもヒナがあの戦場に堂々と立ち、最後まで折れずに引き金を引き続けることができたのは、「ホシノにもう二度と大切なものを失わせたくない」と強く強く願い、その小さくも偉大な背中を見つめて必死に追いつこうと成長してきた、頼もしすぎるホシノの後輩たちがそこにいたからにほかならない

 

「貴方の後ろを支える後輩たちはね……うちのイオリやチナツ達にだって負けないくらい、とても強く、そして優しく育っているわ。……特に、あの砂狼シロコの強さと覚悟といったら、目を見張るほど見事なものだったわね」

 

「……うん。本当に……すっごく痛かったよ……」

 

ホシノは愛おしそうに、先ほど上空からシロコの強烈なカカト落としがクリーンヒットし、今もジーンと痺れと熱が残る自身の頭を、自分の手でそっと優しく撫でてみせた

 

ノノミの放った重機関銃の激しい掃射、そしてクロコが異空間から繰り出した同等以上の破壊的な火力

 

あれほどの猛攻を文字通り身に浴びせてもなお、完全覚醒状態となったテラーのホシノにはわずかな擦り傷しかつけることができなかったというのに――シロコの一撃は、その絶対的とも言える硬質なオーラの防御を内側から粉々に粉砕し、一瞬でその暴走する行動を強制停止させるほどの、凄まじい威力を叩き出したのだ

 

たとえホシノの全身から放たれる禍々しい引力がその落下軌道を吸い寄せたのだとしても、あの絶妙なタイミングと、自身のすべてを乗せた爆発的な遠心力を生み出した蹴りの重さは、生半可な覚悟で出せるものでは絶対になかったのだから

 

「……そんな頼もしい後輩たちが、いまの貴方の後ろにはちゃんとついているもの。だから……貴方も、そして私も……これからはもう少しだけ、意地を張らずに周囲の人を頼ることを覚えた方がいいかもしれないわね」

 

ヒナは少し気恥ずかしそうに視線を泳がせながら、穏やかで柔らかなトーンで語りかけた

 

「そうだね……。これからは、私も後輩たちやヒナちゃんを、少しは見習わないといけないみたいだねぇ」

 

ホシノは照れ隠しのようにへらりと力を抜いた笑みを浮かべた

 

そんな彼女の様子を、ヒナは愛おしむような、それでいてどこか誇らしげな眼差しで見つめ直す

 

「……それに、私にも……これからは何でも相談していいわよ。一人で抱え込んで消えてしまうくらいなら、私を呼び出しなさい。……私も、どうしても一人で抱えきれなくなったら……貴方に相談するから」

 

言い終えた瞬間、普段の凛とした冷徹な「風紀委員長」としての態度からはとても想像もつかないほど、ヒナの白い頬が一気に林檎のように真っ赤に染まった

 

ヒナは恥ずかしさを誤魔化すように、ポツリポツリと小さな声で言葉を紡ぎ終えると、そっぽを向いてしまう

 

その様子を目の当たりにしたホシノは、思わず目を丸く見開いた

 

「……なによ、その目は。……なにか変なことでも言ったかしら」

 

ヒナはムスッと不機嫌そうに小さな頬をぷくっと膨らませ、抗議するように上目遣いでホシノを睨みつけてくる。だが、その瞳には何の刺も含まれてはいなかった

 

ホシノは胸の奥から込み上げてくる温かい愛おしさを堪えきれず、くすくすと小さく喉を鳴らして声を漏らして笑った

 

「ううん、なんでもないよ。……たださ、ヒナちゃんがそんな風に言ってくれるなんて、夢にも思わなかったからさ。……改めて……あの時は、ヒナちゃんに酷いことを言ってごめんね。ずっとずっと、言えなくてごめん」

 

 

「……私も、あの時は頭に血が上って感情的になってごめんなさい。……でも、もう絶対に、貴方を1人にさせたりしないわ」

 

繋ぎ合わされたお互いの手に、ホシノの側からもぎゅっと、二度と離さないと言わんばかりに強い力が込められた

 

凍てついていた体温が、手と手を介してじんわりと浸透し、互いの胸を温めていく

 

「……それにしても、その1年生の姿でそんな緩みきった顔をされて、平然と『ヒナちゃん』なんて呼ばれると……なんだかすごく変な感じで鳥肌が立っちゃうわね。元の格好に戻ったらどうなの?」

 

ヒナは眉をひそめ、どこか照れくさそうに吐き捨てた

 

「うへぇ……それってどういう意味かなー? ヒナちゃんにそんな冷たいこと言われたら、おじさんまた傷ついて悲しくなって、砂漠のどっか遠くへ行っちゃおうかな〜?」

 

「……怒るわよ?」

 

「冗談だって〜、怒らないでよ〜、ね? ヒナお姉ちゃん?」

 

「誰がお姉ちゃんよ……! まったく、本当にどこまでも調子の狂う人ね……」

 

ヒナは呆れ返ったように大きな溜息をついたが、その口元には隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた

 

かつて二人の間に横たわっていた冷たく重い葛藤やりすれ違いは、風が吹き抜ける中で綺麗に消え去り、どこまでも澄み渡るアビドスの青空の下、屋上にはかつてのような穏やかで優しい時間が、二人を温かく包み込むようにゆっくりと戻ってきたのだった

 

…………

 

風さえも立ち止まり、一切の音が途絶えたかのごとき漆黒の夜空が広がる、果てしない荒野の静寂

 

照りつける日中の酷暑が嘘のように冷え込む砂漠の真ん中に、クロコと、凄絶な激闘を経て禍々しいテラーの影を削ぎ落とし、ほとんど元の姿を取り戻したホシノが並んで腰を下ろしていた

 

頭上に広がるのは、息を呑むほどに濃密な満天の星々。砂粒の一つひとつが夜気を含んで微かに光を反射する中、二人はただ静かに、幾千年の孤独を湛えた夜空を見上げていた

 

「……ホシノ先輩。もう、自分のことを許してあげて」

 

静寂を破ったのは、クロコの搾り出すような小さな呟きだった

 

星屑の煌めきを映すその瞳には、果てしない後悔と、自分と同じように終わらない悲しみの牢獄に囚われ続ける先輩に対する、切なる願いが込められていた

 

ホシノはゆっくりと首を巡らせ、いつもの変わらない、どこか困ったような優しい笑みをクロコに向けた。そこにはもう、狂気に狂い暴走していた頃の禍々しい影も、漆黒の欠片も微塵も残されてはいない

 

「クロ……今は二人きりなんだし、シロコちゃんって呼んだ方がいいよね」

 

「……ん。ホシノ先輩がそう呼びやすいなら、どっちでもいいよ」

 

クロコは視線を落とし、小さく答えた。

 

――本当は。本当は、「シロコ」と呼んでほしかった

 

かつて一緒に過ごしたあの日々のように、ただ一人の愛しい後輩として、その唇から自分の名前を紡いでほしかった

 

けれど、クロコの冷えた理性が痛いほど理解していた。目の前にいるこの人は、自分が心から愛し、そして失ってしまった「あの」ホシノ先輩ではないのだ

 

自分にマフラーを巻き直してくれた人

 

狭いアパートで一緒に暮らし、温かいスープの湯気を挟んで食卓を囲んでくれた人

 

どんなに辛い時も、その大きな背中で自分を守り続けてくれた、あの温かいホシノとは違う歴史を歩んできた、違う世界の人間なのだ。

 

頭では、痛いほど解っている。それでも、目の前にある寸分違わぬ先輩の温もりに甘えて、つい我儘な期待を抱いてしまう自分がいた

 

「ううん。シロコちゃんは、シロコちゃんだよ。どの世界にいたって、どんな運命を辿ったって……君は私の可愛い後輩ちゃんに変わりないんだから」

 

「ん……」

 

ホシノはそう言って、細い腕を伸ばすとクロコの銀髪にそっと手を乗せ、愛おしそうに撫でた。頭頂部から伝わる手のひらの温度、優しく円を描く指先の不器用な愛撫――それは、クロコが記憶の奥底に大切に締め出していた「あの人」の温もりと、何一つ変わらないものだった

 

「……シロコちゃんはさ。本当は白子の事も……ユメ先輩の事も、最初から全部知ってたんでしょう?」

 

撫でていた手をゆっくりと離し、ホシノは再び深く澄み渡る虚空の星々へ視線を戻した

 

瞳が、果てしない記憶の底、沈殿した過去の傷痕を覗き込むように揺れている

 

「……ん」

 

クロコは静かに、小さく頷いた

 

あの嵐のような混戦の中、テラーの闇に呑まれかけていたホシノの周囲で響いていた声

 

ノノミの叫びも、ヒナの悲痛な訴えも、そしてこの世界のアビドスの仲間たちが紡いだすべての言葉が、ホシノの意識の深層にも届いていた

 

ホシノはテラーとしての深い闇の中を彷徨い、意識を濁らせながらも、自分を救おうとする後輩たちの必死の想いや、自分自身が背負うはずだった未来の悲劇を、確かに聞き取っていたのだ

 

「……私のいた世界の先輩は、最後まで何も教えてくれなかった。私は……ただの命を落とした白子の代わりとして拾われただけなんだって……そう思い込んで、傷ついて、苦しんで……。それでも、アヤネやノノミたちのお陰で、いなくなった先輩を追いかけることができた。でも……その時にはもう……先輩は……『反転』してしまっていて……」

 

吐き出す言葉の一つひとつが、クロコの胸を鋭く切り裂く

 

あの時の絶望は、言葉で表現することなど不可能なほど凄絶なものだった。大好きで、世界のすべてだった先輩に見放されたという衝撃

 

それでも、先輩がかつて命を懸けて守ろうとしたアビドスと生徒会長の遺志を繋ぐためだけに、クロコは泥をすすり、血を流しながら戦い続けた

 

それなのに

 

「……私は結局、何も知らなさすぎた」

 

「……」

 

すべてが終わり、取り返しのつかない灰燼と化してから、初めて本当の真実を知ったのだ

 

あの小さな子犬・白子がどんな想いでホシノの傍に寄り添い、その命を賭して彼女を守ったのか。そして自分たちが、懸命にホシノを助け出そうと奔走していたまさにその土壇場で、ユメ生徒会長がどれほど孤独に命を落としてしまったのかを

 

「……でも、こうして先輩の本当の気持ちを知ることができて、本当によかった。……怖かったんだ、ずっと。本当は、私は白子という子犬の代わりとして、寂しさを埋めるためだけに育てられたんじゃないかって。本当の『砂狼シロコ』という人間なんて、最初から誰も見てくれていなかったんじゃないかって……」

 

そんなはずはないと、頭では理解していた。けれど、その拭えぬ不安を完全に打ち消してくれるはずの「答え」を知る者は、クロコの世界にはもう誰一人として残っていなかった

 

だからこそ、そのどろどろとした暗い孤独は、毒のようにクロコの心を蝕み続けていたのだ

 

「……先輩が、私の頼みを聞いて、模擬戦をしてくれたでしょう? ……あの瞬間、私は心の底から嬉しかったんだよ。先輩が、代用品としてではなく、一人の対等な存在として本気で私と向き合い、全身全霊でぶつかってきてくれたんだって……そう実感できたから」

 

あの時、クロコは勝つために、なりふり構わずズルをした

 

それでもホシノ先輩は、そのズルすらも正面から受け止め、一切の手加減なしに全力で自分を倒してくれた

 

あの砂煙の中で味わった敗北の痛みは、これまでの人生で掴み取ってきたどんな勝利の瞬間よりも、あたたかく、誇らしかった

 

「……先輩はもう十分に苦しんだよ。これ以上、自分自身を責めないで。どうか……自分を許してあげて」

 

これ以上、こんなにも優しく、不器用な先輩が、「自分の至らなさのせいで白子の命を奪ってしまった」と、生涯自分自身を呪い続ける姿など、見ていられるはずがなかった

 

「一人で、その重すぎる苦しみのすべてを背負おうとなんてしないで……」

 

己の罪だからといって、あらゆる苦痛と罰をたった一人で抱え込むこと。それは結局、置いていかれた者の心を、より深く、永遠に逃れられない鎖で縛り付けることに他ならないのだから

 

ホシノは夜空からゆっくりと視線を落とし、静かにクロコの腰元や背中に眼差しを向けた。

 

「……シロコちゃんはさ。私たちが使っていたあの武器……全部、大切に持っているよね?」

 

「……っ」

 

「戦っている最中にしか見なかったから、無闇に触れないようにしていたけれど……どれも傷だらけで、ボロボロだった。……でも、シロコちゃんが、すごく丁寧に手入れをしてくれているのが分かったよ。そこから……君の深い愛情が、痛いほど伝わってきた」

 

「……」

 

クロコが肌身離さず、命と同義として持ち歩いている、潰れた世界の仲間たちの遺品

 

ノノミが誇らしげに構えていたミニガン。セリカが毎日のように磨いていたアサルトライフル。ホシノが幾千の銃弾を受け止めてきた傷だらけの盾とショットガン。アヤネが眉をひそめながら構えていた小さなハンドガン

 

それらはすべて、クロコにとってかけがえのない仲間たちが「そこに生きていた」という絶対の証であると同時に、彼女たちがもう二度と帰ってこないという凄惨な現実を、毎秒のように突きつけ続ける刃でもあった

 

目に入るだけで、脳裏に情景が溢れ出す

 

無茶をしてノノミに本気で怒られたあと、包み込むように抱きしめられた時の甘い香りと温もり

 

些細なことで顔を真っ赤にして叫んでいたセリカの甲高い声

 

膨大な書類整理に目を回しながらも、温かい茶を出してくれたアヤネの優しい笑顔

 

そして、ホシノと「もう二度とやりたくない」と言いながらも、次こそは勝つと意気込んだあの模擬戦の熱量。二人で食事を分け合った夜、ベッドで背中を合わせ、互いの息遣いを感じながら眠りについた記憶――それらが、まるで昨日のことのように鮮烈に呼び覚まされるのだ

 

武器を磨くたび、辛さがこみ上げ、絶望に押し潰されて涙が止まらなくなる夜が幾度あったか分からない

 

それでも、クロコは手入れを怠ることはなかった

 

仲間たちの生きた証が、時の経過とともに惨めに錆びつき、朽ち果てていくのを黙って見過ごすことなど、死んでもできなかったからだ

 

どれほど心が引き裂かれようとも、みんなの無念と遺品を背負って生き抜くこと――それだけが、一人だけ生き残ってしまった自分の「罪」であり、果たすべき「償い」だと信じて疑わなかった

 

ホシノは身体を完全にクロコのほうへと向け、その真っ直ぐで澄んだ瞳を覗き込んだ

 

「自分を許してしまうとね……白子の事まで、いつか綺麗に忘れてしまいそうで怖いんだよ。あの子がどんな風に甘えて鳴いていたのか……何が好きで、何が嫌いだったのか……。時が流れて、それを一つずつ失っていくのが……何よりも怖かった」

 

静かな声が、夜の砂漠に染み渡る

 

「『そっちの世界の』シロコちゃんの事は、私には本当のところは分からない。……だけどね。どの世界に生を受けたって、シロコちゃんはきっと、不器用で、誰よりも優しい子なんだよ。……だからさ、そのシロコちゃんが、自分と同じ過ちと苦しみを、私に繰り返して欲しくないって……心からそう願っているんじゃないかな?」

 

ホシノの温かい手が、再びクロコの頭にそっと触れた

 

頭頂部を包み込むその絶対的な優しさが、クロコの心臓を絞り上げるように締め付ける

 

「シロコちゃんはさ……みんなが遺していったその武器を……すべて捨て去る事ができる?」

 

「――っ!?」

 

クロコの身体が、激しく跳ね上がった

 

「これから先、どれだけ時が流れても……少しずつ薄れていく大切な記憶の中で……君はその思い出の品々を、手放して楽になることができるの?」

 

ホシノの静かで、しかし逃げ場を完全に塞ぐ核心を突いた問いかけに、クロコの喉が酷く引きつり、言葉が詰まった

 

この世界には、もう「彼女の仲間たち」は存在しない。新しい思い出を刻む相手は、どこを探しても一人もいないのだ

 

そんな絶望の中で、唯一残された命の欠片である思い出の品を捨ててしまったとしたら――それは、彼女たちの存在を自らの手で完全に消し去ることに他ならない。

 

「……分からない……っ」

 

クロコは震える唇を噛み締め、消え入りそうな声で絞り出すのが精一杯だった

 

その返答を聞き、クロコの頭を撫でていたホシノの手が、ピタリと動きを止めた

 

もし――もしも、彼女たちが今も生きていたとしたら

 

セリカも、アヤネも、ノノミも、そしてホシノも。誰一人として「死んでしまったのはお前のせいだ」などとクロコを責めるはずがないのだ

 

『お前が悪い』なんて言葉を、あの子たちが口にするはずがないことなど、誰よりもクロコ自身が理解している

 

それでも

 

「自分のせいだ」と無理に思い込み、苛烈な罪の烙印を己に刻みつけなければ、あまりの喪失感に心が粉々に砕け散り、存在を維持することすらできなかったのだから

 

こうして前を向き始めた今でさえ、この重すぎる思い出と罪の鎖を抱えていなければ、自分という人間がどこへ弾け飛んでしまうのか、怖くてたまらない

 

「……私に、出来るのかな……」

 

ホシノ先輩に向かっては、迷いなく「自分を許してあげて」と言えたのに。いざ自分自身のこととなると、どうしても、どう足掻いても許すことができない

 

「この罪から……悲しみから……苦しみから……私達は、抜け出す事が出来るのかな……」

 

それはきっと――死んでしまった大切な人たちを、この手で再び生き返らせるのと同じくらい、途方もなく、絶望的なまでに難しいことのように思えた

 

♢

 

意識の底――あるいは、時間の概念さえも喪失した永遠の深淵

 

ホシノは一人、重力から解き放たれたかのように、一切の底も天井も存在しない無重力の漆黒をただ漂っていた

 

そこには風のそよぎもなく、砂粒の擦れる音も、星のささやきすらない

ただひたすらに、密度の高い冷たい虚無が、彼女の華奢な全身を重く、静かに包み込んでいた。かつてアビドスを覆っていた絶望の砂嵐すら届かない、あらゆる存在の終着点のような場所

 

「……先生……?」

 

ホシノの唇から、擦れた小さな吐息が漏れ出た

 

ここには自分ひとりしか存在しないはずだった。誰も手を差し伸べることはできず、自分の鼓動さえも遥か遠くの異世界で鳴っているかのような、完全なる孤立無縁の領域

 

それなのに、かすかに残された彼女の意識は、吸い寄せられるように、最も信頼し、最も身を委ねられる大人の名前を自然と手繰り寄せていた

 

「……ねえ、先生。私は……ユメ先輩が居なくなってしまったこの世界で……この先もずっと、一人で生きていけるのかな……」

 

暗闇の中で、ふと砂漠の夜空の下でクロコと交わした会話が、胸の奥で痛むように蘇る

 

そう――クロコが言っていた

 

この苦しい戦いの果て、どれだけ抗おうとも、ユメ先輩がこの世に戻ってくることはないのだと。

 

自分の命よりも大切だった、幼い子犬の白子。そして――眠りから目覚めた時に胸を張って、大好きなアビドスを守りきれたこと、そしてこんなにも賑やかで愛おしい後輩たちが新しく増えたのだと、飛び切りの笑顔で報告するはずだったユメ先輩

 

自分にとっての世界のすべてであり、生きる道標そのものだったその二人が、同時にこの世界のどこにもいなくなってしまった

 

そんな命の意味すら見失うほどの虚無の荒野で、自分は一体何を糧にし、何を支えにして、明日からの空気を吸い込めばいいというのだろう

 

「……それでも、生きていかなければならないんだよ。ホシノ」

 

漆黒の闇の底から、包み込むような穏やかで柔らかな声の響きが届いた

 

周囲を見渡しても姿はない

 

けれど、その声音は間違いなく、いつだって傷ついた生徒たちの前に立ち、その肩を抱き、立ち塞がる迷いを幾度となく解き明かしてくれた、あの温かな先生のものだった

 

「……どうして……? 何のために……? 私には、もう何にも残っていないのに……守るべき約束だって、全部破っちゃったのに……」

 

「それはね、残された者にしか果たすことのできない、たった一つの大切な役目だからだよ。この世界から失われてしまった人たちの生きた証を、その温もりを、決して消え去らせないように未来へ繋いでいくこと。それが……君がこれから生きていく理由になるはずだ」

 

先生の声は、凍りついた暗闇を優しく切り裂く一筋の光のように、ホシノの冷え切った心底へと深く、深く染み込んでいく

 

「……先生。教えてよ……。白子は……あの子は最後に、私になんて言いたかったんだろう……」

 

あの日、冷たくなっていく身体で最後に見せた白子の姿

 

言葉を持たないあの子が、いつもと変わらぬ仕草で、溢れんばかりの愛おしさを込めてホシノの頬を舐めてくれた、あの短い瞬間

 

「……私にも分からない」

 

「……え?」

 

「どんなに深く愛し合っていても、どれだけ長く一緒に過ごしていても……言葉を持たない存在の想いのすべてを、完璧に解釈することなんて誰にもできないのかもしれないね」

 

「……」

 

「でもね、ホシノ。心から愛していたからこそ……君はあの時、白子から確かに『何か』を感じ取っていたんじゃないかい?」

 

先生からの静かな問いかけを受け、ホシノはあの一瞬の感覚を、胸の奥底から手繰り寄せるように解きほぐしていく

 

言葉など存在しなかった。ただ、最後の命の火を振り絞るようにして甘えてきた、かすかな鼻鳴らしながら

 

けれど――あの時、ホシノの胸に届いたのは悲鳴でも怨嗟でもなく、あの子の瞳の奥に満ちていた『あなたが無事で、生き延びてくれて良かった』という、あまりにも無垢で純粋な安堵と幸福の温度だった

 

「……あの子は、そう言ってくれていた気がするの。言葉なんて何一つ分からないはずなのに……直感で、まるで心の中に直接届くみたいな、すっごく温かい声で……」

 

「本当に心が通じ合っていたのなら……君のその直感は、どんな言葉よりも正しいはずだよ。白子なら……ホシノにそう笑いかけてくれると、私も心から信じている」

 

絶望の底で凍りついていたホシノの感情が、先生の言葉によってじわりと解け、温かな涙となって溢れ出そうになる

 

「大切な者が残してくれた想いを信じて、今日を、明日を生きていく……それが、残された者にしか選ぶことのできない、唯一の道なのかもしれないね」

 

その言葉が紡がれた瞬間――どこまでもどこまでも続いていた底なしの暗闇が、まるでガラスの薄氷が割れるように、きらきらと光の粒となって音を立てて崩れ去っていった

 

辺り一面を埋め尽くすのは、直視することすら叶わないほどの、まばゆく圧倒的な救いの光

 

「……っ、光……?」

 

それが現実の朝日なのか、それともアビドスで紡いできた愛おしい記憶の光なのか

 

ホシノは反射的に、その溢れ出す光の眩しさから身を守るようにして、細い両腕で顔を力いっぱい覆ったのだった

 

白一色に染まりゆく意識の淵で、ホシノは途切れそうな息とともに小さく呟く

 

「っ……、うぅ……、ここは……どこ……?」

 

溢れ出す眩しすぎる光に耐えかねて目を細めていたホシノだったが、重い瞼をゆっくりと、強引に押し開いた

 

徐々に焦点が結ばれていく視界の中で、胸を打つような見覚えのある情景が広がり始める

 

一面が砂に沈んだ荒野の地平線から、澄み切った黄金色の朝日が静かに昇り始めていた

 

太陽はその顔をまだ半分ほどしか覗かせておらず、まるでこの奇跡のような時間を永遠に引き留めようとするかのように、空の途中で優しく輝きを留めている。温かく柔らかな光の粒子が、世界すべての隙間を埋め尽くすように降り注いでいる

 

そこは――アビドス高等学校の屋上だった

 

錆びついたフェンス、風になびく砂埃、古びたコンクリートの感触。かつては眩しいほどの活気に満ちていたはずのこの場所は、白子が命を落とし、ユメが目覚めぬ昏睡状態に落ち入ってから、あまりにも二人の思い出が詰まりすぎていた

 

ホシノにとっては、一歩足を踏み入れることすら胸が張り裂けそうになる、耐え難い拒絶の場所に変わってしまっていたのだ

 

だからこそ、あの日々の苦しみの中で、ホシノは白子の小さな仏壇を整えた部屋へと、屋上に残されていたすべての訓練用具をたった一人で片付け、引き払ったはずだった

 

それなのに

 

まるで、ついさっきまでそこで誰かが息を弾ませて訓練に汗を流していたかのように――あの手作りのハードルや、タイヤ、使い古された装備が、今も現役で使われているかのごとく整然と並べられていた

 

「……これ、は……」

 

幻影なのか、それとも死の縁が見せる儚い夢なのか

 

激しく動揺する心と、微かに震える足取りで、ホシノはその記憶の道具たちへと吸い寄せられるように近づいていく

 

道具の列のちょうど中心、朝日が最も温かく照らすその場所に――白子と一緒に走って、何度も投げては遊んだ、あの子のお気に入りのフリスビーが大切そうに置かれていた

 

ホシノは息を呑み、震える手を伸ばしてそれをそっと拾い上げてみる

 

本来ならひんやりと冷え込んでいるはずの早朝の空気の中で、そのフリスビーの表面は、まるで『ほんの先ほどまで』誰かが熱心に遊んでいたかのように、驚くほどの確かな体温と温もりを帯びていた

 

「久しぶりだね、ホシノちゃん」

 

「――ッ!!!」

 

背後から、頭上から降り注ぐ朝日のように温かく、聞き覚えのある声が聞こえた

 

二度と聞くことは叶わないと、心の底で諦めかけていた、あの透き通るような明るい響き

 

いつものホシノであれば、気配もなく背後に立たれた瞬間に警戒態勢を取り、反射的に銃を構えて振り返っていただろう

 

だが、今のホシノは違った

 

その声の主が誰であるのかを、魂の深層で理解した瞬間、胸の奥で鼓動が激しく早鐘を打ち鳴らし、全身が金縛りにでも遭ったかのようにピクリとも動かせなくなったのだ

 

「と言ってもね……私の方は、ホシノちゃんが毎日欠かさずお見舞いに来てくれて、たくさん話しかけてくれたお陰で、ぜーんぶちゃんと聞こえていたんだけどね」

 

ユメが倒れて病室へと運び込まれてから、過ぎ去った二年の歳月

 

どれほど多忙を極めていても、どれほど心が折れそうになっても、ホシノは毎日欠かさず彼女の静まり返った病室へと足を運んだ

 

今にも「ホシノちゃん!」と笑って目を覚ましてくれそうなのに、決して動くことのないユメ

 

ずっと、ずっとその声を聞きたかった

 

すぐ隣にいるはずなのに、その距離は永遠に縮まらないのだと、胸を締め付けられる思いで諦めかけていた

 

そんな、決して叶うはずのなかった奇跡のような願いが、今この瞬間に音を立てて現実に変わる

 

ホシノは、見えない何かに手繰り寄せられるように、ゆっくりと、恐る恐る、一歩ずつその場を振り返った

 

「ユメ……先輩……?」

 

「うん、おはよう。ホシノちゃん」

 

そこに立っていたのは――ホシノの記憶の中に大切にしまい込んでいた写真や思い出の中と少しも変わらない、あの眩しいほどの温かな笑顔で、いつものように無邪気に、愛おしそうに微笑むユメの姿だった

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