白子とシロコ   作:気弱

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ユメ先輩の手のひら、私の居場所

「ノノミ、セリカ! 右腕の方へ火力を集中させて!」

 

 

「任せてください、先生!」

 

 

「任せなさいっての! 」

 

先生の鋭い指揮と同時に、セリカとノノミが示し合わせたように荒野を駆け、一直線にセトの憤怒の右腕へ向けて銃火を叩き込む

 

ノノミのミニガンから解き放たれる重厚な弾の雨と、セリカのライフルから吐き出される連射が、巨神の堅牢極まる複合装甲を激しく削り取り、バチバチと橙色の火花を夜空のごとく散らす

 

「ヒナは反対の左手をお願い! 重圧を分散させたい!」

 

「分かったわ」

 

ヒナがノノミたちとは反対側の巨神の左腕へ向け、冷徹に狙いを定める

 

つい先ほどまで死線をさまよう重傷を負い、満足に動くことすらままならなかったはずの彼女だが、ゲヘナ最強の風紀委員長たる圧倒的な威厳か、あるいは無事に戻ってきたホシノの存在が彼女の肉体に火をつけたのか――暗雲を切り裂くように放たれた銃弾は、先ほどまでとは一線を画す異次元の貫通力で着弾し、セトの憤怒の関節部を激しく破壊していった

 

「アロナ、プラナ……! 私たちも、限界の先までいくよ!」

 

先生が力強く胸の内に呼びかけ、懐から不気味なほどの輝きを放つ『大人のカード』を取り出す

 

そのカードが網膜を焼き切るほどの眩い光を解き放った瞬間、歪んだ空間の狭間から、幾重もの黒い影のようなシルエットが次々と実体化を果たした

 

「ん……あれって、便利屋68のアル……?」

 

シロコが瞳を限界まで見開き、不思議そうに首を傾げる

 

立ち昇る黒煙と光の粒子の中にたたずむ影は漆黒に染まっているが、独特のコートのなびかせ方や銃の構え方は、見間違えようのない彼女たちそのものだった

 

「い、いえ……アルさんだけではありません! 風紀委員のアコさんに、イオリさんまでいます!」

 

アヤネの驚愕に満ちた声の通り、そこに召喚されたのは対策委員会やヒナが深い絆で結ばれている、心強い仲間たちの姿だった

 

「今の私なら……10人までの同時指揮なら何とか維持できる。みんなと深い縁があって、この絶望的な戦況を確実に打開できるメンバーを呼ばせてもらったよ。まあ、本物の彼女たちではなく、記憶と絆のデータから構築した一時的な『影』だけどね」

 

「なるほど……先生の秘蔵の切り札、ということですね」

 

アヤネが胸を撫で下ろし、深く納得したように頷く

 

「本当ならもっとたくさんの生徒を呼びたかったけれど……今の私のキャパシティだと、この10人を維持するのがギリギリでね……」

 

「いえ、十分すぎます! これ以上ないほど頼もしい援軍ですよ、先生!」

 

「ありがとう、アヤネ。……よし。アコ、イオリ、アル。みんな頼むよ!」

 

先生の言葉に応じるように、影となった3人は無言のまま力強く頷くと、洗練された流れるような動作でそれぞれの持ち場へと散っていく

 

「アコさん、よろしくお願いします……! 支援射撃とオペレーションのライン、繋ぎます!」

 

オペレーション用ドローンで戦場全体の分析と支援を続けるアヤネの元にはアコが寄り添い、彼女の卓越した指揮能力が加わることで、味方全体へのバックアップの精度が格段に跳ね上がる

 

「……イオリ?」

 

ヒナのすぐ隣へ、漆黒の煙を纏ったイオリの影が滑り込むように並び立つ

 

ヒナは一瞬、紫の瞳を僅かに見開いたが、すぐにこれが本人ではなく先生の召喚した影だと見抜き、その意図を察した

 

ヒナはそれ以上何も言わず、ただ眼前に聳えるセトの憤怒へと冷徹な視線を戻す

 

イオリの影もまた余計な言葉を発することなく、鋭い眼光で狙撃銃を構え、ヒナの側面を完璧にカバーする間切れのない隙のない射撃を開始した

 

「シロコ、クロコ! 今だ、2人は正面のコアを狙って!」

 

「ん、任せて……いくよ、シロコ」

 

「分かった……合わせる」

 

左右の腕を徹底的に叩かれ、巨神の注意が完全に両側へと削がれた絶好の瞬間

 

がら空きになった正面のコアに対し、ふたりのシロコが呼吸を完全に一致させて突撃し、至近距離から同時に苛烈な銃火を浴びせる

 

激しい核の火花と衝撃に、セトの憤怒が地響きのような不快な低い唸り声をあげ、嵐のごとき青白く太い雷撃を放射状に放出して一斉攻撃を強引に阻止しようと暴れ始めた

 

「ホシノ! 防壁は頼んだよ!」

 

「はいはい、了解~! おじさんに任せて!」

 

雷撃が放たれる数秒の刹那、ホシノが誰よりも速く、風を切って最前線へ飛び出した

 

愛用の盾を力任せに高く掲げ、踏み込んだ足腰の力で地表へ深く深く突き立てる

 

凄まじい踏み込みの衝撃波と摩擦で周囲の黄砂が舞い上がり、迫り来る極大の電撃を盾の背面へと完全に受け流し、霧散させてみせた

 

「今だ! アル、コアを撃ち抜いて!」

 

先生の絶叫と共に、少し離れた瓦礫の頂点から、アルの影がスナイパーライフルを片手で大胆に構え、容赦なく引き金を引く

 

彼女らしいどこか背伸びをした見栄え重視の姿勢でありながらも、放たれた一弾は完璧な必殺の軌道を描き、セトの憤怒の頭部にある中枢コアをピンポイントで過ちなく貫いた

 

『―――!?!?』

 

「うわっ……!?」

 

コアを完全に破壊されたセトの憤怒は、断末魔のような激しい落雷と咆哮を周囲撒き散らし、制御を失ってその巨体を大きく揺らぎ始める

 

次の悪あがきの攻撃が来る――誰もがそう身構えて武器を強く握りしめた次の瞬間、巨神の頭部から徐々に眩い光の粒子が溢れ出し、その鉄の巨躯が砂のように崩壊を始めた

 

「……か、勝ったの……? 本当に……?」

 

セリカが息を呑み、ゆっくりと銃口を下げながら、光となって消えていく巨神の残骸を見上げて呆然と呟く

 

「ん……セリカ、そういうの、フラグになる」

 

「ふ、フラグなんて作るわけないでしょ!? というより、そのツッコミこそフラグじゃないのよっ!?」

 

シロコが半目でジト目を向けると、セリカが即座に言い返す

 

アヤネたちは、そんなシロコたちのいつものやり取りに一瞬冷や汗をかきつつも、目の前の大いなる脅威が完全に消滅していく様を、ただ固唾をのんで静かに見守っていた

 

「……消えた、ね」

 

完全に破壊されたセトの憤怒の残骸が眩い光の粒子となって空気中に溶け去り、周囲に凄まじく渦巻いていた恐ろしい帯電や高電圧の不快な音も、潮が引くようにすっと霧消していく

 

あれほど荒れ狂っていた死の暴風が嘘のように収まり、ようやく漆黒の闇に包まれていたアビドスの荒涼とした荒野に、穏やかで静かな夜の静寂が戻ってきた

 

先生は安堵の息をはぁっと深く吐き出し、膝に手をついたまま力なく口を開いた

 

「よ、良かった……本当に、みんな無事で……」

 

「はぁ……はぁ……、本当……よかったです……っ!」

 

アヤネは極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れたように、その場にへたり込んで砂の上に座り込んだ

 

他の対策委員会の面々も、死線を幾度も潜り抜けた極限状態からの解放感と激しい疲労、そして何より――ホシノが無事に戻ってきてくれたという胸いっぱいの安心感から、次々とその場に倒れ込むようにしてペタンと座り込んでいく

 

「……ん。セリカが変なフラグを立てるから、もう一回続きがあるかと本気で身構えた」

 

「ちょっとシロコ先輩! 私を勝手に戦犯みたいに扱わないでよ! フラグフラグ言ってたシロコ先輩だって同罪じゃないの!?」

 

「……あんな激しい戦いの直後なのに、元気過ぎるね」

 

冷たい砂の上にへたり込んだまま、いつもの調子で軽口を叩き合うセリカとシロコ

 

そのすぐ横では、クロコがゆっくりと黒い衣装についた砂埃を細い手で払って立ち上がりながら、呆れたような、しかしどこか胸の奥が熱くなるような優しいため息を吐いていた。

 

「あ……アルさんたちの影が、少しずつ消えていきます……」

 

アヤネが慌てたように声を上げる

 

見れば、先生の『大人のカード』の奇跡によって召喚されていた影の生徒たちが、自らの与えられた役目をすべて完璧に果たし終えたように、淡い光の粒子となってフワフワと夜空へ溶けるように消えていくところだった

 

「みんな……それぞれの役目を完璧以上に果たしてくれたからね。はーぁ、それにしても……心臓がいくつあっても足りないくらいの、本当に命懸けの死闘だったよ……。みんな、本当にお疲れ様……!」

 

「ふふっ、先生もお疲れ様でした。私たちを最後まで諦めずに導いてくれて、本当によく頑張りましたね♪」

 

影が綺麗に消え去った場所へ向けて、アヤネがフラフラと頼りない足取りで立ち上がりながら、感謝を込めて丁寧にお辞儀をする

 

その隣では、ノノミが柔らかな優しい笑みを湛えながら、地面に直接座り込んで荒い息を整える先生の元へと軽やかに駆け寄り、膝をついて労うように微笑みかけた

 

「ヒナちゃん、怪我のほうは大丈夫……? 結構無茶させてごめんね」

 

「……これくらい、大したことないわ。私を心配する暇があるなら、自分の心配をしなさい」

 

満身創痍で崩れ落ちるように座り込んでいたヒナの目の前に、ホシノがスッと歩み寄り、小さな手から握り拳を解いて力強く差し出す

 

ヒナは一瞬驚いたように紫の瞳を揺らし、少し恥ずかしそうにぷいと顔を背けるが、その細く冷えた手がホシノの温もりを逃がさないようしっかりと掴んだのを、ホシノは見逃さなかった

 

ホシノがその小さな体いっぱいに力を込め、ヒナを引っ張り上げようとした、まさにその瞬間――

 

「っ!?」

 

ホシノ耳に、チリチリ……と空気を焦がすような、聞き覚えのある微弱な高周波の振動が飛び込んできた

 

まさか……セトの憤怒のコアがまだ完全に消滅しきっていなくて、また別の形態で現れる気ではないだろうか――

 

瞬時に最悪の可能性が頭をよぎり、思わずヒナの手を握ったまま鋭い戦闘の構えを取りかけたホシノの背筋に、冷や汗とともに激しい緊張が走る

 

しかし、直後

 

「―……綺麗……」

 

ノノミの口から、驚嘆と温かな癒やしが深く混ざり合った、無意識の声が漏れ出した

 

その感嘆の囁きは、すっかり静まり返った荒涼たる砂漠の夜空へと、どこまでも澄み渡るように響き渡っていった

 

「え……?」

 

ホシノたちが思わず驚いて顔を上げると、先ほどまで巨大なセトの憤怒が鎮座していた周囲の空間全体に、無数の淡く美しい桃色と金色の光の粒子が、まるで夜の森を舞う蛍の群れのように、ふわふわと幻想的に浮かび上がり始めていたのだ

 

それはまるで、漆黒の夜空に向かって吸い込まれていく無数の大輪の花火のように、次々と途切れることなく天へと舞い上がり、荒廃した暗闇の天蓋を色鮮やかに、そして抱きしめるように優しく照らし出していく

 

月明かりと光の粒子に照らされたアビドスの広大な砂漠は、まるで誰も見たことがないおとぎ話のファンタジーの世界にでも迷い込んだかのような、圧倒的で神秘的な光景へと、静かに変貌を遂げていくのだった

 

「……もしかして……空気中のプラズマや何らかの刺激が加わることで、発光しながらプラズマを発生させる特殊な鉱石の反応かしら……? でも、超高価で……希少なはずよ」

 

ヒナが、ホシノにしっかりと肩を支えられながらも、その言葉を振り絞るようにして、幻想的に瞬く広大な夜空を見上げて呟いた

 

その「鉱石」という一言が引き金となり、ホシノの脳裏の深層で、忘れかけていた記憶の導火線が激しくスパークする

 

どこかで聞いたことがある

 

このあまりにも特徴的な、奇跡のような鉱石の成り立ちについて。私は一体……いつ、どこで誰から耳にしたんだっけ……?

 

ホシノの脳がフル回転を開始し、砂に埋もれた過去の記憶の引き出しを荒々しく、貪るように引っ叩いて開けていく

 

漆黒の夜空にどこまでも美しく打ち上がる、幻想的なプラズマの粒子。そして、市場に流出すれば国家の予算すら動かしかねない、誰にも真似できない法外なまでの希少価値を誇る夢の鉱石――

 

『それでね、そのお祭りの時に、夜空に打ち上げる特別な特大花火の原料として、当時の生徒会が国費を信じられないくらいドカンとはたいて、大量に溜め込んだ希少な鉱石があるの! その名も――『プラズマ鉱石』!』

 

『うん! 正式な名称はわたしもよく分からなくて、ちょっと格好いいから私が名付けたんだけど……とにかく、凄まじい熱量とエネルギーを秘めた、ものすごーく希少な鉱石みたいなの! 当時の生徒会はそれを大きな目玉花火に使おうとしたんだけど、結局、当時の技術じゃエネルギーを制御できなくて大失敗しちゃって……。これ以上街に被害が出たら危ないからってことで、まとめて一箇所に深く埋めたのが、まさにこのバツマークの場所らしいの』

 

(――っ!!)

 

そうだ。思い出した

 

あれは、幼い白子が砂漠で拾われてから数日が経った頃。三人で意気揚々と砂漠へ「宝探し」の大冒険に出かけた時、ユメ先輩が目をキラキラと少年のように輝かせながら教えてくれた、鉱石の名前だ

 

そして、あの時ユメ先輩がドヤ顔で広げた古びた羊皮紙風の宝の地図――そこに不器用な赤インクで大きなバツ印が記されていた場所は

 

まさに、今自分たちがボロボロになりながら立っている、この足元そのものではないか

 

「ヒナちゃん……! その鉱石って、ほかにどんな特徴があるの!? 教えて、詳しく!」

 

ホシノが普段の緩い雰囲気を完全に削ぎ落とし、興奮気味に身を乗り出して問い質す

 

その背後では、「超高価」「希少」「億単位」という不穏で魅力的なワードに野生の勘を鋭く反応させたシロコとセリカが、示し合わせたように顔を見合わせるや否や、「早く掘らないと消えちゃう……!」「そうよ、手遅れになったらどうするのよ!」と、すでに砂の上に四つん這いになって素手で必死に砂漠を掻き出し始めていた

 

「……私だって、実物や現物を直接見たことは一度もないわよ。ただ……巨大なエネルギーに反応してプラズマが発生することと、その原石は見た目がまるで最高級の宝石のように、色とりどりの鮮やかな光を内側から放つって……そう記録されていたわ」

 

ヒナのその確信に満ちた説明を聞いた瞬間、ホシノはハッと息を呑み、血相を変えて自分の制服の胸ポケットへと勢いよく手を突っ込んだ

 

「ホシノ先輩……? 急にポケットなんてゴソゴソして、どうしたんですか?」

 

「ん、ホシノ先輩。急がないと、消えちゃうよ」

 

「そうよ! もしかしたらアビドスの借金が一発で吹き飛ぶレベルの億単位のお宝かもしれないんだからね! 一粒だって逃せないわ!」

 

アヤネやセリカたちが怪訝そうに、あるいは強欲な目を輝かせながら覗き込んでくるのを完全に無視して、ホシノは途端に震え出した指先で、ポケットの最深部から「それ」を慎重に取り出した

 

それは、先ほど別れを告げた、ユメから確かに託された、あの温かな布の塊だった

 

ユメの手作りのお守り

 

今まさに、その古びた布地と不器用な刺繍の隙間から、周囲の空間に充満するセトの憤怒のプラズマ残光に強く共鳴するように、薄く、しかし息を呑むほど鮮烈で気高き光が溢れ出し始めていた

 

「それ……いったい、何なんですか? 何か光ってますけど……」

 

アヤネが小さな首を傾げながら、眼鏡の奥の目を丸くして、興味津々にホシノの手元へと顔を近づける

 

「なんだか……お世辞にも上手とは言えないけど、すごく手作り感があって可愛い犬の刺繍がしてあるわね……」

 

セリカもまた、ホシノが普段は絶対に持ち歩かないような、温かみあふれる私物のお守りに目を奪われ、アヤネの隣にぴったりと寄り添うようにして覗き込んだ

 

「……ホシノ。それって……当時のユメ生徒会長が手縫いで作った、あのお守りよね」

 

「えっ!? お、お守りなんですか!?」

 

ヒナの静かな呟きに対し、セリカやアヤネの素直な驚きの声が、静寂を取り戻した夜の砂漠に大きくこだまする

 

そのお守りの存在自体は、ホシノの話で耳にしたことはあったが、ホシノがそれを実際に他の対策委員会のメンバーの前でポケットから取り出したのは、これが初めてのことだった

 

唯一、そのお守りを知っていたヒナだけが、なぜ今、この過酷な戦いが終わった直後の状況でそれを取り出したのかと、不可解そうに小さな眉をひそめている

 

「……これ」

 

ホシノは、壊れものを扱うかのように震える両手で、お守りの小さな結び目を慎重にほどいた。そして、その布地の奥深くに大切に包まれていた「小さな宝物」を、集まったみんなの目の前にそっと晒した

 

カァッ……と、夜の暗闇を優しく押し返すような光が広がった

 

そこにあったのは、周囲に漂うプラズマの残光に美しく呼応し、まるで自発的な意思を持って脈動しているかのように眩く、そして気高く透き通る、深遠なエメラルドグリーンの輝きを放つ一粒の美しい石だった

 

思い返せば、あの懐かしい日――白子が幼い足で砂の中から偶然掘り出し、「白子がユメ先輩と私のどちらにプレゼントしたかったのか」で、ユメ先輩と自分が子供じみたくだらない大喧嘩になりかけた、あの愛おしい思い出の石

 

あの時、自分たちの喧嘩を察した白子は、分かっていたのかただ褒められたかっただけなのか、砂を再び掘り返して、もうひとつのサクラピンクの綺麗な石を見つけてきてくれたのだ

 

結局、そのエメラルドグリーンの石はホシノの手へ、もう一つのサクラピンクの石はユメ先輩の手へと渡り、ユメ先輩が「三人の絆のお守りだからね」と不器用な手つきで布に縫い込んで大切にしてくれていたもの

 

一つは、ユメ先輩の病院のベッドサイドに遺され、そしてもう一つは……ホシノが今日という日に至るまで、冷たい暗闇の中でも片時も離さず、ずっと大切に胸ポケットに抱きしめ持ち歩き続けていたものだった

 

その石が放つ言葉を失うほどの圧倒的な気高さと美しさに、シロコやノノミたちはただただ息を呑み、魅了されたように見入っていたが――

 

ヒナだけは、目の前の石が発する波長と輝きから、その鉱石の「真の正体」を一瞬で理解し、文字通り紫の瞳を限界まで見開いて、言葉を失ったまま完全に絶句していた

 

「それ……今、この現象を引き起こしている、あの奇跡の『鉱石』そのものよ」

 

「ええっ……嘘でしょ!? それって本当なの!?」

 

ヒナの口から淡々と告げられた信じがたい真実に、驚愕のあまり声を裏返したセリカをはじめ、シロコやノノミ、アヤネの対策委員会の面々は当然のこと、少し離れた瓦礫の陰で荒い息を吐きながら一息ついていた先生、そして静かに果てしない夜空を見上げていたクロコまでもが、一斉に目を見開き、息を呑んだ

 

「やっぱり……そうだったんだね」

 

ホシノは、自身の小さな手のひらの上で幻想的な桃色とエメラルドグリーンの光を放つその一粒の石を、慈しむようにじっと見つめた

 

まさかあの時、汗だくになりながらツルハシを振り回したあの大冒険で、結局「お目当ての古代の財宝なんて、どこにもないじゃないですか」と呆れて肩を落として帰ったあの日――

 

白子が砂漠の砂を何気なく無邪気に掻き出したあの場所で、こんなにも信じられない奇跡の欠片を掘り当てていたなんて、当時のホシノには知る由もなかったのだ

 

それはまるで、ユメとホシノの不器用な未来を静かに見守るかのように、最初から二人のためだけに優しく隠されていた、世界で一番温かい宝物だった

 

「っ……!」

 

その時、ホシノの手のひらの上で静かに、けれど力強く脈打っていたプラズマ鉱石が、突如としてパチパチと愛らしい小さな電磁音を立てた

 

周囲の空中に満ち溢れる無数の光の粒子と激しく共鳴し、眩い微弱な電気のスパークが手のひらの上でまるでダンスを踊るように可愛らしく弾ける

 

普通なら皮膚を焼き焦がすはずのプラズマ放電であるにもかかわらず、ホシノには不思議と熱さも痛みの感覚も一切なかった

 

それはまるで、凍えそうな冷たい冬の朝にそっと手渡された手作りのカイロのように、ホシノの傷ついた手のひらを、そして長年冷たさに晒され続けていた心根の奥底までを、どこまでも優しく包み込んで温めてくれるかのようだった。

 

「ほ、ホシノ先輩……! い、石が……崩れて……消えていきます……!」

 

アヤネが息を呑み、信じられないものを見る目でホシノの手元を指差した

 

その言葉通り、プラズマ鉱石から発せられていた鮮やかなエメラルドグリーンの光彩が、少しずつ、まるで朝霧が優しい陽の光に溶けていくかのように淡くなっていき、物質そのものが極小の光の粒子となって空中へと静かに霧散していく

 

大切な宝物

 

白子が見つけ出し、ユメ先輩が世界に一つだけの刺繍を施して作ってくれた、三人の決して消えない思い出の証

 

それが目の前から永遠に失われようとしているというのに、不思議とホシノの胸の中にあったのは、焦りや悲しみではなかった

 

胸をそっと締め付けるような切なさは確実にあるものの、なぜか驚くほどに心は凪いだ海のように穏やかだった

 

それはまるで、長きにわたる旅の役目をすべて全うした旅人が、ようやく自分の愛する居場所へと満足げに帰っていくような、そんな優しくあたたかな別れの感覚に似ていた

 

「……まるで、すべての役目を綺麗に果たし終えたみたいな……そんな優しい光ね」

 

ホシノの代わりに、ヒナがぽつりと、掠れた静かな声で呟いた

 

「……そういえば、今日は――8月16日、じゃなかったかしら」

 

「え……?」

 

「お盆の時期よ。この世を去った大切な魂たちが、ほんの数日だけ家族や愛する人たちのもとへ里帰りを果たして……そしてまた、元ある場所へ還っていく日……」

 

ヒナの言葉を聞いた瞬間、ホシノの脳裏に電撃が走ったようにハッと目が覚めた

 

ハイランダー鉄道学園がアビドスへ強引に介入してきてからというもの、私募ファンドの策動やネフティスの買収騒動、カイザーローンの理不尽な陰謀、そしてスオウの暗躍と、次から次へと容赦なく押し寄せる過酷な現実の連鎖で、カレンダーの数字すら意識から完全に抜け落ちていた

 

そう、今はまさに、お盆の季節

 

あの果てしない世界の向こうから、大切な人たちの魂が、この愛しい世界へと帰ってくる特別な時期だったのだ

 

「みんな、見て……日が、昇るよ」

 

シロコが静かに呟いた

 

地平線の向こう、果てしなく広がるアビドスの広大な砂漠の果てから、漆黒の闇をゆっくりと押し流すように、神々しいまでに鮮やかで力強い太陽の光が昇り始めていく

 

先ほどまで夜空を覆い尽くしていたプラズマの海は、まるでその昇ってくる朝日の輝きに導かれるように、静かに、そして確実に天へと溶けるように消えていく

 

まるで、役目を終えた愛おしい魂たちを、優しく天空へと迎えに来たかのような、あまりにも神秘的で美しい夜明けの光景だった

 

(……ユメ先輩)

 

ホシノは、手のひらの上でゆっくりと形を失っていくプラズマ鉱石の愛おしい残り香を、まるで愛しい人を抱きしめるかのように、そっと両手で包み込んだ

 

(……先輩の言う通りだったよ。まさか、こんなに近くに本物の宝物があったなんて、思いもしませんでしたが)

 

あの日、宝物なんてそうそう簡単に見つかるわけがないと、砂埃にまみれながらクタクタになって夕陽の中を歩いた帰り道

 

奇跡なんて都合よく起きやしないと、どこかで冷めて諦めていたあの頃の自分

 

それでも――今、この瞬間のホシノにははっきりと分かっていた

 

目の前にあるこの石の輝きも、あの時交わしたくだらない他愛のない会話も、そして、一人ぼっちになってから胸の内に抱え続けていた苦しみも楽しかった思い出のすべてが、何物にも代えがたい自分だけの「宝物」なのだと

 

あのお守りの中に、こんなにも貴重で、こんなにも温かい奇跡が眠っていたなんて、当時のホシノは夢にも思わなかったのだ

 

「ありがとう……白子。あの時、私にかけがえのない大切な思い出を残してくれて……本当に、ありがとうね」

 

ホシノの手のひらの上で淡く輝いていたプラズマ鉱石は、まるで最後の役目を悟ったかのように、指先でそっと触れるだけで解けてしまいそうなほどに小さく、儚く細分化されていく

 

その微小な光の粒が朝風に揺らぐたび、走馬灯のように、白子やユメと共に過ごした色鮮やかな日々がホシノの脳裏を激しく、そしてどこまでも優しく駆け巡っていった

 

初めて生徒会の古びた扉をくぐり、ユメが嬉しそうに抱えてきた、あの小さな銀色の毛並みの子犬

 

はじめのうちは、ただでさえ山積みの膨大な仕事と終わらない過酷な借金に追われているというのに、これ以上守るべきものを増やしたくはなく、野生の子は飼えないと、頑なに飼育を反対していたっけ

 

けれど、トコトコと幼い足音を立てて足元によりそい、自分を純粋な瞳で見上げてくる白子のあまりの愛らしさに、結局はその日のうちに根負けしてしまった

 

それからは、ユメと一緒に頭を悩ませながら、不器用なりに懸命にその小さな命の世話を焼き続けたものだった

 

名前を決める時の一幕も、今となっては胸が熱くなるほどに懐かしい

 

ユメが面白半分で提案した、『ミニホシノちゃん』というふざけた響きと、ホシノが自分でも単純すぎると照れながらぼそっと呟いた『白子』という名前

 

どちらがいいかと当の本人に選ばせた時、白子は迷うことなく、一目散にホシノの足元へ駆け寄ってきたのだった

 

あの時、自分の付けた名前を選んでくれた誇らしくも嬉しい気持ちは、昨日のことのように鮮明に覚えている

 

一日の終わり、ヘトヘトになって帰ってきた校舎の古い浴場。最初は使えなかった浴場を三人で掃除し、お湯を怖がることもなく、小さな体で一生懸命に可愛い犬かきを見せてくれたあの愛くるしい仕草

 

そして――自分がどんなに落ち込んでいても、どんなに一人になろうと心を閉ざしても、いつでも自分の帰りを健気に待ち続け、最後には死んでなお、悲しみに暮れる自分を救おうと、ずっとずっと側にいてくれたこと

 

(本当に……私は、間違いばかり侵してきた……)

 

思い返せば返すほど、己の不甲斐なさが胸を優しく刺す

 

容赦なく迫り来る途方もないアビドスの借金の重圧、日に日に過激さを増していくゴロツキたちの暴力、いつ心身の限界が訪れてもおかしくない絶望的な状況の連続

 

その張り詰めた糸が切れそうになるたび、ホシノを救い上げてくれたのは、他でもない白子の曇りのない純粋な瞳であり、時折見せる驚くほど賢く健やかな行動の数々だった

 

いつも孤独に怯えていた自分の心を温めてくれるように甘えてくれた。あれはきっと、間違いだらけで道を見失いかけていた自分を、正しい場所へ引き戻そうとしてくれていたのかもしれない

 

「……っ」

 

ホシノは、消えかけたプラズマ鉱石の温かな残り香を包み込むように、そっとその両手を大きく広げた

 

手のひらの上に残っていた最後の光の粒子が、夜明けの冷たい朝風にそっと乗せられ、まるで夜空へ還る美しき星屑のように、音もなく空の彼方へと舞い上がっていく

 

「ありがとう、白子……。どうか、ユメ先輩のことを……よろしくね」

 

もう、涙は一滴も溢れ出さなかった

 

心にあるのは、二人への深い感謝と、そして明日へ向かって歩み出すための確かな覚悟だけだった

 

自分には、まだこの現実の世界で果たさなければならない大切な約束がある

 

ユメと交わした誓い……そして、二人がこの砂漠で確かに生きていたというその美しい証を、今度はシロコや、かけがえのない大切な対策委員会の仲間たちへ、先生へ、しっかりと受け継いでいかなければならない

 

背中を押してくれた二人の温もりを胸に抱き、ホシノは力強く顔を上げた

 

昇りゆく雄大な太陽の光が、アビドスの広大な砂漠をどこまでも輝く黄金色に染め上げていくのだった

 

「わっ!? な、なにこれ……! さっきより明らかに昇っていく勢いが強くなってない!?」

 

ホシノのすぐ隣で、急激に眩しさを増した地表の光景に目を丸くしながら、セリカが甲高い悲鳴を上げて思わず飛び退いた

 

先ほどまでは、澄み渡る夜空を彩る星々の瞬きのように、どこか控えめで穏やかに舞い上がっていた無数の光の粒子

 

しかし、ここへ来てまるで海底のマグマが一気に爆発した間欠泉のごとく、凄まじい密度と圧倒的な勢いで地表から天へと一直線に駆け上っていく

 

「……なるほど。100グラムで1000万円の市場価値を持っているだけのことはあるわね」

 

「へっ……!?」

 

「ええっ……!?」

 

ヒナが何気なく呟いたあまりにも現実離れした相場数値に、ホシノ以外の面々が一斉に動きを完全に止め、目が飛び出さんばかりの驚愕の声を上げた

 

「2年前に見た時にその値段だったから……これだけのプラズマ反応とエネルギー純度なら、現在の市場価値に換算すれば10倍……いえ、それ以上になるんじゃないかしら?」

 

「ちょ、ちょっと待ってよ!? そんな国家予算レベルの莫大な宝が今、私たちの足元から消え去ろうとしてるってこと!? この連鎖反応、今すぐどうにかして止めないと全部消えちゃうわよ!?」

 

セリカは完全にパニックに陥ったように両手で頭を抱え、近くにいたアヤネに向かって必死の形相で「スコップ持ってないの!? なんで持ってないのよ!?」と詰め寄る

 

しかし、セトの憤怒との激しい急襲戦を想定した戦闘装備の中にそんな農具のようなものが用意されているはずもなく、アヤネは額からダラダラと冷や汗を流しながら「そ、そんな急に言われましても……!」と困り果てたように苦笑いを浮かべるしかなかった

 

「ねえ……この止まらないプラズマの連鎖反応、今からでも抑え込んだり止めたりはできないものなの?」

 

「流石に一度臨界を超えて連鎖を始めた高エネルギー鉱石の反応を、外部から物理的に止めるのは不可能ね」

 

その少し離れた場所では、シロコが真剣な面持ちでヒナに問いかけていた

 

その横でクロコは、昔シロコから譲り受けたあの思い出の「アビドス覆面」を取り出すと、地表の砂を急いで掻き出そうと本気で準備を始めていた

 

「シロコ……いくら何でも、私があげた大切な覆面に砂を詰め込むのはやめて」

 

 

「でも……一粒でも持って帰れば、アビドスの借金が一気に減る……シロコも手伝って」

 

「あーもー! 二人とも、お互いに『シロコ』『シロコ』って呼び合ってるから、聞いてるこっちまで頭がこんがらがりまくってくるじゃないのよっ!」

 

二人の噛み合わないやり取りにしびれを切らしたセリカが、両手をバタバタと激しく振振しながら憤慨の声をあげる

 

その慌ただしい様子を眺めながら、アヤネはクスリと小さく笑ってから、ポンと手を叩いて提案した

 

「ふふ、それでしたら……ホシノ先輩が普段お呼びになっているように、こちらの先輩を『クロコ先輩』とお呼びしましょうよ。そうすれば混乱せずに区別がつきますから」

 

「ん、アヤネたちがそう呼んでくれる分には構わないけど……でも、こっちのシロコにそんな風に呼ばれるのは、なんだかちょっと納得がいかない」

 

「……それなら、私はあ『デカシロコ』って呼ぶ」

 

「ん……それなら、そっちは『チビシロコ』」

 

「「………」」

 

一瞬にしてシロコとクロコの間に、バチバチと青い火花が散る

 

お互いに容赦のない冷徹な視線を至近距離でぶつけ合ったかと思うと、まったく同じ音もなく素早い動作で愛用の銃をスライドさせ、一触即発の殺気立った睨み合いの構えに入った

 

「ちょっと、なんでそこで急に同位体同士で殺し合いを始めるのよ!?」

 

「ふ、二人とも! 同じ自分同士で武器を向け合わないで落ち着いてくださいーっ!」

 

「あ、あはは……まあまあ、二人とも……」

 

「わぁ……本当に綺麗! まるでフィナーレですね♪」

 

「……本当に騒がしいわね、あなた達は」

 

突如として始まったシロコ同士の過激な小競り合いを目の当たりにし、セリカが頭を抱えて絶叫し、アヤネが冷や汗を流しながら慌てて二人の間に割って入って必死に制止しようとし、ノノミは二人の闘争などどこ吹く風で、最後まで美しく輝く夜空を見上げてうっとりとしていた

 

その賑やかな光景の端で、先生は困ったような、しかしどこか胸の奥が温かくなるような優しい笑みを浮かべてその場を見守っており、ヒナもまた、呆れたように深くため息をつきつつも、その小さな口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた

 

――相変わらず、賑やかで、やかましくて、愛おしい仲間たちだ

 

激動の死闘が嘘のように去った静かな荒野で、絶え間なく響く彼女たちの賑やかな言い争う声を聞きながら、ホシノは小さくふっと温かな息をついた

 

さっきまでの張り詰めた絶望の空気、すべてを失うかもしれないという暗闇の孤独、そしてユメ先輩や幼い白子と過ごした夢のような過去の時間

 

それらすべてが一気に胸を駆け巡り、今こうして目の前にある騒がしい日常の尊さを、これでもかというほど痛感させてくれる

 

あぁ、私は本当に、あの冷たく暗い闇の底から――みんながいる、温かな日常へと帰ってきたんだ

 

「まったく……せっかくのおじさんの感傷に浸る隙すらくれないんだから、うちの後輩ちゃんたちは本当に手がかかるよね~」

 

少しだけ誇らしげに、そして心の底から愛おしそうに呟きながら、ホシノは今日一番の深く、心地よい溜息をついた

 

けれど、その表情には先ほどまでの絶望や陰りは微塵もない

 

「うへ~♪」

 

見上げれば、アビドスの果てしない空には眩い黄金色の朝陽が完全に昇り切り、どこまでもどこまでも透き通るような青空が広がっていた

 

ホシノは愛用の盾を背中にしっかりと背負い直し、いつものように目尻を下げて、のんびりと柔らかく、陽だまりのように笑ってみせたのだった

 

 

「パヒャヒャ! アビドスのみんな、またねー!」

 

「次はもっと美味しいお菓子をしょもーする〜!」

 

戦いの激しい喧騒と胸を打つ感動が、まるで嘘のように晴れやかに通り過ぎたアビドスの広大な青空の下

 

事件の完全なる解決をその目で見届けたハイランダー鉄道学園の双子、ヒカリとノゾミの二人組が運転する車両から、甲高くも元気いっぱいの警笛と無邪気で楽しげな笑い声がカラッと響きわたる

 

満身創痍の対策委員会の面々と、数々の激闘をくぐり抜けたヒナ達を乗せた列車は、ガタンゴトンと心地よく耳に馴染む鉄の駆動音を砂漠に響かせながら、無事にアビドス駅へと到着を果たした

 

「……私も、そろそろゲヘナに戻らないといけないんだけど。溜まっている書類を今すぐ片付けないと、アコが限界を迎えて壊れちゃうわ」

 

「えー! そんな固いこと言わないでよ〜ヒナちゃん! 少しでいいからアビドス校舎でゆっくり休んでいきなよ〜。久しぶりに二人で沢山お話しよーよ〜!」

 

列車の低いステップを降りるなり、早々にゲヘナへの帰路につこうとしたヒナの華奢な腕を、ホシノはまるで駄目をこねる子供のようにキュッと両手で掴み、決して離すまいと力一杯引っ張っていく

 

本来であれば、列車がアビドス駅に到着するより前の段階で、別ルートの連絡線を通ってゲヘナ学園へと帰還しているはずだった

 

しかし、ホシノの妙な粘り腰と「ヒナと沢山話したい」という甘え混じりの強引さに押し負け、ヒナはズルズルと靴底を擦るように引きずられながら、対策委員会の一行と一緒にアビドス校舎を目指す羽目になっていたのだった

 

ちなみに、今回の特異点における過酷な激戦を最後まで共にした先生は、ユウカからの鬼気迫るトーンの怒涛の着信音と、戦後処理に関する膨大な事務連絡の対応に追われ、駅に到着するや否や「また後で絶対に顔を出すよ!」と悲鳴のような台詞を残して慌ただしくシャーレへと急行していった

 

また、クロコについても、「私も、ちょっと片付けておかないといけない用事があるから」と、どこか憑き物が落ちたような爽やかで穏やかな表情を浮かべながら、いつの間にか一足先に対策委員会の面々から離れ、静かにその場を後にしていた

 

「先輩……。ヒナ委員長だって、ゲヘナの風紀を預かる身ですごくお忙しいんですから、そんな風に無理やり引き止めてはダメですよ?」

 

「そうよ! 一体誰のせいでヒナ委員長がここまで連れ回されてると思ってるのよ。少しは反省しなさいよね、このバカ先輩!」

 

アヤネが困り果てたように優しく苦笑いを浮かべ、その隣でセリカがここぞとばかりに腕を組み、鋭い追撃の説教を投げかける

 

「うぐっ……! ヒナちゃーん……、後輩ちゃん達の冷ややかな視線が、おじさんの繊細なガラスのハートにグサグサ突き刺さるよー……助けてー……」

 

「……私を巻き込まないでくれるかしら。そもそも、こういう状況を作ったのはあなたの自業自得でしょ」

 

涙目でヒナの黒い袖を引っ張り、すがりつくように身を寄せるホシノに対し、ヒナは半分呆れたような、しかしどこか面倒見の良いお姉さんのような温かな眼差しを向け、フッと冷たく言い放った

 

そんな、いつもの愛おしい日常が戻ってきたことを心から実感させる和やかな空気を纏いながら、一行はそれぞれの足で母校であるアビドス高等学校の校舎を目指して歩みを進めていた

 

すると、穏やかな砂漠の静寂を切り裂くように、突如としてホシノの制服の胸ポケットの中でピロリ、ピロリと電子音が鋭く鳴り響いた

 

「ん〜? 一体誰だろ、こんな朝早くから……」

 

ホシノが首を傾げながらポケットからスマホを取り出し、画面に目を落とす

 

しかし、そこに表示されていたのは登録された名前ではなく、『非通知設定』という無機質で冷たい文字だけで、発信元が誰なのかは一切判別がつかなかった

 

少しだけ眉根を寄せ、何か妙な嫌な予感を覚えるホシノ

 

今この戦いが終わったばかりのタイミングでかかってくる電話の意味を測りかね、迷った末に指先で通話ボタンをスワイプした

 

「もしもし、小鳥遊ですけど……」

 

 

『……ザザッ……ノ様……ですか……?』

 

スピーカーから漏れてきたのは、耳障りな激しいノイズの嵐

 

肝心な声の大半がかき消されてしまい、かろうじて聞き取れたのは途切れ途切れの不気味な単語だけだった。その瞬間、ホシノの奥底に眠っていた鋭い警戒心が本能的に跳ね上がる

 

『今……ザッ……と……こちらの学校に……お待ちして……ます……』

 

「ちょっと、どういうこと……? 学校って……アビドスのこと……?」

 

ホシノが問い返す間もなく、電話の向こう側はプツリ、と機械的に冷たい切断音を残して唐突に途切れてしまった

 

「ホシノ、どうかしたの? 誰からの電話だったのよ」

 

ヒナが怪訝そうに瞳を細め、小首を傾げながら尋ねる

 

「うーん、それがさ……誰かは分からないんだけど、なんだか変なノイズ混じりで、今すぐ学校に来てほしいって言われたんだよね」

 

「学校……ですか? 今日はアビドス高校に来訪する予定の外部の人間なんて、スケジュールに一切入っていなかったはずですが……」

 

アヤネは慌てて手元のオペレーション用タブレットを取り出し、今日のスケジュールや来客予定のデータを必死に端末の画面上で探し直し、確認しながら首を首を横に振る

 

「……ねぇ、なんだかすごく嫌な予感がするんだけど。これって絶対、また厄介な面倒事に巻き込まれるパターンじゃないの!?」

 

セリカがうんざりしたような、虫唾が走るような顔をしながらげんなりとした口調でつぶやいた

 

確かに、アビドスにおける「突然の来訪者」や「非通知の連絡」といえば、これまでの経験上、ろくな思い出がない

 

ハイランダーが突然アビドスの敷地内で工事を始めた時のように、悪夢の再来の始まりを予感させるには十分すぎるシチュエーションだった

 

「……やっぱり、今日はそのまま帰らずにここまで付いて来て正解だったわね」

 

ヒナが深く、大きなため息をつきながらホシノを見据える。その冷ややかな目は、まるで「また何か面倒なトラブルの種をどこかで拾ってきたのか」と言いたげな、呆れと警戒が入り混じった色を帯びていた

 

「ヒナちゃーん!? 言いたいことはなんとなく分かるけどさ、この前からそんな事を起こす暇なんて無かったからね!? 完全な冤罪だからね!?」

 

「冗談よ。そんなに必死な顔をしなくても分かっているわ」

 

(……ヒナちゃんのその冗談、全然表情が変わらないから本当なのか作り話なのかさっぱり判断がつかなくてタチが悪いよー……)

 

まったく顔色を変えずに淡々と重圧のある冗談を飛ばすヒナの気質に、ホシノはぐったりと肩を落とし、小さいため息をつくのだった

 

「……ん。2人で漫才してる暇があるなら、一刻も早く学校に戻って確認した方がいい」

 

シロコがいつの間にか二人の間にスッと割り込み、無駄話をピシャリと遮る

 

「そうね、少し気を抜きすぎたわね」

 

「確かに、のんびり構えている場合じゃないかもしれないね」

 

ホシノとヒナは顔を見合わせて深々と頷き合うと、言葉を交わすよりも早く、それぞれアビドス校舎の方向に向けて一斉に小走りで駆け出すとセリカやアヤネ、シロコもすぐその後に続く

 

朝もやが薄っすらと残る空気の中を駆ける足音が、砂利を踏みしめて高い砂埃を巻き上げ、アビドス高等学校の象徴である巨大な正門を潜り抜ける

 

肩で息を切らせながら広大な学校の敷地に到着すると、誰からともなく速度を落とし、警戒を怠らない慎重な足取りで、だだっ広い校舎のエントランスへと一歩ずつ踏み入った

 

しかし――人の気配は全くしない

 

「……静かすぎるわね」

 

ヒナが小さく囁き、安全装置を指先でそっと外す

 

5人は互いの背中を預け合うように密接に間隔を詰め、目線をあちこちに走らせながら、静まり返った暗い室内へと足を踏み入れていった

 

ギィ……と古びた床板が軋む不穏な音だけを校舎内に響かせながら、静まり返った廊下をしばらく歩き続けたその時――

 

奥にある『生徒会室』の扉の前に、誰かの影がぽつりと、静かに佇んでいるのが視界の端に飛び込んできたのだった

 

張り詰めた緊張感が最高潮に達し、ホシノが反射的に愛用の盾を前に掲げて身構えようとした、その瞬間――

 

「あれ? もしかして……先生?」

 

緊張を孕んだ空気を突き破るように、ペタペタと廊下の床を鳴らして近づいてきた人物の姿に、ホシノは完全に動きを止めた

 

そこに立っていたのは、見慣れた白衣を纏いながらも、なぜか裾や袖のあたりがうっすらと黒く煤けて汚れている、ユメの担当主治医その人だった

 

「ああ、よかった……! ようやく来ていただけましたね。お待ちしていましたよ、ホシノさん」

 

「えっ……あ、お、お待たせしてすみません……って、先生がどうしてこんな朝早くにここに……!?」

 

ホシノたちが一斉に目を丸くし、半信半疑のままパチパチとまばたきをすると、主治医は額に浮き出た汗をポケットから出したハンカチで拭いながら、なんだか気まずそうに、けれどどこか嬉しそうな笑顔を浮かべてペコリと深々と頭を下げた

 

それに慌てて、ホシノたちもつられるようにして頭を下げる

 

「えっと……さっきのノイズだらけの変な電話、もしかして先生がかけてきた感じですか……?」

 

「ええ、少し急いでおりましたものでね……。どうやら車から焦って持ち出したのがかなり古い予備の緊急端末だったようでして。電波も悪かったでしょうし、お聞き取りにくかったでしょう? 申し訳ありません」

 

「あはは……まあ、ちょっとノイズがすごすぎて、一瞬お化けか幽霊からの電話かと思いましたよ~……」

 

ホシノが頬をかきながら乾いた笑いを浮かべると、主治医も困ったように苦笑いを返す

 

だが、その場の緊迫した空気が少しだけ和らいだのも束の間、アヤネが眉根をキュッと寄せ、眼鏡の位置を直しながら一歩前へ出た

 

「……あの、失礼ですが、なぜユメ生徒会長の主治医でいらっしゃる貴方が、こんな早朝にアビドスの校舎にいらっしゃるんですか?」

 

アヤネの問いかけに、主治医は小さくうなずき、表情を少しだけ引き締めた

 

「ああ……それなのですがね、どうしても『ホシノさんに今すぐ会いたい』と強く希望される方がいらっしゃいましてね。その方をお連れして、ここで待機していただけなんですよ」

 

「会いたい人……ですか? 一体どなたなんです?」

 

アヤネの重ねてのアプローチに、主治医は肯定するように静かに頷いてみせる

 

「ええ。お名前は……その、ご本人からの強い頼みもありまして、今の段階ではまだ秘密にしておいてほしいと言われておりましてね。私が勝手に口を滑らせるわけにはいかないのです」

 

「……んー……おじさんはその人には悪いんだけどさ、ちょっと急ぎで確認したい用事もあるし、お話は後じゃダメかな?」

 

「と、言いますと?」

 

主治医が首を傾げると、ホシノはまっすぐな瞳で彼を見つめ返した

 

「先生、ユメ先輩のことで何か……大事な話があるんでしょ?」

 

ホシノの口からぽつりと発せられたその名前――『ユメ先輩』という言葉に、それまで穏やかだった主治医の表情がピクリと不自然に強張り、紫色の瞳が見開かれた

 

クロコから事前に聞かされた、先ほどのセトとの激しい戦いの最中にユメの心肺が完全に停止し、現実の肉体における生命の灯火が消えてしまったという残酷な真実

 

そして、あの奇跡のような幻影の世界で、白子と、そしてユメ本人と直接交わした、あたたかくも切ない別れの記憶

 

悲しくないと言えば嘘になる

 

胸が引き裂かれるような想いは当然ある。けれど、あの場所でしっかりと二人の溢れんばかりの想いを受け止め、前を向いてお別れを告げることができたからこそ、今のホシノの胸のうちは驚くほどに静かで、すべてを受け止めるだけの強い覚悟と余裕が生まれていたのだった

 

「……そうですか。やはり、そのお話もしなければならないと思っていました」

 

主治医はすべてを察したように観念した深い息を吐き出し、静かにうなずいた

 

「しかし、そのご報告をする前に……まずは、この生徒会室の中であなた方を待っている『その人』に、どうしても顔を見せてあげてほしいのです」

 

「……どうしてですか?」

 

主治医の不可解で回りくどい言葉に、ホシノは怪訝そうに小首を傾げる

 

なぜ、この状況で、名前すら明かされない誰かと対面しなければならないのだろうか。今の自分たちには、もっと正面から向き合わなければならない現実があるというのに

 

(……待って……?)

 

ふと、ホシノの脳裏に、一つの強烈で恐ろしい仮説が閃いた

 

この主治医は、自分がどれほどユメ先輩の存在を命がけで大切に想っているのかを、病院のベッドの傍らで誰よりも近くで見守り、知っているはずだ。それなのに、そのユメ先輩に関するあまりにも重大な報告よりも先に、「中の人物に会ってくれ」と頑なに促している

 

それも……部屋の中に「待っている」と言いながら、なぜ自分自身はこうして廊下のドアの前に立ち、中に入ろうとしないのか――?

 

「……先生、もしかして……本当は、生徒会室の中に『その人』は居ないんじゃないんですか?」

 

「……!?」

 

ホシノの静かな一言に、主治医の肩が跳ね上がる

 

「せ、先輩? それってどういう意味ですか……!?」

 

「そうよ! だって先生はさっき、この生徒会室の扉を確かに指さして『ここで待機していた』って言ってたじゃない!」

 

ホシノの鋭すぎる指摘に、主治医が動揺の色を隠せずに大きくたじろぎ、言葉を詰まらせる

 

その発言の真意が瞬時に飲み込めないアヤネとセリカは、大きな不安を瞳に宿しながら、顔を見合わせるのだった

 

「……本当は、こっちの部屋にいるんでしょ?」

 

ホシノが小さく指し示したのは、主治医が立っていた目の前の生徒会室ではなく、隣の普段は固く閉ざされた小さな部屋だった

 

そこはかつて、幼い白子が生前当たり前のように寝泊まりし、大切なおもちゃや私物を置いていた場所。そして今では、白子の形見の品々や、静かに線香の香りが漂うあの小さな仏壇がひっそりと安置されている、アビドス高校の開かずの部屋だった

 

この部屋の重い鍵は、ホシノが誰にも渡さず、今日まで肌身離さず胸ポケットに入れて持ち歩いている。本来ならば、外部の人間はもちろん、対策委員会の後輩たちですら立ち入ることが許されない、ホシノにとっての聖域のような場所だ

 

――ただ一人、あの人を除いては

 

主治医はもはや言い逃れができないと悟ったのか、完全に言葉を失い、申し訳なさそうに気まずい視線をあちこちへ泳がせている

 

ホシノはそれ以上追及することなく無言のまま、目の前にある生徒会室のドアノブに手をかけ、扉をゆっくりと開けた

 

キー……と、静まり返った校舎内に乾いた蝶番の音が痛々しく響き渡る

 

案の定、生徒会室の中には人の気配など一切なく、いつもの冷たく埃っぽい空間がただどこまでも広がっているだけだった

 

「やっぱり……誰もいない」

 

ホシノが室内へと足を踏み入れ、慎重に室内をゆっくりと見渡しながら確信に満ちた鋭い視線を巡らせると、やはりそこには不自然極まりない異変が一つだけ存在していた

 

「ここだけ……床の埃が、綺麗になくなってる」

 

「えっ……? あ、本当ですね……! 部屋全体はこんなに埃が積もっているのに、そこだけ何か重いものを動かしたかのように、ぽっかりと埃が無くなっています……!」

 

ホシノの背後に続いて静かに部屋に入ってきたアヤネたちが、息を呑みながら床の一角を指さす

 

「ん……でも、部屋の中には誰もいない。本当に隣の部屋に誰かが潜んでいるの……?」

 

シロコが不思議そうに小さな首を傾げ、隣に立つホシノの顔をじっと見上げる

 

「……隣の部屋の鍵は、今もおじさんがポケットに入れて持って出かけていた。だから、鍵穴から正規のルートで誰かが入ることは絶対に出来ないはずなんだよね……」

 

「……ホシノ。あなた、もしかして……中にいる人って……でも……まさか、そんなはず……」

 

 

ヒナだけは、ホシノの言葉の裏にある恐ろしい可能性を瞬時に察知し、瞳を僅かに見開いた

 

「……おじさんの予想通りなら、ね。と言っても……みんなはこの『隠し扉』の存在、誰も知らなかったでしょ?」

 

ホシノは、埃が綺麗に拭き取られていた壁の一角へと歩み寄り、そこにそっと手を触れた

 

一見すると、どこにでもある古びたベニヤ板とコンクリートが剥き出しになっただけの無骨な壁にしか見えない

 

しかし、ホシノがそこに慣れた動作で全体重を預けるようにぐっと力を込めると、ズズズ……と重苦しい摩擦音と共に、壁の一部が内側へと静かにスライドした

 

そこに姿を現したのは、大人一人が身を屈めればようやく通り抜けられるほどの、作り付けの小さな隠し出入口だった

 

「そ、そんなところに……隠し扉なんてあったんですか!?」

 

「んっ……! な、なんだかスパイ映画の秘密基地みたいで、すごくカッコいい……!」

 

思いも寄らない仕掛けに驚愕のあまり声を裏返してしまうアヤネと、なぜか目をキラキラと好奇心で輝かせるシロコ

 

そのあまりにも対照的な後輩たちの反応に、ホシノは緊張感の漂う空間の中で思わず乾いた苦笑いを零した

 

「先生、その白衣の裾の汚れ……もしかして、この狭くて埃っぽい隠し扉を無理やり通った時に着いちゃったものなんじゃないですか?」

 

「あ、はは……さすがですね。鍵をお持ちでなかったので、私としてはここを通って中にお通しするしかなかったんですよね……」

 

心底困ったように頬をポリポリと掻きむしる主治医の情けない姿を見て、ホシノはもうそれ以上彼を追求するのをやめ、スッと生徒会室を出た

 

この隠し扉の存在は、かつて白子が発見したあの日――あの人とホシノの二人しか知らないはずの、絶対に他人に明かしたことのない秘密だったのだから

 

「……」

 

ホシノの足が、隣の部屋――白子の部屋へと続く冷たい扉の前にピタリと止まる

 

ドクン、ドクンと心臓が胸の壁を内側から激しく叩きつけ、今にも肋骨を突き破って破裂しそうなほどに大きく、うるさい音を立てているのを全身で感じていた。手のひらにはじんわりと嫌な汗が滲んでいる

 

背後では、アヤネやセリカ、シロコ、そしてヒナたち全員が、ただならぬ雰囲気に息を潜め、祈るような眼差しでホシノの小さな背中を静かに見守っていた

 

(やっぱり……)

 

ここを出発する前に、ホシノはこの部屋の鍵を間違いなく、自分の手でしっかりとかけたはずだった

 

どれほど鍵開けの技術に優れているシロコであっても、こんな単純でありながら厳重に施錠された古びた教室をわざわざ破ろうになんて、そもそも考えるはずがない

 

それならば、なぜ今、この扉がほんのわずかに隙間を開けて、まるで誰かを招き入れるかのようにそこに存在しているのか

 

ドクドクと不快なほど高鳴る鼓動を抑え込みながら、震える指先を伸ばし、ホシノはゆっくりとその冷たいドアノブに手をかけた

 

「っ……!!」

 

ギィと小さな音を立てて扉が滑らかに押し開けられ、室内の光景が視界のすべてに飛び込んできた瞬間、ホシノの息が完全に止まった

 

そこにあったのは、見間違えるはずもない、あまりにも懐かしい、そして二度と現世で見ることは叶わないと心に固く絶望を告げていたはずの姿だった

 

車椅子にその小さな身を預け、部屋の奥にひっそりと佇む白子の小さな仏壇の前にそっと両手を合わせている、見慣れた鮮やかな緑色のロングヘア、そして頭の上でピンと跳ねる特徴的なアホ毛

 

もう二度と、その温もりに触れることはできない。そう自分に何度も言い聞かせ、胸を裂くような痛みに耐えながら覚悟を決めたはずだったのに

 

背後で様子を見守っていたヒナたちもまた、誰がそこに佇んでいるのかを視覚的に理解した瞬間、あまりの衝撃と不可解さに言葉を失い、喉を詰まらせて小さく息を呑む音だけが静まり返った廊下に響いた

 

「――あなたたちが、ホシノちゃんの後輩ちゃんたちだよね? 確か……セリカちゃんに、アヤネちゃん……ノノミちゃんに、そして……シロコちゃん……こうして会うのは初めてだね」

 

車椅子をゆっくりと自らの手で操作し、キィと小さな軋む音を立てながら、その人物が静かにこちらへと振り返る

 

名前を呼ばれた4人は顔を見合わせ、目を丸くして息を呑んだ

 

「あ、ヒナちゃんも、久しぶり! ……ふふ、なんだかあの頃と全然変わってないねー。ホシノちゃんと一緒で小さくて可愛い♪」

 

「……っ、よ、余計なお世話よ」

 

そこにいたのは、あの冷たい病院の無機質なベッドの上で、二度と目を覚ますことはないと言われていたはずのアビドス生徒会長――『梔子ユメ』その人だった

 

彼女は、かつてと何一つ変わらない、太陽のように眩しく、一切の曇りもない無邪気な笑顔を浮かべながら、呆然と立ち尽くすみんなを優しく迎え入れてくれたのだった

 

「な、なんで……ユメ生徒会長が、どうしてここにいらっしゃるんですか……!?」

 

アヤネはまるで真昼の幽霊でも目撃したかのように、信じられないものを見る目でビシリと指を突き出し、その場で今にも腰を抜かしてひっくり返りそうになりながら叫んだ

 

「もー、『生徒会長』なんて堅苦しい呼び方はやめてよー! これからはホシノちゃんみたいに、『ユメ先輩』……もしくは気軽に『ユメちゃん』って呼んで欲しいな!」

 

「……あー、なるほど。普段のホシノ先輩の、あの妙にノリがいい性格の根本って、完全にこの先輩からきっちり遺伝してたんだなって、今すごく納得がいったわ……」

 

あまりのマイペースさと底抜けの明るさに、セリカは頭を痛そうに両手で押さえ、やれやれと盛大いため息をついた

 

ユメの話はホシノから幾度となく伝えられていたが、伝説の生徒会長というからにはもっと威厳があるのだろうと勝手に想像していたのだ。だが、一瞬で場の重苦しい雰囲気を全部吹っ飛ばしてしまうその調子の狂う佇まいは、確かにホシノと瓜二つだった

 

「……本当に久しぶりね、ユメ先輩。相変わらず一言多いところも、ちっとも変わっていないわ」

 

ヒナは少しだけ目を細め、胸の奥から込み上げてくる様々な感情と安堵を静かに押し隠すように、丁寧に言葉を噛み締めながらそう告げた。

 

「うん、ただいまヒナちゃん! ……もっとも、私はずっと眠りながら、ホシノちゃんと一緒にお見舞いに来てくれていた時の声も、ぜーんぶちゃーんと聞こえていたから……なんだか今さら面と向かって喋るのって、すごく変な感じがしちゃうんだけどね!」

 

ヒナの言葉に、ユメは少しだけ照れくさそうに頬をポリポリと掻きながら、茶目っ気たっぷりに苦笑いを浮かべてみせる

 

だが、その慌ただしくも和やかなやり取りのすぐ傍らで、ホシノだけは完全に思考の回路が焼き切れたようにその場に硬直していた。両目を大きく見開き、口をぽかんと開けたまま、ただパクパクと金魚のように唇を動かすだけで、一言も言葉が出てこない

 

「……ぷっ……あははっ! ちょっと、ホシノちゃん、そんなに目を見開いて変な顔しちゃってさー! まるで陸に揚げられたばかりのお魚さんみたいになってるよー!」

 

あまりにもショックと動揺を隠しきれていないホシノの情けない表情に、ユメはついに笑いを堪えきれなくなり、お腹を抱えてケラケラと楽しそうに声を上げて笑い転げた

 

「っ……!!」

 

「わっ……!?」

 

次の瞬間、ホシノの張り詰めていた理性が音を立てて崩れ去った。理由や理屈なんていらなかった

 

思考よりも先に、体が勝手に動き出していた

 

ホシノは一気に距離を詰めるなり、その小さな体に似合わないほどの凄まじい勢いで突進し、車椅子に座るユメの膝の上へと勢いよく顔を埋めた。そして、両手でその服の裾を強く、千切れんばかりにぎゅっと握り締めた

 

頭の中では、質問したいことが数え切れないほど暴風のように渦巻いていた

 

どうして生きているのか。あの時、息を引き取ったはずの先輩が、なぜ今目の前にいるのか。奇跡だったのか、それとも自分の記憶が狂っていたのか

 

だけど――そんな疑問の答えなんて、今この全身に伝わってくる柔らかな体温と愛おしい温もりに比べたら、どうだってよかった

 

「ユメ……せんぱい……っ、うそ……うそじゃない、よね……っ……おかえり……っ、なさい……っ……!!」

 

溢れ出る大粒の涙で目の前の景色がぐにゃりと歪み、喉の奥が締め付けられて声が盛大に震える

 

どれだけ強がってみせても、どれだけ頼もしい「先輩」として振る舞ってみせても、今のホシノは、あの日の果てしない砂漠で一人取り残されたまま泣きじゃくっていた、あの頃の幼い後輩のままだった

 

「……うん。ただいま、ホシノちゃん」

 

ユメは何も言わず、ただ優しく、すべてを包み込むように、激しく震えるホシノの頭をその温かな両手でそっと包み込み、何度も何度も愛おしそうに撫で続けた

 

冷え切っていたアビドスの風が、いつの間にか嘘のように穏やかに止み、古い教室には、二人の止まっていた長い長い時間を埋めるような、優しくて温かい静寂と確かな体温だけがいつまでも満ちていたのだった

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