翌日
アビドスの広大な大地には、今日も変わることのない見事なまでの快晴がどこまでも広がっていた。雲ひとつない澄み渡った青空の下、カラッと乾いた砂風が古い校舎の屋根や枯れ木をかすめ、心地よい音を立てて通り過ぎていく
そんな平和で穏やかな朝を迎えた自宅の鏡の前で、ホシノは人生最大と言っても過言ではない難問に直面していた
「……うへぁ……どれにしていこうかなぁ、これ……」
未だパジャマ姿のまま、寝癖をあちこちに跳ねさせたホシノは、クローゼットの奥から引っ張り出してきた数少ない私服を一枚ずつ手に取り、自分の身体に当てては姿見の前で首を傾げ、唸り声を上げていた
久しぶりの、シロコと二人きりでのお出かけ。もちろん、これまでもアビドス対策委員会のメンバーとして、みんなで賑やかに街へ繰り出したり買い物に行ったりすることは何度かあった
けれど、シロコが一人暮らしを始めて生活拠点を移してしまってからというもの――いや、ノノミやアヤネ、セリカたちがアビドスにやってきて賑やかで温かな日常が形作られて以来、シロコと二人だけでじっくりと時間を共にするような機会など、仲間が増えてから今まで一度として存在しなかったのだ
だからこそ、普段はどこまでもマイペースなホシノも、柄にもなく激しく緊張していた
枕元の目覚まし時計が鳴ってからすでに一時間が経過しているというのに、いつもなら「まぁ、これでいっか」と一秒で決めてしまうはずの服装選びに、これほど頭を悩ませることになろうとは夢にも思わなかった
(いつもの制服……? いやいや、それじゃあもしシロコちゃんが私服で気合を入れてお洒落してきてくれた時に、なんだか申し訳ないし……。かといって、おじさんが無理にお洒落して似合わない私服を着ていったら、それはそれでなんだか気恥ずかしいというか、狙ってるみたいで嫌だし……うーん、これと、こっちは……ん?)
ふと、姿見の鏡に映った自分の慌てふためいた表情を直視し、ホシノはハッと息を呑んで動きを止めた
そこに映っていたのは、まるで久しぶりに遠距離の恋人に会いに行く乙女のような、右往左往して落ち着きのない自分の姿
そのあまりの滑稽さに、ホシノの顔が一気に沸点に達したように真っ赤な熱を帯びていく
(――って、これじゃあ完全に恋する乙女じゃないかっ……! ううん、ダメダメ! 落ち着け私、落ち着けおじさん! いつもの制服で、いつも通りにのんびり振る舞えばそれで十分なんだから……っ!)
顔を真っ赤に染め上げたまま、両手で頬を叩き、頭をぶんぶんと激しく振って変な妄想や照れを強引に追い払う
ホシノは気を取り直すようにそそくさと洗面所へ向かい、バシャバシャと冷たい水で顔を洗うと、慌ただしくいつもの制服に身支度を整えて家を飛び出したのだった
「あ、ホシノちゃん! おはよー!」
ガチャンと玄関の重い扉を閉めた瞬間、すぐ隣の家から太陽のように明るく元気な声が飛び込んできた
振り返ると、そこには『肉』と大きく一文字だけ力強くプリントされた謎のシュールなTシャツに、ラフな短パンという、あまりにもリラックスしすぎた部屋着格好のユメが立っていた
「あれっ? ユメ先輩、そんなところで朝早くから何してるんですか……?」
「いやぁ、ちょっと溜まっていたゴミ出しをね〜! ほら、朝の空気って気持ちいいし!」
ケラケラと嬉しそうに笑いながら、ユメは両手にパンパンに膨らんだゴミ袋を重そうにぶら下げていた
ユメが本来暮らしていた自宅はここから少し離れた場所にあるのだが、今回の奇跡的な帰還を果たした後、ホシノが「まだまだ体が万全じゃないんですから、何かあった時にすぐ駆けつけられる私の隣に住んでください!」と半ば強引に世話を焼き、さらにユメの本来の自宅が長年の放置と激しい砂嵐で半壊しかけていたこともあって、急遽ホシノのすぐ隣の空き家へと引っ越してきていたのだった
「なるほど……って、ちゃんとカレンダーで回収曜日を確認してゴミを出せてるのは偉いですねぇ」
「えへへ、まぁ実はね、先週出し忘れて溜め込んじゃってた分もまとめて持ってきたんだけどねー! ホシノちゃんは、ちゃんと出し終えたの?」
「何言ってるんですか、おじさんはちゃんと計画的に毎回残さず出し終えてますよー。先輩と一緒にしないでくださいな」
ユメが長い眠りから目覚めを果たし、無事に日常生活へと戻ってきてからというもの、最初のうちはどこか互いに気恥ずかしさがあったのか、1年生の頃のような丁寧すぎる敬語が抜けず、セリカやアヤネたちから「なんだか二人ともよそよそしい!」と散々弄られ続けていたのだ。しかし、この1ヶ月の間にすっかり元のマイペースな空気感が復活し、今ではすっかり以前通りの気楽で賑やかな先輩後輩へと戻っていた
そんなホシノの頼もしい様子を、ユメは何か悪戯を企むような、どこか母親のようでもあり、歳の近い親友のようでもある温かい眼差しで見つめながら、ふと気付いたように小首を傾げた
「あれれ~? ゴミ出しはとっくに終わったはずなのに、朝早くから制服にバッチリ着替えて……もしかしておでかけ? 今日って、たしかみんなお休みの日だよね?」
「あー……まぁ、ちょっと、その……個人的にお出かけの予定がありまして」
「えーーっ! いいなぁ、私も行きたいー! どこ行くの、ねえ、どこに行くのー! 私も混ぜてよー!」
キラキラと純粋な好奇心で満たされた瞳を輝かせ、ユメはまるで遠足前夜の子供のようにぴょんぴょんとその場で軽く飛び跳ねながら、持っていたゴミ袋もそのままにホシノの制服の袖をパタパタと引っ張って詰め寄ってくる
「あはは、ダメですよユメ先輩。今回はシロコちゃんから『二人でお出かけしない?』って特別にお誘いを受けちゃったんですから、ユメ先輩を連れていったらシロコちゃんに怒られちゃいますよ」
「えー……なんだぁ、シロコちゃんと二人きりかぁ、すごく残念だなァ……。私だってもっとホシノちゃんと色んなところにお出かけしたかったのに~」
「今度対策委員会のみんなで街に出かける計画を立てますから、それまではお留守番と脚のリハビリを兼ねて大人しくしていてください!」
「はーい!」
まるで幼稚園児のように元気よく返事をして、右手をピンと高く挙げるユメを見ながら、ホシノは「一体どっちが先輩で、どっちが後輩なんだか……」と本気で頭を抱えたくなりながらも、呆れたような、しかし底抜けに優しい苦笑いを浮かべた
その時、制服の胸ポケットに入れていたスマホが、待ち合わせ時間の30分前を告げるアラームを心地よい電子音で奏でた
「それじゃあ、そろそろいい時間みたいなので、おじさんはこれで失礼しますね。遅刻したらシロコちゃんに叱られちゃいますから」
「うん! 気をつけていってらっしゃい、思いっきり楽しんできなねー!」
背後からヒラヒラと大きく両手を振って見送ってくれるユメの温かい存在を感じながら、ホシノはシロコとの待ち合わせ場所であるアビドス駅前の広場へと、弾むような足取りで小走りに向かっていくのだった
アビドスの広大な青空の下、これ以上にないほど平和で、当たり前すぎる日常の愛おしさを全身で噛み締めながら――
「ふんふん、ふふ~ん♪」
待ち合わせの場所へと一歩、また一歩と近づくにつれて、胸の内で小さく膨れ上がる高鳴る鼓動を抑えきれず、ホシノはいつの間にか自分でも気づかないうちに、軽快でご機嫌な鼻歌を口ずさんでいた
普段のだらけきった気だるげな態度などどこへやら、足取りはどこまでも軽やかで、砂塵の舞うアスファルトの上をスキップでもしてしまいそうなほどの跳ね具合だった
「――ホシノ先輩、なんだかすごくご機嫌だね」
「うへぇあっ!?!? し、シロコちゃん!?」
背後からふわりと静かに掛けられた透明感のある声に、ホシノは心臓が口から跳び出るほどの勢いでびくりと大きく跳ね上がり、まるでネジの切れたマリオネットのようにぎこちなく後ろへと振り返った
「ん。驚きすぎ。声が出すぎてる」
そこに立っていたのは、いつもの端正で凛としたアビドスの制服姿に身を包んだシロコだった
眩しい太陽の光を浴びて淡く透き通るように光る銀髪の毛先を風に揺らしながら、彼女は普段の無機質なポーカーフェイスとは裏腹に、どこか悪戯っぽい茶目っ気を含んだニヤニヤとした笑みをその綺麗な唇に浮かべていた
「な、なんで後ろにいるのさ! 待ち合わせの場所は、もう少しだけ先だったはずじゃ……!」
「うん。私も今ちょうどそこに着いたところだったんだけど、曲がり角を曲がった途端、先輩のすごく楽しそうな鼻歌が聞こえてきたから、思わず後ろからついてきちゃった」
「うへぇ……は、恥ずかしいなぁ……それじゃあまるで、待ちきれなくてワクワクしてる子供みたいじゃないか……」
「そんなに、私とのお出かけが楽しみだったの?」
「うー……まぁ、楽しみにしてたのは百歩譲って本当だけどね……! まさか鼻歌まで歌いながら歩いてたなんて自分でも自覚がなかったし……頭の中だけの秘密のつもりが丸聞こえだったなんて、おじさん穴があったら入りたいよ……」
両手で真っ赤に染まった頬を包み込み、そのままその場にしゃがみ込んでジタバタと身悶えするホシノ
そんな彼女の無防備で素直な姿を、シロコは愛おしそうに見下ろしながらくすくすと声を漏らして笑った
「ふふっ。先輩も、こういう時はすごく可愛いところあるんだね」
「うっ、それはどういう意味なのさぁ……!」
顔を真っ赤にさせたまま地面に蹲るホシノ。チラリと上目遣いに顔をあげると、そこには心底嬉しそうな笑顔を浮かべたシロコの見慣れた横顔があった
これ以上羞恥心でHPを削られてはたまらないと、ホシノは小さく深いため息をつき、気を取り直してスッと立ち上がった
「もー、からかわないの! それで、今日は一体どこに行く予定なの? シロコちゃん、何か行きたいところとか計画してくれてたの?」
「ううん、特に決めてないよ」
「えっ、そうなの!?」
ホシノの問いかけに対し、シロコは「え、当然でしょ?」と言いたげに、こてんと小さく首を傾げてみせた
てっきり、事前に色々と調べて計画的なルートでも組み立ててくれているものだと思い込んでいたホシノは、そのあまりのマイペースさに思わず苦笑いを浮かべる
「ん。でも、行き先を決めずにブラブラするのも、私たちらしくていいでしょ?」
「うへ……それもそうだね。計画通りにいかないのがアビドス流ってやつかぁ。よし、それじゃあ特に目的もなく、のんびりと街をブラブラと歩いてみようか!」
「ん!」
ホシノが歩き始めると、シロコは待ちかねていたかのように嬉しそうにその隣へとピタリと寄り添い、足並みを揃えて歩き出した
♢
あてもなく、二人で並んで他愛のないお喋りをしながら歩いているうちに、いつの間にか二人の足はアビドスの静まり返った市街地の一角へとたどり着いていた
「あれっ? あんな所に、ゲームセンターなんてあったかな……?」
ふと、視線の先に見慣れない真新しい建物を見つけたホシノが、きょとんとした顔で指を差した。人通りの少ない乾いた街並みの中、そこだけやけに真新しく、ネオンの看板がピカピカと誇らしげに光っている
アビドスには似つかわしくない、綺麗で小さなアミューズメント施設だった
「……予定もないし、ちょっと中を覗いてみる?」
「そうだねぇ。最近のアビドスじゃこういう真新しい娯楽施設なんて珍しいし、たまにはこういう所で涼むのも悪くないかも」
そう言って、二人は自動ドアの冷たい風をくぐり、ゲームセンターの店内に足を踏み入れた
店内は外の喧騒が嘘のように静かで、置かれている筐体の数こそそれほど多くはないものの、UFOキャッチャーのコーナーには、小さなキーホルダーのような景品から、抱きかかえるほどの大きなぬいぐるみまで、ずらりと魅力的なプライズが並んでいた
「うへぇー! 今のゲームセンターってさ、景品に洗濯用の洗剤とか、お米とか、なんだか生活感の溢れるものまで置いてあるんだねぇ……」
「ん、聞いた話だけど、冷凍のホールケーキとかも獲得できたりするらしいよ」
「本当なの!? 最近のゲームセンターの景品事情はおじさんの想像を超えてるね……!」
最新のクレーンゲームのラインナップに関心しながら、並んでフロアを歩いていたその時、ホシノの足がピタリと止まった
「ホシノ先輩?」
数歩先を歩いていたシロコが足音を止め、振り返って不思議そうに首をかしげる。しかし、ホシノは返事をしないまま、ある一つのUFOキャッチャーの筐体に釘付けになっていた
ガラス越しに何かを熱心に見つめるホシノの異様な様子に、シロコはトトトと軽い足取りで彼女の隣へと戻り、彼女の視線が吸い寄せられているその透明なガラスケースの中を覗き込んだ
そこには、淡い純白の毛並みを持ち、つぶらな水色の瞳をした、どこか見覚えのある少し大きめの白い仔犬のぬいぐるみが、ぽつんとお座りをする形で鎮座していたのだった
「ホシノ先輩、このぬいぐるみ、そんなに欲しいの?」
ゲームセンター特有の賑やかで軽快な電子音が店内に響き渡る中、シロコはガラスケースの前に立ち尽くすホシノの横顔をじっと覗き込み、不思議そうに小首をかしげた
「えっ? あ……うーん、どうだろうね」
ようやくシロコの声が意識の隅に届いたのか、ホシノはハッと現実に戻され、少しだけ気恥ずかしさを紛らわすように右手の指先で自分の頬をポリポリと掻きながら、お茶を濁すような苦笑いを浮かべた
「この子ね、少し前にも話したかもしれないけど……白子に、毛並みも目の色もそっくりなんだよね」
「ん。私の妹?」
「そうだね、そういうことになるのかなぁ」
シロコのまっすぐな問いかけに、ホシノは愛おしそうに目を細めながら小さくうなずいた。あの荒涼とした砂漠の中で、ただ一匹だけ懸命に生き抜こうとしていた小さな命の温もり
その忘れられない記憶が、ガラスケースの向こうで無機質につぶらな瞳を向けている白い仔犬の姿と鮮明に重なって見えたのだ
「だからさ、なんだか少しだけ……懐かしくなっちゃって、ね。取れたらいいなって思って見てたんだけど、こういうクレーンゲームっておじさん、めっきり苦手でさぁ」
「そっか。分かった、私が挑戦してみる」
シロコは一切の迷いがない素早い手つきで制服のポケットから財布を取り出し、小銭入れのジッパーを開けようとした
その瞬間、ホシノはギョッとして慌ててシロコの手首を両手で掴み、必死に押しとどめた
「うぇっ!? い、いいよいいよ、そんなの! シロコちゃんの大切な軍資金なんだから、そんなところで無駄遣いしちゃダメだって!」
「それなら、このお金の使い道は私が自分で決める。それに、もし万が一足りなくなったら、ちょっと近くの銀行を……」
「それは絶対にダメ!」
シロコは何の躊躇いもなくコイン投入口に100円玉をシュッと滑り込ませながら、頼もしいのか物騒なのか分からない真顔でスッと右手の親指を立ててみせる
本気で街の金融機関をATM代わりにしようとするその危ういシロコ特有のジョーク(あるいは本気)に、自由なのは素晴らしいことだがそろそろ銀行襲撃を日常の趣味にするのは本気で怒った方がいいのではないかと、ホシノは冷や汗を流しながら頭を抱えた
そんなホシノの慌てふためく様子を他所に、シロコは早くもUFOキャッチャーの操作レバーにスッと手を掛けた
ジジジ……と独特の機械駆動音が響き、上空を覆う頑丈な三本爪のアームがゆっくりと横移動を始める
シロコは狙撃手さながらの真剣そのものの鋭い眼光をガラスに突き刺し、ミリ単位で位置を微調整していく
「いま……」
シロコが静かに心の中でカウントダウンを終え、手元のボタンを鋭く叩いた
ガコン、と重苦しい音を立ててアームが真下に一気に下降していく。ぬいぐるみの頭頂部、ちょうど重心の真ん中あたりにアームの爪がガッチリと食い込んだのを確認した瞬間、シロコがもう一度ボタンを押すと、アームは頼もしくしっかりと閉じられ、その大きな白い体をグッと持ち上げた
「おお……! いける、いけるよシロコちゃん!」
ホシノはキラキラと期待に満ちた目を輝かせ、景品の取り出し口の前に両手を構えて歓声を上げた
しかし――
「あっ」
空中をガタガタと大きく揺れながら移動していたその瞬間、まるで2人の期待をあざ笑うかのようにアームの持ち上げ力がフッと緩み、ぬいぐるみは無残にも落下して、元の位置へと逆戻りしてしまった
「……ん」
シロコの美しい眉間に、わずかにピクリと険しい縦ジワが寄る。内心のイラ立ちを小さく飲み込みながら、彼女は負けじと次の100円玉を迷わずコイン投入口へと追加で放り込んだ
だが、そこからは想像以上の苦戦の連続だった
「わっ……今度は頭から倒れて、奧の方に行っちゃったね」
「ん……もう、店員さんを呼んで初期位置に戻してもらう」
ホシノ同様、日頃からクレーンゲームの微細なアームの癖やコツなど知るはずもないシロコは、ただ目の前にある獲物を真っ直ぐに狙い、正直に中心を掴んでは空中で落とすという不毛なループを延々と繰り返した
「ああっ、惜しい! もうちょっとで出口のフチまで行きそうだったのに!」
「ん、今度こそ……絶対に獲る……!」
「……あー、また奥の隙間にガッチリ挟まっちゃったねぇ」
運が悪いのか、店側の絶妙なアームパワー設定の罠なのか、あと一歩で獲得できそうなタイミングでことごとくあらぬ方向へと転がっていってしまう
そうして、二人であれやこれやと悪戦苦闘しながら、気づけばすでに3000円というなかなかの額がコイン投入口に吸い込まれて消え去っていた頃だった
「ん」
「待って待ってシロコちゃん!? ストップ、ストップーーっ!?」
シロコが突然、無言のまま背中に背負っていた愛用の銃をスッと抜き放ち、あろうことか目の前のゲームセンターのガラスケースに向けて銃口をまっすぐ向けたのを見た瞬間、ホシノは血の気が引き、青ざめた顔でその腕にしがみついた
「絶対に、正攻法では取れないように設定してある。アームが弱すぎる。なら、物理的にこじ開けて強奪するだけ」
「わ、私たちが下手くそなだけで、お店の人が悪いわけじゃないでしょ! きっと正規のやり方でも頑張れば取れるんだってば!」
「それならなおさら、私の手でこの強化ガラスを粉々にして実力行使で――」
「ダメだってばーーっ! お店が壊れちゃうでしょ!? 弁償代どうするのさーっ!?」
「――二人とも、何を騒いでいるの?」
シロコを必死の形相で羽交い締めにして制止しているホシノの背後から、不意に、あまりにも聞き慣れた、そしてどこか冷ややかで温度の低い呆れ声が降ってきた
ハッとして二人が同時に振り返ると、そこには腕を組み、信じられないものを見るような半目で佇むクロコが立っていた
「あれっ? クロコちゃんじゃん。そっちこそ、こんなところで何してるのさ?」
「ん、少しね。ちょっとした『副業』みたいなもの。バイト代がいいから」
クロコが静かに店の奥、普段ならコインゲームやレトロ筐体が置かれているはずの広いフロアをあごで指し示す
ホシノとシロコがそっちへ恐る恐る視線を向けると、そこでは目を疑うような光景が広がっていた
「んー!?!?」
「アリス、もっと右だよ! あの変な覆面のオッサンの眉間に全神経を集中させて投げるのよ! 投球フォームを意識して!」
「はいっ! 1球入魂――光よ!」
そこには、先ほどまで何もなかったはずの広いスペースに、なぜか冷たい水が並々と注がれた古びた大きな木の桶が置かれ、その中に頭からずっぽりと突っ込まれる形で、全身をガチガチの頑丈なロープで縛り上げられた不審な男がもがいていた
男の頭上には『小生の事は気にせずに、的の中心めがけて遠慮なく投げるように(1回100円)』と殴り書きされた段ボールの看板が申し訳なさそうに掲げられている
その横には小さな的が設置されており、見事そこにボールを命中させると豪華なゲーム景品がゲットできるという、一風変わった体験型射的コーナーが即席で作られていた
さらに、その光景の真ん中では、赤い猫耳メカをピコピコと慌ただしく揺らしたモモイと、アリスと呼ばれた大きなレールガンを背負った少女の二人が、歓声を上げながら楽しそうに野球ボールを投げまくっていた
アリスが力いっぱいに放った白球は、物理法則を無視した恐ろしいほどの超音速の軌道を描き、空気を切り裂いて的の中心を正確無比にブチ抜いた
それと同時に、的と連動していたからくり仕掛けがガコンと作動し、桶の中に突っ込まれていた男の下半身がさらに勢いよく跳ね上がり、中の冷たい水がザッパーンと盛大に頭から浴びせられたのだった
「もがっ……!? ぶはっ……ごぶっ……!?」
「やったー! アリス、大命中だよ! すごい威力!」
「パンパカパーン! アリスは可愛いクマのぬいぐるみを獲得しました♪」
覆面の中で口を布で縛られているはずの苦悶の声を上げるその男の痛々しい姿、そしてその横で手手を叩いて嬉しそうにぬいぐるみを抱き抱える2人の少女を、ホシノは限界まで引きつった顔で凝視しながら、隣に立つクロコに震える声を向けた
「……あの、クロコちゃん。あそこの桶に突っ込まれて、水責めにあってる不審なオジサン……いったい、何をやっている人なの……?」
「ん。お仕置きと、それからアビドス復興のためのちょっとした資金稼ぎを兼ねた体験型イベント会場。子どもたちにも大人気」
「あれ、だれ……? 見覚えがあるような、ないような……」
シロコが静かに首をかしげながら、そのもがく男をじっと観察する
「名前を言うほどの人ですらないよ。……ただの、アビドスを裏で泥沼に引きずり込もうとして失敗し、あちこちで散々迷惑をかけまくった挙句、地下の暗がりに引きこもっていた、見苦しい『大人になれなかった者』の成れの果て、かな」
「………」
その言葉が持つ途方もない重みと、クロコの淡々とした口調の裏にある底知れぬ冷徹さを察知し、ホシノとシロコは一瞬にして無言のままアイコンタクトを交わした
(……これ以上、この件については深く突っ込んではいけない)
二人の脳裏に、全く同じ警告の言葉が綺麗にハモったのだった。
「それで、さっきから二人で一体何をそんなに揉めていたの? 店のガラスを割るだの割らないだの」
クロコは呆れたように片方の眉をひそめながら、目の前で繰り広げられていた不毛な小競り合いに視線を向けた
「ん、これ」
シロコは短く答えながら、未だにガラスケースの奥でこちらをつぶらな瞳で見つめている白い仔犬のぬいぐるみへと顎をしゃくってみせる
「……犬のぬいぐるみ?」
「ホシノ先輩がどうしてもこれが欲しいって、泣いて駄々をこねてお願いしてきたから。だから物理的に取ろうとした」
「シロコちゃーん!? そこまでおじさん、一言も言ってないんだけどなーーっ!?」
あまりのデタラメで都合の良い供述に、ホシノは顔を真っ赤に染め上げながら、シロコの柔らかいこめかみを両手でグリグリと容赦なくねじり上げたのだった
「ん、冗談……痛い、痛いからそのこめかみグリグリは本気でやめて……」
「それで、正攻法で取れないからって弱シロコがブチギレて銃を抜こうとしてたわけ?」
「……それなら、デブシロコなら余裕で取れるの?」
「デブじゃない。標準体型」
「ならブタ」
「「…………」」
言葉が途切れた瞬間、二人の瞳に火花が散り、無言で互いの目線を交わしたかと思うと、音もなく素早く愛用の銃のスライドをガチャリと引こうとした
「もーーっ!? なんでそこで一瞬でバチバチの殺伐とした空気になって、即座に殺傷能力の高い銃を抜こうとするのさ二人とも!」
間一髪、二人の殺気立った動きを察知したホシノは、冷や汗をダラダラと流しながら慌てて割って入り、両手でガッチリと二人の手首を挟み込んで制止した
この二人は本当に、平行世界の同一存在というレベルで血が繋がっているのか、それともただの似た者同士の悪友なのか、仲が良いのか致命的に悪いのかさっぱり分からない
そんな騒がしくも危険すぎる二人のやり取りを少し離れた場所から見つめながら、クロコは「本物の実力というものを見せてあげる」と言わんばかりに、黒いジャケットのポケットから小さな使い古した財布をヒョイと取り出した
「クロコなら本当にこのイジワル設定の台から取れるわけ? アームの力が弱すぎて途中で絶対に落ちる」
「ん、まあ見てて。私の技術を」
クロコは100円硬貨を滑らかに投入口へ滑り込ませると、ゲームセンターのネオンに照らされたレバーを極めて冷静かつ正確な手つきで操作し始めた
「……ここ」
シロコと同じように、ミリ単位の狂いもない狙撃手さながらの正確無比な眼光でぬいぐるみの重心を捉え、ボタンをカチリと押す。三本爪のアームがスッと下降し、見事に白い仔犬のぬいぐるみの首元と胴体をガッチリとホールドした
「おっ……! 今回はかなり良い位置に爪が入ったんじゃない!?」
ホシノとシロコが固唾を飲んでガラスケース越しに見守る中、やはりクレーンゲームの悪意ある設定には勝てず、上空まで持ち上がったアームは移動の途中から意地悪なほどにフッと持ち上げる力を抜き、重力に従ってずるずるとぬいぐるみを下方へと滑り落としていく
「や、やっぱりダメなんじゃ……あんなに弱々しいアームじゃ途中で落ちちゃうよ……」
「大丈夫。計算通り」
ホシノがガックリと肩を落としてため息をついた、まさにその瞬間だった。
「……えい」
「っ!?」
クロコが静かにガラスケースの景品獲得口の表面にスッと黒い手袋をかざしたかと思うと、その手のひらのすぐ下に、空間を直接引き裂くような漆黒の不気味な裂け目がポッカリと出現した。それは、クロコが日頃から長距離の移動で愛用している、あの空間跳躍のポータルだった
狙いすましたかのように、アームから滑り落ちた仔犬のぬいぐるみは、ガラスケースの底に落ちる直前でそのまま黒い裂け目の中へと吸い込まれ――直後、外側にある景品の「獲得口」の真上に開いた出口のポータルから、ボトンと何の手応えもなく転がり落ちてきた
「ん、ゲット。ミッション完了」
「いや、完全にルール違反のズルじゃないっ!?」
獲得口からスムーズにぬいぐるみを取り出し、これ以上ないほど誇らしげな無表情のドヤ顔でこちらに差し出してくるクロコ
物理法則とアミューズメント施設のルールを完全に無視したチート能力を、こんな極めて個人的でくだらない目的に全振りしているというのに、なぜ本人はここまで清々しいまでのドヤ顔ができるのか、ホシノには理解の範疇を超えていた
「この獲得方法は私にしかできない。高度な能力の応用」
「確かにクロコちゃんにしか絶対ムリだけどさぁ!? それはクレーンゲームの根幹を揺るがす大反則なんじゃないかなぁ!? 店員さんに見られたら一発アウトだよ!?」
「……その空間移動のポータル能力、私も欲しい」
「これがあればセキュリティを無視して銀行強盗も楽。金庫の中に直接アクセスできる」
「ん! 画期的」
「ん、じゃないよ!? シロコちゃん、そんな不穏なアイデアに目をキラキラ輝かせないで!?」
珍しくシロコがクロコの大胆かつ犯罪すれすれの即興技術を絶賛して全面的に肯定し始めたため、ホシノは「この子たちの道徳観と教育、おじさんどこで道を間違えちゃったんだろう……」と本気で頭を抱え、その場で膝から崩れ落ちて小さく丸まった
しばらくして、ホシノはふうっと深いため息をつき、どうにか気持ちを切り替えた
やり方は完全にアウトだし、ゲームセンターの規約的には完全に黒だったけれど、一応お金は投入口に入れたし、何よりクロコも自分のためにこうしてあの手この手で景品を勝ち取ってくれたのだ。その不器用な優しさ自体は、素直に受け取るべきだった
「……まあ、獲得手段は相当アレだったけどさ。二人とも、ありがとね。この子……大切にするよ」
ホシノは、クロコから受け取った真っ白で柔らかい仔犬のぬいぐるみを両手でギュッと優しく抱きしめながら、二人に向けたとびきり温かい笑顔を咲かせた
シロコとクロコは一瞬だけお互いの顔を見合わせると、どちらからともなく、静かに、そして息ぴったりに右手の親指をグッと立ててみせた
「せ、せめてもうちょっと何か『良かったね』とか温かい言葉をかけてくれないとおじさん恥ずかしいんだけどっ! 無言でサムズアップだけされても困るよ!?」
「ん、それじゃあ私はあっちで残りのバイト代を稼ぐ仕事があるから、また今度ね」
「またね、クロコ。後でまたお仕置き会場の様子を見に行く」
「二人して綺麗なタイミングでおじさんを完全無視して帰ろうとしないでよーーっ!?」
顔を熟したトマトのように真っ赤にして抗議するホシノを他所に、クロコは「じゃあね」と片手を軽くひらめかせながら、先ほどの怪しすぎる『水責め体験イベント会場』へと満足げに引き返していった。
「もう……2人のマイペースすぎる性格と行動力には、いつまで経っても参っちゃうなぁ」
「ん……でも、ホシノ先輩はすごく嬉しそう。顔が緩んでる」
「べ、別に嬉しそうになんてしてないもん! ただ呆れてるだけだもん!」
ホシノが照れ隠しにふんと鼻を鳴らし、他に何か面白そうな景品でもないかと店内を見渡そうとしたその瞬間――
(ぐぅぅぅ……)
静かな店内に、絶妙すぎるタイミングで、しかも二人の腹の虫が綺麗にハモるような盛大で情けない音が響き渡った
「…………ホシノ先輩、今のお腹の音……?」
「い、いやぁ、ちょっと今朝はバタバタして慌てて家を出ちゃったからさ、朝ごはんを食べるのをすっかり忘れちゃっててさぁ……って、そういうシロコちゃんこそ、お腹ぺこぺこなんじゃないの?」
「ん……お腹、すいた。限界」
「ふふ、それなら、あそこの商店街に行かない? 久しぶりに、あそこの揚げたてサクサクのコロッケが無性に食べたくなっちゃったな」
「ん、いいね。大賛成。早速行こう」
ホシノはゲームセンターの壁際に立てかけてあった自分の愛用バッグを手に取り、その中に新しい家族となった白い仔犬のぬいぐるみを、頭とつぶらな水色の瞳だけちょこんと外に出して丁寧にしまい込んだ。そして、シロコとぴったり並んで仲良くゲームセンターを後にするのだった
♢
「そういえば、ホシノ先輩。なんで今朝慌ててバタバタと準備してたの?」
「……どの服を着ていこうか、クローゼットの前でずっとうんうん悩んでたから……かな」
「っ……!?」
前を歩いていたシロコがピタリと足を止め、信じられないものを見るような――文字通り、綺麗な口をぽかんと開けて本気で驚愕した顔をホシノに向けた
「ちょっと、シロコちゃん!? 流石にそこまで露骨に本気で驚いた顔をされると、おじさんだって人並みに傷つくんだからね!? 私だって、女の子なんだからたまには何を着ていくかで真剣に悩んだりするんだよ!」
わざとらしく大げさに目を丸くしてフリーズしてみせるシロコに対し、ホシノは恥ずかしさをごまかすようにむすっと両頬を大きく膨らませて抗議した
アビドスの駅前から少し離れた、この旧市街地の商店街
周囲に立ち並ぶのは、先ほどまでいた真新しいゲームセンターがある区画とは打って変わって、長年の砂嵐に洗われた年季の入った古風な看板を掲げる個人商店ばかりだ
乾いたアスファルトの上をゆっくりと歩きながら、ホシノは、かつて白子と、そしてユメ先輩と二人で――あるいは当時の賑やかな面々と共に歩いたこの同じ道を、今こうして隣にいるシロコと他愛のないお喋りをしながら進んでいることが、なんだかひどく誇らしく、そして愛おしかった
「にしても、ここはいつ来ても変わらないよねぇ。時代の流れから取り残されてるっていうか、時間がゆっくり流れてる気がするよ」
「ん。そもそも私たちがここを頻繁に歩くようになったのはここ最近のことだし、景色が変わっていないように感じるのは当たり前……って、ホシノ先輩だって普段からパトロールでこの辺りを歩き回ってるんだから、そんなこと分かってるでしょ?」
「あはは、確かに頭では分かってるんだけどさ。こうしてシロコちゃんと二人で改めて言葉にして口にしてみると、なんだか不思議な実感が湧いてくるんだよね」
そんな風に軽口を叩き合いながら石畳の路地を曲がったその時、二人の鼻腔をふわりとくすぐる、懐かしくも食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた
「ん……この匂いは……ラードと、揚げたてのジャガイモ」
「間違いないね、ちょうど今まさに油で揚げている最中なんだと思うな」
「お腹すいた……早く行こ」
「あっ、こら待ってよー! おじさんを一人ぼっちで置いてかないで〜!」
食いしん坊の虫が騒いだのか、シロコが我慢できないといった様子で急にトコトコと早足を決め込み、前方へと駆け出していく
ホシノは慌ててその後を追うように小走りで追いかけた
曲がり角を抜けた先、見慣れた古びた緑色のテントが掲げられたお肉屋さんの店先が近づくにつれて、鼻をくすぐる香ばしい匂いが一層はっきりと形を帯びていく
「おじさん、こんにちは〜!」
「ん、お邪魔します」
「ん? おお! これはシロコちゃんに……おや、今日はホシノちゃんじゃないか! 二人揃って仲良くお出かけかい? なんとも微笑ましいねぇ」
白い前掛けをキュッと結んだ職人肌の店主が、大きなフライヤーの網から引き揚げたばかりの黄金色のコロッケを網の上で油切りしながら、二人を見るなり顔をクシャクシャにして満面の笑みを浮かべた
「うん! 今日はシロコちゃんと二人だけで、デートみたいなものかな?」
「ん(……まあ、特に否定はしない)」
シロコが背伸びをするようにカウンター越しに店主に話しかけると、店主は目を細めて優しい目を向ける
「おじさん、今まさにコロッケを揚げてるところだったの?」
「おう! ちょうど今、最後の一網が揚がるところさ。もう少しで美味しく仕上がるから、そこでちょっと待ってな」
「ん、それじゃあ出来上がるまでの間、今日のオススメの特売品とか聞いていい?」
ホシノの冗談めいた軽口を店主が「はっはっは」と豪快に笑い飛ばしながら受け流す傍らで、シロコは熱せられた油の鍋に向き合う店主の背中を見つめつつ、手慣れた様子で世間話を始めた
普段から買い出しでこの店に通い詰めているからこそだろう。店主はまるで本当の自分の娘と話しているかのように目を細めて楽しそうに返し、シロコもまた、他の場所では滅多に見せないような、どこか柔らかく安心しきった自然な笑顔を浮かべていた
その横顔を少し離れた場所から眺めながら、ホシノは胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚え、小さく声を漏らして微笑んだ
その時だった
「――あれ? 買い出しのリスト、他に何か買い忘れていたものはあったかしら?」
「うーん、大体メモに書いてあるものは揃えましたから……あとはホシノ先輩が勘づく前に学校に持ち帰って……」
「あれれー? セリカちゃんとアヤネちゃんじゃないか。こんな所で大きな荷物抱えて何して遊んでるのさ〜」
「「っ!?」」
偶然にも、商店街の角から大きなエコバッグと重そうな段ボールを抱えたセリカとアヤネが、何やら深刻そうな顔で通りがかった
いつもの調子でヒョイと背後から声をかけたホシノの姿を認めた瞬間、二人の顔がパッと驚愕と動転に染まり、露骨にビクッと肩を跳ねさせた。ホシノは怪訝そうに首をかしげる
「どうしたのさ、そんなに慌てて。まるで何かお役所の人に見られたらマズい、重大な隠し事でもしてるみたいな顔をしてさぁ」
ホシノは半目でじとーっと二人を見つめながら、いたずらっぽく追及の手を強める
「えっ、えーと、その……あ、あれよ! 買い出し! そう、対策委員会の備品を買い出しに来てただけよ! ねぇ、アヤネちゃん!?」
「わ、私に強引に話を振らないでくださいっ! セリカちゃんが勝手に変な露店で変なものを買おうとするから――!」
「ちょっと、アヤネちゃん!? 余計なことまで言わなくていいでしょ!?」
どう見ても挙動不審で、何か裏がありそうな様子の二人を前に、ホシノの頭の上の疑問符はさらに大きく膨らんでいく
「また、セリカが街の怪しい露店商の口車にでも乗せられて、財布をスッカラカンにされかけたところだったんじゃないの?」
「っ……!? な、なんでそれを……いや、ちがっ……!」
「ほら、図星」
そんなやり取りをしていると、いつの間にか店主とのやり取りを終えたシロコが、足音もなくホシノの背後にスッと忍び込むように寄り添ってきた
こんなシチュエーションでこんなことを意識するのは少し気恥ずかしいのだが、至近距離から漂ってくるシロコ特有の爽やかなシャンプーと、太陽をたっぷり浴びた日向のような温かい匂いが鼻腔をくすぐり、ホシノは思わず心臓がドキリと大きく跳ねるのを必死に隠した
「そ、そうですよ! 聞いてくださいよホシノ先輩! 今日もセリカちゃんが、駅前の広場で『これを家に飾っておけば一発でアビドスの借金が半分になる』とかいう胡散臭い謎の壺を本気で買いかけたんですから!」
「ちょっとー!? アヤネちゃん、そこまで大声でバラさなくてもいいじゃない! あれは『限定最後の一点!』っていう言葉の恐ろしい魔力にちょっと魔が差しただけで……!」
「その『残りわずか』って言って客を焦らせようとしてるアホな詐欺師の足元に、段ボールいっぱいに入った大量の在庫の山があるのが丸見えでしたよね!? どこが最後の一点なんですか!」
「そ、それは……その……日差しが眩しくて目眩がしたから見えなかったのよ……!」
「ま、まぁまぁ、二人ともそこまでにして落ち着きなさいって……街の真ん中で大声で喧嘩しないの」
なぜか感情をむき出しにして激しく口論を始めるセリカとアヤネ。もっとも、セリカの方は自分の浅はかな買い物が恥ずかしすぎて少しずつ声のボリュームが小さくなり、最終的にはアヤネによる容赦のないお説教タイムへと移行しつつあった
しかし、ホシノの鋭い洞察力は、その賑やかな小競り合いの裏にある別の違和感をしっかりと捉えていた
説教をしているはずのアヤネの顔に、いつもの張り詰めた緊張感や過労による疲弊しきった覇気はなく、どちらかといえば、何か本当に隠したい『本命の隠し事』を上手く誤魔化せたことに対する、深い『安堵』の色が滲んでいるように見えたのだ
(ふーん……壺の話は本当だろうけど、アヤネちゃんのこの反応……他にも何か隠してるねぇ?)
ホシノが胸の中でそう勘ぐっていたその時――
「まぁまぁ、お嬢さん方! そんなところで喧嘩してないで、これでも食いなさい! ちょうど今揚がったばかりの、アツアツの特製コロッケだよ!」
カウンターの奥から、エプロンをキュッと結び直した店主が景気よく店先へと飛び出してきた
その手には、香ばしいラードの甘い匂いをこれでもかと振りまく、美しいきつね色のコロッケが4つ、それぞれ小さな油紙の袋に丁寧に包まれて握られていた
「おおーっ! 待ってました、おじさん特製の絶品コロッケ〜♪」
「ん、私もいただく」
「わ、私にもください!……あふっ、あふあふ……っ! は、はふい……でも、衣がサクサクしてて中身がホクホクで、すっごく美味しい!」
シロコ、ホシノ、そして先ほどまで顔を真っ赤にして怒っていたはずのセリカまでもが、手渡された袋から湯気の立つコロッケを豪快に一口かじりつき、一様に頬をゆるませて幸せそうな笑みをこぼす
その満面の笑みを見て、店主もまた、職人としてこの上ない満足そうな誇らしげな顔を浮かべた
「あの、おじさん! では、ちゃんとお代を……!」
アヤネが慌てて制服のポケットから小さな財布を取り出そうとゴソゴソし始めたが、店主は豪快に極太の腕を振ってそれを制した
「いやいや、お金なんてとんでもない! これはいつも、このアビドスの街と私たちのために日夜パトロールして走り回ってくれている、頑張り屋の生徒さんたちへの、ささやかなおじさんからの贈り物だよ。遠慮なんてしないで美味しく食べておくれ」
「ええっ!? い、いいんですか……? 私たち、いつもオマケしてもらってばかりなのに……」
財布を開きかけたままのアヤネが、店主のあまりの厚意に恐縮したような戸惑いの声を上げる
店主がニコニコと温かい笑顔のままコロッケの入った袋をぐいっと差し出してくるものだから、アヤネは困ったようにホシノたちの方へと助けを求めるような視線を向けた
しかし、目の前にある出来立てのコロッケのあまりの破壊力と美味しさに、すでに脳内を完璧に支配されていた他の面々は「もぐもぐ……んふーっ♪」「ん、やっぱりここのコロッケが一番美味しい」とすっかり自分の世界に夢中になっていた
アヤネもまた、漂ってくるたまらない香りに抗いきれず、「……いただきます!」と喉をゴクッと鳴らしながら袋を受け取り、ガブリと大胆にかぶりつくのだった
「んーーっ♪ やっぱり揚げ物は、衣がサクサクで中がホクホクの、この揚げたて直後が一番最高ですね……!」
我慢できずに大きな一口を頬張ったアヤネの口の中に、代々受け継がれてきた秘伝の出汁の味と、香ばしいラードの風味がブワッと広がり、それまでのしかかっていた毎日の事務仕事やセリカのドジによる胃痛のストレスが、嘘のように綺麗に霧散していくのだった
アヤネのその顔には、普段の真面目で几帳面な委員長としての仮面がどこかへ吹き飛んでしまうほど、パァァッと春の花が咲いたような少女らしい満面の笑みが花開いていた
いつもは対策委員会の膨大な書類仕事や、暴走しがちなメンバーの手綱引きで気苦労が絶えない彼女だが、こうして年相応の無邪気な表情を見せる瞬間は、見ていてどこか心が温かくなるものだった
「そうかそうか! 美味そうに食べてくれるその笑顔が見られただけで、おじさんとしてはもうお代以上の価値があるってもんさ! 職人冥利に尽きるねぇ!」
店主は満足げに太い両手を腰に当て、目尻に深く刻まれたシワをさらに深めながら豪快に笑い声を上げると、油の匂いが染み付いた前掛けをパッパと払ってカウンターの奥へと引っ込んでいった
「ふぅ……すっかりお腹も満たされましたし、そろそろ私達も夕暮れ前に買い物を済ませて、早く学校に戻らないとですね。それでは、ホシノ先輩、シロコ先輩、私達はこれで失礼しますね」
残ったコロッケの油紙の包みを指先で丁寧に折り畳みながら、アヤネがふと我に返ったように表情を引き締め、丁寧なお辞儀をした
「うん、気をつけてね〜! また明日学校でね〜! あと、通りすがりの怪しい露店で金運が上がる壺とか買っちゃダメだからね〜?」
「もう買わないわよ! あれは事故なの! じゃあね、ふたりとも!」
セリカは照れくささを誤魔化すようにぷいっと顔をそっぽに向けると、アヤネと並んでホシノとシロコに向けて名残惜しそうに何度も手を振り、買い出しの大きな段ボールを抱え直して足早に商店街の通りへと消えていった
夕風が吹き抜ける商店街の路地裏。二人の小さな後ろ姿が曲がり角の向こうへ完全に消えて見えなくなると、ホシノは首を少しだけかしげながら、隣で静かに二つ目のコロッケを味わっているシロコに声をかけた
「ねえ、シロコちゃん。さっきの二人……なんだかいつも以上に挙動不審じゃなかった? 絶対に何か私たちに隠し事をしてるよねぇ?」
「ん、どうしてそう思うの? 単にセリカが詐欺に引っかかりかけただけかもしれないのに」
「だって、あの子たちって良くも悪くも感情がそのまま顔に出る素直なタイプだからさ。おじさんみたいな年季が入ってくると、パッと顔を見ただけで『あ、これは何か良からぬ企みがあるな』って大体何考えてるのか分かっちゃうんだよね〜」
「ん、確かに。アヤネはともかく、セリカは特に分かりやすい。隠し事が苦手」
二人が必死になって何か重大な秘密を隠そうとしているのは火を見るより明白だった
けれど、ホシノ自身もまた、シロコに対する秘めた温かな想増や、これまでの過酷な過去にまつわる言えない秘密など、数えきれないほどの隠し事を一人で胸の奥底に抱え込んできた身だ
だからこそ、後輩たちが一生懸命に隠そうとしている領域にあえて土足で踏み込むような無神経な真似はできないと、ホシノは少しだけ困ったような、けれどどこまでも優しい苦笑いを浮かべた。シロコもまた、そんなホシノの不器用な配慮と心中を察したのか、小さくコクリとうなずいて見せる
しかし――
「まぁ、セリカちゃんたちはおいといて……。シロコちゃんも普段は表情があまり変わらないから結構分かりにくいタイプだけど、何かおじさんに隠し事……してるんじゃないの〜?」
「っ……!?」
不意に、何の脈絡もなく投げかけられたその言葉に、それまで冷静沈着を保っていたシロコの体が、文字通りピキッと一瞬で石のように硬直した
セリカやアヤネのように普段から感情を分かりやすく表に出して動揺することは滅多にない彼女だが、本当に何かを隠している時のシロコは、周囲がどんなに警戒して探りを入れようとしても絶対に尻尾を出さない鉄壁の防御とポーカーフェイスを誇る
だが――ホシノだけは違った
誰よりも長く、誰よりも深く、共に寄り添って生き抜き、お互いの呼吸の隙間から感情の揺らぎまで知り尽くしている「たった一人の相棒」だ
だからこそ、ホシノにはシロコが本気で何かを隠そうとしている時の微細な視線の泳ぎや、耳の根元のわずかな赤みを完璧に見抜くことができた
「まぁ、シロコちゃんのその『今まさに図星を突かれて内心めちゃくちゃ焦ってます』っていう可愛い顔が間近で見られたから、おじさん的にはもう大満足だし、これ以上無理に詮索したりはしないけどさ〜?」
「くっ……先輩のくせに、そういうところだけは無駄に鋭いんだから……」
図星を完璧に突かれたのがよほど悔しく、そして恥ずかしかったのか、シロコは小さく唇を尖らせ、恥ずかしそうにスッと視線を地面へと伏せてしまった
夕暮れの薄桃色に染まった彼女の白い耳たぶが、西陽の光を透かしてひときわ鮮やかに赤く輝いている
「ふふっ、なんだか今日のシロコちゃんは一段と素直で可愛いねぇ。――それで、この後はお次はどこに行く予定なのかな、案内役のお姉さん?」
ホシノが胸の前で手を組み、意地悪く顔を覗き込むと、シロコはそっと顔を背けた
「ん……それは、秘密。絶対に教えない」
「あーっ! 待ってよシロコちゃーん、おじさんを置いていかないでってば〜!」
小さく両頬をぷぅと膨らませながら、スタスタと少し早足で歩き出すシロコの華奢な背中を追いかけ、ホシノは夕日にあたたかく照らされた商店街の石畳を、新しい家族である白いぬいぐるみを抱えながら、弾むような足取りでどこまでも追いかけていくのだった
久しぶりの更新……次回、最終回!シロコ達の隠し事とはなんなのか……お楽しみに!