白子とシロコ   作:気弱

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ホシノの手料理

「ユメ先輩、お願いですから大人しく動かないでください。ドライヤーの温風が耳に当たったら危ないですから」

 

「えへへ……だって、ホシノちゃんの手が頭皮に当たって、なんだか擽ったいんだもん。うふふ、あははっ!」

 

「もう、笑うと余計に頭が揺れます! ほら、じっとして」

 

夜の静寂に包まれたアビドス高等学校、その一角にある生徒会室

 

大浴場での怒涛の隠密大掃除を終え、心身ともに心地よい疲労感に包まれたホシノたちは、今夜は自宅へは帰らず、そのまま部室に泊まることになっていた

 

つい先程まで綺麗に溜まった湯船に豪快極まるダイブを敢行し、ホシノを頭からつま先まで盛大に水浸しにしてドスの利いた声で叱られ、湯船の縁で小さくなって半泣きになっていたユメ

 

しかし、温かいお湯で一日の泥を綺麗に洗い流し、こうして生徒会室の古びたソファに腰掛けてホシノに髪を乾かしてもらっている頃には、先ほどの恐怖も反省も、スッカリと綺麗な頭から抜け落ちてしまっていた

 

『ワン! ワンワンッ!』

 

「はいはい、白子。もう少しでユメ先輩の髪の毛は終わるので、そこの座布団の上でお座りして待っててくださいね。次は白子の番ですから」

 

使い込まれたヘアドライヤーのブォーッという低い駆動音を響かせながら、ホシノは慣れた手つきでユメの癖毛に指を通し、優しく声をかける

 

普段のこの時間帯であれば、白子は一匹きりでいつもの薄暗い部屋で丸くなって寝ているはずだった

 

しかし今夜は、大好きなホシノもユメも同じ部屋にいて、しかもお布団まで敷こうとしている

 

その特別な「お泊まり」の空気を敏感に察知しているのか、白子は短い尻尾をちぎれんばかりにフリフリと振り、興奮を隠しきれない様子で部屋の端から二人の様子をじっと見つめていた。時折、じれて前足で床をトントンと叩く

 

「はい、おしまいです。綺麗に乾きましたよ、ユメ先輩」

 

カチリ、とドライヤーのスイッチを切り、静寂が戻った室内にホシノの声が響く

 

「わーい! ありがとう、ホシノちゃん♪ 髪の毛がふわふわで、なんだかすっごく良い匂いがするよ! ほらほら、触ってみて!」

 

「はいはい、そうですね」

 

ユメはソファの上でパッと振り返り、嬉しそうに自分の長い髪の毛を両手で掴んでホシノの顔へと近づけながら、満面の笑みを浮かべた

 

そんな先輩の無邪気な姿に、ホシノはドライヤーのコードをパタパタと指に巻き付けながら、わざとらしく深いため息をついてみせる

 

「全く……なんで後輩の私が、先輩の髪の毛まで乾かしてあげなきゃいけないんですか。これじゃあ、どっちが先輩でどっちが年上なんだか分かりませんよ。普段からもっと威厳を持ってください」

 

「えへへ、いいじゃない。だって今日は特別なお泊まりなんだもん! こういう時はね、甘えられるうちに甘えないと絶対に損なんだよ? ねー、白子ちゃん♪」

 

『ワンっ!』

 

ユメの都合の良い言い訳に同意するように、白子が元気よく短い前足を弾ませて吠えた

 

「ほら、白子を味方につけないでください。……さて、それじゃあ次は白子の毛並みを――」

 

ホシノがそう言いかけた、まさにその瞬間だった

 

(ぐぅぅぅぅぅ~~~……)

 

静まり返った生徒会室に、驚くほど長くて、そして主張の激しい、可愛らしい虫の鳴き声のような音が響き渡った

 

「はぅあっ……!?」

 

音の発生源であるユメは、一瞬にして顔面を真っ赤に染め上げると、すぐさま両手で自分のお腹をぎゅっと押さえ込んで身を縮こまらせた

 

「そういえば……大浴場のお掃除に夢中になりすぎて、私達、お昼前から何も食べていませんでしたね。お腹が空くのも当然です」

 

「うう、ううう……恥ずかしいなぁ……。今のは、その、お腹の虫さんが勝手に鳴いただけだからね……? わたしの意思じゃないんだよ……?」

 

ユメは頭を両手で覆い隠すようにして、耳まで真っ赤にしながらゴロゴロとソファの上を転がった

 

「……へぇ。ユメ先輩、普段のどんくささの割には、そんな風に恥ずかしがる乙女な部分がまだ残っていたんですね。ちょっと見直しちゃいました」

 

「酷いっ!? ホシノちゃん、その言い方、すっごくトゲがあるよ! 私だってこう見えて、アビドス生徒会長である前に一人の女の子なんだからねっ!?」

 

『わんっ!』

 

「ほらっ! 白子ちゃんだって『そうだそうだ、会長は女の子だ!』って応援してくれてるもん!」

 

涙目でぷくぅと両頬を限界まで膨らませるユメ。そんな先輩のいつもの分かりやすいリアクションを、ホシノは口元を袖で隠しながら、クスクスと本当に楽しそうに細い目を細めて見つめていた

 

「はいはい、分かりましたよ、女の子なユメ先輩。……仕方ないですね、これ以上お腹の虫を大合唱させられても夜眠れませんし、今日は私が何か簡単なご飯を作りますよ。備蓄の缶詰と、少しの買い置きの食材があったはずですから」

 

「えっ!? ホシノちゃん、お料理できるの……っ?」

 

ユメはソファの上でガタッと身を起こし、まるで歴史的な大発見でもしたかのように驚愕の表情で目を丸くした

 

「失礼ですね。何を言ってるんですか、私だってこれでも一人暮らしなんですよ? 自分の分くらい、毎日適当に作ってます。料理くらい簡単です」

 

ホシノはツンとすました顔で、いかにも「これくらい朝飯前」と言わんばかりに胸を張ってみせた

 

「やったーー! ホシノちゃんの手料理だー! わたし、ホシノちゃんが作ってくれるなら、何でも美味しく食べちゃうよ♪」

 

『……わう?』

 

ユメが両手を挙げて子供のように大喜びする中、部屋の隅で座布団の上にお座りしていた白子が、突然その小さな頭を不審そうにひょいと傾げた

 

その水色の瞳は、どこか「え、本当に大丈夫……?」と、ホシノの料理スキルを極めて冷静に、そして深刻に疑っているかのような、なんとも言えない絶妙な光を宿している

 

「……なんですか、白子。その、まるで私の料理が本当に食べられるのか心配そうな目は。本当に言葉の意味を全部理解してやってるんじゃないでしょうね、君はー?」

 

ホシノはジトっとした目を白子に向けると、膝をついて近づき、その泥の落ちた白くて柔らかい片頬を、指先でむにーーっと左右に引っ張る

 

白子は一切抵抗することなく、まるでお餅のように引き伸ばされるがままになりながら、それでもホシノから目を逸らさず、「ふにゅ……」と小さく鼻を鳴らすのだった

 

「それでは私は調理室に行ってきますので、ユメ先輩はその間に白子をちゃんと乾かしておいてくださいね。サボってまた白子と寝ちゃったりしたら怒りますから」

 

「はーい! 了解だよホシノちゃん! ――おいでー、白子ちゃん! 今度は白子ちゃんをふわふわのサラサラにする番だよ!」

 

『ワンッ!』

 

ユメに名前を呼ばれ、待ってましたとばかりに嬉しそうに短い四肢を弾ませて駆け寄る白子

 

ユメがソファの上でバスタオルを広げると、白子は迷うことなくその懐へと飛び込んでいった

 

「もう、二人ともあんまり暴れてまたお風呂に入り直すなんてこと、絶対に無しですからね」

 

その睦まじい一人と一匹の様子を、ホシノは「本当に、世話の焼ける人たちなんだから……」と呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声音を漏らしながら見届け、静かに生徒会室の引き戸を閉めて廊下へと出た

 

ホシノが夜の静まり返ったアビドス本校舎の廊下を歩き、調理室へご飯を作りに行ってから、数十分が経過した頃

 

生徒会室では、ドライヤーの温風ですっかり白子の濡れていた銀白色の毛も乾ききり、ひと仕事終えて暇になってしまったユメが、ソファの上でごろんと横になっていた

 

ふと、ローテーブルの端に目をやると、ホシノがいつの間にか自分のお小遣いで買っていたであろう、青いプラスチック製の犬用のクシ(グルーミングブラシ)がちょこんと置かれているのが目に入った

 

「あ、これ、ホシノちゃんが買ったやつだ。ふふー、ちょっと借りちゃおっと。やっぱり、お風呂上がりにはブラッシングもしないとね! おいで、白子ちゃん」

 

ユメはソファから起き上がると、クシを手に取って、足元で丸くなろうとしていた白子を優しく膝の間に招き入れた

 

そして、まだ少し幼さの残る銀白色の毛並みに沿って、ゆっくりと、丁寧にクシを滑らせていく

 

「ふふー、やっぱり白子ちゃんの毛並みはすっごく綺麗だねー? お風呂に入って泥が落ちたのもあるけど、もともとの毛並みがとっても良いのかな? 砂漠の太陽の下でも、きらきら光っててとっても素敵だよ」

 

『わふぅ……♪』

 

頭の後ろから背中、そしてボリュームのある尻尾にかけて、丁寧にクシで梳かされていくのが最高に気持ちいいのだろう。白子は完全に警戒を解き、ユメの膝の上に顎を乗せ、とろけたような、実に幸せそうな顔つきになって目を細めていた

 

ユメの手のひらから伝わる温もりと、規則的なブラッシングのリズムが、静かな室内に心地よい時間を生み出していく

 

しかし――そんな穏やかな至職の時間は、唐突に終わりを告げた

 

「ふふ、白子ちゃん、本当に可愛いねぇ……って、おや?」

 

突然、白子の耳がピクンと後ろに跳ね上がった。それと同時に、とろけていた目がカッと見開かれ、小さな鼻先を宙に向けて「ヒクヒク、ヒクヒク」と激しく動かし始めたのだ。白子はユメの膝から飛び降りると、何かに怯えるように、あるいは何かを察知したように、突然自分の右の前足を使って、鼻をきゅっと強く押し潰すようにして覆い始める

 

「あれ? 白子ちゃん、どうしたの? 急に鼻をおさえて……。クシが痛かった? ごめんね?」

 

『くぅぅん……っ』

 

白子はユメの問いかけに答える余裕すらない様子で、情けない鳴き声を漏らしながら、急いでお布団の敷いてある側を通り抜け、生徒会室の古びた窓の近くへとダッシュすると後ろ足で立ち上がり、前足で窓の木枠や壁を「カリカリカリカリ!」と激しい音を立てて引っ掻き始めたのだ

 

その短い尻尾はピンと水平に突っ張っており、耳は完全に後ろに伏せられている

 

まるで、一刻も早くここから逃げ出したい、あるいは「お願いだから今すぐこの窓を開けて外の空気を吸わせて!」と必死に訴えかけているかのようだった

 

「白子ちゃん……? 一体どうしちゃったの……?」

 

何が起きているのか全く分からないユメは、白子のただ事ではない様子に首を傾げながら、ゆっくりと窓の近くへと歩み寄り、カリカリと焦る白子の頭を優しく撫でながら、建て付けの悪い木製の窓枠に手をかけ、ガラガラと外の夜の空気を取り込もうと横に引いた

 

窓を開けようとした、まさにその瞬間だった

 

「――っ!? う、うっ……! な、なに……!? この匂い……っ!?」

 

窓がわずかに開いた隙間から、アビドスの夜風と共に流れ込んできたのは、ユメがこれまでの人生で一度も嗅いだことがないような、異様で、暴力的で、脳の奥を直接雑巾で殴られるような、形容しがたい謎の悪臭だった

 

焦げたような、酸っぱいような、ケミカルな何かが融合したような、生物の本能が「これは危険だ」と一発で理解するタイプのアロマ

 

その匂いは、数秒経つごとに少しずつ、しかし確実に強烈になっていき、生徒会室の空気を急速に侵食していく

 

白子は完全に酸欠の一歩手前のような顔をして、窓の隙間に必死に鼻先を突き出していた

 

「な、何か燃えてるの……!? それとも、な、何かの毒ガス……っ!? ゲホッ、ゲホッ! うう、目がチカチカするよぉ……っ!」

 

ユメが片手で鼻と口を覆い、あまりの異臭に涙目になりながら部屋の中央へ後退りした、その時

 

ガララッ!! と、廊下へと続く生徒会室の引き戸が、内側から勢いよく開け放たれた

 

「ユメ先輩、お待たせしましたー!私特製の満腹スープですよ!」

 

お盆の上に、何やら「どす黒い紫色」の禍々しい湯気をモクモクと重々しく立ち上らせた物体を乗せて、満面の笑みを浮かべたホシノが、意気揚々と部屋へと戻ってきたのだった

 

「ほ、ホシノちゃん……? その……お盆の上に乗ってる、その地獄の釜底から湧き出してきたみたいな色の……な、何かな……?」

 

ユメは完全に顔を引き攣らせ、涙目で鼻と口を両手でぎゅっと押さえながら、恐る恐る尋ねた。あまりの異臭に、すでに喉の奥がヒリヒリと痛み始めている

 

しかしホシノは、先輩がなぜそんなに怯えているのかが全く分からないといった様子で、実に可愛らしく小首を傾げた

 

「なにって……さっきも言いましたけど、私特製のご飯ですよ。砂漠の夜は冷えますからね、アビドス高校の備蓄をフル活用した、栄養満点あったか創作大鍋スープです!」

 

「そ、その、目にしみる鮮やかなバイオレットというか、ほぼ黒に近い物体が……スープ……!?」

 

「物体って……酷いですね。これでも盛り付けの色彩にはこだわったつもりなんですけど」

 

ホシノはむっとしたように頬を少し膨らませ、不満げに口を尖らせた

 

『ガうっ!? ――わう、わううううーーーっっ!!!』

 

その時、ユメの後ろで限界を迎えていた白子が、悲鳴とも絶叫ともつかない声を上げた

 

人間の何百倍もの嗅覚を持つ犬の白子にとって、そのスープから放たれる臭気は、もはや単なる悪臭を超えた「化学兵器」そのものだったのだろう

 

「あ、白子ちゃん!? 待って、そっちは――!」

 

窓からの脱出を完全に諦めた白子は、ホシノが開け放ったままにしていた生徒会室のドアを目がけて脱兎のごとくダッシュ

 

ホシノの足元をすり抜け、文字通り弾丸のような速さで廊下の闇へと飛び出していってしまった

 

「あ、コラ白子! どこに行くんですか! まだご飯の時間ですよ! 戻ってきなさーい!」

 

ホシノが廊下に向かって声を張り上げるが、闇の奥から聞こえてくるのは、タタタタタッと激しく遠ざかっていく小さな爪音だけだった

 

「あ、あはは……。多分、自分のお部屋か……もしくは、一番風通しが良い屋上の方に命がけで避難したんじゃないかな……。お鼻、すごく良さそうだし……」

 

ユメは頬をひくつかせながら、白子が消えた廊下を遠い目で凝視している

 

「もう、せっかくのご馳走なのに。 気分屋なんだから……まぁいいです、白子は賢いですし、お腹が空いたらしばらくして戻ってきますよね。それよりユメ先輩、冷めないうちに私たちはご飯にしましょうか」

 

「う、うん……。そうだね……。ご飯、だね……」

 

ユメは引きつった笑顔を浮かべたまま、ガタガタと膝を震わせた。視線はすでに、ホシノが抱えている大鍋に釘付けになっている

 

「〜♪」

 

ホシノはニコニコと鼻歌を交えながら、ローテーブルの中央にその大きな両手鍋をドンと置いた

 

「よし、それじゃあ、冷めないうちにとりわけちゃいますね!」

 

「あ、あのねホシノちゃん? 気持ちはすっごく嬉しいんだけど、その鍋の隙間からシューシューって、なんだか蒸気機関車みたいな音が聞こえるのは気のせいかな……?」

 

「気のせいですよ。ほら、先輩の分です!」

 

ホシノはお盆に乗せてきた二つの取り皿へ、お玉を使ってたっぷりとそのスープを取り分け始める。静まり返った生徒会室に、「ドロリ……ボトッ……」と、およそ汁物とは思えない重苦しい音が響いた

 

手元に差し出された皿を覗き込んだユメは、そのあまりの視覚的暴力に絶句した

 

そこには、辛うじて液体らしきものがベースの料理だとは分かるのだが、スープそのものは魔女の煮込み汁さながらの毒々しい紫色。そのドロドロとした液体の海に、泥がついたまま、皮も剥かれずに丸ごと放り込まれたジャガイモが不気味に浮かんでいる

 

さらにその横からは、なぜか砂漠で捕獲したと思われるサソリの尻尾のようなトゲトゲしたパーツや、見たこともない砂漠植物の太い根っこが、まるで助けを求めるかのように突き出ていた

 

(ど、どうしてこうなったの……!? 缶詰のイワシとトマトソースがあったはずなのに、なんでサソリの出汁が出てるの……っ!?)

 

ユメもそこまで料理が得意なわけではない。だが、辛うじて「人が食べても命に別状がないレベル」の家庭料理であれば、失敗せずにつくれる自信はあった。だからこそ、ホシノが「自分は一人暮らしだから料理くらい簡単」と自信満々に言ってくれた時、少し恥ずがりながらも、すっかり安心してお任せしてしまったのだ

 

短いアビドスでの人生の中で、ユメがこれほど自分の選択を後悔した瞬間はなかっただろう

 

(えっ……こ、これ……。もし一口でも食べたら……私、明日アビドスの朝日を拝めなくなったりしないよね……?)

 

「……ユメ先輩? どうしました? スプーンを持ったまま固まってますけど。もしかして、私の手料理を前にして感動しちゃいました?」

 

ホシノが顔を覗き込み、嬉しそうに瞳をきらきらと輝かせる。その無垢な笑顔が、今のユメには何よりも恐ろしかった

 

「な、なんでもないよー! あはは、う、うん! すっごく……その、個性的で、宇宙の神秘を感じる色だね! 美味しそうだなーって!!」

 

「でしょ? じっくり煮込んだから、素材の旨味が完全に溶け出してるはずです!」

 

ホシノの期待に満ちた言葉に、ユメは顔の筋肉を総動員して、引きつった限界の笑顔を作り出した。そして、目の前に差し出された「紫の深淵」をもう一度見つめる

 

(ひぃぃっ!? い、いま……スープの表面からポコッて湧き出た泡が、一瞬だけ人の顔の形に見えた気がする……! でも、でも食べないと、ホシノちゃんがすっごく悲しむよね……。後輩の初めての手料理を拒否するなんて、先輩失格だもん……。うう……!)

 

ホシノちゃんの悲しむ顔だけは見たくない

 

その一途で健気な先輩としてのプライド、あるいは親代わりとしての愛情だけを燃料にして、恐怖で完全に麻痺し、拒絶を続ける右手を無理やり動かす

 

ユメはゆっくりと、まるで重い鉄の塊を持ち上げるかのようにスプーンを握り、ドロリとした紫の液体をすくい上げる。顔に近づけるたび、焦げたゴムと強烈なスパイスが融合したような独特の悪臭が鼻腔を鋭く突き刺すが、それを必死の思いで我慢した

 

「よし……いただきますっ!」

 

ユメはぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めて、それを口元へと運び――一気に一口、 パクリと食べた

 

「……ど、どうですか? 私の自信作。お味のほうは……?」

 

ホシノが少し緊張した面持ちで、ユメの顔をじっと覗き込んでくる

 

ユメはスープをゴクリと飲み干した。その瞬間、喉の奥を焼け付くような衝撃が走り、脳内で無数の警告灯がパチパチと弾け飛ぶのが分かった。しかし、愛しい後輩の方を向いたユメは、限界の力を振り絞って満面の笑顔を作ってみせる

 

「……っ、う、うん……! ほんと、お、おいし――」

 

――ガクッ。

 

そう言いかけた瞬間、ユメの瞳からサーッと光が消え、そのまま後ろへと糸の切れた人形のように倒れ込んだ

 

「――っ!? ゆ、ユメ先輩!? 先輩、しっかりしてください! え、嘘、気絶してる!? ユメ先輩ーーーーっっ!!!!」

 

静まり返った夜のアビドス高等学校生徒会室に、ホシノの悲痛な叫び声が、いつまでも虚しく響き渡るのだった

 

 

満天の星々が静かに瞬く、アビドス本校舎の屋上。昼間の焼け付くような熱気が嘘のように、夜の砂漠特有の、冷たく澄んだ心地よい風が吹き抜けていく

 

「もう……無理なら無理って、最初からハッキリ言ってくださいよ。いくら私の手料理だからって、体が拒絶するものを気合で飲み込もうとしないでください。目の前で急に白目を剥いて倒れられたら、どれだけ心配するか……」

 

ホシノはパタパタと夜風に髪を揺らしながら、呆れたように、けれどどこかホッとしたような吐息を漏らした

 

「ひぃん……ごめんね、ホシノちゃん……。でも、せっかく作ってくれたんだと思ったら、どうしても残せなくて……」

 

コンクリートの冷たい床の上にシートを敷き、その上でユメはホシノの細い太ももに頭を乗せ、情けない声を上げて小さくなっていた。いわゆる膝枕の体勢だがユメの顔はまだ少し青白い

 

気絶から回復したばかりのユメの額には、まだ薄っすらと冷や汗がにじんでおり、ホシノはあきれ顔をしながらも、手元にあった冷たいおしぼりでその額を優しく拭ってやっている

 

『モグモグ、カリカリ……ふにゃ、むにゃ……♪』

 

そんな二人のすぐ傍らでは、お腹を空かせていた白子が、プラスチックの皿に盛られた自分のドッグフードを、それはそれは美味しそうに小気味よい音を立てて平らげていた

 

その満足げに揺れる尻尾が、現在の平和な空気感を象徴している

 

アビドス生徒会の面々は今、こうして夜風の通る屋上へと避難してきていた

 

あれからユメが倒れた直後、ホシノは完全にパニック状態に陥っていた

 

「ユメ先輩!? しっかりしてください! 息はありますか!? 待っててください、今すぐ保健室から使えそうな薬を全部持ってきますから!」

 

本気で涙目になりながら、足をもつれさせて右往左往していたのだ

 

しかし、慌てふためくホシノの横で、ソファに横たわったユメが「うう……紫の……毒毒スープ……」と、苦しそうにうわ言を漏らし始め

 

「……も、もしかして…」

 

その壮絶なうわ言を聞いた瞬間、ホシノは動きをピタリと止め、お盆の上の禍々しい物体と先輩の顔を交互に見比べ――ようやく、自分の作った親切心の料理こそが、この大惨事を引き起こした元凶であるという残酷な真実に気が付いたのだった

 

自分の料理の「破壊力」を正しく自覚したホシノは、少し、いや、かなりショックで肩を落とした

 

「私の……創作大鍋スープが……ただの兵器だったなんて……」

 

悲しそうな背中を丸めながら、その特製大鍋スープを校舎裏の、誰も近寄らない草木が生い茂った隔離地帯へと持っていき、地面へ一気にひっくり返して処分した

 

不思議なことに、そのスープが注がれた瞬間に、周囲のタフな砂漠の雑草が心なしか一瞬で黒く萎れたような気がしたが、ホシノはあえてそこから目を逸らすことにした

 

(……もしかして私、味付け以前に、匂いの段階から色々と間違えてたのかな)

 

ホシノ自身にとっては、砂漠のサソリも、野生の根っこも、アビドスに自生する立派な食材であり、仕上がりの匂いも「ちょっとスパイシーで元気が出る香り」程度にしか思っていなかった

 

しかし、気絶するまで追い込まれたユメの姿と、あの料理が部屋に入ってきた瞬間に、文字通り命の危機を察知して必死の形相で逃げ出した白子の猛ダッシュを思い浮かべれば、自分の感覚が世間一般の「人間や動物」から著しくズレていることは認めざるを得なかった

 

ホシノは深く反省し、すぐに生徒会室のすべての窓を全開にして換気を行った。それでも室内にこびりついたケミカルな異臭が抜けきらなかったため、まだ意識が朦朧としているユメを背負い、一番風通しのいいこの屋上へと連れてきたのだ

 

屋上の扉を開けたとき、そこにはどうやって鍵の閉まった屋上へ入ってきたのかは分からないが、先ほど逃げ出したはずの白子がすでに先回りしてちょこんとお座りをしていた

 

「あ、白子。探しましたよ。こんなところにいたんですか」

 

白子はホシノの姿を見つけると、嬉しそうに耳をピコピコと動かして近寄ろうとした。しかし、ホシノの体からまだ微かに漂う「あのスープの残り香」を鼻が敏感に察知した瞬間、ウッと前足で鼻を抑え、それ以上は近づけないと言わんばかりに、一定のディスタンスを保ったまま困ったようにウロウロと周囲を旋回していたのだった

 

「……白子までそんなに露骨に避けることないじゃないですか。傷つくなぁ、もう」

 

さすがに愛犬にまでそこまで拒絶されると悲しいため、ホシノは一度部屋に戻り、用意していたもう一着の予備の清潔な制服へと急いで着替えた

 

そうして完全に匂いをシャットアウトしてから再び屋上へと戻り、ようやく白子の警戒を解いて、こうして遅めの夕食(白子は安全なドッグフード、ユメは胃薬と水)を与えているのが、現在の状況だった

 

「……はぁ。でも、本当にユメ先輩が無事で良かったです。もしこれで先輩に何かあったら、私は一生アビドスの砂漠を彷徨う亡霊になるところでしたよ」

 

ホシノは膝の上のユメの髪を、今度はドライヤーではなく自分の指先でそっと梳かしながら、ぽつりと呟いた。夜空を見上げるホシノの瞳には、心底ほっとしたような光が宿っている

 

「うう……心配かけて本当にごめんね、ホシノちゃん。でもね、ホシノちゃんがわたしの為に一生懸命作ってくれようとしたその気持ちは、すっごく、すっごく嬉しかったんだよ? それだけは本当だからね!」

 

ユメは膝枕をされたまま、ホシノの顔を見上げるようにして、いつもののふんわりとしたひまわりのような笑顔を向けた

 

その言葉に嘘偽りは一切ないことを、ホシノもよく知っている

 

「……分かってますよ。だからこそ、タチが悪いんです。先輩がそんな風に何でも許して笑うから、私も調子に乗っちゃうんですから」

 

「えへへ、そうかな? でも、ホシノちゃんのご飯、次は絶対に成功するよ! 炭加減とかはバッチリだったもん!」

 

「慰めになってません。次からは、料理は大人しくユメ先輩の担当にしてくださいね。私は大人しく、薪を割ったり火を起こしたりする力仕事だけをやっておきますから。これ以上の犠牲者を出すわけにはいきません」

 

「あはは、そうだね! よーし、次はわたしが、ホシノちゃんも白子ちゃんも、お腹いっぱいになるような、見た目も普通の美味しいご飯を作るからね!」

 

『わうっ!』

 

お皿を綺麗に舐め終えた白子が、まるで「次の会長のご飯には大賛成! 命の危険がないやつで頼むよ!」とでも言うように、元気よく声を上げて二人の会話に加わった

 

「ほら、白子もこう言っています。私の料理は完全にアビドス生徒会から出入り禁止処分ですね」

 

「白子ちゃん、お腹いっぱいになった? よかったぁ。ホシノちゃん、白子ちゃんにも美味しいおやつ、今度買ってあげようね」

 

そのあまりにも現金な白子の態度に、ホシノとユメは同時に顔を見合わせ、静かな夜の屋上に、優しく笑い声を響かせるのだった。先ほどまでの大騒ぎが嘘のように、アビドスの涼しい夜風が、二人の火照った身体を心地よく撫でていく

 

「……そういえば、白子を拾ってそろそろ1ヶ月になりますけど……だいぶ大きくなりましたね」

 

ホシノは膝枕からユメの頭をそっと降ろすと、自分の膝を抱え込み、屋上を縦横無尽に走り回っている白子へと視線を向けた

 

月光を浴びながら、まるで夜空を駆ける星の欠片のように銀白色の毛並みをきらめかせ、短い足でコンクリートの床をタカタカと鳴らしている白子

 

アビドスの寂れた砂漠の片隅で、今にも消え入りそうな声で鳴いていたあの頃の面影は、もうどこにもなかった

 

「そうだねぇ。あんなに両手にすっぽり収まるくらい小さかったのに、わんちゃんの成長って本当に早くてびっくりしちゃう。毎日一緒にいるはずなのに、見るたびに大きくなっている気がするよ」

 

ユメもシートの上に座り直し、楽しそうに尻尾を振る白子を見つめて、目を細めながら微笑んだ

 

「お陰で、最近は朝起きるたびに首が痛いですけどね……そろそろ私の頭の上から卒業させないと」

 

「あはは……。白子ちゃん、いつもホシノちゃんの頭に乗ってるからねぇ。お気に入りの特等席なんだよ、きっと」

 

「笑い事じゃないですよ。この前なんて、油断してるところに背後から飛び乗られて、本気で首が折れるかと思ったんですからね」

 

ホシノが首を回してパキパキと音を鳴らしながらぼやくと、ユメは申し訳なさそうに、けれどやっぱり可笑しそうに「あはは、ごめんごめん」と頭をかいた

 

「でも、どれくらい大きくなるのか楽しみです」

 

ホシノの視線の先で、白子が夜風を捕まえようとするように、空中に向かって小さく跳ねてみせる

 

その無邪気な一挙手一投足が、静かすぎるこの学び舎に確かな活気を与えていた

 

「そうだね。この調子でどんどんご飯を食べて大きくなったら……ひょっとしたら、ホシノちゃんを背中に乗せて、この広いアビドスの砂漠を縦横無尽に走り回れるくらいには大きくなるんじゃない?」

 

ユメがそんな夢想を口にすると、ホシノは一瞬きょとんとした後、ジト目を向け、むすっとした表情でユメを睨みつけた

 

「先輩、それ、遠回しに私の身長をバカにしてませんか?」

 

「ええっ!? そんなことはないよー? 本当に、ホシノちゃんはちっちゃくて、マスコットみたいで可愛いなーって心から思ってるんだよ♪」

 

「やっぱりバカにしてますよね!? 言い訳が燃料を追加してます。見ててくださいよ、人間だって成長期があるんですから。私が3年生になる頃には、ユメ先輩の身長なんて軽々と追い抜いて、こうやって上から見下ろしてあげるんですからね!」

 

ホシノが腰に手を当てて胸を張ると、ユメはそれを受け止めるように「ふふっ」と優しく破顔した

 

「ふふ、頼もしいな。ホシノちゃんに覗き込まれたら、わたし緊張しちゃうかも。……でも、その時は、私、何をしてるのかな?」

 

何気なく、風に溶けるような軽さで放たれたユメの言葉

 

「……っ。……そっか。私が2年生の時には、もう先輩は卒業して、ここには居ないですからね」

 

ホシノの言葉が、ふっと熱を失う

 

しばらくの間、二人の間に、重く切ない静寂が流れた。夜の砂漠の風が、ヒュウと寂しげな音を立てて屋上の柵を通り抜けていく

 

いつかはこの楽しくて、騒がしくて、愛おしい時間にも終わりが来る。どんなに拒んでも時間は進み、先輩はいつかこの学校を旅立って、自分だけの力で歩んでいかなければならなくなる。そして、今度は自分に後輩が出来て、このアビドスを背負う立場になるのだ

 

(その時……私はユメ先輩みたいに、笑って後輩を引っ張っていけるのかな…)

 

ユメは確かに変な事をしてホシノを困らせることは多い。だがその背中は、ホシノが生徒会に入るという結論を出すほどに頼もしく、着いていきたいと思わせるような不思議な強さ、人を笑顔にさせる力があった

 

ホシノの胸の奥に、砂のように冷たい不安が静かに積もり始めていく。最愛の先輩の背中を見つめれば見つめるほど、自分がどれほど彼女に依存し、救われているかを痛感させられる。俯きかけたホシノの視界に、自分の小さな、まだ何者でもない両手が映った

 

「ねぇ! 見て! ホシノちゃん、すっごく綺麗な星空だよ!」

 

ホシノが底のない思考の海に沈みかけるよりも早く、ユメの弾んだ声が夜気を切り裂いた

 

ユメが満面の笑みで、夜空の頂点を細い指で差し出す。ホシノがそれに釣られるようにして、ゆっくりと顔を上へと向けると――そこには、息を呑むような絶景が広がっていた

 

「綺麗……ですね」

 

ホシノは瞳を限界まで大きく開いて、その光景を目に焼き付けようとした

 

遮る雲ひとつない砂漠の夜空。そこには、大小無数の星々が、まるで黒いベルベットの布の上にダイヤモンドの砂をぶちまけたかのように、圧倒的な密度で瞬いていた

 

都会の明かりが一切届かないアビドスだからこそ見られる、天の川の川床まで見透かせそうなほどの、神秘的で、どこか吸い込まれそうな星の海

 

「うん! 経緯はあれだったけど……あの、とんでもないお部屋から脱出して、この星空が見られたのは、結果的に良かったね!」

 

ユメはホシノの方を振り向き、何事もポジティブに変換してしまう彼女らしく、悪戯っぽく笑った

 

「……それは言わないでくださいよ、まだ反省してるんですから……。……あ、そういえば、知ってますか? 『死んだ人はあの空に上って、星になって輝く』っていう、昔の古いお話」

 

ホシノは少し照れくさそうに視線を空に戻し、思い出したばかりの他愛のない雑学を口にした。星々の瞬きが、彼女の瞳の中で小さく踊る

 

「あ、知ってる! 聞いたことあるよ。昔の人が、亡くなっちゃった大切な人を少しでも身近に感じられるようにって、夜空を見上げながら作った優しいお話だよね?」

 

ユメは「知ってる知ってるー!」と嬉しそうに両手を合わせて、子供のように何度も頷いた

 

「ふふ、先輩がそういう少しロマンチックなお話を知ってるの、なんだか意外でしたね。てっきり、アビドスの特産品や美味しいご飯特集などそういうものしか見ないと思ってました」

 

ホシノがからかうように、ニヤニヤとした笑みを浮かべる

 

「もー! またそうやってすぐ私のことバカにするよね? 私だってね、そういう本だけじゃなくて、恋愛小説とかも読むんだから! ……あ、な、なんでもないよ!」

 

ユメは自分の失言に気づき、ハッと目を見開くと、大慌てで両手で口を塞ぎ込んだ

 

だが、時すでに遅し、である。

 

ホシノの目は、まるで行き先のない極上の獲物を見つけたかのように、ギラリと意地悪に輝いていた

 

「へー? ユメ先輩。普段、教科書の活字を読むのすら頭が痛くなるって言って苦手にしてるのに……『恋愛小説』なら進んで読むんですね? ほうほう、興味深いなぁ。アビドス生徒会、最大の秘密を入手しちゃいました」

 

ホシノは一歩、また一歩と、シートの上を這うようにしてユメへと詰め寄る。その顔には、最高に愉悦に満ちた笑みが張り付いていた

 

「うぅー! 違うの! あれは、表紙の絵が可愛くて、たまたま、本当にたまたま読んだだけで……! 変な意味じゃないのー!」

 

「ふーん? たまたまねぇ。じゃあ、どんなお話だったんですか? 主人公とヒロインが、砂漠の真ん中で愛を叫んだりするんですか?」

 

「もう、ホシノちゃんのばかーーー! 意地悪言わないでよぅ!」

 

『ワン!ワンワン!』

 

ユメは顔を真っ赤に染め上げ、涙目でポカポカとホシノの肩を小突いた。その様子を、遊び飽きた白子が「なになに? 楽しそうなことしてるの?」とばかりに、割って入るようにして二人の間でしっぽを激しく振り始める

 

「あ、白子まで私をからかう側に回るの!? もう、みんなして意地悪なんだから!」

 

「あはは、白子も興味津々みたいですよ。今度その小説、私にも貸してくださいね、先輩?」

 

「絶対に貸さないー!」

 

静まり返っていたアビドス高等学校の屋上は、いつの間にか、温かな笑い声と、少女たちの賑やかな足音で満たされていた

 

見上げる夜空の星々は、そんな一人と一匹、そして一人のささやかな幸せを祝うように、いつまでも優しく、静かに瞬き続けていた




ユメ先輩、活字は苦手だけど恋愛小説は読んでてほしい(?)
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