それはある晴れた日のこと
抜けるような青空ときらめく太陽の光が、砂漠化の進むアビドスを容赦なく照らしつけている。しかし、そんな眩い初夏の陽気とは完全に対照的に、旧校舎の裏手にひっそりと佇むその場所には、息が詰まるような重苦しい停滞感が漂っていた
何十年もの間、誰の足跡も受け入れてこなかった、半ば忘れ去られた古びた倉庫。トタンの壁は茶色く錆びつき、行く手を阻むように掛けられた頑丈な南京錠は完全に固着している
「うーん、やっぱり硬いなぁ……。ホシノちゃん、ちょっとこれ引っ張ってみてくれない?」
「先輩、どいてください。そんな風に弱々しく触ってたって一生開きませんよ。……ふんっ!」
ホシノがヘイローを輝かせ、華奢な体躯からは想像もつかない力任せな挙動でバールをこじ入れると、金属の悲鳴とともに南京錠が激しく弾け飛んだ
ギギギ……と、建て付けの悪い重い鉄扉を大きく開け放った
まさにその瞬間
何十年もの間、光の当たらない暗がりに閉じ込められていた歳月の重みと、澱んだ空気が、凄まじい突風となって一気に外へと吹き出してきた
「けほっ、けほけほ……っ! うう、凄い埃……頭がクラクラするよぅ……」
舞い上がる濃い灰色の煙を正面からまともに直撃され、ユメが咄嗟に口元を両手で覆いながら激しく咳き込む。あまりの埃の量に、長い睫毛が瞬く間に白く染まっていく
「だから、中に入る前にちゃんとマスクをつけてくださいって、私は何度も言ったんですよ……。ほら、口を開けるとまた吸い込みます。はい、どうぞ」
隣に立つホシノが、心底呆れたようなジト目を向けながら、上着のポケットから手際よく取り出した白い使い捨てマスクを差し出す
「うう〜、ありがとう、ホシノちゃん……。いつも準備が良くて本当に助かったよぅ」
涙目でそれを受け取ったユメは、 痛む喉を抑えながらすぐさまそれを耳にかけ、ふぃ〜と大きな吐息を漏らす。しかし、支給品のマスク越しでもなお、脳を直接刺すような、ツンとしたカビと古い紙の匂いまでは防ぎきれない
「はぁ……。これ、奥の方を少し動かすだけでも、髪から制服まで真っ白になりそうですね。最悪です。……先輩、これは今日もお掃除が終わったら、絶対にここでお風呂に入らないとダメなやつですよ。ね? 白子」
ホシノが同意を求めるように視線を斜め上へと向けると、入り口のすぐ近くに置かれた、薄汚れてカビの生えた古い跳び箱の上が小さく揺れた
『ワン!』
その最上段にちょこんと行儀よく腰掛け、高い位置から二人を見下ろしていた白子が、小気味よく千切れんばかりに尻尾を振って短く吠えた
すでに前足の先がうっすらと黒く汚れているが、本人はどこ吹く風といった様子で、ピンと立てた耳を忙しなく動かして周囲の匂いを嗅いでいる
「あはは、白子ちゃんもやる気満々だねぇ。偉いぞ〜」
「先輩、甘やかさないでください。本来なら、この子は生徒会室でお留守番をしているはずだったんですから。私たちが部屋を出ていくのを、あんなに捨てられた仔犬みたいな、寂しそうな目で見つめてくるから……結局こうして着いてきちゃうんですよ」
「だって、置いていくのはかわいそうだもん。ねー?」とユメが白子に笑いかけると、白子はさらに嬉しそうにお耳をパタパタと動かした。
「はぁ……これじゃあ犬の訓練をしてるんだか、私たちが野生に振り回されてるんだか分かりません。……さ、早く始めましょう」
「でも、本当にこんな場所に、そんな昔の書類なんてあるのかな……? ここが最後に使われたのって、私がここに入学するよりも、もっともっと前だと思うんだけど……」
ユメは、奥の暗がりに山積みにされた壊れた木製の机や、配線が怪しく飛び出た古い扇風機、さらにはカビた部活の道具の山を見渡しながら、不安そうに困り眉を下げた
「あるとは断言できませんが……。アビドス本校の広大な敷地内で、まだ私たちが手をつけていない『魔境』は、もうここくらいしか可能性がないんですよね」
ホシノは手元に持ってきた懐中電灯のスイッチを入れ、差し込む光の中にきらきらと舞う、おびただしい数の塵のダンスを照らし出しながら、深いため息をつく
事の発端は、昨日のことだった
連日連夜、ユメと二人で狭い生徒会室の机にかじりつき、睡眠時間を削ってようやく書き上げた膨大な財政報告書類
それをアビドスの役所へと届けに行った際、対応した年配の担当職員から、思いがけない過去の事実を告げられたのだ
『これ……アビドスがまだ豊かだった数十年ほど前、当時の生徒会が結んだまま放置されている、古い特別融資の契約書がベースになっていますね。本来ならとっくに期限切れで失効しているはずですが、自動更新の条項が裏で悪質に生きてしまっている。今の最悪な財政状況なら、当時の原本さえ提示して正式な手続きを踏めば、この契約を完全に白紙に戻せますよ。そうなれば、金利の計算がやり直されて、月々の返済額もかなり減額されるはずですよ』
その言葉を聞いた瞬間の、目の前がパッと開けたような、ユメの弾けた満面の笑顔が今もホシノの目に焼き付いている
『ホシノちゃん! 借金が減るんだって! 私たちの頑張りが、やっと形になるかもしれないよ!』
しかし、現実はそう甘くはなかった。減額の絶対条件である「当時の書類の原本」を見つけ出すため、生徒会室のキャビネットをすべてひっくり返し、現在使っている保管庫の底まで隅々まで探したものの、それらしきものは一切見つからなかったのだ
「もしその書類が見つかったら、アビドスの重い借金が、ほんの少しだけでも軽くなるんだよね! よーし、そうと決まれば、気合を入れてこの魔境を攻略しなきゃ!」
ユメは両手をぎゅっと握りしめ、マスク越しでも完全に分かるほどの満面の笑みを浮かべ、埃の積もった段ボールの山へと向かって力強く一歩を踏み出した
「ちょっと先輩、急に突っ込んだらまた埃が……。ほら、足元にも気をつけてくださいよ!」
ホシノは差し込む光の中にきらきらと舞う分厚い塵を忌々しげに睨みつけながら、軍手をぐっとはめ直した
手にした懐中電灯の光でユメの足元を照らしつつ、その無防備な背中を追いかけるようにして、ひんやりとした薄暗い倉庫の奥へと足を進めた
それからしばらくの間、倉庫の中では二人の慌ただしい足音と、物を取り回す金属音が絶え間なく響き続ける
「先輩、そこ退いてください。その重そうな鉄ラック、私が一気に外へ引きずり出しますから」
「わわ、ホシノちゃん凄いや……! じゃあ私は、こっちの通学路用の古い看板をどかすね」
「あーもう、ユメ先輩は無理に重いものを持たなくていいですってば!」
ホシノが小柄な体でテキパキと動き回り、歩くのに邪魔な錆びついたスチールラックや大きな粗大ゴミを次々と外へ運び出していく。その後を追うように、ユメは手にしたはたきをパタパタと小気味よく振り、棚や箱に分厚く積もった何年分もの埃を払っていった
そんな二人の懸命な労働を余所に、白子はここは自分の特等席だと言わんばかりに、跳び箱の上ですっかり丸くなっている。それどころか、退屈そうにふぁあ、と大きな欠伸まで噛み殺していた
「……この子、ここ数ヶ月で随分と図太くなりましたよね。先輩が砂漠の端っこから拾ってきた当初の素直さはどこへ行ったんだか……」
埃まみれの古いボールカゴを両手でしっかりと抱えながら、ホシノが引きつった苦笑いを浮かべて、跳び箱の上の白い塊を見上げる
「そ、そうだね……。今でも私たちが少しでも視界から離れると、すぐに寂しがってクンクン鳴いちゃうところは変わらないんだけど。……前だったら、こういう初めて来る知らない場所なら、目を輝かせて楽しそうに走り回ってたのにね」
「今じゃすっかり、アビドス生徒会の重役気取りですか。まったく、誰に似たんだか……」
「あはは、きっと居心地が良くなっちゃったんだよ」
ユメもはたきを持ったまま、ぽんぽんと白子の様子を見つめ、あはは、とどこか遠い目をして愛おしそうに苦笑いを浮かべた
そんな他愛のない会話を挟みつつ、容赦なく舞い散る埃と格闘すること一時間。ようやく、奥の棚を探すのに最大の障害となりそうだった大型のゴミを、すべて外へと退かすことができた。入り口の大きな扉から差し込む夕方前の太陽の光が、遮るもののなくなった倉庫の奥を、少しだけ明るく照らし出している
「んー……それにしても、目的の書類は一体どこにあるんだろ。これだけ退かしても、それっぽい箱が見当たらないね。やっぱりここにはないのかなぁ……」
ユメが少し疲れた様子で腰に手を当て、目の前に現れた巨大なスチール製の棚を見上げる。そこに並んでいるのは、どれも湿気でカビ臭くなった、年季の入った茶色いファイルばかりだ
「私はさっき外に出した、あの大量の段ボールの中身を一つずつ見てきます。ユメ先輩は、そっちの棚に片付けられてる書類関係を上から順番に見て貰えますか?」
「うん、分かった! 任せて、ホシノちゃん!」
「……見つけたら大声で呼んでくださいね。あと、変な虫とかが出ても大騒ぎしないでくださいよ?」
「う、うん、善処します……っ」
ホシノはそう言い残すと、小さく手を振って外の新鮮な空気の元へと歩いていってしまった
一人倉庫に残されたユメは、薄暗い空間の奥をぐるりと見渡す。隅の方には蜘蛛の巣が張り、独特の不気味な静寂が満ちていたが、ユメの心に不思議と恐怖心はなかった。背後を振り返り、跳び箱の上の相棒を見つめる
「薄暗くてちょっとお化けが出そうだけど、白子ちゃんが一緒にいてくれるから全然怖くないねー」
親しみを込めて声をかけると、跳び箱の上の白子が片目を薄く開け、
『わふっ……』
と、いかにも面倒くさそうな気の抜けた声を一つだけ漏らして、またすぐに自分の尻尾に鼻先を埋めて丸くなった
「あはは……もう、そんな欠伸交じりで投げやりな返事しないでよぅ……。ちょっとは先輩を励ましてくれたっていいのに」
困ったように八の字の眉を下げて笑いながら、ユメは一番手前の棚へと慎重に手を伸ばす
「んー……? これはただの過去の備品台帳……あ、これも違うね。こっちは……うわぁ、何これ、大昔の教科書? 随分と表紙のデザインが今と違うなぁ……。って、ひぃっ!? く、蜘蛛!? ……あ、あれ? し、死んでる……? うぇぇ……分かっててもやっぱり生々しくて気持ち悪いよぉ……」
長年、完全に人間の管理から放置されていたツケは想像以上に大きかった。容赦ない湿気と経年劣化のせいで、本や紙の束はどれも触るだけでボロボロに傷んでいる
ページの端が茶色く変色して、指をかけるたびに粉のように崩れ落ちるものや、インクが滲んでしまって文字がまともに読めないものまであり、ユメは顔をしかめながら、おそるおそる指先で古い茶封筒の山をめくっていった
それから、指先や爪の間を真っ黒な煤と埃で染めながら、ユメは棚の奥へとさらに体を潜り込ませて、目的の書類を探し続けていた。埃っぽさで何度もクシュンと小さなくしゃみをしながら、一心不乱に手を動かすこと、さらに数十分。気付けば、あれほど大量にあった茶封筒や古いファイルの束も、棚の最上段にあるあと数冊を残すのみ、というところまで来ていた
「うーん……困ったなぁ。ここにあるやつは、どれもただの過去のテスト用紙の残りとか、大昔の運動会のプログラムとか、そんなのばかりだよ。こっちの棚には、お目当ての融資原本は無さそうだねぇ……。ホシノちゃんの方はどうかな……」
すっかり落胆して、ため息混じりに呟いたユメの声に、背後から緊張感のない、のんびりとした小さな鳴き声がぴったりと重なる
『くぁぁぁ……はふ……』
「あはは……白子ちゃん、やっぱりすっごく眠いんだね。こんな埃っぽいところに連れてきちゃってごめんね? これなら、ちゃんとお留守番して、私たちの帰りを生徒会室の暖かいソファーの上で丸くなって待ってれば良かったのに」
ユメが愛おしそうに振り返ると、白子は跳び箱の上で丸くなった姿勢のまま、トロンとした眠たげな瞳でこちらの様子をじっと見つめていた。その健気で、どこかぬくもりを感じさせる可愛らしい姿に、ユメの張り詰めていた顔は自然とふにゃりと緩むのだった
苦笑いを浮かべつつ、「よし、あともう一息! これが終わったら冷たいお茶でも飲もうね」と自分に気合を入れた。棚の最上段の隅、ひときわ埃が厚く積もった黒いバインダーに狙いを定め、爪先立ちになりながら、その背表紙にそっと指をかける
そのときだった
カチッ
静まり返った倉庫の奥で、金属同士が噛み合うような、小さく硬い機械音が奇妙に鮮明に響いた。暗闇の中にひっそりと潜んでいた悪意の歯車が、長い眠りから目覚めて噛み合ったかのような、嫌な音
「へ……? 今の、何の音……?」
指先から伝わってきた、バネが跳ねるような妙な手応えに、ユメが怪訝そうに首を傾げた、まさにその瞬間
『ガルルルっ!!』
それまで眠気に身を任せていたはずの白子が、聞いたこともないような鋭く、そして地鳴りのような警戒の唸り声をあげて跳び箱から躍り出た
一瞬で全ての毛を逆立て、弾丸のような速度でユメの元へと突進する。そして、その頑丈な顎でユメの制服の袖をがっちりと咥え込んだ
「わ、わわっ!? 白子ちゃ――きゃっ!?」
何が起きたのか理解する暇すら与えられない。白子の引き絞られた小さな肉体から放たれたのは、底知れない恐るべき怪力だった。その強い力で強引に後ろへと引っ張られ、ユメの身体は宙を浮くようにして、頑丈なコンクリートの柱と物陰の隙間へと激しく投げ込まれた
視界が天地無用に回転したと同時に、鼓膜を直接引き裂くような、派手で狂暴な爆発音が倉庫内に轟く
――ドゴォォォォンッ!!!
すさまじい爆風が倉庫の空気を一瞬で跳ね飛ばし、視界が真っ白な煙と強烈な火花で埋め尽くされる。間髪入れずに、物陰のすぐ外側で「バラバラバラバラッ!!」と、蜂の巣をつつつくような凄まじい金属の衝突音が鳴り響いた。コンクリートの破片や数十年分の埃が容赦なく雨のように降り注ぎ、辺り一面に激しい硝煙の臭いが立ち込める
「な、なに……? 何が、起きたの……? 火事……? 襲撃……っ?」
完全に思考がフリーズしたユメは、混乱の極みの中で頭を抱え、物陰に縮こまって息を潜めることしかできない。呼吸をするたびに、煙っぽさが喉を刺激して激しくむせ返る
火の粉と煙がゆっくりと引いていく中、静寂を取り戻しつつある床を、カラカラ、コロコロと、何かの金属パーツの破片が乾いた音を立ててユメの足元へと転がってきた
直後、倉庫のドアが文字通り蹴破るような勢いで豪快に開き、床を激しく叩く凄まじい足音が飛び込んでくる
「ユメ先輩!! 大丈夫ですかっ、先輩!! 返事をしてください!!」
そこにあったのは、今までに見たこともないほど血の気が引き、青ざめた表情を浮かべたホシノの姿だった。手にしたタクティカルショットガンを強く握りしめ、いつでも引き金を引ける構えのまま、肩を激しく上下させて爆煙の立ち込める倉庫の奥へと飛び込んでくる
「えっ……あ、う、うん……ホシノちゃん。私なら、なんとか……無事、かな……? ちょっと腰を打っちゃったみたいだけど……」
未だに何が起きたのか現実感が湧かないといった表情のまま、ユメはおそるおそるペタンと床に座り直した
「本当に……本当に無事なんですね……!? どこも怪我とかされてないですか……!?」
「う、うん、大丈夫だよ……」
ホシノに促されるようにして視線を正面に向けると、そこには凄惨な光景が広がっていた
先ほどまで自分が立っていた棚の周辺は黒く焼け焦げ、鉄板が飴細工のように激しく損壊している。そして、その周りの壁や、自分たちの盾となってくれた頑固なコンクリートの柱、さらには白子が先ほどまで丸くなっていた頑丈な跳び箱には、無数の小さな鉄球のような弾丸が、恐ろしい深さでびっしりと埋め込まれていた
アビドスの過酷な環境で暮らし、銃弾に対する耐性を持つ彼女たちの頑丈な身体をしても、遮蔽物のない至近距離でこの全弾をまともに浴びていれば、ただの怪我では済まなかっただろう。凶悪な殺意の痕跡が、そこにはっきりと刻まれていた
ホシノは警戒を解かないまま爆発の中心地へとゆっくり歩み寄り、焼け焦げたワイヤーの残骸と金属の破片を、憎しみを込めた鋭い目で見つめながら、低く緊迫した声で呟く
「……指向性対人地雷、クレイモア……ですね。信じられない、感知式のトラップがこんな古いファイルに仕掛けられていたなんて……いえ、これは設置されてからかなり時間が経っています。昔の抗争で使われたものが、未だに信管が生きていて、たまたま動作しただけ……? それにしても、こんな所に残っているなんて……っ」
憤怒と困惑を滲ませるホシノの傍らで、ユメのすぐ隣から、小さく誇らしげな声が聞こえた
『ワン!』
ハッと我に返ったユメが横を見ると、そこには、前足や顔をうっすらと黒い煤で汚しながらも、怪我ひとつなくピンと耳を立てた白子が座っていた。フサフサの尻尾が、床の埃を払うように激しく振られている
「もしかして……白子ちゃん。あの小さな音を聞いて、私を助けてくれたの……?」
ユメの問いかけに、白子は肯定するように、もう一度、力強く『ワン!』と吠えて、その大きな尻尾をパタパタと左右に振ってみせた
「お、おぅぅ……ありがとうー! ありがとう、白子ちゃん……っ!!」
『わふ…♪』
溢れ出す涙を堪えきれず、ユメは白子の首元に思いっきり抱きついた。真っ白な毛並みに顔を埋め、その温もりに触れて初めて、遅れてやってきた恐怖が、大きな感謝へと変わっていく。白子はユメの涙を舐めるように、優しく鼻先を押し付けた
「ふふ、本当にお手柄ですよ、白子。よくやりました」
その様子を見ていたホシノも、強張っていた表情をようやく緩め、ふっと安堵の長い息を漏らした。手にした銃を静かに背中に回すと、ユメの背中にしがみついている白子の頭を、愛おしそうに、そして優しく何度も何度も撫で回す
いくら神秘を宿し、銃弾や爆発に対して人一倍の耐久力を持つキヴォトスの人間だろうと、あの至近距離でクレイモアの散弾を正面から浴びてしまえば、確実に大怪我を負っていただろう
それを、白子は持ち前の鋭い野生の勘と、ここ数ヶ月にわたってホシノから叩き込まれたトレーニングで培った機敏な動きで察知し、間一髪のところでユメを強引に物陰へと引きずり込んだのだ
「うう、本当に良い子だね白子ちゃん……! もう、今日のご飯は、特別に大奮発して、特大の特製お肉をあげるからね!」
「そうですね。これだけの危機を救ってくれたんです、今日は私たちの予算が許す限りのご馳走にしましょう。……よく頑張ったね、白子」
ホシノの言葉に、抱きしめられた白子は、ユメの腕の中で少しだけくすぐったそうに細い目をさらに細めながら、嬉しそうに喉の奥を鳴らして鼻をきゅ〜と鳴らしていた
「でも、本当に凄いよ白子ちゃん! 私が『えっ?』って、何が起きたのか頭の中で全然追いついていない時には、もう体が動いて私を引っ張ってくれてたんだもん!」
ユメは興奮冷めやらぬ様子で、煤で少し汚れてしまった白子の柔らかい胸元の毛に顔をすり寄せながら、立ち尽くすホシノを見上げて熱弁した
「ふふふ、それはもちろん、私の毎日の本格的なトレーニングと鍛え方が抜群に良いからでしょうね」
ホシノは両手を腰に当て、どこか誇らしげに胸を張ってふんぞり返ってみせる。けれど、すぐにきゅっと眉の根を寄せ、真面目な厳しい顔つきに戻って黒く焼け焦げた棚の残骸を見つめた
「それにおそらく、白子は持ち前の鋭い嗅覚で、あのバインダーの裏に仕掛けられていた微量な火薬や導線の匂いを感じ取って、直感的に危険を察知したんでしょう。私たちがただ戦術を教えているだけじゃ届かない、命がけの戦場での機転です。言葉の指示がなくても、私の動きや周囲の違和感を自分で判断して、最善の行動ができるなんて、本当に……本当に賢くて、私の自慢の子です」
そう言って、ホシノは愛おしさを堪えきれないといった様子で、白子の前に膝をつくと、ピンと立った耳の付け根を細い指先で優しく熱心に揉みほぐしてあげる
くすぐったそうに身をよじる白子の頭を、何度も何度も撫でるその手つきは、普段のぶっきらぼうで尖った態度からは想像もつかないほど温かい
ユメはその様子をじっと見つめ、思わず口元をふにゃりと緩めて、クスクスと嬉しそうに笑い出した
「あはは、なんだか今のホシノちゃん、我が子の初めての表彰状を喜んでる、お母さんみたいになってるよ? 『うちの子が世界で一番賢いんです!』って、お顔全体に書いてあるもん」
「っ……! な、何言ってるんですか、ユメ先輩……っ!」
不意を突かれたホシノは、一瞬で耳の先から頬までを真っ赤に染め上げると、ぷいっとあからさまに顔を背けた
照れ隠しに、足元の砂をブーツの先で小突き、不器用な足音を立てている
「う、うるさいですよ……。私はただ、これまでの過酷な訓練の成果が、実戦という最も確実な形で証明されて満足しているだけです。……ほら、そんなことより! コホン……そ、そっちの棚の書類は、お目当てのものは見つかったんですか?」
強引に話題を切り替えようとするホシノの、真っ赤になった横顔が可笑しくて、ユメはさらに笑いそうになるのを必死に堪えながら、背後の黒煙が立ち上る惨状を振り返った
「あはは……見ての通りだよぅ、ホシノちゃん。肝心の手続きに必要な古い契約書は見つかってないし、仮にあの黒いバインダーの中にあったとしても……うん、今や跡形もなく丸焦げになっちゃったかな」
「……はぁ。やっぱりそうですか。実は、私が外で調べていた段ボールの中身も、ただの古い領収書の束ばかりで全滅でした。……せっかく、あのお役所の人が教えてくれた、月々の返済を減らせる唯一のチャンスだったのに。ここで手がかりが完全に途絶えるとなると、私たちは……諦めるしかないのでしょうか……」
がっくりと肩を落とすホシノの瞳に、ほんの少しだけ暗い影が落ちる。アビドスを包み込む底なしの重い現実が、再び二人の少女の肩にのしかかるようだった
けれど、ユメはそんな重苦しい空気を吹き飛ばすように、ポンと元気よく自分の両手を叩いた
「そうだね! 無いものはしょうがない! だったらさ、その代わりに、この倉庫の中から何か他に生徒会で使えそうな備品とか、お宝になりそうなものを探そうよ!」
「お宝、ですか? ……まぁ、確かに、少しでも価値のある昔の備品や、大昔の遺物が残っていれば、それを業者に売ることで、多少なりとも今月の活動資金の足しにはなるでしょうけど……。そんな都合よく、お宝なんて転がって――」
「でしょでしょ? ホシノちゃんは外の段ボールを調べてるとき、何かそういう『おっ?』って思うようなもの、見つけられなかった?」
ユメが目をきらきらと輝かせて尋ねると、ホシノはハッとしたように人差し指を顎に当て、小さく声をあげた
「私ですか? ……あ、そういえば、資金にはならないでしょうけど、こんなものなら見つけましたよ。先輩が絶対に喜びそうなやつ」
ホシノはそう言うと、タッタッタッと軽い足取りで一度倉庫の外へと走っていき、すぐに両手で大切そうになにやら筒状に固く丸められた、古ぼけた一枚の大きな紙を持って戻ってきた
「それ、なに? 地図かなにか?」
「これはですね……ふふ、まあ見ててください」
ホシノが床の上の埃を軽く払ってから、慎重にその紙をゆっくりと広げてみせる。経年劣化で端が少し破れ、全体がセピア色に変色してはいるが、そこには色鮮やかな手書きのイラストとともに、力強い文字が躍っていた
【第177回 アビドス砂まつり 開催!】
「おーっ!! これ、昔のアビドス砂まつりのポスターだね! すごい、まだこんなに綺麗に残ってたんだ!」
ユメは一瞬で目を輝かせ、床に膝をついて食い入るようにポスターを見つめた。それを見るだけで、ユメの脳裏には鮮やかな情景が浮かび上がってくる
見渡す限りの大露店街、立ち上る美味しそうな湯気、そして大きな砂の彫刻の周りで笑顔を弾けさせている、かつてのアビドスのたくさんの住民たちの賑やかな姿だ
「ユメ先輩、やっぱりこういうの、本当に好きですよね」
ホシノはあらかじめ予想していた通りの先輩の子供のような反応に、どこか満足げな、そしてどこまでも優しい微笑みを浮かべるのだった
「うん! 大好き! これを見ているとさ、昔はここにもたくさんの人が住んでいて、みんなで集まって、すっごく賑やかで楽しい毎日を過ごしてたんだなーって……その時の『温度』が伝わってくる気がして、本当に大好きなんだ♪」
ポスターを手書きのイラストごと愛おしそうに見つめるユメの横顔を、沈みかけた夕日の赤い光が優しく包み込んでいく。ホシノはそんな先輩の濁りのない表情を見て、小さく胸を撫で下ろした
地雷の恐怖も、借金減額のチャンスを逃したショックも、この人にとっては前を向くためのエネルギーに変わってしまうのだ
「ふふ、それなら命がけで奥まで突っ込んで、見つけてきた甲斐がありました。これ、後で埃を綺麗に払ったら、生徒会室のあの少し寂しい壁にでも飾りますか?」
「うん! 飾ろう飾ろう! 一番目立つ特等席に――」
『へっくしゅんっ!!』
二人が楽しそうに次の模様替えの作戦を立てていると、足元から、文字通り仔犬のような可愛らしい小さなくしゃみが響いた
見ると、白子が鼻の頭に火薬の黒い煤がついたのが痒かったのか、顔を両前足でゴシゴシと忙しなく擦りながら、バタバタと頭を振っている
「あはは! 白子ちゃん、さっきはあんなに格好よく私を助けてくれたのに、最後はくしゃみが出ちゃうんだね」
「もう、せっかくの雰囲気が台無しですね。……でも先輩、白子の言う通りです。これだけ埃と硝煙にまみれたんですから、お宝の整理の前に、まずはみんなでお風呂ですね」
「お泊まりコースも追加で、だよね、ホシノちゃん!」
「はいはい、分かってますよ。今日はもう遅いですし、危ないトラップの調査は明日にして、今夜は生徒会室でお布団を並べて寝ましょう」
それからの三人の行動は早かった。外に引っ張り出していたボールカゴや古い机を、今度は文字通り「雑に」倉庫の中へと押し込み、頑丈な南京錠をカチャリと閉めると、煤まみれの体のまま、そそくさとアビドス自慢の大浴場へと向かった
ーーアビドス本校・大浴場
「はふぅ…………生き返るねぇ…………」
並々と注がれた湯船の縁に頭を乗せ、手足を思い切り伸ばしたユメが、とろけそうな声で至福の吐息を漏らす。お湯に溶け出していく一日の疲れとともに、あの薄暗い倉庫での緊迫感が完全に消え去っていく
「はい……。やっぱり、泥と埃をこれでもかっていうくらい洗い流した後の温かいお風呂は、何物にも代えがたい最高のご褒美ですね」
隣では、ホシノが肩までお湯に浸かりながら、ふぅ、と静かに目を閉じていた。その表情には、先ほどの倉庫で見せた鋭い戦神の面影は微塵もなく、ただの年相応の少女の穏やかさがある
そして、その二人の少し離れたすぐ目の前では、
『わふぅ……♪』
真っ白な毛並みをお湯でさらにフワフワに膨らませた白子が、温かいお湯が気持ちいいのか、細い目をさらに細めて「すい〜っ、すい〜っ」と、小さな波を立てながら器用に犬かきで泳いでいた
「あはは、白子ちゃん本当に泳ぐのがお気に入りだねぇ。すっごく上手だよ〜」
「こら白子、泳ぐのはいいですが、私達にお湯をかけたら怒りますからね。ほら、そこ、バシャバシャしない」
白い湯気の中に、三人の笑い声が優しく、どこまでも温かく響き渡り、アビドスの静かな夜へと溶けていった
天井の高い浴場には、心地よいお湯のせせらぎだけが反響している。窓の外にはすっかり帳が下り、どこまでも広大な砂漠の夜空に、満天の星々が瞬き始めていた。先ほどまでの緊迫した空気は嘘のように消え去り、そこにはただ、心地よい静寂と温もりだけが満ちている
ユメは湯船に顎まで深く浸かり、顔を真っ赤に上気させながら、隣でのんびりと目を閉じているホシノをじっと見つめた。それから、何か大切な宝物をそっと差し出すように、愛おしそうな声をかける
「ホシノちゃん、あのね?」
「……どうしました、先輩。のぼせちゃいました?」
ホシノは目を開けず、湯船の縁に頭を預けたまま、お湯に揺られるようなのんびりとした声で応じる
「ううん、大丈夫。……実はね、さっきの倉庫で、ホシノちゃんが見つけてくれたあの古いポスターを見ていたらさ……私、少しだけ『新しい夢』ができちゃったんだ」
「夢……ですか?」
その言葉に、ホシノの長い睫毛がピクリと揺れる。ゆっくりと開かれた片方の瞳が、白い湯気越しにユメの赤くなった顔をじっと捉えた
「うん。……すっごく、すっごく先の話になっちゃうかもしれないんだけどね? いつか、このアビドスにまたたくさんの人を呼び戻して、街をもう一度賑やかにしてさ……。小さくても、手作りでもいいから、あの続きの『第178回 アビドス砂まつり』を、私達の手で開きたいなーって……えへへ」
ユメは少し照れくさそうに指先でお湯をパチャパチャと弾きながら、言葉を続けた
「もちろん、今の生徒会には山のような借金の問題もあるし、毎日が大変なことばかりだけど……。でもね、いつかそんな楽しいことが、この学校のみんなで出来たら素敵だなって思っちゃったの」
アビドスの厳しい現実を誰よりも背負い、戦い続けているホシノ。そんな彼女に、こんな突拍子もない、おとぎ話のような夢を語るのは少し不謹慎だったかもしれない――ユメがそんな不安を一瞬よぎらせた、その時だった
「おや、それは良いですね。……すごく、楽しそうです」
ホシノの口元から、驚くほど自然に、そして温かい微笑みがこぼれ落ちた
「え……ホシノちゃん、怒らないの?」
「なんで怒るんですか。私、生まれてから一度もお祭りなんて行ったことがないですから。もしそんな日が来たらと思うと、今から本当に楽しみですよ」
「えへへ……! ありがとう、ホシノちゃん! そう言ってくれると思ってたよぅ♪」
ホシノのどこまでも優しい言葉に、ユメの顔は一瞬でパッと明るくなり、いつものふにゃりとした満面の笑みが咲いた
『ワン! ワンワン!』
二人の楽しげな会話に混ざりたくて仕方がなかったのだろう。それまで少し離れた場所で優雅に泳いでいた白子が、激しく水を跳ね上げながら、器用な犬かきで二人の元へと急接近してきた
耳をピンと立てて、濡れた鼻先をユメの肩に押し付けてくる
「ふふ、白子ちゃんも砂まつりに興味があるの? 『私も行く!』って言ってるみたいだね」
ユメが白子の濡れた頭を優しく撫でてあげると、ホシノもまた、愛おしそうに白子の顎の下を指先でコチョコチョと擽った
「それでは、三人……って言っていいのでしょうか。その時が来たら、みんなで一緒に行きましょう。アビドスの新しい砂まつりへ」
「うん! 絶対にみんなで行こうね! ふふふ〜、そうとなったら今から何を食べようか楽しみだなぁ……。お祭りの定番のチョコバナナに、イチゴが乗ったフカフカのクレープ! あ、白子ちゃんにも、何か体に良くて美味しいお祭りご飯を食べさせてあげたいなぁ!」
ユメは早くも頭の中で屋台を巡らせているのか、目をキラキラと輝かせて両手を合わせる
そんな食い意地の張っている先輩の姿を見て、ホシノは「はぁ……」と大げさに見えるほどのため息をつき、やれやれと肩をすくめて苦笑いを浮かべた
「もう……先輩ったら、お祭りと言えば食べ物のことばかり。せっかくの夢なんですから、他にももっと、夜空に打ち上がる大きくて綺麗な花火とか、そういうロマンチックな夢を見ましょうよ」
「ひぃん! 花火ももちろん見たいけど、お腹が空いたらお祭りを全力で楽しめないよぅ!」
「はいはい。それなら、先輩が食べ過ぎてお腹を壊さないように、私が屋台の財布を厳重に管理することにしますね」
「そんなぁー!」
湯気の立ち込める温かい浴場の中で、二人の楽しげな笑い声が再び心地よく響き渡る
その傍らで、白子は二人の顔を交互に見つめながら、まるで未来の賑やかなお祭りの情景を一緒に思い描いているかのように、嬉そうに『わふっ♪』と短く鼻を鳴らすのだった